最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/20/2013

憲法をめぐる憂鬱


スティーヴン・スピルバーグ監督の『リンカーン』が、そろそろレンタルでも出回る頃なので、ぜひ見て頂きたい。



公式サイトはこちら。DVDは9月発売だそうです。

イラン政府が「アカデミー賞はこういう映画に与えるべきだ」と『アルゴ』の受賞にイヤミを飛ばしていたのだが、そのイラン高官が『リンカーン』をちゃんと見ていたかどうかはともかく(案外ちゃんと見てたんだろうが)、実際アカデミー賞はこういう映画に、という風格と中身の「名作」であり(それが映画としては欠点でもあったりはするのだが)、アメリカ人だけでなく、こと「改憲」がにわかに話題になっている今、日本人もみんな見た方がいい。

…というのも、『リンカーン』は奴隷を解放した名大統領の偉人伝映画ではない。「憲法を変えることの重み」についての映画なのだ


ダニエル・デイ=ルイスのリンカーンそっくりさんぶりが絶賛されたが、実は彼がリンカーンに似ているかどうかなんて演出上の課題は、スピルバーグは冒頭シーンでさらっとクリアしてしまっており、あとはまったくどうでもいい(またどうでもよく思わせるだけ、デイ=ルイスの演技が凄い)。

スピルバーグが描いたのはひたすら、奴隷制を禁止した憲法修正第13条を南北戦争終結の前に下院で通して成立さないといけない、そのすったもんだの苦労話である。

Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convicted, shall exist within the United States, or any place subject to their jurisdiction. 
奴隷制もしくは自発的でない隷属は、犯罪への刑罰として正当な判決に基づく場合を除き、アメリカ合衆国内およびその法のいかなる所轄範囲において、存在してはならない。

僕たちは南北戦争で北軍が勝ったから奴隷は解放された、と単純に理解しがちだが、憲法がちゃんとある国というのはそんな単純なものではない。立憲民主制というのは大きな決定をする際に、手続き的にどれだけ大変なものなのか?法の論理を守るというのは、時にえらく面倒なものである。

南北戦争が終わる前に憲法で奴隷制を禁止し黒人を含むあらゆる人間の法の下の平等を決めておかなければ、内戦では北軍が勝っても奴隷制は終わらなかった、これはこの映画を見るまで考えもしなかった視点だが、確かに法律の理屈としてそうなる。


奴隷を財産とみなすことが憲法で禁じられない限り、法が奴隷を財産とみなしている状態では、奴隷ですら合衆国憲法によって保護される私有財産であり、大統領が奴隷解放を宣言しただけでは、国家・政府が市民からその財産を奪うことは出来ない。

そして奴隷解放をめぐって内戦に突入したはずなのが、北軍(連邦政府)側でも黒人を「同じ人間」として認め、平等に人権を認めることには差別偏見で反対も多く、私有財産権を侵害するリンカーンは独裁者だとの批判もあり、また労働者階級には解放された黒人奴隷との職の奪い合いになる懸念もあった。その上南軍側が和平を模索し始めた内戦末期に、奴隷解放の点では妥協してでも早く戦争を終わらせるべき(南北戦争はそれだけ残忍な戦争だった)との圧力もある。


黒人が白人と同じ人間とみなすことが「自然」かどうか、自然法に乗っ取って当たり前かどうか?反対する側の理屈は無茶苦茶なのだが(「神が黒人を白人と平等に作ったはずがない!」って、いやだからその根拠はなによ?)、黒人が大統領になった現代には「嘘だろこれ」的な議論を、ちゃんと説得力を持って撮っているのだからたいしたもんだ。

そしてこの映画が今作られたことは、人間の作った民主主義がまだいかに不完全で、どれだけの時間と努力を費やして、それでもなんとか現代に至ったのかを実感させる

それが憲法と言うものだ

先人が考えを尽くし議論を重ね作り出した国家の基本的な在り方は、尊重されなければならない。だが先人達も人間であり、絶対的な正義に到達しているわけもなく、同じような努力を重ねてよりよい憲法、よりしっかりした民主主義を発展させていく義務と責任は、現代が負わなければならない。『リンカーン』はそういう意味でアメリカ愛国映画の教科書的な作品だ。

