4/08/2008

「事実」とは何か〜再び靖国問題

承前。ニュース23で実際に映画『靖国』の上映予定館に街宣をかけた右翼がインタビューを受けていた。実際に街宣があったこと自体けっこう驚きなのだが、ちょっと笑っちゃったのが活動歴4年の21歳の青年、というよりはっきり言えば「坊や」だったこと。TBSのディレクターに(かなり親心のある人なんだろうと想像)詰問という形式の噛んで含めるようなお説教に、上映禁止になって映画が見られなくなってしまったのは残念で、見もしないで抗議したのは間違っていたと素直に認めていたのは、意外に思った人も多いだろう。まあソクーロフの『太陽』のときもそうだったのだが、映画業界の側でも「右翼」に過剰反応してしまう傾向はやはりある。一生懸命「週刊誌など」と情報を得たソースを挙げていたが、たぶんネットなんだろうなぁ。2ちゃんなどでこの件に関する議論はまったく見てないが、そこで「反日映画」とか書かれていたのを見てしまって、やらなきゃいけないと思ったのかも知れない。いやまったく映像というのはおもしろいもので、どんなに編集しても、彼が自分の誤りを素直に認めるプロセスはやはり写っているし、そこからこの若者についてもいろんなことが見えて来る。

まあしかし、こんな素直でかわいくさえある無邪気な男の子を扇動しちゃった稲田朋美の責任は重大ですよ。彼の若さなら若気の至り、むしろ可愛くさえ見えることでも、あんたのようなブスなおばさんがやれば子どもじみて無責任でみっともないだけです。だいたいこういう反応が起ることくらい予測できないでどうやって権謀術数の自民党のなかで議員をやってられるのかもよう分からん…。もっとも、自民党全体がまた日銀総裁人事の再々提案でも、よくこんな無邪気なことやるわ、という動きをしているのだが。なんたって「財政と金融の分離」を掲げる民主党に、福田さんはあろうことか「財政と金融の協調」を理由に財務官の渡辺さんをねじ込もうとしているのだから。それならば「財政と金融」が協調すべきか、ある程度の分離を確保すべきかで、本格的に国会で党首討論でもしなければ筋が通らないし、そうなるとかなり議論に時間をかけるべきが、なにしろG8出席のために早く決めなきゃいけない、という話なんだから。

閑話休題。21歳の若者の言葉で気になったのが、「南京大虐殺」の写真が出て来るから、事実かどうかも分からないことが入っているのはドキュメンタリーなんかじゃない、という理屈だ。番組の後半で『靖国』の監督の李さんと、森達也さんが呼ばれて議論していたのだが、李さんはともかく森さんがこの問題に突っ込まなかったのはよく分からない。稲田議員の行動がまじめに議論する必要もないほどくだらないと断言するのだから、もっと議論する必要があるテーマを提示したっていいじゃないですか。以前に国会議員試写が報じられたときにも森さんが取材されていて、「ドキュメンタリーは主観なんだから」と言っていたが(それはそれで、そんなに単純なことだけじゃ済まないはずだ、とは言いたくなったけど)、我々の言論や表現の自由は、いわゆる「右翼の弾圧」とは別のもっと深刻で深淵なものに脅かされてるんだし。それはなにかといえば、「事実」と称するものへの社会の無自覚な幻想、単一の「事実」が存在するのだという思い込みだ。

