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2/14/2011

アラブ世界の「人間の尊厳の革命」の意味

アモス・ギタイ『家からの報せ/故郷からの報せ』

昨日のエントリーより承前。

エジプトの革命の本質を日本人の多くが見誤っているのは、アラブ世界の政府というものに、これまで人々が作ったり人々が選んだ政府、人々のための政府が存在せず、政府とは人々に押し付けられるものであり続けて来たこと、そしてアラブ人たちがそのこと自体は自覚はして来たことが、あまり理解出来ていないせいではないかと思う。

ムバラク政権が崩壊した翌日、つまり一昨日、アモス・ギタイの「エルサレムの家」ドキュメンタリー三部作、『家』(1980)、『エルサレムの家』(1997)、『家からの報せ/故郷からの報せ』(2005)を見直した。

この三部作の「主人公」というか中心となる東エルサレムのドルドルヴェドルシャヴ通りにある家の、1980年の第一部で登場する元の持ち主は、エルサレムを代表するアラブ人名家のひとつ、ダジャーニ家の末裔である。

ダジャーニ医師の一家は1948年の戦争のとき、ダリアシンの虐殺などのこともあって、一時的に避難したつもりが、その家はイスラエル政府によって「不在地主所有地」として没収されてしまった。

その家には今はユダヤ人が住み、大幅に拡張する改築が進んでいたのが、第一部の1980年の時点である。

第二部にあたる1997年では、このダジャーニ医師のご子息が登場する。彼はエルサレムで産婦人科医をしている。奇妙な制度上の問題で、かつてはヨルダン国籍だったのが、イスラエル国籍は得られず、パレスチナ自治区の籍も得られず、カナダ国籍でイスラエルでは「定住者」の扱いだ。

ダジャーニ家の一族はエルサレムから離散し、その多くはヨルダンのアンマンに住んでいる、とダジャーニ医師はいう。


エルサレムの名家、アラブ貴族というだけでも、日本人の思って来たステレオタイプに反するかも知れないが、そもそもパレスチナのアラブ人とは、農業と商業が主体の民族だった。

「月の砂漠の遊牧民」ではない。まして「清く貧しく美しく」同情できる「素朴な人々」などでは、よくも悪くもまったくない、高度に社会化され文明化された民族なのだ。日本のパレスチナ支援運動は、まずそこがまず分かっていない。

数千年にわたり高度な都市文明を発達させ、エルサレムは岩のドームのある「聖なる都」であるだけでなく、文明の十字路であり重要な商業交易都市であり続けている。

  『エルサレムの家』のダジャーニ医師

第三部『家からの報せ』で、映画はエルサレムにダジャーニ医師を再訪し、彼と共にアンマンに住む親戚に会いに行く。

ヨルダン政府で重要な役職にもつき、なんと日本とも縁の深かったという叔父との再会。そのシーンでダジャーニ医師が言うのが…

「アラブの政府というものには、これまで人々が作ったり人々が選んだり、人々のためになる政府であったことがない。

政府とは、アラブ人にとっては押し付けられるものであり続けて来た」

…という言葉である。

すでに『エルサレムの家』でも、ダジャーニ医師はイスラエルによる占領にもパレスチナ人にとってひとつだけよかったことがあった、と言っている。

「それは民主主義を学べたことだ。

もちろんイスラエルによるパレスチナ人の扱いは、民主的な政府にふさわしいものではない。

でもイスラエルから我々は、そういう扱いを受けていたらちゃんと抗議できる、自分の意思で立ち上がって言いたいことを言っていいのだと学んだ。

もちろん言ったからと言ってそれが通ることは今までほとんどなかった。それでもちゃんと口にする自由があることだけは、我々は学べたんだ」


ダジャーニ医師の言う通り、確かに今までのアラブ世界では、政府とは人々に押し付けられるものだった。

ちゃんとした民主的な選挙が行われ、政権交代などもあった政府と言えば、皮肉なことにファタハの腐敗と怠慢に呆れたパレスティナ人たちが、イスマイル・ハニーヤ率いるハマス政治部門を勝たせたことくらいである。