決まってしまえば、今では合衆国憲法のもっとも重要な条文のひとつ、まさに憲法の要であり国の魂の根幹である修正第13条を通すのが、どれだけ大変だったのか。

制度としての民主主義が、正しいと最初から分かってるように見えることでもどれだけ慎重な手続きを組み込んだものなのか。

だからこそ、そうやって一歩一歩達成され守られる民主主義がどれだけ貴重なものなのか。

その中核にあるのが憲法である

だから憲法を変えるなんて、決して軽々に論じていいものではない。

今となっては「なにバカ言うてんねんこいつら」的な、修正第13条反対派の議員も、この映画ではとてもしっかり描かれている。彼らは明らかに間違っているが、本人たちは大真面目であり、実はよく考えれば明らかな誤りでも、それっぽく聴こえる理屈を駆使もする。その一見筋が通っていそうな理屈も、ひとつひとつ誤りを指摘し潰して行かなければならない。



それが「憲法を変える」ということだ。

合衆国憲法の理念を真面目に考えれば当然否定されるべき奴隷制を禁止するのですら、これだけ大変であり、あのリンカーン大統領と言えども独断は許されなかった。だがそうした議論と努力を経たからこそ、こうしてより正しくなった憲法は、より重い意味を持つ。

この映画、ちゃんと「憲法を変える話」として宣伝していれば、もっとヒットしたんじゃないかしら?

といって、難しい映画ではない。史実を知っていれば結果は分かっていても、それでも修正条項が可決されるかどうかの展開はスリリングだ。一方であえて「虐げられたかわいそうな奴隷」は一人も登場させずセンチメンタリズムに堕したりはしない慎みはさすが『アミスタッド』『カラー・パープル』で経験を重ねて来たスピルバーグで、黒人たちはまだ社会の下層にいても、誇り高く自然な品位を発散している。その黒人たちが下院でいよいよ修正第13条が採決にかけられる日に、傍聴席に大勢現れるシーン、盛り上げるところは超一流のスピルバーグ演出、思わず一緒に拍手で彼らを歓迎したくなるほどだ。
激戦の戦場をリンカーンが訪れる冒頭シーンで、リンカーンを登場させるまで(それがリンカーンと分からせるまで)の構成も、誰でも知っているゲディスバーグ演説の「人民の、人民による、人民のための政府が、決してこの地上から潰えてはならない」を黒人兵に暗誦させるとか、見事な手練だ(ここですでにハンカチ一枚!)。最後にはリンカーンの生涯のライバルだったサデウス・スティーブンスにちゃっかり花を持たせる(トミー=リー・ジョーンズが凄い)展開も、あざといと言えばえらくあざといのが、しっかりほろりとさせられる。


リンカーンが弁護士出身なので、法律をめぐるややこしい理屈の複雑さもしっかり踏まえている。

巧みな演出の分かり易い手練で、決して、ただ人種差別反対を歌い上げるだけの映画でも、ただの偉人伝でもなく、しっかりと「法の支配とは、民主主義の理想とはなにか」を観客が学べる、本当に丁寧に作られた名作で、中学生くらいで十分に理解出来るはずだ。

映画的には名作過ぎるのが玉にキズ、でもスピルバーグの真面目路線でも最良の出来かもしれない。『シンドラーのリスト』のこれ見よがしな説教臭さはないし、彼の映画としては初めて、直球でディスカッション・ドラマなのに、『ミュンヘン』や『アミスタッド』のように言葉にひっぱられて破綻することもない。スピルバーグの成熟だ。
(ただしスピルバーグの傑作を一本選べと言われれば、誰がなんといおうが『太陽の帝国』です。これは譲れない)

それにしても憲法を変える、とはこれだけ重いことなのだ。法の尊重、法治とはこういうことなのだ


一方で「改憲はこっそり静かに」とか「ナチスに学べ」とかの暴言が飛び出し(麻生さんは口が滑っただけで本音ではないだろうにせよ)、いやそれ以前に「憲法を変えて誇りのある国を」となんかわけもわからぬ軽さで絶叫しているのが我が国である。

とりあえず96条を変えて憲法をもっと自由に改正出来るように…というのが今の話のメインだが、『リンカーン』を見ると、これまで何度も憲法に修正条項を加えて来たアメリカまもなく結婚を性別に寄らないとする修正条項が議論されるだろうですら、決して憲法をそんなに軽いものとみなしてはいないのだと実感する

そんな重大な、国の在り方を左右する話を、議会過半数だけで発議を決めて国民投票でいいのか?

