7/18/2014

議論が出来ない国会の「集団的自衛権」論議


そもそも安倍晋三政権が「集団的自衛権」の議論だと言って来た「解釈改憲(なんて法治国家ではあり得ない倒錯だが)」は、フタを開けてみれば集団的自衛権の話ではなかった

今はもうこのことを、はっきりさせた方がいい。

自衛権行使の新三要件が閣議決定される前から、憲法学者や安全保障の専門家から「それは集団的自衛権ではなく個別自衛権の対象だろう」と、安倍が挙げる実例などが再三批判、というよりバッサリと否定されて来た。にも関わらず安倍がまったく方針も態度も変えないまま「それは集団的自衛権の話ではないはず」の路線に沿った内容が発表されたというのに、報道によれば国会での審議では未だに「集団的自衛権を認めるかどうか」で争っているらしい。

論理性というものが理解できない、筋道を立てた議論が出来ない人たちなんだろうか? それとも報道が議論を歪めて報じているのか?

もちろん安倍政権と与党の問題がいちばん大きいのは言うまでもないし、安倍の答弁が答弁になっていないという、毎度おなじみの問題も出て来ている。

だが野党も野党で、新三要件の内容を「曖昧だ」程度にしか批判出来ていないまま、今でも集団的自衛権の是非ばかり論じているのだとしたら、あまりに頼りない。

もはや「いつかどこかの国が戦争を始めるかも知れず、もしかしたら日本も巻き込まれて自衛官が死ぬかも知れないから反対」なんて悠長な話ではない。

共産党などは「自衛官の命が危ない」「自衛官の家族も国会中継をテレビで見ている」と感情を煽るような質問ばかりしている。こうなるとこっちの方もかなりうんざりで、「あなたたちは本当に政治家なのか」と言いたくなって来る。

もはやそんなことを言っている場合ではない。「日本が自らの判断で、明日にでも自分から戦争を始めてもおかしくない」、これが今ここに迫っている危機なのだ。それが実際の新三要件の文言と、付随する安倍の会見から導き出される結論のはずだ。

このブログでは何度も指摘して来たが、改めて自衛権行使の新三要件のその①の文面を見てほしい。

①我が国に限らず、密接な関係の他国が攻撃された場合でも、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある

「我が国の存立が脅かされ」「国民の生命 〈中略〉 権利が根底から覆される」場合に限られるなら、これは集団的な自衛権の話ではなく個別的自衛権の適用対象で済んでしまう。安倍も記者会見で「イラク戦争のような事態に日本が参加することは今後もない」と明言しているのだし、今さら「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる!」は議論の本題にならない。

ただしそれだけだったなら、そもそも「集団的自衛権のために」新要件を決める必要もなかったはずだ。安倍が言い続けて来たこと自体が、集団的自衛権の話ではまったくなかったのだし。

実際にはこの新要件の要点は「明白な危険がある」だけで自衛権の行使を認めていることであり、それをただ「曖昧だ」という曖昧な批判で済ますのはあまりに考えが甘過ぎる

これはちっとも「曖昧」ではない。軍事と安全保障の常識では極めて明確に、予防的先制攻撃の容認だ

過去にも北朝鮮のミサイル…ではない「ミサイルと思われる飛翔体(いやロケットでした)」問題を巡り、北の基地でミサイル発射準備が行われていると察知した場合、先制攻撃が可能かどうかは議論になっている。 
まだこっちの方がリアリティがあり、議論の必要な話であり、「曖昧だ」批判だけではあまりに後退している。

予防的先制攻撃(「明白な危険」への対処で武力行使)の要件が、「密接な関係の他国が攻撃された場合」にのみ限定されるのなら、まだこれは集団的自衛権の話だと言えた(ただしまずあり得ない状況であって、珍妙な机上の空論の時間の浪費ではある)。

だが新要件の文言は、そうはなっていない。自衛権行使の先制攻撃が「他国が攻撃された場合」に限定されるのなら、【に限って】とでも明記されていなければ日本語としておかしい。ところが実際の文章は【でも】であり、これでは自衛権行使としての先制攻撃が発動される条件のひとつが付随的に例として上げられているだけだ。

