最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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5/19/2010

日本人の「いのち」の感覚

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011)

口蹄疫ウィルスの宮崎県での蔓延が、看過できない状況になっている。感染が確認される地域での「全頭殺処分」すら議題にのぼるなかで、今までほとんどの人にとって思いもよらなかったであろう、どうにも愕然とすることがいろいろ出て来ている。

感染区域内に現在の主力の種牛6頭がいたとか、「伝説の種牛」であるとかも感染が確認されたり疑われたりして殺処分となる話題に逆に驚いたのが、現在のブランド和牛のほとんどの種牛が宮崎県産であったことだけでもまったく知らなかったが、処分が決まったという「伝説の種牛」が、少なく見積もっても21万頭の父親であったということ。

いやこんなの、別に感心することではない。

   F.W.ムルナウ『ファウスト』悪魔メフィストの出現

その種牛を失うことになる農家にはお気の毒ながら、そもそもやってることが不自然すぎる、異常ではないか。一頭の雄牛が21万頭、しかも宮崎からは遠く離れた松坂牛やら米沢牛やら神戸牛やらなどなどの種がぜんぶって、いったい現代文明とはなにをやってるのか?

相手は家畜とはいえ、生きものであり自然の生態系のなかで進化し現在に至るはずだ。その生物としての自然をそこまでねじ曲げることが、現代の農業なのだろうかという、現代の日本がそのなかに存続している文明への根本的な疑問すら浮かんで来る。これでは「家畜」は「動物」ではない。ただの「牛肉を作るための機械」である。安価な大量生産ならともかく、「日本の自然の恵み」を標榜する高級和牛が、そんなもんだったとは。

   藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011)

もうひとつの大きな疑問は、口蹄疫は確かに伝染性の強いウィルスだということで、だから厳重な感染拡大の予防が必要となり、今回の流行の感染力はどうも専門家でさえ予測・推定していたのよりもはるかに強くて予想外の伝播をしているのは分かるが、しかし口蹄疫の症状それ自体は、致死性に至るものではない。体力を失って次第にえさも食べなくなって、自然死に至る間接的な原因になる程度だという。

なのに感染が確認されたら即処分で、殺される家畜がすでに11万頭という損害の大きさ以上に、感染が疑われる地域の家畜を全部殺すかもしれないというときに、議論されるのは経済的損失だけである。

ちょっと待って欲しい。相手は人間ではない、家畜だとは言っても、一応は(?)生きものではないか?

フレデリック・ワイズマンが『競馬場』が映し出すのは、サラブレッドが走る機械に、生殖でもなんでも人間の助けなしに生存できない生きものに、されてしまっている現実である。
こういうことを言うと「感染の拡大を未然に防ぐのが重要なのだから」という反論はその通りだろうが、こう考えてしまうのが「科学的でない」というとしたらそれは「科学」ではない。「科学」とは口蹄疫がウィルス感染の病気であること、その症状、直接には死に至る病気ではないこと、感染力が強いウィルスであること、そこまでが科学的事実であり、そこから先にそれにどう対処するかは、「科学」ではなく「哲学」、「文化・価値観」の問題だ。

そういう「残酷な」仕事をするから、ということで家畜の屠殺の描写などは「残酷だ」とされ、「被差別部落」であるとかを差別して来ていながら、この感覚はさすがに、あまりにも無神経というか鈍感すぎてはいないか? しかも思いっきり矛盾しているのではないか?


日本人は古来、アニミズム的信仰の伝統をずっと持ち続け、命を奪うことへの畏怖を極端にまで増幅し、祟りであるとかを恐れ続けて来た歴史伝統を持つ民族である。その世界観のなかで「自然」や「死者」は根本的に他者、決して人間の都合のために存在する「道具」ではなく、「カミ」であるものは人間の都合とは無関係に「オニ」にもなり得る「荒ぶるカミ」であって、だからそれが「オニ」に転じたり祟りを起こさないように様々な霊的なシステムを文化的に作り出して来た民族でもある。

円空「十一面観音、善財童子、善女竜王」岐阜県・高賀神社

実をいえば江戸時代に幕府が「えた・ひにん」という身分制度によって最下層に貶め押し込める以前は、その霊的なシステムを担って来たのが天皇と、今でいう「被差別部落民」であった。しばしば伝承では「鬼の子孫」ともされ、つまりは自然霊や死者の霊との交信能力を持つがゆえに命を左右することをしても「祟り」を封じられる、自然霊を人間の都合で使うためのプロセスを担うことができたのが、彼らでもあった。

恐らく江戸幕府のしいた宗門改メ制度による全日本人の仏教寺院の「檀家」としての組織化と、「えた・ひにん」身分と彼らの移動を禁じて特定地域から出られないようにしたことは、江戸幕府の全国支配確立のなかでセットになっている。

中世から近世初期まで、彼ら霊的に特殊な民は、定住農耕民である大多数の日本人と異なり、山づたいに全国を移動することができた。彼らは土着のアニミズム的な民衆信仰と結びつく一方で、「ヒト/カミ」のあいだの存在の最高位にある天皇と結びつくことで、武家の実態権力に対抗さえしうる「カミ/オニ」の全国ネットワークを持っていたのではないか?


