最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

10/23/2012

京都、西本願寺の “日本史のタブー”



前回の龍安寺に続き、京都のお寺の話。

京都駅からいちばん近いお寺といえば、南に(新幹線から塔が見える)教王護国寺(東寺)と、北に烏丸口で降りて烏丸通をまっすぐ行った東本願寺と、そこから左に曲がった先の西本願寺である。

どういうわけか、両本願寺はともにそれほど観光名所ではない(西本願寺はUNESCOで世界遺産登録もちゃんとされているのに)し、その歴史もあまり知られていない。

国宝である白書院、黒書院、飛雲閣が普段は公開されていないせいもあるのだろうけど、そういえば「本願寺」という名称は、日本史の教科書でもよく出て来る割にはよく分からない存在だ。

国宝 唐門

ちなみに唯一普通に見られる国宝の唐門(彫刻の細かさで、一日中見ていられるということから、「日暮の門」とも呼ばれる)だけでも呆れる程の絢爛豪華な桃山時代の大工仕事の粋だが、黒書院・白書院は、同じ京都にあるほぼ同時代の、様式も似通った建築であり、江戸幕府の京都代表部であった権力の象徴、二条城よりも、もっと洗練された絢爛豪華さで、狩野派全盛期の美術が結晶していたりする。

通常非公開なので、西本願寺の一連の豪華建築については、公式ウェブサイトはこちら。くれぐれも、びっくりしないように。

国宝 黒書院 式台玄関



「これが寺かよ。宮殿じゃねえか」っていう感じ。

…というか、浄土真宗の総本山の、門主の座所なんだから、ある意味宮殿なのだが、それにしても凄い財力だったわけだ。

本願寺派がどれだけ大きな力を持っていたかは、本堂の阿弥陀堂と御影堂の巨大さを見るだけで、強烈に印象づけられるはずだ。

阿弥陀堂
御影堂

それぞれに800人の信徒が、一度に入れるのだそうだ。

ちょっと我々が「京都のお寺」に抱いているイメージとは違うことも、あまり観光名所ではない理由なのかも知れない。


数年前に大規模な修復工事が行われ、その本来の姿を取り戻した屋根の曲線はとても優美なのだが、なにしろ大き過ぎて屋根に目が行かない。それ以外は、むしろシンプルで、質実剛健とした建築だ。

とくに御影堂は、無骨なまでにユニークで、華やかな装飾性を一切感じさせない作りが、つつましくありながらもそのスケールの大きさが、モダンで力強い。


それにしても、なんだか「京都のお寺」のイメージでないその理由は、たとえば阿弥陀堂の横に廻ると分かる。


「なにが寺だよ。城塞じゃねえか」

これも一般公開されていないので普段は見えないのだが、裏側は城郭建築と同様に基礎部分が石垣になっている。

こちらは関ヶ原の合戦後に家康の寄進で建てられた東本願寺。これもまさに城の石垣である。どちらの本願寺も、掘割に囲まれている。


浄土真宗大谷派、本願寺派、あるいは一向宗ともいう。

近代に一時は東本願寺の大谷派、西本願寺の本願寺派の二つの法人格に分裂したものの再合併、今日でも日本の仏教で最大の宗派であり、それは少なくとも戦国時代以来ずっとそうだ。

一方で、教王護国寺(東寺)と比叡山という、平安京つまり京都の鎮守の要であったり、あるいは仁和寺のように天皇家に所縁の深い密教とは立場が正反対だし、相国寺や龍安寺のように武家の仏教として栄えた禅宗とも違う、いわゆる「公的な仏教」ではない。権力と結びついた信仰ではない。

それがこれほどの威容と財力を誇り、戦国時代が終わった直後の京都に、あたかも城郭のような寺院を築けるとは、いったいどういうことなのか?

しかも本願寺派は、ここ京都に本拠を置くようになる以前に、一度滅亡しかけているのだ。

阿弥陀堂門(重文)

今の西本願寺はその後に、秀吉が寄進した土地に建てられている。

秀吉が「許した」というニュアンスでは決してない。寄進し、ある種の独立した権限すら付随していたことは、京の都のど真ん中にこのような、城郭とも思える寺院を建立出来たことを見ても明らかだ。

