最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

9/17/2013

あなたの身近な「人格障害」者


「人格障害」という言葉に、「人格を否定された!」と脊髄反射で大騒ぎになる人も多いかも知れないが、これは精神医学における疾患の分類で…というか本当に人格障害と総称されるものが精神疾患といえるかどうかも怪しいわけだが、いずれにせよ「最悪の人格」とか「性格が悪い」という意味ではないので念のため。

それこそ「人格を否定された」と脊髄反射しないで下さい。それって自己愛性か、依存性などの人格障害の可能性があるから。 
無論、それだけでは、判断は出来ませんけどね。

さらに念のために言っておくが、世に名だたる極悪人が「人格障害」である保証もない。カテゴリーによっては「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」と見える人もいる−−というか実は依存性人格障害の場合、一見「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」が特徴のうちだったりする。

…というか、たとえば依存性人格障害の特徴は、かなりの部分「癒し系」に合致する。反社会性人格障碍者は、一見快活で魅力的で、決断力があってリーダーシップがあるように見える。

いやだからって「癒し系」の人がみんな依存性人格障害だというわけじゃないし、リーダー向きの性格の人がみんな反社会性人格障碍であるわけがないので念のため。

アドルフ・ヒトラーが反社会性人格障碍、俗にいうサイコパスだったという説は根強いし、実際に記録が残っている言動も、サイコパスを疑わせる部分が多い。だが僕は案外、これは怪しいかも知れないとも思っている。

ちなみにヒトラーが食卓での会話を速記させた記録をpdfで
http://vho.org/aaargh/fran/livres10/HTableTalk.pdf

なお間違ってサイコパス=独裁者と思われないように念のため言っておけば、サダム・フセインにその傾向があったとはまったく思えないし、北朝鮮の金正恩がそうである可能性はまったくないだろうし、また単純に「悪人」ということでは決してなく、たとえば戦後日本の支配体制を決定づけた昭和の妖怪、極悪人の岸信介が反社会性人格障碍であった可能性も、まずないと思う。

ただしお孫さんの安倍晋三が、なんらかの人格障碍である可能性は、もの凄くある。

いやそうでなくて、「お腹が痛い」で呆気なく総理を辞めたこと、最近よくやってる、妙に自信ありげに人差し指を振り上げながら支離滅裂だったり自己撞着があからさまなことを自信満々に言っていたり、噓だと分かり切ってること、たとえば福島第一原発事故が完全に「アンダー・コントロール」なんて、あんな平気な顔して言えませんよ。
ただし安倍晋三さんが人格障碍である可能性が高いからといって、反社会性はまずないように思われる。反社会性人格障碍だったら、あそこまで「言わされてる」感が丸出しにはならないはずだから。

以前『平気でうそをつく人たち』という本がちょっと話題に、ベストセラーになったことがある。実は書評や読んだ人の話だけでだいたい内容は分かったものの、読んでません(汗)。


いわゆるサイコパス、反社会性人格障碍の話らしく、「だったらだいたい知ってる話だし、まあいいかな」というのと、売れる題名なのは分かっているのだが、それだけに気に入らない、と思ってしまったのだ。

いやアメリカの本の翻訳なんだし、日本の出版社のつけた恣意的な題名で判断しちゃいけないんですけどね(こういうやたら理屈っぽい字義通り性とこだわりは、人格障害ではなく発達障害の可能性あり)。

それでもこの本の日本語題名だと、そこまでセンセーショナルに悪魔化していいものか、とも思うのだ。人格障碍やその予備軍は、あなたや私の身近に案外たくさんいる、まさに一見普通に見える、実は身近な存在であり、今の日本の多くの社会的な問題の背景にある可能性も高い。

それに「平気でうそをつく」のが反社会性人格障碍の際立った特徴なのはその通りなのだが、反社会性だけの特徴でもない。

たとえば依存性人格障碍でも平気で嘘をつくし、それがこの病気(と言っていいのかも怪しいのではあるが)の特徴的な症状の結果である場合がほとんどだ。

しかも「平気でうそをつく」のがたとえば依存性でも、演技性でも、自己愛性でも、境界性(というのはその実、医者がうまく分類出来ないから適当に放り込むカテゴリーなわけだが)でも、それぞれの分類の人格障碍で大なり小なり見られる際立った特徴であるだけに、誤解を招きかねない。

それに反社会性人格障碍の話が、日本でベストセラーになるのも気に入らない。

どう考えても日本ではあまり数が多くないはずだ。この本を読んで心当たりがある、と思った人も多いと思うが、そのほとんどがたぶん反社会性人格障碍ではない。恐らくはかなりの部分が、日本に多いと推論される依存性人格障害や、最近増えてる可能性が無視出来ない自己愛性人格障碍だ。

反社会性人格障碍が日本にいないわけではなかろうが、その事例でも自己愛性にかなり偏っている場合が、たぶん多いだろう。

依存性人格障害や自己愛性人格障碍の方が日本には恐らく、その予備軍も含めれば相当に多いのだし、本当はみなさん、こっちの話をちゃんと読んで学んだ方がいいと思うのだが、その臨床と研究を続けている矢幡洋さんの、依存性と日本社会の特徴を結びつけつつ論じた、かなり分かり易い入門書だとかは、ぜんぜん話題にもならず、あまり売れていないようだ。

ちょっとご紹介しておこう。
いやまあ、他人のことなら「人格障碍だ」と言えばスッキリする、でも自分たちのことは考えたくない、というのも理解は出来るんですが、こうもミもフタもなく精神医学や心理学でいう「否認」「自己逃避」の実例になりかねない話だと、それはそれで頭を抱えるわけで。

先述の通り、依存性人格障害の特徴はかなりの部分「癒し系」だ。

癒し系でやさしい、思いやりや気配りのある人だと思っていた相手が、なにかもの凄く大変なときに「あれ?」と思わざるを得ないくらいに豹変した経験はないだろうか?

  • 突然薄情になる。
  • 親友や仲間だとか思っていたり、それこそ恋人だった相手でさえ、突然人間関係から身を引いてしまう。
  • 平気で噓をつき始め、責任のなすりつけに終始する。
  • いかにも頭が真っ白と言わんばかりに表情が消え、黙り込む。
  • なにが言いたいのか分からないことを呪文のように繰り返す。

こんな感じで、こっちがなにがなんだか分からず「え? なんでこうなるの?」と愕然とする、という経験をお持ちではないだろうか?

