最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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11/27/2015

原節子(1920年6月17日〜2015年9月5日)



原節子が9月に亡くなっていたことを、親族が先頃公表した。二ヶ月以上黙っていたのは、本人が「騒ぎにしないで欲しい」と言い遺していたからだという、いかにも原節子らしい終わり方だった。42歳での突然の引退は、いろいろ憶測しても始らないと思う。

とはいえ、いろいろ言いたくなるのが人情というもので、東京新聞のコラムでは『東京物語』で原演ずる紀子が言う「いいんです。あたし、歳とらないことに決めてますから」と言う台詞を引用していた。http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2015112702000171.html

だが『東京物語』の、このもっとも恐ろしく哀しい台詞のひとつが、ただ「永遠の処女」で42歳の美しさの絶頂で引退した原節子を修辞する言葉としてしか受け取られなくなったのだとしたら、確かに文字通り「戦後は終わった」のだ。

夫・昌二が出征したまま帰って来ない8年間、ずっと平山家の嫁であり続けて来た紀子と、息子が戦死したのかどうかすら分からない平山夫妻にとって、戦争が終わって8年のあいだ、時間は止まっているのだ。紀子が「あたし、歳とらないことに決めてますから」と言うのは、彼女の時間が止まっていることを示す言葉なのであり、平山夫妻が気を揉むのは、自分達はいいがまだ若い彼女を、この止まった時間のなかに留めたままでいいのだろうか、ということである。

『東京物語』の家族が崩壊するのは、次男と共に時間が止まったままの父母、そして紀子と、生活を続けなければならない長男、長女、三男の進み行く戦後日本の時間が、根本的に相容れないものであるからだ。と、同時に、空襲で焼け野原になったのがたった8年で大東京として復興していた東京を、その繁栄の裏にひっそりと戦争の傷を隠し続け、その両者が断絶を抱えながら共生している都市として、小津は映し出す。『東京物語』はそんな1953年だからこそ成立する日本の慎ましい肖像であり自画像であることをひっそり、分かるものにだけは分かるように秘めやかにあり続けているからこそ、普遍的な家族の物語として永遠に輝くのだ。


そして母とみは死に、父周吉は紀子に形見としてその時計を与える。もう紀子の時間が止まったままではいけない、と残酷な宣告を、最大のやさしさで伝えるために。


1945年8月15日から始る侯孝賢の『悲情城市』では、中心となる林家の四兄弟のうち、次男が日本の軍人としてルソン島に行っていて、そこから帰って来ていないままだ。これは侯の小津への密やかなオマージュなのかも知れない。

いや、『悲情城市』は1980年代の民主化でやっと台湾史のもっとも困難で残酷な時代(日本植民地から中華民国に復帰してから本土を追われた中華民国政府が台湾に移るまでの四年間)を語れるようになった侯孝賢たち台湾の映画人にとっての『東京物語』なのかも知れない。その四年間に始った苦難と戒厳令の時代が終わった時、それを忘れないため、語るために作られたのが『悲情城市』なのだから。

小津安二郎『麦秋』
侯孝賢『悲情城市』

台湾の人たちは、その暗黒の歴史が終わった時に、この映画と、『クーリンチェ少年殺人事件』(エドワード・ヤン)という二本の映画が産まれて幸運だったと思う。もちろんこの二本の映画が台湾で多くの人が見て来た作品では必ずしもないことも事実なのだが、それでも台湾の人々が自分達の複雑な歴史を見つめられているからこそ、今や東アジアでもっとも民主主義が定着している国になったのは間違いないはずだ。


それならわが日本はどうなのか、ということになる。原節子は10代で1930年代にデビューし、日独合作の『新しき土』(1937)で彼女を見たアメリカの大プロデューサー、デイヴィッド・O・セルズニックがアメリカに招いて世界的スターにする、と野心を燃やしたという伝説がある。それは日中戦争でどんどん日米関係が悪化するなかであり得ない夢となったが、原が文字通り国民的大スターとなったのは戦後、大柄で目鼻立ちのくっきりした、ある意味日本人離れした原節子の健康的な美しさが、新しい民主主義の時代を象徴するものにもなったからだ。