堀割もしかり、こと西本願寺の御影堂や阿弥陀堂の作りは、ぶっちゃけた話、いざとなればここで篭城戦が出来るような建築である。

「なにが寺だよ。城塞じゃねえか」


そう、これは半分は、信徒が篭城する「城」として作られたものではないか。

京都に移る前に本願寺派の本拠があったのは、大坂の石山本願寺である。

これは歴史の教科書では注釈くらいでしか書かれていない話だが、石山本願寺といえば、その跡地に秀吉が建てたのが大坂城。現在の大坂城は、大坂夏の陣で焼失し完全に破壊された跡に、江戸幕府が盛り土をしてその上に建てたものだが、つまり城郭の立地である。

ちなみに大坂城の存在のせいで誤解されがちだが、豊臣の本拠が大坂に移ったのは秀吉の死後の淀殿と秀頼の代であり、秀吉政権の本拠は京都だった。

…というか、これも日本史の教科書ではなんだかあまり大きく書かれていないが、石山本願寺といえば織田信長が10年もかけて攻略したものだ。

ここから先は、教科書ではもうタブーそのものの話になる。


信長の「天下統一」の最大の障害は、今川でも武田でもその他の諸大名でもなく、石山本願寺であり、最終的に攻略に成功した際の信長の虐殺の犠牲者は、正確な文献が残っていないものの数万とも言われている。

明智光秀が突然、意を決して本能寺で信長を討ったのは、最近の研究では、石山本願寺で信長が殺したあまたの民衆のたたりを恐れたため、いわば魂鎮めではなかったのか、とすら言われている。

過去の日本人は祟りを本気で恐れる民族でもあった(これだけ一般民衆を殺していれば、実際問題として思いっきり恨まれているわけでもあり、一種の“祟り”になるのもまた確か)。また信長は本願寺以外にも比叡山も焼き討ちしているのだから、ケタ外れな“罰当たり”であったわけだが、これはまた別の話


信長の「天下統一」の最大の障害であった、言い換えれば戦国時代末期の最も強力な武装勢力は、武家の戦国大名などではなく、信仰の下に一般の民衆が結集した本願寺派、一向一揆であったことを、意味するではないか。

信長に滅ぼされた後でも、まだ多くの民衆の支持を集めていた一向宗の信仰=民衆の恨みと怒りをなだめる懐柔策で、秀吉は京都にこの広大な敷地を、大谷派に寄進したのではないか?

だとすれば、西本願寺が京都にこれだけの寺領を持ち(今の境内だけでなく、龍谷大学など周辺地域も、元はすべて西本願寺の土地だ)、しかもそこにいざとなれば篭城できるような寺院を建てたことも、納得が出来る。

さらにここに移設された由来は定かではないものの、国宝の飛雲閣も元は秀吉が京における邸宅の聚楽第に、天皇の行幸のために建てたものだという。これも大谷派門主への秀吉のプレゼントであったとしても、おかしくない。

国宝 飛雲閣と鐘楼(重文)



一方で、一度は信長に滅ぼされかけてもなお民衆の支持を集める大谷派の力を恐れた、政権を回復した武家は、家康が東本願寺の敷地を寄進することで、その本拠を分裂させ権勢を分断させようと試みたわけでもある。

東本願寺の御影堂

浄土真宗大谷派、本願寺派、一向宗とはどんな信仰か、って言うのはなにしろ日本仏教の最大宗派、最近、宗祖親鸞の750年祭も営まれたわけで今さら説明も野暮…でもないのが、これが日本史の授業であまり教えられていないのでまた頭を抱えてしまうのだが…

…人は誰しも前世の業や自らの人生で犯す罪を重ねているものであり、念仏を唱えてひたすら阿弥陀仏にすがり、運命を受け入れ心を清めることでしか、浄土に極楽往生することはあり得ない。

平安末の浄土建築:福島県いわき市の白水阿弥陀堂(国宝)と浄土庭園

浄土信仰は元は平安時代、末法思想の流布とともに最初に広まったもので、宇治平等院鳳凰堂を建立した藤原道長など、貴族階級にも帰依するものは多かったが、こと鎌倉時代に入り親鸞が登場することで、ひたすら念仏を唱えることが基本のシンプルさが民衆に広く受け入れられるようになった。

たとえば国家鎮護を旨として、いわば最先端の学問のように平安初期に受け入れられ、空海・最澄というエリート秀才たちの力量もあって公式の信仰となった密教とは違い、民衆の救済をひたすら説いた信仰である。


教義の基本も、禅宗のように瞑想を中心に思索をめぐらすものでも、密教のようにいろいろ学問が必要なものでもなく、我々が生きているということは、衆生に支えられ生かされているのであって、自分の生と業を受け入れて阿弥陀仏の慈悲にすがるという、シンプルであると同時に、ヒエラルキーの権力構造のなかに生きるのではなく、農村で皆が助け合ってコミュニティを維持して来た庶民の生活感覚にも、より近しいものだったろう。

