最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
DVD 2月20日より発売!amazon.co.jp 配信はこちら

3/27/2011

福島第一原発の事故と放射能が問いかけるもの

一昨日のエントリーでは原発事故それ自体の解説、昨日は放射能についてパニックにならないための基本的な考え方をざくっと、できるだけ分かり易く説明してみたのは、普通の一般人でも分かる範囲までは理解して、少しでも不安やパニック、風評被害の拡散を押さえられればと思ったからだ

なかには「お前は放射能の怖さを分かってない」と反発する人もいるかもしれない。

だがそれなら、奇しくもこの事故が現実になることなど(いつかは必ず起るだろう、と思ってはいても)誰も現実として考えていなかった先月のこのエントリーも見てもらえればありがたい。

広島から西に30キロほど、山口と広島の県境で開業する医師であった祖父は、1945年8月6日午前8時15分にキノコ雲を目撃し、その夕方には今まで見たこともなかったような火傷の患者を多数診察した。

その翌日以降には、広島市内に行方不明の親族を探しに行った人たちがいた。彼らは帰って来て数日後には脱毛が始まり、体中に内出血が現れ、手の施しようもなく死んでいったことも、幼少時に祖父から聞かされた。

8月6日は広島県の各地から、勤労奉仕で多くの小学生、中学生、高校生が朝から広島市内に出向き、建物疎開にあたるはずだった。ウラニウム型の原子力爆弾が、その子供たちの上にも炸裂した。

祖父が開業していた和木町の隣町である大竹市の多くの子供達もその閃光に身を晒し、多くの親族が入市被爆者となり、祖父はその人たちの苦しみを前に、なす術もなかった。


    アルブレヒト・デューラー『祈りを捧げる手』(1508)

戦後、この地域は瀬戸内工業地帯の一部として石油化学工場ができ、自治体は大いに潤った。だが町立小中学校の校医でもあった祖父は、子供の健康診断で見えて来たことに疑問を抱き、最初に公害の健康被害の影響を研究し始めた一人となった。だがその研究は、それまで祖父をいわば名士として尊敬して来た町の人々には、決して快く受け入れられたわけではない。

石油化学工場の税収で「西日本で最もリッチな自治体」にもなっていたからである。

その祖父が亡くなったとき、入院していた広島日赤病院の病室の、向かいの建物は原爆病棟だった。

それならなぜ今回の原発事故で不安にかられないのか、と問われるかも知れない。

単純に、すでに昨日触れたように、今回の事故が原爆とは違うし、チェルノブイリのような臨界にある原子炉自体の爆発ではないからだ。

今のところ飛散している放射能の量は、広島の黒い雨などとは、比べ物にならないほど少ない。

放射性物質の降下は、まだ「死の灰」と呼ぶような量ではない。

東京で我々がうろたえて、不安のはけ口か不安からの逃避であるかのように、政治ごっこに奔走し、不信を愚痴ったり保身に走ったりしている結果、現に起っていることは、およそ「いいこと」ではない。

「情報を隠している」「情報公開しろ」との批判に過敏になっている政府は、規制値を越えていても「健康にただちに影響はない」と言っていたはずの農産物を、しかし検出された場所の詳細な特定もなしに、福島県産、茨城県産十把一絡げに、それも出荷停止だけでなく、摂取制限まで出してしまった。

それを「念のため」と言うちぐはぐな対応が、震災被災地の農業に壊滅的な打撃を与えることは、避けられないだろう。

これでは震災復興どころではない。

それどころか福島県出身者や、自主避難して来た人への宿泊拒否などの差別も始まっている。昨日も随分しつこく書いた通り、放射線被曝は伝染病ではないのだが…。

しかも政府は、今度はその食品や水の放射線の規制値を見直すという。政府自ら自分達の信用性を失墜させ、不安を煽っている。

一方でその政府を批判する者の多くが、今度は「政府と東京電力はちゃんと補償しろ」「いやすべて東京電力の人災、東電の責任なんだから国民の税金は使うな(悪の巨大資本の東電がこれで潰れればいい)」と言えば、それでいい、自分は正義の味方だと認められるとでも思っているかのようだ。事故の結果が悪ければ悪いほど、賠償が巨額になって東電が潰せるという願望なのだろうか?

