木下恵介『破戒』
源義経の愛人はなぜ、白拍子の静御前でなければならなかったのか?
室町時代に将軍の寵愛を受け能楽を創始したのは、傀儡の身分であり猿楽師であった観阿弥・世阿弥の親子である。
歌舞伎を創始した出雲のお国は、京都四条河原で興行した。この女歌舞伎はやがて幕府の禁制をうけ、江戸時代を通じて若衆歌舞伎、そして野郎歌舞伎と変貌し進化を続けることで演劇として大勢する一方で、俳優は俗に「河原乞食」との蔑称でも呼ばれていた。
市川崑『雪之丞変化』
女歌舞伎や若衆歌舞伎が風紀を乱すものとして弾圧されたのは、舞踊演劇の興行の一方で売春を兼ねていたからである。女歌舞伎は娼婦、若衆歌舞伎は男娼を兼ねてもいた。
大変な美少年であった世阿弥が将軍義満の愛人でもあったことは有名であり、静御前に遡っても、白拍子は神に奉納する舞を白衣で舞う一方で、娼婦でもあった。
溝口健二『元禄忠臣蔵』
傀儡つまり操り人形師の系譜に、江戸時代になによりも物語を担っていた文楽人形浄瑠璃がある。
人間でなく人形が、己を操る人形師が表情の読み取れない顔を隠しもせずにそばにいながら、極めて複雑でデリケートな人間のリアリスティックな感情を見せて行く、世界に他に例をみない演劇。
浄瑠璃の名作の多くは歌舞伎に改作もされているのだが、歌舞伎では生身の人間が演じてるにも関わらず、ドラマ性、芝居の中身を堪能するのなら断然、文楽人形浄瑠璃で見たほうがおもしろいのはなぜなのだろう?
浄瑠璃の世話物は当時の話題の事件の劇化であり、歴史物は歴史的な事件の独創的な解釈から、武家社会の忠義の倫理が生んだどうしようもない矛盾を炙り出すものばかりである--「仮名手本忠臣蔵」しかり、「妹背山女貞訓」しかり、「義経千本桜」しかり。人間たちは社会的倫理と人としての良心の矛盾の板挟みに苦しみながら、ときには自ら悪役の汚名をあえて被り、自決の前に真相を告白して死んで行く。
わけてももっともドラマチックな完成度が高いと言われる「一谷嫩軍記」は、主君義経への忠義のため、源氏が平家から政権を奪取する一方で天皇家への忠節は守らなければならない、しかし平家側では皇室のご落胤も共に都落ちしていて殺すわけにはいかない、そのジレンマの解消のために我が子をあえて殺害し、しかもそれを隠し続けて生きねばならない熊谷次郎直実の悲劇を描く。
『一谷嫩軍記・熊谷陣屋』初代中村吉右衛門の直実
歌舞伎版の初代中村吉右衛門の直実による上演はマキノ雅弘が演出した映画記録が現存しているが、すべてを隠して出家して去って行く直実の姿が、花道を歩き陣屋から遠ざかると、その一歩一歩ごとにもののふの身体が、一人の傷ついた父の身体へと変化し、一歩一歩ごとに小さくなって行く。
日本の物語とは、社会のなかで決して公に語ることのできない個々人の真実の悲劇として、明治維新まで大成して来たのだ。一貫してそれを担って来たのが、もともと農耕コミュニティの内部でなくその周縁部にあったた人々、いわば日本社会における「他者」たちだった。
日本人の物語を創造し伝えて来たのが、伝説ではときに鬼の子孫ともされ、カミとヒトの世界を担う身分にあり、江戸時代以降はいわば差蔑される側に追い込まれた人々であったり、人間ではなく人形であったことは興味深い。
言うまでもなく、彼らの頂点にあったのが天皇家である。
中世以降の歴史を通じてほとんど政治的実権を持たず、空間を物理的に支配することは貴族、そして武家に任されて来たこの日本の歴史のなかで、天皇家が支配して来たものがひとつある--時間、つまり暦は天皇家、ヒトではあっても半ばカミ、カミ領域とヒト領域の境界にある人々の頂点にあるこの存在が、明治維新による太陽暦の採用と元号制度の改変まで、ずっと支配して来たのだ。
農耕民族である日本人の時間は、元々一年サイクルの農作業に基づく時間であった。その生活には繰り返しの円還はあるが、直線的な物語はない。農作物の一年ではなく人間の一生などの物語的な、長期に渡り、ただひたすら繰り返すわけではない人間の生と死のサイクルは、その一年ごとの時間に縛り付けられなければ生活できない農耕コミュニティの内部ではなく、外にある者が担うように、元々分担されていたのかも知れない。
そうした中世から江戸時代前期、だいたい享保期までの日本の「物語」は上方が中心に発達し、それを担って来た「傀儡」「河原乞食」「白拍子」、浄瑠璃の「太夫」…いずれも江戸幕府がしいた身分制度によって「えた・ひにん」という最下層に貶められ、明治維新以降はタテマエ上は平等とされながら、戸籍には「新平民」と差異化して記されていた人々である。