いわば、仏の前には人間皆平等でもあるのだろうし、だからこそ民衆に受け入れられ、やがて本願寺派は民衆の解放運動の大きな中心となる。


農耕民族である日本人の庶民感覚では、元からしてどんなに人間世界で偉そうにしていようが、天災などの自然の猛威をはじめ、人間外の世界からの力の前には無力ではないか、という感覚も息づいていた。

「無常」の世界観であり、こと戦国時代にはその感覚は強まったであろうし、一方で(これも日本史の教科書ではぼやかされがちだが)当時は、武家支配階級の力が相対的に落ちていたぶん、民衆も武装し、力を持っていたわけでもある。

たとえば西洋のような厳格な階級社会が、日本に必ずしも根付いていたわけではない。江戸時代の士農工商などの身分制度はそれとして、しょせん人間のやることであり、無常なのだ。

だからこそ、一向一揆は、こと武家支配が内紛で弱まった戦国時代には、巨大な力を持ち得たのだろう。

金箔を多用した建築といえば、足利三代将軍義満の金閣寺にせよ、秀吉が千利休に作らせた黄金の茶室にせよ、財力を誇示する成金趣味という感じが強い。

…というか金閣なんて一応、禅宗の相国寺派のくせに、なんだよこの絢爛豪華は、とか、利休の侘び茶に金箔貼りの茶室って秀吉って悪趣味、っていう話だろう。

一方で浄土信仰で金箔といえば、まず思い浮かぶのが岩手県・平泉に欧州藤原氏の建てた中尊寺の金色堂だが、こちらは西本願寺・御影堂の祭壇である。


写真だとなかなか伝わらないかも知れないが、ほの暗いお堂のなかでも、反射率の高い金は障子ごしの柔らかな外光でも燦然と輝く。

これが浄土のイメージだと言われれば、電気もなく、明かりと言えば蝋燭すらなく、菜種油を燃やす灯明しかなかった時代には、すんなりと受け入れられたことだろう。


富の誇示とか、金箔の世俗的な価値以前に、それを超越した感覚で、なんとも言えぬ説得力があるのは、親鸞750年祭を前に丁寧に修復された今の西本願寺に行けばわかると思う。


それにしたって、これだけの仏閣を建立できた戦国時代直後の本願寺派の財力や、動員できた労働力は、途方もないものだったはずだ。

繰り返すが、それも石山本願寺を信長に破壊され、相当に力を削がれた後のことのはずだ。


我々にとっておなじみの、信長、秀吉、家康という、戦国時代末期の「天下統一」の物語は、この本願寺の存在が実際にはこれだけ大きかったことを考えれば、かなり歪んだものなのではないか?

NHKの大河ドラマでは、石山合戦の話はほとんど触れられない。

まるで今でも、タブーであるかのようだ。


よく考えれば、それは今の日本の学校教育でだって、これはタブーになるだろう。

信長の「天下統一」の最大の敵は、武装した民衆勢力である一向一揆であり、そのトップに立つのが大谷派、本願寺だった。

つまり信長の「天下統一」は、実はライバルの大名を、鉄砲などを用いた斬新な戦法の知恵で打ち破ったからなどではまったくなく、民衆を代表する勢力を壊滅させようとし、その過程で民衆を大虐殺までしたことだった。

その後継者である秀吉がやったこととは、自身が庶民出身の「太閤記伝説」とは裏腹に、検知によって庶民・農民の財産である農地を管理下に置き、生産量を把握し、確実に年貢を収奪できるシステムの構築と、農民の武装解除に他ならない刀狩りだった。

つまり戦国時代の終了とは、戦乱を納めて民衆に平和をもたらした等ということではなかったのではないか?

