小津安二郎『東京の女』(1933)
昨日、セルゲイ・エイゼンシュタインの企画倒れに終わった企画『ガラスの家』についてのローザンヌ大学教授のフランソワ・アルベラ氏による講演を聞きながら、完成されていない、未完であったり不完全であるからこそ意味を持つ映画、ということを考えさせられた。
この小津安二郎のサイレント作品(ここで公開してもこれ、著作権切れてるから大丈夫ですよね)の場合、当時の検閲で不完全な形しか残っていない映画とされている。実際、僕が初めて見た時にたまたまた一緒だったヴィム・ヴェンダースとソルヴェイグ・ドマルタンに、あとでストーリーについて質問攻めにされたこともあって、つまり見てるだけではなぜこういう展開になるのかもよく分からないかも知れない。もっとも、そのズタズタになってるストーリー展開をちゃんと説明できたんだから、「分かる人には分かる」、検閲の結果物語展開上の重要なポイントが抜けてる前提で見て行けば、戦前の日本でなにが検閲対象になったのかを分かって見ていれば、すごく面白い作品なのだが。
ご覧になる人に一応、説明。この映画の物語の設定のキモは、岡田嘉子演ずる姉が共産主義者であり、当時非合法だった運動の資金稼ぎのために売春をしていて、しかし江川宇礼雄の弟とその恋人の田中絹代は、彼女が売春しているということだけを警察に知らされてショックを受けてしまうことから悲劇が展開する。
岡田嘉子自身はこの映画の後、共産主義者であった恋人・杉本良吉とソ連に亡命して大スキャンダルになるわけだが、そういうことを知って見ていると彼女が売春を責められてもまったく動じず凛としていることへの感銘が深まるかも知れない。岡田はある意味、フィクションの人物を演じながら自分自身を演じ、この役を演ずることで自分を研ぎ澄ますことにもなったのではないか?
『東京の女』の岡田嘉子
一方で、小津はどうだったのだろう? 彼はなぜこの映画を作ったのか? 確かソルヴェイグ・ドマルタンが言い出したことだったのだけど、「共産主義運動や売春が検閲されるのは分かってるのになぜ小津はこの映画を撮ろうとしたの?」、そこでふと思いついたのが、もしかして検閲され話が一見わけが分からなくなることを百も承知で、最初から不完全な映画になることを意図して、この映画を撮ったのではないか?
実際、僕はこの作品を、小津のサイレント映画のなかでも屈指の傑作だと思うし、この映画の独特の、ほとんど凶暴なまでの力と不可解さに圧倒もされる。その力強さは要所要所があえて抜けている、岡田嘉子の行動の動機が我々観客にも隠されていて、江川宇礼雄にも分からないと同様に我々にも完全には分からないところに多くを寄っているのではないか?
共産主義活動が当時の映画で完全にタブーであるほどなのだから、岡田嘉子の本人にとっても彼女本人にとっても、誰にも理解され得ないことを百も承知で貫かれる自分の信念に生きるその姿が、より強烈に印象づけられるのではないかとも思う。小津は最初からそれが分かっていて、わざと “壊れた映画” としてこれを構想し、作り上げたのかも知れない。
映画とはフレームに切り取られたなかにあるものとその外側にあるものの問題である。言い換えれば、見えるもの以上にそこに見えないもの、見せられていないものの問題である。そのメディアの本質の力を引き出すには、あえて完成された物語とフォルムを持たない映画というのを、今こそ作る必要があるんじゃないかとも思えて来る。
そう考えながら戦後の、よく知られている小津の端正で静謐とされる一連の家族劇も見てみよう。一見、この『東京の女』の持つ凶暴さとは真反対の落ち着いた映画を、50代の成熟した小津は作り続けたように見える。キャメラは動かず、その位置は小津独特のルールに厳格に従って決められ、その映画は極めて合理的に作られたものに見えるし、その端正なまでに完璧なフォルムの探求が、小津の映画を崇高なものにしているように思われて来ている。
だがたとえば、そうした戦後の端正で完璧なフォルムを持つ小津映画のひとつの頂点であり、原節子・司葉子を東宝から迎えた豪華キャストで予算規模も大きく、梅原龍三郎の絵などの本物がさりげなく使われるなどもっとも豪華な小津映画であるはずの『秋日和』のフレーミングを見てもらいたい。
よく見るとこのフレームの切り方、そのなかにあって見えることと、その外にあって見えないものの関連のラディカルさは、すさまじいものではないだろうか?
こちらのウェブ上フォトアルバムもご覧下さい。
http://www.facebook.com/album.php?aid=136668&id=705892077&l=c6163535bf
0 件のコメント:
コメントを投稿