陛下に手紙、波紋 政治利用、絶えぬ議論(朝日新聞)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201311010652.html?_requesturl=articles/TKY201311010652.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201311010652
非常識で教養を疑う発言の絶えない文部科学大臣の下村氏などは、「議員辞職ものだ」とか叫んでいるらしい。それも「田中正造が(明治天皇に)直訴して大問題になったことに匹敵」と“批判”した気になっているらしいが(産經新聞)、田中正造と言えば明治の偉人、これで貶してるつもりなんだろうか?だいたい現憲法でなく、明治憲法下での話だろうに…
いやまったく、相変わらず安倍政権と来たら…
まず当たり前の常識を確認しておこう。
天皇の権威や地位を名目に国権が行使されることは、日本国憲法下の立憲君主制において厳しく禁じられると解釈される「天皇の政治利用」の最たるものだ。
しかも厳重注意程度ならともかく、辞任勧告とかの物騒な話になれば、その目的が(政治家と呼ぶにはあまりに未熟とはいえ)曲がりなりにも一国会議員の失脚を目論むものとなる。つまりは最も悪質で危険な部類の、天皇の地位と権威の政治利用に他ならない。
天皇の政治的な地位が極端に制約されるに至った、戦前戦中の軍国主義への反省という歴史的な理由からしても、天皇をいいわけにして太郎議員の「処分」云々を言っている側こそ、許されるものではない。
いやまったく、国家の矜持も歴史も忘れ切った軽薄過ぎる悪ふざけもほどほどにして欲しい。
山本議員は「子どもたちと原発労働者を助けるためにお力をお貸し頂きたい」つもりで、政治利用の意思はなかったと言っているそうだ。
いやだから天皇の「お力」って、政治利用の意思を表明している以外のなにものでもないってば、と言う点では太郎議員は徹底的に馬鹿にされるべきである。ただしそれは論理的に無茶苦茶だから馬鹿にされるだけであって、およそ国権の行使で処分されるような性質のものではない。
「この議員は馬鹿過ぎてお話にならん」となるにしたって、その判断をするのはあくまで有権者である。天皇の名で国権を行使して失脚させる、なんてことは、それこそ民主主義と法治主義の基本原則に反し、絶対に許されてはならない。
それに太郎議員が無邪気にも「お力をお貸し頂きたい」というつもりだったと自白してしまっているのだから、確かに「天皇の政治利用」の意思はあったわけだが、その利用される権限が天皇にないのだから、実際に「政治利用」なんて成立するわけもない。
なのに太郎議員を「処分」なんて、そもそも話が無茶苦茶だ。まったくもって、これでは自民党参院は「法治国家」という意味すら分かってないわけで、こっちの方こそもう議員総辞職ものの横暴ではないか。
そんな処分を言い出してる側こそ、自分たちが天皇の地位と権威を政治利用しようとしている(それも悪用している)ことを深く反省してもらいたい。
ちなみに日本国憲法は、「天皇の政治利用を禁ずる」なんて直接にはどこにも書いていない。明記されているのは、天皇が国民統合の「象徴」であって、政治的実権を持っていない(また民主主義の原則に従って、持つべきでもない)ことだ。
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
この憲法に基づいて禁じられていると通常解釈される「政治利用」とは、まずなによりも政府の権力行使の正当化に天皇の権威と地位を利用することである。
皇室外交にだって立派に政治的効果はあるが、それが禁じられているわけではないし、国の統合の象徴であり元は自然神崇拝の信仰体系の最高祭祀の「現人神」であった道徳権威と「象徴君主の徳」から言って、その天皇自身の考えが世論に一定の影響力を持つことは、そもそも人の心の問題であるのだから憲法などの法体系で強制的に禁じられることでもない。
