最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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8/31/2017

加計学園スキャンダルの、図面流出で見えて来た意外な本質



加計学園スキャンダルの追及に、安倍晋三首相が見え透いた噓ばかり言っているのはその通りだ。

だが、だからこそ不思議なところがある。なにかを必死に隠そうと虚偽に虚構を重ね続けているはずが、悪びれた風や後ろめたさがまったくないのは、なぜなのだろう?

開き直りだとしても、さすがに意外なまでの堂々っぷりで、雰囲気だけに目が行って発言の中身は気にしない人だと、首相がなぜ「噓つき」と言われるのかさえ分からないかも知れない。

その問題の獣医学部の図面を、「今治市加計獣医学部問題を考える会」が公表した。補助金を不正に受け取るための建築費水増しの可能性があると指摘する根拠になるからだ。


なお加計学園によれば総工費は192億円で、その半額の96億は今治市と愛媛県の補助金で賄われるという。

図面で分かる床面積から計算すれば建築費の坪単価は150万となり、相場と言われる70〜80万円の倍額であることは以前から指摘されていた。実際に図面が出て来ると、指定された建材が安価なものばかりであるのも含め、建築家によれば100万は確実に切り、せいぜい80万前後だという。

これでも大目の試算かも知れない。建材の多くが最も廉価なものなら70万強がせいぜいではないか。

ちなみに坪単価が150万以上の建築といえば、たとえば黒川紀章設計の新国立美術館であるとか、一流ホテルなどがこのレベルの値段になる。変わったところでは問題の東京都・豊洲新市場が坪単価150万超の計算になり、いくらなんでも高過ぎることが問題になっている。

図面で明らかになったのは、まったくそんな超豪華建築ではないことだ。鉄骨作りの、むしろ安普請と言っていい設計だ。

なお市と県で合計96億といっても、愛媛県は出費するかどうかも決めておらず、県議会でも問題になっているなか、さらにスキャンダラスなことに、最大で96億を負担することになる今治市では、加計学園側が出して来た数字をまったく検証していないらしい。「考える会」が怒るのも当たり前だ。


今治市は人口6万強、瀬戸内工業地帯の要衝に位置し、高度成長期には港湾と軽工業、部品産業で栄えたものの、今ではタオルこそ有名なものの、産業の空洞化・斜陽化も進むなか、この数字は市民にとっては青天の霹靂で、財政破綻すら危惧される(市は既に37億相当の土地を大学建設地として加計に無償提供している)のはもちろんだ。

だがここではあえて市民の側ではなく逆の視点で、192億の建築費を計上している加計学園の側の狙いを考えてみる…と、ますますわけが分からなくなる。

市民からみれば倍額の予算で自分達を騙して私腹を肥やそうとするとんでもない話に見えるし、そうやって加計学園の懐に入った額の一部が安倍首相や国家戦略特区諮問委員ら、この計画を強引に支援してきた連中にキックバックされるのではないか、との疑いも出て来る。

だが当の獣医学部を作りたい側からすれば、ほぼ倍額に水増ししたその半額をもらえるのなら、これで辛うじて帳尻が合うという話でしかないのではないか?

むろん自己資金などでまかなわれるはずの残り半額を工面しなくて済むのは丸儲けだが、元々資金力がないのなら(そして現に、同学園が経営する千葉科学大は経営の失敗が受け入れた銚子市を財政破綻に追い込みそうになっている)、この不正で加計学園が得られるのは、ほぼ無償で新学部校舎を完成させられることだけで、誰も「私腹を肥やす」ことはできない。

安倍政権の周囲で潤うのも、建設を受注している逢沢一郎議員の親族会社に大きな仕事が来たことくらいなものになってしまう。

逆に言えば、安倍首相が自分の政治生命の息の根を賭けることになってしまった「腹心の友」優遇問題の本質は、安倍氏本人の側から見れば、こういう話でしかないのではないか?

だから安倍氏には悪びれるところや後ろめたさもなく、まるで自分が「誤解された」だけであるかのように振る舞えるのではないか?

というか、本人からすれば「誤解されているだけだ」と思い込んだままなのではないか?

つまり安倍さんから見れば「やる気」がある「腹心の友」が獣医学部を作りたがっているのに、それが出来ないのはおかしい。だから総理である自分が一肌脱いだ、という「善意」だけであるのなら、確かにそこに安倍さん本人の「悪意」は認め難いし、安倍氏や加計孝太郎氏個人のレベルでみれば、まさに「岩盤規制」と戦っていることにもなる。

ましてその安倍さんたちが本気で「日本の獣医学は遅れている」「国際水準の、新しい需要に応える必要がある」と思っているなら、新獣医学部の設立が「日本のため」であり、それが許されない現行制度がおかしい以上、この程度の異例の優遇は「不正」ではなく、行政をねじ曲げたのもまた「日本のため」ということにすらなるのだろう。


だが言うまでもなく、この安倍さんたち個人レベルの正当化の理屈は、根本的におかしい。

まず獣医学部の新設が出来ないことになっていたのは文科省の省令、文科大臣の告示に過ぎない。

新たな獣医学部のニーズがあるのなら、特区制度を利用した抜け道などではなく、行政府の長の権限でそれ自体を改めればいいはずだ。

むしろ政治家、それも国家リーダーの責任とは、そういうことである。

それこそ先端ライフサイエンスや、この十数年ほどパンデミックが警戒されている鳥獣共通感染症(鳥インフルエンザ、SARS、MERS、エボラ出血熱など)への対応が急務の「国家戦略」であるのなら、その必要性は公約として掲げ、国会で議論し、しかるべき予算もつけて、理化学研究所や国立感染症研究所、国立大学の医学部や獣医学部などを巻き込んで進めるべき話だ。

だいたい家畜伝染病や人獣共通感染症のパンデミックへの水際対応で愛媛県、ないし四国に穴があるというのなら、そこでこそはじめて特区制度の出番になる。縦割り行政に傾きがちな日本の官僚制度に風穴をあけて、農水省や厚労省と文科省の連携をしっかりやらせる必要もあるし、それが特区制度本来の重要な役割のひとつだったはずだ。

ただし、ならばそもそも畜産業がほとんどない今治市に大学を作って済むことではない。愛媛県全体ならたしかにブランド牛もあって畜産も盛んなことだし、愛媛県全体を特区に指定する、というのなら分かるが、この特区指定はなぜか広島県と今治市であって愛媛県の他の地域は含まれていないのだ。

それに国家戦略特区を所轄する内閣府が縦割り行政の弊害を排するように動いた形跡もない。むしろ真逆で、文科省が検討に当たって農水省の意見を求めていたのに内閣府に無視されている。

安倍首相が自分の総理大臣という立場が理解できているのか、首を傾げざるを得ないのは、森友学園・「安倍晋三記念小学校」スキャンダルにも共通する。これだってもし教育勅語を基礎に置いた初等教育を安倍氏が理想としているのなら、それまで幼稚園と保育園しか経営していない弱小学校法人に10億の国有地を8億に値引きして払い下げたり、国交省の補助金についても斟酌するような裏口で支援するようなやり方ではなく、堂々と国策として提案すべきことだ。

総理大臣として、それが理想だと思うならそう国民に訴える責任が安倍さんにはあるし、それが行政府の長かつ政権与党総裁としての役割のはずだ。

その上で国会の議決や国民の支持を得られないのならそれまでの話、というのが民主主義社会における権力のあり方のはずだし、こと教育の話なら、裏口を通してコソコソとやるようでは、その教育の倫理的な根幹すら疑われかねない。

逆に「日本のため」なら、堂々とそう主張すべきだ。その上で国民の支持があるのに既存の行政制度の壁で認められないのなら、そこで初めて「岩盤規制」と言えるはずだが、安倍さんの頭のなかではそうなっていないらしい。


加計学園にしてみれば、むろん初期投資が事実上ゼロで新学部を始められるのは、それはそれで私立の学校法人にとって十分に夢みたいな話だ。

とはいえ、金銭的な利益にもなり「日本のため」にもなり得るのはあくまで、十分に学生が集まり、学校経営が成り立てばの話だ。しかも大学経営なら普通の学部でも採算ベースが確立するのは4年目に、全学年の生徒が揃ってからだし、獣医学部の場合は6年カリキュラムなので、それまでが大変になる。

そんなことも頭に入れながら図面を見てみるに、加計学園のプロジェクトはますます、どれほど真面目に現実性があるのか疑わしくなる。

本当に真面目な大学設立計画で、ちゃんと採算性や将来性を考えたものなのか?

すでに当初の一学年定員160名の予定は大学設置審議会から疑問が出て140名に減らされている(つまり授業料収入は1割半ほど減る)上に、結局は判断は保留になっている。審議会の答申は原則非公表だが、報道各社の取材によれば、実習時間が既存の獣医学部の1/4しかないこと、「既存の獣医学部では対応できないこと」をやるのが国家戦略特区を認める条件だというのに、新分野への対応が不十分であることが問題視されたそうだ。

図面を見ても、一学年の定員が140人なのに図面によれば300人の大教室があったり、一方で実習設備のサイズはちぐはぐで、6学年840名(ないし元の計画なら960名)にはおよそ足りなさそうだったり、ずいぶんと派手なハッタリとケチくささが奇妙に同居しているように見えてしまう。

実習時間が既存の獣医学部の水準の1/4しかない、という問題もここに通じる。坪単価150万という超高額(ちなみに超一流と言っていい北里大学の獣医学部で坪単価82万で済んだという)なのに、なぜ実習設備をケチったのと同様のことで、実習費は確かに高価になるからと言って、実習時間を安易に減らしてしまえるのだろうか? 
獣医学部では少人数で実際の動物を使った実習が要になるが、これには金がかかってしまう。  
先月の国会閉会中審査で自民党の青山繁晴参議院議員が取り上げた、私大獣医学部の水増し定員問題も、真の理由はこの実習費の高さにある。獣医学部志望者が多いかどうかなんて、入学試験できちんと定員通りで切ればいいわけでなんの関係もないわけで、青山氏らが展開したのはまったく馬鹿げた詭弁だった。 
実際には、私大の獣医学部は既存の定員通りだと経営が赤字になってしまう窮余の策で、授業料の稼ぎを少しでも増やそうとしているのだ。 
授業料が高いからといって大学経営上有益なわけではまったくないのだが、加計学園はそんなことすらまったく分かっていなかったのではないか?

なかでもよく分からないのが、7階がまるまる会議室スペースで、大会議室にはとても広いパントリー(調理場)まで付随している。そこに生ビールのサーバーや、ワイン保存庫まで設置されることには、さっそくマスコミのかっこうなネタにされた。どう考えてもパーティー会場にしか見えないのだからしょうがない(学園側によれば、ワイン保存庫は取り消しになったそうだが)。



だがもっとおかしな点がある。

繰り返しになるが、国家戦略特区として獣医学部の新設が認められる要件のひとつが「既存の大学獣医学部では対応できないこと」で、加計学園や今治市、国家戦略特区諮問会議など要するに安倍政権側(加戸前愛媛県知事も含む)では、「最新ライフサイエンス」や、人獣共通感染症に特化した教育を売り文句にして来た。

もっとも、これはすでに虚偽であることがわかっている。文科省が存在を確認した流出内部文書のひとつでは、萩生田官房副長官と文科省の局長のやりとりのなかで、愛媛県が「プラスアルファ」としての特別な獣医学部は求めていない、と明言されているのだ。

だがその売り物になるはず(というか獣医学部新設が正当化されるためには必須)の実験設備が、5階の研究室・教員スペースの、それも極めて小さなクリーンルームしかないのだ。

外部との空気の出入りを遮断する出入り口や、内部を陰圧にして外に空気が漏れるのを防ぐ密閉構造を考えれば、せいぜい2人くらいしか作業ができない実験空間しか確保できない。

バイオセーフティ・レベル4までは目指していないにしても、こんなものでは鳥インフルエンザ・ウィルスなどレベル3のバイオハザード対応が出来るはずがない。

だいたい教員が常駐し、学生の出入りも多いはずの5階の研究室フロアに置くのもおかしい。理想は独立した建物、せめて最上階ワンフロアに隔離しなければならないのが常識だろう。

そうそう、パーティー施設だと疑われている7階を、最先端実験フロアにするのが正しい選択のはずだ。

しかもこのクリーンルームの直近にはエレベーターまであり、いったん実験している細菌やウィルスでも漏れ出そうものなら、そのシャフトの上下空間を通して建物全体で学生が感染の危険に晒されそうだ。

いったいどこまで真面目なのだろう? 計画の全体が、こう言っては悪いが素人の悪ふざけにしか見えなくなって来る。

こんなもので「国家戦略」のつもりなのか?

案の定、この獣医学部は安倍内閣自身が閣議決定した新獣医学部設立の要件も満たせそうにないし、大学設置審議会で「保留」になったのもせめてもの温情というか、昨今の文科省の方針で「却下」はなるべく出さず「保留」とすることで、形だけでも各大学の自主性を尊重することになっているからだ。文科省の審議会は「大学を作らせない」ためではなく、逆に新しい学校を作らせるサポートを担うのが本来の筋だからでもある。

だが、それでも申請が通らなければ、すでに「獣医学部は岩盤規制の象徴だった」と言っている国家戦略特区諮問委員会は、今度は「大学関係者がメンバーの新学部設置審議会こそ岩盤規制・既得権益」とか言い出しそうだ。

思い返せば、国家戦略特区を打ち出して「岩盤規制を自分がドリルの刃になって打ち破る」と言い始める以前の、第二次安倍政権の発足当時から、安倍さんはしきりと「戦後レジュームの打破」を主張していた。

「岩盤規制」もそんな「戦後レジューム」の一部だと言うのなら一応筋が通るが、逆によく分からなくなるのは、安倍さんがなにを「岩盤」とか「レジューム」とみなしているのかだ。

いやそもそも、「レジューム」ではなく regime、支配体制、カタカナ表記なら「レジーム」なのだが、こんな間違いを指摘されただけでも彼らは「揚げ足取りだ」どころか、「そんなことでケチをつけるのは岩盤規制派だ」と言い出しそうだ。

そういえば加計学園が提案していた獣医学部構想は、最先端ライフサイエンスや人獣共通感染症対策を売り物にしているはずが、MERS(中近東呼吸器症候群)をMARS(火星?)と誤記していた。 
第一次安倍政権の10年前から構造改革特区に申請して来たとか、愛媛県の加戸前知事によれば十数年来におよぶ、永年の念願のプロジェクトの割には、こんなところでもまったくお粗末だった。 
もちろん、加戸氏が国会で述べたこと自体がまるごと、まったくのその場しのぎの虚偽でしかなかったのだが。

安倍さんは外交では「法の支配」を主張して対中国や対北朝鮮の牽制のつもりでいるが、国内向けに「打破」を言い募っている「戦後レジューム」は、最初は改憲を目指していたり(つまり「憲法」が「支配体制」なのか?)、なのにその改憲から逃げた「解釈改憲」で安保法制を強行してみたり、あるいは法体系に特例を認める「国家戦略特区」を、さらに法の抜け道に利用しようとしてみたり、既存の刑法の体系に反する可能性が高いだけでなく中身自体が詐欺的で恣意的な運用の温床になりかねない「共謀罪」の強行採決など、むしろ「法の支配」をなし崩しにしてばかりだ。

法の公平性を損ないかねない特例や優遇の、うわべだけの合法化の言い訳として新たな制度や法を作ってしまったり、行政が積極的に法の抜け道を探ったり辻褄合わせの口裏合わせで記録をつけなかったり隠したりするのなら、形式上の合法性の上辺だけは担保され得てるとしても、それでは「法と制度に基づく統治」そのものが骨抜きになる。

法論理や立法主旨をねじ曲げた法をさらにねじ曲げて運用するような真似は、本来のまともな政府、あるいは「普通の国」なら避けるべきである以前に、まず本来なら必要がないはずだ。

ねじ曲げなければいけないほど社会の変化に適合しなくなった法や制度なら変えればいいだけだし、ちゃんと説明をすれば世論の支持も得られる。

法とは合理的かつ公平に解釈され運用されるものだという法治の大原則に行政府や司法府が忠実でさえあれば、わざわざ改正の手間すら必要がない場合も多い。

ところがこうした当たり前の「法の支配」の原則が、安倍政権には「戦後レジューム」や「岩盤規制」に見えてしまうらしい。

加計学園や森友学園をめぐるスキャンダルはその典型だ。「行政の私物化」なのは客観的に見てその通りなのだが、これらの事件は従来あった贈収賄や利権がらみの、政治家が私腹や党利党略に走った「私物化」とは動機の本質が異なっている。

この獣医学部スキャンダルのおかしさについては既に述べた通りだし、森友学園「安倍晋三記念小学校」スキャンダルに至っては、安倍さん達の主観としてはまったく純粋に、自分達が理想とする小学校を作って欲しくて、そのために籠池さんが頑張ってしまい、安倍さんたちはその純粋な「思い」に報いようと、国有地を格安で買えるように算段を尽くし、元々「抵抗勢力」である官僚をねじ伏せることが「戦後レジュームの打破」なのだと思ってしまっていたのだろう。

言い換えれば、安倍さん達の国家観や政治観というのは、民主主義や近代法治主義の問題以前に、そもそも国家のありようとして躰をなしていないのだ。日本の歴史でいえば弥生時代からヤマト王権への移行期レベルの、部族連合に「大王(おおきみ)」を乗せた程度の原始古代国家みたいなものが、安倍さん達の「理想」「美しい国」なのかも知れない。

その古代日本が、すでに始皇帝以来統一的な法と制度による国家統治を確立していた中国の帝国を模倣した律令制を確立しようとしたのが、現代にまで続く天皇を象徴的な中心とする日本国家の黎明(物部守屋を滅ぼした推古朝から、白鳳時代を経て奈良時代・聖武天皇の治世の前半くらいまで)なのだが、そんな実際の歴史を踏まえることすら、安倍さん達にとっては「自学史観」に見えてしまうのかもしれない。

日本が東アジア文化圏の一部だったのは記録が残る以前からの日本の歴史であり、法と制度に基づく組織化された国家統治もまた中国から学んだものであることは、今さら変えようがないのだが。 
まさか「聖徳太子」以降のすべてを否定するわけにも行くまい。

それにしても森友学園にせよ加計学園にせよ、あるいは「道徳」の教科化にせよ、安倍政権のとりわけ教育分野に対する目の敵っぷりは凄い。

一方で安倍政権の数少ないポジティブば成果としてあげられるのが、フリースクールの役割を拡充した規制改革なのだが(ちなみに文科省でこれを主導したのが、前川喜平・前次官だった)、これですら不登校やいじめ等の被害生徒の救済と多様な子どものニーズへの対応という本来の目的を、安倍さんは勘違いしていたのかも知れない。つまり、「学校」を否定するか、せめてその役割を相対化したかっただけなのではないか?