「霞ヶ関文学」のなかでもここまで見事な欺瞞は見たことがない、最高傑作レベルで、書いた官僚の能力の高さが伺われる−−無論、悪い意味で。

「曖昧だ」という批判はむしろその前の「密接な関係の他国」に向けられるべきだ。

これは標準的な「霞ヶ関文学」、こっそり「等」をつけて定義を曖昧にする常套手段のバリエーションに過ぎない。このあからさまな「霞ヶ関文学」に気をとられてその直後のあっぱれ過ぎる欺瞞に目が行かないように出来ているのだから、本当に見事なものだ。

決して「同盟国」に限定されておらず、そして今の我が国は世界中の大なり小なりほとんどの国と「密接な関係」にある。

具体的には、世界中のほとんどの国と日本の産業は仕事をしているわけで、多くの国にはそのビジネスのために日本人が滞在したり居住したりしている上に、今回の議論で安倍が最初から実例で強調しているのが自国民保護、「日本人の命を守る」である。

アメリカの艦船で日本人母子が移送され、その艦船が他国の攻撃を受けたら自衛隊も守るべき、という安倍が繰り返す設定はナンセンスでしかないが。

安倍が「日本人の命が」と絶叫し、共産党が「自衛官の命が、家族が」と絶叫する。これではあまりに軽薄な感情論の応酬の、低レベルでナンセンスな水掛け論だ。

だいたいこの人たちは国際法の基本の基本である、国家の主権とその所在、その及ぶ範囲をまったく理解していないらしい。安倍は就任間もない外遊中にアルジェリアで人質事件が起きたとき、日本人保護のために海外に自衛官を派遣できる制度と、とまで言い出して、さすがにそのまま立ち消えになっている。アルジェリアの反政府武装勢力が日本人を拉致したからといって日本の自衛隊が「日本人を守る」と称して武力を行使すれば、それはアルジェリアの主権の侵害であり侵略行為とみなされ、完全な国際法違反だ。

紛争地帯からの自国民の脱出に関しても、出来る限り民間機や民間の船を用いるのがルールだし、米軍は他国民の移送は基本的にやらないと明言している。

仮に軍用機や軍艦を用いても、その領域の主権を持つ国家の了承のない限り、最低限の自衛以外の発砲すら許されない。ある国の治安を守る権限を持つのはあくまでその国であり、自衛隊が正義の味方のフリなんて出来ないのだ。

まったく、東大出のエリートがずらずら並ぶ霞ヶ関も、同じように東大出のエリートが大きな顔をしている共産党も、どちらもなんとお勉強が出来ないのだろう? 
なぜこうも教養の欠いた薄っぺらで本質からズレた感情論に終始して、全体像を冷静に議論出来ないのだ?

これは安全保障論議であり、外交の問題ではないのか?

なのに自国民のことばかり「命が」「命が」と言い合っていること自体、客観的にはあまりに皮相で、国内に引きこもった感情論にしか見えない。

アメリカがブッシュ・ジュニアのようなおかしな政権になり、イラク戦争のようなおかしな戦争を始めた時を想定して「日本の自衛官がそんなことで死なされてたまるか」と反対するのは一応は正当だが、しかし些末な、本題からずれた問題でしかない。

通常の同盟関係に基づく集団的自衛権の行使でも、個々の戦争でそれが米国なら米国の正当な自衛の範疇と判断出来ないのなら、参加を断ることは出来るのだから、常に我々国民とその政府の「良識」「良心」が歯止めになり得るのが、まともな民主主義国家だ。 
その判断を予め必要ないようにしておかなければ危険だという発想は、いささか情けない。

しかも新要件には「我が国の存立が脅かされ」「国民の…権利が根底から覆される」と明記されているわけで、「アメリカの戦争に巻き込まれて自衛官が死ぬから反対」では、議論がもはやかみ合っていない。

今回出た自衛権の行使の新要件では、日本が「他国の戦争に巻き込まれる」可能性は極めて低い。

「我が国の存立が脅かされ」た場合のみと明記されているのだ。逆にだったらなぜ「集団的自衛権」なんて言い出したのか、個別的自衛権で対応することであり、新しい要件を決める必要自体がないはずではないか?

だがそれに対し、「明白な危険」だけで自衛権を発動出来るというのは、これまでの自衛権の概念とはまったく違う。実はこれを変えたいから新三要件を決めたのだ、これこそが本当の論点なのではないか、とそろそろ気づくべきではないのか?