あるいはその本人がなにか重い責任を背負い込んだとき、

  • なぜかなんの深刻さも自覚がなく、なぜかケロっとしている
  • なんの躊躇もなく、呆気なく責任放棄
  • 話が噛み合ない
そこで「どういうことだ?」と問われると…
  • いろいろいいわけはするのだが、そのいいわけの内容にかえって腹が立つ
  • 記憶が消えている
  • 一貫性のない作り話や言いがかり
  • 逆に右も左も分からないパニック状態で逆ギレ
  • 無表情で黙り込む

「え? なんでこうなるの?」とこっちはキツネにつままれた気分にさえなる。

この突然の豹変と反応は、なにがなんだかさっぱり分からない。

平たく言ってしまえば、こういうのがたいがいの場合、依存性人格障害だ(ただしあなた自身が人格障碍を抱えていて、責任の転嫁・なすりつけを無自覚にやっていない場合に限る)

元々は浄土真宗の教えなのだと思うが、私たちは生きているだけではなく、(あらゆる衆生に)生かされてるという考え方がある。この話をある女の子にしたら、「そうなんです。私は生かされているんだからこのままでいいんです!生かしてくれる人に感謝しています!」と言い張られたことがある。

まさに「え?なんでこうなるの?」である。

一応はミュージシャンや演劇志望、アーティストを目指してるはずの彼女にとっては、自己表現をすれば数は少ないとはいえ観客が喜んでくれるのだから、自分は生かされている、生かしてもらえるだけの正当性があるのだ、と思っているのであろう。

どうも依存性人格障害の典型に思えるパターンなので、確認のため混ぜっ返す指摘をしてみた。

「でもそれは、あなたもまた他人を生かしている、という意味でもあるよね。生かされていることに感謝するということは、自分もまたその人たちを生かす、あるいはその人たちに自分が生かしてもらっていることを、自分が他の人を生かすことにつなげなきゃ、いけないよね」

ちなみにこれが、浄土真宗で「皆さんは生かされているのです」と法話でお説教する際の、キモの部分の定番である。なんだかんだ言って天才・親鸞の拓いた日本仏教の最大宗派、よく出来てます。

とたんに思考停止で「だからそれはぁ」と言った後が続かない、そのままパニック状態だ。後でヒステリックな罵倒に満ちた絶縁メールまで飛んで来た。

この女の子の場合でも、普段は依存性人格障害に多く見られる「癒し系」のパターンで一見「とてもいい人」「つきあって楽しい人」「かわいい」し、こういう状態に追い込まれることさえなければ、熱心にミュージシャン志望や演劇志望をやっているように見える。

だがなにかの間違いでもない限り、スターになることはあり得まい。

もっとも、僕はよく知らないのだが、AKB48というのは、まさにその「なにかの間違い」で大成功している例にしか見えなさそうに思える。
矢幡洋先生によれば、「たれぱんだ」などのゆるキャラの流行もそうで、日本全体が幼稚なタイプの依存性の傾向を強めている可能性があるという、その好例なのかも知れない。

なお一時期、サイコパスをアスペルガー症候群などの発達障碍の性格的な特徴と誤解して、「人の気持ちが分からない」「人を人としてみていない」故に犯罪予備軍とみなす風潮が蔓延したが、これは完全な間違いであり、露骨な差別偏見だ

発達障碍と犯罪的・反社会的な行動、あるいは「やさしい」かどうか、「思いやり」の有無、あるいは倫理観の歪みに、直接の関係性が、そもそもまったくない。

だいたいアスペルガー症候群などが「人の気持ちが分からない」はまったくの間違いだ。「空気を読む」、つまり直感的かつ無自覚にその場の雰囲気から気分を察することには確かに困難が伴うが、意識している感覚ではむしろより敏感で、観察力と想像力でむしろ人の気持ちを鋭く見抜く人も多い。

音楽家、画家、映画監督、それに俳優にも、発達障碍の可能性が指摘される人、カミングアウトしている人も多いではないか。「人の気持ちが分からない」どころか、こうなるとまったくの真逆だ。

たとえばグレン・グールド、美空ひばりらはその可能性が指摘されているが、だいたい絶対音感とされる音の認識の在り方に、発達障碍との関連性があるとされるのだし。 
グレン・グールド演奏、バッハ『平均律クラヴィーア曲集第一巻』 
ファン・ゴッホ、フランシス・ベーコン、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ポール・セザンヌになんらかの発達障碍があった可能性も高いし、スティーヴン・スピルバーグも長いあいだアスペルガーとの噂があったが、最近学習障碍を公表した。 
トム・クルーズは失読症を公表しているし、マイケル・ジャクソンの「奇行」とされるものも発達障碍で説明出来なくもない。 

アルフレッド・ヒッチコック『サボタージュ』 
アルフレッド・ヒッチコック、フランソワ・トリュフォーも映画の表現スタイルからも、様々なエピソードからも、その傾向は指摘出来なくはない。強迫観念的な早口で有名なマーティン・スコセッシも、『エイジ・オブ・イノセンス』におけるディテールの積み重ねによるシャープな心理分析など、発達障碍的なものの見方が指摘出来そうだ。


先天的な脳の認知機能の問題であるアスペルガーなどの発達障碍(先天性なんだから「発達」ではなく、むしろ自閉症スペクトラム障碍、と言う分類の方が正しいと思う。いやまあ「自閉症」と言う用語も誤解は招くのだが)には、犯罪行動はほとんど関係しない。

せいぜいが「巻き込まれるリスクが高い」「追い込まれる場合がある」くらいしか言えない。

先天的な犯罪者予備軍がいると誤解した方が「自分は正常」と思えて楽なのだろうが、生まれつき「おかしな」人だから危険という理解は、たいがい間違っている(分かり易く差別だし)