今井正監督『青い山脈』
黒澤明監督『わが青春に悔いなし』
小津安二郎が心底、恐ろしく知性にあふれる映画作家であるのは、そのいわば戦後の象徴であった原節子に、『晩春』(1949)『麦秋』(1951)では基本そのイメージに沿った役をやらせながら、決定打となる『東京物語』では、だからこそ真逆の存在として彼女を用いたことにある。その時、この映画では山村聡の長男、杉村春子の長女に代表される戦後の新しい日本の現実は、すでに原節子がそれまでの数年間体現して来た健康で無邪気に良心的なものでは、すでになくなっていた。

原節子はなぜ1962年に引退したのか?高度成長が始った日本において、既に占領が終わって新日本が始った1953年の時点で時が止まっていた紀子のような存在の、居場所はどんどんなくなって行った。戦後まもなくの平和と民主主義への歓迎すら、経済復興のなかで次第に色あせて行った。

成瀬巳喜男監督『山の音』
だから女優として別の役柄を選べばよかったという考えもあるだろうし、既に『東京物語』と前後して、『麦秋』と同年に黒澤明の『白痴』、『東京物語』の翌年に成瀬巳喜男の『山の音』、そして再び小津と組み笠智衆と親子を演じた『東京暮色』で、原は「戦後民主主義を代表する健康さ」とは真反対とも言える、異なった役柄を演じて来てもいる。

黒澤明監督『白痴』
だがそれでも、『東京物語』で紀子が体現した、保守伝統に囚われたという意味ではなく純粋に日本的な(と言っていいだろう)良心とやさしさとある健全な頑固さ(「それでいいんじゃよ。あんたは本当にいい人じゃ」の居場所が(すでに戦後が終わった時点で、だからこそ彼女の時間は止まっているのだ)、1962年以降の日本社会と日本映画になくなっていったのは確かだ。

それにしても今から見ると、原節子の絶頂期だった1949年から引退までの時代、日本映画は現代なぞよりもずっと女性の人格を尊重し、女性をきちんと人間として見る映画になっている。これも皮肉だ。

小津安二郎『秋日和』

4/05/2011

ジュリアーノ・メール Juliano Mer (1958-2011)


「俺は1958年にナザレで生まれた。その時、父は牢屋に入っていた。4歳のとき面会に行ったのを憶えている。しばらくはナザレの共産党事務所に住んでいたが、ハイファに引っ越した」


「六日間戦争が始まり、エジプト軍がイスラエルの軍艦を撃沈したので、暴行されて腕を折られた。それからチェコスロヴァキアだ。父が党を代表して派遣された」


「1968年から1972年の、ソ連軍の侵攻の2ケ月前までチェコスロヴァキアにいて。それからモスクワ、ドイツ、ハンガリー、トルコ、イタリアを転々として、イスラエルに戻ったら、軍に顔を蹴られ殴られ、『汚いアラブ野郎』と」

アモス・ギタイ『エステル』のジュリアーノ(文章は彼が語る自身の生い立ち)

ユダヤ人の母と、パレスティナ人の父を持ち、「俺はハーフじゃないよ。100%イスラエル人で100%パレスティナ人だ」と豪語していた俳優、演出家、映画作家で和平運動家のジュリアーノ・メールが、パレスティナ自治区のジェニンの彼自身がディレクターを務めていた「自由劇場」の前で、暗殺された。

黒い覆面をかぶった暗殺団に、運転していた車が銃撃されたのだ。


 ハーレツの記事
 <アルジャジーラの記事


ジュリアーノについて、なにを言おうにも、今は言葉が見つからない。彼は和平と自由のために戦う映画人であり、戦う演劇人だった。2004年からジェニンに構えた「自由劇場」で、パレスティナ社会の右傾化・宗教保守化に抗するラディカルな舞台も立て続けに発表していた。

とても気性が激しい人だが、とほうもなく子煩悩で、愛情深い男でもあった。

   アモス・ギタイ『ベルリン・エルサレム』

「ジュリアーノのようなラディカルな人間は、自分の肉体を使って憎しみの溝を超える橋になる。ジュリアーノの場合、それは本物だった。常人を越えた大きさを持った男だった」−アモス・ギタイ

"There are people like Juliano, who are radical people, try with their own bodies to serve as a bridge over the gorges of hate. And in Juliano's case its real, he is a larger than life" -Amos Gitai, from haaretz

