商売柄、いろいろ人にも訊かれるので、やっぱり意見を述べなければいけないんだろうけれど、なんだか困ってしまう。そもそも、一応ブログのラベルは「映画」にはしておくが、本当は「政治」ネタにしかならないのだよな。結局、この映画が“問題”になっているのは、ただ中国人の監督が靖国神社を撮ったということだけであり、映画それ自体はちっとも論じられない。今更ながらではあるが、それは映画にとって不幸なことだし、それでも日本のドキュメンタリーで今年一番の話題作になったし、なんだかんだで映画賞もとって「高い評価」に決まるのだろう--映画『靖国』そのものの中身とは、なんの関係もなく。
いやもっと不幸なのかも知れないのは、実物の現代の靖国神社が抱える複雑な、屈折した哀しみもまたまったく無関係に、「靖国」というおなじみの禍々しい記号についてのおなじみの賛否両論が繰り返され、なんら本質的な話には行き着かないのが目に見えていることだ。結局は記号の自動的運動が再発してなんら物事は先に進まず、靖国神社をどうするのかの話もなにも進まず…で、今本当に靖国神社を必要としている人々が(で、いかに国家神道や軍国主義には反対しても、あの場を必要としている人々がいるのは確かであり、それは安易に責められるものでもない)死に絶えるのを待っているのが、この社会の無自覚な集合的意図なのかも知れない。
考えてみたら本質的な議論の契機は何度かあった。たとえば今や道路族のドン、道路特定財源の牙城の最高司令官(?)としてすっかり悪者になってしまった古賀サン@遺族会会長(当時)が、A級戦犯の分祀を提案したことだ。なんだかあの議論はすっかり消えてしまっているのだが、誰も言わないのであえて言えば、僕の知る限りでは靖国を本当に必要としている人々、つまり名もなき兵士たちの遺族と、とりわけ戦争の生き残りの兵士たちにとっては、酒でも入らなければ決して口にできないが、本当に望んでいることそものではないのか。だって国家指導者で戦争指導者たる彼らがあそこまで無能でなければ、戦争にもならなかったろうし、あそこまでボロ負けすることもなく、父や兄や弟や、生死を共にした戦友が殺されることもなかったんだから。いやまあその歴史解釈自体に問題はなきにしもあらずではるのだけど、ならせめて天皇陛下には来て頂きたいのに、昭和天皇は合祀が明らかになってからは一度も靖国に足を運んでいない。よほどのバカでない限り、まともな日本人的感覚がある限り、言外の言として理由は分かるはずだ。それでも分からない、というか分からないフリをする人々のために、わざわざ(たぶん現天皇の意図がどこかで働いているのだろうと推測するが)、側近の日記まで公表されても、結局はうやむやである。そういえば言葉の軽さでは日本一だった当時の総理大臣が「天皇陛下の個人の意見ですから」と、とんでもない発言をしてしまったんでしたっけ? (一方で、真面目な戦中派保守の、戦争がいかに嫌なものか知っている政治家から「大御心」発言が出たのは感心したが)。
以上は僕の止まったままのドキュメンタリー企画『拝啓、天皇陛下様(仮)』の中心的な主題に関わる話なので、閑話休題。しかし、同業者としては当然ながら今回の表現の自由の弾圧に対しては、李さんに与して戦わなければいけないはずなのだが、どうにもやる気がおきないのが正直なところ。少なくとも映画それ自体の評価は、今はやりたくない。映画そのものとして論じようとしても、「ウヨ」か「サヨ」のレッテルを貼られて安易な記号の自動的運動のシステムに組み込まれるだけなのだから。
というのも、どうにも「映画」という複雑で重層的な表現体系とはおよそ無縁の話に終止しているだけで、「日の丸君が代」と同じくらいレベルの低い毎度おなじみの「靖国」論争(にもなってない単なる平行線のわめき合い)に終止するのが目に見えているのだ。ことの発端はまさにパブロフの犬並みの条件反射で「週刊新潮」が反応し、その連鎖反応で「チャンネル桜のマドンナ」稲田朋美が愚にもつかぬことを始め、異例の国会議員のための試写会をやることになったのがニュースになったのは宣伝の上での話題作りの戦略として成功だったと思う。以前は文化庁支援に助けられ、いずれは芸術文化振興基金のお世話になる可能性が高い身としては、これからは助成金の審査が事なかれ主義に走るんじゃないかと思うと、ちょっと迷惑ではあるが。
もちろん稲田議員から文化庁に圧力をかけ文化庁が配給に連絡して、という“あちら”から始まった流れにせよ、戦略を組んでいなかったとしたらあまりにも無邪気(なんたって客寄せ商売ですから、映画は)なのだが、組んでいた割には当然こうなるであろう流れを阻止する悪知恵がなさ過ぎたように見える。李さんが別個に記者クラブで会見したってしょうがないでしょう? それも「日本へのラブレター」なんて言ったところで。
