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アラン・ベルガラの企画した、映画における髪の毛をめぐる展覧会/特集上映のために、諏訪敦彦が監督した短編『黒髪』。
広島市出身の諏訪にとって、原爆という記憶は実は常にその作品になんらかの形で取り憑いているのかも知れない。描こうとしても描けない、語れない、撮ることのできないその「記憶」に、『Hストーリー』以来久々に挑戦したこの秀作は、原爆という記憶を忘れてはいけないはずなのに忘れてしまっている現代の日本を、静かに告発しているのかも知れない。
原爆については、叔父の母が入市被爆者でその妹さんが行方不明なのと、祖父が8月6日の夕方に「見たこともない火傷の患者」を診察した記憶を幼少時に聞いてる程度の関わりしかないが、それでもやはり自分の記憶のなかの刺になってる何かが、諏訪敦彦が原爆に取り組んだ映画には、明らかに刺激される。
たとえて言うなら、21世紀に入り改装された原爆資料館を見て感じる違和感、そこに明らかに失われている、幼稚園のときに最初に見たこの資料館に確かにあったもの、それが今はもうないことの怖さを、この『黒髪』や、あるいは『Hストーリー』を見ると思い出してしまうのだ。
「原爆とは語り得ない、映画に表象不能な記憶なのである」というスタンスはデュラス/レネ『24時間の情事』における、岡田英次とエマニュエル・リヴァの会話「君は広島でなにも見ていない」「私はすべてを見たわ。資料館も、病院も」「いや君はなにも見ていない」という対話以来の主題だ。
吉田喜重などはこの問題に極めて理知的に取り組んで『さらば夏の光』『鏡の女たち』、未完の脚本『女たちの遠い夏』、オペラ『蝶々夫人』を手掛けて来たわけだが、諏訪敦彦のこの同じ表象不可能性の問題への取り組みは、潜在意識の闇から沸き上がっているようで、あまりにも不穏だ。
『Hストーリー』の禍々しい痛々しさも、咀嚼するのに何年もかかった。この一見ささやかな短編にもまた、なにか底知れぬものがある。
2/28/2011
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