被災地の人々が故郷を失う痛みは、金銭の問題ではないのに。

そんな冷静さを欠いたヒステリーをなんとか押さえたいがためにも繰り返すが、放射線の健康被害はあくまで量と期間、その累積の問題だ。そして個人差もある。

規制値はその期間を前提に厳しく設定されている。政府はそれをちゃんと説明し、だから福島第一原発の危機が短期的に、せいぜい数週間のオーダーで終るのだとしたら、まだそこまで不安になる必要はないのだと、なぜちゃんと言えないのだろうか?

再び念を押しておこう。

放射線の健康被害はあくまで量と期間、その累積の問題であり、その影響には個人差がある。

科学的には、その個人差による影響の大小をを確率的に推計した上で、一定の値以上は危険だと言うしかないし、その線引きは常に議論の余地がある。

規制値とはそういうものであり、ある程度の長期を想定して、さらに低めの値を決めているので、2、3日とか数週間なら「健康に影響を与える可能性は低い」ということになる。

詳しくは昨日のエントリーに書いた通りだ。

  アルブレヒト・デューラー『読書する聖アントニウス』(1517)

とはいえその「あくまで量と期間、その累積の問題」の例として、昨日はメチル水銀中毒を比較例にしたのだが、もっと分かり易い例があったと思う。

なにしろ放射線と化学物質では、やはり飛躍が過ぎる。

たとえば、実は我々は自然界から常に放射線を被曝している。

これはまだ地球には大気圏があるからいいような話で(ほとんどがそこで阻止される)、宇宙空間は放射線に満ちあふれている。

この地球が我々の生存に適した環境であるために不可欠な太陽が、核融合反応でエネルギーを発散しているのであり、そこには光線・熱だけでなく、多量の放射線も含まれているのだ。

地球上の我々に届く太陽光のなかにも、紫外線のように健康に大きな影響を与えるものもある。

これもまた、量と期間の累積と、個人差の問題であり、紫外線の例は我々すべてにとって、とても身近なことだ。

日焼けをするのは紫外線の影響だ。まず人によっては健康的な小麦色の肌にもなるが、度が過ぎれば死んだ肌の組織がぼろぼろにはがれるし、同じ日に同じ場所で同じ時間いっしょにいても、肌に火ぶくれを起こす人もいる。

一方で紫外線を浴びることで、人体はビタミンDも生成する。紫外線への耐性が低く直射日光を浴びるだけで命の危険がある難病の人もいて、この人たちはビタミンDを錠剤等で補充しなければならない。

さらにその一方で、とくに白人の場合、フロリダに住むヨーロッパ移民の子孫であるとか、イスラエルに移民したとくに東欧系ユダヤ人の場合、その地域の強い日光、とくに紫外線を一生浴び続けた結果、皮膚がんが増える。

もちろんこれはあくまで「増える」だけであって、日光の強い地域に長年暮らした白人(=メラニン色素を作る能力が低い)が、みんな皮膚がんになるわけではない。

放射線の影響も、同じことだと言えるだろう。

…というより、太陽の発するものを熱とか可視光線と捉えたり、赤外線、紫外線(この2つに至っては、ただ人間の眼に見えないだけで、他の多くの動物には感知する能力がある)、あるいは放射線と区分けするのは、ひたすら地球上の我々の都合に過ぎないことであって、太陽にしてみればまったく知ったことではない。

一昨日のエントリーでも強調したように自然現象とはしょせん、我々の都合とは無関係に存在するものだ。

そして我々もまた、しょせんはその自然現象の結果として存在を許されているのに過ぎない

原発とは、その自然現象を我々の生活のエネルギーの必要性という、つまりは我々の都合のために利用することのなかでも、もっとも極端な部類に属するものだと言えよう。

膨大なエネルギーを得られると同時に、巨大な破壊力というリスクもある(それをエネルギーとみなすか破壊力とみなすのかもまた、しょせん人間の都合であり、核分裂反応にとってはそんなのは知ったことではない)原子力というものを、我々には使いこなすだけの資格や能力があるのかどうか? 問題はこれに尽きる。

僕から見て福島第一原発の危機的状況が続いた2週間は、この日本という国と社会の構造にも、我々日本人の一人一人にも、原発なるものを扱う資格も能力もまったくない現実をつきつけたのだと、思う他はない。

   アルブレヒト・デューラー『メランコリア』(1514)

