最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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1/19/2018

スポーツの政治利用は許せない?


北朝鮮が新年早々に平昌冬期オリンピックへの参加を表明して以来、がぜん日本のメディアやネット世論で「スポーツの政治利用は」云々という言葉が飛び交っている。

まずそういうことを言うのなら、安倍総理大臣と2020年東京オリンピックの露骨な政治利用についても同じことを言わなければみっともないダブスタにしかなるまい。

たとえば「オリンピックを開催できないと言っても過言ではない」と言い張って「テロ等準備罪」を国会で強行採決したのはなんだったのか?

もちろん「スポーツの政治利用」以前に、共謀罪はオリンピックの開催とまったく関係がない。そもそも国際組織犯罪防止条約の批准のために共謀罪の導入が必要だと言うのなら、この条約はテロ対策を想定していないし、テロなど政治犯を対象とすることが厳格に禁じられているのだから安倍首相の主張そのものがただの噓でしかなかったことの方が大問題だ。

だがだからこそ、スポーツの政治利用が本来なら成立しないことで政府にスポーツの政治利用を許してしまった日本の世論はなんなんだ、という話にしかならないのに、今さらなにを、ただ韓国の悪口を言いたいためだけに、見え透いた二枚舌を始めているのだろう?

さらには2020年のオリンピックの年に合わせて改正した憲法を施行して「新しい日本がここから始まる」とか言っているのも安倍首相だ。

しかも安倍首相は、今度は韓国政府が2015年末のいわゆる慰安婦合意批判したことにヘソを曲げて開会式に行かないなどと言っているのも、五輪の成功のためには安倍にも出席して欲しいという韓国政府の足下を見て妥協を迫っているつもりである以上(そんな御都合主義な展開になるわけがないにせよ)は、この点でも日本の現政府による悪質なスポーツの政治利用こそが責められなければ、とんだダブスタにしかならない。

だいたい、オリンピックは常に政治利用されて来た。代表選手に「日の丸を背負って」などとメディアが言わせ続けているのは国威発揚の政治利用の典型だし、金メダリストに国民栄誉賞を与えるのも政権人気取りの露骨な政治利用だ。

オリンピック憲章は実は国ごとのメダルの数を競うことを禁じていて、各国のオリンピック委員会はメダル数集計を公表してはいけないことになっている。それでも「日本のメダルは◯◯個」とメディアが熱狂しているのも、露骨なスポーツの政治利用以外のなにものでもない。

2016年のリオ・オリンピックは葛藤を乗り越えての多民族の共存と環境保護、さらには自然と人間の共存という、明確に政治的なテーマをコンセプトとして掲げていて、それはブラジルの歴史を象徴的に表現した開会式でも明確に示されていた。

フェルナンド・メレイエス演出 2016年リオデジャネイロ・オリンピック開会式


浅田真央がフィギュアスケートの歴史を変えた天才であるのは間違いないが、彼女がきっかけでこのスポーツが日本でブームになったのは、同じ年生まれで一ヶ月しか誕生日が違わないキム・ヨナという韓国人のライバルがいたのでマスコミが騒いだからでもある。これは本当に彼女のスケートに感動する人にとってはまったくどうでもいいことでしかなかったが、しかしそれでも浅田真央の天才が、戦後日本をずっと蝕み続けている韓国嫌い朝鮮民族差別の下らない政治プロパガンダに政治利用されてしまっていたのもまた、残念な現実だった。

この2人がお互いを高め合うことでフィギュアスケートの女子シングルの歴史が変わった、その絶頂となったヴァンクーヴァー冬期オリンピックのシーズンなぞ、2人のライバル関係を政治利用していたオジサンたちは、実はキム・ヨナの分かり易いお色気ショーの『007』方が遥かにお気に召していたらしく、浅田真央のプログラムの凄さが理解できないまま「キム・ヨナみたいな大人の女性らしさがなくては勝てない」などと鼻の下を伸ばしているくだらないコメンテーターもうじゃうじゃいた。いやだから、あれを「大人の女性の色気」とか言ってる時点で、オジサンたちは政治的にダメダメなのだが。

またまったく別の次元で、その2009-20010シーズンの浅田真央の特にフリースケーティングは極めて政治的だ。こういう表現をフィギュアスケートでやったこともまた彼女の天才であり、それがフィギュアの表現の革命となったのもまた、優れて政治的な意味を含んでのことだ。

 浅田真央 ラフマニノフ作曲「モスクワの鐘」 ヴァンクーヴァー五輪フリー


もちろんこの演技はまず息を呑み圧倒されるべきもので、いちいち政治的なものだと意識して見るのも野暮な話ではあるが、しかし「これは政治的だ」と言われても気がつかないとしたら、それはそれでひどく鈍感だろう。

あえて野暮を承知で言っておけば、当時の浅田のコーチで、この曲を女子フィギュアでやることが夢で、振り付けも手がけたタチアナ・タラソワは、このプログラムを「世界平和のメッセージだ。真央にはそのメッセージを届けられる強さがある」と言っている。あとは出だしの、両手で自分の頬を激しく打つ仕草を見れば、これがある強固かつ普遍的な政治的主張を持った表現であることは自明だろう。

エフゲニー・キーシン ラフマニノフ「プレリュード ハ短調 作品3 第二番」


一部の…ではなく残念ながら多くの日本人が「日韓対決」という下らない政治利用でこれを消費していたのとはまったく無関係な別次元の話で、この年のキム・ヨナがスケートとして保守的な優等生なプログラムを選んだだけでなく、そこで極めて保守的なジェンダー役割に植民地主義的な価値観をまぶした女性像(というか、要するにアジア人の小悪魔娼婦イメージ)に徹して金メダルを狙ったことの、浅田真央の激しい挑戦との鮮烈なコントラストがまた、フィギュアスケートという競技の枠組みを超えた優れて政治的な「対決」をあのオリンピックのリンクに生み出していた。

今年のオリンピックの日本女子フィギュアのエース宮原知子もまた、あえて極めて豪速球かつ変化球な政治的なプログラムをぶつけて来ている。

なにしろショートプログラムはハリウッド映画『Memoirs of a Geisha(日本語題「SAYURI」)』で、フリースケーティグはあのオペラ『蝶々夫人』、つまり西洋の植民地主義的女性蔑視丸出しの「フジヤマ・ゲイシャ」な日本ファンタジーとして書かれた音楽をあえて使って、それを「女性の強さ」の表現に読み替えて見せるのだから、変化球であると同時に分かり易い過ぎるほどの豪速球な政治性だ。