「明白な危険」があれば自衛権に基づき武力行使出来るというのは「曖昧」だから問題なのではない。明確に予防的先制攻撃を容認している、つまり「明白な危険」と認めた場合に先に戦争を始めるのは日本なのだ。

なぜ野党は、日本から戦争を始められるようにすることには絶対に反対する、と明言しないのだろうか?

なぜ「明白な危険」で自衛権を発動するとは、すなわち予防的先制攻撃の話だと気づかないのか?気づいていたとしたらなぜ言わないのか?

予防的先制攻撃が自衛として発動される条件として「密接な関係の他国が攻撃された場合」が必要と解釈した場合のみ、これは集団的自衛権の話になるが(但し「でも」とある以上はそれに限定はされない)、そこでも「同盟国」ではなく「密接な関係の他国」としか書かれていない。つまり「アメリカの戦争」とは限らない。

しかも「他国が攻撃された場合」の例として、安倍の会見では日本に迫る安全保障上の危機として、尖閣諸島の前にまず南沙諸島問題について「連日、ニュースで報じられている」とまで言っているのである。

安倍はその状況が現にある、「この瞬間も力を背景とした一方的行為が」と既に言ってしまった。中国が南沙諸島に関して領有権を争うフィリピンとベトナムに強硬な態度をとるならば、尖閣諸島の防衛を理由に、日本は中国に先制攻撃を仕掛ける、と事実上名指ししてしまっているのだ。

いや南沙諸島とは言っていない、南シナ海だ。尖閣諸島と明言はせず東シナ海としか言っていない、と安倍の周辺はへ理屈を述べるのだろうし、それがこの政権のあまりにも幼稚なところであるのだが。

安倍はこれを「抑止力だ」だとすら会見で明言してしまっているが、つまりは先制攻撃をちらつかせて中国を恫喝していることに他ならない

中国にしてみれば多分に誇張され虚偽すら含む言い方で自国を危険国家呼ばわりされただけでも外交的侮辱であり、戦争をちらつかせて脅迫されたのでは、立派に宣戦を布告する理由にもなり得る。幸いにして無視して大人の対応を決め込んでいる習近平政権に、我々は感謝しなければならない。

また安倍は国会審議で、在日米軍の出動に関して「米海兵隊は日本から出て行くわけで、当然、事前協議の対象になる。日本が了解しなければ、韓国に救援に駆け付けることはできない」とも言ってしまった(日本の報道より朝鮮日報の方が客観的で正確だというのも困る)。

確かに在日米軍の出動が日本の国益や国際社会の正義に反するようでは困り、事前通知などの歯止めがあるとは言っても、こういう形でわざわざ日本の首相が公言するというのは、韓国が危機的な状況になっても、日本の一存で在日米軍の出動を食い止めることが出来る、という意味にしかならない。

韓国側からみれば「韓半島有事に重要な役割を果たす在日米軍を使って韓国を『脅迫』しようとしているのではないかと疑いたくなる」と言いたくもなるし、米国にしてみれば自国の軍事行動の邪魔をする可能性を日本が公言したことになる。

…というかぶっちゃけ、安倍にしてみれば「韓国ちゃんよりもボクたちをまず依怙贔屓してくれなきゃスネちゃうぞ」という話でしかないわけだが。
だがその動機の幼稚さとは裏腹に、やり口は狡猾だ。韓国政府が大っぴらに反発すれば、それはアメリカなしには自国の安全を守れないのだと公言することになる。普通の国なら名誉にかけて、それは言えない。現に韓国政府は公式にはなにも言っていない。

「日本人の命が」もむろん大事な話だろう。

だが今はるかに危急の大問題なのは日本が平和を乱す、日本が他国を脅迫したり侮辱して挑発する外交を繰り返している、日本から戦争を始める事態すら、いつ起こってもおかしくないことなのだ

ところが与党は「日本人の命を守る」といい、共産党は「自衛官の命が」というだけの、自国内に引きこもった、はっきり言えば異様に自己中心的な応酬には、日本が自ら国際的な孤立の道を歩んでいる危機感がまったくない。

日本が周辺諸国から危険視されてもしょうがない、きわめてあぶなっかしい外交をやっていて、それが明らかに日本の国際的な立場を危うくし国益を損ねることを、なぜきちんと議論出来ないのだ?