憲法で、天皇は具体的な政治的決定権を持てないことになっているのだから、こんな話で「お力をお貸し頂きたい」と言われたって今上のおかみも困ってしまう。天皇が直接に「お貸し」出来る「お力」なんてないのにそんなお願いをするのも明仁さん個人に対しては確かに失礼ではあろうし、日本国憲法下における立憲君主制民主主義のシステムをなにも理解していないという意味では、確かに太郎議員に国会議員の資格はない、とは言えるのだろう。
だがこれは山本議員が「太郎クン、ちゃんとお勉強しなきゃダメだよコラ」とポカっと頭を小突かれ叱られて深い反省を促される程度の話に過ぎず、そして憲政についての無知と勉強不足を言うのだったら、憲法があらゆる検閲を禁じていることを無視して「ヘイトスピーチ規正法を」なんて言っている有田芳生議員なんてもっとこっぴどく叱られるべきだし、立憲政治の意味すら分かっていないで「天賦人権論を否定する新憲法」とか言っている片山さつき議員なんて遥かに厳重に注意を受けなきゃおかしいし、内閣法制局のトップを更迭して集団的自衛権を容認する憲法解釈を、と思い込んでいる安倍晋三首相に至ってはなんなんだ、オリンピック招致を利用して自分の失政を隠し人気取りに走るのに皇族まで担ぎ出したあんたは厳重注意じゃ済まないよ、という話にしかならない。
オリンピック招致に皇族がひと肌脱ぐ程度なら、人道活動や文化、スポーツの支援で皇族が活動することや、皇室外交による善隣友好外交推進の枠内に納まることなんだから「政治利用」を云々する話でも本来ならない。
だが政権の人気取りと世論操作のために是が非でもオリンピックだ皇族だ、それもその招致のやり方のあこぎさ(要はIOC内の人種差別主義者たちに金をばらまいただけ)は、あれじゃ明らかに現政権と現都政の政治目的であり、高円宮妃のスピーチの文言をどうこうすることで言い逃れ出来るような話ではない。
…っていうか、皇室の政治利用以上に由々しきことは、現政権がオリンピック招致を露骨に政治利用したこと、それも外交を有利にするためならともなく、真逆に日本の国際的信頼を失墜させるような話なんだから困ったもんだ。
なお付記するなら太郎議員、やってることがまったく無駄である。
今さらそんなこと、明仁さんの「お力」を請うまでもなく、明仁さん自身がその地位で許されている範囲で、さんざんやっているじゃないか。
たとえば昨年の天皇誕生日会見でも、川内村で除染作業を見学した体験を例に、原発事故の処理のあり方に厳しい疑問を投げかけたのも、今上のおかみの明仁さんである。
被災地の復興には放射能汚染の除去や,人体に有害な影響を与える石綿が含まれるがれきの撤去など,危険と向き合った作業が行われなければならず,作業に携わる人々の健康が心配です。放射能汚染の除去の様子は福島県の川内村で見ましたが,屋根に上がって汚染を水流で除去するなど,十分に気を付けないと事故が起こり得る作業のように思いました。安全に作業が進められるよう切に願っています(平成24年天皇誕生日会見・全文はこちら)
震災直後から避難した福一周辺の住人への訪問を欠かさず、なにしろ今の天皇夫妻や皇太子夫妻のこの種の慰問といえばまず丁寧に話を聞くことで、被災者から「さすがに天皇は人として格が違う」と(政治家たちの独善っぷりのていたらくと比して)感嘆の声もずいぶん聴こえる。
そうやって天皇が会って話を聞いて来た被災者や家族の多くは原発で働く人でもあったりするし、携帯電話魔で、新聞だけでなくネットなども丹念に見て勉強しているとの噂も高い上に、自ら生物学者でもある明仁さんは、太郎議員なんぞより遥かに福一事故の実情についても、原発労働者の置かれた現状についても、被曝による被害の危険性についても、詳しいだろう。
その意味では、確かに山本議員、明仁さんの知性と良識を見くびっているのも、相当に失礼だとは思いますよ。
だがだからこそ山本議員が天皇に手紙を渡したことで大騒ぎしているわけであり、「処分」とか言っている連中の方がこの場合は遥かに悪質な上に、過剰反応がヒステリック過ぎて、無様なまでに無自覚っぷりで、下心がミエミエだ。
すでに述べた通り、天皇に直接の政治権限はないのだから、山本議員が意図した方向での政治利用はそもそも成立しない、あり得ないことなのだ。
それでも彼らが「天皇の政治利用だ、処分しろ」と言っているのは、今の天皇夫妻がそれなりに人気があるからこそ世論に対して持っている影響力をこそ危惧しているからに他なるまい。