自閉症や、アスペルガーなどの自閉症スペクトラム障碍は「しつけ」の問題ではまったくない、とまで言ってしまうのと、それはちょっと厳密には間違いになるのだが、そういう障碍があることそれ自体については、親のしつけはまったく関係がないのはその通りだ。ただその障碍を持った子どもがどう幸せになれるかは、親の扱い次第の部分が大きい、というだけである。

一方で人格障碍、いわゆるサイコパスは後天的・環境要因である。

つまりはっきり言えば、「親が悪い」「学校が悪い」でかなりの部分、説明はつく。生育環境における歪んだ体験の積み重ねのせいで世界観の認識の歪みから行動原理に倒錯が現れ、倫理観が乏しいか欠如している。

だから「平気でうそをつく」だけでなく、倫理観が乏しいか欠如している以上は、犯罪との直接的な因果関係は無視できない。

…というか、はっきり言って犯罪予備軍である。

ここで「倫理観」とか言い出すと、「ちょっと待て、宗教や道徳の授業じゃないんだから。科学なんでしょ」と怒られそうだが、ここで言っている「倫理観」は「悪いことだからやめましょう」「法律で決まってるから悪いことです」的な話ではないので念のため。 
人間が社会的な生物である以上、他者との関係を通して社会を維持する必要が個々人に課せられている。 
平たく言ってしまえば自分の行動が他者にどう影響するのかのリスクの認識がなければ、対人関係を維持し社会的な立場を確保することは難しい。 
そうした関係性におけるリスクの高い、損失の大きい行為や考え方を、宗教や社会道徳では「悪」とみなすことで社会秩序を維持していると科学的にはみなせるわけで、この場合の「倫理観が乏しいか欠如」とは善悪の選択のことではない。「悪」とみなされることを承知でその「悪」をなすことを指しているのではない。 
世紀の極悪人が「倫理観が乏しいか欠如」して反社会性人格障碍とみなされるわけではない、とはそういうことだ。自覚的に、自らの判断でやっていることを「人格障碍」と呼称する理由はない。

反社会性人格障碍の特徴のひとつが、社会的な倫理観に基づく良心の呵責がない、だからたとえば「平気で噓をつく」ことにもなるのだが、だからって希代の詐欺師がみんな反社会性人格障碍だとは言えない。

むしろ成功する詐欺の常習犯では、サイコパスの比率は、少ないかも知れない。

なぜなら「平気でうそをつく人」であれば、嘘をつくことそれ自体のハードルは低く、簡単なのだろうが、バレないように噓を突き通すのはもの凄く難しい、自分の噓がバレることを計算に入れて先回りして行動するぐらいでなくては、なかなか無理な相談だからだ。同じ理由で、岸信介が反社会性人格障碍だったとは思えない。冷酷な極悪人であったのは確かだが。

良心の呵責がなければ人殺しだって簡単だろう。

だが良心の呵責があっても、それでもそれを乗り越えて人を殺す場合だってある。自ら悪を選択する意志があっての犯罪は、精神医療の範疇ではないし、障碍とみなすべきものではない(もっとも人格障碍が精神医療の対象である「病気」かどうかは、議論の余地があり過ぎるのだが)。

また反社会性人格障碍とは、秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大被告のような人のことでもない。

念のためやった精神鑑定でも、まったくその傾向がないことは結果が出ている。加藤智大君は人殺しが悪いことだとちゃんと認識し、その良心の呵責もありながら、それでも人を殺すことの欲望というか彼にとっての必然や怒りが、それを凌駕してしまっていることは、彼が犯行に至るまでシステマティックに追いつめて行った論理性を見ればまず疑いがない。 
彼は「平気でうそをつく人」ではなかった。むしろうそをつけない、真面目過ぎたのかも知れない。 
オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)死刑囚が反社会性人格障碍という可能性はあるだろうが、それだけで片付けてレッテル貼りできるものでもないとも思う。

反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍の人間のなかには、自分が悪とみなされることをむしろ望んでいる面すら観察出来る。

「ワルぶっている」人間がすべてサイコパスだと言う意味では決してないが、自己愛性、ないし反社会性人格障碍の人間は「ワルぶって」いることがむしろかっこいい(そう受け取られる素地も、こと欲求不満とコンプレックスの溜まった社会では大いにあり得る)ことにだけ執し、「ワル」と見られることのリスクを実はまったく認識していない(普通ならどんなに「ワルぶって」見せようとしても、直感的な躊躇がどこかであり、それを乗り越えてワルを気取るものだ)傾向がある。

「平気でうそをつく」のも、それは噓をつくことが無意識・無自覚のレベルで本人には「平気」だから、直感的に噓がバレた場合のリスクも考える、ということをやらないぶん簡単に出来ることなのだ。

確信犯的な嘘つきにとって、噓をつくことは「平気」ではない。噓がバレたときのリスクを計算の上、バレないように噓をつく努力などはちゃんとやらなければ安心出来ないのだが、それは元々、人間は簡単に噓をつけない、そのリスクを考えてしまう生きものだからでもある。

希代の詐欺師や悪徳政治家は、自分達の噓が暴露されればどうなるかのリスクを認識していなければ、そこまで大それたことをやる前にたいがいは潰れてしまう。

ヒトラーが本当にサイコパスだったかどうかいささか疑問があるのもここで、彼を支持したドイツ国民がそのサイコパスに騙されることを無自覚に受け入れ続けていたか望み続けていたのでもない限り、一過性ならともかく、12年に渡って政権を維持することは不可能に思えるからだ。 
また岸信介がサイコパスだったとみなすのはかなり難しいのも同じだ。

逆に「平気でうそをつく人たち」である人格障碍者は、その噓がバレたときのリスク認識が直感的なレベルで抜け落ちている。意識的にそれを補完することは気づけばやるのだろうが、たいがいの場合は噓に噓を重ねてますますおかしくなって、まさに「え? なんでこうなるの?」とこちらがキョトンとしてしまう状態になる…のが本人たちの自覚はまったくないらしい。

まあ他人の心のなかが、そこまで把握できるわけでもなく、実は自覚はしていても、それでも続けているのかも知れないが…。 
依存性人格障害の場合、それがこちらに対して発しているSOS、もうそんなに追いつめないで、ボク壊れちゃう、ということなのかも知れないが… 
…そんな勝手なこと言われても困るんだけど。他人には分からんよ、そんなの。