これは自然、この世界に対する態度としての、我々の無自覚な傲慢さの問題なのだろうと、思うしかない。

日本人は古来、自然と世界という、人間にとっては自分がその一部であると同時に、究極の、思い通りにならない他者に対する、独特の畏怖を込めたつき合い方の文化を発達させ、洗練させて来た民族だ。

江戸時代までは確かにそうだったことは、このブログでも以前に触れた通りである。

福島第一原発の危機的状況と、それをめぐる我々の右往左往ぶりは、我々がその民族的なアイデンティティを失いつつあることを、はっきり示している。

しかもこの日本人の総体の自己喪失は、もう国と社会の構造としてそうなっていて、そしてその構造は我々の意識に無自覚に刷り込まれている。

たとえば、原発事故のための避難・退避区域は、原発からの距離で同心円状に決められている。

これは現実的にはやむを得ない話であろうが、実際には福島第一原発から飛散する放射能は、核燃料自体やその核分裂反応から直接発散される放射線ではなく、そこで生成された放射性物質から出ている放射線がほとんどのはずだ。

核燃料自体は原子炉では圧力容器と格納容器のなかにあるのだし、使用済み燃料は一応水で覆われているはずで、どっちにしろ開口部は上方向だけだ。

念のため言っておくと、ヒステリックな人のなかには、放射線量ではなく放射性物質が問題なのに、文科省のモニタリングが放射線の計測値だけなのは「内部被曝の問題の隠蔽だ」と叫ぶ者もあるのだが、これは完全なナンセンスだ。

各地の放射線量は、基本的にそこに降下した放射性物質の微粒子の量を表すものになる。計っていることになるのは当然ながら、その放射性物質から出ている放射線なのだから。

直接の放射線ならその量は距離に反比例して減って行くが、放射性物質の微粒子は、要は塵であり、塵は風によって運ばれて、とくに雨によって落ちて来る。

風向きによって飛散にはムラがあるから、20Km圏とか30km圏とか、米軍の出している50マイル(80kmと報じられるが、米国のマイル計算でキリがいい数字であるだけだ)は、とりあえずのものでしかない。

風もまた、人間の都合とは無関係に吹いていて、刻一刻変わるのだから、ここまではやむを得ないにせよ、気休めといえば気休めだ。

塵なのだから遠くに離れれば離れるほど、どんどん落下して量は減っていくのだから、大まかには間違いではないにせよ。

ところがその同心円状に設定された避難圏に一部だけがひっかかる福島県いわき市や南相馬市では、避難区域ではない地域でも、物資の輸送が滞ってしまった。

なんというバカバカしい恐怖への反応なのだろう? 風まかせの微粒子の飛散に、行政区分が関係するわけがない!

   A・デューラー『黙示録:バビロンの大淫婦』(1498)

東京都で水道水から規制値を超える放射性ヨウ素が検出されたのは、利根川から取水している金町浄水場からだ。関東の他の県でも、利根川水系を使った水道水で同様の問題が起きている。

それだって今のところは、まだそんなに危険なものではない(乳幼児は除く)のは、WHOでも発表しているし、昨日このブログでも触れた通りだ。

だがもう滑稽で笑うしかないのは、たとえば僕の実家の水道は多摩川水系なのに、その近所のスーパーでもミネラル・ウォーターがあっというまに売り切れているのだ。

だから利根川水系で放射性ヨウ素が出るのは、風でその上流域に運ばれて、雨でまとまって降下した微粒子が溶け込んで溜っていたからなんだって! 「東京都」という人間が勝手に決めた行政区分などとは、関係あるはずがないって!

だがこの愚かさは、決して一般の人々のそれだけではない。既に批判した政府による農作物の出荷制限、摂取制限のもうひとつのナンセンスさは、「福島県」「茨城県」と、十把一絡げにその行政区分のなかの農作物を指定していることだ。

そんなこと、風まかせの放射性物質の塵の飛散には、もちろんなんの関係もない

しかし政府も我々も、そのことになんの疑問も持とうともしていないし、一方で「そりゃおかしいだろう」と思ったところで、他の指定のやり方も見当たらない。我々の社会そのものが、この行政の官僚主義な制度にがんじがらめで、それ以外の発想が出来なくなっているのだ。

都道府県なんて日本の歴史のなかでも比較的新しい区分に過ぎない、単なる近現代の都合でしかないのに。

このような、人間の傲慢と勝手な決めつけが社会システム化して、その区分けが完全に意識に刷り込まれている国民に、果たして原発などというものを玩具にする資格と能力があるのだろうか?