これでも「政治」と言えるのだろうか?

折しも国連人権委員会で日本の人権問題が審議されたことを、日本の新聞が「ヘイトスピーチがとり上げられた」と見出しにしたら、ヒット数があがってGoogleニュース検索でも真っ先に出て来る様になっている。そうした日本の報道ではたいがい、なにがいちばん問題にされたのかの言及が避けられている。

実際に人権委員会がもっとも問題にしたのは、慰安婦問題を強制された性奴隷だと認めない日本政府の対応であり、日本代表が反論になってない反論をしたら(「我が国は慰安婦が性奴隷だったとは認めていない」としか言ってない。強制だったことを認めているはずなのに)、傍聴に詰めかけたおかしな日本人集団が拍手喝采までしたらしい。

「やーい在特会が国連にも叱られたぞー」と勘違いして喜んでいる場合ではない。

日本国内で見ればネット上のかなりおかしい一部集団がちょっと実社会にはみだしてしまった程度の、たいした意味を持たない騒ぎでも、今や日本がそのような国に見られてしまっていることに少しは危機感を持った方がいい。

この報道を鵜呑みにする人は、国連人権委員会というのがどういう場なのかも分かっていないらしい。 
この委員会が勧告を下す相手は各国政府である。日本国内で日本国民の一部がやっている人種差別発言について人権委員会が言うのは日本政府の然るべき対応を促しているのであって、国連が「在日特権を守る市民の会」を断罪したなどと思っていい気になられては困るし、当然ながら報道される順序として、普通なら日本政府自身がやっている人権侵害や差別についての勧告よりも優先順位は低い。 
なのに「ヘイトスピーチ」云々を見出しにするのは、明らかな恣意的歪曲の現政権擁護だ。 
実態は逆で、わざわざ国連人権委員会がこれに言及したのは、こうしたネット上の匿名言動が中心の日本のレイシズムが、現安倍政権と密接なつながりがあることも看過出来ないから言っているのだと考えるべきだ。
従軍慰安婦の問題をなんとかないことにしたい、少なくとも矮小化したいと政府が煽動し、その政府がなぜかそれなりに高支持率を維持し、人気政治家が人種差別・性差別発言ナチス擁護ととられることまで言ってしまい、国会や地方議会で女性蔑視ヤジが常態化している国で、一般市民の差別運動も問題だから対応を、というのは、日本が国をあげて差別国家になっているのではないか、と国際社会が本気で危惧していることを意味しているのだ。

こんな狂った日本外交の文脈で決まったのが、「集団的自衛権」の議論を偽装しながら、実は予防的先制攻撃を容認する自衛権行使の新要件だ。この露骨に他国を差別し敵視し、戦争も辞さないと宣言してしまっている外交を、なぜちゃんと批判出来ないのだろうか?

なぜ識者やジャーナリストやネット論者にしても、このあまりに異様で危険な方向性に、警鐘を発しようとはしないのか?

いちばん怖い想定は、その「戦争を辞さない」宣言が明白に中国を対象としていて、安倍外交がとくに中国と韓国を特化して敵視路線を明確にしていることに、実は国民の大多数がむしろ賛成していて、ただ「日本が戦争に巻き込まれるのは反対」と口先だけの平和主義を装っているのではないか、ということだ。

そして国内引きこもりの重症に陥っているのは安倍や政治家だけでなく、ほとんどの国民が「日本人が死ぬのは反対」にしか最早興味がないのではないか、ということも、考えるだに空恐ろしい。

7/11/2014

「反対する理由」について




ここ三回に渡っていわゆる「集団的自衛権」を巡る論議(では実はない)について書いて来たが、ここで筆者がなぜ安倍の自衛権の行使に関する閣議決定に反対するのかの理由を、念のため明記しておく。

