最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/24/2016

水俣病発生から60年、未だ抜け落ちている政治の責任


NHKのクローズアップ現代プラスが、水俣病についての新事実、加害側企業チッソの内部文書をスクープした。チッソの久我正一副社長(2008年没)の、1977年〜78年の政府との折衝に関する生々しいメモだ。この時期に水俣病をめぐって起こった二つのことに(誰もが疑っていたように)やはり因果関係があったことが、このメモの発見で立証された。

●ひとつは政府によるチッソ救済のための公的資金投入の決定。

もうひとつが1978年の環境庁通達により、水俣病の認定基準が複数の症状が見られなければ絶対に認められなくなったこと(実際には、72〜3年頃にはすでに現場ではこういう運用が支配的になっていた)。

この二つの決定は直接の因果関係にあり、政治が深く関わっていたことが久我メモで立証された。

政府はこれまで、認定基準の厳格化については「医学的知見が深まったことで」と説明して来た。もちろん誰が考えたって、これがチッソが補償金として支出する金額を抑えようとする目的なのではないかとまず思うだろう。さらに厳密に言えば、77年から78年の時期以降、チッソを通して患者に補償金として支払われる国の出資を減らすため(国が既に国費によるチッソ救済を決めていたので)と疑われて当然なのだが、それが今回やっと政府が言い逃れできないように立証されただけでなく、政府の資金によるチッソ救済が決まった舞台裏も明らかになった。

水俣病といえば言うまでもなく、土本典明による日本ドキュメンタリー映画史の金字塔、『水俣 患者さんとその世界』から始まる17本の映画でも、深く切り込んで記録されてきた事件だ。しかし1977から78年の水俣は、その土本典明の水俣シリーズも撮影されていない時期だ。

土本典明「水俣 患者さんとその世界」1971年

ちなみにメモの主、久我副社長は土本の『水俣一揆』で島田社長の横にいつもいる「悪番頭」キャラの人だ。『患者さんとその世界』のクライマックスに登場する江頭社長も島田氏もメインバンクの第一勧銀からの出向で、チッソ内部からの叩き上げで実務を(その後ろ暗い部分まで)掌握し続けていたのが久我氏だったと考えても、間違いはないだろう。

「水俣一揆」中央の背中が島田社長、左が久我副社長
机に座るのは患者の川本輝夫氏

その久我氏は、患者への補償金負担がチッソの経営を圧迫し、倒産も視野に入る危機的な状況の中、政府に働きかけていた。

そこで久我氏に紹介されて国費の注入によるチッソ救済の枠組みを作るように動いたのは、意外な人物だった。当時は財務官僚から参議院議員になったばかりの、藤井裕久・元財務大臣である。

後に藤井さんは1993年にその自民党を離党、小沢一郎氏らとともに新生党を立ち上げ、細川護煕内閣で財務大臣を務めた。細川政権が倒れた後も自由党と民主党の幹事長、民主党の最高顧問を歴任、テレビ討論などで財務省の内輪の論理にも批判的に言及するなど、経済政策を中心に実直な正論を展開し、日本の政治家としては数少ない良心的な実直さを見せて来た人物で、2009年の政権交代への道筋を固めた1人でもある(鳩山由紀夫内閣で再び財務大臣になるが、健康を損ね辞任)。

今は「生活の党」の小沢氏のモットーとなっている「国民の生活が第一」というのは、藤井さんの信念でもあった。

その藤井裕久さんが、久我副社長のメモで名指しされていた。

今回インタビューにも誠実に答えてすべてを「その通りです。間違いありません」と認めたのは、いかにも藤井さんらしい態度ではあった。とはいえ、そんな藤井さんが政治家に転身した直後に、こんな後ろ暗い、いわば「汚い仕事」に関わっていたのは、驚きでもある。

だが藤井さんがこの「汚い仕事」に力を尽くした理由である、患者に補償金が支払われ続けるためには、チッソを潰すわけにはいかないという現実もまたもちろん、ちょっと考えれば誰でも気づくことだ。その補償金なしには、多くが漁民であった患者たちは身体の自由も、肝心の漁場である水俣の豊かな海もチッソの汚染水に奪われ、極貧に追い込まれかねない。