宗門改メはキリシタン禁制と結びつけられて考えられがちだが、それをたとえば東北の弘前藩にまで徹底するほどキリシタン信仰は広まってなかったわけで、歴史的・政治的に説得力がなさ過ぎる。

武家の実態権力によって全国支配を実現しようとした幕府にとって、最大の脅威はキリシタン以上に天皇を頂点とする霊的/象徴的なネットワークであり、それは聖にも邪にもなり得るものであるからこそ、徹底して寸断しなければならなかったのではないか?

やはりいわゆる「被差別部落民」あるいは「河原乞食」が担っていた人形浄瑠璃の歴史ものの世界が、武家の忠義の論理の自己矛盾が悲劇を描く一方で、「無垢なる天皇」がしばしばカタルシス生成装置、文字通りの「デウス・エクス・マキナ」として機能するのは、決して偶然ではないだろう。


『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)より


それが西洋近代の視点からみれば「迷信」に見えるのは確かだが、ではそれを有り難がることが今や日本人の無自覚な習い性となっているところの、西洋近代とはいったいなんなのだろうか?

断っておくが、やたら中途半端でいいかげんな「一神教VS多神教」の議論なんて、ここではやる気はしない。だいたいキリスト教という宗教は、極めて多神教的なものだし。

旧約聖書的な世界観、つまりユダヤ的/ヘブライ的信仰とは、やはり「世界」=「神」であり世界のあらゆるものが「神」であり、ただし「八百万の神々」の日本とは違って、唯一絶対の「存在そのもの」としての「神」を、しかしこの点では日本と同じように「理解不能/制御不能な、根本的に他者」とみなすものである。


それをヨーロッパの都合で適当にねじ曲げて、天地創造の順番で人間が最後に創造されたことを、西洋的な人間の勝手で「つまり他の生物を神は人間のために作ったのだ」と決めつけたこと。このよく考えればなんの論理的根拠もないご都合主義解釈を採用したキリスト教的世界観に引きずられている西洋文明を、そのまま「科学」と思い込むことじたいが、かなり無理のある「信仰」であって当の西洋でさんざん異議申し立てがなされているというのに、現代の日本人がそれを妄信するのは、明治以降の日本人の西洋コンプレックスにつけ込んだ一種のカルト宗教でしかない。

創世記の記述を本気に受け取る必要はないにせよ、進化の順番の象徴的記述と読めば、人類は確かに生物の進化のひとつの究極形であるのかも知れない。しかしそれは大目にみても「科学的事実」としてただの順番の問題に過ぎない。それを理由に「人類こそが最高の生命体」である」と考えるのはすでに価値観と哲学の問題に過ぎないし、それは相対的な哲学、たまたまキリスト教文明がそう考えて来たということに過ぎないのだし、「哲学」とよぶにはあまりに主観的で身勝手なご都合主義だとの批判もできる…というか批判されて然るべきである。

だいたい進化論をまともに読解すれば、現時点で進化の究極形に当たるのは別に「人間」だけでなく、地球上に生存するあらゆる生物がそれなりの環境への対応を繰り返して現代に至っている、現時点での進化の行き着く先なのだから。

     円空「金剛童子」飛騨千光寺

まあそれは「彼ら」ヨーロッパ的世界観の歴史伝統なんだから、彼らがそう考えることはとりあえず許容していいのかも知れないが、だからってそれが「正しい」という保障はどこにもなく、裏返せばあわゆる「いのち」というものへの畏怖を持ち続けて来た日本の伝統が「彼ら」から見て「迷信」に見えたとしても、それはただヨーロッパ人たちがキリスト教というご都合主義の迷信に囚われて壮大な勘違いをしているという可能性だって、我々は考慮していいのである。

21万もの牛の父親が一頭の種牛というのは、より厳密な科学の観点からすれば、自然界の進化のプロセスを保障する生物多様性の観点からしても、明らかに異常であることは言うまでもない。

それ自体が死に至る病でもないのに殺処分をすぐに考え実行するというラディカル過ぎる発想も、おいそれと安心して受け入れられるものではないと思うのは、この筆者が古くさ過ぎるのだろうか?


いや別に11万頭だか、「全頭」になった場合は数もよく知らない殺される家畜の「祟り」を本気で恐れるわけもないが、そういうことやってるといずれとんでもないことが起る不安は確実にある。少なくともそんな膨大な数の「いのち」を奪うことをただ経済的損失の問題としてしか報じないニュースが子供たちの目に触れることが、決していいことだとは思えないのは確かだ。

だってそんなことやっておいて、「命を粗末にしてはいけません」なんて言ったところで、説得力ゼロじゃん。

1 件のコメント:

  1. 渋谷 昌利5/19/2010

    人間とは勝手な生き物ですからねぇ。
    駅にいるとよく分かります。

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