①まず、戦後の日本が(時に狡猾な偽善であったとしても)守り通して来た平和主義の理念は、やはり正しいものであり、無闇やたらと反故にするわけにはいかない。 
②憲法条文から論理的に導き出さ得ない「解釈改憲」など「解釈」であるはずもなく、法治原則への冒涜は日本の恥であり、この憲法を国会で真剣に議論し、圧倒的多数の賛成で決めた先人達への裏切りだ。 
③第二次大戦を反省したはずの日本が、再び戦争をやる国になるべきでない。
④僕はあらゆる戦争に反対する。戦争というものが実際にどういうものか、実体験のある人たちから学ぶ機会に恵まれても来たので、避けられないような戦争でも避けるべく最大限の努力はしなければならない、としか思えない。これはもう、自らの体験を話して下さり、今は鬼籍に入られた、たとえば空襲や原爆、あるいは靖国や皇居でお会いした特攻や硫黄島の生存者、ノルマンディー上陸作戦その他を体験した大先輩(ってサミュエル・フラーですが)への敬意と友愛に賭けて、絶対に反対。


サミュエル・フラー監督作品『最前線物語』

この4点が、大上段にいささかカッコつけて言う理念的なものであるのに対し、いささか本音混じりの現実の文脈で言えば…

⑤現代の世界で戦争を始めることに、なんのメリットもない。こと日本が置かれた地政学的な位置付けと、未だに世界に冠たる経済大国として尊敬もされている地位からして、デメリットしか見当たらない。 
⑥安倍が「集団的自衛権」と称して来た論議は、実は中国と戦争をいつでも出来る、先制攻撃ですらやるように憲法解釈を変えたぞ(って変えられないってそんなの)、というブラフである。安倍が抑止力だなどとうそぶくのは要は子どもじみた強がりでしかなく、かえって足下を見られ、諸外国に日本を警戒させて孤立を招く。なかでも事実上名指しで誹謗され仮想敵扱いされた最大の貿易相手国・中国との関係を損ねられては、日本の国益に明らかに反するし、しかも客観的に見れば日本が乱暴な挑発を続けているだけなのだから、弁護のしようがない。 

商売に響き、日本の経済を悪化させるだけなのはバカだとしか言いようがないし、俺は外国に行って肩身の狭い思いなんてしたくもないんだよ、ってこともある。
安倍信者のなかには、対中貿易はGDPの5%だからたいしたことがない、なんて無茶苦茶を言ってる連中までいる。 
冗談じゃない。現状のGDPから5%を単純に引いただけでも、日本は超不景気のマイナス成長だし、日中の断交だけで実際の損害は5%じゃ済まない。ほんとうにどこまで世間知らずで非現実的なのだろう? 

⑦あともう一点。はっきり言ってこの国には明治維新以来、ずっと同じアジアへの差別蔑視があるとはいえ、ここ数年の中国と韓国に対する露骨な差別と蔑視、敵視は異様であり、もう見ているだけで気持ち悪い。精神衛生上悪過ぎるからこんな真似は金輪際やめて欲しい。

1930年代、40年代の日本だって、ここまで病んで差別的ではなかった。

だがどうも、世間で「集団的自衛権」に反対する人たちの理由は異なるようだ。

安倍のやったのが露骨な中国相手のブラフであり侮辱であり脅迫であること(安倍のいう「抑止力」とは、要するに日本はいつでも戦争をやる、これからは先制攻撃も出来る、アメリカも味方だ、と言えば…南京大虐殺はなかった等の暴論を中国が受け入れてくれるとでも思ってるらしい)はなぜか無視され、この愚行が東アジアの緊張を高めるだけであることへの批判は、海外メディアのそれが主にネット上で紹介される程度だ。

安倍が敵視しているのが中国であることには、なぜか反対派も口をつぐんでいる。温家宝が前首相、習近平が現主席でなければ、もはや日中が戦争直前になってもおかしくないことを安倍はやってしまったのだが。

大手のメディアは、反対の旗色が鮮明に見える毎日や朝日ですら、国際的に悪評ぷんぷんであることには口をつぐみ、あたかもアメリカは評価しているかのように装っている(実はいちばん苦虫を潰しているのがオバマ政権なのだが)。

それどころが反対デモだとかで出て来る理由のメインが、「集団的自衛権が容認されたら徴兵制になって自分達が戦争に行くから反対しましょう、子どもたちが戦場になんて」という話ばかりなのには、正直ちょっと面食らう。

共産党までが「徴兵制になる」メインの主張に据えているのに至っては、あなた達は護憲平和主義の党ではなかったのか、と言いたくなる。その共産党もまた、これがどう世界のなかの日本の立場に悪影響するのかは全然語らない。

それでも政治家と言えるのか、あなた達は?

