12/13/2013

特定秘密保護法のなにが問題なのか


石井731部隊の実態を日本人に知らしめた『悪魔の飽食』などで知られる作家の森村誠一さんが、特定秘密保護法の成立を受けて「無力感に陥ってはならぬ」と、それもわざわざ朝日新聞の読者投書欄に、投稿された。


森村さんももう80歳なのか、と驚く(氏の推理小説のいくつかは今でも二時間ドラマシリーズの人気原作になっていたりするし)と同時に、特定秘密保護法の原形は「太平洋戦争中、国民を欺き、国を誤らせた大本営発表」とは、さすが戦争の時代をご存知なだけに本質の突き方が適確だ。

まったくその通りの慧眼だと思う。

一部にはこの法を「治安維持法の再来」と恐怖するかのような言説がまかり通っているが、本ブログでも再三繰り返した通り、特定秘密保護法はあくまで原則、公務員を懲役刑で縛る法だ。僕たちの言動を直接制約する心配は、たとえば「安倍晋三首相は実は頭がもの凄く悪い」と言ったら国家機密漏洩になるぞ、というような冗談の与太話になる程度だし、教唆・強要は直に特定の公務員個人から機密情報を聞き出しでもしない限り、法的に成立しない(←しつこい。前項でもさんざん書いたことだろうに)。

中には良心的な官僚や公務員だっているのだろうし、「さすがにこれは隠しておくわけにはいかない」と思って内部告発する人が出て来たら、その善意が懲役刑になる、むしろその人たちのことを心配すべきだとも思うのだが?

自民党の石破幹事長がブログで「デモもテロも同じだ」とトンデモ発言をしたからといって、自分たちがこの新法の取り締まり対象になると恐怖するんだか喜ぶんだかしている人もいる。だが石破氏の書いたことがただのナンセンスなだけであり、同法とまったく関係がないことでデタラメを言って、国会通過を強行したことが世論にジワジワと効いて来るよう、国民を黙らせるように煽る演出でしかない。

特定秘密維持法は、およそ治安維持法のように、直接に言論弾圧に使えるものではない。

むしろこの法の直接最大の問題は、国家が嘘をついたり都合の悪いことを隠すお墨付きを法的に与えてしまったことだ。まさに森村さんの指摘する通り、「大本営発表」というフィクションの羅列と同じ発想なのだ。

戦時中の社会のことも思い返して欲しい。「大本営発表」が嘘であること、日本が戦争に負けつつあることを、ほとんどの日本人はどこかで気づいていたはずだ。だが誰もそれを口に出来なかった。皆が嘘だと分かっていることを信じるふりを装うことにおいて、共犯者になってしまっていた。

なぜかメディアは国会論戦の「チェック機能」のことばかりを書き立てたが、それ以前に問題なのは同法にはなにを機密とするのかのルールも哲学も原則もほとんど定まっていないこと、なにしろ国家の違法行為とその証拠を機密とすることすら禁じていないのだ。

「同様の法律はどこの国でもある」的な、毎度おなじみ “普通の国” 論を援用した賛成論も大いに誤っている。たとえばアメリカ合衆国は国家機密の管理がもっとも厳格な国家のひとつだが、だからこそあらゆる機密は50年の年限を過ぎれば公開されることが義務づけられている。違法行為とその証拠をフリーハンドに機密に出来る特定秘密保護法は、似て非なる代物だ。

公開されれば、それまで国家が隠して来たことは自動的にパブリック、公けによって検証され、誤りがあれば指摘・批判・糺弾され、誤りに基づくことは是正されなければおかしい。だから逆に、50年後でも暴露されれば自分も国家も信頼を失墜するようなことを機密には、本来ならなかなか出来ない。