しかしこの民主主義は、アメリカに潰された。

選挙直後に世論調査でパレスチナ人の80%が「宗教政治は望まない」と意思表示し、ハニーヤも即座に(というか最初から分かっているので)シャーリア(イスラム法)に基づく統治はしないと声明し、イスラエルとの和平交渉も「67年のラインが出発点だ」と極めて理にかなったことを言っていたのにも関わらず、アメリカは「イスラム原理主義」のレッテルを貼り、「テロリストとは交渉しない」とした。

ちなみにハニーヤの党が選ばれたのは、ハマスの政治部門が貧民救済や教育に熱心で、また賄賂などの腐敗がファタハと違ってほとんどなかったからだ。テロ組織だったからではないし、「反イスラエルだから」が主な理由でもなかった。

交渉での強硬姿勢は期待されてはいたが、それはイスラエルの入植地の撤廃やパレスチナ国家の地位をめぐる交渉であって、今さらイスラエルを倒してユダヤ人を地中海にどうこう、なんてことは、誰も考えてはいない。

…というか、最初から実は、誰も考えてはいなかった。ただのスローガンだ。今ではむしろ、単にイスラエルが民主国家としてはおかしなことをやってるのがいけない。

だが何も分かっていないアメリカの妨害のせいで状況が膠着しているあいだに、ガザには本当に「イスラム原理主義」の「テロリスト」が国外から流入し実行支配、ハニーヤはハマス武装部門と袂を分かち、西岸に撤退せざるを得なくなった。

かくしてガザの現在の困った状況が続いているわけで、だからガザのハマスはエジプトの革命をあまり喜んではいない。同じ理念がガザで運動となれば、彼らだって立場が危ういのだから当然である。

政府とは人々に押し付けられるもの−アラブ人たちはそのこと自体は自覚して来た。その抑圧の中で自分たちの生活を守ることが、実のところ最優先であり続けているのだ。

イスラム圏の長期政権の実質的な独裁国家にとって、世俗的な独裁だろうが宗教政治だろうが王制だろうが、「反イスラエル」とは政府とが人々に押し付けられていることへの不満のガス抜き政策であり、「アラブの盟主」を名乗りたいときの便利なスローガンに過ぎないと同時に、いわば政府や社会への忠誠度を試す踏み絵でしかなかった。そのことを見誤っては、中近東情勢は理解できない。

だいたい「アラブ世界のユダヤ人」とも揶揄されるパレスチナ人のことを、アラブ世界の全体は、よくも悪くも、そんなに考えてはいないのである。

民主化が進み、アラブ諸国の人々が、政治参加とは自分たちの社会をよくし、生活もよりよくなり、本当に自分のために自由に生きられるようになれば、長期的にはイスラエルはかえって安全になるだろう。

「反イスラエル」を唱えることよりも、自分たちの努力で自分たちの社会がよくなる可能性が見えて来ているのなら、そっちの方が遥かに大事なのは、フツーの人間にとっては当たり前のことだ。

…と同時に、パレスチナ人だって「アラブ世界の期待」を背負うことなく、本来の現実主義で交渉が可能になるだろう。

アラブ人は「国家」よりも個々人と家族の方が大事な民族だし、その個々人のレベルでは、よくも悪くも大上段の大原則よりも、現実生活のなかでの自分の利益であったり欲望であったりに忠実なのが本音だ。

なんのことはない、つまりはフツーの人々なのである。

フツーの人々だから、理想は理想としてそれなりにあるが、生活のためならある程度は我慢はする(エジプトは30年間我慢した)。建前と本音も使い分けるし、融通無碍でちゃらんぽらんでもある。

そもそも民族や国家なんて概念に「忠誠」であるとかが、世界史的には18世紀末にヨーロッパから出て来た、比較的新しいものなのだし、アラブ人にとってはしょせんは輸入品である(日本にとってだって、輸入品に過ぎないはずなのだが)。

ムスリムがしばしば「インシャアッラー」、神の御心のままにと言うのは、別に宗教心ではない。どっちかと言えば「なるようになるさ(神様の考えることは分からんし)」程度のことである。頑固にこだわるよりは、「インシャアッラー」なのだ。