集団的自衛権(では実はない、先制攻撃を容認し専守防衛をやめること)は自民党右派が念願して来た日本の再軍国化の一貫に位置づけられ、その意味では徴兵制の復活も一部の耄碌した爺さんたちは、まだ本気で思っているのかも知れない(って議員定年制で引退してないか?)。


とはいっても「集団的自衛権が容認されたら徴兵制になって」は、さすがに風が吹けば桶屋が儲かる式のへ理屈で、強いて言えば「そうなる可能性もないとは言えませんね」であっても、そこに至るにはまだまだハードルが幾つもある。

徴兵制に反対ならそのデモをするべきだと思うが、徴兵がなければ集団的自衛権はあった方がいいとでも言うのか?

「徴兵制になる」と言う人の根拠が、集団的自衛権を認めたら自衛隊の志願者が減る、だからいずれ徴兵制、などというのに至っては、転倒した希望的観測が強過ぎる。

だいたい、自衛隊の入隊者の実態がどんなものなのか、皆さん気づいていないのか、都合良く無視しているのだろうか?

たとえば大阪府で成績第一位の募集事務所は、同和対策事業で再開発されたが今は閑散としてしまった、あべのベルタにある。いわゆる被差別部落出身だったり、就職差別で他に仕事がない人が多い。  
出自で就職差別に晒されたり、学歴でハンディを負う若者の手っ取り早い就職先が、自衛隊であったり暴力団だったりすることも、忘れられては困る。まして官邸まで「集団的自衛権反対!」でデモに行った人たちは、在日への差別に反対すると称するカウンター・デモに参加している人も多いはずだ。口では差別に反対と言いながら、日本の差別の被害の現実になんの関心も想像力も持たないのでは、ただの偽善だ。

ところがずっこけることに、官邸前に「集団的自衛権反対!」でデモに行った知人に寄れば、警官の対応が丁寧だったとか、そうするとしたり顔で「彼らが真っ先に戦争に行かされることになるから、実は僕たちに賛成なんだよ」とか解説した阿呆がいたらしい。

それが自称は「映画評論家」だとか…こんなヤツの書く薄っぺらで勘違いの自己愛に満ちた、なにも分かってないし分かる気もない愚劣な駄文を「評論」だの「批評」だのと名乗られては、映画への冒涜だ。 
その阿呆評論家は、まさにその、例のカウンター・デモとやらにも参加していたらしい。そこまで人間的想像力に欠如した独善で映画なんて見られちゃ困ります。 
俺の映画は普通の人が素直に見れば誰でも分かる作りになってるけど、こんなバカには絶対に理解できんわ。

もう、どこまで自分と自分達の徒党にだけは甘いのか?

なぜこうも、自分とその周囲半径5メートルの集団依存の自己愛しか考えられないのか?

あなた達はなぜ、世界のなかの日本どころか、社会のなかの自分という意識すら持てないのか?

警官が案外と丁寧ってのはね、福一事故以来、官邸前や国会周辺のデモは度々あるし、なぜか恐ろしく警察権力に従順か、せいぜいポーズだけ黄色い声で「人権侵害よ」と声を張り上げながら実は警察に協力して参加者の交通整理で威張っているいわゆる「プロ市民」しかいないから、警察もあしらい方のノウハウが出来上がっているし、慣れもあって冷静に対処している。あともしかして、ちょっと呆れているだけじゃない? 
だいたい最近の若い警官は、昔ながらの「オイコラ警官」なんて、職質でだってそう簡単に本性は現しませんて。 
かつての安保反対とは違うんだよなあ、いろんな意味で。 
なにしろそのいわゆる「プロ市民」だとかは、参加者でもカメラを向けたら「肖像権の侵害よ」「あなたスパイじゃないの」とか言うらしい。というわけで、「デモに参加しました」でツイッターやFBに並ぶ写真は、後ろ姿や旗と空ばかり。 
えーと…自分の顔も名も堂々と示すこともない「デモ」って、誰に何を訴えているつもりなんですか?

もちろん自分が戦争に行く、他国の誰かを殺すなんていやだ、という良心が反対の理由になること自体は悪いことではない。

だが集団的自衛権への反対では、まず論理の飛躍がひどいし、だいたいその今の段階でいきなり「ボクは戦争に行きたくない」だけが論点では、あまりに自己中心的ではないか?