人格障碍者が「平気でうそをつく」、あるいは肝心なときに「妙に無責任」で「深刻さが欠けているようにしか見えない」、他人を巻き込むことを厭わず思考停止のパニック状態を見せつけるのは、それが他人様や相手を怒らせたり、不快にするリスクを、そもそも実は認識出来ないか、その認識が著しく乏しいから、と説明出来るだろう。

倫理観が低い、ないし欠如しているというのは、道徳の教科書レベルの話ではない。

社会的生物としての他者との関係におけるリスク、赤の他人が自分をどう思うかについての直感的なリスク感覚が、そもそも抜け落ちている。その言動が「間違っている」、ないし相手を怒らせたり不快にさせたりするリスクを、認識出来ていないのだ。

世界観のなかに「他人様」がいない、とも言える。他人様がいない世界観だから、目の前にいるのが他人様であって、その人の感情や意志は独立したものだと認識していないなら、その他人様に自分をぶつける際に必要なはずの倫理観も必要ないのだ。

自分とはあくまで別個の存在としての他者ではなく、他者をすべて自己の期待や欲望の延長上か、自分の感情の投影先としてしか、実はみなしていない

たとえば、他人様を自分が怒らせた認識がなく、怒った相手が「自分を攻撃している」としか認識出来ない。 
あるいは自分が追いつめられて感情的になっているのは、それが相手が自分の感情を刺激しているからであり、それは相手が攻撃しているのか、感情的になっているのだ、という客観性に欠けて誤った認識(自己逃避であり自己投影)を即座に、かつ無自覚に採用し、それに固執してしまう。

今日、このテの「え?なんでこうなるの?」的な行動原理を「人格障碍」、Personality Disorder と分類する概念が生まれ、そう分類される事象が研究されるようになったのは、まずアメリカの精神医学で盛んになったことだが、アメリカでサイコパス、反社会性人格障碍をめぐる議論や言説や研究、さらには映画や小説までどんどん産まれるのは、実際にそれに該当する人が確かに多いと思われる(事件すら多い)し、文化や社会の価値観からしてそれは説明がつく。

なんせアメリカ合衆国って、反社会性人格障碍くらいあった方が、出世し易い国なんだもん。

あるいは今の米軍がやっている訓練方法には殺人に伴う良心の呵責を押さえる心理誘導がシステマティックに組み込まれているので、米軍、とくに海兵隊のブートキャンプだとかは、サイコパスの育成装置になっている、とすら言えてしまう。

一方で日本は社会の価値観からして依存性人格障碍、それも自虐性に偏った依存性が従来は多かったと推測されるし(旧日本陸軍なんて、かなりの部分が自虐性の依存性人格障碍を奨励する組織だった)、今では小児性や自己愛性に偏った、幼稚なタイプなどと分類される人格障碍が増えている可能性は、もの凄くある。日本の場合はある意味、学校教育がそれを奨励しているんだから

逆にアメリカの精神医学では、依存性人格障碍はあまり注目されない。

ヨーロッパでもフランスなんかでは「理解出来ない」と言われそうだ。そりゃそうだ、僕もあの国の小学校で育っているが、ああいう教育やああいう子育てでは、依存性になんぞに陥りようがないように思える−−と言って、実際にいないわけではない。だたあっけなく無視されがちだから、社会的な影響力をほとんど持ち得ない。依存性を発揮して取り入ろうとしても、それを受け入れる素地が社会の側にない。

日本はかなり逆で、大きな事件などがなにもなければ、依存性があった方が生き易い。

アメリカやフランスのような社会で依存性人格障碍が大きな被害をもたらすとすれば、社会的な犯罪よりは、DVなど家庭内、パーソナルでプライヴェートな空間においてだろう。

こうしたアメリカの精神医学界が起源の人格障碍をめぐる議論や、人格障碍を事実上の精神疾患として扱う、精神科医が認知行動療法などを用いて治療にあたる、という考え方に、僕は以前はそれなりに納得していたが、今は「本当にそれでいいのか」とも思う。

いやもう、とくに日本では「人格障碍なんて精神科医が儲けるための詐欺だ」という極論すら最近は出ているし、これもそれなりに傾聴には値する話だ。

参考まで、精神科医・内海聡氏の見解 

既存の(アメリカ起源の)モデルでは、人格障碍は誰もが大なり小なり持っている性格上の特質が極端化した状態だと言われている。

今の精神医学の定説では反社会性と依存性は同一線上の逆方向のベクトル、社会に対する順応・協調性が強過ぎると依存性、逆に独立心が強過ぎると反社会性、と分類している。だが、この説はえらく勘違いした単純化だと思うし、こんな杜撰なモデルでは、いくらカウンセリングをやっても破綻しそうだ。

というのも、反社会性人格障碍と自己愛性人格障碍には一見共通するところが多く、反社会性と依存性人格障碍では真反対に分類されているが、よく見ているとそうではなく、むしろ行動パターンの表層では真逆に見えても、分析的に見れば実は共通点が多く、そして親和性が高く同じ集団を形成する場合も少なくないからだ。