むしろ武家に対抗できる程の力さえ持った農民・庶民から、その力を収奪し、再び武家の支配下に置いたことだったのではないか。

参拝者の目を楽しませるためと言われる御影堂縁側の木工細工

逆に言えば、「従順さ」がしばしば日本人の国民性として指摘されるが、それもまったくの嘘っぱちであったことになる。

なにしろ戦国時代に、支配階級である武家が内紛で凋落していたあいだに、庶民の結束した反抗が、これほどの巨大な力を、持ち得ていたのだから。

学校教育で本願寺派の歴史を教えたがらないのも当然だ。

いろいろと「偉い人」に都合が悪い。


日本の庶民は、支配階級の堕落にも唯々諾々として従い、戦国時代にはただ武家の内紛に翻弄されていただけで、秀吉や家康といった巨大権力に寄る平和に安堵していた「かわいそうな国民」に留まっていたのだ、としておいた方が、いろいろと都合がいいわけである。

だったら今の日本国民がこれだけ従順であることも、なんとなくみんな納得できるわけだし、現代の支配階級にとっても好都合だろう。

一向一揆なんてオウム真理教みたいな、信仰に凝り固まって「偉い人」に反抗した「不届きな狂信者」であった方が、楽なのだ。


でも、この西本願寺を見れば、「そんなこと、ないよねぇ」と思う。

「どこがただの宗教なんだよ、民衆の革命勢力じゃねぇか」

民衆解放運動、支配階級を打破しようとした革命闘争、普通の人々が誇りを持って生きるだけの強い価値を、かつての日本の庶民が持っていたこと、それは支配階級を根底から揺さぶり得るものでもあったこと。

西本願寺はその記念碑でもあるのだ。

東本願寺 修復工事中の阿弥陀堂

10/22/2012

龍安寺の石庭を見る “正しい順番” について


所用で京都に行って来たついでに、(実はこれまで機会がなく、初めて)龍安寺の石庭を訪ねたのだが、観光客の入り口である庫裏から、方丈に入って石庭に面したところで写真を撮ると、なにかおかしいのである。

いや写真を撮るまでもなく、見るだけでなにかおかしいのだが、写真を撮ろうとすると、手持ちだとうっかり、このように微妙に斜めになるというか、水平が取りにくくて困る。

さらに近寄ってみると、やっぱりおかしい。



この写真で右手に見える、つまり庫裏から直接方丈縁側に出た際に、石庭のいちばん奥に見える土塀が、どこか変に見えている。

写真を撮る時には普通、この壁に合せて水平をとろうとしてしまうので、なんとも混乱してしまうのである。


ここまで近寄るとさすがに、なにがおかしかったのかは一目瞭然…でもなくこのアングルだと逆に返って自然に見えてしまうかも知れないが、上の二枚の写真と比べて下さい。

そう、土塀の上部が、水平ではない、斜めになっているのだ。

下の写真のように座敷の方向から見た際(つまり観光客向けの順路で最初に見るのと90度違うアングルになった際)に、視野の奥に向かって遠近感が誇張されているのである。



この写真では、斜めになっている壁は画面の右側外。よく見るとこの塀も右に向かって低くなっている。

ちなみに、今では石庭を見終わった拝観客が出て行く、方丈の庫裏から見て奥側の縁側で、振り返ってみるとこのように見える。


まだ紅葉していないので緑のかえでの向こうに真っ白な石庭が見える、これがもう少しすると色鮮やかな紅葉の彼方に、石庭が見えることになる。

そしてその時には、視野に入った右側の塀が、視野の奥に向かって低くなっている、つまり遠近感が誇張されているので、白い石庭がより広がりを持って体感出来るのだ。

今の龍安寺さんが指定している順路だと、庫裏にあがると右手にお土産屋があり、その向こうに縦長の長方形に伸びる石庭を見ることになるわけだが…


…とたんに「あれ、奥の塀がなにか変じゃないか」「ああ、斜めになってるんだ。なぜなんだろ?」とまでは考えるにせよ、意味が分からなくなってしまう。

しかも実は、砂利の敷き詰められた地面も、この写真の左手前側に向かって、ほんの微妙にだが、低くなっている。

これを逆から、つまり庫裏の反対側から見れば、遠近感が強調されるはずが、いきなりこちらから見ると(意識はしない程度であるにせよ)水平感覚がおかしい、不安定な気分になる。

この庭の設計上、正しい導線ではないのだ。

正しくは、お土産屋の前を通り過ぎたあと、奥に見える石庭の方にすぐに行きたい欲望を抑えて、右に曲がって方丈の緑あふれる裏庭に進んで…

…気を落ち着けたところでさらに右に曲がって縁側を進み…

…その向こうに石庭が垣間見えるところから石庭に進むように、この瞑想空間は設計されているのである。


そこで目に入るのがまずこの手前の三つの石…と言っても一瞬、二つに見えるかも知れないが、中央の大きな石の向こう、手前の平らな石のちょうど反対側に、同じ様に平らな石があるので、三つ、その奥にはさらに(ほぼ同じ高さの)石が二つある。ここで見えている石は、合計5個だ。