くだんの右翼の男の子の発言には、実は二つのレベルで「事実」の認識を巡る重大な問題が含まれている。ひとつは当然ながら、南京大虐殺があったのかどうかということ。常識論で言えばあのような事件を実際に「ねつ造」なんてできるわけもなく、どういう事情で起ったかなどについては資料が少な過ぎるので憶測の範疇を超えようがないにせよ、とりあえずあったと考えるのが妥当だ。確かに公的記録とされるものはほとんど残っていない…って公的記録を記している側にとって都合の悪いことはなかったことにするのが当たり前であって、中国だって今回のチベット争乱で、観光客などの撮った映像が流出するまでは兵士によるチベット市民への発砲はなかったと主張し、チベット人市民の死傷者の報道について「ダライ集団の陰謀」とか、要するにねつ造を主張していたわけだし、北京の走狗でしかないチベット自治区政府が公的記録を司っている以上、「公的記録」は今回の一連の弾圧にしても、過去における虐殺や弾圧にしても、まず隠蔽され記録には残されない。別に北京政府に限った話でなく、公権力とはたいがいにおいてそういう残酷さを持ち、捏造も隠蔽もしてしまうものなのだ。旧日本軍だってまさか国際法違反に問われて大変にことになる事件の証拠を、わざわざ残しているわけがないでしょう。日本の右派が「ねつ造」と主張するアメリカ人宣教師が撮ったと言われるフィルムや写真は、今回のチベット弾圧で観光客が撮った映像とほぼ同じレベルにあるわけで、写真を含めて「ねつ造」を主張するのは相当に無理がある。それを言い出したら、この世に確定的な「事実」と称されることなんてなくなってしまい、我々は公権力の認定したプロパガンダ以外のリアリティを許されなくなってしまう。

僕自身がとある靖国で年次総会をやっている団体を取材していたとき(このネタはいずれ、「天皇制」ドキュメンタリーで使います)、ちょうど中国の反日暴動が大変になっていたことがあって、毎月の集まりで「中国けしからん」でしばらく戦前・戦中派の男性たちがずいぶんと話し込んでいた。そこでタイミングを見計らって、「でもあちらにしてみれば、やっぱり親御さんや家族が殺されているわけですから、あまり文句も言えませんよね」とボソっと言っただけで、彼らは一瞬黙り込み、話題を変えた。後で個人的に話を聞くと、「詳しいことは分からないけれど、ああいうことがあったとしてもおかしくない。たぶんあったんだろう」というのが、実際に戦場を体験した人の大多数の考えだ。

戦時中の日本軍の虐殺行為について実際に証言する元兵士も最近ではずいぶん出て来たし、これだけ時間がかかったのは罪悪感と恥の意識と家族への迷惑などなどを考えれば、なかなか口にできないことだからだろう。靖国に来ている生き残り兵士のなかにも、証言した元兵士を「勇気があるよね」とぼそっと言うか、ノーコメントがほとんどで、「嘘つきだ」などと批判する人はあったことがない。ちなみにこれはかなり気を遣う、こっちもある種の“勇気”が必要かも知れない質問だと僕は思うのだけど、いざ当事者を前にしたときに当然するような心遣いを、彼らに顔も発言権もないせいか、ほとんど出来ないで来たのが、戦後日本社会の失敗というか過誤だったように思う。その心遣いのなさに裏付けられた「正義」の残酷なレッテル貼りが、靖国神社を今のような形で存続させている口にできない悔しさや恨みを維持させて来てしまっている。現代の靖国というのは、その決して語り尽くせないし口にもできない恨みと哀しみの場なのだ。昭和天皇が参拝出来ていた頃には、まだ無言のうちに「罪」や「責任」を分かち合う癒しがあったはずだ。A級戦犯合祀はその可能性をぶっつぶし、行き場のない鬱屈がときに、部外者には滑稽にしか見えない形で虚しく噴出する。

生き残りの兵士だって自分自身のことだけであれば、元特攻隊員だって「いやあ、今思えばバカなこと考えてましたね」くらいは生きていれば言える。だがその「バカなこと」で実際に死んでしまった死者はどうするのか? 親兄弟の死を「バカなこと」と断じられる遺族はどうするのか? さらに皮肉なことに、彼らはそれが「バカなこと」であると自分たちでは分かっていたフシさえある。少なくとも、ああすることで日本が勝てるとはまったく思っていなかっただろうし、むしろここまでやることになるからには、いよいよ戦争も負けるのかと考え、だからこそ死んでいったようにさえ思える。そうした複雑な、口にされようもない屈折した思いに、ただ「軍国主義」のレッテルを貼ったところで、我々は安心できるだろうが、死者の記憶を背負った人々はますますいき場所を失う。我々は戦争中になにがあったのかの事実はある程度は知ることができるが(というのも実は怪しいのだけれど)、そこにあった人間の「真実」は、実をいえば「分かる」というだけでも傲慢にも思える。

