大江健三郎氏がスピーチしたりで話題性を作り、古典的なデモとしてはようやくそれなりのデモになったことは評価すべきだろう。2003年2月のアメリカのイラク開戦に反対する世界同時デモは、僕が参加したベルリンでは15万人、それが東京ではたった5千人だったそうだし。
ただし今「反原発」でデモを行うのなら、古典的なデモでは済まない状況にあることを忘れてはいけない。
まだ震災からたった半年で、死者たちの喪に服す人たちや、その余裕もなく避難所で暮らす人も多く、仮設住宅に入っても今後の見通しがつかない人が9割を越えているという調査結果もある。
こと福島第一原発の事故で避難を余儀なくされている人たちの置かれた事態は深刻だ。 そして「反原発デモ」をやるのなら決して忘れてはならないのは、事故は東京ではなく福島で起こっているということだ。
東京には「我々は被害者だ」と言う人たちはいるが、実際の被害はあるのか?あるとしてもそれは福島県の、こと第一原発から北西方向の人たちとは比べ物にならないはずだし、生活の基盤をすべて失った20Km圏内や飯舘村などの人たちとも比べ物にならないし、農産物の放射線汚染だけでなく風評被害に苦しめられる農業者・漁業者とも比べ物にならない。
「我々は被害者だ」というのは一応、構わないとしておくが(ただし同時に加害者でもあることを忘れてはならない)、もっとひどい現実の被害を受けている人がいることを無視するのはさすがにおかしい。
そしてそうした被災地から見れば、「デモなんてやってるんだったらボランティアに来て除染を手伝ったらどうだ?原発事故は現実であって、『原発止めろ』と言ったら解決するもんじゃないんだぞ」といった怒りの声が出て来ることは当然予想されるべきだ(そして現にあった)。
ところがデモに参加するならそれくらいの想像力と覚悟を持ってるもんだろうと思ったら、そうでもないらしい。
僕自身は先述のベルリンでのデモで「イスラエルぶっ殺せ」という集団もいたのがいわばまあ、トラウマでして、デモに参加する気はない。また故・土本典昭の教訓「映画を撮っている時は運動はするな。運動する時は運動だけして映画は撮るな」をもっともだと思うし肝に銘じているので、今『無人地帯』という映画を作っている以上、デモに参加することはない。
まあそれに青少年の頃から20代にはそれなりに参加したことも多いし、今は他の表現の手段を用いるべき立場にいることもあるし、もともと、こと日本における集団主義・集団行動は性に合わない。はっきり言ってデモに参加するのは退屈だし苦痛なのだ。
だからといってデモに参加すること自体は批判するべきだとも思わないし、ちゃんとやってれば評価すべきだ。
ただしあくまで、ちゃんとやっていればの話だ。
僕は皮相なマスコミではないから、「大江健三郎氏が来ました、何万人参加しました」だけの皮相な理由でデモの成功を評価することもない。
そしてはっきり言っておくが、まず「参加もしてない奴が文句を言うな」と参加者が言い出すデモはまったくダメなデモであることは断言できる。
そもそもデモの目的が分かってないだろうに、そんなことほざくのは。
なんのためのデモだ?
社会にアピールするためだろう?
それは特に「参加していないその他の人たち」に対して自己の主張をアピールすることだろうに。
批判を受けても自身の主張の正当性を堂々と発言するなら立派だ。どんどんやって欲しい。
だが「参加もしてない奴が上から目線で文句を言うな」って、あんたらの内輪の集団マスターベーションだけが目的のデモならぬ「デモごっこ」なら、ただの社会の迷惑だろうが。自分らの「デモに参加した俺ってえらい」の上から目線こそまず反省しろ。
だが、それだけならまだ可愛いもんだったりする。
それに今時の日本では40歳過ぎてもデモ初参加とか、つまりそれまでデモだとかの社会運動が未成熟だったわけで、だから参加者もまだ未熟なのは仕方がないだろう(つったって、あんたらじゃあこれまで在日コリアンがデモをやったり、釜ヶ崎のおっちゃんが暴動やったり、元従軍慰安婦のおばあさんたちのデモとか、どう考えてたわけ?どうせゲイ・プライドなんて軽蔑と差別のまなざしで見てただけだろうにどういうダブスタだよ、とかちょっと言いたくもなるけど)。
しかし今やってるのは、福島第一原発事故に誘発されての「反原発」デモなんでしょ?そうでなければ、福一が事故るまでの40年間なにも言わなかったってのは、おかしいよね?