座敷の中央の前辺りの縁側に進むと、右手のグループの石はもう2個しか見えない。その奥に2個のグループ、その左に3個の石のグループ。



龍安寺の石庭には、合計15の石が配されている。だがどの位置からも、15の石を全部見ることはできない。

誇張遠近法の使い方から推論できる正しい導線に従って、あえてぐるりと方丈の裏を廻って、逆側の縁側から入っていくと、見える石、見えない石の関係も、すんなり頭に入って来る。


さらに左に目をやると、この写真で中央に見える、庭の奥の壁の前に横長の石が1個と、そのそばに小さな石が1個で、ここまでで計10個。左奥には2個しか見えない。

それがもう少し先に進んで、いちばん奥のグループに近づくと、ひとつに見えた石が実は2個に分かれていて、その反対側にも砂に埋め込まれたような平たい石がもう1個あることが分かる。

でもこれでは、合計まだ14個だ。

ところが、方丈の縁側を歩き切って、庫裏に抜ける前にもう一度石庭の方に振り返ると、今度はさきほど手前に見えた石は隠れてしまう代わりに、その反対側で1個独立した石になっていることが、分かる。

これで合計15個。

石が15個配置されていると言われて、数えてみようとすることで、人間の視野と言うものがいかに限定されたものであるか、いかに我々が見ているようで実はなにも見ていないかが、具体的に理解できるように、この庭は設計されているのである。


あ、この角度だと、今度は2個あるはずの、塀の前の石が、1個に見えてしまう!

禅宗の瞑想というと、なにか浮世離れしたといっては失礼だが、抽象的でよく分からないものだというイメージを我々はなんとなく持ってしまっている。

石庭にしてもなにか抽象化された世界のなかに森羅万象が組み込まれている、それを読み解くようなイマジネーションの世界だけが瞑想なのだと、思い込みがちだ。

むろん瞑想には究極、そういう面はあるのだろう。いずれ「悟り」に到達すべきものなのだし。

でも一方で、龍安寺の石庭に凝縮された瞑想の思想は、石の数という極めて具体的なものを出発点とするように、周到に設計されているのだ。

庫裏から入ったときにすぐに向こうに目に入る石庭にすぐには行かず、あえて緑あふれる裏庭を通ってから方丈の石庭に入る動線も、心をシンプルな状態に落ち着けるための、極めて具体的な知恵なのだろう。

いやはや、すごい導線と視線の計算、建築家の才覚である。


だが通常の観光コースで最初に見るこの位置からだと、奥の土塀の遠近感が誇張された土塀の仕掛けがかなりよく分かる…というよりも、このアングルからでは、ただ変なだけだ。

逆の順番で見ていけば、後になって最初に見た時に感じた空間の広がりが、実は遠近感を操作したものであることが分かって、納得できるはずなのだが。


…というわけで、今の龍安寺さんには、先人の知恵を鑑みて、もうちょっと順路を工夫して頂けないものかなぁ、と思う次第である。

ところで、昼間に行くと庫裏の前はこんなに人だかり、というくらい、それは世界遺産であり国の特別名勝なんだからお客も多いわけで、朝の8時から開いているので、なるべく朝早めに行くことをお薦めする次第です。

こちらの、龍安寺前まで直行できるJRの路線バスは、なぜか観光案内やルート検索であまり出て来ないが、いちばん手軽 http://www.nishinihonjrbus.co.jp/other_bus/takao-keihoku_information.html


東京から深夜バスなら朝7時前について、京都駅前のカフェで朝飯食べて、龍安寺前まで、と行くと完璧ですね。今度はそうしようっと(…と、最後はえらく貧乏臭い話ですみません)。

10/15/2012

ジャック・ドゥミーとロマンチシズム〜『都会のひと部屋』

『都会のひと部屋』ドミニク・サンダ

承前。ジャック・ドゥミーの映画では、しばしばロマン主義的な意味での「究極の愛」が大きな役割を演ずる。

日本語で言えば「赤い糸」、「運命の人」、プラトン的な神話で言えば「この世界の始まりに分かれてしまった自分の片割れ(それと再会することで人間は元の完全な形を取り戻す)」という意味でのロマン主義的な恋愛神話のことだ。

『シェルブールの雨傘』ではジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドゥヌーヴ)は「あなたなしには生きていけない」と繰り返し(が、実際には恋人の出征後、別の男と結婚してしまう)、『ロシュフォールの恋人たち』の双子の姉妹(ドゥヌーヴと、、姉のフランソワーズ・ドルレアック)は「運命の人」を探し、それぞれに映画のラストでその出会いを果たす。