実際に事故が起っているこの期に及んで「原子力がなければ経済が」と言っていられる推進派がいるとしたらその彼らも、その推進派や東京電力、政府について、「嘘だ隠蔽だ人災だ」とか言っていれば、「反原発」になると思ってる輩も、同じくらいに傲慢であり、そして愚かで、鈍感だと思う。

日本人のアニミズム的な心性が歪んだ悪い形で暴露している感すらある。「祈り」や「自然への畏怖」には背を向け、ひたすら人間同士の憎悪に走り、鬱憤を晴らすことで自分の不安を忘れようとする。その言い訳が「反原発」であるような扇情的な言説に、なんの意味があるのだろう?

   アルブレヒト・デューラー『書斎の聖ヒエロニムス』(1514)

人間は確かに感情と情緒の生物だ。だが我々の情緒とは、まずなによりも良心と思いやりでもあるはずだ。

そしてその一方で、我々には人間としての理性もあるはずだ。

少なくとも「放射能」「原子力」「メルトダウン」と言った上辺だけの記号としての言葉だけで「死の灰」などに安易に結びつけたりして、ただ恐怖におののきパニックになり、ほんの数百キロ先で生死の狭間を生き抜いている震災被災者たちのことすら忘れてしまうのは、我々が人間であることの根源的なプライド、尊厳を棄てることになる。

放射線による健康への影響は、昨日さんざん繰り返したように、あくまで量と期間、その累積の問題である。

原爆症のようなことがある以上、昨日も書いたように科学的にいって少量の放射能でもまったく身体に影響がないとは言えない。

だが疫学的・統計的な調査に基づく(そして日本には65年前からその膨大な蓄積があることも忘れてはいけない)確率論でいえば、今のところそこまで極端に不安に怯えてカタストロフィをいたづらに喧伝すべき合理的な理由は、まだない。

むしろ我々が狼狽えることはそのまま、震災の被災地の人々を無駄に苦しめることにもつながることにも気づくべきだ。

政府の致命的な判断ミスによる不信と風評被害が、震災と原発事故で打ちのめされた人々の故郷を、回復不能なまでに痛めつけかねないのは、既に述べた通りだ。

安易なパニックごっこで危険だ、避難地域を広げろ、口先だけの「最悪の事態」を口にする前に、福島第一原発の周辺から強制的に避難させられた人々のことも考えてみよう。

その地域もまた、推計14mの大津波に破壊された。

誰もが口をつぐんで語ろうとしないことのようだが、地震に揺さぶられて津波に押しつぶされた家々の瓦礫の下で、まだ生きていたかも知れない親族や隣人を、助けることすら許されなかったのだ。

ちょっと考えれば誰でも思いつくことなのに、誰も言おうとしない、考えすらしないのは、なぜなのだろう?

これがただ「だから東電がけしからん」で済ませられる問題だろうか?

政府のやり方が稚拙で無責任なのはその通りだ。だがこういう稚拙で無責任に「やることはやりました」的なエクスキューズを連発する政府を許容し、選び続けて来たのは誰なのか?

いやこんな言い方では、まだ生ぬるい。

そういった上っ面の教科書通りだけでしかないエクスキューズをやらなければ、ここぞとばかりに批判と袋だたきに終始することが既に習い性になっている国民とは、いったい誰なのか?

「日本を信じている」「みんなで頑張ろう」と口先だけは言いながら、原発事故ですら批判と袋だたきの政治ごっこに利用している我々ではないか?

悪人を作って責任を押し付けて根拠や妥当性は二の次の批判袋だたきをしないと、原子力発電ですら「やめるべきだ」と言えない、現実的な議論も正当性の主張も出来ない民族に成り下がってしまったのが、我々日本人ではないか。

この震災と、原発事故をめぐる状況を前に、これまでの我々の社会と文明のあり方の脆弱さに気づき、自分の意識を総点検できないのなら、我々は恐ろしく傲慢で、愚かで、そして鈍感だということになる。

     アルブレヒト・デューラー『自画像』(1500)

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