議会2/3でも、本当に変えるべきときには、議論も重ね説得も試みるし、信念があればそれだけの努力もするし(リンカーンの狡猾な政治的手練手管には、かなり唖然とする。いや「不正スレスレ」どころではない)、またそれだけの説得力を改憲案が持ってなければならないはずではないか。

日本の「改憲論」のすべてが、軽薄で軽卒過ぎる気がする、と『リンカーン』のような映画を見ると真剣にそう思う。

…というか、96条改正はとりあえずの議論の端緒のカムフラージュなのは見え透いていて、今「改憲」を言っている人たちは9条をなんとかしたいだけなのだ、というのは誰でも分かっている。この見え透いた不正直さがまたなんともまあ、なのだ。

軍事力の保有を禁じ、国家の交戦権を認めない9条があるのに、自衛隊の地位が憲法に書かれていない。だから明確にするために条文を変える、というのは一見もっともらしく聴こえる。だがその改憲派の意見を聞く度に、こんな粗雑な議論で憲法をいじっちゃ駄目だろう、と特に『リンカーン』を見てしまうと、つくづく思うのである。

なんせ言ってる中身が安易過ぎる。現行憲法でも自衛隊が合憲となる、その法と解釈の論理体系をぜんぜん理解せずに「自衛のための自衛隊保有」を付け加え、その自衛の範囲を明記すればいい、というのだが、いやちょっと待て。

ならば「国際紛争を解決する手段としての武力行使」「国権の発動としての戦争」を永久に国民が国家に対し禁じ、「国家の交戦権は認めない」と明記されていることはどうするの?憲法が定める自衛の範囲は「交戦権の行使」ではない、とか慌てて付け足すんですか?


1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

「ならば今の自衛隊を認める政府解釈はどうなんだ?おかしいだろ!!」とヒステリックに言い出す前に、「交戦権は禁止されているが自衛権はある」と要約されがちな現行解釈を、ちゃんと仔細に論じなければ駄目じゃないか。

日本国憲法では「国際紛争を解決する手段としての戦争」「国権の発動としての戦争」「国家の交戦権」は認めていない、これは明記されていて例外はあり得ない。自衛隊が認められるのは、「国権の発動」ではなく、「国家間の紛争の解決のための軍事力の行使」には決してなり得ない範囲だけになるが、国が別の国に対して自衛するのであれば「国家間の紛争の解決としての交戦権の行使」の範疇に入ることは否定しようがない(「いやそう解釈しなければいい」とか言い出す馬鹿が必ず出て来るが、憲法がそんな玉虫色でどうするんだ?あんたら法律の意味分かってないだろ?)。

自衛権は認められているとみなす解釈それ自体は間違っていないが、それは自分の命や財産や安全を守る権利、非合理な、望まざる圧制に対する抵抗権が、個々の人間の自然権だからである。

自衛権は憲法の条文を読む限り、国権の発動としての戦争、国家の交戦権は認めない、国権の発動としての戦争は放棄する、と明記されている以上は、この場合の自衛権は決して「国の権利」ではない

自衛権があるのは日本人であって、日本国にではない。決して国家の自衛権ではなく(それは「国権の発動」にあたる)、主権者の自衛の権利を付託された、国民を守るための組織としてしか、自衛隊は認められていない

憲法に自衛隊の保有を明記するのなら、以上のようなことをしっかりと、他の解釈の余地なく書き込まなければ、憲法の論理的な整合性が担保出来ませんよ。論理的な整合性が担保できない、自己矛盾した憲法では、憲法として認めようがないですよ。