結ばれるべくして結ばれる二人というモティーフは、ハリウッド映画の物語の基本構造(いわゆる“ボーイ・ミーツ・ガール”)でもあり、こと『ロシュフォール』のエンディングはそのパロディであると同時にオマージュとしてさらりと受け止め易く、この映画が大変な人気作となった理由でもあるが、よく見ればドゥミーの視点にはかなり皮肉も入り込んでいる。

まさに「運命の人」神話のダークサイドとも言うべき、ローラという踊り子が殺された事件の犯人の話が、トゲというよりはワサビのようにちらちらと言及されては、しかし笑い話のように流されて行く。


ドゥヌーヴと彼女の運命の人であるジャック・ペランのすれ違いに至っては、まるで冗談のようなフィックスのワンショットで処理されているし、最後の肝心の出会いのはずのシーンは、驚くほど呆気ない。

 『ロシュフォールの恋人たち』ラストにおけるすれ違いと出会い

結局、この二人が同じショットで同時に画面に現れることは一度もなく、同じショットに出て来てもすれ違うだけだ。

この「運命の人」神話に必ずしも大真面目には取り組まない流し方が、かえってこの映画を商業的に成功させたのかも知れない。

「あなたなしには生きていけない」ということは、愛が直接に死に結びつくわけでもあり、その実かなり重いものでもあるのだ。

ほどよくやっている分にはとても甘味に見えるのだが、徹底してしまうと、それはれはシュールレアリズムが「狂気の愛」として称揚した「愛」と「性」のことでもあるのだ。

…つまり本気でやれば、こういう映画になるわけだ。

 ルイス・ブニュエル『黄金時代』

…というのはいささか冗談にしても…

『ロシュフォールの恋人たち』における “踊り子ローラの惨殺事件” という、グロテスクでシュールレアリスティックな、台詞でしか言及されないエピソードは、ドゥミーの初長編『ローラ』への言及であると共に、マックス・オフュルスの遺作となった『歴史は女で作られる』のモデルである実在のファム・ファタール、バイエルン国王ルートヴィヒ一世が老いらくの恋で身を滅ぼしそうになったローラ・モンテス(エリザベス・ギルバート、ランズフェルド伯爵夫人)も想起させる。

 マックス・オフュルス『歴史は女で作られる』再公開予告編

ファム・ファタール、「運命の女」、究極の恋愛は死と隣り合わせであり、身の破滅をも厭わない話にもなりかねない。


こうなるとロマンチックな恋愛映画として暢気にも見ていられない。

ドゥミーが敬愛したオフュルスの遺作(『ローラ』はオフュルスに献呈されている)は、バイエルン王を本当に愛し、それを失って抜け殻となった、死ぬに死ねないローラ(マルティーヌ・キャロル)の回想として、しかも自らを見せ物にしたサーカスの出し物として描かれる。


案の定というべきか、『歴史は女で作られる』は公開当時、惨憺たる興行に終わった。映画はズタズタにカットされ、本来の構造に復元されたのは製作後50年近く経った21世紀に入ってからだ。

『シェルブールの雨傘』だって、もしジュヌヴィエーヴとギーの恋が本当に「運命の恋」であり、彼女が本当に「あなたなしには生きていけない」を地で行く物語だったら、とてもではないが受け入れられない話になっていたかもしれない。

『シェルブールの雨傘』と同じ「あなたなしには生きていけない」という台詞(というか歌詞)が繰り返されるドゥミーの映画が、『都会のひと部屋』でもある。

そして『シュルブールの雨傘』とは異なり、「あなたなしには生きていけない」という言葉は、この映画では本当に実践されるのだ。

それも一人ではない、様々な人物によって。

主人公フランソワ・ギルボー(リシャール・ベリ)には、元々ヴィオレット(ファビエンヌ・ギュイヨン)という恋人がいて、彼女は心から彼を愛していることを繰り返すが、「あなたなしには死んでしまう」とまでは、さすがに言わない。

 ヴィオレットとギルボー

いわば常識的な恋愛であり、彼女は彼の子供を身ごもり、これで彼も結婚の決心をするはずだと思う…

…というか、常識的な恋愛映画ではそうなるし、それが実現しない悲劇に観客が涙するのが『シェルブールの雨傘』であり、恋人を待ち続けるのが『ローラ』だ。

『ローラ』アヌーク・エメ

ところが『都会のひと部屋』では、最初からどうもそういう「純愛」の話にはならない雰囲気が漂う。

ヴィオレット、スミレの花、ないし紫色という意味の名前の彼女が、本当に紫の服しか着ていないというのはほとんど悪い冗談スレスレの記号化であり、およそこれが成就すべき、映画がその主題とすべき恋愛には見えない。