『義経千本桜』知盛
彼らは神事を司ると同時にしばしば売春に携わる人々でもあった。
屠殺業や皮革加工などの特殊技能を担ったも、動物の命を奪ってもその魂に祟りを起こさせぬよう鎮めることができる、命を奪って人に役立てることを許された存在もまた、彼らであった。
つまりは、ヒトとカミのあいだにあって生と死の儀礼を司る民である。上方中心の日本文化とは、元々が彼らが創造して来たものだった。
なぜならば物語とは円還状に回帰するのでなく直線的に進む時間のなかのドラマであり、それは毎年の繰り返しの時間のサイクルを持つ農耕民には、もともとあまり想像/創造できないものだったのではないか。
それに農耕コミュニティの基本とは、ドラマすなわち葛藤ではなく、横並びででもみんなで同じことをする共同作業だから、そこにはなかなか物語やドラマは生まれにくい…というより、そこにドラマや葛藤があれば、農耕コミュニティの生産機能は落ちてしまうのだし、だから一年に一度の祭りのような「ハレ」の例外で、その繰り返しの日常をつかのまだけ離れるというのが、日本人の生き方だったのかも知れない。
加藤泰『怪談お岩の亡霊』
江戸時代中期から末期にかけて次第に日本の文化と「物語」のヘゲモニーは関東、急速に大都市化して経済と政治双方の中心として発展していった江戸に移って行くのだが、そこで生まれた物語の最高峰は、演劇では『東海道四谷怪談』を頂点とする怪談ものであり、戯作では『南総里見八犬伝』もまた、犬と人のあいのこの血を引き特別な霊力を持つ者たちが主人公である。
『里見八犬伝』はともかく、『東海道四谷怪談』もまた極端なまでに社会的リアリズムにのっとった身分制度と物欲に基づく悲劇だ。
お岩が化けて出るのは、なにしろ立身出世のために妻を毒殺した夫を恨んでのことである。『番町皿屋敷』もしかり(ちなみにこれも播州姫路藩で起きた実話に基づく)、抑圧的な体制のなかで目先の欲望だけで廻っている社会への批判というか怨恨が発散されるのは、虐げられ殺されたものたちの、亡霊だった。
加藤泰『怪談お岩の亡霊』
いやそれを言うのであれば、『義経千本桜』の舟知盛や、その祖型である能の『知盛』が典型であるように、自ら死を選ぶ前に切々と自分があえて悪役を装ったかの真相を述べる歴史もののモノローグはすでに死者の言葉であり(『千本桜』では知盛の亡霊と思われていたのが実は壇ノ浦を秘かに生き延びた知盛自身だったというヒネりまである)、亡霊だから口にできるものである。
世話物でも、近松の心中ものの道行きはすでに死への旅路であり、人形と浄瑠璃節という生きた人間ではないものに託された死者の言葉としてこそ、現実に起きた事件の「真相」が語られるのが、近代の西洋化以前の、日本における物語、日本人にとっての物語だったのかも知れない。
溝口健二
『元禄忠臣蔵』第二部より、
能の知盛の扮装をした徳川綱豊(市川右太衛門)と
富森助右衛門(中村翫右衛門)
そしてそれは常に、普通の日本人とは出自的に「異なる」とされた、ヒトとカミのあいだにあった身分としての「他者」たちによって語られるものであった。日本の興行が、演劇・演芸だけでなく相撲でさえ、カミに捧げる神事に起源を持っているのは、単に宗教や信仰の問題ではない。ヒトの繰り返しのなにも起らない(なにも起ってはいけない)日常と、天地の脅威であり人間に予測不能な現実の狭間、あるいは人間がコミュニティのルールを踏み外した時にこそ、物語が必要になるのだ。
『四谷怪談』のお岩が稲荷社に祀られ、『曾根崎心中』の心中現場の天神社が俗に「お初天神」と言われているのもまた、偶然ではない。普通の日本人は物語を持たず、物語を担えるものはすでに亡霊/神の領域に半分足を突っ込んでいる。
そうやって日常から逸脱する存在がなければ、物語を担うことも、語ることもできなかったのが、8割以上が名も物語もなき農民で、毎年毎年の同じ農耕のサイクルを繰り返すだけの日本人たちだったのかも知れない。
だいたい、近松に代表される世話物浄瑠璃/歌舞伎の主人公たちはいずれも、日常的な社会のルールを逸脱するものである。
日常的な社会のルールが同じことの繰り返しをつつがなく運営して波風を立てないことを主眼に構成されている日本社会では、物語とは逸脱者のものであるのが宿命だろう。
市川崑『こころ』
では開国、明治維新と近代化で大きく変貌した、近代日本の「物語」とはなんだったのだろう?