この人は、よほど学校や教育を基盤とする「知の体系」が嫌いなのではないか?

そういえば昨年には、灘や麻布などと言った、いわゆる超一流の私立中学高校が、採用した歴史の教科書をめぐって、それが「反日」だとする安倍シンパと目される層からのクレーマー攻勢に遭っている。

なんでも「OBだが今後は寄付金は出さない」という文言がテンプレート的に使用されたハガキが大量に送りつけられたのだそうだが、そのほとんどが匿名だったというから笑い話にしかならないのだが、そこに見え隠れするのは学歴社会における「超一流」権威を自分達の恣意的な身勝手でねじ伏せることを幻想する集団的な自己満足だ。

だいたい、問題にされたその教科書というのが、一律の通史的な歴史観を元に知識を暗記させるのではなく、多様な歴史を併記して生徒に考えさせることを目的に、元社会科教師たちが編纂したものだ。安倍シンパの人達が噛み付いたのは慰安婦問題なのだが、日本政府の公式見解である「直接に命じた証拠はない」もちゃんと明記されている。

およそ「反日偏向」などではなく、むしろ公平に多様な情報を与えて自分で考えさせるという、まっとうに近代的な教育方針の知的手続きの根幹自体が、この人達には気に入らなかったのだろうか?

まあ多様な情報を公正・公平に判断すれば、「慰安婦問題」の日本国の責任についての結論は、学術的にはとっくに見えているわけで、それが「反日」になるのかも知れないが。

こうした願望は加計学園問題をめぐる「岩盤規制」「抵抗勢力」という決めつけにも通ずる。例えば国家戦略特区ワーキング・グループの原英史座長なぞは「既存の獣医学部では対応できない」という条件について、具体的になにが対応付加なのかを問い合わせる気すらなかったと公言している。

その根拠とするのが以前に文科省が出した報告なのは滑稽ですらある。これは私学獣医学部の一部の現状を危惧した獣医師会の意向を反映した調査結果で、統廃合を促すものだ。獣医学部は実習などのコストが高く一部の私学は経営難への対処から定員水増し等が多く、全体の教育水準の低下が問題になっている。言うまでもなくその対応であれば、新規の私学獣医学部の新設では逆効果になりかねない。

今後の獣医学部教育はどうあるべきか、なにが課題で、どうすれば国際水準の最先端の教育へと刷新できるのか、といった課題についてもっとも適確に答えられるだけの情報や素養・知識を持っているのは、言うまでもなく現役の獣医師たちや獣医学部の教員・研究者のはずだ。だがこのスキャンダルでは、あらゆる局面でそうした専門家の専門知識や情報を踏まえた合理的な判断というものが無視されている。

国家戦略特区諮問会議やワーキンググループも、内閣府も、そういった本来の専門家は目の敵にして来ている(「既得権益側」になるらしい)し、加計学園なら加計学園の側では、掲げた看板だけは立派というか、既存の獣医学部を侮蔑するような大言壮語を掲げながら、中身はまったくお話にならない稚拙な素人プロジェクトを、今治市に出させた公金でやるつもりだった。

なにも専門家の言うなりになれ、獣医師会に従うべきだ、という話ではない。そこからきちんとヒアリングなりなんなりをしたうえで、合理的な判断を下すのは政治家の役割だ。ところがその本来の意味での知的かつ合理的な政治判断というものを、安倍政権はまったくやる気がないらしい。

これでは「国家」と呼ぶに値するだけのものを公正に運営することはとても出来ない。自分達がよく知りもしないことについて、その拙速な思い通りに行かないとなると、自分たちの不見識や無知を反省したくないから「岩盤規制」「抵抗勢力」「戦後レジューム」だから打破しよう、と言っているのが安倍政治の本質に思える。

8/24/2016

水俣病発生から60年、未だ抜け落ちている政治の責任


NHKのクローズアップ現代プラスが、水俣病についての新事実、加害側企業チッソの内部文書をスクープした。チッソの久我正一副社長(2008年没)の、1977年〜78年の政府との折衝に関する生々しいメモだ。この時期に水俣病をめぐって起こった二つのことに(誰もが疑っていたように)やはり因果関係があったことが、このメモの発見で立証された。

●ひとつは政府によるチッソ救済のための公的資金投入の決定。

●もうひとつが1978年の環境庁通達により、水俣病の認定基準が複数の症状が見られなければ絶対に認められなくなったこと(実際には、72〜3年頃にはすでに現場ではこういう運用が支配的になっていた)。

この二つの決定は直接の因果関係にあり、政治が深く関わっていたことが久我メモで立証された。

政府はこれまで、認定基準の厳格化については「医学的知見が深まったことで」と説明して来た。もちろん誰が考えたって、これがチッソが補償金として支出する金額を抑えようとする目的なのではないかとまず思うだろう。さらに厳密に言えば、77年から78年の時期以降、チッソを通して患者に補償金として支払われる国の出資を減らすため(国が既に国費によるチッソ救済を決めていたので)と疑われて当然なのだが、それが今回やっと政府が言い逃れできないように立証されただけでなく、政府の資金によるチッソ救済が決まった舞台裏も明らかになった。

水俣病といえば言うまでもなく、土本典明による日本ドキュメンタリー映画史の金字塔、『水俣 患者さんとその世界』から始まる17本の映画でも、深く切り込んで記録されてきた事件だ。しかし1977から78年の水俣は、その土本典明の水俣シリーズも撮影されていない時期だ。

土本典明「水俣 患者さんとその世界」1971年

ちなみにメモの主、久我副社長は土本の『水俣一揆』で島田社長の横にいつもいる「悪番頭」キャラの人だ。『患者さんとその世界』のクライマックスに登場する江頭社長も島田氏もメインバンクの第一勧銀からの出向で、チッソ内部からの叩き上げで実務を(その後ろ暗い部分まで)掌握し続けていたのが久我氏だったと考えても、間違いはないだろう。

「水俣一揆」中央の背中が島田社長、左が久我副社長
机に座るのは患者の川本輝夫氏

その久我氏は、患者への補償金負担がチッソの経営を圧迫し、倒産も視野に入る危機的な状況の中、政府に働きかけていた。

そこで久我氏に紹介されて国費の注入によるチッソ救済の枠組みを作るように動いたのは、意外な人物だった。当時は財務官僚から参議院議員になったばかりの、藤井裕久・元財務大臣である。

後に藤井さんは1993年にその自民党を離党、小沢一郎氏らとともに新生党を立ち上げ、細川護煕内閣で財務大臣を務めた。細川政権が倒れた後も自由党と民主党の幹事長、民主党の最高顧問を歴任、テレビ討論などで財務省の内輪の論理にも批判的に言及するなど、経済政策を中心に実直な正論を展開し、日本の政治家としては数少ない良心的な実直さを見せて来た人物で、2009年の政権交代への道筋を固めた1人でもある(鳩山由紀夫内閣で再び財務大臣になるが、健康を損ね辞任)。

今は「生活の党」の小沢氏のモットーとなっている「国民の生活が第一」というのは、藤井さんの信念でもあった。

その藤井裕久さんが、久我副社長のメモで名指しされていた。

今回インタビューにも誠実に答えてすべてを「その通りです。間違いありません」と認めたのは、いかにも藤井さんらしい態度ではあった。とはいえ、そんな藤井さんが政治家に転身した直後に、こんな後ろ暗い、いわば「汚い仕事」に関わっていたのは、驚きでもある。

だが藤井さんがこの「汚い仕事」に力を尽くした理由である、患者に補償金が支払われ続けるためには、チッソを潰すわけにはいかないという現実もまたもちろん、ちょっと考えれば誰でも気づくことだ。その補償金なしには、多くが漁民であった患者たちは身体の自由も、肝心の漁場である水俣の豊かな海もチッソの汚染水に奪われ、極貧に追い込まれかねない。

水俣病事件について忘れられがちな視点は、公害の被害がただ加害企業を断罪する「正義」だけでは終わらない厳しい現実だ。水俣市自体が日本の高度成長のなかでその経済をチッソに依存せざるを得ない企業城下町であり、そのチッソが破産すれば企業責任は有限責任なので、補償金も支払われなくなる。

「汚い仕事」とはいえそれだけで藤井さんに幻滅するわけではない。むしろ「生活が第一」であれば、働くことが出来なくなった患者たちへの補償にこそ、万全が尽くされなければならない。藤井さんの、つまりは小沢一郎氏たちの「国民の生活こそ第一」の原点は、もしかしたら実は水俣にあったのかも知れない。

補償金の負担でチッソが倒産すれば、水俣は様々な意味でドン底に追い込まれ、死の町にすらなっていたかも知れない。当然ながら、藤井氏のところには水俣からのチッソを守って欲しいという嘆願もあった。

とはいえ、チッソを救済するための公的資金投入を、「あんなひどい会社はつぶれて当然だ」と思っていた世論相手に正当化する工作がいかに大掛かりだったのか、政府が直接に動いてまで水俣市民にチッソ擁護の世論を作り出そうとしていたというのは、さすがに驚く。藤井さんは「騒ぎを起こすいう言い方は好きではないが、その通りです」と認める。

だがその世論形成の結果、水俣で補償を受け取った患者への風当たりや差別が激しくなることまでは、政府でも考えていなかったようだ。ここはぜひ、もっと藤井さんに訊きたいところだ。結果を知れば当たり前の展開ではある。しかし事前に思いついたかどうか?思いつかなかった、気づかなかったことに責任はないのか?

藤井さんはNHKの取材に率直に応えていたが、もっと突っ込んで話を聴かなければならないことは多い。それは藤井さん個人の問題ではなく、公害の救済がただ「正義」を通すだけで済む問題ではなく、現代の社会の構造それ自体の欠陥に深く切り込まなければならない課題であり、水俣病発見から60年経った今でも思想的・理念的な大枠すらまったく未解決のままだからでもある。

今の藤井さんであれば、その責任から逃げるようなことはないだろう。

そして77年から78年の藤井さんは、ある意味で誰よりも公害問題の複雑さと根の深さを考えていた(考えざるを得なかった)人でもあるのかも知れない。その立場にいなければ「チッソはけしからん」で済むかもしれない。多くの国民は当然そう考えただろうし、だから藤井さんが国会でチッソの責任を追及する質問をすれば、政治家としての地位は築けたはずだ。だがそうやって悪徳企業のチッソを倒産に追い込めば、患者の受け取るはずだった補償金はいわば不良債権、判決も賠償命令も紙くず同然になる。

とはいえ、その藤井さんでさえ、自分が決めた国によるチッソ救済の結果として、自分が救おうとしたはずの多くの患者がかえって救われなくなった(2万人以上の未認定患者が今も苦しんでいる)ことは認めようとしなかった。

ここも藤井さんをもっと問いつめなければならないことだ。

久我メモには政府内部の恐ろしい言葉も残されている。患者への補償のための国費投入を「ザルに水を注ぐようなものだ」と言い切っているのだ。当時は藤井さんもその党員だった自民党も、福田内閣も、そういう立場からの認定基準の厳格化を追認している。チッソへの配慮のためにすでに不当な厳格さで運用され始めていた認定基準は、今度は国の財政、つまりは国民の財産を守るために絶対的なものとされた。

政府が支援することでチッソは倒産せずに補償金を払い続けることができるようになったが、その結果、患者とチッソの対立する利害の関係性のなかで、政府が完全にチッソ側になったというか、患者への補償が国の財政と国民の利害に反する構図になってしまった。チッソを患者の要求から守ることは政府の財政を守ること、つまりはあろうことか国民の財産を守ることとなってしまったのだ。

だからこそ藤井さんにはもうひとつ、どうしても問わなければいけないことがある。

患者のためには政府がチッソを支援するしかない、という藤井さんの決断は根本的には良心的なものだったが、それでもひとつ大きな問題意識の自覚が抜け落ちていはしないか?

なぜ水俣病被害がここまで広がり、患者が増え、国費を投入しても救済し切れないからといって患者数そのものを減らそうとする(つまり患者を切り捨てた)結果になったのか、そのそもそもの原因は、どこにあったのか?

言うまでもなくその最大の原因は、厚生省の内部では原因がチッソのメチル水銀だと分かっていて勧告も出ていながら、政府が「政治的判断」で原因の公式認定を遅らせたことだ。水俣の患者たちが、自分たちの「奇病」の原因が自分たちの食べた魚で、それがチッソの廃水に汚染されていたせいだったと知ったのは、公式発見の1956年から12年も経った1968年のことだ。

だから政府もまた患者の支援と補償に力を尽くさねばならないのは、単に政府として国民の生活を守る義務があるだけではない。水俣病の患者がこれだけ増えてしまった大きな責任と罪は、政府にこそあったのだ。

その時には、高度成長を支える優良企業、日本のトップクラスの化学工業企業だったチッソを守るのが政府にとって優先事項だったのであろうことも、想像に難くない。政府はだからこそ原因の究明をわざと先延ばしにしたのだろうが、この「未必の故意」状態の先送りのタイムラグのあいだに水俣でなにが起きていたのかは、土本が克明に証言として記録している。

『医学としての水俣病・第一部』の冒頭で渡辺さんが証言しているように、水俣病の症状がでた患者は、精を付けるためにかえって魚を食べる量を増やしていたりする。考えてみれば当たり前のことだ。「魚が原因」とは誰も教えてくれなかったのだから、漁民であればまず魚を食べて栄養をつけようとする。その結果、かえって患者はより多くの毒性の有機水銀を体内に取り込んでいた。

ほっておけば健康回復のために魚をより一生懸命食べるだろう、このような当たり前の想像力すら東京の役所にいる人たちはなかなか持てていないことは、今も変わらない。たとえば福島第一原発事故でも、まったく同じ問題が露呈している。

その想像力を持てなかったことそれ自体が、中央官庁や政治家の、巨大で罪深い能力の欠如であることから、我々も政治家も目を逸らしてはならない。「仕方がない」では済まされない。せめて「能力がなかった」ことの罪は反省しなければならないはずだ。

既に述べた通り、77年から78年の時期に水俣で起きていた重大な変化は、土本の水俣シリーズでは撮影されていない。そして土本の仕事があまりに偉大すぎるため、『不知火海』つまり70年代半ば以降の水俣は、かえって日本のドキュメンタリー映画史から抜け落ちた状態になってしまった。77年から78年に実は起きていた大きな動き(政府側の巻き返し)も、土本の映画がないのでなかなか知られない水俣病の歴史の一頁になっている。

『不知火海』が撮られたとき、患者達の社会的・政治的な戦いは一応は収束し、映画は「生きることの闘い」というか、水俣病との闘いとはすなわちいかに患者が人間らしく生きられるのかであるという問題設定に、映画の関心が明らかに移行している。

だがその数年後、土本が水俣を撮り続けられなくなった時に、患者たちはまず自分たちの健康な生活を奪った加害企業であるチッソを許すことができるのかという葛藤に追い込まれ、補償金を得たことが単に嫉妬されるだけでなく、チッソを苦しめているのだという差別攻撃まで、他ならぬ故郷の水俣から受けることになる。

ただでさえ結婚などで差別されるのを恐れて認定の申請すらできなかった患者たちはますます追いつめられ、その後に待っていたのは申請しても認められるのは10%以下という、国がこっそり設定していた高いハードルであり、その正体は日本の現代政治が自らを雁字搦めにしていた深い闇だった。

『不知火海』を頂点とすることで、土本の映画はなによりも患者たちの人間性の回復のための作品となったし、その患者と直接対峙することになった会社の側の立場までは、土本は『水俣一揆』ではっきりと映画に刻み込んでいる。しかし政治を直接に問うことまではやっていないし、当時の自主製作のドキュメンタリー映画にはその手段もなかなかなかったし、だいたい政府も自民党の政治家も、現役だった当時では絶対に取材に応じなかった。

しかし水俣病事件それ自体は企業の責任だとしても、その背後には大きな政治の流れが一貫して関与しており、政治の責任こそが重大だ。それがどんな関与だったのか、政府がなにを考えていたのかは撮られていないので、この事件を映画的に考えるときにどうしても抜け落ちがちだ。

逆に言えば、今水俣についての映画を作るのなら、今回はっきり因果関係が立証された国によるチッソ救済(これが患者のためにも必要だったことは、僕も認めざるを得ない。土本も認めていた)と、その結果としての認定基準の不当な厳格化の問題こそ、取り上げられるべきではないだろうか。

そして政府側の人間として藤井裕久・元参議院議員にもぜひとも映画に出て、もっと深く語ってもらわねければなるまい。

土本の水俣シリーズに限らず、日本のドキュメンタリーはこれまで、なかなか政治家の側、権力の側それ自体の問題に切り込むことが出来て来なかったし、政治の側でも映画に出ようなどとは思わなかっただろう。

今の藤井裕久氏であれば、その日本の戦後政治の根源的な問題をこそ語ることに、応じてくれるはずだとも思う。

公式発見から60年、水俣病事件は終わっていない。2万にもおよぶ未認定患者がいて、政治決着はなされたものの極めて不完全なままだ。裁判所も認定基準のおかしさを指摘する判決を出しているが、まだ確定・決着はしていない。いや、現行の認定基準の厳しさが政府のいう「医学的知見」ではなく患者への補償を続ける財源の不安から来た財政的ベースの判断に過ぎなかったことが立証された今、政治決着は白紙に戻し、そもそも政府の不作為によって多くの人が水俣病になった責任も含め、改めて問い直されなければならない。