  • 妙に子どもっぽい。ただし若々しいとか純粋という意味ではない。
  • 人間関係の作り方や維持の仕方がものすごくワンパターン。でもなぜかそれに本人が飽きることがなく、人間関係の発展や学習能力も期待できない。
  • 「自分の責任」という認識がないか、著しく低い。妙に無責任。あらゆる事実関係や価値観を無視して、結局はすべて「他人のせい」。
  • 対人・対社会の関係におけるリスク判断が、対人関係に依存しているはずの依存性人格障害ですら、実は抜け落ちている。「言われたからその通りにやる」「それがルールだから」までしか考えておらず、なぜそのルールがあるのかを体感的に理解出来ていない。だから「ルールを守ってるじゃないか」と逆ギレする。
  • 会話の受け答えがかなり行き当たりばったりで、よく聞いていると言ってることの筋が通らない
  • 正誤や価値の判断における一般性、普遍性の認識や論理性が欠如している。だから反社会性人格障碍の場合、一見多くの知識を駆使しているように見えるが、その知の体系に一貫性がなく、行き当たりばったりにその場その場で偉そうに自説らしきものをぶっているだけで、自己矛盾が激しく、実は「自説」として成立していない。依存性の場合、人間関係における上位者に従い依存しているだけで、ある一貫性のある価値観や普遍性のある倫理判断に従っているのではないため、やはり自己矛盾した受け売りが多い。
  • 事実関係の把握が、一方的に自己正当化の方向に歪んでいる
  • とても無邪気にうそをつく。
  • いいわけがいいわけになってない、かえって相手を怒らせることを言う
  • 自己逃避と自己投影が激しく、自分のモノ差しや自分の都合だけで相手を一方的に決めつける。結果、ただでさえ正誤や価値の判断の一般性・普遍性がないことによるダブスタや、いわゆるブーメラン状態が、無自覚な思い込みでますます増える。
  • 知識や認識が自分のなかで体系化されていないので、実は思いっきり権威主義。ポーズとして反権威主義、反体制的に振る舞っても、一皮むけばもの凄く薄っぺらに肩書きや社会の決まりごとに左右されている。反社会性人格障碍であれば社会に反抗しているようでありながら、社会的な地位に拘泥・執着する。依存性人格障害の場合も「みんながそう言っている」と、自分に味方してくれている周囲の支持だけで自己を正当化する。
  • 自分のやったことの記憶が消えている。逆に他人にやられたことは極端に根に持つ。
  • 一見激しく感情を発露しているように見えても、実は感情が希薄である。一定の複雑さを持った人間らしい感情が欠如している。「喜怒哀楽」という単純化した分類だけでも、反社会性人格障碍の場合は「喜怒」しかなく、依存性人格障害の場合は「哀楽」しかない。実は「自分が認められている」ことに対するポジティブな感情と「自分が否定されている」ことに対する反発、この二つの感情だけでたいがい説明がついてしまう。

いやこうなると、人格障碍の様々な種類を今のやり方で分類することの限界まで見えて来た気がする。反社会性と依存性という区分け自体が怪しく思えて来たぞ。どうも現在提案されているモデルは、まだまだ改善や再検証が必要ではないだろうか?

「人格障碍」と言葉の響きは、なんだかおどろおどろしいことを想像されそうだし、今まで書いて来たこともえらく不気味に思われるかも知れないが、これはいわゆる精神疾患(かどうかも厳密には怪しい←しつこい!)のなかでは理論上、もっとも深刻でない部類になる。

だいたい、だから精神疾患とみなすべきどうか議論が分かれるのだ。

対人関係におけるリスクを勘案して社会的生物としての自分の地位と、所属する社会の秩序を維持する必要までは、全人類に共通することだが、それがどう実践されるかは「噓はいけません」「人殺しはいけません」程度のもっともベーシックな倫理観以外では、社会や文化によって、その倫理観がどのように体系化されているのかも含め、かなり千差万別である。

たとえば江戸時代までの日本は、現代とかなり異なった倫理観を持っていたし、それは表面的には極度に西洋化された現代でも、無自覚なレベルでは相当に残存している。詳しくはこちら→「私的・江戸時代論

つまり多くの人格障碍者には欠如しているか認識が著しく低いと思われる倫理観の形成は、それぞれの人間が育ち所属した社会やコミュニティの文化に左右されている以上、先天的に人間に組み込まれた「本能」とは言い難い。

それに人間どうしのつき合い方の文化ともなれば、倫理規範のベースとなる宗教によって一定の統一性を持つわけでもなく、もっと多様だ。

強いて言えばそういう個々の文化や社会の差異にも関わらず、そこを超越して語りかける力を持つ芸術表現のなかにだけ、その「人間の本能としての良心」が息づいているのかも知れない
というか、無自覚にでもその確信がなければ、たぶん誰も映画だの演劇だと小説だの、やってません。

だから人格障碍は明らかに後天的な環境要因と考えるべきであり、ぶっちゃけしつけや子育ての失敗に起因する場合が多い。意識や認識の構造の問題ではあるが、脳の器質的な機能の欠陥に直接関係はしない、要は育っている環境の結果認識や意識、世界観が歪んでしまった、という程度のことであり、精神医学による対処が本当に適しているとも言えないからだ。

むしろ禅寺で修行するとか、熱心に農業でもやるとか、職人に弟子入りするとか、なにかの体験で気づいて自分を克服するとか、小説でも映画でも演劇でも、あるいは音楽でも絵でも、なんらかの形で世界観をスッキリさせる芸術体験の方が有益だったりする。

いや恋愛や最高のセックスだって、その方が有効な場合もありそうだ。

だから「こんなもん精神科で扱うのがおかしい、儲け主義の詐欺だ」と言われても、それはそれで納得せざるを得ない。

ただし、上記のような精神科以外の方法はいずれも万能ではないし、逆効果の場合だってある。それを言ったら精神科医のカウンセリングだってまったく同じことではあるが。

題名は忘れてしまったが、ある韓国映画で、子どもを殺された母親がその殺人犯に刑務所で面会するシーンがあった。犯人は自分の罪を悔いているという。だが自分は罪を悔いて神に許されたのだから、母親にはもう彼を責めることは出来ない、と続けるのだ。 
まさに「え?なんでこうなるの?」と観客はキツネにつままれた気分になる話だ。ひたすらキョトンとしてしまうし、あまりに意外なので反論が出来ないちゃぶ台返し、その母は怒ることも出来ず、ただ哀しみにますます突き落とされる。 
この通り、サイコパスにはキリスト教もまったく役に立たないこともある。

また原因が深刻な器質的な機能の欠陥ではないし精神疾患と分類して深刻に考えるべきでないと言って、治療が簡単だとか(「治療」と言えるのかも怪しい←しつこい!)、回復し易いわけではない。

たとえばリストカットは境界性人格障碍がかなり重度な場合に、よく見られる行動だとされる。重度なパニック障碍に陥る場合だってあるし、出て来る症状には深刻(に見える)ものだって少なくない。

それに回復は、より重度であるはずの精神疾患よりもさらに難しいかも知れない。薬物は関係ない、役に立たないし。サイコパスと言われるレベルでは、治療しようがない、治らない、という見方もある。