水俣病事件について忘れられがちな視点は、公害の被害がただ加害企業を断罪する「正義」だけでは終わらない厳しい現実だ。水俣市自体が日本の高度成長のなかでその経済をチッソに依存せざるを得ない企業城下町であり、そのチッソが破産すれば企業責任は有限責任なので、補償金も支払われなくなる。

「汚い仕事」とはいえそれだけで藤井さんに幻滅するわけではない。むしろ「生活が第一」であれば、働くことが出来なくなった患者たちへの補償にこそ、万全が尽くされなければならない。藤井さんの、つまりは小沢一郎氏たちの「国民の生活こそ第一」の原点は、もしかしたら実は水俣にあったのかも知れない。

補償金の負担でチッソが倒産すれば、水俣は様々な意味でドン底に追い込まれ、死の町にすらなっていたかも知れない。当然ながら、藤井氏のところには水俣からのチッソを守って欲しいという嘆願もあった。

とはいえ、チッソを救済するための公的資金投入を、「あんなひどい会社はつぶれて当然だ」と思っていた世論相手に正当化する工作がいかに大掛かりだったのか、政府が直接に動いてまで水俣市民にチッソ擁護の世論を作り出そうとしていたというのは、さすがに驚く。藤井さんは「騒ぎを起こすいう言い方は好きではないが、その通りです」と認める。

だがその世論形成の結果、水俣で補償を受け取った患者への風当たりや差別が激しくなることまでは、政府でも考えていなかったようだ。ここはぜひ、もっと藤井さんに訊きたいところだ。結果を知れば当たり前の展開ではある。しかし事前に思いついたかどうか?思いつかなかった、気づかなかったことに責任はないのか?

藤井さんはNHKの取材に率直に応えていたが、もっと突っ込んで話を聴かなければならないことは多い。それは藤井さん個人の問題ではなく、公害の救済がただ「正義」を通すだけで済む問題ではなく、現代の社会の構造それ自体の欠陥に深く切り込まなければならない課題であり、水俣病発見から60年経った今でも思想的・理念的な大枠すらまったく未解決のままだからでもある。

今の藤井さんであれば、その責任から逃げるようなことはないだろう。

そして77年から78年の藤井さんは、ある意味で誰よりも公害問題の複雑さと根の深さを考えていた(考えざるを得なかった)人でもあるのかも知れない。その立場にいなければ「チッソはけしからん」で済むかもしれない。多くの国民は当然そう考えただろうし、だから藤井さんが国会でチッソの責任を追及する質問をすれば、政治家としての地位は築けたはずだ。だがそうやって悪徳企業のチッソを倒産に追い込めば、患者の受け取るはずだった補償金はいわば不良債権、判決も賠償命令も紙くず同然になる。

とはいえ、その藤井さんでさえ、自分が決めた国によるチッソ救済の結果として、自分が救おうとしたはずの多くの患者がかえって救われなくなった(2万人以上の未認定患者が今も苦しんでいる)ことは認めようとしなかった。

ここも藤井さんをもっと問いつめなければならないことだ。

久我メモには政府内部の恐ろしい言葉も残されている。患者への補償のための国費投入を「ザルに水を注ぐようなものだ」と言い切っているのだ。当時は藤井さんもその党員だった自民党も、福田内閣も、そういう立場からの認定基準の厳格化を追認している。チッソへの配慮のためにすでに不当な厳格さで運用され始めていた認定基準は、今度は国の財政、つまりは国民の財産を守るために絶対的なものとされた。

政府が支援することでチッソは倒産せずに補償金を払い続けることができるようになったが、その結果、患者とチッソの対立する利害の関係性のなかで、政府が完全にチッソ側になったというか、患者への補償が国の財政と国民の利害に反する構図になってしまった。チッソを患者の要求から守ることは政府の財政を守ること、つまりはあろうことか国民の財産を守ることとなってしまったのだ。

だからこそ藤井さんにはもうひとつ、どうしても問わなければいけないことがある。

患者のためには政府がチッソを支援するしかない、という藤井さんの決断は根本的には良心的なものだったが、それでもひとつ大きな問題意識の自覚が抜け落ちていはしないか?