自民党右派などから見れば、天皇こそが「山本太郎側」になりかねない。だから先手を打ってそれを封じ込めるために、山本太郎を叩いているわけでもある。
つまり、ほっといたって今の天皇自身は、福一事故が起った今となってはおよそ既存の原発政策に賛成などしているはずもないし、天皇と言う地位に伴う責任と義務からしても、福一の地元に多大な犠牲を国家が強いていることを許せる立場にもない。
はとこにあたる元竹田宮家のJOC会長が「東京は250Km離れているから安全」と、福島県民と福島県を見捨てることを平気で繰り返してしまったのは、元とはいえ皇族としてまったくあるまじき言動だ。天皇というのは、もっとも困っていたり苦しんでいたりする国民/民草にこそ、まずもっとも心を砕かなければならない存在なのだ。
今上天皇は震災と原発事故発生後、既に立場上許されるギリギリまで踏み込んで懸念を表明し続けているし、今後ももっとやるだろう。だからこそ山本議員の行動が「天皇の政治利用」になると思い込んで大騒ぎして、自分たちの政治的な都合に天皇を利用しようとしているのが彼らなのだ。
いやだから天皇には政治的実権がないんだから、山本議員が手紙でお願いしたようなレベルでの政治利用なんて屁理屈は、そもそも成立しないってば。それを「処分」などといったいなにを騒いでいるのやら。
太郎もおかしいが自民党も同じくらいおかしい。
それにしても今の日本のこの種の議論はまったく倒錯していて、およそ正気とは思えない話があまりに多い。
この園遊会の前に、天皇夫妻は熊本県訪問の一貫として水俣を訪れ、差別を恐れてかつては水俣病を隠すしかなかった患者さんに「真実に生きることができる社会をみんなで作って行きたい」と、踏み込んだ発言を避けるべきとされる立場では「異例」とも言われる発言をしている(いやまあ、実はこの天皇の発言として、ちっとも異例ではないのだが)。
本当にお気持ち、察するに余りあると思っています。やはり真実に生きるということができる社会をみんなで作っていきたいものだと改めて思いました。
本当に様々な思いを込めて、この年まで過ごしていらしたということに深く思いを致しています。
今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。みながその方に向かって進んでいけることを願っています(朝日新聞より http://digital.asahi.com/articles/TKY201311010652.html?_requesturl=articles/TKY201311010652.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201311010652)
水俣病という、これまた日本国家と日本という国全体の近代化が引き起こした、今もなお終らぬ悲劇に対する、天皇自身の口から出た重い意味を持つ発言よりも、たかが山本太郎が手紙を渡したからどうのこうのが話題になっていること自体、あまりにも社会全体の良識がぶっ飛んだ話だ。
天皇と園遊会といえば、もう8年だか9年前だが、東京都の教育委員だった将棋の米長邦夫氏が胸を張って「全国の学校で日の丸と君が代を」と言ってしまった一件があった。「天皇の政治利用」と言うならまさにこれこそ政治利用だ。学校現場への政治的主張の強要を、天皇の名と権威を用いてやろうとした話に他ならないのだから。
米長氏の(あるいは彼も含めた、なんとしても子供に日の丸・君が代を崇拝させたい勢力の)露骨な天皇の政治利用を阻止できたのは、今上天皇がすかさず、あくまでにこやかに、しかしさすが明仁さんならではの機転を利かせた返事があったおかげ、ただそれだけである。
「強制はいけませんね」
この一言がなければ、天皇の地位と権威は、日の丸と君が代の崇拝を学校現場や教師に強制することに、思いっきり政治利用されていた。
あの時に誰も米長氏らがやろうとしたことが天皇の政治利用に他ならないことを誰も批判すらしなかったのに、今回の太郎議員のお手紙騒動が「政治利用」で大騒ぎになるのか(繰り返すが、米長氏のケースとは真逆に、そんな「利用」が成立するはずがないのに)、馬鹿げた倒錯だとしか言いようがない。