たとえば、幼少時から虐待的な環境で育ってしまうと、人格障碍に陥るのは極めて可能性が高い。家庭内なら親、学校でも大人や社会との健全な関係を持つことが最初から禁じられてしまっているのだ。

このトラウマを克服するのが非常に難しいのは、言うまでもない。

そうした虐待的な環境がどれだけの禍根を子どもの将来に残すのか、日本ではまだまだ事態の深刻さが理解されているとは言い難い。虐待する親から子どもを引き離せればめでたしめでたし、とは絶対にならないのだ。

以前、クリントン米大統領が自分を「アダルト・チルドレン」と告白したことがあるが、これも一種の人格障碍である。なおこう告白出来る、つまりは自覚しているだけでも、人格障碍は半分は治ったようなものである場合も多い。

これも誤解されがちなのだが、「虐待的な環境」というのは子どもにとって、ただ親が暴力を振るうとか、ネグレクト=薄情な親、愛情が欠如、といった話に単純化していい問題でもない。「アダルト・チルドレン」はこと現代の日本の場合、多くの人が思っているよりも遥かに多い。

一昔前、母親と娘が仲良く同じ洋服を、とかの事象が「一卵性親子」と言われたが、あれだって共依存関係に我が子を陥れる虐待的な関係であり、依存性人格障碍の典型のひとつだ。

暴力を伴わなくとも子どもが親や周囲の大人の思い通りに行動する、そうすることが正常な親子関係だと子どもが思い込んでしまう、親を喜ばせることが子どもの最大の喜びになってしまえば、それだけで立派に虐待的な親子関係、虐待的な子どもと大人の関係であり、人格障碍の温床でもある。

学校でのいじめでも、表層の理屈だけでなく実際の感覚として、いじめられた子どもが自分の受けた体験は不当なものであると認識し、いじめた側の子どもにきちんと反省できる認識を与えるよう教師や学校がふるまわなければ、もし出来ないのなら子どもがそれを「これは大人が、先生がダメなんだ」ときちんと心の奥底にまで腑に落ちて認識出来ない限り、やはり人格障碍の温床になり得る。

だから今の日本で蔓延している、上辺だけの対症療法的ないじめ対策は、完全に誤っているのだ。

自分と他人との関わりとして「いじめ」が不当であり異常であり、そこに順応する必要がない、生存のためやむを得ず合せていると自覚できるならいいが、そういう下位に置かれた立場が自分の世界との関わり方なのだと思ってしまい、たとえばそこに服従することを潜在意識で前提としてしまえば、依存性人格障害に陥っている可能性がある。

また加害者の側でも、きちんと自分の行いを認識・反省出来なければ反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍になる可能性は無視出来ないし、加害者グループ側でもいわば下っ端、付和雷同型の加担者は、被害者より重度に依存性人格障害になる可能性が極めて高い。

親が子どもに対して親としてちゃんと振る舞えない、極度に自信のない親が子どもに反抗期をちゃんとやらせない、「好きにしなさい」的に振る舞うだけの、子どもの自由を認めると装いつつ、実はネグレクトの状態で、幼児の持っている万能感を克服させられないまま育ててしまえば、自己愛性人格障碍や反社会性人格障碍になる可能性も高い。

これらの子どもの育ち方の環境の問題を、「だから『親学』だ」的な安易で薄っぺらな抽象論と勘違いしないで欲しい。

人格障碍とはあるイデオロギーを信奉するかしないか的な問題ではなく、その前提となる世界の認識に起こる倒錯である。たとえば『親学』を信奉し実践する親のその動機がたとえば依存性人格障害的なものであれば、教科書的にそこで推奨されていることを実践しても、決してうまくいかない。

依存性人格障碍の親は、子どもに不機嫌になられる、怒ったり泣いたりされるだけで自信を失ってしまうので、ひたすらそれを避ける傾向がある。それが「親学」なら「親学」という権威に依存出来るとなると、とたんに杓子定規に、子どもの反応も見ずに押し付け始める場合も少なくないだろう。

そこでまして「言われた通りにやってるのにうまくいかないじゃない!」だけで親が思考停止する(依存性人格障害の典型的な行動原理)なら…

…っていうか『親学』とやらで言ってる子どもとのスキンシップが、愛情がどうこう、あれはすでに子どもからみれば過剰な抑圧です。 
それを気持ち悪がらずにベタベタして喜んでる子どもって、それだけでも危険に思えますよ…。 
だいたい子育てに「○○の伝統的価値観」とかの大人の政治性をうっかり持ち込まないで欲しい。その発想自体が、虐待的だ。

実際には、人格障碍を精神科医が扱うことになるのには、やむを得ない面はある。

本人が思いっきり人格障碍な状態でも、日常生活に即座にそれほど支障があるわけでは必ずしもない。

反社会性人格障碍の多くは一見バリバリ仕事ができて有能に見えたりもするし、自己愛性人格障碍は本質的な幼稚ささえ隠せれば自信に満ちあふれて見えるかも知れないし、依存性人格障害は(さっきからしつこく言ってるけど「癒し系」に見えるから)協調性と気配りがあるように見え、周囲からかわいがられたりする。

問題が顕在化するのは、どうしようもなく大変な状況になった時だけ、というのがほとんどだ。

人格障碍のある人は実は社会的な耐性が極端に低い。ストレスに弱いだけでなく、場合によっては無駄で過剰なストレスを自分で作り出してしまう。

一見、周囲の仲間とは仲がいいから社会性が高く見える多くの依存性人格障害の人も、実は自分の依存先との人間関係が、潜在的に支配−被支配関係なので相手にとって気持ちよく、だからうまく行っているように見えているだけで、社会性が極端に低い。

だから少しでもその依存関係の構築では通用しない人間関係になってしまうと、とたんに「なにがそんなに大変なんだろう?」とハタ目には思うほど大混乱、パニック状態になって頭真っ白なまま錯乱した言動に陥ったり、過剰に興奮してパニック障碍を起こしたり、リストカットに走ったり、いわゆる頭が真っ白の状態になってなにも出来ずに自分の殻に引きこもって、あたかも鬱病になったかのようにさえ見える場合もある。