ならばその事故の直接被害者やその周辺から、「そんな暇なことやってるなら除染手伝いに来い、こっちは必死なんだ」と文句を言われることくらい、甘受するのが当然だろう。
少なくとも誠意を持って答えるのが筋というものだ。
だいたい、そんな当然の想定の範囲内の苦情にも対処出来ないのでは、東京電力の「想定外でした」を笑えないはずだし、しっかりとした主張の誠実なデモをやっているのなら、自ずからそんな苦情も出て来ないだろう。
少なくとも、デモが表現行為である以上、それくらいのことは万全の努力をやっておくべきことだ。
それは我々の映画だって同じことだ。別に原発事故についての映画を作る義務なんて誰も主張していない。作ったからエラいなんてこともない。
ただし原発事故が起こって、それが東京の電力のための原発で、そして多くの人たちが避難を余儀なくされているときに、その人たちを無視して平然としてられるなら、映画云々以前に人としておかしい。
被災地に映画を撮影に行く以上、「迷惑だ」と言われることも「そんな暇あったら瓦礫の片付け手伝え」「あんたの映画に出ることで我々になんの得があるんだ」と叩かれることも覚悟して行って当然だし、そう言われないような行動は自ずから考えなければ、撮れるはずがない。
現に基本、「ただの迷惑」なのだから。
ただし我々が福島浜通りや飯舘村で撮影した時に、そんな体験はまったくなかったことは、ここに報告しておく。
二度だけ「映画に出たってなんのとくにもならない。損するだけだから」と撮影は断られたことはあるが、それでも撮影はしないでも話はずいぶんと聞かせてもらえた。
…と書くと「自慢だ」とか言い出す卑屈な人がいるに決まってるから先手を打っておけば、我々はなにも特殊なことはやってない。むしろ浜通りや飯舘村で我々が出会えた人たちが、それだけ人格の高貴な方達だっただけのことだ。ところが一部の、「反原発デモに参加して来ました」と言いたがる人たちは、ひたすら自己陶酔だけなのか、こういう当然の人間としての他者への尊重がまるで欠如しているらしい。
だから福島県民からさすがにウンザリの批判が出たら…なんと単純に怒り出すのである!
これはびっくりしたわ。あんたらどこまで愚かで傲慢なんだ?
だいたい「原子力はこのままでいい」なんて思ってる人なんて、今の日本でまずいない。「そこから先」がないから相手にされないんだ、ってことにそろそろ気づくべきだろうに。
もう事故から半年も経っているのに、その程度の学習もないのか?そんな程度だったら、誰にも真面目に相手にされなくたって当然だ。
しかも40過ぎて人生初デモに参加したのが勲章で「俺は引きこもりじゃないんだオタクは卒業したんだ社会参加したんだ」ってのがプライドになるとしたら、相当に虚しい…っていう自覚すらないらしい。
あるいは47歳で初めてデモに参加して興奮しちゃってることをからかわれたら「上から目線だ、許せん」とか叫んでるオッサンってのは、あまりにも人間が小さいわけだ。
いやこれだけじゃ言葉が足りません。そんな奴らってまさに無思慮なマジョリティの小市民の偽善そのもの。その歳までマジョリティであるが故にデモとか社会への怒りとか感じずに済んだ幸運を感謝しろ、とくらいは言いたくなる。
原発それ自体はポテンシャルに危険で倫理的問題もあるものだけど、その存在が大きなこの国の構造の中でであり、もはや我々の生活が否応なく原発と持ちつ持たれつの関係にあることをどう意味論的に乗り越えて行くのかの意識も持てないなら、半年もなに寝ぼけてたんだってことにしかなるまい。
まして福島の原発は、東京の電気を作り続けていたのだ。柏崎の原発が中越地震で止まったのと前後して、福一の原子炉の耐用年数が延長されると報道されたときに、あなた方は新聞を読んでいなかったのか?柏崎停止で電力危機が懸念された結果、福一では耐用年数を過ぎた原子炉が稼働し続け、そしてそれが今事故になっているのだ。
「東京のため」だよ。
東京の電力危機が懸念されていなければ、福一の1号か3号までの原子炉は、もうとっくに止まっていたんだよ。そうしたらこの事故だって起こっていない。この事故が起ったのは、東京のため、我々のためでありあなた方のためだったんだよ。
そんな今、東京で「反原発」デモをやるときに、原発事故でいちばん直接被害を被っている人間たちのことを無視できるなんて、東京の人間ってどこまで身勝手になれるのか?というかどれだけ世界観が矮小なんだ?