それがまた、これまで「ミス・パーフェクト」「練習の虫」としてばかり褒められて来た彼女にとって、とてもパーソナルな葛藤を反映した自己イメージの克服でもあるからこそ、いっそう政治性かつ革命性を帯びた表現になっている。

宮原知子 プッチーニ作曲『蝶々夫人』2017年日本選手権フリー


技術とともに芸術性を競う採点競技のフィギュアスケートが、その芸術性において時に鋭い政治的表現力を持つのは「スポーツ」としては例外ではあろうが、そうでなくともスポーツというのは元々、よくも悪くも政治性を持って受容されるものであり、ナショナル・チームを編成して競い合う国際大会となれば特にそうだ。野球のナショナル・チームが「サムライ・ジャパン」でサッカーのナショナル・チームが「サムライ・ブルー」、エンブレムが八咫烏の平成ニッポンが、いまさら「スポーツの政治利用が」と言い出すこと自体が滑稽だ。戦後のオリンピック憲章に「政治利用」を禁じる条項が書き込まれたのは、1936年のベルリン・オリンピックがまさにこうした国威発揚の政治利用に露骨に利用されたことへの反省に基づいている。

そもそも19世紀のヨーロッパでスポーツの振興が始まったのは、産業革命の結果で過酷な労働環境に置かれた労働者が虐待的な状況下で病気も増えたアンチテーゼで、太陽を浴びてのびのびと身体を使いより健康になろう、という運動であった一方で、国民国家の成立で身体的に強健な国民が徴兵制の普及と国民皆兵的なイデオロギーのなかで「健全な精神は健全な肉体に宿る」が称揚された、近代オリンピックもその文脈のなかで産まれたものであり、これをもっとも露骨に、しかも人種主義の優生思想と結びつけてプロパガンダに利用したのがナチスだった。

『民族の祭典』『美の祭典』1936-37年

その一方でオリンピックが「平和の祭典」で、クーベルタン男爵が近代オリンピックを始めたのが植民地主義の最終局面で列強間の競争や紛争が絶えなかった時代に、古代ギリシャでオリンピックの開催期間中は戦争状態の都市国家どうしでも停戦するという国際ルールがあったことを前提にした、つまりオリンピックそのものがまた別の次元で平和と全人類の和解という政治性を持った政治的なイヴェントだ。

さらに戦後のオリンピックでは合わせて開催されるパラリンピックがより重要性がましている。スポーツの振興が健康増進の肯定的メッセージを必然的に伴う一方で、その「健康」理念自体がファシズムに陥りかねない危険性のアンチテーゼであると同時に、こと近年のパラリンピックは障がい者の「見える化」で社会のバリアフリー化の必要を意識させる優れて政治的なメッセージ性を発信している。東京都が猪瀬知事の時代にオリンピック招致に熱中したのも、そもそもが超高齢化社会を目前にしてのパラリンピックが都市インフラのバリアフリー化を進める最適のキャンペーンだったからでもある。

アパルトヘイトが終わった南アフリカでネルソン・マンデラが大統領になった時、「黒人の復讐」に怯え特権を失ったことに恨みつらみも激しい旧支配者層の白人と、政治的平等は獲得できても経済的には圧倒的に不利なままだった圧倒多数の黒人のあいだで、国は分断されていた。マンデラはそこであえて、南アフリカでは白人のスポーツだったラグビーのワールド・カップが自国で開催されることに目を付けて、ラグビーのナショナル・チームのキャプテンのフランソワ・ピナール(もちろん白人)に優勝するように密かに命じた。それもレギュラーに黒人選手が1人しかいなかったのを「黒人を増やせ」とも言わず、代わりに白人だらけのナショナル・チームが黒人の貧民街というかせいぜいキャンプとしか呼びようがないほど貧しい場所に行って、黒人の子供たち相手にラグビー教室をやらせて、その光景を全国ニュースでテレビに流したりしたのだ。

これは俳優のモーガン・フリーマンが映画化を企画し、クリント・イーストウッド監督によって映画化されている。

C.イーストウッド監督『インビクタス』2010年

もちろん現実がこの映画ほど巧く行ったわけでもないが、それでもマンデラによるスポーツの政治利用が、分断していた国民の統合に大きな意味を持ったことは確かだ。そしてこれを「政治利用だ、許せない」と言い出す者はさすがにいまい。

1995年ワールドカップ決勝戦 南アフリカ対ニュージーランド 国歌斉唱

もちろん北朝鮮・金正恩政権が、オリンピック参加を表明するタイミングのあざといまでに巧みな計算まで含めて、このチャンスを外交的に徹底的に利用しているのは言うまでもない。韓国の右派が「これでは平昌オリンピックではなく平壌オリンピックだ」と文句を言いたくなる気持ちも分からなくはない。

だが分断国家となった民族の和解がオリンピックそれ自体の持つ政治性とぴったり合ったテーマであることに異論の余地はない以上、「韓国が日本やアメリカとの連携を乱している」などと言い出すのはあまりにはしたない…というか、最低限の国際常識すら欠如している。

確かに女子アイスホッケーの南北合同チームとまで来ると、いきなり本来出場権のなかった北の選手と一緒にプレーしなくてはならなくなった韓国チームの選手は、チームワークを作り上げるだけの練習時間も与えられないまま大会に臨まなければならなくなったし、5人だか7人だかだけ参加する北の選手も大変ではあろう。しかも大統領には「人気がない競技に注目が集まる」と言われ、首相には「どうせメダルの見込みもないし」と言われっぱなしなのはさすがにかわいそうで、大統領も首相も、もうちょっと言いようがあるんじゃないか、とは思う。 
しかししょせんは、他所の国の話だ。日本のマスコミがなぜこうも事細かに報じたがるのかには、別の意図(はっきり言えば人種差別)があからさまだ。 
スポーツ選手が「これでは選手がベストが出せない」と同情することを除けば、日本人がとやかく言うことではない(それにメダルの見込みがないのは現実)し、そもそもオリピックに女子アイスホッケーがあることすら知らなかったような人達がなにを言ってるんだ、としかなるまい。

北朝鮮が見事に平昌オリンピックを外交に利用してみせているのは、金正恩の狡猾な外交手腕がそれだけ傑出していて、そのマニピュレーションに日本などの敵対国が翻弄されているだけのことだ。文句を言っているヒマがあるのなら、日本ももう少しは国際的な大義名分で通用しそうなオリンピックの政治利用法とか、多少はマシな外交的狡猾さを身につけるためのお手本としてしっかり研究でもした方がいい。

