最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品
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3/17/2011

地震、津波、悲劇が起ってしまった「その後」だからこそ、『ヒアアフター』上映を自粛してはならない理由

クリント・イーストウッド監督の最新作『ヒア アフター』が、東北・関東の大震災で14日付けで上映中止になってしまった。

『ヒア アフター』マリー(セシル・ドゥ・フランス)はスマトラ沖大地震の津波に遭う

映画が津波のシーンで始まることから、「本震災を連想させる内容」があって「被害状況を鑑み」ということだそうだ。

いかにもこの国ではありがちな「自粛」なわけで、疑問を感じない人も多いようだが、テレビで津波被害の映像がさんざん流されているというのに、観客が自分の選択でお金を払って見に行くのになにが問題になるのかが、まずおかしな話である。

テレビを見てショックを受けたという人が見に行かないのも、それでも(あるいは、後述するようにだからかこそ)見たいと思う人も、それぞれ自由なはずだというのがまず大原則。

「被災者を傷つける」といわんばかりの話も、よく分からない。

こと大津波で破壊された町村で避難所生活を送っていたりする人々、肉親を失った方たちが、今さらそんなこと気にするはずもないし、それ以前にいったいなにを気にするのかもよく分からない。仮に見たら記憶のフラシュバックが、というようなPTSD症例を想定しても、そもそも被災地で営業している映画館がそんなにあるとは思えない。

大津波は起ってしまったのである。それはもう我々の現実なのだ。

そしてテレビで見てしまった我々にとって以上に、それを目の当たりにしてしまった人々の、もはや変えられない現実なのだ。

今さらそれを表象する映像を禁じ封じ込めたところで、この大自然の猛威の結果は変わらないし、亡くなってしまった人が帰ってくるわけでもなく、この痛みと苦しみを抱えて生きて行かなければいけない人々がいるという現実は、そのままだ。

忘れようとして忘れられるものでもないはずだ。

いやむしろ、とくに生き残った人たちのためには、我々こそが忘れてはならない。

彼らが忘れたいと思っているかも知れないことは尊重しても、少なくとも彼らが忘れられないあいだは、最低限それがあったことだけは忘れてしまうべきではない。

我々にとってはしょせん一過性の、テレビで見ただけのニュースだとしても、すでに我々のニュースの画面を占有する映像が津波ではなく福島の原発に自衛隊のヘリが水を撒く光景に交替しているとしても、津波を生き延びた人はその記憶を背負って生きていく。

その彼らの「この後(ヒアアフター)」の人生は、もう始まっているのだ。


私たちが「辛いことは忘れましょうよ」と言ってこの記憶を忘却のなかに封じ込めることは、ほぼイコール、その人たち自身を封じ込めることに他ならない。

彼らが自分たちの記憶を整理し内面化し、時には語ることでなんとかその不条理な体験を理解しようとしたり、その体験を背負ってこれから生きていこうとすることを妨げ、彼らを差別し排除し、もっと絶望的な孤独のなかに追いやることにも、なりかねない。

人間として、その体験を生きている彼らは「孤独」である以上に「孤高」なのだ。


だが我々がその人たちの記憶と、それを背負った人たち自身を封じ込めようとしてしまうのは、その人たちがそれを孤高と認識する力すら、奪ってしまうことにもなる。

本音はただ、自分たち部外者にとってはショッキングで不愉快だから忘れたいし忘れられるというだけに過ぎないことを、配慮のフリをしながら恩着せがましく押し付けようとすることだけは、してはならないはずだ。

彼らにとってそれはもう自分が生きた現実であり、恐らくは忘れたくても忘れられるはずもない記憶なのだ。

私たちは同じ島国に生きる人間として、彼らが語ろうとするなら耳を傾ける、理解できないなりに理解しようとする、せめてそこに思いを寄せ、同じ世界で生き続けようとするくらいのやさしさだけは、失ってはならないはずだ。

無論、語りたくないのであれば無理に聞き出すことはない。やってはいけない。

だがそっとしておいてあげながらも、我々は我々でやはり少しでも理解しようとする努力は、隣人としてやったっていいはずだ。

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)ラストシーン「他人を想像するってなんやろ?」(いわゆる同和対策地域で撮影)

興味本位のディザスター・ムービーとして津波被害を娯楽で見せるだけなのであれば、それは確かに不謹慎だろう。時節柄遠慮すべきことだと言われてもしょうがない。

それでも遠慮するかどうかは個々人の良心に基づき、企業としては市場原理に基づいてやるべき判断だと思う。つまり、見る人がいなければ公開を終了すればいいだけのことであって、わざわざ上映中止をアナウンスすることもない。

だが、この「不謹慎」だから上映を差し控えるという理屈を是認するとしても、だからこそ『ヒア アフター』を上映中止というのは、逆に不謹慎ではないのか?