自分が死後であっても大悪人になることを自虐的に受け入れたリチャード・ニクソンのような希有なまでに倒錯的な例外でもない限り。

ロバート・アルトマン監督『秘密の名誉』


たとえば広島と長崎の原爆被害のデータは国家機密とされたが、50年を経て機密解除になった結果、これまで分からなかった被曝被害の実態、原爆による被曝量がこれまで日本政府の原爆症認定の基準となっていたデータなどよりも遥かに大きかったことが明らかになり、未認定原爆症の問題が日本政府の誤り、結果として欺瞞によるものだったことも、今では議論の余地なくはっきりしている(…はずなのだが)。

ちなみにこの事実は専門家のみならず、NHKの特集番組などでさんざん一般にも周知されているはずが、ぜんぜん行き渡っていないことが福島第一原発事故の結果明らかになってしまったのも記憶に新しい。 
福一事故の以前からずっと「反核」で「反原発」だったと自称する人ですら全然知らないので、ちょっと驚いてしまった。

「低線量被曝」を「原爆症」の救済対象にしなかったのが問題なのではなく、原爆症の未認定患者問題で医学的な定説が覆されたことなどない。旧来の誤ったデータでは「低線量」と思われていた地域が、実は遥かに高い線量で被曝していた事実が、誤ったデータで隠されて来た結果、現実には大量に被曝していた人たちが原爆症と認められ救済対象にならない過ちを産んでいたのだ。

そしてすでに米国の機密解除で事実が明らかになっているのに、日本政府の被爆者救済は未だに誤った基準に基づいたままだ。

政府により見直しがやっと表明されたのは、今年の原爆忌が最初だ。

すでにこの機密解除から10年以上経っているのに、とんでもない不誠実な怠慢である。元は意図的な嘘ではなかったとはいえ、結果として嘘、その嘘で多くの人が無視されて来たのだ。こんなことを放っておいて、法を執行する権限を持つ政府としての権威が保てるわけが、本来ならない。

そして政府が未だに基準にしている誤ったデータで、福島第一事故について「低線量被曝でも危険なんだ」と言い募るのも、この政府と同じくらいな知的な不誠実であることは、やはり言っておかなければなるまい。

なぜ我が国では、政府を批判しているはずの人の多くまで、こうも政府の言うことを疑ってちゃんと精査する意識が持てないのだろう?なぜこうも根本的な所で政府を信じ切っている、政府の限界を認識せず、その誤りや嘘をあたかも本当のように信じてしまうのだろう?

あるいは福一事故に関しては、なぜ政府だからって正確な情報を実は持っているはずだ、隠蔽しているのだと思い込めるのだろう?

現代科学で分からないことを、政府が把握出来るはずもあるまい。

たかが役人だよ?国家権威と真実のもつ権威性はまったく別物だよ?いくら「お上」だからって、カミじゃないんだよ?

まして「地震予知」だの、それを政府が隠してるなんて…。ええ、確かに現代の最先端のプレート理論では、理論上は地震は予知出来ます----少なくとも1000年単位にはなる誤差を勘案すればね。地震兵器に人工地震?たかが発電用の原子炉だって実は現代科学の最先端の手に余るのに、そんな巨大なエネルギーを今の科学で扱えるわけがないじゃん。
東日本大震災が想定外(プレート理論からすれば当然考えておくべき話を見落としていたのも、東南海地震にばかり気を取られていた我が国の、「しょせんは人間がやること」)、福一事故も想定外、いかに我々の科学がまだまだ未熟で脆弱なものか、人類がいかに科学的知見を理知的に使いこなせていないかを突きつけられたのに、それがそんなに不愉快なのだろうか? 
また良くないタイミングでiPS細胞が話題になってしまったものだ。これで日本人はまたもや、「日本の科学は万能だ」幻想に逃避するのだろうか?

いやだから、「科学」という学問対象は僕たち人間の「外」にあるものであって、人間はその自己に外在する真実の探求を目指す立場でしかないんだって。

ある科学理論が間違っているのは、それを考え出し、信じた人間が間違っているだけであって、単に我々がまだ科学の理論にちゃんと到達出来てないだけなのだし、その権威付けは政府等の人間の機関が出来ることではない。

受験生にとって、問題を作っているからには出題者の先生は正解を知っているはずであることと、勘違いしているのではないか?