なにしろ反北朝鮮で「世界の結束」を呼びかけているつもりの日本は、そこで他国を巻き込めるだけのまっとうな大義名分のひとつも提示できていない。

バルト3国を訪問して「北朝鮮包囲網で各国の賛同を得た」かのように日本の報道を通して政府は吹聴しているが、どうとでも取れる一般論を口にしてリップサービスで賛成してもらっただけ、オリンピックを機に南北朝戦の関係が少しでも良好になれば、それが「核問題」の解決につながることを期待している国際世論から、日本だけが浮きまくっている。

まあもちろん、安倍政権が「核問題」の解決をまったく望んでいないのだから当たり前ではある。なにしろこの解決には最終的に米朝直接交渉以外の手段はないし、そこで北朝鮮の核保有をアメリカが制約しようとするのなら、今やその北朝鮮も核弾頭やミサイルを持っている以上、アメリカもまた朝鮮半島で使える核武装をある程度は削減すること以外に妥結はあり得ない。

それこそ「朝鮮半島の非核化」を言うのなら、アメリカが北朝鮮に向けている核ミサイルや、沖縄に密かに(半ば公然の秘密として)配備されてそこからいつでも韓国に持ち込める核兵器もまた全廃しなければ、「非核化」にはならない。朝鮮半島が「非核化」されるなら、日本の「核の傘」は放棄しなければ「非核化」にならない。だから朝鮮半島の非核化を北朝鮮の非核化にスリ替えているのが安倍政権だが、こんな誤摩化しは日本国内でしか通用しない。

…っていうか、それにしても2020年東京オリンピックの準備は、もう少しなんとかなりませんかね? 国際的な「平和の祭典」であることも無視し、世界中から選手が集まって来ることもそっちのけで、エンブレム選びでもマスコット選びでも、コンセプトはバカの一つ覚えで「日本の伝統」なのだそうだ。開会式・閉会式は安倍さんが大好きな『永遠の0』の監督さんだそうだが、まさか特攻隊賛美なんてやらかすんじゃなかろうか? 「維新の志士」を美化するチャンバラごっこでも始められたりとか、そもそも外国人には意味が分からないひどく退屈な独りよがりな「蝶々夫人」的エキゾチシズムの羅列でもやられそうで気が気でない。

だいたいネーム・バリューからしても、2008年北京はかつての天才・張芸謀、2012年ロンドンはダニー・ボイル(『トレイン・スポッティング』『ザ・ビーチ』)、2016年リオはフェルナンド・メレイエス(『シティ・オブ・ゴッド』)と国際的な知名度からも納得する人選だが、『ALWAYS 三丁目の夕陽』と『永遠の0』は安倍さんの趣味だけで、そもそも日本国内しかマーケットとして想定していない映画の監督というのも…これでは「政治利用」どころか私物化だ。

数年前には「音楽の政治利用は」という文句が富士ロック・フェスティバルに殺到して、そもそもロックは政治的なものだろうに「純粋に音楽を楽しみたい」などとロック世代がえらくズッコケていたこともあったが、一方で昨今の「紅白歌合戦」でも見れば、あまりにストレートな政治的メッセージ性がそのまま歌詞になっていて、またそのメッセージというのが全部同じ安直な自己肯定で聴き手を慰めているのが不気味なほどだ。

日本のポピュラー音楽におけるこうした露骨に退行的で反動的な政治的逃避の傾向の元を辿っていくと、価値観の多様性を歌って大ヒットした『世界にひとつだけの花』に行き着く(この歌は同性愛者であることが暴露されてしまった作詞作曲の槇原敬之個人にとって、極めて重要な政治的ステートメントでもあった)のだろうが、それぞれにバケツのなかでピンと胸を張っている花たちが「みんながオンリーワン」でありだからこそ「ナンバーワン」だったのが、いつのまにか聴き手それぞれが、胸を張らなくてもいいから今のままでいいよ、と言われて承認欲求を満足させていればいい堂々回りと言うのは、それはそれで立派な政治性だ(と言うか、あまり「立派」でもないが)。

「◯◯の政治利用は」と文句を言う人達こそが、スポーツでも音楽でも映画でも、歴史教育でも、それを安易な自己肯定=現政権肯定のメッセージという政治性に利用しているだけで、そこに疑義を提起されるのが気に入らないだけではないか?

10/08/2012

社会派映画作家としてのジャック・ドゥミー


Romantic love、「ロマンチックな愛」と訳してしまうと、今では別の意味でとらえられてしまいそうなので、「ロマン主義的な愛」と言うべきかも知れない。「あなたなしには生きて行けない」、愛し合うことが生きることに不可欠、生のもっとも根幹であり、故にその愛が死に至るものにもなる、という考え方である。

『シェルブールの雨傘』でカトリーヌ・ドゥヌーヴ演ずるジュヌヴィエーブは、召集令状を受け取った恋人に「あなたなしには死んでしまう」と歌い続ける。

『シェルブールの雨傘』別れ

これこそ普通の意味で「ロマンチックな愛」として甘味な涙の名シーンとなり、この映画は世界的なヒット作になったわけだ。

むろん実際にはジュヌヴィエーヴは恋人の帰りを待たずに、その子供を自分の子として育てようと申し出たダイヤモンド商ロラン・カサール(マルク・ミシェル)とあっさりと結婚してしまう。

この映画の撮影中の題名は「不貞、あるいはシェルブールの雨傘」だった。

「ロマンチックな映画」(その実ドゥミーにとっては反戦映画であった)として大成功を納めたこの傑作は、その実「ロマンチックな愛」の不可能性を描き出した映画なのである。

ジュヌヴィエーヴの夫となるカサールは、ドゥミーの処女作『ローラ』の主人公である。

彼が恋心を抱く幼なじみのセシル(アヌーク・エメ)は米水兵相手のクラブの踊り子で、芸名はローラ。

彼女は妊娠を告げたとたんに去った恋人を愛し続けており、カサールは最後には諦めて旅に出る。

一方、セシルは財産を築いて帰って来た恋人と再会し、結ばれる。

『ローラ』セシルとアメリカの水兵フランキー

かといって彼女が「恋人に貞節を守って来た」わけでは決してなく、しかし生活のために身体を売っているわけでもないのが、この映画におけるドゥミーの女性像の先進性だろう。