ワーナー日本支社は、自分たちで配給上映してる映画なんだから、自分たちでその中身は知ってるはずだ。

ならば今『ヒアアフター』を上映中止することこそが逆に不謹慎、それこそ被災者をないがしろにし、彼らを差別対象のように封じ込めることにだってなりかねないことも、分かっているはずだ。

もしその可能性を考えもしなかったのなら、彼らには映画を商売にする資格がない。


『ヒア アフター』では、フランス人のニュースキャスターのマリー(セシル・ドゥ・フランス)が休暇旅行中に、インド洋スマトラ沖地震の大津波に遭い、生と死の狭間をさまようことから映画が始まる。

サンフランシスコの霊媒のジョージ(マット・デイモン)、ロンドンで双児の兄を失う少年マーカス(兄弟をフランキーとジョージ・マクラーレン兄弟が演じる)の物語と並行して、我々はパリで津波の生存者マリーが生き残り、生き延びて行く姿を見る。


東北から千葉にかけて、何百、もしかしたら何千、何万もの人たちが、私たちと同じこの社会で生きている彼らが、同じ体験をしたはずだ

自分はホテルに居たため津波に呑まれることはなかった恋人のティエリーは、ついマリーを腫れ物に触れるように扱ってしまう。

マリーの番組のプロデューサーである彼は、彼なりの思いやりで休むように薦めたりするが、悪気はまったくなくとも、やはり結局は彼女を理解しようともできず、受け止めることも出来ない。


マリーはティエリーの勧めで番組を降りて本を書くことに専念しようとしても、彼女の自分の体験をなんとか理解したい、自分の人生のこれからのなかにその記憶をちゃんと位置づけたいとする思いを、出版社の人々が彼以上に鬱陶しいものとして感じてしまう。

今この列島の東半分で津波を生き延びた人たちも、これからマリーと同じような生き延びることの困難を、生き抜かなければならないかも知れない。

その生き延びた人たちに対して、私たちもまた、『ヒア アフター』のパリのシーンに出て来る人たちと同じような、無神経さ、無自覚な身勝手と残酷さを見せてしまうのだろう。

それは残念ながら、人間として自然なことではあり、気をつけないと、私たちもまた彼らと同じように「鬱陶しい」と思ってしまうのかも知れない。


しかしそれは、彼らから見れば「もう忘れた方がいいよ」という圧力に晒され続け、理解してくれる気もなさそうな人々の、蔑みと忌避の混じった眼差しに晒されて生きなければならないことを意味する。

『ヒア アフター』がマリーの「その後」をこそ見せ続ける映画だからこそ、その映画を今ここで封じ込めてしまうことは、今後実際に津波や震災を生き延びた人々を封じ込めようとするであろうことの、予行演習になってしまってはいないだろうか?


マリーはついに、自分の体験を元に臨死体験を綴った本の出版にこぎつける。その題名は「ヒア アフター」、この映画と同じ題名なのだが、副題は「A Conspiracy of Silence」、「沈黙の陰謀」だ。

彼女がパリの出版社で出会う人々や、恋人に見るように、「死」を直視できない大多数の人々はそのことを避け、逃避する自分たち自身を忘れようとするために、彼女のような体験をした人々に沈黙を強いる。そのことを彼女は「沈黙の陰謀」として著書のなかで告発していて、ロンドンのブックフェアのシーンでもその下りを朗読する。

「津波の映像はショックだったから忘れたい」と思う個々人がいるのも、それはその一人一人については、やむを得まい。

だがそれが無言の匿名性の集団意識となって、圧倒的に少数で孤独な生き延びた人々に「辛いことは忘れましょう」「思い出したら傷つくでしょう」と言い続けてしまうとしたら、我々もまたその「沈黙の陰謀」の一部になってしまうのではないか?


マリー(セシル・ドゥ・フランス)とジョージ(マット・デイモン)は最後に、死を知ってしまったからこその本当の人生の希望へと、歩き出す

一昨日の火曜日の晩、上映中止になる前の最後の上映を見直した。

率直なところ、以前に見たときには、自分はこの映画を主に、霊媒のジョージの物語として見ていた。マリーは三人の主人公のなかではもっともついていけない人物であり、その意味では自分もまた、彼女の孤高、崇高さを封じ込めようとする「沈黙の陰謀」の一部だったのだと思う。

だが津波の報道を見て、マリーの身に起ったのと同じように、津波の中で、助けようと手を握っていたその人の、その手が振りほどかれてしまった体験も聞いた後で(その方の場合、しかも手が離れてしまったのは高校生のお嬢さんだという)、『ヒア アフター』を見直したとき、今度はこの映画をマリーの物語として見ていたのである。

最初に見た時にはほとんど考えてもいなかったのだが、僕自身もたまたま何度か、死にかけたことがある。今回はマリーを通して、そのことも思い出しならら見ている自分がいた。

だからこのことは、ある確信を持って言っていいと思う。『ヒアアフター』は震災があり津波があったから上映をやめるべき映画ではない。むしろ今だから上映を続け、見られ続けなければならない映画なのだ。

なるほど映画館と配給会社の商売としては、確かに難しくはなる。

たとえば津波のシーンが出て来る予告編はもう使えないだろう。他の映画を見に来た人があれを見てショックに思ってしまうというのでは、やはり問題になる。新しい予告編を作った方がいいし、宣伝なども修正は必要だろう。

奇しくも日本で上映が中止になったのと同じ3月15日に、アメリカではDVDとブルーレイが発売された。イーストウッドとワーナー本社は、その収益から100万ドルを、震災被災者のために日本赤十字に寄付するという。イーストウッド自身のそれに寄せたコメントも公表された。

「今、日本が立ち向かっている状況は想像を絶する。この寄付が少しでも支えとなれば嬉しい」

ならばたとえば、新しい予告編は、イーストウッド自身がこの映画を語り、彼が題材にしたスマトラ沖地震の津波や、日本で起きた津波への思いを語るものにしてはどうだろう?