しかも奪われた人生を取り戻すためのその時間は、ほとんど残されていない。

そのあいだに、当時3歳だった第一号患者の田中実子さんは、63歳になった。土本典明の映画には、まだ少女の姿だった田中さんが何度も写っている。その妹をずっと介護し続けていた姉の下田さんは、自身も中学生の頃から手のしびれなどの症状が出ていたが、差別を恐れて認定申請はしなかったという。やっと認定を受けようと思ったのは1978年以降で、10%にも満たない認定率では、認められるはずもなかった。

妹が重度の水俣病患者である。水俣病が食中毒である以上、同じ食生活で育って来た下田さんの症状が、水俣病でないわけがないはずだ。

これは土本が『医学としての水俣病』の、とりわけ第三部で指摘したことでもある----具体的な症状だけがベースの認定基準は、そもそも科学的ではない。

その下田さんは今回明らかになった経緯を知らされ、NHKのカメラの前でこう呟いていた。「人間的でない」「煩悩(熊本方言では「他の人間への執着」転じて「思いやり」の意味になる)が欠けちょる」。

今回のクローズアップ現代では使われていなかったが、おなじくNHKのETV特集では別の下田さんの深い言葉があった。ずっと面倒を見て来た妹よりも自分が寿命を迎えてしまうことの不安を語りながら、下田さんはその妹の実子さんを「生き甲斐」と呼んだ。

水俣では、まだまだ記録の映画が作られるべきだし、チッソ救済のための世論形成の内幕と厳格化された認定基準が生み出した深い亀裂は、映画が一本作られるべきテーマだと思う。

それは単に水俣病の歴史で抜け落ちている重要な一頁を埋めるためだけではない。私たちの戦後日本の社会と文明のあり方そのものに含まれる矛盾と限界が、ここに現れているからだ。

10/28/2014

塩崎厚生労働大臣の「謝罪」(泉南アスベスト訴訟続報)

(このエントリーは前々項 アスベスト訴訟の最高裁判決は「勝訴」なのか? の続きになります)

泉南アスベスト訴訟の原告、つまり泉南のアスベスト被害の代表の皆さんが、昨夕やっと塩崎厚労大臣に面会した。最高裁の判決が出てから最後の段階のひと月弱だけ、原一男監督の大作ドキュメンタリーの応援スタッフで参加しているが、原告の「関西のおばちゃん」たちが本当に普通の、気さくな皆さんで、すっかりかわいがって頂いていて本当に感謝している。

とにかく国にきちんと謝って欲しいという気持ちは本当によく分かるし、賠償金が目当てだろうとか陰口だってさんざん叩かれながら、8年も頑張って来た皆さんにとって、大臣が謝罪したことはとても大きかったに違いない。

「まずは謝って欲しい。お金の問題じゃない」

それを奇麗ごとなどと冷笑すべきでない。たとえば石綿肺が悪化し、50歳で看護婦のお仕事を退職するしかなかった岡田さんの、もっと働きたかった人生は、どんなにお金を詰んだって取り返せないのだから。


しかし今は一級障碍者扱いで月500円とはいえ、酸素ボンベだけでも以前は三割負担でも月々の出費が3万。それ以上に、働けない身体にされてしまったことは言うまでもない。決してお金が目当てでなくても、お金のこともまた、無視できない。

国が「謝る」とはどういうことなのだろう?

原組・記録班も他のメディアと同じ扱いで、キャメラは原さんのメイン・キャメラ一台だけで、それも冒頭部分のみの撮影。国側はメディアに「謝った」という印象、イメージだけを報道させたい意図が透けて見え、それもお膳立てをしたのは自民公明与党のアスベスト対策プロジェクトチームの二人の議員。その二人が面談後の記者会見をまず行い、与党がアスベスト問題に強い関心を持っていることをアピールするのはいいが具体的な問題の話はなにもなかった。


最高裁判決には大きな問題がふたつある。

まず国の責任は昭和33年から46年までに限られ、それ以前はアスベストの危険性を十分に認識できる立場になかったとみなされ、その後は法律で排気装置の設置を義務づけたから国の責任は果たしたという判断になっている。だが僕たちの一般的な感覚では、石綿が危険だと認知されたのはその20年以上後の、1990年代半ば以降だ。法規制がほんとうには徹底されなかった、危険性が啓蒙されなかったことが、「法律があるんだから個々の事業者の責任」で済むのだろうか?

形だけで逃げて産業上の石綿の重要性を優先させたのが、この国の政府ではなかったのか?

もうひとつはアスベスト被害がいわば「労災」の枠組みでしか認識されていないこと。いわゆる近隣暴露、つまり「労災」ではなく「公害」としてアスベストの被害を受けた人たちの訴えは退けられている。

国側は大臣の面会を発表した時点でも、「裁判で勝った原告には謝る」というニュアンスを通し続けていたので、最高裁でも門前払いの敗訴になった原告は不安もあるし怒ってもいた。それが全員に大臣が(予想に反し)頭を下げたことは、それは嬉しかったろう。だがそれが国側の狙いだったような気もする。わざと謝らないかも知れないと思わせておいておけば、謝ったという事実だけで、裁判で門前払いにされて来て政治救済の対象であるべき、そしてずっと怒って来た人だって、つい喜んでしまう。

夫がアスベスト被害の石綿肺と肺がんで亡くなった佐藤さんは、昭和46年以降とみなされ敗訴になっている。その夫を撮ったDVDを二枚、大臣に渡すため持参していた。塩崎大臣はちゃんと受け取ったという、それだけで佐藤さんは一応は喜んでいたが、大臣がちゃんと見るかどうかには一瞬だけ不安をかいま見せた(その瞬間が撮れてますように!)。佐藤さんの夫のような被害者の救済について、大臣は

「前向きに善処したい」

と言ったそうだ。

佐藤美代子さん
農家で隣がアスベスト工場だった南さんは、環境被害、近隣暴露について大臣に訴えることは出来、大臣はそうした問題があることまではきちんと認識したらしい。これも

「前向きに善処したい」

とは言った。

農家だったが隣の工場からのアスベスト被害で亡くなった父の遺影を持つ南さん
亡くなったご両親の訴えは認められた岡田さんは、しかし託児施設がなく石綿工場内で子守りをされ、それで乳幼児の頃からアスベストを吸ってしまったご自分の訴えは認められていない。石綿肺で呼吸が難しくなり、50歳で働けない身体になり、月三万の酸素ボンベ。一本12時間もつと言うが、昨日は減りが多く、泉南の家を出てから帰るまでほぼ12時間でも、まずもたなさそうだった。

その岡田さんは、記者会見ではっきり、自分は「敗訴した」と明言した。

普段は朗らかな病気にめげず岡田さん
これはまったくおかしな話だ。子どもの頃の岡田さんは、訴えが認められた労働者とまったく同じ環境で被害に遭っている。しかも粉塵は低い位置ほど濃くなるわけで、働いている大人以上に吸ってしまっている可能性が高い。

しかし「敗訴」だ。

会見のあいだじゅう、南さんの固い表情と岡田さんの沈んだ顔が印象に残った。

最高裁判決後の記者会意見での岡田さん、南さん、川崎さん

「前向きに善処したい」

意地悪な言い方をしてしまえば、霞が関話法の官僚用語で、「出来るだけ先送りにしてなにもしない」の意味でもある。

それでも、大臣には会う気がないとしか見えず、原告に応対した厚労省の官僚が「スケジュールが多忙で、報告がいつになるか」とすら繰り返し、原告が傍聴していた国会答弁ではその塩崎大臣も菅官房長官も「重く受け止める」ばかりをロボットのように繰り返した2週間前の上京時に較べれば、えらい違いではある。

だから原告の皆さんが喜ぶのも分かるが、そうなることを狙った演出だったような気がしてならないのは、僕の見方がうがち過ぎているのだろうか?

いずれにせよ、大臣は

「前向きに善処したい」

とだけは確かに言った。

大阪高裁に差し戻しになった第一陣の訴訟については、和解調停に入り判決が確定した第二陣と同じ扱いにする、という「方向」は語ったが、即時であるとか期日を決めて明言したわけではない。
遺族ではなく数少ない生存原告の石川さん
昨日はまず、新幹線で到着する原告の皆さんを東京駅まで迎えに行った。霞が関に移動しながら聞けた話では、弁護団にはなるべく穏便に、あまり激しい言葉は使わないように言われたということであり、最初は代表2名だけ発言し、あとの人はなにも言えない段取りだったのを、佐藤さんが怒って変えさせた、という話をJRから地下鉄に移動するあいだ歩きながら伺うことができた(手持ちの大移動長廻し、うまく撮れてるかな…)。

こうして全員が発言できるようになったとはいえ、1人たった1分である。

厚労省に到着して、最初は自分になにも言うな、言ってはならない、と言っていた若い弁護士さんに会った佐藤さんは、自分から真っ先に彼女に声をかけ、しきりに労り、謝っていた。

そういうところが、本当にとてもやさしい、いい人だ。涙もろいぶん、他人の感情にもとても細やかに配慮する。

僕にも「藤原くん、藤原くん」としきりに声をかけてくれ、帰りの厚労省のエレベーターのなかでは「藤原くん、やったよ!励ましてくれてありがとう」と元気に語りかけて下さった。

だがこの人たちの善良さ、やさしさが、結果としてこの人たちが損になるように利用されてしまっている気がどうしてもしてしまう。

大臣が

「前向きに善処したい」

としか言わなかったことを佐藤さんの口から聞いたのも、この時だ。

「本当に大丈夫なんですかね」と言うと、佐藤さん南さんは一瞬だけ「我が意を得たり」と不安を隠せないことの混じり合った表情をされた。

「大臣は人の痛みが分かる人だった」と皆さんが信じたい気持ちは痛いほどわかるが、一生懸命そう信じないとやっていられない、という思いで、だからこそ自分を押し殺している気配もそこはかとなく感じ取れた。

その「痛みが分かる」と発言し、本当に感動していたように見えた松島さんが、東京駅で原さんのインタビューに応えようとしなかったのはなぜなのだろう?「会見で言った通りです、もういいです」としかおっしゃらなかったのは、実は分かっているのではないか、とも思えた。

だとしたら、それでも語らないその複雑さを、どうドキュメンタリーで映画に出来るのだろう?

ご両親を亡くされた、まだお若い武村さんだけは、厚労省の前でも、新幹線を待つホームでも、「こんなのはふざけている。大臣に会うべきでなかった。それより石綿対策室でもなんでも、厚労省の役人を泉南に呼びつけて実態を見せるべきだった」と怒っておいでだった。

遺族原告の武村さん
東京駅のJRと地下鉄、そして厚労省が主な撮影現場になった今日だが、「規則ですから」ということですぐ警備員が来て撮影を止める。帰りの見送りで新幹線を待つホームでも、なかなか撮影は困難だった。そんな我々に原告の皆さんは最後まで気を遣って下さった。どうも気がせいてしまって目立ってしまい、それで警備員にマークされてしまったのかも知れず(なにしろキャメラに接続したマイクを僕が持っていて、それで二人が走り回っているわけで)、もっと冷静に、おとなしく、目立たぬように動けばよかったと反省することしきりでもある。

いやドキュメンタリーはやはり難しい。こういう追っかけドキュメンタリーは僕はほとんど経験がない(いやまあ東京駅内や周辺でゲリラ撮影とかは以前やってますけど、その時はある程度は警備員対処も含めて仕込んでいたので)ので始末が悪いのだけど、それにしてもどんどん難しくなっている気もする。 
駅にせよ役所にせよ、警備員はただ仕事だからやっているだけだし、理由は「お客様のプライバシーの侵害」などそれなりにもっともにも聴こえる…のだけれど、結果として僕たちは真実や現実からどんどん遠ざけられている気がする。

原告の皆さんは、新幹線に乗ったあとも発車まで、ずっとホームにいる我々ににこやかに手を振って下さっていた。そして大阪、泉南に帰って行かれた。

僕はほんの三度の上京につき合っただけだが、ほんとうにやさしくして頂いて、心から感謝する次第だ。いずれ泉南にも遊びに行きたい(ただ皆さんに会いに、遊びに)。そして失われた人生は決して取り戻せないとしても、これからのこの皆さんの生活が、少しは平穏で、もう怒らないで済むものであって欲しいと願う。

しかしそれが皆さんが我慢することで得られる平穏ならば、あまりにも不公平だと言わねばならない。

この国はいつから、こんなに不公平で薄情な国になってしまったのだろう?「裁判に勝ってよかったね」「大臣にも謝ってもらえたし」、それだけでいいのだろうか?

前回の上京時に、弁護団の村松先生が僕のインタビューで漏らしたことがある(なかなか口が固く慎重な村松先生に、原監督が変化球を決断して僕に訊かせたわけだ)。

結局、この国では公害だとか労災は、被害者が頑張らなければ決して救済されないのだ。それも憐れみを乞い、可哀想だと言うことを世間に思わせることでしか、救済らしきものは始まらない。

いや村松先生は、ここまでははっきりは言わなっかったと思う、上記はやりとりの中での僕の相づちも含めた言い換えだが、要するにそう言うことである。

そんな社会を相手にしているときに、弁護団がなるべく原告に慎ましいというか謙虚というか、おとなしい、被害者然とした態度に留まるよう促すのも、やむを得ない戦略ではあると思う。

だがそれでは映画にならない、という点では原さんも僕も認識はほぼ同じだ。映画に出る人は、たとえ被害者でも、毅然としていて欲しい、そうでなければ映画的ではない。

いやこれでは言葉が足らないだろう。「映画的であって欲しい」とはどういうことかと言えば、映画とはやはり人間が実存していること、その世界があることの尊厳をこそ撮るものだからだ。

でも福島の被災者が毅然と、あくまで堂々としている『無人地帯』は日本では受け入れられなかったし、一昨日の日曜に、震災の三周忌以来半年ぶりに会った富岡町の西山さんが主人公の一人になるその続編も…昨晩は二人で、ほんとブラックユーモアだか不条理喜劇かとしか思えない浜通りの現実を、しかもそこ以外の日本では誰も関心を持たないことも含め、毒舌で盛り上がっていました。
 『…そして、春』富岡町に一時帰宅中の西山さんとお父上

ふと思うのは、原さんが泉南で撮りたい映画も、僕が福島浜通りで撮って来ている人たちも、この方が絶対に映画的だと僕らは思うのだけれど、弁護士の村松先生がおっしゃったようなこの日本の社会では、絶対に「ウケない」のかも知れない。

人が人としての尊厳を守り抜いて生きようとするという物語を、今のこの国は受け入れないのかもしれないとしたら、日本の映画って終わってるんじゃないか?

10/12/2014

アスベスト訴訟の最高裁判決は「勝訴」なのか?



大阪府泉南市のアスベスト被害をめぐる訴訟で、最高裁での「勝訴」「国の責任を認める」判決が大きく報道された。大きく…いや、日本で使われた石綿の量と、アスベストの健康被害問題の広がりからすれば、もっと大々的に報道されたっていいことのはずだが、一方で「勝訴」と手放しに喜んでいいものなのだろうか?

最高裁の判決文 
第一陣原告に対して http://www.asbestos-osaka1.sakura.ne.jp/kataseru/20141009-1-hanketu.pdf 
第二陣原告に対して http://www.asbestos-osaka1.sakura.ne.jp/kataseru/20141009-2-hanketu.pdf

原一男監督が7年前から、この訴訟の原告団を追う新作のドキュメンタリー映画を撮影している。最高裁判決をめぐる原告・弁護団の活動を撮るための臨時のスタッフとして、判決公判の9日と翌10日の2日間手伝うことになり、原告の皆さんとも行動を共にさせて頂いた。

入廷前、弁護団長にインタビューする原一男監督
最高裁の南門前で待っていると、公判開始からほんの数分でいわゆる「旗出し」、今回の場合は「勝訴」という文字が書かれた幕を、法廷から駆け出して来た若い弁護士さんが大きく広げる。すぐに周囲は沸き立ち、支援の宣伝カーからは万歳三唱が呼びかけられた。

その喜びの声を、首都圏の建設現場のアスベスト被害者と思われる人たちが、なんとも感無量の顔で見つめていたのが、心に突き刺さった。




「勝った」としても、この人たちにとってそれは単純な喜びになるはずがない。一生懸命に働いて来たが故に自分の身に起こってしまった不幸を、噛み締める瞬間でもあった。

泉南訴訟の影の立役者である、地元で被害者の掘り起こしに尽力した世話役の男性が、万歳の声を背景にインタビューに応じていた。

泉南の人たちはアスベストの被害者・犠牲者になったが、それだけではない。石綿加工を地場産業として一生懸命に働いて来て、陰ながら日本の経済産業の発展を支えたのが、この町の歴史でもある。だがそれを誇ることは、その代償のあまりもの悲劇がこの町の人たちにだけ振りかかってしまった現実からすれば、今はとても難しいだろう。その町の、人々の歴史を取り戻すことが、これからの大きな課題にもなるのかも知れない。

判決を待ちながら、この男性はずっとすでに亡くなった14人の原告の写真と名前を記した横断幕を見つめていた。彼の説得に応じて原告になったのは、被害者のなかでもごく一部に過ぎない。インタビューで彼は、「私たちはあまりにも多くの人たちを見殺しにしてしまった」と呟いた。




それでもまあ、勝ったのだろうし、とりあえずはよかった、と思って衆議院第一会館で行われる記者会見に向かったところで、原告の代表の一人で、ご両親を石綿肺と肺がんで亡くされた南さんと出会った。入廷される前にもすでにお話していたので挨拶して、「おめでとうございます」と声をかけたのだが…。