またそれは究極の、世俗の倫理観などは超越した「ロマンチックな愛」の表現でもあったのかも知れないが、ドウミーはその後、富豪となったはずの恋人と渡米したセシル/ローラのその後を、映画化している。

『モデル・ショップ』(1969)抜粋

ここで見せられるのは、「ロマンチックな愛の実現」だったはずのその後の、痛ましい幻滅である。

ラジオ放送で度々明示されるように、舞台はベトナム戦争中のアメリカだ。

戦争から戻ったものの恋人のもとには戻れない自分を抱えた主人公(「2001年宇宙の旅」のゲイリー・ロックウッド。ドゥミー自身は当時無名のハリソン・フォードを希望していた)は、やはり「居場所がない」空気感を漂わせた、今はストリッパーとなったローラ/セシルと、心の交流がない故の心の交流を感じる。

ローラ/セシルのその後の、「ロマンチックな愛」の崩壊の残滓としての人生は、戦争すら目に見えないものとなった人間性の喪失した時代における、愛の不毛、愛の再生すら不可能になった寂寥だ。

『モデル・ショップ』ラストシーン

この映画の終わりに、男に残されたのは「人間は試すことだけはいつでもできる」とひたすら繰り返すことしかない。

ここで一点、あまり指摘されないドゥミー映画に一貫する特徴も指摘しておくべきだろう。

『シェルブールの雨傘』は、アルジェリア戦争の「銃後」のフランスをめぐる物語だ。ジュヌヴィエーヴが信じたはずのロマンチックな愛が崩壊するのは、戦争によってだ。

『ローラ』が映し出すのは、第二次大戦後の、実態は「アメリカ軍の占領下」だったフランスの心象風景である。ここで登場人物たちが「愛」と思い込んでいるものは、戦争によって失われた過去のイノセンスへの憧れでしかない。

『モデル・ショップ』は、ヴェトナム戦争の「銃後」としてのアメリカを強烈に意識した作品である。

ドイツの有名な童話を(英語で)映画化した『ハメルンの笛吹き』では、一方に疫病に対してまったく無力な教会の抑圧的権力と、もう一方に疫病の根絶を研究しようとしたユダヤ人の老錬金術師や、疫病の蔓延する土地を見て来た(教会からは蔑視対象の)旅芸人の一座がある、差別と抑圧を強烈に意識した政治性の強い構図が採用されている。

『ハメルンの笛吹き』(1972)全編

ドゥミー映画はミュージカルが多く、華やかな色彩の洗練された現代風の、いささかキッチュ趣味も交えた様式美が賞賛されがちだ。

それはおよそ「リアリズム」とは、かけ離れたものに見える。

そのせいかまったく無視されがちなのだが、ジャック・ドゥミーの映画は常に明確な社会への眼差しを内包し、純真過ぎるほどの政治意識が明確に、彼の独特のやり方で、反映されたものでもあるのだ。

ドゥミーがその映画で繰り返して来た構図は、社会のさまざまな形での抑圧と、そこに押しつぶされる個人たちの愛や自由の希求、その挫折・幻滅、敗北の悲しみ、そこに徹底して寄り添い、時に冷酷に突き放し全体を見せるものでもある(だから彼の映画は、ほぼ常にフルショットで終わる)。

「社会派映画作家としてのジャック・ドゥミー」と言うと、驚くかも知れない。

だが「ロマンチックなミュージカル映画作家」と一見相反するように見えて、その実ドゥミー映画の本質の核をなしているのは、それがロマンチックな社会派映画であり、それを音楽と華麗で現代的な映像美にのせて演出すること、そのものなのだ。

いわば「政治映画」の文体そのものを革命しようとしていたのが、ジャック・ドゥミーなのかも知れない。

『ベルサイユのばら』(1979)

完全な「注文仕事」とはいえ、日本の人気漫画『ベルサイユのばら』をドゥミーが映画化した際も、結局彼の作家的な関心がもっとも集中したのは、どうみても映画の後半の革命の描写である。

『ベルサイユのばら』革命のシーン

このシーンの演出に明白なように、ドゥミー映画における華やかな色彩の使用は、実はドラマチックな意味づけを伴ったものでもある。

『ハメルンの笛吹き』でも同様だが、色彩は社会階級や「善/悪」に応じて、明確に使い分けられてもいる。

また一見、華やかな様式美に見えるドゥミー映画のスタイルが、あくまで現実の延長として構築されたものでもあることも、『ベルサイユのばら』には如実に現れている。

実のところ、この映画のセットも衣装も、常連の美術監督のベルナール・エヴァンによる極めて綿密な時代考証を踏まえているのだ。

『シェルブールの雨傘』
ベルナール・エヴァンによる主人公の部屋のスケッチ


人気作の『ロバと王女』にしても、一見無邪気なファンタジーに見えるが、その実、シャルル・ペローの童話に様々な現実の、現代のディテールを組み込むその突飛さこそが、おもしろおかしいのだ。

『ロバと王女』、妖精が「近親相姦はダメよ」と諭すシーン

なおこの映画は、シャンボール城(世界遺産)を含めた各所でロケーション撮影されているが、ドゥミーが当初構想した、ベルナール・エヴァンによる美術プランは、高価過ぎたためプロデューサーに却下されている。
これは実現しなかった映画のひつとだが、ロシア革命を背景にしたミユージカル・ドラマ『アヌーシュカ』という企画にも、晩年のドゥミーは相当な精力を注ぎ込んでいた。

旧共産圏の崩壊が起こっていた時代のことである。

『都会のひと部屋』(1982)全編

1982年の『都会のひと部屋』は、そんなドゥミー作品のなかで、未だにもっとも無視されがちな映画だ。

しかしナントの美術学校以来の友人で、主要作品のほとんどで美術監督を務めた、ドゥミーにとってもっとも重要な創造上のパートナーと言えるベルナール・エヴァンによれば、「ジャックのやりたかったことがもっとも完璧に視覚化された作品」である。

またしばしば港町を舞台に選んでいるドゥミーの映画だが、ドゥミー自身の出身地ナントが舞台であるのは、『ローラ』と、この映画だけだ。

『シェルブールの雨傘』で一瞬だけ回想で挿入される、ナント名所のパッサージュ・ポムレイ。ここにはドゥミーが通ったナントのシネマテークもあった。

『都会のひと部屋』のパッサージュ・ポムレイ


『都会のひと部屋』。エディット(ドミニク・サンダ)の夫エドモン(ミシェル・ピコリ)の経営するテレビ販売店は、パッサージュ・ポムレイに設定されている。

『都会のひと部屋』がなぜドゥミーのフィルモグラフィで無視されがちなのだろうか? 

