4/21/2010

出演者への手紙

大阪で撮影を終えたばかりの集団即興による劇映画、『ほんの少しだけでも愛を』(編集中) で主人公の一人を演じた、俳優・安田一平が、俳優をやめることを決めて先日最後の舞台をやり遂げたことを記念しての、はなむけの言葉



本当にお疲れさん!最後の舞台を見に行けなくてごめん。

今回の映画は、元々は「素人」だけ使ってやるつもりで、「俳優」が出ることにはいささかの躊躇があったのが正直なところです。

最近、10年前くらいにちょっとだけ付き合いのあった大先輩、大島渚監督のことをふと思い出すことが多いのだけど、その大島渚のキャスティングのモットーが「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター、六、七,八、九となくて十に新劇」だった。

必ずしも大島さんに影響されたわけではないにしても、こういう方法論の場合はとくに、なまじ演技経験があるとそれがブロックになる可能性は考えていたわけだし。

それにぶっちゃけた話、寺島しのぶとかの凄い俳優だと分かってる人を使えるわけじゃないのに、そのクラスの俳優がやってるのと同じレベルの演技とは言わないものの、それに太刀打ちできるくらいのものを要求することには当然なってしまう。

それだけに同じ「俳優」の土俵では分が悪い可能性はあるのが、「俳優」がこの映画に出ることの高いハードルでした。

それは恐らく、まったくの素人がビギナーズ・ラックで、それもドキュメンタリーも撮っている映画作家の作品で自然に出来てしまうことよりも、はるかに高いハードルだったと思う。

それが「一に素人」の大島の映画だったら、台詞が棒読みとかそういうのはあるとしても、「素人」が佐藤慶とかの名優と互角かそれ以上の芝居してるわけで。『絞死刑』の主役の在日韓国人の死刑囚R、『戦場のメリー・クリスマス』のハラ軍曹、ビートたけしがこの役をやったときだって、彼はまだ俳優としては「素人」だった。坂本龍一もデビッド・ボウイも「俳優」ではなく、「歌うたい」だしね。

また同じような方法論でやった前作『ぼくらはもう帰れない』(2006)でも、ひとりだけプロがいて、頭の回転の早くチャレンジ精神も旺盛な負けず嫌いの女性だったから、自信を失いそうな失敗も含めいろいろ試行錯誤した結果、最後にはうまく映画のなかでの自分なりの居場所を見つけてくれたものの、自分の彼女にとって難しい体験だったのも確かだし。

とはいえ今回は、来るものは拒まずで「俳優です」という人もキャスティングはしたものの、やっぱりなまじ演技経験がある人はいろいろ計算してしまうところがあるのか、本人たちにとっても僕にとっても難しいところは多かったと思う。

なまじ「作って」しまう役柄や演技は必ずしも即興には合わない、サプライズもないし、しかもまったくのド素人が自分自身を「演ずる」のですらなくただそこにいることで自然な存在感をアピールしてしまったりするものだから、「俳優」の人は焦ることも多かったんだと思う。それは過酷だったと思う。

真っ先にそこから抜け出したのは加納克範君と、あと最初からほとんど問題がなかったのが安田君でした。

『ほんの少しだけでも愛を』加納克範安田一平

とはいえ安田君の場合は舞台の方も忙しくて参加できる日数も限られていたので、大きな役にはならないだろうと最初は思っていたのも確かです。だからそんなに多くを要求する気はなかった。器用な人なのは分かっていましたから、それでちょっと変わった役柄をおもしろおかしくやってくれれば、それで映画のなかでちょっとした息抜きでありスパイスになってくれれば、それで十分だと思っていた。

ところが終わってみれば、これは誰よりもまず安田君の映画になっている。とくに最後の日曜日に撮影した、ラストシーンと、大阪に未だに残る遊郭のはずれの慰霊碑のシーンの安田君は、何度見ても凄いと思う。もちろん最初から巧かったのは認めるけど、この日の撮影分はだいたい、君の顔が違う。