シオニズムとは流浪の民ユダヤ人が自らの運命を自分で左右できる(誤りを犯すことすら含め)イスラエル人となることだとハザズの指摘する、「歴史/物語なき民としての流浪のユダヤ人」つまり受動的な被害者から「自らの歴史/物語を担うイスラエル人、その基礎としてのユダヤ人の国民国家イスラエル」への転換に当たるものとはなにか? 日本人はずっと自分たちの土地に住み続けて来た世界でも珍しい民族であるのにも関わらず、日本の近代化の歴史は、その「物語を自分のものとする」転換点を持ったなかった。
開国は外国に強制されたものであり、その結果の明治維新で急速に押し進められた「国民国家としての日本」は、植民地主義が跋扈する世界のなかで日本国家が存続するための手段として急速に捏造されたものである。それは決して日本人たちのなかから自然に沸き上がった欲求でもなければ、それまでの日本文化の自然な延長でもなく、むしろそれを捨て去ることを強要するものだった。
実体権力を持たないがゆえに空間を支配せず、従って世俗から切り離されて半ばカミの領域にあって時間だけを象徴的に支配し、倫理的/象徴的権威だけを担保していた天皇を、「帝国」の中心に据えることは、天皇の文化的役割自体を否定することだったはずだし、半ばカミの領域にあるが故に御簾の向こうに垣間みるだけの存在を「ご真影」に写して全国に配布することは、とほうもなくラディカルな転換であったはずだ。
しかしそれをやった当事者である明治政府には、恐らくはその自覚はなにもなかっただろう。「日本とはなにか」「日本人とは何者か」を考えてる余裕などとても持てないなかで、ただ必死に西洋の模倣をしていた。
時間の支配ですら、西洋の暦に合わせて太陰暦を廃し太陽暦を採用することで「西洋近代化」に売り渡し、元号を天皇一代につきひとつにすることで、天皇が時間を支配するのでなく、天皇自身がそこには従う他はない自分の生と死の時間に暦が支配されることになった。そうしたカミ性を棄て時間と物語を担うのと引き換えに、天皇はいかめしい軍服姿のご真影に象徴されるような、世俗の実態権力のシンボルとなった。
天皇のアニミズム的なカミ性が剥奪されたからといって、日本人の歴史/物語が、天皇から日本人たちに移ったわけでもない。
明治における国民国家化政策は、あくまで上からのものであり(それは大きな自然と世界のなかでのカミではなく、実態権力の世俗のなかでの上位者に過ぎない)、新しい制度として押し付けられたものだ。
しかもそんな政策の選択自体が国際政治のなかの必然性から選びとられたに過ぎず、しかもその中身は伝統的な日本の民衆の文化の形態や精神を、「文明開化にふさわしくない」として排斥するものだった。
いわゆる「部落民」の階級、あるいは「河原乞食」、神事と結びついた日本の伝統芸能は、遊郭は寺社の門前町の近辺などのカミの居場所と隣接して存在し、吉原や島原の花魁がスーパースターでもあったように、売春とも結びついていた。
もちろん遊郭には性欲のはけ口としての「世界最古の職業」の需要と供給の原理に従った役割もあった一方で、性のいとなみは「生と死」、農耕民が扱う植物の一年周期のサイクルではない、動物としての生と死のサイクルに属する、カミ的な儀式、「ハレ」の儀式の側面を持っていた。
実際、今でも東北などの一部には裸祭りの風習が残っているが、性と神事もまた日本の古来の信仰では分ちがたいものだった。もちろんこれは、公衆浴場の混浴ですら「外国にふしだらで野蛮と見られるのではないか?」と目くじらをたてた明治政府の深刻な西洋コンプレックスとは、相容れない。
その政府がたぶんに慌てて作った「神道」という新しい信仰は、そうした日本アニミズム的な風習を、西洋からは蔑まれかねないものとして極力排除したものである。
そして「部落民」の階級は建前上は武士(士族)と貴族(華族)を除いた他の民衆と同身分の平民という法的扱いになりながら、戸籍には「新平民」という区分けが記され、差蔑は続くことになる。
いや四つ足の生きものを屠殺することから「ヨツ」というような蔑称が蔓延するのは、俗にいわれるように江戸時代の仏教の禁忌があったからなのだろうか?
そもそもその同じ禁忌のなかで、ほ乳類の肉を食する習慣がほとんどなかった以上、皮革加工以外に家畜を屠殺し死体を処理する職業の需要はほとんどなかったのではないか? ならそのことが、そんなに意識されたのだろうか? 動物の死よりも人の死を扱う、つまり葬祭などを請け負うことのほうが、江戸時代まではずっと多かったのではないか?
ところが明治維新で日本人も肉食をするようになると、屠殺業の需要はどうしたって増えたはずだ。「カミによって動物の命を奪うことを許される(殺された命が祟りを起こさないよう鎮める霊力がある)」とみなされた人々が本格的に「ヨツ」などと差蔑されるようになったのは、むしろその明治以降なのではないか?
一方でこの階層と天皇との密接な関係もまた近代天皇制では排除され、彼らは物語の担い手としての地位も奪われた。
市川崑『こころ』
だからといって一般日本人全体が物語の担い手になったわけではなかった。そこに担うべき物語があったのかどうかさえ、疑わしい。
むしろ明治維新によって、日本人は自分たちの物語を失った民になったのかも知れない--急激な国民国家的感覚の捏造のなかで、日本のなかでの「他者」を虐げ追いやり、その存在を隠蔽しようとした結果、「他者」であるが故に語り部たりえた人々から、表現を奪うしかなかったのかも知れない。
近代日本の物語、つまり近代日本文学を創始した文学者たちの多くは、英国帰りの夏目漱石、ドイツ帰りの森鴎外、ロシア文学を学んでいた二葉亭四迷などなど、海外での体験を元に日本を「他者」の視線で見ることができた人々がほとんどだ。
日本近代文学の始まりである言文一致運動にせよ、島崎藤村らの自然主義文学運動にせよ、英国やフランスなどの西洋の文学の手法を日本化したものだった。
歌舞伎/旧劇に対する新しい日本演劇としての「新劇」もまた、西洋演劇の翻訳としてシェイクスピアやイプセンの上演から始まっている。
ポール・シュレイダー『Mihsima: A Life in Four Chapters』