あるいは韓国の李明博前大統領が、任期の末期に慰安婦問題など戦争と植民地支配の責任の問題の清算を求める発言をした際に、そこに天皇訪韓による清算への期待が含まれていたことだけをあげつらって「天皇に失礼」云々と大騒ぎしたのだって、無節操な国家主義の排他差別性丸出しの、みっともなさ過ぎる身勝手の、天皇の政治利用以外のなにものでもない。
まあ確かに、太郎議員の行動は宮内庁からすれば文句も言いたくなる話なのだが、それは政治利用云々とはまったく関係ないレベルでのことだ。
現代の要人警護のイロハからすれば、物品の手渡しはNGである。太郎議員は国会議員になって自らも警護を受ける身だろうに、そんな常識も知らんかったのか? こんなことやられては、SPも皇宮警察も面目丸つぶれだ。その意味では太郎議員は「コラ。お巡りさんの迷惑を考えなさい」と先輩議員に叱られるくらいのことは、まああり得る。
だが一方で、そんなもんは警備上の都合に過ぎないわけでもある。
それも9.11以降の「テロ対策」「特別警戒」ヒステリアの悪しき産物であり、そんなことを金科玉条に振り回して迎合する態度が無批判に済まされるのもまた、おかしな話ではある。
日本の識者や政治家は、9.11以降の警備警護ヒステリアのパラノイアの結果、アメリカ合衆国が恥ずべき盗聴国家になっていたことにも、危機感や反発を覚えないのだろうか?
それに官憲が警備の都合でなにかを強要するにも、相手は政治家と呼ぶにはまだまだあまりに未熟な、インターネットの匿名性の集団主義の興奮状態が産んだあだ花の、ミーハーなタレント議員とはいえ、曲がりなりにも国会議員であるのだし、だいたい天皇にしたって別に警護する側のために、警護されることが目的で、存在しているんじゃない。
それにしても、今上のおかみの地位にあらせられる明仁さんの対応は、今回もたいしたもんであった。
ご本人がそのなかでずっと生活して来た、慣れ切っていておかしくない「要人警護の常道」には反する形で手紙を渡されても、うろたえることも取り乱すこともなく、警備要員に介入する余地を与えない、平常心の、堂々とした態度で、ごく普通に礼儀作法を守って手紙を受け取っておられた。
もう10年くらい前だが一度偶然立ち話をした…のではなく立ち話が出来る状況を明仁さんがすかさず見抜き、利用されたので、話し込んだことがあるのだけれど、その時のまったく偉ぶらない対等な態度物腰の適確さといい、言っていたことの率直さといい、この天皇はただものではない。
なんせ我々がドキュメンタリー映画を作っていて、必ずしも世間で喜ばれる内容ではない、むしろ批判的なこともやるのだから興行だとかの面では大変ではある、と言ったら、天皇はすかさず「だからこそ、そういう真実を伝えるために、あなた方には頑張って頂かなければならないのではありませんか」である。
場所がたまたま皇居と東京駅を結ぶ行幸通りだったので、天皇は続けてそれが天皇のパレード道路であり、東京駅が天皇の駅として設計されていること、戦前の天皇制国家主義がいかに危険なものだったかを、さらっとお話になったのである。中国と韓国に行きたい、そこでちゃんと戦争責任を謝罪するのが自分の役目だ、とも言っていた。
隣に居た美智子さんはちょっとハラハラしてたようです。いや陛下にしてみりゃ確信犯でしょうが。
いやはや、天皇が立派過ぎて国民が選ぶ政治家のダメさ加減を穴埋めするようなていたらくでは、現代の日本という国はまことに困ったものだ。立派な人柄の天皇を擁する天皇制が国民を甘やかし、無責任さのなかに放任する結果になってしまっているようでは、かえって害悪じゃないか、という話にもなりかねない。
今回の山本太郎議員をめぐる騒動は双方ともに何重にも倒錯した、無茶苦茶な話なのだが、なによりも腹立たしいのは、こんな馬鹿げた話がメディアやらネットやらを埋め尽くし、肝腎の福一事故の現状はどうなのか、事故処理の目処はどうなっているのか、なによりも被災者の今後の人生がどうなるのかを、世論がまったくなおざりにしていることだ。
「天皇の政治利用」よりも遥かに大きな問題は、「原発事故とその被災者の無節操な政治利用」ではないか?