稲田朋美に見せるからには、バーターとして記者会見か、できれば公開討論くらいを条件につけるべきでしょう。そうでもしなければ「大和魂」とはおよそ縁がなく、保守派ぶって道徳だののたまわってるわりには倫理観も責任感も欠如している姑息なバカ右翼議員は逃げるに決まっている。で、やっぱり逃げてますよね。パブリックな発言としては感想もなにも言わず、いまさら「事前検閲と思われるのは心外」とか文書で回答するだけである。ああみっともない。そんなヤツが子どもの道徳教育についてとやかく言うんじゃないやい。反論される危険性のある場所からは女々しくも(女性蔑視で失礼!)逃げまわり、議員の職権で文化庁に圧力をかけているんだからとんだ「愛国者様」、恥さらしにしかならないし、それこそ「靖国の英霊」に顔向けできないじゃん。それでも2ちゃんウヨク辺りを中心に、その恥さらしをアイドル化しているわけだし、街宣右翼だってこういう騒ぎになればなにかしなけりゃ顔が立たないわけで、だったら彼女の主張が無知かつ無知能で見識のかけらもなく、恥ずかしいものであることをパブリックに、本人に対して直接論破でもしないと、ほとんど機械的ですらある騒動の伝播は止めようがないでしょうに。
宣伝戦略での問題は他にもある。横尾忠則風の靖国を茶化したポスターもそうだし、テレビで放映される抜粋は軍人コスプレだったり星条旗をもったアメリカ人との喧嘩だったり、8月15日の喧噪というか狂騒を撮ったものばかりだし、「映画」としては、こう言っては悪いが「こんな撮り方じゃ素人でしょう」ってくらいダメな映像だ。あんなコスプレと一緒にされては傷つく生存者や遺族も多いだろうし、その意味で、決して口にはされない(遺族は嫌でもコスプレ右翼にでも、下品な恥さらし議員にも、気を使って文句は言わない、つまり彼らしか「味方」がいないほど孤立しているわけで)心情的な反発はあるはずだ。
別に傷つけていけないという気はない。映画は、特に現実にキャメラを向けたときには凶暴な武器にもなり得るのだから。ただそれなりの覚悟を持ってやらなければいけないし、アホ右翼はいくらでもバカにしていいだろうけど、遺族や生存者をバカにするのはそう安易にできることではない。そもそも、『靖国』を本当にテーマにするのなら、靖国というかつての栄光転じて今や戦争のトラウマを解消することを許されず、死線まで追いつめられながら戦後は「狂信的軍国主義」のレッテルを貼られて社会の影に追いやられ、本当はいちばん許せない連中と合祀されてしまっても文句が言えず、見ていて恥ずかしいコスプレ右翼がお味方だという哀しい怨念の吹きだまりの場所という本質を撮りたいのだとしたら、8月15日は撮る必要がない。その日にマスコミと議員のパフォーマンスとおバカなコスプレ右翼がたむろするのも靖国の現実だが、ドキュメンタリー“映画”なんだし、どの現実を見せなにを捨てるのかの選択こそが、映画監督のお仕事のはずだ。というか、どの「現実」をどのような美的・映画的判断において選択するのかが、ドキュメンタリー作りの本質なのだから。
で、抜粋に選択されてテレビのパブ映像で使われる場面はキャッチーではあるが、「映画」としては下らないし、美的にもレベルが低過ぎる。結局は「中国人が靖国を撮ったらこんなヘンなものがとれました」しか伝わっていないのだ。まああの喧噪のなかでうまく撮れという方が無理だとは思うのだが、だったら話題性だけでそこを宣伝に使っていいのか? これでは「議論の契機として貴重」とこの映画を擁護する気もなくなってしまうし、「右派の言論弾圧許すまじ」の、パブロフの犬反応に対するパブロフ犬反応で支持を集める一方で、心ある人々は呆れて見に行かないだろう。
それどころか、芸術文化振興基金の助成金は優れた映画になる可能性のある企画を、きちんと企画書を読んで専門家(主に映画評論家など・癒着を防ぐため人選は非公表)からなる審査員が助成を決めることによって、公的資金による映画作りが正当化される制度である。国会議員が自分たちのウヨッキーな(あるいはサヨッキーでも)主張に合わないから横やりを入れるなんてのは論外だが、一方でクオリティに対する責任意識はなくてはならないし、それをちゃんと主張しなければ…なんと言っても皆様の税金である。だから文化庁も振興基金も「クオリティを判断できるプロの判断であり、優れた映画が出来た」くらいの大見得を切ってしかるべきだし、一方でそうと納得させる画面をテレビで流さなきゃ駄目でしょう? 正直、今抜粋で流している絵は、8月15日の靖国をニュースででも見ていれば驚くほどのものでもないし、安易過ぎる。クオリティの説得力がないと、「週刊新潮」が条件反射したのとまったく同じ理由で、つまり「中国人が靖国を撮る」という左翼的ポリティカリー・コレクトネスの論理だけで、助成が決まったんじゃないか、そう勘ぐられても仕方がないし、だとすれば「芸術文化振興」としてはあまりにも薄っぺらで不毛だし、映画作家として李さんは自分の映画があのように受け取られていいんだろうか? まあすぐそういうことで喧嘩するから僕は世渡りが下手なんでしょうが、でもせっかくの映画がもったいないでしょう?