漱石の『こころ』のKの自殺と、そして「先生」の自殺以降、もっともポピュラーな代表作がギリシャを舞台にした『走れメロス』である太宰の自殺、フランス文学の強い影響を受けた白樺派、そして三島由紀夫の「豊饒の海」の完結とパラレルになった愛国的天皇主義を装った作品としての死に至るまで、日本の近代文学を貫くもっとも大きなテーマとは、西洋的なるものと日本的なるものの葛藤、いや日本的な物語を失ってしまって中途半端に西洋化した、もはや自分達が何者であるかを見失った日本人の物語の不在のなかから、いかに真の物語らしきものを現前させるかの葛藤だったのかも知れない。
それはドイツやフランス現代文学に強く影響された文体を持つ安部公房や、やはりフランス現代文学の実験性を日本語で再発見しようとする大江健三郎、そしてアメリカ現代文学に深い影響を受け翻訳者としても活躍する村上春樹に至る系譜を形作っているのだが、それは「他者」にしか物語を託し得なかった日本人の伝統のなかでは、当然の帰結なのかも知れない。
…と同時に、その物語の多くは、生と死の祝祭である以上、しばしば死で終わることを運命づけられているのかも知れない。
それも三島が極端な例である「自分の生を作品として完成させるための死」としての自決、あるいは川端の自殺、太宰の自殺…。これほど著名作家がそのような死を選んだ文学史もめったにない。
ポール・シュレイダー『Mihsima: A Life in Four Chapters』
日本映画では黒澤明の自殺未遂があり、還暦の誕生日に死ぬという芸当を成し遂げながら、端正ななかに凶暴な破壊性を秘めたスタイル(吉田喜重の言葉を借りれば、「反映画」)で物語にならない日本の家族の生と死のサイクルを写し続けた小津安二郎がいて、かつてカミとヒトのあいだにあった娼婦達を聖なる娼婦/虐げられたる者の代弁者の二重性のなかに見つめ続け、撮り続けた溝口健二がいる、ということになるのかも知れないし、現代日本映画で黒沢清がホラーのジャンルでとくに傑出した作品を産み出し続けるのも、お岩さんを必要とした江戸時代以上に、幽霊/亡霊でなければ今の日本という社会を語れないからかも知れない。
だいたい吉田喜重が指摘する通り、映画それ自体が植民地主義ヨーロッパの発明品であり、植民地主義ヨーロッパが自身の征服した世界じゅうの映像を見たがったために発展したメディアであり、それが日本に向けるキャメラという機械の眼差しは、根本的に「他者」のものである。
三島は映画『憂国』を作ったとき、「もっと影を増やした方がいい。その方がフランス人が喜ぶから」と言ったという。
一見日本的なものを神話化する文学や映画を創造しながら、三島の創作の根幹にあったのは常に、西洋古典的な整合性の論理への憧れだったし、本人もそれを隠してすらいない。『盾の会』とは、論理的な整合性の通用しない、曖昧なる、ドラマもなく、故に美しきフォルムをもたない「現代日本」への三島の反逆でもあった。
三島由紀夫『憂国』
その三島由紀夫が自らの死によって自身の生を作品として完成させようとしたその時期に、日本は工業国家として高度成長を完成させている。
それまでは「世界の一流国になる」という「進歩」のかりそめの直線的な物語を辛うじて信じられて来た日本は、バブルの時代を経て、いよいよ物語を持ち得ない国と社会になったのではないか? しかもその時に日本人は農耕民族であることをすでに忘れていて、一年周期の時間のサイクルを回復することもできない。高度成長が終わって以降、日本という時間は円還すらしていない。ただ停まっている。
…ということを考えてしまうのも、なんと『ドラえもん』の映画版がなんと今年で30周年記念作品なのだそうである。
未だ続編が作られる『機動戦士ガンダム』も30年前のアニメ、『ウルトラマン』や『宇宙戦艦ヤマト』に至ってはもう40年前のものだ。子供に夢を持たせる物語すら、我々は高度成長期に子供たちに進歩の夢を与えようとした物語以降、ほとんどめぼしい新しいものは産み出していない。
実際、僕自身が小学校くらいの頃に創造されもっとも人気のあったこれらの「物語」が、今では自分の姪や甥にとってももっとも人気があってポピュラーな物語なのだ。
これはいったいどういうことなのか?『鉄腕アトム』や『ドラえもん』、『ヤマト』が見せた科学技術の進歩の夢は、すでに21世紀になった現代に、もはや現実に近い夢物語として信じられるものですらないと言うのに。それらは科学技術の進歩が明るい未来を約束していたかに見えた時代だからこその物語だったというのに。
いやこれらの子ども向けの物語/現代の神話が創造された時代以降、物語はすでに物語ではなく、そこに見せられる人間の生き様に心揺さぶられるなり現実の世界や自分の生に対照して考えるべきものでもなくなり、もはやただの儀式に過ぎなくなっているのではないか?そう、あの「寅さん」や「水戸黄門」の無限の繰り返しのように、あるいは毎年形だけは繰り返されるNHKの大河ドラマか、未だになんだかんだで国民の4割くらいは見るらしい紅白歌合戦のように。
一方で、映画や演劇を志す若者は多いし、文芸雑誌では発行部数よりも多くの新人賞への応募があるそうだ。
こと映画ではデジタル撮影の時代に、いわゆる「自主映画」は大量に作られ、ほとんど量産されていると言っていい。だがそのほとんどにはそれなりの普遍性をもって「物語」たりえているものはなにもなく、かといって物語の不在ないし不可能性を自覚した現代映画たりえているわけでもない。
ほとんどが自己正当化のナルシシズムを物語と勘違いするのがせいぜいか、下手すれば映画なら映画を作ってるという行為のため、そうやって集団作業でもしていれば自分も社会参加している気分にでもなれるかのようなものなのが、現状だ。
恐らくこの不毛は、それらの「映画作り」もまた際限もなければ進歩も、物語展開らしきものさえない、単調な自己確認のための繰り返しの儀式に過ぎないからなのか?
それとも「他者」という認識がまったくない世界に、つまりは「他者」との葛藤を受け入れることでドラマを生き、物語を産み出すことが不可能な人生を、彼らが生きているからなのだろうか? 「他者」との葛藤を忌避して現状維持しながら、その現状にはなにもないことからは必死で目を逸らすための無意味なしぐさとして、彼らの似非物語を作ってるフリがあるだけなのだろうか?
それともそれは、この日本の今という時代が、あまりに空虚だからなのだろうか?
源義経の愛人はなぜ、白拍子の静御前でなければならなかったのか?