その事故の直接被害者である被災者・双葉郡や飯舘村、南相馬市の皆さん、福島県民は、東京など都会中心の「政治」の、呆れるほどの軽薄さで政治利用されつつ、実際にそこで生きて来た、今も生きている人々の生活は忘れられ、見捨てられても来ている。
太郎議員が批判されるべきなのだって、むしろこっちの政治利用ではないか。
反原発を主張して支持を集め議員になったこと自体はちっとも構わない。
「想定外」で(言い換えれば、現実にあっけなく凌駕されるほどずさんな想定しか出来ない文明を傲慢に信じ込み、科学技術に対する基本的な態度すらないがしろにして来た結果)こんな重大原発事故が起きて社会が大混乱になり、人口の0.1パーセント強とは言ってもこれだけの人々の人生と生活が振り回され宙づりにされ続ける現状を見て、そこに噴出した矛盾を真面目に考えれば、原発政策をこのまま続けることに政治的な疑問が出て来るのは、当たり前のことだ。
それも福一事故は決して「起り得る最悪の事態」ではない。報道メディアもネットも一蓮托生の興奮状態で集団パニックを演じて、わざと現実から目を背けているのかも知れないが、全国で原子炉54基どころか、6基の福一だけでの事故でも、もっとひどい状況になり得たことを忘れられては困る。
6基の原子炉がある原発で4基が津波で破損損傷(地震の影響だってなかったわけもなく、ただ確認出来ないだけだ)、それでも周辺地域や海の環境への影響はほぼ1基ぶん、2号炉の原子炉内の核燃料がもたらした被害だけで実質ほぼ済んでいるのである。
大気圏内への漏洩は、揮発性の、軽い放射性物質にほぼ限られ、より線量の多い重核種は勘案する必要がないレベルで済んでいるし、それも3月15日の2号炉の水素爆発の結果拡散したものがほとんどだ。最初から海に漏れているのは分かっているのに今年の夏になって突然騒ぎになった高濃度汚染水も、2号炉格納容器下部の(状況が未だに把握出来ない)重大な破損が原因だ。
しかも今回の事故の場合、4号炉は偶然、定期検査期間中で空だった。原子炉内の核燃料に加えて、その斜め上にある使用済み燃料保存プールも合わせれば、今回の「想定外」事故は、本来なら最低限でもこの8倍か、それ以上の放射能被害が、想定されて然るべきなのだ。
日本はまだ運が良かった、いやもの凄くラッキーだったのである。
これでも原発を続けて行くべきかどうか、止めて行くとしたらどうやって止めて行くのか、真剣に議論されるべきなのに、肝腎のその問題はこの2年半以上、無視されたままだし、反原発運動ですらこうした本質的な議論からの逃避に共謀・加担している。
たとえば電力需給データの精査と公表すら経産省や官邸に要求もせずに、何ヶ月も前から読めている展開なのに、再稼動が秒読み段階になった時点で突然国会前や官邸前で「さいかどーはんたーい」と踊り出しただけの「反原発デモ」なんて、最初から負け戦を想定していたとしか思えない、ただの世論ガス抜き目的のお祭り騒ぎでしかなかった。
あの無惨な尻すぼみの終り方を見れば、最初から世論ガス抜きが目的で、背後で実は首相官邸辺りがけしかけていたとしても、驚きませんよ。
太郎議員が問題なのは、反原発の主張をしていることではない。
それだったら仮に原発推進の立場であっても、有効な反対意見としてきちんと認識し議論に応じなければ、民主主義は担保されない。
太郎議員が問題なのはあくまで、その反原発主張のなかで言っている個々のことが無茶苦茶過ぎて来たからだ。