もう一つの議論はもっと哲学的な、ドキュメンタリーの本質に関わることだ。仮に虚構だったとしても(あくまで仮に、ですよ)、その写真が現に今あることは現前たる事実であり、その写真の存在がさまざまな影響を現代に及ぼしていることもまたまぎれもない事実だし、父母や兄弟姉妹、親族を殺された中国人がいるのも事実だし、他ならぬくだんの右翼青年のような発想がまさにその写真の存在を現代においてなお重要なものにしているのも厳然たる事実だ。ドキュメンタリーは根本的に現代/現在を撮るものでしか原理的にあり得ず(キャメラとは、映像とはそういう力しか持っていない装置なのだから)、まともなドキュメンタリー映画であればその文脈のなかでその写真が使われることは、現代の現実、その写真が存在し、大きな意味を持っていると言う事実を示すことである。その写真という事実がキャメラの前にある以上、その写真自体が事実を写しているのかどうかは、映画が「事実」を写しているかどうかを責める理由にはならいし、ドキュメンタリーとはキャメラの前の事実以上の「事実の主張」は本当はやってはいけないし、そもそも出来っこない表現形態なのだ。

たとえ嘘八百を語る人がいてそれを写しても、映画が写しているのは、「事実かどうか」というレベルでは、その嘘つき男がいたという、あるいはその男が嘘をついたという「事実」だけである。もちろん証言が嘘だと分かったらカットするなりなんなりすればいいとはいえ(それはドキュメンタリー映画としてはつまらない姿勢だが)、それを「嘘」と断定するだけの根拠が我々ドキュメンタリー作家に常にあるのかどうかも疑問だ。村上春樹は『アンダーグラウンド』であえて証言の食い違いを残したことについて、「それがその人にとっての真実なのだから」と述べている。文学つまり文字だけという以上に、映画はその人がいたという時間と空間を定着させることができるし、一方で根本的にはそこを超えられないし超えるべきでもない。

ナレーションで文脈をねつ造し(「南京大虐殺はねつ造だ!」という文脈での「ねつ造」とは異なった、より高次のレベル、かつ「事実」の把握と理解のために必然的に我々が行ってしまう「物語化」という「ねつ造」のこと)て、写真というモノの存在を無視して事実関係を整理することでフィクション的に作られる物語のイラストレーションとして使うのなら話は別だが、『靖国』はそういう安直な構造を持った映画ではない。結果的にどこまで成功しているかはともかく(それは公開されてから、ちゃんとこの映画が見られてから、初めて議論されうる話である)、自らの単一の線状的な物語を語る(押し付ける)映画ではなく、むしろさまざまな歴史体験から紡ぎ出されたさなまざまな物語の衝突する場としての靖国を観察しようとする試みであるはずだ。

そもそも私たちはなにを持って「事実である」と認識するのか? ドキュメンタリーとは必然的にその問いを内包せざるをえない表現行為である。村上春樹の言葉を借りれば「その人にとっての真実」以上のものが、究極的には存在し得るのか? その人の記憶する「事実」ですら、それは元の事実において発せられた無数の情報が記憶となる時点で整理され取捨選択されたもの以上ではあり得ない。そもそもその「事実」の全体像を把握すること自体が、人間の知覚のあり方にとってあり得ないことだ。「裁判で事実を明らかにする」という常套句もまた事実の断片からもっとも合理的な推論による物語を構築すること以上のことではあり得ない。刑事裁判では故意かどうか、死者が出ていれば殺意があったかどうかが量刑上の大きな争点になるが、その犯罪の時点で「殺す気」があったかどうかは実は当事者だってほとんど記憶していないだろうし、していたとしてもそれをどのように自覚して理解していたかはかなり混乱しているはずだ。