つまり世間的に言えば、やはり精神科医の出番である。

極端な場合、まるで鬱病にみえる(だが実は責任回避に懸命なだけの、一種の無自覚な演技)状態であるだけならまだいいが、過剰なストレスで本当に鬱病、つまり今の定説では脳内の神経物質の分泌異常の悪循環でどんどん落ち込んで行く、これは間違いなく精神疾患になる場合だってあるだろう。

もっとも、実はこれを峻別する方法論が、現代の医学にあるわけでは必ずしもないわけだが。 
なにしろ鬱病が脳内の神経物質の分泌異常の悪循環という定説だって、実際のその脳内物質の分泌量をリアリタイムに、鬱病の人の脳内で計測することなんて出来ないのだから、「この物質がこれだけ出てるから鬱病です」という数値化された診断基準があるわけではない。 
今話題の新型うつ病だって、本当は人格障碍者がパニックで思考停止に陥っただけなのかも知れないし、だいたい、ならば「なんで鬱病の診断が出て仕事を休んでいる人がこんなに元気にSNSで自己愛的な感情をむき出しに出来ているんだろう?」的な疑問も一応説明はつく。
あと「妙に無責任で深刻さに欠ける」が、依存性人格障害にも新型うつ病とされるものにも、双方に指摘されているのも含め。 
これがいわゆる古典的な鬱病、自虐性が強く親メランコリー気質、つまり真面目で責任感が強く自分を責めてしまいがちな人がなり易いとされて来た従来の鬱病の特徴と比較するに、精神科医が首を傾げて来たことなわけであるが。

…とここまで読んで下さった皆さんの多くが、「あるある!いるいる、そう言う人!」と思っているのではないだろうか?

ことインターネットを積極的に利用して、時に政治問題とか社会問題に関する議論や運動に関わっている人は、そういう体験をもの凄く多くしているはずだ。

  • 反論ができなくなるとすぐ論点がズレる
  • 無関係な話で相手を攻撃する
  • なんの脈絡もなく、すぐ「誰某もこう言っている」という話になる
  • 客観的には普通の言葉遣いでも、乱暴だ、罵倒されたと言い出す
  • 遡るだけですぐにバレる嘘を平気でつく

すべてあまりにも日常的な風景だし、それでも誤摩化しが効かずに追いつめられると、同じような主張や運動に関わる人が加勢して来て「炎上」を企んだり、慰め合って噓を言い合うとか、もう見慣れてしまって飽き飽きしている人も多いだろう。

そうやって仲良さそうに見える者同志が、いざその相互間で大変な問題が起こると、突然決裂するのもよくある。ちょっとしたミスだったり、自分の考えが間違っていたら、すぐに謝れば済むことなのにねえ…。

反論出来なくなったら、とりあえず黙って考えればいいのに。

まさに「なんでこうなるの?」とこっちはキツネにつままれた気分にさえなる

まさに「なにがなんだか分からない」状態だ。

「なんでこうも平気で噓が言えるんだろう?」

「自分の言動が批判されたらただ逆ギレってどういうこと?」

それを平然とやってしまえる人がその仲間内(クラスタ、って言うんですか?)のリーダー格なら、反社会性人格障碍や自己愛性人格障碍の可能性は大いにあるし、自分の失言をそういうリーダー格に「守って」もらったりお仲間に慰めてもらったりしている人は、依存性人格障害の幼稚なタイプの可能性が極めて高いし、依存先であるリーダー格やお仲間の失言が批判されている時に、よせばいいのに「誰々さんを守らなきゃ」的に蛮勇を発揮してしまうのは、自虐性の依存性人格障害である可能性を無視出来ない。

あるいは自分が怒らせた相手に一生懸命に媚を売るかのような言動に走るのも、これまた依存性人格障害である可能性が相当にある。人間関係を依存先との上下・支配関係でしか構築出来ていないのだ。

昨今、インターネットの使用に依存性がある、脳に無視出来ない異常を来す、といった論も花盛りだ。これもどこまで信憑性があるのかどうか、話題性があってセンセーショナルなわけで売らんかな精神も相当に作用しているのだろうが、さりとてここまで異様な言論が蔓延すると、その可能性を無視も出来ない。

僕はまだ見つけてないのだが、インターネットが人格障碍の状態を助長する、というような論考を誰か書いていませんか?あったら教えて下さい。

ネットが人間の精神に与える影響の可能性さえクリア出来れば、なんでネット上の掲示板やツイッターの「クラスタ」が、リーダー格がほとんどの場合、反社会性人格障碍を大いに疑わせる言動になり、そこに依存性人格障碍を大いに危惧すべき人たちがたむろする、そういう集団の結束が極端に(しかし刹那的に)強いのかはよく分かる。

依存性人格障碍者が、自分が実は「自分がない」状態であることへの潜在的で無自覚なコンプレックスも作用して、反社会性人格障碍の人間を依存先に選びがちであることは、人格障碍をめぐる研究ではもう語り尽くされているような病理だからだ。

いわゆる「マインドコントロール」「洗脳」の状態と言ってもいいだろう。

ついこないだまで、僕自身がそういう事象に遭遇したら、「もう精神科に行ったら?ネットじゃ無理だし」とサジを投げて来たわけだが、これもいささか無責任な話だったか、と反省している。

むしろネット上という特殊環境であることは勘案すべきとはいえ、ここまでそんなのばっかり、それこそネットを利用して広がる運動の類いがすべてこの反社会性や自己愛性人格障碍の周囲に依存性を大いに疑わせる人たちが集まるパターンを、反原発デモでも、極右排外主義でも、あるいはその「ヘイトスピーチ」のデモに対抗するはずの集団でも、いずれも完璧になぞってしまっているのを見ると、これはもはや精神科医に任せて済む問題ではない。

洗脳されたマインドコントロール集団と言っても差し支えない状態が、こうも簡単に産まれるのを度々目撃してしまえば、こと日本の場合はほんの70年前の戦争のこともあり、警戒したくなるのは当然だろう。

潜在的な人格障碍の蔓延を、日本という社会全体の問題として考えなければならないのではないか?

しかし困ったね。「サイコパスは治らない、治せないよ」と信頼している精神科の先生には言われたのだが…じゃあどうすんの? 
なにが出来るの?