公開当時には、商業的に完全な失敗で、その後のドゥミーは創作の自由がかなり制約されることになる(『アヌーシュカ』は実現出来ず、『パーキング』は人気歌手を主演に採用してもなお予算を削られエヴァンの美術デザインを採用出来ず、イヴ・モンタンの主演ということで『想い出のマルセイユ』が辛うじて実現し、遺作に)。

音楽がミシェル・ルグランではないから、という説明もないわけではないのだが、でも映画の評価なんだから…(それにミシェル・コロンビエの重厚な現代オペラとしてのスコアは、この映画にはむしろ極めて適確だ)。

恐らくもっとも簡単な説明は、まずいきなり冒頭シーンが、「ジャック・ドゥミーの映画」と言われたときに観客も批評家もまったく予想せず、当然期待もしていないような映像だったからではないか?

『都会のひと部屋』冒頭シーン。ナント大聖堂前。

あまりにも見事な、美しいシーンである(そして同じ光景は映画のクライマックスで繰り返され、いわばこの映画の様式的な枠組みとなっている)。

同種のシーンとしてこれほどの純粋さ、美しさ、様式美に到達したものといえば、『戦艦ポチョムキン』くらいしか思いつかない程だ。

と同時に、この見事な労働オペラ演出が、1980年代の観客にとってまったく意表をつくものであったのも、また事実であろう。80年代は、トリュフォーを筆頭に、ヌーヴェルヴァーグの、ドゥミーの同世代作家達が、フランス映画のいわば「王道」の地位を獲得した時代でもある。

「作家主義」の公式化は、一方で個人的な、しばしば自伝性の強い内容で、言い換えれば普通の「個」の生活のドラマの、ストーリーの流れよりは個々のシーンの繊細さの描写に、評価されるべきフランス映画の主題性が矮小化されたことも意味する。

それに対して、『都会のひと部屋』は冒頭からいきなり、壮大すぎるし、物語の構図の大きさも同時に提示されている。

『都会のひと部屋』労働者たち

どうみても「個人映画」の規模ではないどころか、大作オペラの風格である−−言い換えれば、これは時代錯誤にも見えただろう。

デモの場面から、舞台はその光景を自宅から見下ろしていた元女男爵の大佐夫人(ダニエル・ダリュー)に切り替わる。そこにデモのリーダーの一人であった間借り人の男ギルボー(リシャール・ベリ)が帰って来る。

大佐夫人は、デモにギルボーが参加していたことをなじる。「アナーキストを家に置くわけにはいかないわ」

男が間借りしているのは、結婚した彼女の娘エディットの部屋だ。「金目当てにテレビ商人と結婚した」と、大佐夫人(元女男爵、つまり貴族出身)は成金ブルジョワへの軽蔑を隠さない。

労働者階級、ブルジョワジー、貴族。冒頭5分足らずで、ドゥミーは一気に、このドラマの階級的な構図を提示してしまう。

1980年、フランスでは新しい大統領フランソワ・ミッテランの社会党政権が始まる。 
60年代に隆盛を極めた戦後ブルジョワジーの勃興は、ここに終わったのだと、フランス人たちは思っていただろう(そして実際、今のフランスに「ブルジョワ階級」というべきものは、まあ、もうないよね)。 
そんな時代なのに、『都会のひと部屋』は、ある意味であまりに古典的とも言える階級闘争構図をドラマの基盤にしているとも見えただろう。 
この映画がオペラである以上、背景図式を単純化するのは当然の美的選択のはずなのだが、とはいえドゥミーがここで見事な手際で紹介した構図は、60年代70年代の政治映画の潮流から見れば、あまりに図式的で幼稚にも見えてしまうかも知れない。

実はこれはただ冒頭の提示部に過ぎず、決して映画自体がそんなに単純ではないのだが。

『都会のひと部屋』は社会派映画ではあるとしても、極めて抽象化されたそれであり、決して「階級闘争」を直接描こうとしたものでは、まったくないのだが。

これは『シェルブールの雨傘』がドゥミーにとっては「反戦映画」に他ならなかったことにも共通する。

ドゥミーが注目したのは戦争によって直接命が奪われ、生活が破壊されることではなかった。

ロマン主義者が人間のもっとも純粋なあり方として称揚した「愛」が、現代の戦争によっていかに不可能なものとなってしまったのか。

『シェルブールの雨傘』は直接の戦争の被害がないかに見える「銃後」にも、人生そのものを破壊される悲劇があったこと…いや、それが悲劇にすらなり得ない苦いものであることを描いた映画でもある…

−−というか、ドゥミー自身にとっては、それこそが本質だったはずだ(本人が「これは反戦映画である」と度々繰り返している)。

ある意味でその「対局」にあるファンタジーが『ロシュフォールの恋人たち』だ。 
ブラトンに遡る「純愛」の伝説、世界には大昔に離ればなれになった自分の分身に近い「愛の対象」がいて、それと運命の出会いをすることこそが究極の恋愛である、という神話性が、このドゥミー作品でも最もファンが多いであろう映画の、プロットの基本である。 
『ロシュフォールの恋人たち』 ほとんど冗談のような出会いの連続

なおよく見れば、ドゥミーの演出は必ずしもその神話を全面肯定してはいない。むしろかなり皮肉な、距離を置かせる要素は、たびたび介入しているのではあるが…。


だが『シェルブールの雨傘』が実は戦争を告発する映画であると意識した観客はあまりいないであろうのと同様に、いやむしろ真逆の構図として、ジャック・ドゥミーが「階級闘争」を冒頭に押し出した映画が、拒絶されるのは、ある意味当然だったのかも知れない。

とはいえこの表現が「時代錯誤」に見られたであろう製作当時から30年後、今見直すと、この冒頭の10分間だけでも、あまりに見事な映画演出の集中力であることに、感嘆せざるを得ない。


…っていうか、あまりにも一瞬一瞬、すべて「ドゥミー印」ではないか…。



4/13/2011

原発事故があらわにした日本人の差別の構造

中島みゆき『顔のない街の中で』

この歌を菅直人首相に聴いて欲しいし、「放射能怖い」が露骨な被曝差別になってる人、「福島で今避難しないのは」とか恐怖を煽っている人たち、その一方でそれでも原子力発電は日本に必要だ(=多少の犠牲はやむを得ない)と思っている人すべてに、聴いて欲しいと思う。