室町時代に将軍の寵愛を受け能楽を創始したのは、傀儡の身分であり猿楽師であった観阿弥・世阿弥の親子である。
歌舞伎を創始した出雲のお国は、京都四条河原で興行した。この女歌舞伎はやがて幕府の禁制をうけ、江戸時代を通じて若衆歌舞伎、そして野郎歌舞伎と変貌し進化を続けることで演劇として大勢する一方で、俳優は俗に「河原乞食」との蔑称でも呼ばれていた。
市川崑『雪之丞変化』
女歌舞伎や若衆歌舞伎が風紀を乱すものとして弾圧されたのは、舞踊演劇の興行の一方で売春を兼ねていたからである。女歌舞伎は娼婦、若衆歌舞伎は男娼を兼ねてもいた。
大変な美少年であった世阿弥が将軍義満の愛人でもあったことは有名であり、静御前に遡っても、白拍子は神に奉納する舞を白衣で舞う一方で、娼婦でもあった。
溝口健二『元禄忠臣蔵』
傀儡つまり操り人形師の系譜に、江戸時代になによりも物語を担っていた文楽人形浄瑠璃がある。
人間でなく人形が、己を操る人形師が表情の読み取れない顔を隠しもせずにそばにいながら、極めて複雑でデリケートな人間のリアリスティックな感情を見せて行く、世界に他に例をみない演劇。
浄瑠璃の名作の多くは歌舞伎に改作もされているのだが、歌舞伎では生身の人間が演じてるにも関わらず、ドラマ性、芝居の中身を堪能するのなら断然、文楽人形浄瑠璃で見たほうがおもしろいのはなぜなのだろう?
浄瑠璃の世話物は当時の話題の事件の劇化であり、歴史物は歴史的な事件の独創的な解釈から、武家社会の忠義の倫理が生んだどうしようもない矛盾を炙り出すものばかりである--「仮名手本忠臣蔵」しかり、「妹背山女貞訓」しかり、「義経千本桜」しかり。人間たちは社会的倫理と人としての良心の矛盾の板挟みに苦しみながら、ときには自ら悪役の汚名をあえて被り、自決の前に真相を告白して死んで行く。
わけてももっともドラマチックな完成度が高いと言われる「一谷嫩軍記」は、主君義経への忠義のため、源氏が平家から政権を奪取する一方で天皇家への忠節は守らなければならない、しかし平家側では皇室のご落胤も共に都落ちしていて殺すわけにはいかない、そのジレンマの解消のために我が子をあえて殺害し、しかもそれを隠し続けて生きねばならない熊谷次郎直実の悲劇を描く。
『一谷嫩軍記・熊谷陣屋』初代中村吉右衛門の直実
歌舞伎版の初代中村吉右衛門の直実による上演はマキノ雅弘が演出した映画記録が現存しているが、すべてを隠して出家して去って行く直実の姿が、花道を歩き陣屋から遠ざかると、その一歩一歩ごとにもののふの身体が、一人の傷ついた父の身体へと変化し、一歩一歩ごとに小さくなって行く。
日本の物語とは、社会のなかで決して公に語ることのできない個々人の真実の悲劇として、明治維新まで大成して来たのだ。一貫してそれを担って来たのが、もともと農耕コミュニティの内部でなくその周縁部にあったた人々、いわば日本社会における「他者」たちだった。
日本人の物語を創造し伝えて来たのが、伝説ではときに鬼の子孫ともされ、カミとヒトの世界を担う身分にあり、江戸時代以降はいわば差蔑される側に追い込まれた人々であったり、人間ではなく人形であったことは興味深い。
言うまでもなく、彼らの頂点にあったのが天皇家である。
中世以降の歴史を通じてほとんど政治的実権を持たず、空間を物理的に支配することは貴族、そして武家に任されて来たこの日本の歴史のなかで、天皇家が支配して来たものがひとつある--時間、つまり暦は天皇家、ヒトではあっても半ばカミ、カミ領域とヒト領域の境界にある人々の頂点にあるこの存在が、明治維新による太陽暦の採用と元号制度の改変まで、ずっと支配して来たのだ。
農耕民族である日本人の時間は、元々一年サイクルの農作業に基づく時間であった。その生活には繰り返しの円還はあるが、直線的な物語はない。農作物の一年ではなく人間の一生などの物語的な、長期に渡り、ただひたすら繰り返すわけではない人間の生と死のサイクルは、その一年ごとの時間に縛り付けられなければ生活できない農耕コミュニティの内部ではなく、外にある者が担うように、元々分担されていたのかも知れない。
そうした中世から江戸時代前期、だいたい享保期までの日本の「物語」は上方が中心に発達し、それを担って来た「傀儡」「河原乞食」「白拍子」、浄瑠璃の「太夫」…いずれも江戸幕府がしいた身分制度によって「えた・ひにん」という最下層に貶められ、明治維新以降はタテマエ上は平等とされながら、戸籍には「新平民」と差異化して記されていた人々である。
『義経千本桜』知盛
彼らは神事を司ると同時にしばしば売春に携わる人々でもあった。