『ほんの少しだけでも愛を』ラストシーン

慰霊碑の前の安田一平 Scene 1
慰霊碑の前の安田一平 Scene 2

改めて思ったけれど、俳優ってのは、キャメラの前に立つ人間とは、けっきょくはまず人間性が勝負になる。

それはキャメラの前に立つ人は誰でも、劇映画でもドキュメンタリーでもそうだという僕の確信は変わらないけれど、俳優は自分の人間性を曝け出す訓練が、いわゆる素人よりもできているはず、その曝け出した人間性を役柄の人間性にしてしまえるはず(今回の映画のようなやり方ではその限りではないけど)、その訓練ができてなければ、俳優ではない。

でもそうした訓練による演技の「巧さ」を超えたところで、やっぱり最後に問われるのは、そのキャメラの前の人間が持っている人間性のみ。その意味で「俳優」であるかどうかは、僕にとってはあまり関係がないと、僕は思っていました。

でも最後のあの日に撮った安田君のシーン二つは、安田君が俳優であるからこそ、俳優として自分の人間性を鍛えて来たからこそ、あれだけの真摯さが溢れるシーンになったんだと思います。

もちろんラストの、安田君と加納克範君二人のシーンでは、加納克範君もおなじ真摯さと誠実さを共有してたし、加納君の持ってた素晴らしい人間性を引き出せたし、今後は加納君も素晴らしい俳優になっていくことを期待してやみません。

正直、まずその数日前に最初はおちゃらけた「友チョコ」シーンをやったあと、のちにラストシーンを撮るべき場所だと君が決意することになる街並を歩いて、飯塚亮子さんや僕の説明を聞きながら、それ以上に自分の目で見て身体で感じながら安田君の顔に明らかに起っていた表情の変化に驚いたし、こっそりと感動もしてました(その場で素直に出したらまずいから出さなかったけど)。


安田君がうまい役者なのは、これまで舞台で培って来た経験と訓練ももちろんあるんだろうけど、それ以上に役者としてやって来たことを自分の心と身体で真摯に受け止めて来たことが、安田君の人間性を高めても来たのだと思う。

正直、君が「マッチョな兄貴・体育会系」なところはちょっと辟易したこともあったり(笑)、ときどき言ってることががあまりに舞台俳優やなぁ、映画の生理ってのはちょっと違うんだけどそれは説明した方がいいのかなとか迷ったこともあったけれど、最後まで安田君とつき合えて、安田君の俳優としての最後の仕事のひとつを撮ることができて、本当に幸運でしたし、本物の「俳優」と組むことができたのも大変な幸福でした。

恐ろしく大変な撮影で、ここまで苦労した仕事は、映画を撮り始める前でも映画を作る側になってからも、これまで自分にはなかったと思うけれど、その苦労もこういうものが撮れるのなら、報われた気がします。何度もやめようか、これは無理だ、始めたこと自体が間違いだったとも思おうとしたけれど、やっぱりこの映画は、やってよかったと思います。

まあ最初から、この男は俳優としてのプロフェッショナリズムが分かってるから、なにを言ってもこの男は最後までやり抜くんだろうな、とは思ってたけどね(笑)。だったら時にはキツいことを言うのも、「プレッシャーをかけて、なにが出て来るかを見る」のは、出演者にでもスタッフにでも、僕の演出のもっとも基本の部分なんで(すまん!)。

安田君と映画を作れたことで、大島渚監督の「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター…」というモットーの意味も、もっと深いところまで学ぶことができた気が今はしています。つまり大島さんの言ってたことは、だからこそ、人間性を見抜くことがいちばん大事なんだという意味なんだと。

今回はそれについて、ずいぶん失敗したことは否めないけど、安田君に関してはやっぱりハズれはなかった。いや、もの凄くいい意味で、予想外でハズれた?

本当に俳優やめちゃうの? それはものすごく残念だけど、俳優をやって来たからこそ高めることができた安田君の豊かな人間性は、あの二つのシーンを見ればそれが本物であることは誰にも否定できないし、そんな安田君であれば今後どんな仕事でもそれなりのことは出来るだろうと信じてます。


素敵な、めったにないであろう体験を本当にありがとう。こういう体験がときには出来るからこそ、映画作家という人種は生き続けられるのだろうと、あらためて思います。そして本当にお疲れさまでした。

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