仮に国家の政治を司り行政を運営する政治家や官僚が100%誠実で無私で正直だと(まずあり得ない)仮定をしてみても、それでもしょせんは、人間がやることである。被曝など科学的な問題では、人類の持つ知見自体が未だ限られているのだし、まして「低線量被曝で未認定原爆症」云々の場合は、基礎となるデータ自体の誤りが既に証明されているのだ。科学的な間違いは、科学的な間違いである。事実関係の誤認は客観的に間違いなのであって、政府の都合も政府を批判する側も、立場は関係がない

あるいは人間どうしのあいだの営みである政治交渉や外交でも、我々は他者が何を考え何をしているのかを、推論や推測は出来ても、完全に把握出来ているわけがない。外交関係、つまりは他国に関してはなおさらのことだ。事実や真実はひとつであるとしても、我々がそれを見る視点が限定されているのだ。これはどんなに国家権力を握ろうが、超えられない人間の限界の壁だ。

まず僕たち日本人は、この自分達の哲学的な発想の欠如による、無自覚な権威主義を、この際しっかり反省するべきなのだろう。騙されるとかそれ以前の問題である。「しょせん(僕たちと同じ)人間のやること」なのだ

国家の安全保障に限ったことでもなく、経済の景気動向ですら政府発表のデータにあまりにも依存し過ぎているが、これこそ財務省や経産省が簡単に操作できる数字なのだし、彼らが学んで来た(正しいとは限らない)経済理論に基づく評価でしかない。政府の出す数字の上では好況なはずのに実感がないのはなぜだろう、自分達の業種だけが失敗しているのではないか、やはりリストラだ、とか思うのもいいが、政府のデータがご都合主義で歪められていたり、元々用いている理論の限界内にあることにも、気づくべきだ。

仮にテレビや雑誌でえらいエコノミストの先生が言っているからと言って、理論は理論であり、その予想通りに経済が廻るとは限らない。というかどんなにノーベル経済学賞(って言う賞自体がけっこう怪しい。アルフレッド・ノーベルはこんな賞作っていない)学者がスーパーコンピューターを使ったって、この世界のあらゆる経済事象をカバーした予測を計算出来るわけもない。

なにしろあらゆる経済活動は、究極的には個々人の購買意識などに行き着く。これはもの凄く気まぐれだ。

それこそ僕らの映画の業界がいい例で、ジェームズ・キャメロンが『タイタニック』を作っていた最中には、あの映画がレオナルド・ディカプリオの魅力(威力?)であんな大ヒットするとは誰も思っておらず、大赤字で自滅する、『天国の門』でUAが破産したように、20世紀FOXも危ないのではないか、と予想されていた。ディカプリオ自身、あの映画以前にはスターだったのは日本だけだ。
クリント・イーストウッドの『許されざる者』なんて、クリントの趣味の西部劇でワーナーもしょうがないから撮らせただけ、8月公開の吹いて飛ぶような地味な作品のはずが、あんなにもロサンゼルスの観客の心を鷲掴みにしてアカデミー賞なんて誰も予想していなかったし、『グラン・トリノ』に至っては「これは当たるはずがない」とワーナーは金すらほとんど出さず…がフタを開けてみればイーストウッド主演の興行記録を塗り替え。
亡きスティーヴ・ジョブスがiPhoneを発表したときに、まさか数年で電車に乗ればスマホでTwitterとかやってる人が10人はいる、なんて状況を誰が予想しただろう?10年前にSAMSUNGがスマホ分野で急成長なんて予測を、どの経済学者が立てていたか? 
だいたい、今の主流の経済理論は、実はインターネットの爆発的な普及以前のものであるし、当時はこんなこと誰も予測していなかった。