それか交戦権を認めないとする条文を書き換え、「自衛権の行使を除き国の交戦権はこれを認めない」と例外を明記するか、だろう。ただしそう書いた瞬間、「ああこの憲法はいい加減な、抜け道と言い逃れだらけの悪法なんだね」と表明していることになる。それでいいんですか?少なくとも、「美しい国」じゃねえよなあ、そんなの。

「自衛隊を憲法に明記すべき」というなら、交戦権と自衛権と国家の権限のかねあいをきちっと条文に書き込まない限り、「自衛権」の定義を交戦権と衝突しない形で明瞭にしない限り、あからさまな矛盾をはらんだダメな憲法になってしまう。近代民主主義の法治の根幹、国の基本法というのは、それくらいしっかりしたものでないといけない。

それが出来ないのなら、ただ自衛隊とその防衛範囲を書き込む程度の安易な話しかないのなら、確かに明記はないが自衛隊に関して厳格な解釈だけが論理的に導き出せる今の憲法9条のままの方がいい。

「自衛権の行使を除き国の交戦権はこれを認めない」なんて書いたらもの笑いの種だし、国家の交戦権を認めてないのに自衛隊が守る「国家」の範囲が明記された変な憲法なんてのは、もっと困惑する。

…っていうか、議論の真剣さが足りなさ過ぎるだろう?

それに現行憲法でも、イラクにまで自衛隊を送れてしまえるほど、なし崩しな解釈改憲まで政府の都合でやってしまうのが日本政府の実績だ。今出ているレベルの、法の論理的整合性を真面目に考えてすらいない改憲、それも抜け道だらけの条文になりそうな9条改正なんて、「これは危ない」と思うのがまともな感性だろう。

いやはっきり言えば、詭弁の誤摩化しはいい加減にしろ、ということだ

憲法で自衛隊の地位を明確にした方がいい、とか言いつつ、国家に交戦権を認め、自衛隊を普通に戦争の出来る軍隊にしたいから改憲を主張しているのが見え透いている。ならば9条の交戦権の否定を「変えたい」、とはっきり言うべきだ。戦争が出来ない憲法ではなく戦争が出来る憲法がいいのだ、と堂々と主張すべきだ。本当は交戦権が欲しいのに「憲法に自衛隊の地位が明記されてないから改憲した方が」なんて姑息な誤摩化しは、近代民主主義国家の法の支配に対する冒涜でしかない

麻生太郎さんが「改憲は静かに」「気がついたら憲法が変わっていた」と言ったのは無論大問題の失言だが、麻生さんだけを責めるのも悪い。自由民主党がやって来た9条をめぐる改憲論自体、実は戦争が出来る憲法にしたいだけであるのを、それでは大騒ぎになって国民の反発が怖いから、自衛隊の地位とか集団的自衛権に話をすり替えて、「静かに」「国民が気づかぬうちにこっそりと」変えようとする、いんちきな改憲論をずっとやって来たのだ。

ところが安倍晋三さんがもはや自衛権や交戦権すら口にせず、ただ「誇りのある国を取り戻す」と、相変わらず口先だけの内容空虚のくせに自信満々に言っている、その安倍自民党が出して来た憲法草案はもっと凄い

ほんと口先だけで意味も分からず難しそうな言葉を並べる軽薄さもほどほどに…

…自民党の憲法草案は「天賦人権説の立場をとらない」と、その日本固有のオリジナリティであるつもりのことに鼻高々なのが、安倍晋三さんや麻生太郎さんのように「家が家だし、勉強できなくてもこの大学なら入れた」的な学歴ではなく、堂々と東大法学部を優秀な成績で卒業された片山さつきさん辺りであるらしいのだから、いやもう…ずっこけるしかないんですが。

「天賦人権説の立場をとらない」って…近代法治主義、立憲民主主義の法体系は、個々人に生まれながらにして基本的人権があるという大前提でしか成立しない法体系なのですが…?東大法学部ってなにを教えてるんだ?