いやなんと言ったって、内閣総理大臣がどうみても「この人、人格障碍あるでしょう?そうでなければこの言動は説明出来ない」という人なのだから。


体調不良で辞任するって、それを元気な顔で記者会見しちゃったのはまだ、一回は世間知らずで子どもっぽい行動をしてしまっただけで、そこで「お腹が痛いからやめました」とさんざん揶揄されたのだし、そこで少しは考えるだろうに…ところが「おかげさまですっかり元気になりました」でいけしゃーしゃーと現役復帰。

まさに「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまうところだ。そして行動が妙に子どもっぽい。

文字通り自分の責任という感覚が、なぜかすっぽり抜け落ちている。深刻さが理解出来ていないようにしか見えず、妙に無責任。

原爆忌のスピーチで未認定原爆症問題に触れたのはいいが、「専門家に検討を急がせる」。一人あたり国民所得を10年で150万増やす、と公約しながらどうやってやるかを問われたら「70年代80年代の日本人に出来たことが、今の日本人に出来ないわけがない」。原発事故についてデータや技術上の具体的な話は一切なく「私の政府が総力をあげて」約束するんだそうだ。

ますます「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまう。そして妙に子どもっぽい。



またそんなサイコパスっぽい総理大臣が、なぜか高支持率なんだから、ヒトラーもやっぱりサイコパスで、12年間支持したドイツ国民も病んでいたのかも知れない。

いや今の日本だって、その内閣総理大臣が先頭に立ってメディアも政界も加担する、尖閣諸島問題を言い訳にした中国敵視とか、韓国に露骨に歴史修正主義をぶつけて怒らせるとか、当然の反発を受けたら内輪でしか通用しない「反日」だとか言っているのは、もはや国家規模で人格障碍なんじゃないか、という比喩まで成立してしまう。

これは右翼とか左翼とかいうイデオロギー以前の問題だ。

保守主義なら保守主義の歴史観でも、それが他国/他人に通用するだけの説得力が必要だ、という認識自体が抜け落ちているのが、今の日本に蔓延する歴史修正主義の大きな問題だ。しかもそれが当然ながら他人様相手には通用しないとなると、通用するように説得力を増す努力なり工夫をするのでもなく、とたんに「反日だ」というレッテル貼りで、実は自分たちの内輪に引きこもってしまっている。

「もう謝ったじゃないか」「こんなに経済援助したじゃないか」「公文書には強制した命令書がない」等々、これで相手が納得すると思うのだろうか?右翼愛国主義の主張にしては、一応サムライの国のはずが、あまりにみっともない。

「え?なんでこうなるの?」という感じで、会話や対話がまったく成立していない。

外相会談で韓国側に「今さら具体的に言わないでも、なんのことか十分にご承知でしょうが」と大人の余裕でイヤミを言われても、外務大臣はしどろもどろな子どもの遣い状態になり、国内の大臣は逆ギレするだけ。

まさに「え?なんでこうなるの?」である。そして妙に子どもっぽい。

国連事務総長が「正しい歴史(認識)が、良き国家関係を維持する。日本の政治指導者には深い省察と、国際的な未来を見通す展望が必要だ」と発言すると、「中国より、韓国よりだ」と子どものように駄々をこね、国連総会で説明する、とまで妙に威勢がよかったのが、国際的に誰にも相手にされないと分かると、もう自分たちで忘れたかのよう、まるでなにごともなかったかのように振る舞っている。

若々しいとか純粋と言うのではなく、妙に子どもっぽい。

そしてやってることに一貫性がなく行き当たりばったりであることに、本人たちが気づいていない。

震災や原発事故の被災者への対応でも同じだ。都合のいいときは「絆」を語り、「被災者を励ます復興支援のオリンピック」、だがそこに他人様の認識がないから、「東京は250Km離れているから安全です」となる。

まさに被災者という「他人様」の存在の認識が欠如しているとしか思えない。

「え?なんでこうなるの?」

「フクシマの人たちのため」と言いつつ、うっかり「たかが電気のために」と一度言ってしまっただけならいい、その言い方はあまりに無神経だったと気づきさえすれば。

だが誤解された誤解されたとだけ言い続け、誤解ではなく言いたいことは伝わっていても、その言い方はやはりひどいと言われていることに気づけなければ、やはり正常に他人様との関係を認識出来ているとは言い難い。

デモの演説で一回、「たかが電気のため」を言ってしまった坂本龍一さんは、確かに「たかが電気」であるのは間違いないのだが、その「たかが電気」のために原発立地を搾取して来た側がみだりに言っていいことではなかったと、すぐに気づいていましたよ。 
ところが「周囲」はそうは反応しなかった。
福一事故で避難させられた人にしてみれば、ただの「たかが電気」でなく「たかがこんな下らない人たちのための電気だった」になるのだが。

「え?なんでこうなるの?」とキョトンとしてしまうところだ。若々しいとか純粋と言うのではなく、妙に子どもっぽい、まるでただの駄々っ子だ。

反省というものがまったくない。信奉しているはずのなにかの理念や信念と、自分自身を照らし合わせる、という作業がまったくない。実は「ボク悪くないもん」しか動機がないのかも知れない。

もはや人格障碍なんて精神医学用語を使うべきではないのかも知れない。「病気なんだ。こんな悪口を言うのは差別だ!」と言い出す逃げ道を与えるだけになりそうだし。

なんせ無自覚で無意識にやってることが病的とはいえ、ただのわがままではないか。

要は「他人様」のいない世界観という、誤って歪んだ認識と意識の構造にどっぷり浸かって、平気で噓をつきながら、自分達で「噓じゃない、噓じゃない」「ボク(たち)間違ってないもん」と相互マスターベーションで自分達どうしだけで依存しあってる、ハタ目には極めて気持ち悪い集団主義に、この国は陥ってしまっているのかも知れない。

ここまで書いていても、かなりの部分の人が、自分達がまさにその状態であることに気づかず「ああ、あいつらが」と思い当たるフシがあると納得するだけで終わるのかも知れない。

あるいは自分が論理的に逃れようがない話と気づけば書いた本人を貶めることで議論を無効化することに熱中するしかない状態になるのだろう。

いやだから、それ人格障碍の疑いがありますよ

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