南さんは「それが違うのよ。私たちは門前払いにされたの」と仰るのだ。

「え?そうなんですか?」切々と真相を、冷静に、しかし率直に語られる南さんを、この時撮影しておけばよかった。原さんすみません。

これが自分の映画だったら、撮らなかったスタッフに怒鳴り散らしているかも知れない。だがそれは記録映画の監督として、明らかにやってはいけないことだろうし、だから自分のように未熟ではない原さんは、決してその様には振る舞わない。 
どんなに対等な関係性を演出しても(そして原さんはそういう現場を徹底して、この映画では作っていると思う)、映画の現場ならそうした現場なりの権力関係が自動的に派生する。監督は決して民主的な存在にはなり得ない。いわば独裁権限を持っている監督がこういう時に強権的に振る舞えば(そんな「つもり」はなくとも、結果としてそう見えてしまえば)、自分がいない場でそういう撮り損ねた事実があったこと自体を、スタッフが報告してくれなくなる。 
監督が知るべきことを知らないというのは、スタッフの感情の尊重以前の問題で、どう考えたって作品のプラスにはならない。そして我々はあくまで、映画を作っているのだ。

記者会見が始まったときには、僕たちはこの本当の結果の意味を知っていたので、原さんのメインキャメラが弁護団の説明を撮っているあいだ、第二キャメラはこの南さんたち、いわば「門前払い」にされた人たちを中心に狙うことが出来た。

記者会見中の原告、岡田さん、南さん、川崎さん
弁護団の方は、この国の司法や行政や社会の仕組みの枠内でしか、こう言う場では語ることが出来ない。今後の他のアスベスト訴訟の追い風にするためにも、メディアに「国の責任が認められた」としっかり書かせるためには、どうしてもこれは「勝訴」だという論調でまず記者に理解させる必要がある。その文脈では原告のことも「喜びの声」としてメディアが報道したがる以上は配慮しなければ、事情をよく理解していないしする気もない記者たちやデスクは、今回の判決自体をあまり大きく取り上げないかも知れない。

支援の運動への配慮もある。訴えが認められた原告のことを無視するのも、それはそれでおかしい話になる。

だがその結果、南さんたちの受けた不公平は、なかなか明言には至らないことになってしまう。

判決を待つ原一男
泉南のアスベスト問題は、まったく解決はしていないし、最高裁は決して、公正で納得できる判断など出してはいない。

生存している原告8人のうち(原告団のうち14人がすでに鬼籍に入った)実際に訴えが認められたのは4人だ。たとえば遺族原告の代表を務めて来た南さん、岡田さん、佐藤美代子さんの訴えは認められなかったし、賠償額の算定のためのテクニカルな処理が主たるものとはいえ、第一陣の審理は大阪高裁に差し戻しになった。

南さんのご両親は農家で、石綿工場労働者としてアスベスト粉塵を吸われたのではない。一時は田畑が、稲もかぼちゃも工場から飛んで出たアスベスト粉塵で真っ白になるほどだったのが泉南の風景だったそうだ。町中に中小の石綿工場がある以外はまだまだ農家も多かったいわゆる「田舎町」には、最盛期にはアスベスト粉塵が工場の内外を問わず飛散していたのだ。

だが建設や工場の労働者の被害ばかりがクロースアップされるなかで、泉南ではアスベストは労災被害だけでなく公害でもあったこと、南さんのような被害者の存在は、報道などでずっと無視されがちだっただけでなく、裁判でも無視され審理すらロクにされていない。

工場の建物の中だろうが外だろうが、同じアスベスト粉塵を吸って同じように肺を犯され、同じ病気で苦しみ同じように亡くなった人たちがいる。それでも政府の仕組みでは工場内の、労働環境の整備は厚生労働省の管轄であるのに対し、南さんのようないわゆる近隣暴露は「公害」であり、つまり環境省マターだ。

…と、こんな理屈で納得する方が実はおかしいのは、言うまでもない。

実際に受けた被害になんの変わりもないのに、三権分立で行政府とは独立しているはずの裁判所が結局、国の行政管理の不作為をその行政府内の管轄の区分けの都合に従って判断し、近隣地域のアスベスト粉塵による汚染の度合いが分からないが(データも写真も残っていないのは、調べなかった行政の責任じゃないのか?)、外なんだから工場内ほどの汚染はなかっただろうという、その実確たる根拠がなにもない憶測を持ち出して後付けのへ理屈で原告だけでなく、その背後に控える膨大な被害者を門前払いにしたのだ。

工場内の被害なら常勤の労働者だけに限定される。雇用名簿を調べれば被害者の把握は容易だし数も少なくて済む。

その人たちが工場内で働く労働環境についての国の行政権の不作為による加害責任(いや本当に「不作為」なのか?それ自体が疑わしいことは、最高裁になっても踏み込まれなかった。ちなみに60年近く前の水俣病でも、同じ構図があった)も、アスベストの危険性が医学的な定説として細かく確定してから国が規制法を審議し始める期間に限定され、それ以降は「不作為」つまりやるべきことをやらなかった責任から除外されてしまったのが、今回の最高裁判決だ。

そこでハネられたのが、やはり原告の共同代表を務めて来た佐藤美代子さんの亡くなった夫だ。

1958年から1971年までは認めるがそれ以前から働いて人については、国にアスベストが危険だと認める十分な情報がなかったし、それ以降は法律を作ることで責任は果たしたのだから法律を守らなかった事業主・雇用主の責任だ、という理屈なのだろうが、1958年以前だったらアスベストが危険でなかったわけでもあるまいし、その前は調べもしなかった、法律が出来てもしっかり運用するよう厳正に対処しなかった行政に、責任はないのだろうか?

南さんと共に最初から代表を務めて来た岡田陽子さんは、自らも重症の石綿肺になってしまい、常時酸素吸入が必要だ。だが労働者だったご両親については国の加害が認められたもの、自分の被害は認められなかった。

佐藤さん、岡田さん、南さん
当時は満足な託児施設がなく、共働きのお母さんが働いているあいだ工場の敷地内で子守りされ、アスベスト粉塵を吸った結果が今の不自由な身体だ。看護師の仕事も酸素吸入が必要なほど病状が悪化して続けられなくなった。それでもこれは国家賠償の対象ではない、とされた。

なぜなのかよく分からない。職場に子どもを連れて来ていたのはお母さんなのだから国はそんなこと想定する義務はない、とでも言うのだろうか?

いや実際、だからこそ岡田さんのお母さんの人生はあまりに辛いものだったことだろう。「知らなかったから責任はない」では済まされるはずもなく、娘さんのために自分を責め続けて亡くなられたに違いない。

なのに国の方は「知らなかったから責任はない」で済まされている。なにかおかしくないか?

たとえば毎日新聞の社会面は、この岡田さんを中心に報道している。

http://mainichi.jp/shimen/news/20141010ddm041040106000c.html

しかし見出しは「両親に『勝ったよ』」、記事では「安堵の表情を見せた」とあり、無理矢理笑顔の写真を掲載してポジティブなムードの演出に終始している。その写真でお隣に写っている南さんら、環境被害の原告が無視されたこともまったく触れていない。

それに実際には、記者会見のあいだじゅう、岡田さんは気丈に振る舞おうと務めながらも、やはり沈んだ顔をされていた。


わざわざ笑顔の写真を出すこと自体、それが報道なのだろうか?

恣意的なプロパガンダではないのか?

プロパガンダといえば、名目だけは「勝訴」が報道を駆け巡っても、アスベストの医学的な危険性が確定してから国が規制法を作るまでのほんの十数年間の、労働の現場での環境についてしか、国の責任を認めていないのが今回の判決の中身だ。

その責任の範囲を決める理屈が、一見合理的に説明されているようにも判決文を鵜呑みにすればできなくもないが、考えれば考えるほどに被害に遭った側ではなく、一方的に被害を与えた側、加害者となる国側だけの理屈、行政の視点、その論理の都合で考えて、それでも「これは無責任」と言える範疇だけしか国の責任の有無を判断していない。

勝訴となった被害者についても、石綿肺について被害事実は認めているものの、肺がんについては曖昧だ。

確かに「がん」は厳密にはその原因をひとつに特定できない病気ではあるのだけれど、石綿が原因だとは特定できないと言うのは、逆にいえば石綿ががんの原因ではないと断言することも不可能なはずだ。科学的な立場とは、本来そう言うものだ。言い換えればこの最高裁判決は、まったく科学的ではない。

肺がんなら代表的な例がたばこであるなど、他にもいろいろ発がん要因は確かにある。とはいえ石綿肺で苦しんで来た人が肺がんで亡くなったときに「いやでもたばこを吸ってたでしょう?」「排気ガス」「ストレス」等々を挙げて「国の責任でないかも」と言うのは、あまりに一方的で科学を無視したへ理屈でしかない。

同じようなことは、たとえば福島第一原発事故の被災地域で今後見つかるであろう甲状腺がん患者にも言える(甲状腺がんは4〜5年経たないと発見できるレベルまで大きくならないし、小さい段階では免疫でがん細胞が死滅する場合も多いと考えられている)。

福一事故の場合、放射能もれの被曝データからして、原発事故から4〜5年後に甲状腺がんの発見が増加する(つまり福一事故の被曝原因のがんが見つかる)ことはあまり考えられない。 
それでも絶対に人口に対してこれまで分かっている発症率に準ずる一定の比率に相当する患者は確実に見つかる(検査技術の向上と徹底した調査で、確実に早期発見できる)し、統計学的には目立った増加が見られなければ「原発事故要因と特定できる甲状腺がん発生はなく、福島県に住み続けてもとくに危険は、まずない」と断言していい一方で(風評の予防のためにむしろ積極的にそう言うべきでもある)、しかし個々の患者の実際の発症について、放射性ヨウ素を原因から排除するのも、決して科学的な態度ではない。 
だからメディアは、甲状腺がん患者が出た場合には国と東電が責任を持つことをルール化すべきだと言うべき、反原発運動もそう主張すべきだと既にこのブログでも指摘しているが、無論これまで実際にやられて来たことと言えばまったく真逆、被災者をダシにお祭り騒ぎの正義ごっこに耽溺しただけだ。 
これだけの科学技術立国の現代日本でありながら、政府もメディアも反対運動も、揃って科学というものに対するつき合い方を心得ていないように思える。 
科学を真剣に考えることは、実際に自分が直面した悲劇を理解するために科学を必要としている被害者たちだけに押し付けられているのではないか? 
統計的には原発事故由来とは考えにくい、と言われたって甲状腺がんが子どもに見つかれば、親御さんはもの凄く苦しみ自分を責め続けるだろうし、実際に科学的にその可能性を完全に排除はできないのだ。

福一事故の場合、免疫学的・統計学的には原発事故由来の甲状腺がんの発生は恐らくないとまだ判断できるが、アスベスト訴訟の場合は肺がんの原因で真っ先に考えられのが何なのかははっきりしているし、こと岡田さんの石綿肺の場合、他に考えられる理由はないのに、「いや国が責任を負うのは労働者の就業環境だけですから」「たまたま吸ってしまったことまで国の責任と言われても」とでも言うのだろうか?

これが三権分立の、司法権が行政権から分離独立している国の裁判所が出す判断だろうか、と首を傾げたくなる。

よく考えれば「原告」つまり被害者の「言い分を認めて」なぞまったくいない最高裁の判断なのだ。判決の論理的な枠組み自体が、一方的に行政府の理屈の範疇にしかなっていない。

司法権もまたあくまで主権者たる国民が裁判所に付託しているだけのはずだが…。小学校で習うことだぞ?

行政府の考える、行政の都合上に過ぎない、行政権の執行者の主体的主観によって構成された論理に、司法が従う必然はどこにもないし、むしろそうであっては困る。

事実としての被害はどんな立場だろうが、労働者であろうと周辺住民であろうとアスベスト粉塵を吸い込み、それが肺組織に突き刺さって破壊され、重い病になった、という医学的な現実だけが公正客観であり、それが等しく救済されるのが公平のはずだ。

なのに最高裁の判断は、南さんたちや岡田さん、そして多くの亡くなった原告、さらには訴えることすら出来ず亡くなった多くの泉南市民が無視されたことに同情する以前に、理屈が、筋が通っていない。

これで日本は公明正大で公平な社会、法治国家だと言えるのだろうか?

法治国家とは本来、最高裁が司法の最高権威だから従いましょう、ということではない。

最高裁は司法の最高権威であればこそ、誤った判断を下してはならないという義務を負っているのだ。そうでなければ国家が国家たり得る権威すら保てないはずなのに、判決を歓迎する素振りの報道ですら、「気の毒」以前に「不公平で、公正とは言えない」という観点に、ほとんど踏み込んでくれない。

ましてこの判決が、アスベスト被害者のあいだに救済される者と救済されない者を差別し、分断を作り出しかねないことに、報道は変に遠慮しているのかまったく触れていない。

原告や被害者が実際にそうやって分断や反目を始めるかどうかなどとまったく無関係に(そしてこの原告団ならそうはなるまい、と信じる)、判決自体がそれを狙っている、そう誘導するようにわざとやっているとしか、僕には思えないのだが。

報道は未だに最高裁に水戸黄門的なものを期待し、責任を問われる行政はいわば悪代官、その罪が明るみになって虐げられた善良な民が喜んだ的な物語をここに読み込もうとしていて、だから岡田さん自身が救済されていなくても見出しは「両親に『勝ったよ』」となり、笑顔の写真を一生懸命探すが「笑って下さい」で撮った写真を選んだのかも知れない。 
だが大岡政談の南町奉行越前守自体が作りごとだし(実際の大岡忠相は裁判官よりは有能な行政官だった)、水戸中納言徳川光圀の全国漫遊もフィクションでしかない以前に、最高裁の判事たちですら、今の日本ではいわばただの官僚だ。そしてこと、この判決では、彼らまでもが官僚的に過ぎる、国家の権力構造の内輪での保身を「真実」に優先させてしまったように思える。
果たして三宅坂、永田町と霞が関のトライアングルの内輪だけで、裁判が「真理」や「真実」を明らかにすることに到達し得るのかといえば、そんなことありえるはずもないなんて、子どもにだって分かる話だが。

この判決には行政府への配慮が垣間見えることは、弁護団から記者会見でも指摘があった。

行政への配慮、すなわち国の法的な直接責任をなるべく軽減する事実認定とその解釈に徹して、裁判所の命ずる救済を少なくしているのは、永田町と霞が関が「政治決断」を下せる範囲を少しでも広くとろうとしている、と好意的に解釈も出来るし、また実際この種の健康被害について国の責任を争う裁判では被害者のうち原告になっているのはごく一部であり、真の解決には政治決断が必要にもなる。

C型肝炎訴訟では、判決後に原告団と面会して約束をしたはずの舛添厚労大臣(当時)がなんと官邸の裏口から逃げるというトンデモな展開があり、福田康夫総理大臣が政治決断を下したのだが、思えば厚労省から相当な抵抗があったから舛添さんが逃げたのであり、福田さんがあの決断が出来たのはひとえに福田さんが人としてまともだったおかげだったのかも知れない。 
だとしたら今の総理大臣は…なんと安倍晋三氏ではないか…。なんともまたタイミングが悪い。

それでも原告と弁護団の記者会見が始まったのとほぼ並行して、塩崎厚労大臣が会見し、謝罪したというニュースが記者会見会場に飛び込んで来たときには「おぉ」というどよめきが起こった。あの場では誰もが、早期で前向きな政治決断への期待を抱いたことだろう。

だがフタを開けてみれば塩崎大臣の会見内容は、国の責任が直接に認められた原告に対してのみの謝罪という、「え?それなんのための謝罪なの?」という内容でしかなかった。いやそんな謝罪ならわざわざやる必要がないから、まったく想定すらしていなかった。

裁判所が責任と罪を認めたケースのみ「ごめんなさい」って、被害者ではなく裁判所の「権威」だけを向いた、言う通りに神妙にします、と言うだけの、口だけの「謝罪」でしかない。だいたい「謝れ」と法に命令されたことなのだから、わざわざ言うのはまったく無意味ではないか。 
しかも文書化した談話は報道陣には配られたものの厚労省のホームページには載せないという。 
なんじゃそりゃ?  
今の政権、安倍内閣のやることというのは、とにかく世間の常識、社会の当たり前の前提をつねにすっ飛ばしているので、想定の範囲外で驚かされてしまうことばかりだ。

原告と弁護団は6時半からの約束で厚労省に向かったのだが、まず驚いたのは「部屋の準備が出来ていない」とかで、原告が廊下で待たされたこと。

言うまでもないが、これは健康被害について国の責任を問う裁判だ。つまり原告は病人か、その遺族である。しかも実際に岡田さんのように、常時酸素吸入が必要な方がいるのに、廊下で待たせるのか?

押し問答の末なんとか部屋には入れたのが、「部屋の準備」もなにも、ただの会議室である。だいたい、なにを準備していたのだろう? 「準備」してたはずが誰も出て来なかったぞ?