母はユダヤ人、父はキリスト教家庭出身のパレスティナ人で、パレスティナ共産党の幹部として東欧諸国を渡り歩いた。

多重のディアスポラを抱えた、引き裂かれたアイデンティティを持った芸術家でもあったからこそ、その心は、激しくも純粋だったのだろう。だから彼は、闘い続けたのだ。

   アモス・ギタイ『ケドマ』

憎しみを超えようとする肉体…僕もちょっとだけ「共演」したアモス・ギタイの『ケドマ』では、ジュールはあえて、イスラエル独立運動ゲリラのリーダーを演じていた。『ベルリン・エルサレム』でも攻撃的なキブツ運動家の役。そういうことが平気で出来る男だった。

藤原敏史『インディペンデンス アモス・ギタイの映画「ケドマ」をめぐって』のジュール

4/21/2010

出演者への手紙

大阪で撮影を終えたばかりの集団即興による劇映画、『ほんの少しだけでも愛を』(編集中) で主人公の一人を演じた、俳優・安田一平が、俳優をやめることを決めて先日最後の舞台をやり遂げたことを記念しての、はなむけの言葉



本当にお疲れさん!最後の舞台を見に行けなくてごめん。

今回の映画は、元々は「素人」だけ使ってやるつもりで、「俳優」が出ることにはいささかの躊躇があったのが正直なところです。

最近、10年前くらいにちょっとだけ付き合いのあった大先輩、大島渚監督のことをふと思い出すことが多いのだけど、その大島渚のキャスティングのモットーが「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター、六、七,八、九となくて十に新劇」だった。

必ずしも大島さんに影響されたわけではないにしても、こういう方法論の場合はとくに、なまじ演技経験があるとそれがブロックになる可能性は考えていたわけだし。

それにぶっちゃけた話、寺島しのぶとかの凄い俳優だと分かってる人を使えるわけじゃないのに、そのクラスの俳優がやってるのと同じレベルの演技とは言わないものの、それに太刀打ちできるくらいのものを要求することには当然なってしまう。

それだけに同じ「俳優」の土俵では分が悪い可能性はあるのが、「俳優」がこの映画に出ることの高いハードルでした。

それは恐らく、まったくの素人がビギナーズ・ラックで、それもドキュメンタリーも撮っている映画作家の作品で自然に出来てしまうことよりも、はるかに高いハードルだったと思う。

それが「一に素人」の大島の映画だったら、台詞が棒読みとかそういうのはあるとしても、「素人」が佐藤慶とかの名優と互角かそれ以上の芝居してるわけで。『絞死刑』の主役の在日韓国人の死刑囚R、『戦場のメリー・クリスマス』のハラ軍曹、ビートたけしがこの役をやったときだって、彼はまだ俳優としては「素人」だった。坂本龍一もデビッド・ボウイも「俳優」ではなく、「歌うたい」だしね。

また同じような方法論でやった前作『ぼくらはもう帰れない』(2006)でも、ひとりだけプロがいて、頭の回転の早くチャレンジ精神も旺盛な負けず嫌いの女性だったから、自信を失いそうな失敗も含めいろいろ試行錯誤した結果、最後にはうまく映画のなかでの自分なりの居場所を見つけてくれたものの、自分の彼女にとって難しい体験だったのも確かだし。

とはいえ今回は、来るものは拒まずで「俳優です」という人もキャスティングはしたものの、やっぱりなまじ演技経験がある人はいろいろ計算してしまうところがあるのか、本人たちにとっても僕にとっても難しいところは多かったと思う。

なまじ「作って」しまう役柄や演技は必ずしも即興には合わない、サプライズもないし、しかもまったくのド素人が自分自身を「演ずる」のですらなくただそこにいることで自然な存在感をアピールしてしまったりするものだから、「俳優」の人は焦ることも多かったんだと思う。それは過酷だったと思う。

真っ先にそこから抜け出したのは加納克範君と、あと最初からほとんど問題がなかったのが安田君でした。

『ほんの少しだけでも愛を』加納克範安田一平

とはいえ安田君の場合は舞台の方も忙しくて参加できる日数も限られていたので、大きな役にはならないだろうと最初は思っていたのも確かです。だからそんなに多くを要求する気はなかった。器用な人なのは分かっていましたから、それでちょっと変わった役柄をおもしろおかしくやってくれれば、それで映画のなかでちょっとした息抜きでありスパイスになってくれれば、それで十分だと思っていた。

ところが終わってみれば、これは誰よりもまず安田君の映画になっている。とくに最後の日曜日に撮影した、ラストシーンと、大阪に未だに残る遊郭のはずれの慰霊碑のシーンの安田君は、何度見ても凄いと思う。もちろん最初から巧かったのは認めるけど、この日の撮影分はだいたい、君の顔が違う。