それどころか、もっと初歩的な見落とし(恣意的なのか、間違いなのかはともかく)もある。

たとえばアベノミクスで景気がよくなったと、政府とメディアは喧伝する。だがそこには、復興予算と称しつつ震災と無関係にバラまかれた税金がなぜか換算されていない。なんのことはない、元々景気がそこまで悪かったわけではない上に、菅・野田両首相の民主党政権による「復興」名目の、必ずしも被災地に投下されたわけではない大規模公共投資で、全国的に景気が多少は上向かない方がおかしいのに、そんなこと中学生でも気づくはずのことなのに、国民は政府の言いなりのまま「自民が政権に戻ってよかった」思い込まされている。挙げ句に安倍首相が「今はバンカーに入っていて」云々とゴルフの例を用いた、よく意味が分からない、というか安倍さん本人がよく分かってない喩えでケムに巻かれているようでは、あまりにお人好しというか、お上意識の権威主義に過ぎる。

特定秘密保護法を待つまでもなく、戦前戦中の反省はどこへやら、僕ら日本人はやはりどこまでも「大本営発表」体質から抜け切ってないのではないか? そこへ政府が嘘をつき、嘘を隠すことに法的にお墨付きを与えてしまう特定秘密保護法の登場である。

政府や政治家や官僚が間違っていることだけでも大いにあり得る上に、僕たちと同様に彼らだって100%誠実で無私で正直なわけはなく、自分の利害の保身で動くことの方が多いのかも知れない、と少なくとも想定に入れるべきだ。なのに社会的な地位の権威性を正誤の判断の基準と見誤ってしまうこと(両者はしょせん、哲学的にまったく別次元の問題のはずだ)があまりに多い国民性では、「大本営発表」が鵜呑みにもされるだろうし、だから特定秘密保護法のような法によるダメージはあまりにも大きくなる。

ちょっとあまりにも哲学的な発想がなさ過ぎる。「正しさ」とは、偉い人が言っているから、あるいは「みんな」が言っているからと言って担保されるものではない。

たとえ国家機密として現時点ではその情報が隠蔽されても、解除義務が厳密に決まっていれば、歴史の視点から誤りがあれば再検証される。だから解除義務は、ただ政府が自分たちに都合が悪い、というだけで機密指定することへのブレーキとして働くはずが、特定秘密保護法はそこにいくつもの抜け道がある。

衆院での議論の段階で維新やみんなの党がこの問題を指摘したはずが、与党は協議でこの指摘を呑んだふりをしつつ、双方馴れ合いで無原則な例外が認められてしまった。

違法秘密を機密指定することの禁止が、明文化されていない。この哲学とルールの欠如が、チェック機能の杜撰さ以前に、この法の最大の問題なのだ。その上機密の解除義務が厳密でない以上、政府はどんなに違法行為をやっても、嘘をついても、その事実を機密にしたまま隠すことが出来る。

まさに「大本営発表」の発想だ。
いかに「勝った勝った」と国民相手に喧伝したって、実際に負け続けている戦争で、神風なんて吹くわけもなく、負けるのは時間の問題なのに、口では「勝った勝った」と言っているので敗戦の決断すら2年、3年のレベルで先延ばし、膨大な犠牲を払うことになった。

これは歴史感覚がない、時間軸で物事が考えられない、その場限り・行き当たりばったりの刹那主義の発想でもある。つまりはまたもや、哲学的意識の欠如の問題でもある。

遠藤周作が『沈黙』で「日本という泥沼」とフェレイラに言わせ、遡れば『海と毒薬』で「神なき民としての日本人」を追及したのは、こういうことだったのか…。

「この人たちも結局、俺と同じやな。やがて罰せられる日が来ても、彼等の恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてではないのだ」 (『海と毒薬』)


言うまでもないことだが、どんなに悪いことをやっていても、それを隠し通せば糺弾されることはなかろう、と特定秘密保護法を決めてたかをくくったところで、誰か他者がその隠されたことを指摘することが絶対に回避出来るとはおよそ言えない。

そんな自分たちの主観性の限界も認識出来ないとは、どこまで自分達が生存を許されている世界をなめているのか、あるいは甘えて幼稚な世間知らずなのか、という話だ。

世界が自分たち中心に廻っているわけなどない。真実や正しさとは、自分たちの都合の外側にしか存在し得ない。その世界を見ている我々には、常に自分が見えている範囲という限界の中にしか居られないのは、当然のことだろうに。