そして十分遅れでやって来たのは、アスベスト問題の担当部署の人間ではなかった。言うことはただひとつ、「判決を精査するまではなにも言えない」「関係省庁との協議もこれから」だけだ。

(原一男作品のラッシュではなく、私物のデジカメで撮影した、当日の模様)

子どもの遣いじゃあるまいし…。

では担当者に会わなければ、という話に当然になるが、一部が差し戻しになっている関係上「係争上の案件で当事者に会わせることは出来ない」の一点張り。とにかくそれでは話にならないから、担当者にそう言って来い、と追い返すしかなく、そして戻って来てもまた同じ話。

それが三回も繰り返され、とにかく翌日10時にまた来るから、それまでに少しは検討するように、で散会になったのは午後9時だった。

そして翌日10時にはまた別の、やはり同じ労働基準管理局の、石綿対策のまた別の隣の課の室長が来たのだが、当然ながらこれまた同じ話である。

たまたま我々はその背後のポジションだったのでふと見れば、手元にはなんと「対応マニュアル」だけはしっかり準備されていたのだが、そこで想定されている質問や要求と、原告と弁護団の言い分がまったく異なっているのが、なんとも虚しくて滑稽ですらあった。 
原告が普通の庶民だからと「もの凄く有能なエリート」を自認する官僚の皆さんは、ちょっと相手を小馬鹿にし過ぎている、見くびっていたのではないだろうか?想定のトップは「大臣に会いたい」という要求への対応が書かれていた。 
弁護団はプロだし、原告も7年も8年もやって来た人たちだ。今さらそんな子どもっぽいことを言うはずもなく(えらい大臣サマがすべて解決してくれる、なんて水戸黄門幻想や、有名人の大臣に会えて嬉しい、じゃあるまいし)、筋を通して理路整然と、国の責任の所在をはっきりさせるためにもまず謝るべきは謝り、責任ある立場のものがまず具体的な事情を聞くことを要求しているのだから、話が噛み合ない。

それでもこの二人めの室長さんは、歳上でもあるせいか少しはものが分かっていたのだろうか? すぐに使えないと分かった想定問答マニュアルを盗み見ることもなく、押し問答は20分強で終わり、1時間近くも戻って来ないのでどうしたのかと思えば、大臣官房の総務課長との面会を決めて戻って来たのは評価したい(ちなみにマニュアルには僕が盗み見た限りでは書いてない内容だし、実際にえらく時間がかかっていたし、戻って来た時には表情がまるで違っていた)。

午後になった面会では、基本的にその課長が原告ひとりひとりの話をひたすら聞くことに徹したのは、少しは前向きに動き始めたと信じたいところだ。

いやこれくらいは信じられなければ、この日本国の国民であることが絶望的になるし、恥ずかしくもなる。

一時間近く待たされているあいだの原告の皆さん
いずれにしても、分かったことが二つある。

まず10月9日にこの裁判の判決が出ることは、判決内容までは分からなくとも政治日程には組み込まれているはずなのに、安倍政権では厚労省でも官邸でも、なんの準備もしていなかった、ということ。

そして厚労省では相手を見くびってタカをくくってでもいたのか、相手を怒らせるような対応しか出来なかったということ。

原さんに言わせれば「いやそんな藤原が言うような策略なんてなにもなく、なにも考えていないで、ものすごく間抜けなだけじゃないのか?」である。

もうひとつは、官邸や厚労省だけでなく、最高裁まで含めて日本という国家の「権力」の在り方が、これだけの大国の権力とは思えないほど姑息でせせこましく「ちっせえ」、そして狡いんだか単に間が抜けているんだかよく分からないが、もの凄く小さなスケールで邪悪だと言うことだ。

判決翌日、厚労省に向かう前に、原告は総理官邸から大通りを挟んだ向かい側、記者会館の前の街頭で訴えを行った。午前中の面会のあとも厚労省の昼休みと重なる時間帯に、厚労省前でやはり街宣行動をやった。そこでちょっと驚いたことがある。

通勤途中や、昼食に出かける国家公務員である人たちのほとんどは、泉南アスベスト訴訟の原告、つまりアスベスト被害の犠牲者である人たちを、一生懸命に無視して、冷酷さと敵意すら必死で演じていた。

ビラを受け取る人はほとんどいない。厚労省前でビラを受け取った数少ない心ある人も、原さんのキャメラの前をそのビラで顔を隠して通り過ぎて行く。

アピールを背景に佐藤美代子さんのインタビューを撮っていたら、急いでいるフリをして僕たちにぶつかってくる人までいた。

話は前後するが、官邸前ではアスベスト訴訟の前に、特定秘密保護法に反対するアピールが行われていた。こちらを官僚・国家公務員が無視するのはまだ分かる。思想や考え方の違いの範疇で、賛成しないという選択肢はあるはずだ。

だがアスベスト訴訟の場合は、限定的とはいえ最高裁が行政の不作為の結果の被害者で、国に責任があると認めた人たちだし、それ以前に加害者が誰であろうともの凄く大きな被害を受け、人生をめちゃめちゃにされた人たちだ。

そんな国民に起こったあまりもの不幸を無視し、冷酷な態度をとろうというのは、いったいどういう神経なのだろう?

一般市民なら「関心がない」はあっていいだろう。だがあなた方は国家公務員のはずだ。

国民の生活を守るのがあなた達の最大の責務であり、そのために大きな権力や権限を与えられている。仮に直接の瑕疵や責任はなくとも、この被害者の存在自体が、国家の行政の失敗や、至らない部分があることの証明ではないのか?

このような不幸を少しでもなくすことが、あなた達の仕事ではないのか?

…っていうかこの人たちは馬鹿で恐ろしく世間知らずなのだろう、と率直に思う。 
少なくともこんな公の場でそんな態度に出ること自体、自分達の印象をもの凄く悪くすることにしかならない、とすら気づけないのだろうか? ポーズだけでも神妙にしていれば、まだ世論だって少しは官僚批判を和らげるだろう、少しはなにかが違っただろうに。

厚労省に限らず霞が関の慣例なのだろうが、直接に応対するキャリア官僚のそばには、ノンキャリアの、たいがいはベテランで歳上の人が着くことになっている。ただ隣に黙って座っているだけで、無表情に徹し、なにも言わない。判決当日の晩と、翌日の二回の面談で、三人のキャリア組が原告と会ったのだが、「おつき」のノンキャリアは、ずっと同じ人だった。

判決翌日の午後の、総務課長との面談に向かう際、原告や我々取材陣を案内するのも、この人の担当だった。それが驚くことに、にこやかで礼儀正しく心配りも行き届き、とても「いい人」だったのだ。酸素ボンベを常に引っぱっている岡田さんへの態度は、とりわけ丁寧だった。

総務課長との面談のあと、岡田さんがこの人を捕まえて、「さっきは『そこの隣の人!』とか言ってしまってごめんなさい」と謝っていた。

言われた方は恐縮するばかりである。仕事とはいえ自分の態度が責められてもしょうがないものであることは、本人も分かっているに違いない。またここで「どうしても謝らないと私の気が済まないから」という岡田さんも、とても立派な人だった。

岡田さんと息子さん
アスベストの問題は「日本の産業発展の犠牲になった」という定型句がよく使われる。

だが決して忘れてはならないのは、被害者の人たちは「犠牲になった」だけではなく、真面目に働いて出来る限り誠実に生きようとして、この国の発展を支えた功労者でもあったことだ。

泉南はアスベストが地場産業でもあった場所だけに被害が大きく、アスベストは労災だけでなく公害の問題にもなったのだが、それは泉南のアスベスト産業もまた今もあるこの国の豊かさを支えた、という意味でもある。

原告の皆さんはそんな「日本の庶民」でもある。

実はとても辛い内容の、名目だけが「勝訴」だった判決と、霞が関や永田町で見かけた、この国の権力を左右する人たちの冷たさ、あるいは人間的な不自由さの一方で、そして街頭で訴える皆さんのお話の内容のあまりに過酷な辛さにも関わらず、原告の皆さんはそれでも明るい「関西のおばちゃん」である。

とてもチャーミングで、朗らかで、そして根っから真面目な人たちであり、とてもしなやかで、普通に賢い人たちでもあった。

福島浜通りや飯舘村で自分の映画を撮っていたのと同様に、これだからドキュメンタリーはやめられない、と思わせる、人間の真の強さを学べる契機や喜びが、この2日間にも度々あった。

官邸前で佐藤さんのスピーチを撮りながら、原一男監督は涙を流していた。


厚労省前でその佐藤さんのインタビューを撮りながら、敗訴した悔しさを語れない佐藤さんの涙に原さんも泣き、マイクを持っていた僕にしきりに「なあ、藤原、君もそう思うだろう」と相づちまで求めて、なんとか佐藤さんを励まそうとしていた。

5/16/2014

三年経ってまたもや「鼻血」騒動の不毛

まずこの際、はっきりさせておいた方がいい。放射線被曝の症状として「鼻血」というのは、ある意味完全な間違いである。

広島・長崎の最初の原爆症、つまり急性放射線障害の症状として実際に現れたのは鼻および歯茎からの大量出血と全身に紫斑が現れたことであり、ほとんどの患者は数日以内に死亡している。

実際に被爆者の身体に起こっていたのは、大量の放射線で血管細胞や造血細胞それ自体が破壊されたことによる大量の内出血であり、鼻粘膜と歯茎が、その出血が体外にもっとも出易い部位だったに過ぎない。

決して「被曝したから鼻血が出た」のではなかった。見た目には「鼻血」もあったが他の症状も同時にあり、そして実際に起こっていたのは、決してただの鼻からの出血ではなかった。

被爆者の証言や、身近なところでは『はだしのゲン』を見ても「鼻血が」だけとはまず書いていない。鼻と歯茎からの出血と体中の紫斑、それに脱毛(これは放射線で毛管細胞が破壊されたことによる)などが同時で起こり、ゲン(作者の中沢啓治氏)のような極めて稀で運がいい例外を除けば、ほとんどが数日中に命を落としている。

私事でいえば、これは医師であった祖父にとって人生最大のトラウマだった。 
熱線によるケロイドなどの外傷がなければ、とても元気に見えた広島市内からの避難者が、突然大量の内出血を始め、毛髪が抜け落ち、なにが起こっているのか祖父にはなにも分からないまま、手のほどこしようもなく、みな数日以内に亡くなってしまった。  
名医との賞賛も欲しいままにし、また自分でも腕に自信があったプライドの高い祖父にとって、手も足も出せないまま患者を死なせてしまったことはあまりに重い記憶であった。 
祖父が開業していたのは、広島と山口の県境の和木町(元々この地の郷士の家系)、山陽本線での最寄り駅は大竹で、広島市内から30Kmほど離れている。この距離を原爆を受けた多くの避難者が、かなりの部分歩いて来た。丸木俊・位里夫妻の原爆絵本『ひろしまのピカ』でも主人公の少女は歩いて宮島口まで辿り着いているが、昔の人は健脚だったことを割引いても、原爆症の症状が出る被曝直後からのタイムラグのあいだは、それだけ元気だったのだ。 
祖父は僕が小学校一年生の時に亡くなっているが、被爆者を診察した体験は何度も話してくれたし、原爆ドームと平和記念資料館にも幼稚園の時に見学させられた。末期がんで入院していたのは広島日赤病院で、病室の窓の向かい側はいわゆる原爆病棟だった。自分の病気のことよりも被爆者と原爆症のことを丁寧に話していたのが祖父だった。 
その祖父が1950年代には原爆ドームの保存に反対だった、「あんなもの壊してしまえ」と言っていたと知ったのは、亡くなって何十年も経ってからだ。

福島第一原発事故では即、被曝=鼻血という誤ったステレオタイプが無節操に流布し、「鼻血が出た」という“証言”らしきものが、匿名で、事実確認なぞまったくないまま飛び交った。当然ながら急性放射線障害による死亡例は一切ないまま、いったんは収まったかと思えば(かつての)人気漫画(でありこれまでも何度も問題を起こして来た)『美味しんぼ』で、三年目にしてまた騒動になっている。

福島県内で鼻血が多発しているという事実もなく、むろん福一で事故収束に懸命に当っている現場の労働者にも、特段そんな症状が現れているという話も聞かない。

被曝=鼻血というステレオタイプ自体が実は誤りなのだから当たり前の話だし、福島県民や原発事故による避難者にしてみれば「またか」とうんざりするだけだ。



福島の皆さんの「もううんざり」にはとても及ばないにせよ、僕らだって現実に被害はある。 
原発事故後の浜通りについて真面目な映画を作るよりも、「鼻血が」とか「甲状腺の膿胞が」とか、科学的根拠の薄いセンセーショナリズムに走り、「政府が噓をついている」という安直なプロパガンダに徹することを、国内外の出資するプロデューサーに要求されてしまうのだ。 
映画作家の最低限の良識として「そんなことは出来ない」と言えば、それで企画が成立しなくなってしまうのが、我々の現実である。

抗議の声があがるのは当たり前なのだが、政府関係者や閣僚が鬼の首でもとったように批判を連発するに至っては、逆効果にしかなっていない。

なにしろ通り一遍の「風評被害だ」と「福島県民が」の感情論しかないのである。そうすると『美味しんぼ』が福島県内の農業の取り組みなども取り上げているから「作者も福島県のことをちゃんと思っている」という類いの、これまた幼稚な感情論で反論にもなってない抗弁が持ち上がり、「政府が都合の悪いことを隠そうとしているのだから『美味しんぼ』は擁護すべきだという、これまたひどく子どもじみた二項対立の善悪二元論に終始する。


もう「フクシマの人たちを思っています」を自己正当化のへ理屈に利用するのはいい加減禁止した方がいい気もして来る。これは在日コリアンやいわゆる同和など、被差別者をいわばダシにした自称「良心派」の偽善すべてに敷衍できる話でもある。

はっきり言って『美味しんぼ』は批判されるべきである(そしてこの漫画のこうした問題が決して今に始まった話ではないことも検証すべきだ。もっと直接的な被害を受けた農業者や食品関係者も多い)。


単に勉強不足のリサーチ怠慢、差別的な先入観の偏見に囚われたまったくの間違いなのだから、「間違いだから問題」「とるに足らない幼稚な虚構」とはっきり言えば済むことだし、この原作者の(以前からしょっちゅうある)拙速な偏見だらけの権威の偽装による決め付けにふんぞり返る拙劣さをあげつらう余勢で「政府に都合の悪いこと」の隠蔽に利用しようとしたところで、そんなことは通用しないどころか逆効果であることくらい、安倍内閣の閣僚たちは気づくべきだ…

…ってそれは無理なんだろうな、首相以下驚くほど世間知らずで実務能力のない人たちだから…

また安倍晋三首相や政府を批判する側も、幼稚な二項対立に囚われて『美味しんぼ』を「言論の自由」などと言って擁護すべきではない。

そもそも公表された作品が批判されることは言論の自由の範疇であるのだから論理倒錯も甚だしいし、少なくとも左派リベラルを自称するのであれば、デマや偏見の決め付けが昔から多かっただけでなく、人物設定からして笑っちゃうほどの保守父権主義の男権的/女性蔑視的な権威主義まみれのこの漫画を、今さら擁護するのも馬鹿馬鹿しいではないか(ちなみにこの漫画が本当に人気漫画だった20年以上前には、多くのフェミニズム論者がこの呆れるほど時代錯誤の甘ったれたマチズモの説話構造を厳しく批判していた)。

だがこの三年経って何を今さらな「鼻血」騒動の最大の問題は、雁屋哲なるいい加減な権威主義者の幼稚な思い込みと不勉強な差別偏見に基づくデタラメな表現それ自体ではないだろう。

いかに20年、30年前の人気漫画で映画化まで(三國連太郎と佐藤浩市父子が、父と息子役で初共演したことも話題になった)されようが、今さら時代錯誤のマンネリズムで「まだやってたの?」という、日本の漫画界が新しい創造に関して恐ろしく脆弱になっている現実が「困ったもんだ」であるものの、本来なら今さらとるに足らない、無視していいはずの代物だ。

それがここまで話題になってしまっている、日本の世論構成自体がそこまで幼稚化していることこそが、問題なのだ。

もっとはっきり言えば、現実に原発事故が直面している問題や、原発事故の直接の被災者の現実が無視され、たとえば仮設住宅暮らしが4年も5年も続くことがいつのまにか決まり、将来に関する目処がほとんど立ってすらいないことはメディアで話題にすらならないのに、こんな下らない漫画のこととなると全国紙の記者や東京のテレビ局がわざわざ福島県に取材に行く。

今さら福島第一原発事故についての関心なんてほとんど失っていた人たちが、こんな時だけ「フクシマの人たちが」と言い出す、そのご都合主義で絶望的に東京中心主義の、他者も当事者も見えていない無責任っぷりこそが問題なのだ。

福島県と原発事故が全国的に話題になるのなら、もっと話題にすべき重要な、当事者の生活に直接関わることがいくらでもあるはずだ。

またこれが雁屋哲なるいい加減な権威主義者の、表現者としての最大の問題でもある。もっとも安直に俗受けすることで「福島の真実」などと称し売名だか掲載誌の部数を伸ばすことを狙うなどとは、さすがに無責任に過ぎる。

「福島は安全」とみなすか「フクシマは危険」とみなすか以前に、放射能による被害の危険性に警鐘を鳴らしたいのなら、真面目に取材さえしていればよほど重要な「福島の真実」は幾らでも掘り出せたはずだ。



今年一月に、フランスのアングーレム漫画フェスティバルの主催者側企画展示で、韓国の従軍慰安婦をテーマにした作品群が展示されたことに対して、一部の日本人が勝手に「日本ブース」を立ち上げ『慰安婦の真実』なる展示を始め、問題になったことがある。 
これがその「日本側の主張」の展示だそうで、主張の中身以前に漫画作成ソフトにいい加減に自分達に都合良く恣意的に引用した他人の発言を切り貼りしただけのやり口が、そもそも漫画を馬鹿にしている、と当然ながら批判を浴びたわけだが、曲がりなりにもプロであるはずの雁屋哲なる人物が「福島の真実」と称しているものは、この「慰安婦の真実」と称する素人細工とまるで同レベルだ。
唯一の違いは、市販アプリケーションに付随のキャラではなく、かつて自分が創造したキャラを使っただけ、あとはおよそ「漫画表現」と呼ぶに値しない杜撰なつまみ食いの切り貼りでしかない。


放射線被曝による健康影響でも、ただの誤解の差別的なステレオタイプに過ぎない「鼻血」などとは異なった、現実に起こりうる健康リスクをこそ、ちゃんと話題にすべきなのだ。

またこのもっとも安直に俗受けすることに体もなく乗ってしまう世論もまた、これでは手塚治虫以来、漫画が日本では文化としてそれなりの地位を築き芸術表現としても認められるようになって来たはずが、「なんだしょせん漫画の読み過ぎで一億総白痴化しただけではないか」と言われても文句は言えまい。

こんな幼稚化した世論の騒動は、現実にある問題や十全に想定すべき今後の問題からの逃避にしか、実はなっていない。

東電の賠償責任をどこまでに設定すべきかの議論すらなおざりにただ「鼻血が」では、「『美味しんぼ』を批判することで東電を擁護するのか」的な言いがかりも、実はまったく成立していない。