僕自身は、南京大虐殺を戦略的かつ意図的に中国人を殺そうと日本軍国主義が画策し、という中国で教えているらしい解釈はおそらく違うと思う。というか、少なくともあまり現実的な解釈とは考えられない。同様に、チベットの弾圧にしても、実際に関わっている中国側のほとんどは、明確な悪意を自覚してシステマティックに侵略と弾圧をやっているわけでもないだろうとも思うし、今回の暴動騒ぎでの発砲も、ある意味で現場のもののはずみか、現場指揮官がなにも考えずに、せいぜいが上の顔色を見てやったことだろうとも推測する。問題は個人の悪意よりも、無思慮に作られたシステムがシステムとして、国民の利益も国益も、なにが本当の目的なのかも考えずに暴走し始めることだ。オリンピックを成功させることが目的なのであれば、チベットでの不満が爆発するような事態を作り出してしまったのは愚の骨頂だし、海外メディアが入るのを禁じたり、「ダライ集団の陰謀」を主張するのは逆効果でしかない。だが北京政府が現在存続しているシステムの論理では、その逆効果になるのが分かりきっている行動しか選択肢がそもそも他にないのだ。同様に、南京大虐殺もまた別の戦場の生き残りの老人の言葉を借りれば、まさに「ああいうことがあったとしてもおかしくない」というのが率直なところなのだろうと素直に思うし、虐殺を証言する旧日本兵もそのニュアンスをにじませる。つまり戦争とかの極度の興奮状態では、そういうことは起ってしまうのだ。「意思」としては大東亜共栄圏の理想を本気で信じていたとしても、戦場では理性や冷静さを失うのはものすごく簡単なことだろうし、当時の日本軍の上層部は恐らく、起ったときに恐ろしく慌てて、なんとか隠蔽したのだろうが。

しかし、そうした他者の置かれた立場への想像力はより高度な倫理的責任として我々が考えなければいけないことだとしても、一方ででは他人から見たらどう見えるのかも、人間は考える必要がある。その意味では、チベット側から見れば中国政府がチベットをシステマティックに弾圧してその文化を破壊しようとしているように「見える」はずだし、中国側から見れば南京で日本兵の多くが虐殺を“してしまった”ようには見えず、ほぼ確実に「虐殺をした」ことしか見えないはずだし、その意図を中国人を虐殺する意志的な戦略として考えるのもまたいた仕方がない。エノラ・ゲイの乗組員たちは20万人を瞬時に虐殺することなぞ意図していなかっただろうが、結果として彼らは20万人を瞬時に虐殺したのはまぎれもない事実であり、「殺す意図があった」と“立証”することすら、論理的には可能だ。「意図」などの他者の内面は人間にとってお互いに想像し推測することしかできないし、だから他者に対して我々が行ったことの「意図」もまた他人から見てどう見えるかの問題にしかならない。我々が「事実」として認識しうるのは、その程度のことでしかない。だいたい自分自身がそのときにどのような「意図」を持っていたかですら、その時点で自分で明確に自覚できているはずがないし、後付けの整理された記憶では自分にとってあまりにも都合の悪いことは幾らでも排除できるし、我々はそれこそそんなこと「意図」もせずに、自動的にやってしまう生物だ。

もちろん、一方で人間は、より自覚的になれさえすれば、そういった排除と隠蔽の心理から出来上がる自分にとって都合のいいフィクションではなく、「本当のところ自分はなにをしたのか、それはなぜなのか」を考える叡智も持っているはずだ。しかしそれは一人一人の人間の、それこそ「内面」の問題であり、個々人がその「事実」を体験して以来どれだけ人間的に成長できるのかの問題だ。歴史、というよりは記憶をドキュメンタリーとして撮るとき、私たちが撮っているのはその過去の「事実」ではなく、その「事実(だったかも知れないこと)」がその人にどのように影響し、どのようにその人を変え、願わくばその経験を背負った人間がどれだけ人間的な叡智という得体の知れないものに到達したのか、その歴史と体験と記憶と時間を背負った身体の美しさ、そこからにじみ出る人間的な叡智という得体の知れないものを捉えることこそが、私たちの究極の職業的な責任なのだろう。そしてキャメラ、映像という装置は、それを可能にしてくれるはずだ。

ま、そうとでも考えてないとこんな仕事はできませんわな。国会議員サマと較べてはるかに実入りは少ない商売だしサ。

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