見知らぬ人の笑顔も
見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう
見知らぬ人のことならば
ままにならない日々の怒りを
物に当たる幼な児のように
物も人も同じに扱ってしまう
見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ


上の私製ビデオクリップは、作った人がフィリピンの貧民街での体験を反映させたものだが、今や同じことを、外国どころか同じ日本のなかについて言わなければいけない状況になっている気がする。

フィリピンどころか、同じ日本列島のなかで、日々テレビにそこが映っているはずの場所のことのはずなのに、その人たちは我々にとって、「顔のない」人たちになっている。

詳細はまだ分からないが、福島県飯館村で「計画避難地域」が決まって、自殺された老人までいるという。以前にも政府の「摂取制限」発表に絶望した福島県の農民が1人、自殺している。

この批判されるのが嫌なだけの政権のあまりにも中途半端な、そしてタイミングがずれた避難指示の改訂もまた、当事者のことをなにも考えていない。

見知らぬ人の痛みも
見知らぬ人の祈りも
気がかりにはならないだろう
見知らぬ人のことならば
ああ今日も暮らしの雨の中
くたびれて無口になった人々が
すれ違う まるで物と物のように
見知らぬ人のことならば
ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ


だいたい「緊急避難準備地域」とは、あたかも緊急事態がこれから起るような不安を煽る言い草だが、現実には最悪の緊急事態が起こりうる状態は最初の数日〜10日間程度のことだけだった。今後の「万が一に備える」にしても、一方で避難するのは生活もある人間なのだ。物のようにここからこっちに移します、と言えるような話ではないはずなのだが、その想像力もゼロ。

見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう
見知らぬ人のことならば


それにしても、「日本はひとつ」とは裏腹に、こんなことまで起っているのだから呆れる。

「子供が心配」福島ごみ処理支援で川崎市に苦情2千件超
産経新聞 4月14日(木)0時48分配信

川崎市の阿部孝夫市長が東日本大震災で被災した福島県を訪問し、がれきなどの災害廃棄物処理の協力を申し出たことに対し、2000件を超える苦情が市に寄せられていることが13日、明らかになった。

阿部市長は7日、福島県庁で佐藤雄平知事と会談。被災地支援の一環として「津波で残ったがれきなど粗大ごみを川崎まで運び、処理したい」と申し出た。このことが新聞などで報じられた8日以降、川崎市のごみ処理を担当する処理計画課などに「放射能に汚染されたものを持ってくるな」「子供が心配」といった苦情の電話やメールが殺到。中には阿部市長が福島市出身であることを挙げ、「売名行為だ。福島に銅像を建てたいだけだろう」というものもあったという。

川崎市は「放射能を帯びた廃棄物は移動が禁止されているため、市で処理することはない」と説明。市のホームページでも安全性や理解を呼びかけている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110414-00000507-san-soci


川崎市で、福島県では処理し切れなくなった震災で出た瓦礫等の廃棄物の処理を引き受けたところ、放射能を含んだ煙が飛ぶといわんばかりのデマが盛り上がり、猛反発が起ったのだそうだ。

ネット上でのこのデマの伝播の経緯がここに分析されているのだがhttp://news.livedoor.com/article/detail/5486245/?p=1、有名な「反原発」学者が差別デマの火に油を注いでいるのには呆れた。

またこの人物が、原発事故からの汚染水の流出についての政府見解の、20Km圏内は避難区域であり、海流で拡散されるから今のところそこまでの危険性はないだろうという見解があまりに楽観論であったにせよ、そこに「海水浴をしても安全なのか」と噛み付いたトンデモ屋さんなわけだが(それでも学者か?政府の発表の仕方があまりに稚拙でかえって混乱を招くものであるのは確かなのだが、とはいえなぜこのようにあからさまな嘘を用いるのだ?)。


この有名「反原発」(原子力発電に反対なのかデマで恐怖を煽りたいのか、もはや判然としない)学者には悪気はないのかも知れないが(さすがに広瀬隆のように露骨な反ユダヤ主義差別カルトの怪文書を流布してるわけではない)、彼のような人物が結果として助長している文脈においては、「福島」「原発事故」「放射能」が、もはや「被差別部落」と同じような扱いになっているとしか思えない。

放射能は「死」と関わることであり、そして原子力発電が「荒ぶる神」と化した。

だからそこに関わる福島は「穢れ」だから忌避する、と言わんばかりの構造だ。挙げ句に市長が福島市出身であることをあげつらうのだから、「福島」という地名と空間がまったく「忌むべきもの」の記号と化している。福島県産の米が売れなくなったのと同様、そこにはなんの合理性もない。

いわゆる被差別部落民が、葬祭を司り、動物の屠殺や皮革加工などの、自然界から「命を頂く」ことと関わっているが故に、かつては神と人間の中間存在/仲介者として畏怖され、江戸時代には幕府が制度上不可触賤民とみなしても文化の担い手として憧憬を集めていたのが、明治以降はただひたすら不潔・穢れとみなし、拒否し、差別して来たのと、まったく同じ構造、その現代版ではないか。

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


死に関る職業を穢多として扱い忌避し差別するのと同様に、放射線は「死」の象徴なのだろう。だから専門の人間だけ知ってればいいし、扱えばいい。自分達の日常にそれが持ち込まれることを極端に恐れる。そしてそこに関わったことが地名だけでもスティグマとなり、それを背負ったとみなされる人間は、拒否する、拒絶する、差別する、その「顔」も「声」も奪う。故郷も、名前も奪う。

原子力の研究をして来た研究者がテレビで解説をすれば「御用学者」「推進派」のスティグマを負わされる。いやがらせで電話がパンク状態になった人もいるという。

その「穢れ」から免罪されるには、「反対派」の記号を選びとったことを自己証明しなければならない。すると今度はまるで神のような崇拝対象とされる−いわゆる部落民の起源がシャーマンであったのと同様に。

ところがそうした以前からの「反対派」学者は実験経験が少ないので、計測値の誤りを見抜けず、誤ったデータに基づいた机上の空論(「放射性塩素が検出」なら、海水の塩分から派生したという相当にあり得ない仮定しか成立しない)で「再臨界の可能性」に言及してしまうと、危険視するよりは大喜びするかのようなパニックが広がり、「東電の隠蔽だ!」となる。

当の学者は「間違ってました」とすらなかなか言えない。崇拝が差別に変わるのは紙一重の問題だから、それは怖いだろう。


一方で原発事故と必死で格闘する作業員たちは防塵マスクと防護服に覆われた、やはり「顔のない」存在としてのみ表象され、彼らの仕事よりも、「被爆したかどうか」だけが焦点になる。


日本の「市民運動」とか「左派」のフリって、しょせんこんなものだったの?