一方で、このヴィオレットとのデートの前のシーンで、まず間借り先である女男爵/大佐夫人(ダニエル・ダリュー)のアパルトマンを出たギルボーは、通りで夫人の娘エディット(ドミニク・サンダ)とすれ違っている…というか、ほんの数秒の差で、二人はこの時に同じショットのなかで登場するが、同じ場に同時に居合わせることはない。

メロドラマの定番でありドゥミーお得意の、「すれ違い」のモティーフだ。

母を訪ねたエディットは、そこでギルボーの鳥打ち帽を見つけ、鏡の前でかぶってみる。

「運命の恋」に向けたドゥミーの演出は、すでにヴィオレットのシーンの前に始まっているのだ。

だから物語上の、常識的な恋愛のロジックがいかに「妊娠した、気だてのいい娘」の恋愛の成就をモラル的に規定しようとしようが、映画の演出のロジックはそれを裏切るように、最初から仕組まれているのだ。

 エディットとギルボーの出会い

エディットは既に結婚しているのだが、その夫でテレビ販売店経営者のエドモン(ミシェル・ピコリ)は、こちらの方は「私にはお前しかいない」「お前がいなければ死んでしまう」をさんざん繰り返す人物だ。

『都会のひと部屋』ミシェル・ピコリ

一方で性的に不能であり、そして病的に嫉妬深い。

彼の店は全面緑色の内装であり、そして緑のスーツに赤毛。こちらの色彩の図式性は、あたかもまるで狂ったような水準にまで高められている。

 エドモンの死

病的な独占欲、嫉妬深さ、しかしエドモンにとってエディットが「お前なしには死んでしまう」運命的な存在であることも確かだ。

なにしろ港湾労働者のストのデモ隊と警官隊の衝突から始まる映画だけに、階級の問題もここに深い影を落としている。

 冒頭、大聖堂前のデモ

ギルボーの同僚で親友のダンビエル(ジャン=フランソワ・ステヴナン)は、デモについて「正義はもう信じらない。だが友情と連帯は信じる」と言う。

その連帯と友情から、ダンビエルはギルボーが結果として、彼が夫婦で親しくしているヴィオレット(彼のシャツもまた紫色だ)を裏切ってしまうことすら、労働者階級の友情として、受け入れる。

一方、エディットの夫エドモンは成金のブルジョワであり、エディットが彼と結婚したのは金目当てであることを、映画の冒頭に母である女男爵/大佐夫人が明言する。

彼女は彼女で、貴族階級に生まれ、「軍人と結婚することで爵位と幻想を失った」と歌う。


明らかに、結果として愛のない結婚に終わった未亡人であり、そして階級違いの結婚でブルジョワになったことを、おもしろくは思っていない。

その夫はインドシナ戦争ですでに戦死しているだけでなく、彼女は放蕩に育った息子を自損の交通事故で失い、その記憶に囚われたアパルトマンで、夫の遺した年金だけでは息子の借金が払い切れないため、間借り人をとることになったのだ。

 ブルジョワへの軽蔑を歌うダニエル・ダリュー

そこで同居することになったのが労働者階級のフランソワ・ギルボー、という階級構造になる。

夫人はこの階級の差異に戸惑いながらも、彼にある種の親しみを感じていることを隠さない。「私とあなたは住む世界が違うけれど、友達になれないわけではないわ」。

最初はギルボーがデモの先頭に立っていたことをなじって「この家にアナーキストを置くわけにはいかない」というのも、近所の手前の、ブルジョワの体面でしかないことが、すぐに明らかになる(その体面もまた、彼女には重要であり、だから葛藤もあるにせよ)。


彼女は成金ブルジョワである娘の夫よりも明らかに遥かに親しみを持ってギルボーに接っするし、酔っぱらった末に「ブルジョワなぞ富に腐敗して滅びればいい。あなた達(労働者)は自分たちの生存のために闘っている」と心情を告白する。

フランソワ・ギルボーのモデルは、ドゥミー自身の父親だ。ロワール河畔の田舎町からナントに出て来て、最初は間借り人であり、その家主が元は貴族で軍人の未亡人だった。 
フランス映画のヌーヴェルヴァーグの映画作家達で、労働者階級出身は、ジャック・ドゥミーだけである。裕福ではなく私生児だったとはいえ、トリュフォーでさえ貴族階級の血を引く没落ブルジョワだ。