たとえばジャン・ルノワール監督も、あの名作『大いなる幻影』(1937)が、戦後プリントが再発見され再公開するときに、そういう予告編を作っている。


『大いなる幻影』ジャン・ルノワール本人が語る予告編

ルノワールはここであえて直接言及していないが、この映画のモデルとなった自身の第一次大戦の体験のなかで、彼もまた撃墜され、生と死のあいだを彷徨っている。


そしてもし生活が落ち着いて来たら、今は巨大な困難のなかで助け合いながら生き抜いている雄々しい被災者の…マリーと同じ人たちにも、あるいはマーカスのように愛する者を失ってしまった人たちにも、いつの日か、この映画を見てもらえたらと、心から思う。

この映画がどれだけ彼らの体験に似ているか、どれだけ彼らから見ても真実であるか、マリーやジェイソンが死を見つめ続けた長い旅路の末に生きていることの本当の意味に向かって歩き出すラストの希望が、その人たちにとっても真実と思えるかは、自分には分からないことだけれども。


兄を亡くした少年マーカスに、孤独な霊能力者ジョージが言う「君が自分は一人だと思ってるのだとしたら、そう思っちゃいけない。君は一人じゃないんだ」

ただ、それが可能だと信じていいかも知れない事実を、自分はたまたま知っている。

クリント・イーストウッドが硫黄島の激戦を、アメリカと日本のそれぞれの側から描いた二部作、『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』が公開されていた頃、特攻隊の生き残りの人たちを取材しようとして、靖国神社に入り浸ったりしていた。

   『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』

そこには硫黄島の激戦を生き延びた人たちもいた。

彼らもまた、イーストウッドの二本の映画を見ていた(だから当事者が自分の知ってる悲劇を描いた映画に「傷つく」とか「不謹慎だ」と思うことは、それ自体が大きな誤りであるのは確かだ)。

そして彼らは「ダーティー・ハリーが俺たちの映画を作ってくれたのは嬉しいよ」と言っていた。

それだけではない。老人たちがより評価していたのは『硫黄島からの手紙』ではなく、『父親たちの星条旗』の方だったのだ。日本側を描いた映画の方は「ちょっとかっこよ過ぎる」と言う。

これはこの二本の映画を、その歴史を直接には背負ってはいないで見た自分とも、ほぼ同じ感想だった。

『父親たちの星条旗』の方がある意味よく分からない映画だからこそ、「戦争とはこういうもの、こういう体験なのだろう」と思えたし、映画としての完成度も傑出している。比較すると『硫黄島からの手紙』は非常によく出来ているが、よく出来たメロドラマにも、どうしても思えてしまう。

とはいえ硫黄島を生き延びた老人たちや、特攻隊の生き残り、その他さまざまなあの戦争の生き残りである日本人たちの「硫黄島二部作」の感想は、やはり驚くべきものだった。

彼らはほとんど異口同音に、「あの映画は僕たちの気持ちが分かっている」と言ったのだ。だから見てよかったと。


『硫黄島からの手紙』ラスト。日本兵の生き残り西郷(二宮和也)は、米兵の負傷兵と一緒に寝かされる。もはやそこに「敵」も「味方」もない。ただ同じ戦争を生き延び、同じ苦しみと痛みを背負って生きて行かなければならない若者たちがいるだけ

「アメリカ人もやっぱり、同じことを考えてたんだね。それが分かって安心した」とも、彼らは言っていた。


これはもちろん、別の映画の、別の生き残りの人たちの気持ちだ。大地震と大津波と『ヒア アフター』について当てはまるかどうかは、確証はない。

でもクリント・イーストウッドという芸術家がそういう特別な、類い稀な感性を持った人なのだということを、例えばこの音楽を聴いて、今雄々しく困難のなかで生き抜いている人たちにも、ちょっとでも信用して頂けたら嬉しい。

そして映画というものが、本当はそれだけの力とやさしさを持ちうるのだと言うことも。

 『ヒア アフター』エンディグ音楽 作曲/ピアノ クリント・イーストウッド

あなたたちもまた、決して一人ではないのだから。あなたたちが生き抜いていることを真に分かろうとする人間も、もしかしたら分かるかも知れない人間も、いるのだから。

『ヒア アフター』を見直して、そこにマリーの物語を見い出した今では、そう思える。


まあいくらイーストウッドが尊敬する80歳の大先輩、40歳も歳上だからって、本当は自分の映画でも、これくらいのことをやらなくちゃいけないんだけどね。

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