思いやりや他者への想像力のかけらもなく、身勝手で、本性は差別が大好き。「正義」や「ヒューマニズム」を装うのも、しょせんはそれを主張する集団のなかに匿名性の自分の居場所を求めて同化しようとするだけ。

まさに「顔のない街の中」に埋没したがる、自分の顔を持たぬ輩の正義ごっこ。だから他人の命も暮らしも、その祈りも痛みも悲しみも、見知ることも出来ないのだろう。

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


東京で「放射能怖い」と騒いでる、これまた「左翼系」な人たちは、今や完全にその「穢れ」差別と排除と空想上の敵への攻撃心で結束するメンタリティに陥っている。

だいたい「政府が、東電がちゃんと説明せずに安全だと言うから不安になる」って、そんなの経営者や政治家に訊くことじゃないのにね。医学の話なんだから医者に訊くだろうにね、普通は。政府もまたなぜ官房長官にそんな発表をさせるのだろう?弁護士あがりだろうに、枝野って。


その本当の動機はもはや分かり切っているだろう。みんなと一緒に不安になりたいだけ、その不安な自分の身勝手を「正義」と認められたいだけなのだ。

あたかも母親であれば不安にならなければならない、その不条理を「母性愛」の絶対正義として認めろとか言わんばかりの、強引な同調圧力。

水道水を子どもに飲ませていいのかどうかの不安よりも、安全なのが分かっている水道水でも子どもに飲ませたら後ろ指をさされることが、本当は不安なのだ。

これは大自然の猛威と自然科学に基づく科学技術の暴走を前にした、祭りなのだ。

現代の日本人は、その祭りの作法を忘れてしまっている。明治以降、白人盲信の中途半端な西洋化で去勢された我々には、畏怖する他者的なものを「祀る/祭り」の儀礼はもはやなく、祈りも共感も想像力も失ったまま、ただひたすら拒絶し、排除し、差別することに安心感を担保することしか、なくなっているのだ。

…と、かように幻滅するばかりの「原発事故」の日々。これでは編集中の新作『ほんの少しだけでも愛を』でとりあげた「大阪」であるとか、そこの「市民の映画館」だけを責めるわけにはいかない。たまたま大阪に、歴史的な経緯から、いわゆる被差別部落が多いからああなっているだけなのだ。

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)

我々が撮ってしまったのは、まさに現代日本の縮図だったことが、この震災での被災地以外の馬鹿騒ぎで、よく分かった気がする。

多くの人のバケの皮が見事に剥がれてしまったことも含めて。

まさに我々がこの映画で告発しようとしているように、「死」とか「自然」とのつき合い方向き合い方、そして自分自身との向き合い方を見失った日本人達が、だからみんなと一緒に差別をしたり互いに敵意をむき出しにすることで、そこに自分の居場所を確認するのが習い性になっているのだ。

顔のない街に属していたいという倒錯した、己の人間性を捨て去った願望のためだけに。まさに己の顔を棄てたいがために。

見知らぬ人の痛みも
見知らぬ人の祈りも
気がかりにはならないだろう
見知らぬ人のことならば
ああ今日も暮らしの雨の中
くたびれて無口になった人々が
すれ違う まるで物と物のように


ところが我々が撮ったことに実はソックリ、という点では、もっと凄いものが現れてしまった。

他ならぬ我らが総理大臣閣下・菅直人氏がまた…。

原発周辺「20年住めない」=菅首相が発言、その後否定
時事通信 4月13日(水)15時51分配信

菅直人首相は13日、松本健一内閣官房参与と首相官邸で会い、福島第1原発から半径30キロ圏内などの地域について「そこには当面住めないだろう。10年住めないのか、20年住めないのか、ということになってくる」との認識を示した。松本氏が会談後に明らかにしたものだが、首相は同日夜、「私が言ったわけではない」と記者団に語った。

松本氏によると、同氏は首相に対し、避難生活を強いられている周辺住民の移住先について、福島県の内陸部に5万〜10万人規模の環境に配慮したエコタウンをつくることを提案。首相は賛意を示し、「中心部はドイツの田園都市などをモデルにしながら、再建を考えていかなければならない」と語った。

ただ、松本氏はその後、「20年住めない」との発言について、「私の発言だ。首相は私と同じように臆測(認識)しているかもしれないが、首相は言っていないということだ」と記者団に釈明した。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110413-00000089-jij-pol


「そこには当面住めないだろう。10年住めないのか、20年住めないのか、ということになってくる」なんて科学的な根拠は、まだどこにも出てないはずだが、もしかして首相が昨日の記者会見で「私が知ってることは全部情報公開されている」と言ってたのは嘘で、そんな大変なデータを実は持っているとでも言うのか?(あり得ないけど)

原発周辺地域(とそこに住む人々)は、もう完全に、「死」と連なるが故に「穢れ」で「忌むべき」空間にされてしまってる。

そういえばTVでは20Km圏内レポートが流行してるのだが、なんかキャメラの目線がそういう「忌むべき」っていう撮り方になっているのだし。

「無法地帯」などの扇情的な見出し語と共に、そこに住んでいた人々の故郷が失われ放置されていることの悲しみなぞ一顧だにせず。

見知らぬ人の暮らしも
失われても泣かないだろう
見知らぬ人のことならば


だが、総理大臣閣下の言い草は、続きがもっと笑ってしまうのだ(いや笑いごとではないのだが)。

内陸部に5万〜10万人規模の環境に配慮したエコタウンを作るんだそうだ。それも「中心部はドイツの田園都市などをモデルにしながら、再建を考えていかなければならない」などと、総理大臣閣下はおっしゃったのだそうだ。

そこで我々が思い出してしまうのが、大阪市のいわゆる「同和対策」地域の風景だ。

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)この続きはこちら

ここの太鼓の銅像はドイツのニュルンベルクにある「人権通り」をモデルにした「人権・太鼓ロード」なのだという。
http://blhrri.org/topics/topics_0078.html

この種の「特殊目的」が暗黙の了解になっている関西の公共住宅に、共通する様式となっている珍妙な洋風の塔であるとか、そこに言い訳のような第三セクターの商業施設をつくり「ベルタ」とか「マルシェ」とかのヨーロッパ風のネーミングをつけることも…。