僕はもらったことがない芸術文化振興基金なので知らなかったが(文化庁の直接の支援はもらったことがありますが、そんな条件あったかしら?)、「政治団体および宗教団体の宣伝に」云々の条件が応募要項にあるのだそうで、「それには当たらない」と文化庁ではコメントしているらしい。これもバカらしいけどまだ合格点。しかしこれを「政治的でない」と擁護する加藤紘一議員とか、「政治的」という言葉をどう解釈しているのか常識を疑う。靖国を映画で撮ること自体が政治的行為であり、これは政治的映画である。ナレーションを入れないから政治的でないというのも稚拙な理屈だ。僕はまずナレーションは使いませんが、『映画は生きものの記録である』だってまもなく完成の『フェンス』だって、明らかに政治的な映画だ。ただそれは僕が話を聞き映画に出てもらった人々個人の政治的見解であって、それをどう撮るかは撮影・大津幸四郎と僕の一致した政治的考察の表現であって、映画は僕自身の政治的見解と考察に基づいて構成・編集している。それが「映画を作る」ということの覚悟でなきゃおかしいし、「政治団体」や「宗教団体」の見解通りに作っていい映画になるはずもない。つまり審査員が企画のクオリティを審査するのなら、「政治団体および宗教団体の宣伝に」なんて企画が通るはずがないわけで、そこに抵触しないから問題はないという見解を出すお役所根性で、公金を使って文化を守り育てていくという根本的な使命が成り立つのだろうか?
それにしても稲田朋美の責任は大きいよね。街宣右翼やネット系プチ・ウヨのもしかしたらのテロ行為が怖くて劇場が降りるのは、本来なら「警察はなにをやってるのか?」の話だ。街宣行為は道路使用許可がなければ最低限徐行でも、車は動いていなければ道交法違反だし、脅迫罪だって成り立つ。本当は警察に通報すればいいはずの話なのだが、稲田朋美サンの周辺には警察官僚出身の議員もいたりして、これだとなかなか警察も上の顔色をうかがって動いてくれないだろう。というか警察だって右翼と結託してるのかもしれないし、だからこそ稲田朋美の主張は言論でちゃんとぶっつぶしておくべきだったのだ。本人の面前で、論破して、恥をかかせてでも(まあ国会議員なんだし、大日本帝国を愛する愛国者なんだから、それくらいの武勇を持たないでどうするんだ、稲田サン?)。
最初に降りた劇場は新宿の旧東映跡の丸井との複合ビルに入った「バルト9」。あとQ-AXや、ヒューマックスの持ち物であるシネパトスも降りたそうで、これくらいなら街宣右翼も「協力金」とか「寄付金」はせしめられたかも知れないが、しょせんは製作も配給も興行の映画館ももともとお金がないインディーズ系である。街宣右翼サンも体面上なにもやらないわけにもいかず、かといって元がとれないで、とんだ面倒なのかも知れませんね。もっとも、東映の子会社だとかだと、なにしろ東条英機を変に美化した『プライド』とかもあって、別種の政治的圧力もあったのかも知れないが。まあでも上映中止とか騒がれたら、他に名乗りを上げた小屋もあってけっきょく全国21館というかなりの規模の公開になるそうで、ずいぶんテレビでもとりあげたし、これで大ヒットは間違い無し、実は宣伝・配給はものすごく狡猾だったのかも知れない。映画はしょせん客寄せ商売、それくらいの割り切りは必要なんだろう、たぶん。
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