…というのも、福一事故レベルの放射性物質の環境内への放出でもっとも危惧される甲状腺がんをめぐる問題すら、かなり複雑な医学的な知見を要する議論になるせいもあるのだろうが、「鼻血が」というそもそも実は単なる間違いであることの話題性に隠されたまま、まるで論じられてすらいないではないか。

甲状腺がんは見つけにくいがんであり、成長も遅い。仮に一部の細胞ががん化しても、そのまま免疫で排除されがんにはならない場合が多い、とも言われている。いずれにせよ放射性ヨウ素が甲状腺に取り込まれたことによるがんを発見し確定するには、4年から5年待たなければならない、と言うのが医学的な定説であり、福島県ではその4年後を目標に十全な検査体制を整え早期発見の準備を進めている。

…ということすら全国規模で話題にはまるでならず「鼻血が」なのだから、そりゃ福島県民はウンザリすると思いますよ…

そしてこれから約1年後、可能な限り万全の検査体制が整えられれば、福島県内では確実に甲状腺がんの発生が見つかるだろう。

いや決して「原発事故で必ずがんが起こる」と断言しているのではないので誤解なきよう。統計的には人口に対する一定の比率でこのがんは見つかっているわけで、その比率よりも高い割合であれば「原発事故が原因」と特定出来るだろうが、ほぼ同じかより低い割合であっても、甲状腺がんの患者それ自体は多かれ少なかれ見つかるはずなのだ。

『美味しんぼ』のような騒動は、このような現実の問題を隠蔽し議論を先延ばしにする効果しか持っていない。そのことこそが現実社会における最大の問題だ。

4年後、5年後に福島県で(ほぼ確実に)見つかるであろう、2011年3月4月前後に始まったとみなされる甲状腺がんの数が、一般の平均値とほぼ同じかより少なければ、統計的・疫学的には「原発事故由来のがんの存在は認められない」という結論が出されるだろうし、それ自体は間違っていないし、福島県民にとっては一安心できる材料になるだろう。

だが一方で、実際にそのがんが見つかった患者さんやその親御さんは、それで納得出来るかと言えばそんなはずはないし、納得しないことを「非科学的」と断ずる根拠もない。統計データだけでは個別例で「原発由来ではない」と証明されたことにはならないのだから、個々の発症例はやはり原発事故による放射性ヨウ素が原因かも知れないのだ。

その時こそ、東電の健康被害に対する賠償責任はどうなるのかについて、大変な議論が巻き起こるはずだし、今から議論の下地づくりくらいはしておくべきなのだ。

賠償額を少しでも減らしたい東電は、発生率が低ければその統計データを盾に詭弁を交えて「原発事故由来であると確定は出来ない」を「原発事故由来ではない」にスリ替えるだろうし、現状の自民党政権が(安倍であっても次の内閣でも)継続するのが確実なので、政府もその東電と同じ主張を繰り返すだろう。

それでいいのだろうか?

少なくともそこで甲状腺がんが見つかった患者さんやその親御さんは納得すまいし出来ないだろう。納得しないまま泣き寝入りを強要されることも目に見えているが、それは恐ろしく非人道的な話であるし、実は決して科学的な態度でもない。

目に見えて甲状腺がんの発見率が来年の今頃あたりに増加していれば東電の賠償責任は明確になるはずだが、それでも個別のケースについて逆に東電側が争うことは決して不可能ではない。個別発症について「原発由来だとは断言できない」ことは、裏を返せば「他の原因であるとは断言出来ない」も意味するし、これをひっくり返した詭弁で裁判を争うことは充分に可能なのだ。

「なるほど、全体的に原発事故によって甲状腺がんが発生したことは確かかも知れないが、あなたの場合がそうだとは断言できない以上、当方の賠償責任は証明出来ないでしょう」という話にだって、なりかねないのだ。

これがあと1年以内には、福島県で現実になる。だからそれまでに、東電の賠償責任や政府の責任についての社会的なコンセンサスを作っておかなければならないはずだ。

たとえば僕自身の考えでは、原因の特定・確定が出来ない以上、4年後5年後に福島県など放射線値が2011年3月4月の段階で高かった地域(つまり半減期8日の放射性ヨウ素がその線源とみなされる場所)での甲状腺がんの発生は、一律東電が健康被害の賠償責任を負うべきだとするのが、人道的・倫理的にもっとも正しいと思う。

この僕の考えが正しいかどうかは議論を要するとしても、こうしたことをきちんとルール化しておかなければ、いざ甲状腺がんが(どれだけの数にせよ)見つかり始める時に、混乱は避けられず、ただでさえがんが見つかってショックを受けた人たちを、さらに苦しめることにしかならないではないか。

「鼻血が」などと(そもそも関係性の薄いことで)騒いでいる場合ではないと心底思う。

なお「実際に鼻血が出たと言っている人がいるじゃないか」という何を今さらな話については、病気についてプライバシーは尊重されるべきにせよ、まず医学者がしかるべき発生データをまとめて、鼻血を訴えている人が主にどのような社会的な立場にある人なのかをきちんと示して欲しい。 
それだけで充分に社会学の興味深いデータになる。同調圧力がこと日本人の社会においてどのように個々人に作用するのかの研究対象としては、もって来いの話ではないか。 
言うまでもなく、実際に鼻血が出た人だっているだろう。 
なお個人的にはなぜ「歯茎からの出血」を訴える人が皆無なのかが謎ではある。歯槽膿漏の潜在罹患率は日本ではかなりの数になるのだし出血は多いはず…と言ってよく考えてみれば「被曝=鼻血」という誤ったステレオタイプを信じ込むわりには、鼻だけでなく歯茎からの出血があったことを、雁屋哲氏であるとか知りもしないのだ。
別に原発事故の有無に関わらず、鼻血なんて日常茶飯事で出ることであり、こと子どもの場合は心因性だとほぼ分かっていても、わざわざ原因の特定なんてしないのが当たり前だ(たとえば興奮状態で鼻血が出るなんて、こと子どもではよくある)。 
ただそれを「放射線が原因」とみなす理由なんてなにもないし(原爆症の症状が「鼻血」という思い込み自体が間違いなのだし)、実際に増えてもいないのならそれで話は終わる(で、ごく一部・特定の立場の、それもほとんどが匿名の人たちを除けば、「増えた」という信頼できる証言すらまずない)。 
いやさらに突っ込んだ研究をしたら、もっと興味深い結果だって出る可能性がある。ただしそれは放射線医学等とはほとんどなんの関係もない、心理学と精神医学の研究対象としては、である。 
もっとも、かなり教科書的な結論にはなる気はする。つまり「自己暗示」の効果のテストケースの検証に適した話、いわゆるプラセボ(偽薬)効果のバリエーションとして研究する価値はあるかも知れない、ということだ。

9/17/2013

あなたの身近な「人格障害」者


「人格障害」という言葉に、「人格を否定された!」と脊髄反射で大騒ぎになる人も多いかも知れないが、これは精神医学における疾患の分類で…というか本当に人格障害と総称されるものが精神疾患といえるかどうかも怪しいわけだが、いずれにせよ「最悪の人格」とか「性格が悪い」という意味ではないので念のため。

それこそ「人格を否定された」と脊髄反射しないで下さい。それって自己愛性か、依存性などの人格障害の可能性があるから。 
無論、それだけでは、判断は出来ませんけどね。

さらに念のために言っておくが、世に名だたる極悪人が「人格障害」である保証もない。カテゴリーによっては「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」と見える人もいる−−というか実は依存性人格障害の場合、一見「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」が特徴のうちだったりする。

…というか、たとえば依存性人格障害の特徴は、かなりの部分「癒し系」に合致する。反社会性人格障碍者は、一見快活で魅力的で、決断力があってリーダーシップがあるように見える。

いやだからって「癒し系」の人がみんな依存性人格障害だというわけじゃないし、リーダー向きの性格の人がみんな反社会性人格障碍であるわけがないので念のため。

アドルフ・ヒトラーが反社会性人格障碍、俗にいうサイコパスだったという説は根強いし、実際に記録が残っている言動も、サイコパスを疑わせる部分が多い。だが僕は案外、これは怪しいかも知れないとも思っている。

ちなみにヒトラーが食卓での会話を速記させた記録をpdfで
http://vho.org/aaargh/fran/livres10/HTableTalk.pdf

なお間違ってサイコパス=独裁者と思われないように念のため言っておけば、サダム・フセインにその傾向があったとはまったく思えないし、北朝鮮の金正恩がそうである可能性はまったくないだろうし、また単純に「悪人」ということでは決してなく、たとえば戦後日本の支配体制を決定づけた昭和の妖怪、極悪人の岸信介が反社会性人格障碍であった可能性も、まずないと思う。

ただしお孫さんの安倍晋三が、なんらかの人格障碍である可能性は、もの凄くある。

いやそうでなくて、「お腹が痛い」で呆気なく総理を辞めたこと、最近よくやってる、妙に自信ありげに人差し指を振り上げながら支離滅裂だったり自己撞着があからさまなことを自信満々に言っていたり、噓だと分かり切ってること、たとえば福島第一原発事故が完全に「アンダー・コントロール」なんて、あんな平気な顔して言えませんよ。
ただし安倍晋三さんが人格障碍である可能性が高いからといって、反社会性はまずないように思われる。反社会性人格障碍だったら、あそこまで「言わされてる」感が丸出しにはならないはずだから。

以前『平気でうそをつく人たち』という本がちょっと話題に、ベストセラーになったことがある。実は書評や読んだ人の話だけでだいたい内容は分かったものの、読んでません(汗)。

いわゆるサイコパス、反社会性人格障碍の話らしく、「だったらだいたい知ってる話だし、まあいいかな」というのと、売れる題名なのは分かっているのだが、それだけに気に入らない、と思ってしまったのだ。

いやアメリカの本の翻訳なんだし、日本の出版社のつけた恣意的な題名で判断しちゃいけないんですけどね(こういうやたら理屈っぽい字義通り性とこだわりは、人格障害ではなく発達障害の可能性あり)。

それでもこの本の日本語題名だと、そこまでセンセーショナルに悪魔化していいものか、とも思うのだ。人格障碍やその予備軍は、あなたや私の身近に案外たくさんいる、まさに一見普通に見える、実は身近な存在であり、今の日本の多くの社会的な問題の背景にある可能性も高い。

それに「平気でうそをつく」のが反社会性人格障碍の際立った特徴なのはその通りなのだが、反社会性だけの特徴でもない。

たとえば依存性人格障碍でも平気で嘘をつくし、それがこの病気(と言っていいのかも怪しいのではあるが)の特徴的な症状の結果である場合がほとんどだ。

しかも「平気でうそをつく」のがたとえば依存性でも、演技性でも、自己愛性でも、境界性(というのはその実、医者がうまく分類出来ないから適当に放り込むカテゴリーなわけだが)でも、それぞれの分類の人格障碍で大なり小なり見られる際立った特徴であるだけに、誤解を招きかねない。

それに反社会性人格障碍の話が、日本でベストセラーになるのも気に入らない。

どう考えても日本ではあまり数が多くないはずだ。この本を読んで心当たりがある、と思った人も多いと思うが、そのほとんどがたぶん反社会性人格障碍ではない。恐らくはかなりの部分が、日本に多いと推論される依存性人格障害や、最近増えてる可能性が無視出来ない自己愛性人格障碍だ。

反社会性人格障碍が日本にいないわけではなかろうが、その事例でも自己愛性にかなり偏っている場合が、たぶん多いだろう。

依存性人格障害や自己愛性人格障碍の方が日本には恐らく、その予備軍も含めれば相当に多いのだし、本当はみなさん、こっちの話をちゃんと読んで学んだ方がいいと思うのだが、その臨床と研究を続けている矢幡洋さんの、依存性と日本社会の特徴を結びつけつつ論じた、かなり分かり易い入門書だとかは、ぜんぜん話題にもならず、あまり売れていないようだ。

ちょっとご紹介しておこう。
いやまあ、他人のことなら「人格障碍だ」と言えばスッキリする、でも自分たちのことは考えたくない、というのも理解は出来るんですが、こうもミもフタもなく精神医学や心理学でいう「否認」「自己逃避」の実例になりかねない話だと、それはそれで頭を抱えるわけで。

先述の通り、依存性人格障害の特徴はかなりの部分「癒し系」だ。

癒し系でやさしい、思いやりや気配りのある人だと思っていた相手が、なにかもの凄く大変なときに「あれ?」と思わざるを得ないくらいに豹変した経験はないだろうか?

  • 突然薄情になる。
  • 親友や仲間だとか思っていたり、それこそ恋人だった相手でさえ、突然人間関係から身を引いてしまう。
  • 平気で噓をつき始め、責任のなすりつけに終始する。
  • いかにも頭が真っ白と言わんばかりに表情が消え、黙り込む。
  • なにが言いたいのか分からないことを呪文のように繰り返す。

こんな感じで、こっちがなにがなんだか分からず「え? なんでこうなるの?」と愕然とする、という経験をお持ちではないだろうか?

あるいはその本人がなにか重い責任を背負い込んだとき、

  • なぜかなんの深刻さも自覚がなく、なぜかケロっとしている
  • なんの躊躇もなく、呆気なく責任放棄
  • 話が噛み合ない
そこで「どういうことだ?」と問われると…
  • いろいろいいわけはするのだが、そのいいわけの内容にかえって腹が立つ
  • 記憶が消えている
  • 一貫性のない作り話や言いがかり
  • 逆に右も左も分からないパニック状態で逆ギレ
  • 無表情で黙り込む

「え? なんでこうなるの?」とこっちはキツネにつままれた気分にさえなる。

この突然の豹変と反応は、なにがなんだかさっぱり分からない。

平たく言ってしまえば、こういうのがたいがいの場合、依存性人格障害だ(ただしあなた自身が人格障碍を抱えていて、責任の転嫁・なすりつけを無自覚にやっていない場合に限る)。

元々は浄土真宗の教えなのだと思うが、私たちは生きているだけではなく、(あらゆる衆生に)生かされてるという考え方がある。この話をある女の子にしたら、「そうなんです。私は生かされているんだからこのままでいいんです!生かしてくれる人に感謝しています!」と言い張られたことがある。

まさに「え?なんでこうなるの?」である。

一応はミュージシャンや演劇志望、アーティストを目指してるはずの彼女にとっては、自己表現をすれば数は少ないとはいえ観客が喜んでくれるのだから、自分は生かされている、生かしてもらえるだけの正当性があるのだ、と思っているのであろう。

どうも依存性人格障害の典型に思えるパターンなので、確認のため混ぜっ返す指摘をしてみた。

「でもそれは、あなたもまた他人を生かしている、という意味でもあるよね。生かされていることに感謝するということは、自分もまたその人たちを生かす、あるいはその人たちに自分が生かしてもらっていることを、自分が他の人を生かすことにつなげなきゃ、いけないよね」

ちなみにこれが、浄土真宗で「皆さんは生かされているのです」と法話でお説教する際の、キモの部分の定番である。なんだかんだ言って天才・親鸞の拓いた日本仏教の最大宗派、よく出来てます。

とたんに思考停止で「だからそれはぁ」と言った後が続かない、そのままパニック状態だ。後でヒステリックな罵倒に満ちた絶縁メールまで飛んで来た。

この女の子の場合でも、普段は依存性人格障害に多く見られる「癒し系」のパターンで一見「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」し、こういう状態に追い込まれることさえなければ、熱心にミュージシャン志望や演劇志望をやっているように見える。

だがなにかの間違いでもない限り、スターになることはあり得まい。

もっとも、僕はよく知らないのだが、AKB48というのは、まさにその「なにかの間違い」で大成功している例にしか見えなさそうに思える。
矢幡洋先生によれば、「たれぱんだ」などのゆるキャラの流行もそうで、日本全体が幼稚なタイプの依存性の傾向を強めている可能性があるという、その好例なのかも知れない。

なお一時期、サイコパスをアスペルガー症候群などの発達障碍の性格的な特徴と誤解して、「人の気持ちが分からない」「人を人としてみていない」故に犯罪予備軍とみなす風潮が蔓延したが、これは完全な間違いであり、露骨な差別偏見だ。

発達障碍と犯罪的・反社会的な行動、あるいは「やさしい」かどうか、「思いやり」の有無、あるいは倫理観の歪みに、直接の関係性が、そもそもまったくない。

だいたいアスペルガー症候群などが「人の気持ちが分からない」はまったくの間違いだ。「空気を読む」、つまり直感的かつ無自覚にその場の雰囲気から気分を察することには確かに困難が伴うが、意識している感覚ではむしろより敏感で、観察力と想像力でむしろ人の気持ちを鋭く見抜く人も多い。

音楽家、画家、映画監督、それに俳優にも、発達障碍の可能性が指摘される人、カミングアウトしている人も多いではないか。「人の気持ちが分からない」どころか、こうなるとまったくの真逆だ。

先天的な脳の認知機能の問題であるアスペルガーなどの発達障碍(先天性なんだから「発達」ではなく、むしろ自閉症スペクトラム障碍、と言う分類の方が正しいと思う。いやまあ「自閉症」と言う用語も誤解は招くのだが)には、犯罪行動はほとんど関係しない。

せいぜいが「巻き込まれるリスクが高い」「追い込まれる場合がある」くらいしか言えない。

先天的な犯罪者予備軍がいると誤解した方が「自分は正常」と思えて楽なのだろうが、生まれつき「おかしな」人だから危険という理解は、たいがい間違っている(分かり易く差別だし)。

自閉症や、アスペルガーなどの自閉症スペクトラム障碍は「しつけ」の問題ではまったくない、とまで言ってしまうのと、それはちょっと厳密には間違いになるのだが、そういう障碍があることそれ自体については、親のしつけはまったく関係がないのはその通りだ。ただその障碍を持った子どもがどう幸せになれるかは、親の扱い次第の部分が大きい、というだけである。