…なるほど、「ドイツの田園都市などをモデル」にしたエコタウンねぇ…。

江戸時代まで日本にあった、アニミズム的な文化と精神の構造、死や自然界の猛威といった他者性への畏れと敬意を媒介する立場にあった人々を、その過去の文化を西洋近代化によって「野蛮」と断罪することの分かり易いアクションとして、いかがわしい西洋風によって封印しようとして来た(そこで潤うのが「同和利権」などでは決してなく、「土建業の利権」であることは言うに及ばず)ことと、まったくの相似形ではないか。

『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)より、大阪の境界構造の解析

それにしても、これで原発の周辺地域は放射能と関係なく、政府の稚拙さ身勝手さと、差別と風評への恐れのせいで、無人地帯にされてしまうのではないか…。

また恐ろしく不可解な「レベル7」評価で「チェルノブイリ級」事故との認定も(原発事故として考えられる最悪のケースの臨界爆発であった、文字通り「別格」だから「レベル7のチェルノブイリ」とはまるで違った事故なのに)、これで福島の農業と漁業は壊滅的なダメージを受けてしまいかねない。

しょせん恣意的な政治評価でしかないINESを用いた、それでもまともに理解していれば誰もが首を傾げる「チェルノブイリ並み」判定は、しょせんマスコミの「過小評価」「楽観論」批判を恐れた保身に過ぎないのだが、しかし政府たるものが国民の生活をなにも考えていないとは…。それはマスコミも、むろん同罪だ。

原発の雇用と補助金と税収への依存構造を、過疎化で大きな産業のない小さな自治体に、それがなければ出稼ぎせざるを得ないような土地に押し付けて来た残酷さを無視し等閑視して、「推進派をやっつけろ」的な、生活感ゼロの都会の政治ごっこで「放射能怖い」教の風評を広めれば、地元はますます分断され疲弊し、経済的に原発にますます依存するしかなくなることにも、想像が及ばないのだろうか?

ならば見知れ 見知らぬ人の命を
思い知るまで見知れ
顔のない街の中で
顔のない国の中で
顔のない世界の中で


まあしかし、この騒動が終った頃には、僕は友達が激減しているのだろうと思う。一部の「原発反対」の映画に関わる人であるとか、その無神経な冷酷さと無自覚な差別意識の発露に、二度と顔もみたくないとすら思ってしまっている。「放射能はとにかく危険なんです、子どもが奇形になったりガンになるんです。ちょっとでも汚染された可能性のある野菜を食べたら危険なんです」とか、原発に反対なのではなく、ただの差別カルトではないか。

8/06/2009

64回めの原爆忌に



U2のアルバム『原子爆弾を解体する方法 How to Dismantle an Atomic Bomb』から、Sometimes You Can't Make It on Your Ownをなんとなく聴く。

このU2の中でもっとも純度の高いラブソングは、“強さ” だけに依存して来た加害者がやっとその力の行使の道義的責任を認め、やっと世界が核廃絶に本気で向かおうとしつつある今だから、このアルバムのなかにあるのがふさわしい歌なのかもしれない。

Tough, you think you've got the stuff
You're telling me and anyone
You're hard enough

You don't have to put up a fight
You don't have to always be right
Let me take some of the punches
For you tonight

Listen to me now
I need to let you know
You don't have to go it alone


And it's you when I look in the mirror
And it's you when I don't pick up the phone
Sometimes you can't make it on your own

We fight all the time
You and I...that's alright
We're the same soul
I don't need...I don't need to hear you say
That if we weren't so alike
You'd like me a whole lot more

Listen to me now
I need to let you know
You don't have to go it alone

And it's you when I look in the mirror
And it's you when I don't pick up the phone
Sometimes you can't make it on your own


I know that we don't talk
I'm sick of it all
Can - you - hear - me - when - I -
Sing, you're the reason I sing
You're the reason why the opera is in me...

Where are we now?
Still got to let you know
A house still doesn't make a home
Don't leave me here alone...

And it's you when I look in the mirror
And it's you that makes it hard to let go
Sometimes you can't make it on your own
Sometimes you can't make it
The best you can do is to fake it
Sometimes you can't make it on your own


タフだね、あなたは必要な力は持ってると思っている
あなたはそう言う、僕にも、皆にも
自分は十分に強いんだと

でもいつも戦うことなんてない
いつも正しくなければなんてことはない
今夜はあなたの代わりに
僕がパンチを食らってもいい

今は僕の言葉を聞いてくれ
あなたに分かって欲しいんだ
一人で戦わなきゃなんてことはないと

そして僕が鏡を見る時、そこににいるのはあなた
僕が電話をとらない時、その向こうにいるのはあなた
時に人は、一人ではなにも成し遂げられない

僕たちはいつも喧嘩する
あなたと僕、それでいいんだ
二人は同じ魂だから
今さらいいんだ、もう言わなくていい
二人がこんなにそっくりでなければ
僕のことをもっと好きになれただろうなんて

今は僕の言葉を聞いてくれ
あなたに分かって欲しいんだ
一人で戦わなきゃなんてことはないと

そして僕が鏡を見る時、そこににいるのはあなた
僕が電話をとらない時、その向こうにいるのはあなた
時に人は、一人ではなにも成し遂げられない

二人がもう口を聞いてないことも分かってる
それが僕にはうんざりだ
あなたには聞こえてるだろうか
僕が歌っているのを。僕が歌う理由はあなただ
あなたがいたから、僕のなかにはオペラがある

二人は今どこにいるんだ?
あなたに分かって欲しいんだ
家という建物はそれだけじゃ家にならない
僕をここに一人にしないでくれ…

そして僕が鏡を見る時、そこににいるのはあなた
僕が電話をとらない時、その向こうにいるのはあなた
時に人は、一人ではなにも成し遂げられない
時にはなにもできない
せいぜい自分を騙してやってくだけだ
時に人は、一人ではなにも成し遂げられないんだ


しかしそれにしてもいい曲、そして素晴らしい歌詞。

一応、Bonoが父親を想定して書いた曲だそうですが、親子にも、恋愛にも、友情にも、世界平和にさえ当てはまるような。

もちろんこの歌の中の「You」にアメリカを想定するとかそういう陳腐な解釈のことではない。だいたい鏡のなかに「I」が見るのが「You」であり、「同じ魂」なのだから。

権利料払えるだけのお金があれば、今撮っている映画のエンディングで使いたいほど。ある意味でテーマのすべてをすでに言い当てているような気もする。