たとえば従軍慰安婦の徴集に「強制があったと示す文書がない」と言い張ったところで、軍の命令、「お国のため」、それも朝鮮半島であれば植民地支配者の側だ。強制があったのが当たり前、と誰でも気づく。

その上軍や官憲の同行が義務づけられている命令書が出て来ている時に、これをそこに書いてある通りに「軍の委託業者の不正を防止するため」と文字通り受け取る馬鹿はいない。軍や警察がその場に居るだけで、銃を突きつけるに等しい強制だし、その命令が実際にどのように運用されていたのかは、当事者の証言を元に解明されるしかない。そんな調査を一切を怠っておいて「そんなことはない、韓国が反日だ」と言い続けているのが今の日本だ。

韓国政府が中国に、ハルビン駅に安重根の記念碑の建立を申し出たという。

反発した我が国の官房長官は「韓国政府には安重根は犯罪者だと言って来たはずだ」と不快感を露にした。官房副長官に至っては、「当時の日本が死刑にしたんだから犯罪者だ」と言ったんだとか…。まさに哲学的意識・歴史意識の欠如としか言いようがない愚劣さだ。

人間の社会、政府が定める法は出来る限り正義に近づけるよう努力して作られ、運用されなければならないのではあるが、しかしそれでも、しょせん人間の組織が、自分達の主観や都合で決めてしまった限界は常に内在する。それを少しでも克服する努力が課せられているのが法治主義なのに、歴史的な視点から見れば「安重根が犯罪者」などと安易に言えるわけもなかろうに、どこまで幼稚な身勝手な集団性に引き蘢った独善なのか?

まして抑圧的な征服者が、その征服された側に「うちが死刑にしたんだから犯罪者だ」って…通用するはずもないだろうに、そんな自己撞着。

当然、韓国政府がこれを批判するコメントを出すと、日本の官房長官は「過剰反応だ」って…いやいや、お隣の国の独立運動の悲劇の英雄の記念碑建立の話に、過剰反応したのが日本政府でしょうに。

安倍晋三首相に至っては「伊藤博文は長州にとって偉人なんだから」と言ったとか言わないとか…だからその「偉人」は朝鮮半島から見れば侵略者の代表なんです、初代朝鮮総督だったんだから。

特定秘密保護法とは、このような人たちの安直で不道徳な、哲学性的な自己認識の欠如した発想で作られた、彼らの空想的な世界観の産物にしかなってない法だから問題なのである

つまり違法行為とその証拠の機密化が禁じられていない、自分達がやったことを機密にしておいて「そんなことはない」と言い張れることに法によるお墨付きを与え得る法を、いかにもそういう発想をし続けて恥じない今の政府が手にしてしまったことが大問題なのだし、違法秘密の機密化も禁じていないようでは、どうもそのことが最大の動機で作られているような法律にしか見えないのだ。

逆に国家政府の行政を円滑に行い、国民に損害が出ることを避けるために機密として守られなければならない情報の漏洩を防ぐことには、この法律は(本ブログで既に述べた通り)ほとんど役に立たないだろう(←この理由はもうしつこくなるから繰り返しません)。だから「機密を守る法律は必要だ」としてこの法律に賛成する人たちは、そもそも前提が間違っているのだ。