屠殺業や皮革加工などの特殊技能を担ったも、動物の命を奪ってもその魂に祟りを起こさせぬよう鎮めることができる、命を奪って人に役立てることを許された存在もまた、彼らであった。
つまりは、ヒトとカミのあいだにあって生と死の儀礼を司る民である。上方中心の日本文化とは、元々が彼らが創造して来たものだった。
なぜならば物語とは円還状に回帰するのでなく直線的に進む時間のなかのドラマであり、それは毎年の繰り返しの時間のサイクルを持つ農耕民には、もともとあまり想像/創造できないものだったのではないか。
それに農耕コミュニティの基本とは、ドラマすなわち葛藤ではなく、横並びででもみんなで同じことをする共同作業だから、そこにはなかなか物語やドラマは生まれにくい…というより、そこにドラマや葛藤があれば、農耕コミュニティの生産機能は落ちてしまうのだし、だから一年に一度の祭りのような「ハレ」の例外で、その繰り返しの日常をつかのまだけ離れるというのが、日本人の生き方だったのかも知れない。
加藤泰『怪談お岩の亡霊』
江戸時代中期から末期にかけて次第に日本の文化と「物語」のヘゲモニーは関東、急速に大都市化して経済と政治双方の中心として発展していった江戸に移って行くのだが、そこで生まれた物語の最高峰は、演劇では『東海道四谷怪談』を頂点とする怪談ものであり、戯作では『南総里見八犬伝』もまた、犬と人のあいのこの血を引き特別な霊力を持つ者たちが主人公である。
『里見八犬伝』はともかく、『東海道四谷怪談』もまた極端なまでに社会的リアリズムにのっとった身分制度と物欲に基づく悲劇だ。
お岩が化けて出るのは、なにしろ立身出世のために妻を毒殺した夫を恨んでのことである。『番町皿屋敷』もしかり(ちなみにこれも播州姫路藩で起きた実話に基づく)、抑圧的な体制のなかで目先の欲望だけで廻っている社会への批判というか怨恨が発散されるのは、虐げられ殺されたものたちの、亡霊だった。
加藤泰『怪談お岩の亡霊』
いやそれを言うのであれば、『義経千本桜』の舟知盛や、その祖型である能の『知盛』が典型であるように、自ら死を選ぶ前に切々と自分があえて悪役を装ったかの真相を述べる歴史もののモノローグはすでに死者の言葉であり(『千本桜』では知盛の亡霊と思われていたのが実は壇ノ浦を秘かに生き延びた知盛自身だったというヒネりまである)、亡霊だから口にできるものである。
世話物でも、近松の心中ものの道行きはすでに死への旅路であり、人形と浄瑠璃節という生きた人間ではないものに託された死者の言葉としてこそ、現実に起きた事件の「真相」が語られるのが、近代の西洋化以前の、日本における物語、日本人にとっての物語だったのかも知れない。
溝口健二
『元禄忠臣蔵』第二部より、
能の知盛の扮装をした徳川綱豊(市川右太衛門)と
富森助右衛門(中村翫右衛門)
そしてそれは常に、普通の日本人とは出自的に「異なる」とされた、ヒトとカミのあいだにあった身分としての「他者」たちによって語られるものであった。日本の興行が、演劇・演芸だけでなく相撲でさえ、カミに捧げる神事に起源を持っているのは、単に宗教や信仰の問題ではない。ヒトの繰り返しのなにも起らない(なにも起ってはいけない)日常と、天地の脅威であり人間に予測不能な現実の狭間、あるいは人間がコミュニティのルールを踏み外した時にこそ、物語が必要になるのだ。
『四谷怪談』のお岩が稲荷社に祀られ、『曾根崎心中』の心中現場の天神社が俗に「お初天神」と言われているのもまた、偶然ではない。普通の日本人は物語を持たず、物語を担えるものはすでに亡霊/神の領域に半分足を突っ込んでいる。
そうやって日常から逸脱する存在がなければ、物語を担うことも、語ることもできなかったのが、8割以上が名も物語もなき農民で、毎年毎年の同じ農耕のサイクルを繰り返すだけの日本人たちだったのかも知れない。
だいたい、近松に代表される世話物浄瑠璃/歌舞伎の主人公たちはいずれも、日常的な社会のルールを逸脱するものである。
日常的な社会のルールが同じことの繰り返しをつつがなく運営して波風を立てないことを主眼に構成されている日本社会では、物語とは逸脱者のものであるのが宿命だろう。
市川崑『こころ』
「自分たちの祖国を失ったとき、ユダヤ人は歴史/物語を持たない民になった。我々の2000年の歴史とはなにか? 亡命、迫害、常に他者によって作られた、自分たちの作ったのではない歴史だ」−−シオニスト作家ハイーム・ハザズ
では開国、明治維新と近代化で大きく変貌した、近代日本の「物語」とはなんだったのだろう?