基本的に温厚で人懐っこく愛想がいいことが多いが、一方で恐ろしく狡猾な商人で、粘り強い交渉と現実主義的な妥協が伝統文化の一部みたいなところもある。

そして正しく自分に正直な現実主義者にふさわしく、ホンネは戦争は嫌いで、「愛国的」だったりする発言は、ただの世間体のポーズだったりする。

だからたとえば僕のような外国人相手だと、平気で「まあそれは表向きはそう言ってるだけで」という話になる。

アラブやイスラム世界の「反イスラエル」とはけっこう、その程度のことなのだ。

アラブ世界が「反イスラエルでパレスチナ支持」なのはいわば建前で、本音はけっこうどうだっていい−−そのことを実はパレスチナ人がいちばんよく分かっていたりする。

支援してくれるぶんには有り難いが、時にはその支援が勘違いの熱心さで迷惑である場合も多いというホンネもある。ガザのハマスに至っては、迷惑だし危険だが、武装しているから逆らいにくいだけだ。あれもまた、人々に押し付けられた政権に過ぎない。

アラブ人は現実生活のなかでの自分の利益であったり欲望であったりに忠実で、自分の生活と自分の責任を大事にする。エジプトの革命とは、自分を守るために妥協するしかない押し付けられた政府ではなく、自分たちの生き方をよくする方便として使える政府が、アラブ世界にとってもあり得るのだと、示した出来事だと理解すべきなのだ。

…というか、そう考える方が遥かに人間的にフツーのことだ。

アラブ人がその点ではまったくフツーの人々であることが、なぜか日本人にピンと来ないのは、その「フツー」が日本ではあまり普通ではないからかも知れない

日本でもまた、政府とは人々に押し付けられるものであり続けて来ている。

ムバラク政権30年というのなら、日本だって党首が定期的に変わるだけの違いだけだったのが、自民党政権55年だ。そして政権交代してみたら、菅直人になったら民主党は以前の自民党以上に自民党化している。

エジプトも日本も、どちらもほどほどに腐敗した官僚支配のカムフラージュとしての「独裁」というのが実態だ。実態権力は官僚が握り、そして官僚たちはアメリカに奉仕し隷属することが国益だと思い込んでいる−というよりアメリカの保守勢力とのパイプが、彼ら官僚の世界での権力・権威の上下を決定するような文化なのだ。

ただしアラブ人たちと異なり、日本人のほとんどは、この屈辱的な不自由さをまったく自覚していない

気づく契機はいくらでもあるのに、なぜか気づかないのは、そんなみじめな自分たち自身の姿に、決して気づきたくないからなのかも知れない。

「政府とは人々に押し付けられるもの」であることに一昨日までのアラブ人、エジプト人は諦めていた。それが今では、「そうでもないぞ」と思い始めている

一方で日本人は、自分たちに押し付けられている政府に全てお任せでないと、不安になってしまうだけなのかも知れない。

いやもっとはっきり言えば、日本人の多くがむしろ、「自分たちに押し付けられる政府」に服従し同化することで安心出来てしまえる民族なのだ。

むしろ「自分たちに押し付けられた政府」つまりは「強者」に同調することで、実は支配されてるだけの「弱者」なのに、支配している側、それこそ「差別する側」の「強者」であるかのような幻想に浸ることでこそ、やっと「居場所がある」と思え、満足できるのが今の日本人である。

そんなこと一文の得にもならず、ただ不自由でやりたいことも出来なくなるだけなのに、周囲の顔色を伺って必死に同調することで居場所を承認してもらおうと、無駄なストレスばかり溜め込むのである。

しょせん、人間は一人なのである。自分の人生は自分のものでしかないのに。

最近話題の「無縁社会で寂しい」というのにしても、そんな勘違いしてたら「無縁だ」と感じるのも、当たり前のことだろう。

まさかエジプト人が(“イスラム教徒=テロリスト予備軍” が)日本人よりもよっぽど自我をしっかり持って、自分自身のためにこそ革命をやったなんて思いたくない、あるいは「自分自身のためにこその革命」という意味が分からない…

…だから日本人には、これほどまでにこの「人間の尊厳の革命」の意味が分からないのかも知れない。いや絶対に分かりたくないのかも知れない。

「人間の尊厳」「自分たちの尊厳」を、この国の人々はとっくに棄ててしまっているのかも知れない。

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