だいたい、40過ぎるまであんたらの電力が福島に原発を押し付けることで供給されて来たことを忘れるな。 我々は、あなた方は、立派に加害者でもあるのだ。
それが後ろめたいからって言い訳のように「今日のデモには福島の人たち専用のコーナーがあって」って、それって福島からのデモ参加者を自分たちのエクスキューズの人寄せパンダに使ってるだけじゃん。もっと酷い搾取だよ、あんたらのその人たちの存在の利用の仕方は。
デモというのがその程度の上っ面のパフォーマンスを必要とするのは認めよう。だからって無批判を強要するのはただの幼稚な独善だろうに。
しかも「デモには福島の人もいた」をいいわけに、福島から上がって来る不満や批判を無視できるのだとしたら、それが自分たちにとって都合のいい(=自分たちに服従し、脅威にならない)「福島県民」しか認めない、ってことに他ならないではないか。
それってまさに植民地主義者が「植民地民だって感謝してる」と言うのと同じ論法であり、明白に差別であり、植民地主義だ。
なおテレビの取材で福島に行って避難させられた人とかを撮影したなかで、僕がこれだけは、と評価しているのは姜尚中さんだ。
郡山のビッグパレットで避難してるおばさんたちに取材して「東京の人たちにだけは言われたくない」とはっきり言える自由を担保したあの人は、凄い。
本当はそれが言いたくても、浜通りの人たちって気さくなようで実はもの凄く礼儀正しいから、東京から来た取材者に面と向かって「東京の人にだけは言われたくない」とはなかなか言えないものだ。
まして東京にデモに来る人はそれを封じ込めてでないと、来られないんですよ。
だって東京の残酷冷酷って、マジで怖い。 まさにあなた方のその無神経さは、どんなホラー映画よりも恐ろしい。ナチス並みに恐ろしい。だいたい、どうもデモに行った自分はエラいんだと興奮してる独善屋さんたちには、人間関係の基本すら想像がつかないらしい。
反原発デモやるからには福島県民の気持ちを踏みにじるべきではない、って決して全面賛成しろという意味でも、「代弁しろ」という意味でもない。ただ君らのやり方が、ハタめにあまりに身勝手で誠意に欠けてるんだよ!とはっきり言っておこう。
【本日の怒りの結論】反原発デモに行った人が福島県出身者にケチつけられたとき、顔を真っ赤にして「会場には福島県民の場所が用意され」だから福島県も代弁されてる、文句を言うなと言い出した瞬間、そのデモ参加者は田舎差別の植民地主義者であることを自ら暴露したことくらいは自覚すべきだ。
だいたい、他人に向かって堂々と正義を主張する気概もないのなら、批判されても堂々と自分の主張を述べるのでなく、ただ批判した相手を罵倒し中傷することしか出来ないようなデモならば、デモなんてするな。まったく情けないったらありゃしない。
ここがそもそも、根本的に間違っているのだ。
その程度の正義ごっこだから肝心の当事者を置き去りにして、ただ自分たちの内輪で集団マスターベーション。なぜその正義を信じてデモに参加するなら、その正義を堂々と主張しない?そんな根性で世の中変えられると思うのか?悩みつつデモするならそれを正直に述べよ。
自分たちの信念を正々堂々と口に出来るわけでもなく、ただ集団でつるんだ安心感が持てる中でしか声を上げられないのであれば、それはデモを装ったただの匿名性のファシスト集団に成り下がるだけ。関東大震災後の「朝鮮人が井戸に毒を」とどこが違うんだ?ただ当時よりは報道機関がしっかりしてるだけで、だから無実の朝鮮人でなく、現実の事故が捌け口になっただけだろう。