シオニズムとは流浪の民ユダヤ人が自らの運命を自分で左右できる(誤りを犯すことすら含め)イスラエル人となることだとハザズの指摘する、「歴史/物語なき民としての流浪のユダヤ人」つまり受動的な被害者から「自らの歴史/物語を担うイスラエル人、その基礎としてのユダヤ人の国民国家イスラエル」への転換に当たるものとはなにか? 日本人はずっと自分たちの土地に住み続けて来た世界でも珍しい民族であるのにも関わらず、日本の近代化の歴史は、その「物語を自分のものとする」転換点を持ったなかった。
開国は外国に強制されたものであり、その結果の明治維新で急速に押し進められた「国民国家としての日本」は、植民地主義が跋扈する世界のなかで日本国家が存続するための手段として急速に捏造されたものである。それは決して日本人たちのなかから自然に沸き上がった欲求でもなければ、それまでの日本文化の自然な延長でもなく、むしろそれを捨て去ることを強要するものだった。
実体権力を持たないがゆえに空間を支配せず、従って世俗から切り離されて半ばカミの領域にあって時間だけを象徴的に支配し、倫理的/象徴的権威だけを担保していた天皇を、「帝国」の中心に据えることは、天皇の文化的役割自体を否定することだったはずだし、半ばカミの領域にあるが故に御簾の向こうに垣間みるだけの存在を「ご真影」に写して全国に配布することは、とほうもなくラディカルな転換であったはずだ。
しかしそれをやった当事者である明治政府には、恐らくはその自覚はなにもなかっただろう。「日本とはなにか」「日本人とは何者か」を考えてる余裕などとても持てないなかで、ただ必死に西洋の模倣をしていた。
時間の支配ですら、西洋の暦に合わせて太陰暦を廃し太陽暦を採用することで「西洋近代化」に売り渡し、元号を天皇一代につきひとつにすることで、天皇が時間を支配するのでなく、天皇自身がそこには従う他はない自分の生と死の時間に暦が支配されることになった。そうしたカミ性を棄て時間と物語を担うのと引き換えに、天皇はいかめしい軍服姿のご真影に象徴されるような、世俗の実態権力のシンボルとなった。
天皇のアニミズム的なカミ性が剥奪されたからといって、日本人の歴史/物語が、天皇から日本人たちに移ったわけでもない。
明治における国民国家化政策は、あくまで上からのものであり(それは大きな自然と世界のなかでのカミではなく、実態権力の世俗のなかでの上位者に過ぎない)、新しい制度として押し付けられたものだ。
しかもそんな政策の選択自体が国際政治のなかの必然性から選びとられたに過ぎず、しかもその中身は伝統的な日本の民衆の文化の形態や精神を、「文明開化にふさわしくない」として排斥するものだった。
いわゆる「部落民」の階級、あるいは「河原乞食」、神事と結びついた日本の伝統芸能は、遊郭は寺社の門前町の近辺などのカミの居場所と隣接して存在し、吉原や島原の花魁がスーパースターでもあったように、売春とも結びついていた。
もちろん遊郭には性欲のはけ口としての「世界最古の職業」の需要と供給の原理に従った役割もあった一方で、性のいとなみは「生と死」、農耕民が扱う植物の一年周期のサイクルではない、動物としての生と死のサイクルに属する、カミ的な儀式、「ハレ」の儀式の側面を持っていた。
実際、今でも東北などの一部には裸祭りの風習が残っているが、性と神事もまた日本の古来の信仰では分ちがたいものだった。もちろんこれは、公衆浴場の混浴ですら「外国にふしだらで野蛮と見られるのではないか?」と目くじらをたてた明治政府の深刻な西洋コンプレックスとは、相容れない。
その政府がたぶんに慌てて作った「神道」という新しい信仰は、そうした日本アニミズム的な風習を、西洋からは蔑まれかねないものとして極力排除したものである。
そして「部落民」の階級は建前上は武士(士族)と貴族(華族)を除いた他の民衆と同身分の平民という法的扱いになりながら、戸籍には「新平民」という区分けが記され、差蔑は続くことになる。
いや四つ足の生きものを屠殺することから「ヨツ」というような蔑称が蔓延するのは、俗にいわれるように江戸時代の仏教の禁忌があったからなのだろうか?
そもそもその同じ禁忌のなかで、ほ乳類の肉を食する習慣がほとんどなかった以上、皮革加工以外に家畜を屠殺し死体を処理する職業の需要はほとんどなかったのではないか? ならそのことが、そんなに意識されたのだろうか? 動物の死よりも人の死を扱う、つまり葬祭などを請け負うことのほうが、江戸時代まではずっと多かったのではないか?
ところが明治維新で日本人も肉食をするようになると、屠殺業の需要はどうしたって増えたはずだ。「カミによって動物の命を奪うことを許される(殺された命が祟りを起こさないよう鎮める霊力がある)」とみなされた人々が本格的に「ヨツ」などと差蔑されるようになったのは、むしろその明治以降なのではないか?
一方でこの階層と天皇との密接な関係もまた近代天皇制では排除され、彼らは物語の担い手としての地位も奪われた。
市川崑『こころ』
だからといって一般日本人全体が物語の担い手になったわけではなかった。そこに担うべき物語があったのかどうかさえ、疑わしい。
むしろ明治維新によって、日本人は自分たちの物語を失った民になったのかも知れない--急激な国民国家的感覚の捏造のなかで、日本のなかでの「他者」を虐げ追いやり、その存在を隠蔽しようとした結果、「他者」であるが故に語り部たりえた人々から、表現を奪うしかなかったのかも知れない。
近代日本の物語、つまり近代日本文学を創始した文学者たちの多くは、英国帰りの夏目漱石、ドイツ帰りの森鴎外、ロシア文学を学んでいた二葉亭四迷などなど、海外での体験を元に日本を「他者」の視線で見ることができた人々がほとんどだ。
日本近代文学の始まりである言文一致運動にせよ、島崎藤村らの自然主義文学運動にせよ、英国やフランスなどの西洋の文学の手法を日本化したものだった。
歌舞伎/旧劇に対する新しい日本演劇としての「新劇」もまた、西洋演劇の翻訳としてシェイクスピアやイプセンの上演から始まっている。
ポール・シュレイダー『Mihsima: A Life in Four Chapters』