なぜ水俣病被害がここまで広がり、患者が増え、国費を投入しても救済し切れないからといって患者数そのものを減らそうとする(つまり患者を切り捨てた)結果になったのか、そのそもそもの原因は、どこにあったのか?

言うまでもなくその最大の原因は、厚生省の内部では原因がチッソのメチル水銀だと分かっていて勧告も出ていながら、政府が「政治的判断」で原因の公式認定を遅らせたことだ。水俣の患者たちが、自分たちの「奇病」の原因が自分たちの食べた魚で、それがチッソの廃水に汚染されていたせいだったと知ったのは、公式発見の1956年から12年も経った1968年のことだ。

だから政府もまた患者の支援と補償に力を尽くさねばならないのは、単に政府として国民の生活を守る義務があるだけではない。水俣病の患者がこれだけ増えてしまった大きな責任と罪は、政府にこそあったのだ。

その時には、高度成長を支える優良企業、日本のトップクラスの化学工業企業だったチッソを守るのが政府にとって優先事項だったのであろうことも、想像に難くない。政府はだからこそ原因の究明をわざと先延ばしにしたのだろうが、この「未必の故意」状態の先送りのタイムラグのあいだに水俣でなにが起きていたのかは、土本が克明に証言として記録している。

『医学としての水俣病・第一部』の冒頭で渡辺さんが証言しているように、水俣病の症状がでた患者は、精を付けるためにかえって魚を食べる量を増やしていたりする。考えてみれば当たり前のことだ。「魚が原因」とは誰も教えてくれなかったのだから、漁民であればまず魚を食べて栄養をつけようとする。その結果、かえって患者はより多くの毒性の有機水銀を体内に取り込んでいた。

ほっておけば健康回復のために魚をより一生懸命食べるだろう、このような当たり前の想像力すら東京の役所にいる人たちはなかなか持てていないことは、今も変わらない。たとえば福島第一原発事故でも、まったく同じ問題が露呈している。

その想像力を持てなかったことそれ自体が、中央官庁や政治家の、巨大で罪深い能力の欠如であることから、我々も政治家も目を逸らしてはならない。「仕方がない」では済まされない。せめて「能力がなかった」ことの罪は反省しなければならないはずだ。

既に述べた通り、77年から78年の時期に水俣で起きていた重大な変化は、土本の水俣シリーズでは撮影されていない。そして土本の仕事があまりに偉大すぎるため、『不知火海』つまり70年代半ば以降の水俣は、かえって日本のドキュメンタリー映画史から抜け落ちた状態になってしまった。77年から78年に実は起きていた大きな動き(政府側の巻き返し)も、土本の映画がないのでなかなか知られない水俣病の歴史の一頁になっている。

『不知火海』が撮られたとき、患者達の社会的・政治的な戦いは一応は収束し、映画は「生きることの闘い」というか、水俣病との闘いとはすなわちいかに患者が人間らしく生きられるのかであるという問題設定に、映画の関心が明らかに移行している。

だがその数年後、土本が水俣を撮り続けられなくなった時に、患者たちはまず自分たちの健康な生活を奪った加害企業であるチッソを許すことができるのかという葛藤に追い込まれ、補償金を得たことが単に嫉妬されるだけでなく、チッソを苦しめているのだという差別攻撃まで、他ならぬ故郷の水俣から受けることになる。

ただでさえ結婚などで差別されるのを恐れて認定の申請すらできなかった患者たちはますます追いつめられ、その後に待っていたのは申請しても認められるのは10%以下という、国がこっそり設定していた高いハードルであり、その正体は日本の現代政治が自らを雁字搦めにしていた深い闇だった。

