〜承前、あるいは「壊れた映画」の可能性について〜
--I N / O U T --
映画の根本とはある空間と時間を、フレームとショットの時間的長さで切り取る行為にある。そこに写し出されるのはそのフレームの枠内のことについて、そのショットの持続時間についてのことであると同時に、そのフレームの外側にあるもの、ショットの始まる前と終わった後の時間を、常に意識させるものでもある。その中にあるものと外にあるもの、見えるものと見えないものの緊張関係にこそ、映画の本質があるとも言えるはずだ。
小津安二郎『東京の女』
あるいは、映画が複数のショットによる構成のなかでストーリーを語り始めたとき、その映画作品とは物理的にいえば空間をフレームの枠組みで捉えたものの時間的断片の羅列に過ぎない。物語とは、その断片と断片の接合部のそのなかにこそ存在する、というよりもその狭間に観客が読み取るものに過ぎず、映画そのもののなかに実はストーリーはないのだとも、言ってしまえるだろう。
『東京の女』(1933)
映画の物理的な存在の本質がそういうものだからこそ、映画史とは「表象不可能なもの」、映画に直接写せないものをどう撮るかに挑戦して来た歴史でもある。その意味で第二次大戦前の映画でもっとも先鋭的かつ映画的な映画を撮って来たのは、「ドアの向こうにすべてがある」と言わんばかりのエルント・ルビッチであり、『ミカエル』における謎めいた「大いなる愛」、『裁かるるジャンヌ』における「信仰」、『吸血鬼』における「恐怖」(怖いものを見せて観客を怖がらせるのではなく、恐怖という感情を分析する映画)と、映画が決して撮ることができない精神・内面・魂を撮ろうとし続けたカール・Th・ドライエルであり、小津安二郎なのかも知れない。
エルンスト・ルビッチ『極楽特急』
カール・Th・ドライエル『ミカエル』
そしてこと第二次大戦後の映画史は、その戦争で人間たちが犯した二つの「表象不可能な悲劇」に取り憑かれている。ひとつはもちろんホロコーストであり、「再現」を試みた映画はことごとく通俗で陳腐な偽善的な駄作になって来ており、もう一方の、より表象不可能性に満ちあふれた主題に、原爆がある。

アラン・レネ『二十四時間の情事』
「君はヒロシマでなにも見ていない」「うそよ、私はすべてを見たわ。原爆資料館も、被爆者の入院している病院も」、アラン・レネの『二十四時間の情事』、本来の題名は『ヒロシマ、わが愛 Hiroshima, Mon Amour』はその表象不可能性にこそ取り組むことで描けないものとしての広島を、理解不能のヒロシマ(フランス人にとっての)/語り得ない広島(恐らくは被爆者であることを隠している日本人にとっての)の交歓と衝突のなかに浮かび上がらせるドラマだった。
レネはその前にホロコーストを扱った『夜と霧』を作っていて、ここでは記録フィルムのなかの光景とレネが撮影した時点での現在のアウシュヴィッツの風景のはざまに、見えざるホロコーストが浮かび上がる映画である。この映画における記録フィルムの使用は誤解されかねないスレスレのものであり、実際にしばしば誤解されているのだが、あの記録フィルム引用もまたホロコーストは写していない。写っているのはあくまで、連合軍が入ってそれが終わった直後の、「事後」の悲惨でしかなく、強制収容所をなんとか生き延びているか、そこで殺されてしまう人間たちではない。殺されたあとの冷たい骸だ。人間が人間を極限まで虐げるその姿は、フィルムに写せていない。そのなかでどう人々が生き、死んだのかも写せないまま、映画はかつてはそうした人間であった物体がモノのように扱われなければならなかったことだけを、見せる。
--I N / O U T --
映画の根本とはある空間と時間を、フレームとショットの時間的長さで切り取る行為にある。そこに写し出されるのはそのフレームの枠内のことについて、そのショットの持続時間についてのことであると同時に、そのフレームの外側にあるもの、ショットの始まる前と終わった後の時間を、常に意識させるものでもある。その中にあるものと外にあるもの、見えるものと見えないものの緊張関係にこそ、映画の本質があるとも言えるはずだ。

あるいは、映画が複数のショットによる構成のなかでストーリーを語り始めたとき、その映画作品とは物理的にいえば空間をフレームの枠組みで捉えたものの時間的断片の羅列に過ぎない。物語とは、その断片と断片の接合部のそのなかにこそ存在する、というよりもその狭間に観客が読み取るものに過ぎず、映画そのもののなかに実はストーリーはないのだとも、言ってしまえるだろう。
『東京の女』(1933)
映画の物理的な存在の本質がそういうものだからこそ、映画史とは「表象不可能なもの」、映画に直接写せないものをどう撮るかに挑戦して来た歴史でもある。その意味で第二次大戦前の映画でもっとも先鋭的かつ映画的な映画を撮って来たのは、「ドアの向こうにすべてがある」と言わんばかりのエルント・ルビッチであり、『ミカエル』における謎めいた「大いなる愛」、『裁かるるジャンヌ』における「信仰」、『吸血鬼』における「恐怖」(怖いものを見せて観客を怖がらせるのではなく、恐怖という感情を分析する映画)と、映画が決して撮ることができない精神・内面・魂を撮ろうとし続けたカール・Th・ドライエルであり、小津安二郎なのかも知れない。


そしてこと第二次大戦後の映画史は、その戦争で人間たちが犯した二つの「表象不可能な悲劇」に取り憑かれている。ひとつはもちろんホロコーストであり、「再現」を試みた映画はことごとく通俗で陳腐な偽善的な駄作になって来ており、もう一方の、より表象不可能性に満ちあふれた主題に、原爆がある。


「君はヒロシマでなにも見ていない」「うそよ、私はすべてを見たわ。原爆資料館も、被爆者の入院している病院も」、アラン・レネの『二十四時間の情事』、本来の題名は『ヒロシマ、わが愛 Hiroshima, Mon Amour』はその表象不可能性にこそ取り組むことで描けないものとしての広島を、理解不能のヒロシマ(フランス人にとっての)/語り得ない広島(恐らくは被爆者であることを隠している日本人にとっての)の交歓と衝突のなかに浮かび上がらせるドラマだった。
レネはその前にホロコーストを扱った『夜と霧』を作っていて、ここでは記録フィルムのなかの光景とレネが撮影した時点での現在のアウシュヴィッツの風景のはざまに、見えざるホロコーストが浮かび上がる映画である。この映画における記録フィルムの使用は誤解されかねないスレスレのものであり、実際にしばしば誤解されているのだが、あの記録フィルム引用もまたホロコーストは写していない。写っているのはあくまで、連合軍が入ってそれが終わった直後の、「事後」の悲惨でしかなく、強制収容所をなんとか生き延びているか、そこで殺されてしまう人間たちではない。殺されたあとの冷たい骸だ。人間が人間を極限まで虐げるその姿は、フィルムに写せていない。そのなかでどう人々が生き、死んだのかも写せないまま、映画はかつてはそうした人間であった物体がモノのように扱われなければならなかったことだけを、見せる。
『鏡の女たち』は本1月30日(土)深夜1時から、NHK-BS2で放映されます。
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