権利が個々人に生まれながらにしてある、という前提(自民党が「天賦人権説」とレッテル貼りしているもの)に立たないのなら、極論すれば憲法は要らない。法治国家である必要がない。

別に日本国憲法とか合衆国憲法とか戦前のドイツのヴァイマール憲法のような民主主義の憲法だけでなく、ドイツのその前のドイツ帝国憲法(プロイセン憲法)や大日本帝国憲法のような、市民の人権よりも国家の権威性を優先した君主制国家主義の憲法でも、そうは明記されていなくても、基本的人権とされるものは市民・国民の個々人に生まれながらにしてあることが前提になった法体系なのだが、片山さつきさんはそんな基礎知識もないらしい。

法律によって人間の行動が規制される、「○○はやってはいけない」と定められるのは、人間がなんの制約もなければ好き勝手で自由に行動することが前提で、法がその行為の個々に「これはやってはいけません」と制約することでしかない。問題は好き勝手で自由に行動することを「権利」として認め尊重するかどうかであって、「天賦」かどうかではない。

あえて分かり易く単純化するなら、人間が自分の意志で行動することが「天賦」つまり産まれつきに、あらゆる人が、でないのなら、逆に政府があれをやりなさい、これをやりなさい、とすべて命じるか、「人間がやっていいこと」を全部憲法にでも(?)リストアップしなければならなくなりますよ? なにそんな変な法律?だいたい現実的に無理、あり得ません。

そして「○○はやってはいけません」という法は、それがルールとして定められた以上、その所轄対象となるあらゆる人間に平等に施行されなければならないのは言うまでもない。平等主義の理想以前に、そうでなければこと成文法の場合、文字で書かれてこうと決まったことの権威が保てないではないか。

『リンカーン』の憲法修正13条だって、これは黒人に権利を「与える」問題ではない。黒人に白人と同等の権利を「認める」かどうか、法が平等に施行されなければならない対象に黒人を加えるかどうかであって、白人であろうが黒人であろうが生まれながらに自由意志で、基本自分の判断で、「好き勝手」に行動するのが基本であって、それを「権利」として認めるかどうかの議論だ。

人間がなにも条件付けのない状態では自由気ままで好き勝手、自分の意思で行動するものであって、社会秩序の維持のために法や道徳、倫理によってそこに一定の制約を課すこと、その法は平等に施行されなければ法として機能しないという元からある人間社会の構造のことを、18世紀の西洋に始まった近代民主主義の近代法治(たとえばフランス革命時に出された世界人権宣言や、米国の独立宣言、合衆国憲法)では、この自由を人間の生まれながらの、法によって保護されるべき権利と認めた。

「神が平等に与えた権利」と言ってみたりしたのは、理想主義のかっこつけで説得力を持たせるためだけ、「天賦」かどうかは修辞語の問題に過ぎず、法体系の本質の問題ではない。そんなことすら、片山さつきさんたちは峻別できなかったのだろうか?

「あらゆる人間が生まれながらに持つ基本的人権」は、18世紀の人類の極めて重要な発明であり、近代の社会秩序や正義の原点がここにある。だがそれは実は、法によって共同体の秩序を守ろうとする時の基本的な構図として元からあった暗黙の大前提に定義を与えただけでもあり、真に偉大な発明なのは、最初からあったものを「権利であって侵すべからず」とみなしたことだけなのだ。

また平等原則も、決して近代民主革命の発明品ではない。

たとえばどんな普遍宗教でも、神や仏はそれを信仰するものを平等に扱うのが基本教義だ。これもプラグマティズムで言えば当たり前のことで、もし神や仏が不平等で生まれながらに救済される者と救済されない者が差別されていると分かっていれば、真面目にその神仏を信じ、その教えを守って善男善女たろうと努力するお人好しはいまい。

日本のような自然神信仰、アニミズムの場合はもっと過酷であり、そもそも自然や運命の営みは人間の都合を超越していて理解不能な不条理なのだから、平等に扱う気が神仏にあるかどうかすら問題にならない。 
とはいえそれでは宗教が道徳を担保する機能は果たせないので、たとえば日本のカミ信仰でも「お天道様が見ている」「神罰」「天罰」「罰当たり」は信仰に組み込まれており、子ども向けの昔ばなしでも見れば分かるように、お天道様は平等で公平だし、怪談もので騙されて殺された側が祟って罰を下すのでも、怨霊や霊魂はちゃんと真相が分かって祟って来る。