『不知火海』を頂点とすることで、土本の映画はなによりも患者たちの人間性の回復のための作品となったし、その患者と直接対峙することになった会社の側の立場までは、土本は『水俣一揆』ではっきりと映画に刻み込んでいる。しかし政治を直接に問うことまではやっていないし、当時の自主製作のドキュメンタリー映画にはその手段もなかなかなかったし、だいたい政府も自民党の政治家も、現役だった当時では絶対に取材に応じなかった。

しかし水俣病事件それ自体は企業の責任だとしても、その背後には大きな政治の流れが一貫して関与しており、政治の責任こそが重大だ。それがどんな関与だったのか、政府がなにを考えていたのかは撮られていないので、この事件を映画的に考えるときにどうしても抜け落ちがちだ。

逆に言えば、今水俣についての映画を作るのなら、今回はっきり因果関係が立証された国によるチッソ救済(これが患者のためにも必要だったことは、僕も認めざるを得ない。土本も認めていた)と、その結果としての認定基準の不当な厳格化の問題こそ、取り上げられるべきではないだろうか。

そして政府側の人間として藤井裕久・元参議院議員にもぜひとも映画に出て、もっと深く語ってもらわねければなるまい。

土本の水俣シリーズに限らず、日本のドキュメンタリーはこれまで、なかなか政治家の側、権力の側それ自体の問題に切り込むことが出来て来なかったし、政治の側でも映画に出ようなどとは思わなかっただろう。

今の藤井裕久氏であれば、その日本の戦後政治の根源的な問題をこそ語ることに、応じてくれるはずだとも思う。

公式発見から60年、水俣病事件は終わっていない。2万にもおよぶ未認定患者がいて、政治決着はなされたものの極めて不完全なままだ。裁判所も認定基準のおかしさを指摘する判決を出しているが、まだ確定・決着はしていない。いや、現行の認定基準の厳しさが政府のいう「医学的知見」ではなく患者への補償を続ける財源の不安から来た財政的ベースの判断に過ぎなかったことが立証された今、政治決着は白紙に戻し、そもそも政府の不作為によって多くの人が水俣病になった責任も含め、改めて問い直されなければならない。

しかも奪われた人生を取り戻すためのその時間は、ほとんど残されていない。

そのあいだに、当時3歳だった第一号患者の田中実子さんは、63歳になった。土本典明の映画には、まだ少女の姿だった田中さんが何度も写っている。その妹をずっと介護し続けていた姉の下田さんは、自身も中学生の頃から手のしびれなどの症状が出ていたが、差別を恐れて認定申請はしなかったという。やっと認定を受けようと思ったのは1978年以降で、10%にも満たない認定率では、認められるはずもなかった。

妹が重度の水俣病患者である。水俣病が食中毒である以上、同じ食生活で育って来た下田さんの症状が、水俣病でないわけがないはずだ。

これは土本が『医学としての水俣病』の、とりわけ第三部で指摘したことでもある----具体的な症状だけがベースの認定基準は、そもそも科学的ではない。

その下田さんは今回明らかになった経緯を知らされ、NHKのカメラの前でこう呟いていた。「人間的でない」「煩悩(熊本方言では「他の人間への執着」転じて「思いやり」の意味になる)が欠けちょる」。

今回のクローズアップ現代では使われていなかったが、おなじくNHKのETV特集では別の下田さんの深い言葉があった。ずっと面倒を見て来た妹よりも自分が寿命を迎えてしまうことの不安を語りながら、下田さんはその妹の実子さんを「生き甲斐」と呼んだ。

水俣では、まだまだ記録の映画が作られるべきだし、チッソ救済のための世論形成の内幕と厳格化された認定基準が生み出した深い亀裂は、映画が一本作られるべきテーマだと思う。

それは単に水俣病の歴史で抜け落ちている重要な一頁を埋めるためだけではない。私たちの戦後日本の社会と文明のあり方そのものに含まれる矛盾と限界が、ここに現れているからだ。

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