漱石の『こころ』のKの自殺と、そして「先生」の自殺以降、もっともポピュラーな代表作がギリシャを舞台にした『走れメロス』である太宰の自殺、フランス文学の強い影響を受けた白樺派、そして三島由紀夫の「豊饒の海」の完結とパラレルになった愛国的天皇主義を装った作品としての死に至るまで、日本の近代文学を貫くもっとも大きなテーマとは、西洋的なるものと日本的なるものの葛藤、いや日本的な物語を失ってしまって中途半端に西洋化した、もはや自分達が何者であるかを見失った日本人の物語の不在のなかから、いかに真の物語らしきものを現前させるかの葛藤だったのかも知れない。
それはドイツやフランス現代文学に強く影響された文体を持つ安部公房や、やはりフランス現代文学の実験性を日本語で再発見しようとする大江健三郎、そしてアメリカ現代文学に深い影響を受け翻訳者としても活躍する村上春樹に至る系譜を形作っているのだが、それは「他者」にしか物語を託し得なかった日本人の伝統のなかでは、当然の帰結なのかも知れない。
…と同時に、その物語の多くは、生と死の祝祭である以上、しばしば死で終わることを運命づけられているのかも知れない。
それも三島が極端な例である「自分の生を作品として完成させるための死」としての自決、あるいは川端の自殺、太宰の自殺…。これほど著名作家がそのような死を選んだ文学史もめったにない。
ポール・シュレイダー『Mihsima: A Life in Four Chapters』
日本映画では黒澤明の自殺未遂があり、還暦の誕生日に死ぬという芸当を成し遂げながら、端正ななかに凶暴な破壊性を秘めたスタイル(吉田喜重の言葉を借りれば、「反映画」)で物語にならない日本の家族の生と死のサイクルを写し続けた小津安二郎がいて、かつてカミとヒトのあいだにあった娼婦達を聖なる娼婦/虐げられたる者の代弁者の二重性のなかに見つめ続け、撮り続けた溝口健二がいる、ということになるのかも知れないし、現代日本映画で黒沢清がホラーのジャンルでとくに傑出した作品を産み出し続けるのも、お岩さんを必要とした江戸時代以上に、幽霊/亡霊でなければ今の日本という社会を語れないからかも知れない。
だいたい吉田喜重が指摘する通り、映画それ自体が植民地主義ヨーロッパの発明品であり、植民地主義ヨーロッパが自身の征服した世界じゅうの映像を見たがったために発展したメディアであり、それが日本に向けるキャメラという機械の眼差しは、根本的に「他者」のものである。
三島は映画『憂国』を作ったとき、「もっと影を増やした方がいい。その方がフランス人が喜ぶから」と言ったという。
一見日本的なものを神話化する文学や映画を創造しながら、三島の創作の根幹にあったのは常に、西洋古典的な整合性の論理への憧れだったし、本人もそれを隠してすらいない。『盾の会』とは、論理的な整合性の通用しない、曖昧なる、ドラマもなく、故に美しきフォルムをもたない「現代日本」への三島の反逆でもあった。
三島由紀夫『憂国』
その三島由紀夫が自らの死によって自身の生を作品として完成させようとしたその時期に、日本は工業国家として高度成長を完成させている。
それまでは「世界の一流国になる」という「進歩」のかりそめの直線的な物語を辛うじて信じられて来た日本は、バブルの時代を経て、いよいよ物語を持ち得ない国と社会になったのではないか? しかもその時に日本人は農耕民族であることをすでに忘れていて、一年周期の時間のサイクルを回復することもできない。高度成長が終わって以降、日本という時間は円還すらしていない。ただ停まっている。
…ということを考えてしまうのも、なんと『ドラえもん』の映画版がなんと今年で30周年記念作品なのだそうである。
未だ続編が作られる『機動戦士ガンダム』も30年前のアニメ、『ウルトラマン』や『宇宙戦艦ヤマト』に至ってはもう40年前のものだ。子供に夢を持たせる物語すら、我々は高度成長期に子供たちに進歩の夢を与えようとした物語以降、ほとんどめぼしい新しいものは産み出していない。
実際、僕自身が小学校くらいの頃に創造されもっとも人気のあったこれらの「物語」が、今では自分の姪や甥にとってももっとも人気があってポピュラーな物語なのだ。
これはいったいどういうことなのか?『鉄腕アトム』や『ドラえもん』、『ヤマト』が見せた科学技術の進歩の夢は、すでに21世紀になった現代に、もはや現実に近い夢物語として信じられるものですらないと言うのに。それらは科学技術の進歩が明るい未来を約束していたかに見えた時代だからこその物語だったというのに。
いやこれらの子ども向けの物語/現代の神話が創造された時代以降、物語はすでに物語ではなく、そこに見せられる人間の生き様に心揺さぶられるなり現実の世界や自分の生に対照して考えるべきものでもなくなり、もはやただの儀式に過ぎなくなっているのではないか?そう、あの「寅さん」や「水戸黄門」の無限の繰り返しのように、あるいは毎年形だけは繰り返されるNHKの大河ドラマか、未だになんだかんだで国民の4割くらいは見るらしい紅白歌合戦のように。
一方で、映画や演劇を志す若者は多いし、文芸雑誌では発行部数よりも多くの新人賞への応募があるそうだ。
こと映画ではデジタル撮影の時代に、いわゆる「自主映画」は大量に作られ、ほとんど量産されていると言っていい。だがそのほとんどにはそれなりの普遍性をもって「物語」たりえているものはなにもなく、かといって物語の不在ないし不可能性を自覚した現代映画たりえているわけでもない。
ほとんどが自己正当化のナルシシズムを物語と勘違いするのがせいぜいか、下手すれば映画なら映画を作ってるという行為のため、そうやって集団作業でもしていれば自分も社会参加している気分にでもなれるかのようなものなのが、現状だ。
恐らくこの不毛は、それらの「映画作り」もまた際限もなければ進歩も、物語展開らしきものさえない、単調な自己確認のための繰り返しの儀式に過ぎないからなのか?
それとも「他者」という認識がまったくない世界に、つまりは「他者」との葛藤を受け入れることでドラマを生き、物語を産み出すことが不可能な人生を、彼らが生きているからなのだろうか? 「他者」との葛藤を忌避して現状維持しながら、その現状にはなにもないことからは必死で目を逸らすための無意味なしぐさとして、彼らの似非物語を作ってるフリがあるだけなのだろうか?
それともそれは、この日本の今という時代が、あまりに空虚だからなのだろうか?
「なんにでもついていくのだけは得意ですからね、日本人ってヤツは」
加藤泰監督『男の顔は履歴書』、雨宮医師(安藤昇)
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