問題は人間の自由意志や好き勝手を、「権利」「人権」として認めるかどうかであって、それが「天賦」かどうかではない。

はい、まだ分からない人のために復習。

  • あなたたちのご都合に関係なく、人間にはそれぞれに固有の自分の意志がある。
  • あなたたちが思いも寄らぬことを「やろう」と思ったとき、その自由が「天賦」つまり他の人間の意志の及ぶ範囲ではないことを認められないなら、法を巡る議論の根底からしておかしいし、現実にあり得ない。
  • それがあらゆる人間に平等に、でなければそもそも法が法として機能しない。

だからあらゆる人間が平等に自由であることを「権利」として認めるかどうかこそが肝心の議論であって、つまり片山さんがそういう人間の権利を否定するべきだとか、国家の権威や権限を人間の権利に優先させるべきと考えているのなら「なにをそんな時代錯誤」と呆れ、賛成はまったく出来ないにせよ、まだ議論は成立する。

だが、「天賦人権説」を否定すること自体が、議論としてまったく無意味なのだ

それが元々、法の機能そのものからしてナンセスでしかないから誰も考慮しなかったことを、「天賦人権説の立場をとらない」憲法が今までないから、というだけで「これは私たち日本が誇れる、凄くオリジナルな発想なんだわ」とでも思い込んでしまったのか、自慢げに披露してしまったのが片山さつきさんであり、安倍晋三さん&フレンズ(オトモダチ達)なのだ。

さてそんなナンセンスを聞かされた側は、あまりにナンセンス過ぎるのでさすがに虚をつかれ、さてこの人たちにはどう説明してあげたら理解できるのか、と無駄に頭を悩ませる羽目に陥る。まるで時間の浪費だ(僕がこのブログを書いていることを含め!)。

今、安倍晋三さんたちだけが妙に盛り上がっている「改憲」フィーバーの実態は、こんなもんである。いったいこの人たちは国のあり方、法の支配の重みを、真剣に考えたことがあるのだろうか?

いやそれ以前に、法律って意味や機能、分かってますか?

片山さつきさんはつまらない表層的なイデオロギーに囚われ、勘違いの言葉遊びに終始して、法とは、憲法とはの根本すら理解しないままいい加減な思いつきを口にしているだけなのか?これが東大法学部の優秀な卒業生で元エリート大蔵官僚? 日本の支配階級のなかでも優等生?背筋が寒くなる。

だがこの馬鹿馬鹿しさに呆れ、安倍晋三さんの自民党が今進めたがっている「改憲」話がいかにナンセンスかを指摘するのはともかく、それ自体はあまり危険視することでもないのかも知れない。現に片山さつきさんや安倍晋三さんの言うことがあまりに馬鹿げているので、国民に知らしめるわけにもいかず、メディアは口を閉ざしている

自民党が公明党と連立している限り、9条をいじったり31条の生活権を変えようとか、まして基本的人権の保護・尊重を云々するなんて不可能だ。安倍さんたちよりは賢い石破茂さんはそこは分かっているので、参院選後は改憲話について慎重姿勢に徹している。現政権がタッチできるのは、せいぜいが96条だけだろう。

そして96条をいじる、「もっと憲法が簡単に変えられるように」という議論もまたナンセンスだ。そんなに改正が必要な条項があるなら、それは議会2/3がとれるくらいに説得力を持っているはずであり、努力を尽くすのが政治家の仕事であり、憲法とはそれだけ重いもののはずだ。