いやもしかしたら、賛成している人も反対している人も、「機密」とはなにか、何が機密であるべきかが分かっていないのかも知れない(←結局また言ってる・しつこい!)。

いやなにも、自分たちに都合の悪いことだから国家にとって機密化が必要なわけではないし、政府の機密保護とは「政府に都合の悪いことを言ったら罰する」のでは本来ない。

ちょっと考えれば分かることとして、普通に社会生活を営み仕事をしていれば、国家や政府レベルでなくたって機密情報は幾らでもあるはずなのだが。

たとえば企業間の合意に向けた折衝は、その合意が確定するまでは当然ながら機密にしていなくてはならない。

株のインサイダー取引も禁止されている。インサイダー情報とは内部でなければ知り得ない機密事項だ。

僕らの日常的な業務で言えば、映画を劇場公開するに当たっても、製作・配給・劇場の三者がきちんと合意に達するまでは、「どこそこの劇場でやります」という話は外部には絶対に漏らせない。映画の共同製作ならば、どことどこのプロダクションが組んで、とかも話が決まるまではお互いに機密だし、一方で話を進めている間に他所とも話していることが、自分たち同士で伝えるならいいが他のところから噂で耳に入っただけで、せっかく進めていた契約はおじゃんになる。
いやそれこそ、「ベルリン映画祭でやります」「カンヌ映画祭で世界初上映」だって、映画祭の公式発表があるまでは機密情報です。年内に決まってたって年賀状で宣伝することすら出来ません。

国家機密だって、たとえば外交機密とは大部分がそういうもので、別に国民に明かせない密約であるとか(例えば日米間の密約で米兵の刑事事件を日本が訴追しないとか)だけが機密なのではない。

むしろそんなややこしい密約なんて他国に弱みを握られかねない話、普通の政府なら、めったにやりません。

普天間基地の沖縄県外移設を模索する鳩山政権が徳之島の自治体と交渉していたことも、条件が折り合うまでは当然ながら最重要レベルの国家機密だ。それが恣意的にリークされて交渉そのものを潰すどころか、政権を倒すのに利用されるなんてことは、国家・政府としてあってはならない。

ところがそういう官僚による恣意的な機密漏洩を用いた事実上のクーデタに、誰も疑問を呈しなかったのが、現代の日本国だ。

いやもうだいたい分かってるんだけど、「特定秘密保護法案は必要だ」と思い込んでいる人たち、この法案を強行した人たちや、賛成だと言っている人は、自分たちが大嫌いだった鳩山由紀夫を潰したやり口が、特定秘密保護法を当てはめれば関係者が全員逮捕で懲役10年となることに、気づいてすらいないだろう。

特定秘密保護法案は原則内閣府・防衛省・外務省だけが適用範囲と、これも維新が要求した修正だったはずが、これまたなし崩しで例外が認められてしまった

だが本来なら、法務省管轄の検察の捜査情報だって、起訴立件が決まるまでは原則機密だし、それは捜査当局の都合ではなく捜査される側の人権保護のために機密でなければならない。しかし特定秘密保護法の適用範囲の例外が認められ法務省の情報の一部も適用範囲になるとしても、彼らが考えている機密指定すべきこととは、強引なでっち上げによる冤罪などに関する秘密、検察の運営実態の違法性や非合理性であって、被疑者の人権を守るためではあるまい。

そう、小沢一郎を政治的に抹殺したのだって、本来なら法治主義の原則から機密であるべき不確定な捜査情報を、恣意的に漏洩した世論操作だ。機密捜査情報の恣意的漏洩を延々と繰り返しながら、フタを開けてみれば立件するための証拠はぜんぜんなかった。

いや彼ら霞ヶ関官僚に限らず、特定秘密保護法を推進する人も賛成する人も、あるいは反対する人たちの多くでさえ、捜査情報、被疑者に関する情報が本来なら裁判手続きの開始まで原則機密でなければならないことなど、当然ながら考えてすらいまい。

逆に法務省、検察庁が実は巨悪であるのなら、それが巨悪であることを隠すのが機密指定、という前提で進んでいるような話が、この特定秘密保護法なのではないか?