一方で人格障碍、いわゆるサイコパスは後天的・環境要因である。

つまりはっきり言えば、「親が悪い」「学校が悪い」でかなりの部分、説明はつく。生育環境における歪んだ体験の積み重ねのせいで世界観の認識の歪みから行動原理に倒錯が現れ、倫理観が乏しいか欠如している。

だから「平気でうそをつく」だけでなく、倫理観が乏しいか欠如している以上は、犯罪との直接的な因果関係は無視できない。

…というか、はっきり言って犯罪予備軍である。

ここで「倫理観」とか言い出すと、「ちょっと待て、宗教や道徳の授業じゃないんだから。科学なんでしょ」と怒られそうだが、ここで言っている「倫理観」は「悪いことだからやめましょう」「法律で決まってるから悪いことです」的な話ではないので念のため。 
人間が社会的な生物である以上、他者との関係を通して社会を維持する必要が個々人に課せられている。 
平たく言ってしまえば自分の行動が他者にどう影響するのかのリスクの認識がなければ、対人関係を維持し社会的な立場を確保することは難しい。 
そうした関係性におけるリスクの高い、損失の大きい行為や考え方を、宗教や社会道徳では「悪」とみなすことで社会秩序を維持していると科学的にはみなせるわけで、この場合の「倫理観が乏しいか欠如」とは善悪の選択のことではない。「悪」とみなされることを承知でその「悪」をなすことを指しているのではない。 
世紀の極悪人が「倫理観が乏しいか欠如」して反社会性人格障碍とみなされるわけではない、とはそういうことだ。自覚的に、自らの判断でやっていることを「人格障碍」と呼称する理由はない。

反社会性人格障碍の特徴のひとつが、社会的な倫理観に基づく良心の呵責がない、だからたとえば「平気で噓をつく」ことにもなるのだが、だからって希代の詐欺師がみんな反社会性人格障碍だとは言えない。

むしろ成功する詐欺の常習犯では、サイコパスの比率は、少ないかも知れない。

なぜなら「平気でうそをつく人」であれば、嘘をつくことそれ自体のハードルは低く、簡単なのだろうが、バレないように噓を突き通すのはもの凄く難しい、自分の噓がバレることを計算に入れて先回りして行動するぐらいでなくては、なかなか無理な相談だからだ。同じ理由で、岸信介が反社会性人格障碍だったとは思えない。冷酷な極悪人であったのは確かだが。

良心の呵責がなければ人殺しだって簡単だろう。

だが良心の呵責があっても、それでもそれを乗り越えて人を殺す場合だってある。自ら悪を選択する意志があっての犯罪は、精神医療の範疇ではないし、障碍とみなすべきものではない(もっとも人格障碍が精神医療の対象である「病気」かどうかは、議論の余地があり過ぎるのだが)。

また反社会性人格障碍とは、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告のような人のことでもない。

念のためやった精神鑑定でも、まったくその傾向がないことは結果が出ている。加藤智大君は人殺しが悪いことだとちゃんと認識し、その良心の呵責もありながら、それでも人を殺すことの欲望というか彼にとっての必然や怒りが、それを凌駕してしまっていることは、彼が犯行に至るまでシステマティックに追いつめて行った論理性を見ればまず疑いがない。 
彼は「平気でうそをつく人」ではなかった。むしろうそをつけない、真面目過ぎたのかも知れない。 
オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚が反社会性人格障碍という可能性はあるだろうが、それだけで片付けてレッテル貼りできるものでもないとも思う。

反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍の人間のなかには、自分が悪とみなされることをむしろ望んでいる面すら観察出来る。

「ワルぶっている」人間がすべてサイコパスだと言う意味では決してないが、自己愛性、ないし反社会性人格障碍の人間は「ワルぶって」いることがむしろかっこいい(そう受け取られる素地も、こと欲求不満とコンプレックスの溜まった社会では大いにあり得る)ことにだけ執着し、「ワル」と見られることのリスクを実はまったく認識していない(普通ならどんなに「ワルぶって」見せようとしても、直感的な躊躇がどこかであり、それを乗り越えてワルを気取るものだ)傾向がある。

「平気でうそをつく」のも、それは噓をつくことが無意識・無自覚のレベルで本人には「平気」だから、直感的に噓がバレた場合のリスクも考える、ということをやらないぶん簡単に出来ることなのだ。

確信犯的な嘘つきにとって、噓をつくことは「平気」ではない。噓がバレたときのリスクを計算の上、バレないように噓をつく努力などはちゃんとやらなければ安心出来ないのだが、それは元々、人間は簡単に噓をつけない、そのリスクを考えてしまう生きものだからでもある。

希代の詐欺師や悪徳政治家は、自分達の噓が暴露されればどうなるかのリスクを認識していなければ、そこまで大それたことをやる前にたいがいは潰れてしまう。

ヒトラーが本当にサイコパスだったかどうかいささか疑問があるのもここで、彼を支持したドイツ国民がそのサイコパスに騙されることを無自覚に受け入れ続けていたか望み続けていたのでもない限り、一過性ならともかく、12年に渡って政権を維持することは不可能に思えるからだ。 
また岸信介がサイコパスだったとみなすのはかなり難しいのも同じだ。

逆に「平気でうそをつく人たち」である人格障碍者は、その噓がバレたときのリスク認識が直感的なレベルで抜け落ちている。意識的にそれを補完することは気づけばやるのだろうが、たいがいの場合は噓に噓を重ねてますますおかしくなって、まさに「え? なんでこうなるの?」とこちらがキョトンとしてしまう状態になる…のが本人たちの自覚はまったくないらしい。

まあ他人の心のなかが、そこまで把握できるわけでもなく、実は自覚はしていても、それでも続けているのかも知れないが…。 
依存性人格障害の場合、それがこちらに対して発しているSOS、もうそんなに追いつめないで、ボク壊れちゃう、ということなのかも知れないが… 
…そんな勝手なこと言われても困るんだけど。他人には分からんよ、そんなの。

人格障碍者が「平気でうそをつく」、あるいは肝心なときに「妙に無責任」で「深刻さが欠けているようにしか見えない」、他人を巻き込むことを厭わず思考停止のパニック状態を見せつけるのは、それが他人様や相手を怒らせたり、不快にするリスクを、そもそも実は認識出来ないか、その認識が著しく乏しいから、と説明出来るだろう。

倫理観が低い、ないし欠如しているというのは、道徳の教科書レベルの話ではない。

社会的生物としての他者との関係におけるリスク、赤の他人が自分をどう思うかについての直感的なリスク感覚が、そもそも抜け落ちている。その言動が「間違っている」、ないし相手を怒らせたり不快にさせたりするリスクを、認識出来ていないのだ。

世界観のなかに「他人様」がいない、とも言える。他人様がいない世界観だから、目の前にいるのが他人様であって、その人の感情や意志は独立したものだと認識していないなら、その他人様に自分をぶつける際に必要なはずの倫理観も必要ないのだ。

自分とはあくまで別個の存在としての他者ではなく、他者をすべて自己の期待や欲望の延長上か、自分の感情の投影先としてしか、実はみなしていない。

たとえば、他人様を自分が怒らせた認識がなく、怒った相手が「自分を攻撃している」としか認識出来ない。 
あるいは自分が追いつめられて感情的になっているのは、それが相手が自分の感情を刺激しているからであり、それは相手が攻撃しているのか、感情的になっているのだ、という客観性に欠けて誤った認識(自己逃避であり自己投影)を即座に、かつ無自覚に採用し、それに固執してしまう。

今日、このテの「え?なんでこうなるの?」的な行動原理を「人格障碍」、Personality Disorder と分類する概念が生まれ、そう分類される事象が研究されるようになったのは、まずアメリカの精神医学で盛んになったことだが、アメリカでサイコパス、反社会性人格障碍をめぐる議論や言説や研究、さらには映画や小説までどんどん産まれるのは、実際にそれに該当する人が確かに多いと思われる(事件すら多い)し、文化や社会の価値観からしてそれは説明がつく。

なんせアメリカ合衆国って、反社会性人格障碍くらいあった方が、出世し易い国なんだもん。

あるいは今の米軍がやっている訓練方法には殺人に伴う良心の呵責を押さえる心理誘導がシステマティックに組み込まれているので、米軍、とくに海兵隊のブートキャンプだとかは、サイコパスの育成装置になっている、とすら言えてしまう。

一方で日本は社会の価値観からして依存性人格障碍、それも自虐性に偏った依存性が従来は多かったと推測されるし(旧日本陸軍なんて、かなりの部分が自虐性の依存性人格障碍を奨励する組織だった)、今では小児性や自己愛性に偏った、幼稚なタイプなどと分類される人格障碍が増えている可能性は、もの凄くある。日本の場合はある意味、学校教育がそれを奨励しているんだから。

逆にアメリカの精神医学では、依存性人格障碍はあまり注目されない。

ヨーロッパでもフランスなんかでは「理解出来ない」と言われそうだ。そりゃそうだ、僕もあの国の小学校で育っているが、ああいう教育やああいう子育てでは、依存性になんぞに陥りようがないように思える−−と言って、実際にいないわけではない。だたあっけなく無視されがちだから、社会的な影響力をほとんど持ち得ない。依存性を発揮して取り入ろうとしても、それを受け入れる素地が社会の側にない。

日本はかなり逆で、大きな事件などがなにもなければ、依存性があった方が生き易い。

アメリカやフランスのような社会で依存性人格障碍が大きな被害をもたらすとすれば、社会的な犯罪よりは、DVなど家庭内、パーソナルでプライヴェートな空間においてだろう。

こうしたアメリカの精神医学界が起源の人格障碍をめぐる議論や、人格障碍を事実上の精神疾患として扱う、精神科医が認知行動療法などを用いて治療にあたる、という考え方に、僕は以前はそれなりに納得していたが、今は「本当にそれでいいのか」とも思う。

いやもう、とくに日本では「人格障碍なんて精神科医が儲けるための詐欺だ」という極論すら最近は出ているし、これもそれなりに傾聴には値する話だ。

参考まで、精神科医・内海聡氏の見解 

既存の(アメリカ起源の)モデルでは、人格障碍は誰もが大なり小なり持っている性格上の特質が極端化した状態だと言われている。

今の精神医学の定説では反社会性と依存性は同一線上の逆方向のベクトル、社会に対する順応・協調性が強過ぎると依存性、逆に独立心が強過ぎると反社会性、と分類している。だが、この説はえらく勘違いした単純化だと思うし、こんな杜撰なモデルでは、いくらカウンセリングをやっても破綻しそうだ。

というのも、反社会性人格障碍と自己愛性人格障碍には一見共通するところが多く、反社会性と依存性人格障碍では真反対に分類されているが、よく見ているとそうではなく、むしろ行動パターンの表層では真逆に見えても、分析的に見れば実は共通点が多く、そして親和性が高く同じ集団を形成する場合も少なくないからだ。


  • 妙に子どもっぽい。ただし若々しいとか純粋という意味ではない。
  • 人間関係の作り方や維持の仕方がものすごくワンパターン。でもなぜかそれに本人が飽きることがなく、人間関係の発展や学習能力も期待できない。
  • 「自分の責任」という認識がないか、著しく低い。妙に無責任。あらゆる事実関係や価値観を無視して、結局はすべて「他人のせい」。
  • 対人・対社会の関係におけるリスク判断が、対人関係に依存しているはずの依存性人格障害ですら、実は抜け落ちている。「言われたからその通りにやる」「それがルールだから」までしか考えておらず、なぜそのルールがあるのかを体感的に理解出来ていない。だから「ルールを守ってるじゃないか」と逆ギレする。
  • 会話の受け答えがかなり行き当たりばったりで、よく聞いていると言ってることの筋が通らない。
  • 正誤や価値の判断における一般性、普遍性の認識や論理性が欠如している。だから反社会性人格障碍の場合、一見多くの知識を駆使しているように見えるが、その知の体系に一貫性がなく、行き当たりばったりにその場その場で偉そうに自説らしきものをぶっているだけで、自己矛盾が激しく、実は「自説」として成立していない。依存性の場合、人間関係における上位者に従い依存しているだけで、ある一貫性のある価値観や普遍性のある倫理判断に従っているのではないため、やはり自己矛盾した受け売りが多い。
  • 事実関係の把握が、一方的に自己正当化の方向に歪んでいる。
  • とても無邪気にうそをつく。
  • いいわけがいいわけになってない、かえって相手を怒らせることを言う。
  • 自己逃避と自己投影が激しく、自分のモノ差しや自分の都合だけで相手を一方的に決めつける。結果、ただでさえ正誤や価値の判断の一般性・普遍性がないことによるダブスタや、いわゆるブーメラン状態が、無自覚な思い込みでますます増える。
  • 知識や認識が自分のなかで体系化されていないので、実は思いっきり権威主義。ポーズとして反権威主義、反体制的に振る舞っても、一皮むけばもの凄く薄っぺらに肩書きや社会の決まりごとに左右されている。反社会性人格障碍であれば社会に反抗しているようでありながら、社会的な地位に拘泥・執着する。依存性人格障害の場合も「みんながそう言っている」と、自分に味方してくれている周囲の支持だけで自己を正当化する。
  • 自分のやったことの記憶が消えている。逆に他人にやられたことは極端に根に持つ。
  • 一見激しく感情を発露しているように見えても、実は感情が希薄である。一定の複雑さを持った人間らしい感情が欠如している。「喜怒哀楽」という単純化した分類だけでも、反社会性人格障碍の場合は「喜怒」しかなく、依存性人格障害の場合は「哀楽」しかない。実は「自分が認められている」ことに対するポジティブな感情と「自分が否定されている」ことに対する反発、この二つの感情だけでたいがい説明がついてしまう。

いやこうなると、人格障碍の様々な種類を今のやり方で分類することの限界まで見えて来た気がする。反社会性と依存性という区分け自体が怪しく思えて来たぞ。どうも現在提案されているモデルは、まだまだ改善や再検証が必要ではないだろうか?

「人格障碍」と言葉の響きは、なんだかおどろおどろしいことを想像されそうだし、今まで書いて来たこともえらく不気味に思われるかも知れないが、これはいわゆる精神疾患(かどうかも厳密には怪しい←しつこい!)のなかでは理論上、もっとも深刻でない部類になる。

だいたい、だから精神疾患とみなすべきどうか議論が分かれるのだ。

対人関係におけるリスクを勘案して社会的生物としての自分の地位と、所属する社会の秩序を維持する必要までは、全人類に共通することだが、それがどう実践されるかは「噓はいけません」「人殺しはいけません」程度のもっともベーシックな倫理観以外では、社会や文化によって、その倫理観がどのように体系化されているのかも含め、かなり千差万別である。

たとえば江戸時代までの日本は、現代とかなり異なった倫理観を持っていたし、それは表面的には極度に西洋化された現代でも、無自覚なレベルでは相当に残存している。詳しくはこちら→「私的・江戸時代論」

つまり多くの人格障碍者には欠如しているか認識が著しく低いと思われる倫理観の形成は、それぞれの人間が育ち所属した社会やコミュニティの文化に左右されている以上、先天的に人間に組み込まれた「本能」とは言い難い。

それに人間どうしのつき合い方の文化ともなれば、倫理規範のベースとなる宗教によって一定の統一性を持つわけでもなく、もっと多様だ。

強いて言えばそういう個々の文化や社会の差異にも関わらず、そこを超越して語りかける力を持つ芸術表現のなかにだけ、その「人間の本能としての良心」が息づいているのかも知れない
というか、無自覚にでもその確信がなければ、たぶん誰も映画だの演劇だと小説だの、やってません。

だから人格障碍は明らかに後天的な環境要因と考えるべきであり、ぶっちゃけしつけや子育ての失敗に起因する場合が多い。意識や認識の構造の問題ではあるが、脳の器質的な機能の欠陥に直接関係はしない、要は育っている環境の結果認識や意識、世界観が歪んでしまった、という程度のことであり、精神医学による対処が本当に適しているとも言えないからだ。

むしろ禅寺で修行するとか、熱心に農業でもやるとか、職人に弟子入りするとか、なにかの体験で気づいて自分を克服するとか、小説でも映画でも演劇でも、あるいは音楽でも絵でも、なんらかの形で世界観をスッキリさせる芸術体験の方が有益だったりする。

いや恋愛や最高のセックスだって、その方が有効な場合もありそうだ。

だから「こんなもん精神科で扱うのがおかしい、儲け主義の詐欺だ」と言われても、それはそれで納得せざるを得ない。

ただし、上記のような精神科以外の方法はいずれも万能ではないし、逆効果の場合だってある。それを言ったら精神科医のカウンセリングだってまったく同じことではあるが。

題名は忘れてしまったが、ある韓国映画で、子どもを殺された母親がその殺人犯に刑務所で面会するシーンがあった。犯人は自分の罪を悔いているという。だが自分は罪を悔いて神に許されたのだから、母親にはもう彼を責めることは出来ない、と続けるのだ。 
まさに「え?なんでこうなるの?」と観客はキツネにつままれた気分になる話だ。ひたすらキョトンとしてしまうし、あまりに意外なので反論が出来ないちゃぶ台返し、その母は怒ることも出来ず、ただ哀しみにますます突き落とされる。 
この通り、サイコパスにはキリスト教もまったく役に立たないこともある。

また原因が深刻な器質的な機能の欠陥ではないし精神疾患と分類して深刻に考えるべきでないと言って、治療が簡単だとか(「治療」と言えるのかも怪しい←しつこい!)、回復し易いわけではない。

たとえばリストカットは境界性人格障碍がかなり重度な場合に、よく見られる行動だとされる。重度なパニック障碍に陥る場合だってあるし、出て来る症状には深刻(に見える)ものだって少なくない。

それに回復は、より重度であるはずの精神疾患よりもさらに難しいかも知れない。薬物は関係ない、役に立たないし。サイコパスと言われるレベルでは、治療しようがない、治らない、という見方もある。

たとえば、幼少時から虐待的な環境で育ってしまうと、人格障碍に陥るのは極めて可能性が高い。家庭内なら親、学校でも大人や社会との健全な関係を持つことが最初から禁じられてしまっているのだ。