『ほんの少しだけでも愛を』ラストシーン

慰霊碑の前の安田一平 Scene 1
慰霊碑の前の安田一平 Scene 2

改めて思ったけれど、俳優ってのは、キャメラの前に立つ人間とは、けっきょくはまず人間性が勝負になる。

それはキャメラの前に立つ人は誰でも、劇映画でもドキュメンタリーでもそうだという僕の確信は変わらないけれど、俳優は自分の人間性を曝け出す訓練が、いわゆる素人よりもできているはず、その曝け出した人間性を役柄の人間性にしてしまえるはず(今回の映画のようなやり方ではその限りではないけど)、その訓練ができてなければ、俳優ではない。

でもそうした訓練による演技の「巧さ」を超えたところで、やっぱり最後に問われるのは、そのキャメラの前の人間が持っている人間性のみ。その意味で「俳優」であるかどうかは、僕にとってはあまり関係がないと、僕は思っていました。

でも最後のあの日に撮った安田君のシーン二つは、安田君が俳優であるからこそ、俳優として自分の人間性を鍛えて来たからこそ、あれだけの真摯さが溢れるシーンになったんだと思います。

もちろんラストの、安田君と加納克範君二人のシーンでは、加納克範君もおなじ真摯さと誠実さを共有してたし、加納君の持ってた素晴らしい人間性を引き出せたし、今後は加納君も素晴らしい俳優になっていくことを期待してやみません。

正直、まずその数日前に最初はおちゃらけた「友チョコ」シーンをやったあと、のちにラストシーンを撮るべき場所だと君が決意することになる街並を歩いて、飯塚亮子さんや僕の説明を聞きながら、それ以上に自分の目で見て身体で感じながら安田君の顔に明らかに起っていた表情の変化に驚いたし、こっそりと感動もしてました(その場で素直に出したらまずいから出さなかったけど)。


安田君がうまい役者なのは、これまで舞台で培って来た経験と訓練ももちろんあるんだろうけど、それ以上に役者としてやって来たことを自分の心と身体で真摯に受け止めて来たことが、安田君の人間性を高めても来たのだと思う。

正直、君が「マッチョな兄貴・体育会系」なところはちょっと辟易したこともあったり(笑)、ときどき言ってることががあまりに舞台俳優やなぁ、映画の生理ってのはちょっと違うんだけどそれは説明した方がいいのかなとか迷ったこともあったけれど、最後まで安田君とつき合えて、安田君の俳優としての最後の仕事のひとつを撮ることができて、本当に幸運でしたし、本物の「俳優」と組むことができたのも大変な幸福でした。

恐ろしく大変な撮影で、ここまで苦労した仕事は、映画を撮り始める前でも映画を作る側になってからも、これまで自分にはなかったと思うけれど、その苦労もこういうものが撮れるのなら、報われた気がします。何度もやめようか、これは無理だ、始めたこと自体が間違いだったとも思おうとしたけれど、やっぱりこの映画は、やってよかったと思います。

まあ最初から、この男は俳優としてのプロフェッショナリズムが分かってるから、なにを言ってもこの男は最後までやり抜くんだろうな、とは思ってたけどね(笑)。だったら時にはキツいことを言うのも、「プレッシャーをかけて、なにが出て来るかを見る」のは、出演者にでもスタッフにでも、僕の演出のもっとも基本の部分なんで(すまん!)。

安田君と映画を作れたことで、大島渚監督の「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター…」というモットーの意味も、もっと深いところまで学ぶことができた気が今はしています。つまり大島さんの言ってたことは、だからこそ、人間性を見抜くことがいちばん大事なんだという意味なんだと。

今回はそれについて、ずいぶん失敗したことは否めないけど、安田君に関してはやっぱりハズれはなかった。いや、もの凄くいい意味で、予想外でハズれた?

本当に俳優やめちゃうの? それはものすごく残念だけど、俳優をやって来たからこそ高めることができた安田君の豊かな人間性は、あの二つのシーンを見ればそれが本物であることは誰にも否定できないし、そんな安田君であれば今後どんな仕事でもそれなりのことは出来るだろうと信じてます。


素敵な、めったにないであろう体験を本当にありがとう。こういう体験がときには出来るからこそ、映画作家という人種は生き続けられるのだろうと、あらためて思います。そして本当にお疲れさまでした。