そんな元貴族の血統のエディットと、金属加工の労働者であるギルボーが恋に落ちることは、階級を縦断するドラマだ。

しかも背景となるのは1955年のナントの大ストライキである。フランス社会を分断する階級差の重みは、否応なく社会的な圧力としてのしかかる。

ダニエル・ダリューを筆頭に、それぞれの人物は、自らが属する階級のなかで喘いでいる(彼女に至っては、「ラングロワ大佐夫人」あるいは「女男爵」と、階級記号でしか呼ばれない)。

だが『都会のひと部屋』で重要なのは、いったん出会ってしまえば、エディットもギルボーも、その階級をまったく気にしていない。

階級を意に介する瞬間がまるでない、階級は呆気なく超越されてしまうのだ。

エディットはタロット占いで冶金工と大恋愛をすると出ても、相手が階級違いの労働者だと言われても全く気にしていないし、フランソワはエディットが女男爵/大佐夫人だと分かってもなんの気負いもない。

家主である母親とは、階級の違いでぶつかることもあったのに、エディットについては、まったくなにもない。

だから『都会のひと部屋』は「階級違いの恋愛」をめぐるドラマツルギーの展開はまったく取らない、というよりも小気味いいまでにその想定される筋立てを無視している。

これは階級のドラマであって階級のドラマではない。階級のドラマを無視することでこそ、ドゥミーは徹底した反階級制の、彼なりの革命的な映画を作ろうとしたのかも知れない。


エディットは夫エドモンが吝嗇で、しかも彼女を籠の鳥同然に家に閉じ込めていたため、着るものがなく、毛皮のコートの下は全裸という、これまた狂気じみた出で立ちで登場する。

一方ギルボーは、茶色の革のジャンパーをほとんど常に着ている。

毛皮のコートと革のジャンパー、一見異なった階級を表象するかに見える記号性が、二人が出会った瞬間にまったく異なった意味付けを帯びるのがドゥミーの演出だ。

どちらも素材は動物の革であり、そしてほぼ同じ色合いである。二人の姿はどんどん相似形となっていくのだ。

女男爵/大佐夫人は、ギルボーが玄関のドアをバタンと閉めることに文句をつける。その癖は、二人が恋に落ちると、彼女に伝染する。

台詞(というより歌詞)でも、「君はなんと美しい」「あなたはなんと美しいの」と言ったように、フランス語では形容詞の男性形と女性形が違うだけで、しばしばまったく同じ言葉を、二人がお互いに繰り返す。

エディットとギルボーは、まるで双子だ。

あるいは、プラトン的な神話の、世界の始まりに分かれてしまったお互いの片割れがその相手であるかのように、あたかも二人が揃って完全な姿に戻るかのように。

この運命としか言い様がない、強烈な結び着きを前には、例えばヴィオレットが妊娠しているといった世俗の義務や責任も、まったく意味を持たない。

現にエディットは「あなたとギルボーのあいだに過去になにがあろうが、私のしったことではないわ」とすら断言する。

そして通俗的に期待されるドラマ展開をあざ笑うかのように、母の女男爵/大佐夫人をはじめ、周囲の人間は結局のところ、二人の強烈な結合に、最初は形だけ抵抗を示すものの、結局はすぐに受け入れてしまうのである。

あたかも運命だけが二人を導き、運命によって二人は愛し合うかのようだ。

その宿命論的な構図は、タロット占いによって予め暗示されている。

そしてデモ隊と機動隊の衝突と言う、もうひとつの巨大な、社会的な運命の歯車のなかで、ジャック・ドゥミーの運命の愛のドラマはクライマックスを迎える。

最初のデモは火曜日、そして二度目のデモは木曜日。『都会のひと部屋』は濃厚な運命観、宿命論の空気を漂わせながら、わずか48時間ですべてが凝縮され、決着する。

 『都会のひと部屋』全編

まさにこれは、壮大なオペラとしての映画なのだ。究極の、運命の愛を前に、社会も、常識も、通俗的な倫理も、一切が無力になる。そして死によって、愛は勝利する。

これこそがジャック・ドゥミーの夢見た「革命の映画」「映画の革命」なのかも知れない。

そして人々はそれを、親しい愛情と連帯と友情で受け入れ、最後はただ畏怖を込めて見守るだけだ。

母親ですら、娘が自ら命を絶とうとするとき、「馬鹿な真似はやめて」と口では言うものの、止めはしない…