このトラウマを克服するのが非常に難しいのは、言うまでもない。

そうした虐待的な環境がどれだけの禍根を子どもの将来に残すのか、日本ではまだまだ事態の深刻さが理解されているとは言い難い。虐待する親から子どもを引き離せればめでたしめでたし、とは絶対にならないのだ。

以前、クリントン米大統領が自分を「アダルト・チルドレン」と告白したことがあるが、これも一種の人格障碍である。なおこう告白出来る、つまりは自覚しているだけでも、人格障碍は半分は治ったようなものである場合も多い。

これも誤解されがちなのだが、「虐待的な環境」というのは子どもにとって、ただ親が暴力を振るうとか、ネグレクト=薄情な親、愛情が欠如、といった話に単純化していい問題でもない。「アダルト・チルドレン」はこと現代の日本の場合、多くの人が思っているよりも遥かに多い。

一昔前、母親と娘が仲良く同じ洋服を、とかの事象が「一卵性親子」と言われたが、あれだって共依存関係に我が子を陥れる虐待的な関係であり、依存性人格障碍の典型のひとつだ。

暴力を伴わなくとも子どもが親や周囲の大人の思い通りに行動する、そうすることが正常な親子関係だと子どもが思い込んでしまう、親を喜ばせることが子どもの最大の喜びになってしまえば、それだけで立派に虐待的な親子関係、虐待的な子どもと大人の関係であり、人格障碍の温床でもある。

学校でのいじめでも、表層の理屈だけでなく実際の感覚として、いじめられた子どもが自分の受けた体験は不当なものであると認識し、いじめた側の子どもにきちんと反省できる認識を与えるよう教師や学校がふるまわなければ、もし出来ないのなら子どもがそれを「これは大人が、先生がダメなんだ」ときちんと心の奥底にまで腑に落ちて認識出来ない限り、やはり人格障碍の温床になり得る。

だから今の日本で蔓延している、上辺だけの対症療法的ないじめ対策は、完全に誤っているのだ。

自分と他人との関わりとして「いじめ」が不当であり異常であり、そこに順応する必要がない、生存のためやむを得ず合せていると自覚できるならいいが、そういう下位に置かれた立場が自分の世界との関わり方なのだと思ってしまい、たとえばそこに服従することを潜在意識で前提としてしまえば、依存性人格障害に陥っている可能性がある。

また加害者の側でも、きちんと自分の行いを認識・反省出来なければ反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍になる可能性は無視出来ないし、加害者グループ側でもいわば下っ端、付和雷同型の加担者は、被害者より重度に依存性人格障害になる可能性が極めて高い。

親が子どもに対して親としてちゃんと振る舞えない、極度に自信のない親が子どもに反抗期をちゃんとやらせない、「好きにしなさい」的に振る舞うだけの、子どもの自由を認めると装いつつ、実はネグレクトの状態で、幼児の持っている万能感を克服させられないまま育ててしまえば、自己愛性人格障碍や反社会性人格障碍になる可能性も高い。

これらの子どもの育ち方の環境の問題を、「だから『親学』だ」的な安易で薄っぺらな抽象論と勘違いしないで欲しい。

人格障碍とはあるイデオロギーを信奉するかしないか的な問題ではなく、その前提となる世界の認識に起こる倒錯である。たとえば『親学』を信奉し実践する親のその動機がたとえば依存性人格障害的なものであれば、教科書的にそこで推奨されていることを実践しても、決してうまくいかない。

依存性人格障碍の親は、子どもに不機嫌になられる、怒ったり泣いたりされるだけで自信を失ってしまうので、ひたすらそれを避ける傾向がある。それが「親学」なら「親学」という権威に依存出来るとなると、とたんに杓子定規に、子どもの反応も見ずに押し付け始める場合も少なくないだろう。

そこでまして「言われた通りにやってるのにうまくいかないじゃない!」だけで親が思考停止する(依存性人格障害の典型的な行動原理)なら…

…っていうか『親学』とやらで言ってる子どもとのスキンシップが、愛情がどうこう、あれはすでに子どもからみれば過剰な抑圧です。 
それを気持ち悪がらずにベタベタして喜んでる子どもって、それだけでも危険に思えますよ…。 
だいたい子育てに「○○の伝統的価値観」とかの大人の政治性をうっかり持ち込まないで欲しい。その発想自体が、虐待的だ。

実際には、人格障碍を精神科医が扱うことになるのには、やむを得ない面はある。

本人が思いっきり人格障碍な状態でも、日常生活に即座にそれほど支障があるわけでは必ずしもない。

反社会性人格障碍の多くは一見バリバリ仕事ができて有能に見えたりもするし、自己愛性人格障碍は本質的な幼稚ささえ隠せれば自信に満ちあふれて見えるかも知れないし、依存性人格障害は(さっきからしつこく言ってるけど「癒し系」に見えるから)協調性と気配りがあるように見え、周囲からかわいがられたりする。

問題が顕在化するのは、どうしようもなく大変な状況になった時だけ、というのがほとんどだ。

人格障碍のある人は実は社会的な耐性が極端に低い。ストレスに弱いだけでなく、場合によっては無駄で過剰なストレスを自分で作り出してしまう。

一見、周囲の仲間とは仲がいいから社会性が高く見える多くの依存性人格障害の人も、実は自分の依存先との人間関係が、潜在的に支配−被支配関係なので相手にとって気持ちよく、だからうまく行っているように見えているだけで、社会性が極端に低い。

だから少しでもその依存関係の構築では通用しない人間関係になってしまうと、とたんに「なにがそんなに大変なんだろう?」とハタ目には思うほど大混乱、パニック状態になって頭真っ白なまま錯乱した言動に陥ったり、過剰に興奮してパニック障碍を起こしたり、リストカットに走ったり、いわゆる頭が真っ白の状態になってなにも出来ずに自分の殻に引きこもって、あたかも鬱病になったかのようにさえ見える場合もある。

つまり世間的に言えば、やはり精神科医の出番である。

極端な場合、まるで鬱病にみえる(だが実は責任回避に懸命なだけの、一種の無自覚な演技)状態であるだけならまだいいが、過剰なストレスで本当に鬱病、つまり今の定説では脳内の神経物質の分泌異常の悪循環でどんどん落ち込んで行く、これは間違いなく精神疾患になる場合だってあるだろう。

もっとも、実はこれを峻別する方法論が、現代の医学にあるわけでは必ずしもないわけだが。 
なにしろ鬱病が脳内の神経物質の分泌異常の悪循環という定説だって、実際のその脳内物質の分泌量をリアリタイムに、鬱病の人の脳内で計測することなんて出来ないのだから、「この物質がこれだけ出てるから鬱病です」という数値化された診断基準があるわけではない。 
今話題の新型うつ病だって、本当は人格障碍者がパニックで思考停止に陥っただけなのかも知れないし、だいたい、ならば「なんで鬱病の診断が出て仕事を休んでいる人がこんなに元気にSNSで自己愛的な感情をむき出しに出来ているんだろう?」的な疑問も一応説明はつく。
あと「妙に無責任で深刻さに欠ける」が、依存性人格障害にも新型うつ病とされるものにも、双方に指摘されているのも含め。 
これがいわゆる古典的な鬱病、自虐性が強く親メランコリー気質、つまり真面目で責任感が強く自分を責めてしまいがちな人がなり易いとされて来た従来の鬱病の特徴と比較するに、精神科医が首を傾げて来たことなわけであるが。

…とここまで読んで下さった皆さんの多くが、「あるある!いるいる、そう言う人!」と思っているのではないだろうか?

ことインターネットを積極的に利用して、時に政治問題とか社会問題に関する議論や運動に関わっている人は、そういう体験をもの凄く多くしているはずだ。

  • 反論ができなくなるとすぐ論点がズレる
  • 無関係な話で相手を攻撃する
  • なんの脈絡もなく、すぐ「誰某もこう言っている」という話になる
  • 客観的には普通の言葉遣いでも、乱暴だ、罵倒されたと言い出す
  • 遡るだけですぐにバレる嘘を平気でつく

すべてあまりにも日常的な風景だし、それでも誤摩化しが効かずに追いつめられると、同じような主張や運動に関わる人が加勢して来て「炎上」を企んだり、慰め合って噓を言い合うとか、もう見慣れてしまって飽き飽きしている人も多いだろう。

そうやって仲良さそうに見える者同志が、いざその相互間で大変な問題が起こると、突然決裂するのもよくある。ちょっとしたミスだったり、自分の考えが間違っていたら、すぐに謝れば済むことなのにねえ…。

反論出来なくなったら、とりあえず黙って考えればいいのに。

まさに「なんでこうなるの?」とこっちはキツネにつままれた気分にさえなる。

まさに「なにがなんだか分からない」状態だ。

「なんでこうも平気で噓が言えるんだろう?」

「自分の言動が批判されたらただ逆ギレってどういうこと?」

それを平然とやってしまえる人がその仲間内(クラスタ、って言うんですか?)のリーダー格なら、反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍の可能性は大いにあるし、自分の失言をそういうリーダー格に「守って」もらったりお仲間に慰めてもらったりしている人は、依存性人格障害の幼稚なタイプの可能性が極めて高いし、依存先であるリーダー格やお仲間の失言が批判されている時に、よせばいいのに「誰々さんを守らなきゃ」的に蛮勇を発揮してしまうのは、自虐性の依存性人格障害である可能性を無視出来ない。

あるいは自分が怒らせた相手に一生懸命に媚を売るかのような言動に走るのも、これまた依存性人格障害である可能性が相当にある。人間関係を依存先との上下・支配関係でしか構築出来ていないのだ。

昨今、インターネットの使用に依存性がある、脳に無視出来ない異常を来す、といった論も花盛りだ。これもどこまで信憑性があるのかどうか、話題性があってセンセーショナルなわけで売らんかな精神も相当に作用しているのだろうが、さりとてここまで異様な言論が蔓延すると、その可能性を無視も出来ない。

僕はまだ見つけてないのだが、インターネットが人格障碍の状態を助長する、というような論考を誰か書いていませんか?あったら教えて下さい。

ネットが人間の精神に与える影響の可能性さえクリア出来れば、なんでネット上の掲示板やツイッターの「クラスタ」が、リーダー格がほとんどの場合、反社会性人格障碍を大いに疑わせる言動になり、そこに依存性人格障碍を大いに危惧すべき人たちがたむろする、そういう集団の結束が極端に(しかし刹那的に)強いのかはよく分かる。

依存性人格障碍者が、自分が実は「自分がない」状態であることへの潜在的で無自覚なコンプレックスも作用して、反社会性人格障碍の人間を依存先に選びがちであることは、人格障碍をめぐる研究ではもう語り尽くされているような病理だからだ。

いわゆる「マインドコントロール」「洗脳」の状態と言ってもいいだろう。

ついこないだまで、僕自身がそういう事象に遭遇したら、「もう精神科に行ったら?ネットじゃ無理だし」とサジを投げて来たわけだが、これもいささか無責任な話だったか、と反省している。

むしろネット上という特殊環境であることは勘案すべきとはいえ、ここまでそんなのばっかり、それこそネットを利用して広がる運動の類いがすべてこの反社会性や自己愛性人格障碍の周囲に依存性を大いに疑わせる人たちが集まるパターンを、反原発デモでも、極右排外主義でも、あるいはその「ヘイトスピーチ」のデモに対抗するはずの集団でも、いずれも完璧になぞってしまっているのを見ると、これはもはや精神科医に任せて済む問題ではない。

洗脳されたマインドコントロール集団と言っても差し支えない状態が、こうも簡単に産まれるのを度々目撃してしまえば、こと日本の場合はほんの70年前の戦争のこともあり、警戒したくなるのは当然だろう。

潜在的な人格障碍の蔓延を、日本という社会全体の問題として考えなければならないのではないか?

しかし困ったね。「サイコパスは治らない、治せないよ」と信頼している精神科の先生には言われたのだが…じゃあどうすんの? 
なにが出来るの?

いやなんと言ったって、内閣総理大臣がどうみても「この人、人格障碍あるでしょう?そうでなければこの言動は説明出来ない」という人なのだから。


体調不良で辞任するって、それを元気な顔で記者会見しちゃったのはまだ、一回は世間知らずで子どもっぽい行動をしてしまっただけで、そこで「お腹が痛いからやめました」とさんざん揶揄されたのだし、そこで少しは考えるだろうに…ところが「おかげさまですっかり元気になりました」でいけしゃーしゃーと現役復帰。

まさに「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまうところだ。そして行動が妙に子どもっぽい。

文字通り自分の責任という感覚が、なぜかすっぽり抜け落ちている。深刻さが理解出来ていないようにしか見えず、妙に無責任。

原爆忌のスピーチで未認定原爆症問題に触れたのはいいが、「専門家に検討を急がせる」。一人あたり国民所得を10年で150万増やす、と公約しながらどうやってやるかを問われたら「70年代80年代の日本人に出来たことが、今の日本人に出来ないわけがない」。原発事故についてデータや技術上の具体的な話は一切なく「私の政府が総力をあげて」約束するんだそうだ。

ますます「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまう。そして妙に子どもっぽい。



またそんなサイコパスっぽい総理大臣が、なぜか高支持率なんだから、ヒトラーもやっぱりサイコパスで、12年間支持したドイツ国民も病んでいたのかも知れない。

いや今の日本だって、その内閣総理大臣が先頭に立ってメディアも政界も加担する、尖閣諸島問題を言い訳にした中国敵視とか、韓国に露骨に歴史修正主義をぶつけて怒らせるとか、当然の反発を受けたら内輪でしか通用しない「反日」だとか言っているのは、もはや国家規模で人格障碍なんじゃないか、という比喩まで成立してしまう。

これは右翼とか左翼とかいうイデオロギー以前の問題だ。

保守主義なら保守主義の歴史観でも、それが他国/他人に通用するだけの説得力が必要だ、という認識自体が抜け落ちているのが、今の日本に蔓延する歴史修正主義の大きな問題だ。しかもそれが当然ながら他人様相手には通用しないとなると、通用するように説得力を増す努力なり工夫をするのでもなく、とたんに「反日だ」というレッテル貼りで、実は自分たちの内輪に引きこもってしまっている。

「もう謝ったじゃないか」「こんなに経済援助したじゃないか」「公文書には強制した命令書がない」等々、これで相手が納得すると思うのだろうか?右翼愛国主義の主張にしては、一応サムライの国のはずが、あまりにみっともない。

「え?なんでこうなるの?」という感じで、会話や対話がまったく成立していない。

外相会談で韓国側に「今さら具体的に言わないでも、なんのことか十分にご承知でしょうが」と大人の余裕でイヤミを言われても、外務大臣はしどろもどろな子どもの遣い状態になり、国内の大臣は逆ギレするだけ。

まさに「え?なんでこうなるの?」である。そして妙に子どもっぽい。

国連事務総長が「正しい歴史(認識)が、良き国家関係を維持する。日本の政治指導者には深い省察と、国際的な未来を見通す展望が必要だ」と発言すると、「中国より、韓国よりだ」と子どものように駄々をこね、国連総会で説明する、とまで妙に威勢がよかったのが、国際的に誰にも相手にされないと分かると、もう自分たちで忘れたかのよう、まるでなにごともなかったかのように振る舞っている。

若々しいとか純粋と言うのではなく、妙に子どもっぽい。

そしてやってることに一貫性がなく行き当たりばったりであることに、本人たちが気づいていない。

震災や原発事故の被災者への対応でも同じだ。都合のいいときは「絆」を語り、「被災者を励ます復興支援のオリンピック」、だがそこに他人様の認識がないから、「東京は250Km離れているから安全です」となる。

まさに被災者という「他人様」の存在の認識が欠如しているとしか思えない。

「え?なんでこうなるの?」

「フクシマの人たちのため」と言いつつ、うっかり「たかが電気のために」と一度言ってしまっただけならいい、その言い方はあまりに無神経だったと気づきさえすれば。

だが誤解された誤解されたとだけ言い続け、誤解ではなく言いたいことは伝わっていても、その言い方はやはりひどいと言われていることに気づけなければ、やはり正常に他人様との関係を認識出来ているとは言い難い。

デモの演説で一回、「たかが電気のため」を言ってしまった坂本龍一さんは、確かに「たかが電気」であるのは間違いないのだが、その「たかが電気」のために原発立地を搾取して来た側がみだりに言っていいことではなかったと、すぐに気づいていましたよ。 
ところが「周囲」はそうは反応しなかった。
福一事故で避難させられた人にしてみれば、ただの「たかが電気」でなく「たかがこんな下らない人たちのための電気だった」になるのだが。

「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまうところだ。若々しいとか純粋と言うのではなく、妙に子どもっぽい、まるでただの駄々っ子だ。

反省というものがまったくない。信奉しているはずのなにかの理念や信念と、自分自身を照らし合わせる、という作業がまったくない。実は「ボク悪くないもん」しか動機がないのかも知れない。

もはや人格障碍なんて精神医学用語を使うべきではないのかも知れない。「病気なんだ。こんな悪口を言うのは差別だ!」と言い出す逃げ道を与えるだけになりそうだし。

なんせ無自覚で無意識にやってることが病的とはいえ、ただのわがままではないか。

要は「他人様」のいない世界観という、誤って歪んだ認識と意識の構造にどっぷり浸かって、平気で噓をつきながら、自分達で「噓じゃない、噓じゃない」「ボク(たち)間違ってないもん」と相互マスターベーションで自分達どうしだけで依存しあってる、ハタ目には極めて気持ち悪い集団主義に、この国は陥ってしまっているのかも知れない。

ここまで書いていても、かなりの部分の人が、自分達がまさにその状態であることに気づかず「ああ、あいつらが」と思い当たるフシがあると納得するだけで終わるのかも知れない。

あるいは自分が論理的に逃れようがない話と気づけば書いた本人を貶めることで議論を無効化することに熱中するしかない状態になるのだろう。

いやだから、それ人格障害の疑いがありますよ。