単に筋肉おバカが売りだったタレントがトウがたって使い道がなくなっていたのを「反原発だから芸能界から干されて仕事が」と言い出した売名だけでも誉められたもんじゃないし、被曝であるとかの問題について言ってることも、その情報源も、デタラメ過ぎてお話にならず、これではかえって迷惑だ。原発に反対することよりも、福島県民や原発事故被災者を苦しめ、その利害に反し生活を追いつめること、神経を逆なですること、風評を広め、いわゆる被曝差別を助長し、原発事故を下衆な政治的お祭り騒ぎのために搾取することにしか、なって来ていない。
だがたとえば太郎議員に対し、被災地や原発立地地元が実際に悪評をたてられ侮辱されていることを批判するのなら当然の許容範囲ではあっても、原発の地元は原発推進に賛成なのだと決めつけて、太郎議員が原発に反対していること自体を叩くのなら、これもまた悪質な政治利用に過ぎない。
それも政治的な議論で勝ち目がないから「弱者・被害者」を利用した薄っぺらな感情論に走るだけの、民主政治を裏切るやり方だ。
たとえば自由民主党でさえ、福島県連は原発に反対、脱原発を主張している。こんな事態になれば「原発はもうたくさんだべ」と多くの人が思っているし、元々原発が立地して来たのだって「賛成」だからではなく、断れなかったからなのも、福島県に限った話ではない。
その意味でも、天皇が水俣で患者さんたちに「真実に生きることができる社会をみんなで作っていきたい(=今の日本はそんな社会になっていない)」と言ったことの意味は大きい。
水俣もまた、中央集権の経済発展と引き換えに同じような苦しみを味わされて来た「田舎」であり「辺境」なのだし。
土本典昭『不知火海』予告編
我々の国は経営能力と労働力の質の高さと技術力で、戦後の復興どころか、世界で屈指の豊かな大国になった。
だがそれと引き換えに、国内に凄まじい不公平と差別を作り出してしまったことは反省し、是正されなければならない。
水俣病事件はその最初の重大な警鐘であり、なのになんの本質的な反省も改革もないまま半世紀を経て、今は福島浜通りという「田舎」であり「辺境」が、原発事故に苦しめられている。
原発事故それ自体の被害だけでなく、我々の社会の精神的な脆弱さが引き起こした差別にも、福島は苦しめられている。いやそもそも、福島に原発が押し付けられたのだって、戊辰戦争以降のあまりに差別的な扱いの結果でもあるのだ。
天皇というのは文化的・歴史的に、そうした人間社会の権力権威体系がもたらす差別や不公平を、少なくとも精神的なレベルで是正する機能を持って来た、世界に例が稀な特殊な君主制である。
それすら忘れて「天皇」を理由に国会議員を処分・失脚を狙うなんて、あまりにあさはかではしたない。
それこそ原発労働者のために心を砕き祈ることこそが、山本太郎に言われるまでもなく、天皇の重要な文化的役割なのだ。
参考:内田樹氏のブログより 2011年4月7日「荒ぶる神の鎮め方」同8日「原発供養」
今回の「政治利用」騒動でも、太郎議員を批判し攻撃する側もまた、「原発事故を下衆な政治的お祭り騒ぎのために搾取する」点において、良識のタガのはずれた被災者の政治利用で同罪である。
いや震災直後から被災者を「政治利用」して来たのはなにも太郎議員だけではないし、復興税の用途のデタラメさ加減に至っては、「被災者の政治利用」の政府ぐるみの詐欺であろう。
まったくもっていい加減にしろ、と言いたい。
福一事故は現在進行形の重大原発災害であり、現に困難に直面し続けている人たちがいるのだ。
東電だろうが政府だろうが山本太郎だろうが、気に入らない相手を叩いて正義ぶって自己満足している場合じゃない。
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