なおちなみに、「反原発デモ」などで極めてありがち(今回もあったらしい)な無自覚な差別/植民地主義は、その田舎のなかでの中央集権の側の、福島なら福島市、郡山市などから東京の組織がオルグして来た参加者がいるだけであったりするのに「福島県も代弁されてる」って思えたりするのだとしたら、もっと悲惨だ。
…いやだから、それはいわば…地方都市って、その田舎における東京の出張所みたいなものだよ。
そうやって自分たちと話が合う、東京と価値観を共有できる「福島」だけは受け入れるって…どこまで無自覚で無知で差別意識の固まりになれるのだろう?
まさに「踏み絵の強要」そのものだ。なんの権利があって、あんたらはそんなことが出来るのだ?
まして曲がりなりにも映画なる複雑でデリケートな(かつ一歩間違えれば強烈なプロパガンダ装置)表現体系に関わる者が、そりゃいくら「放射能怖い」で興奮して「放射脳」状態(笑)だからって、そこまで安易かつ無自覚な独善的ファシズム的心理状態にハマっちゃってていいの?
そしてそういう自分たちの興奮状態をちょっと批判され揶揄されたら「上から目線」だって(失笑)。いい歳してどこまで幼稚なコンプレックスに囚われてるんだ?
いやコンプレックスは誰にだってある。だからってそれが無自覚かつ無批判に放置されていいのかといえば、そ ん な わ け な い じ ゃ ん、あえて名指しは避けるが某映画監督!
まったく、『東京公園』とか作っている映画は立派なのに、本人の言動には心の底から呆れるばかり。だいたい震災後の東京で「生きるのが大変」って…どこが?「一人の国民として映画作家として何が出来るのか」だって?
自意識過剰で自惚れ過ぎ。 なのに「上から目線が気に入らない?」ああ情けない。
そんなこと誰も、あなたにも、映画にも期待していない。そんなもん芸術の役割でもない。「国民として」なんて言うなら自衛隊にでも入って災害救援にでも行きゃいいだろうに。
ただいい作品が作れれば、「国民」に限らず見た世界中の人になにかが伝わり、それが原発とはなんなのかを真剣に考えたり、故郷を失わされた人たちのことを慮るための道具にもなるかもしれない、というだけだ。無論やりたくなけりゃやらなきゃいい。
そんなことで誰もあなたを責めたりしない。そんな卑小な被害妄想なんていい加減にしろ。
まして自分たちが東京にいて、田舎を差別することで自分たちの生活に必要な原子力発電所であるとかを地方に押し付け続けていて、その押し付けられた地方を「原発マネーで汚れた推進派」とか言い募ったり、ただ「推進派」や「東電」を巨悪と決めつければそれで自己満足って…それはファシズムだよ。
そういった「傲慢なる東京一人勝ち」の構造に東京人は無自覚だとしても、「自覚してないから罪はない」なんてことになるわけがない。
当然ながら例えば福島浜通りにいる人たちの多くは、その傲慢な構造にどこかでは気づいているのだ。
だからあなた方の無神経な行動は身勝手の我欲と受け取られても仕方がない。
まあ震災と原発事故を経て、日本人ってここまで狭量で思いやりのない身勝手な民族になっちゃったの、ってのが僕にはいちばんショックだったわけです。
考えてみれば浜通りや飯舘村で映画を撮ったのは、そのショックに対するセラピー効果でもあったのかも知れません。そこには普通に善良な日本人がまだいたのだ。