だいたいもう50年以上、ほんの一部の例外を除いて日本の戦後レジームそのものだった自民党は、当是に改憲目標を掲げており、9条を「自衛隊を明記した方がいい」という騙しの詭弁でなし崩しに交戦権を認める改憲は、もう30年40年と自民党内で議論されて来た。 
結果はどうか? 結局改憲なんてやっていない。10年一日のごとくどころか50年同じ話の繰り返し(自衛隊を憲法に明記した方が云々)だけで、本当はやる気もないし、可能かどうかすら疑わしい。具体的な改正条文案すら、議論の対象になるだけのものは出たためしがない。 
そしていきなり安倍晋三さんや片山さつきさんの、お話にならない憲法草案、まじめな議論の対象にすらならない「天賦人権説でない憲法案」云々であり、これは自民党が恥をかかないためにとっとと葬り去るしかない。

だからこんな子供っぽい右派の改憲論は現段階でそんなに深刻に危険視することでもないのだが(安倍晋三さんたちの改憲論は本来、「危険だ」からではなく、「お勉強が足りない、出直しておいで」で追い返せば十分だ)、しかし心配なのは、こういうことが続けば憲法をめぐるまともな議論が出来なくなる、どんどん軽薄化した児戯めいたお遊びのレベルに堕落していくことだ。

だからこそ、特に今は96条は変えてはならない。独りよがりで怠惰な政治家たちの都合にあわせてハードルを下げて、彼らの玩具に憲法を堕落させてはいけないのだ。

だからこそ、安倍晋三さんや片山さつきさんにこそ、『リンカーン』を見て欲しいし、そこで考えて欲しい。

安倍さんが大好きな「後世の歴史が判断」で言うなら、合衆国憲法修正第13条が通って150年後、それはこの映画が作られるだけの価値のある歴史となった。たとえば50年後に安倍さんの「改憲」は、それについて誰かが映画を作りたい、と思うような偉業になる可能性がありますか?

日本国憲法の制定過程なら、こと31条の生活権や、義務教育に関する条文の議論は、敗戦で国土が荒廃した国が、それでも新しい社会を作って立ち直ろうとする、その強靭で純粋な意思が感動のドラマにだってなるだろう(僕にやる気はありませんが)。 
安倍さんの祖父岸信介があらゆる方面から反対の声があがるなかで、日米安保調印を強行する、これだってまだビカレスク・ロマンとしておもしろい映画になる(こっちの方が藤原敏史監督作向き)。

ついに黒人の大統領が選ばれるまでになった今日、スピルバーグが見せたリンカーンの悪戦苦闘は、誰もが否定できない功績を歴史に記した。安倍晋三さん、あなたたちがやりたがっている改憲には、これに匹敵するだけの価値が後世認められると思いますか?

『リンカーン』で、ライバルのスティーブンスは修正第13条を通すまでのリンカーンの手練手管を評し、「世界一真面目で良心的な男による世界一悪辣な政界工作によって、世界でもっとも重要な法案が可決される」という。これは貧農出身で大統領にまでなった、清廉潔白で国民に愛された庶民派政治家の話ではない。「違法スレスレ」どころの話ではない、文字通りありとあらゆる手を使い、側近まで騙し、南軍との和平交渉の引き延ばしまで工作し(暴露されれば失脚はまぬがれない)、リンカーンは修正第13条の下院での可決に執念を燃やす。

そこまでしてでも奴隷制は憲法で禁止させなければならなかったこと、憲法を変えなければならなかった必然は、歴史が証明している。この修正条項を通し、奴隷を廃止したことは、150年後に黒人がついにアメリカ大統領になる第一歩となり、紛れもなく「アメリカの誇り」となった。

安倍晋三さん、あなたが「誇りのある日本を取り戻す」と口先だけで言っている改憲に、ここまでの価値はありますか?

後世に誰がみても「あの改憲は正しかった」と言われる自信が、安倍晋三さん、あなたにあるのですか?あなたにはそもそも、リンカーンのような信念と努力が、あるのですか?


そこまで深く考えて「改憲」を言っているのですか?

まったくそうは見えないことは言うまでもない。右派か左派かとかの理念対立以前に、悪ふざけのお遊びとしか思えないものに、憲法論議が堕落してしまっている。まともな議論の前にまず初歩的な間違いから潰して行かなければならない改憲騒動なんて、まったくあきれるしかないし、憂鬱にしかならない。

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