国家・政府の運営、行政が、単に正直で誠実なだけでは済まないのは確かにその通りだろう。あまり筋が通らない、後ろ暗い取引だって、場合によっては必要であるのかも知れない。だが忘れてはならないのは、一方で政府や国家は、社会秩序に責任を負い、その基礎となる法秩序の執行者なのである。より単純に分かり易く言えば、総理大臣とか大統領は本来、子供から見たら「偉い人」でなければならないのだ

どうも「国を動かすには多少なりとも悪いことは」という思い込み、国家・政府=巨悪でなければならない、というイメージに囚われ切った人たちがいるようだ。その卓袱台返し的詭弁として、国が決めたんだから正義なのだ、国家に不都合なことは隠すのが正しい、という歪んだ発想が、特定秘密保護法には見え隠れしている。

だが国家や政府が嘘つきで犯罪者であるのなら、国民が遵法精神なぞ持つ謂れはない。

たとえそれが建前でも、国家の正当性は倫理的・哲学的な瑕疵なく維持されなければならない。

これは内政だけではない。外交においても一方では確かに各国の国益があるが、その国家が主張し寄って立つところが正当であることも、国益の重要な一部である。

尖閣諸島は日本領」「竹島は国際法的に日本領であることは自明」なのだとしたら、それはお題目として繰り返すことでなく、客観的にその正当性を論証することであって、都合の悪い話は無視したつまみ食いで日本人にだけ通用するフィクションを「みんな」で信じ合うことではない。

「国だから間違っていると言われてはいけない」のではない、「国家が誤りを犯してはならない、誤りは是正されなければ国家の信頼は保てない」のだ。

特定秘密保護法とは、そんな国家の有り様の基本的な哲学が分かってない、巨悪と言われようがお国を守るのだと言う幼稚で哲学性の欠如したヒロイズムに耽溺するオコチャマたちが、法は正義によって裏付けられなければ意味がないことも理解せず、自分達が法で決めてしまえばそれが正義なんだと、その法が自分たちの国の法でしかなく国際的に説得力を持つとは限らないことにも気づかずに、内輪の引きこもりの独善に歪んだ法のお墨付きを与えてしまう代物だ。

だからこそ危険なのである。

事実や真実とは、為政者の都合や僕らの利害を超越した、その外にあるものだ。民主主義とは、僕たちのわがままや身勝手の最大公約数を国や社会の方針とすることではない。それぞれが根本的に自分には内在しない、自分の目先の利益や保身の外に本来ある「正しさ」や「みんなの幸福」を目指すそれぞれのやり方を自分で考え、その考えを突き合わせることから自分達が選べる範囲では最良の、もっとも正しい選択をするための手段が、民主主義なのだ。

それは決して「偉い人が言ってるから正しい」「みんながそう言ってるからお前は間違ってるんだ」で都合の悪いことは隠すことではないし、「日本人みんながそう言っている」から過去の戦争の誤りがチャラになるわけでも、「中韓は反日国家」になるわけでもない。

仮に僕たち国民の利益のために国家が犯罪や違法行為を犯すとすれば、その利益を享受する僕ら自身が不道徳、ということになる。

僕たち国民の大多数の利益のためには、国家が嘘をつき都合の悪いことを隠すべきだ、特定秘密保護法は必要だと言うのなら、この法律を決めたことで日本国が嘘つきの不道徳国家になるだけではない、日本人という民族が嘘つき民族になる。

だから歴史の教訓を思い起こそう。「大本営発表」がいかに「勝った勝った」と言い続けても、戦争には負けたのだ。

それも膨大な戦死者を出し、沖縄が悲惨極まる戦場となり、ほとんどの大都市が空襲で焼け野原になっただけでなく、あまたの戦争犯罪行為に手を染め、自国の兵士たち自身まで虐待し、無駄死にさせ、他国民にとんでもない犯罪行為まで繰り返した恥知らずの犯罪国家として、すべてを失ったボロ負けだった。

それでもなぜ日本が立ち直れたのか、なぜ奇跡の経済復興を成し遂げ、かつて侵略した相手の国々からさえ尊敬されるようになったのかも、思い起こすべきだ。

また身近な例では、東日本大震災の被災者がなぜ世界のメディアから賞讃されたのか、僕らの作った原発事故の映画でも、3年近く経っても海外で上映する度に「日本人は素晴らしい」と言われるのかも、被災地以外の日本は謙虚に考えていい。

“その人たちの日本” は、恥知らずな嘘つきの国でもないし、身勝手で不道徳な者たちの国でもない。

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