これは福島第一原発事故を受けた反原発デモの頃から気になっていたことだ。その時に多くの反対者を結束させた最大の合い言葉が「ワタシは被曝したくない」…のは分からないではないのだが、東京やそれこそ大阪で、そんなこと言うのはさすがにナンセンスだ。

実は直接になんの被害も受けず、実際の被害当事者と関係もないはずなのに、自分達がこそが被害者だ、と主張したがるのはなぜか? あたかも「ワタシたちは被害者だ」で連帯すれば、絶対正義にでもなった気分になれるようだ。

挙げ句になんの関係もなく、話すら聞こうとしない相手を「被害者」と認識して同化した気分になり、「フクシマ」の代弁者を気取る。そんな勝手な空想が膨らんで「フクシマの子どものお葬式デモ」まであったとか、ただの自己中心主義に耽溺したまま、一歩もそこから進歩しようとしない。

まあ40年間、福島浜通りにいつのまにか原発が二つも出来てもまったく気づかず、中越地震で柏崎の原発が止まっても、東電が先に手を打って絶対に東京では停電が起こらないように邁進… 
…で、そのあなた達の電気のために政府が福一の原子炉の寿命を延長までしてくれて、なに不自由なく、なにも考えずに原発の電気の恩恵に甘えてくれば、過保護の結果で自己中心主義にしかなれないのも、しょうがないのかも知れないが。

だがなによりもまず、福島県には現実にその原発事故に直面し、生活を奪われた人たちがいることは忘れるべきではない。それは単に「被曝したかしないか」の問題ではない

まったく健康被害の不安が皆無とまでは言い切れないにしても、なにしろ実際に自分達に被害があるのだからちょっと勉強してみれば、福島県のほとんどの地域でさえ最優先のプライオリティではないリスクだと、皆さんすぐに理解していた。

と同時に、そうした勉強や理解が、実は250Km離れている東京や、もっと離れている大阪であるとか、東北の被災地以外の日本にはまったく共有されず、被曝したかどうかそれ自体よりも「被曝している」とみなされ差別されることで起こる問題の方が怖いこともまた、ほとんど瞬時に骨身に沁みて感じていた人が多い。

農家のなかには追いつめられて自殺者も出ている。あれから3年、本質はなにも変わってはいない

大熊町の梨農家

福島第一原発事故の被害が大きいと喧伝すればするほど、反原発という主張に説得力を持たせることには一応はなる。だからこれだけの規模の事故の割には意外と被害は最低限度でなんとか切り抜けている、ということは認めたくない心理は働くかも知れない。

だがそれを勘案しても、事故発生直後からインターネットを利用してどこそこで鼻血だの足が5本の牛だの、福島で奇形児が大量に産まれただの、「こんなの真に受ける人がいるの?」と呆れるような話が、自称「反原発」な人たち(ほとんどが匿名)の口から口へと拡散するのは、あまりに無責任というものだ。

しかもそういう、震災直後のパニック心理でやってしまったことを、反省しているわけでもない。

こんな「反対デモ」の独善を、原発事故被災の当事者になると同時に、「被曝している」と差別され、「原発マネー」などと中傷される立場に追いやられた人たちは、事故直後から気づいていた。

3年4ヶ月になる今月になって、やっと福島民友が、福島県では東京の反原発デモがどのように見られていたかを率直に論評した記事を載せたのだが、これはこの3年間、福島で多くの人たちが思って来たことそのままだ。少しは謙虚に耳を傾けたっていい。



デモの主催者側が「レッドウルフ」さんであるだけでもずっこけるのだが、そのレッドウルフさんたちがこんな「反論」をネット上に出している。

http://coalitionagainstnukes.jp/?p=4870 

もう論評する気にもならない…。

とりあえず読んで下さい。ただし途中でこのあまりに幼稚な身勝手にうんざりして止めてしまっても、僕は文句は言いません。

改めて確認だけしておく。この民友の記事で書かれていることは、実は福島では3年前から多くの人が思って来たこと、冷静に考え抜いて来たことだ。言葉も慎重に選ばれている。

だが「フクシマのため」で取材に行くんだか講演でチヤホヤされたいんだかよく分からないジャーナリストの人たちの耳には、なぜか入らなかったらしい。

それでも「これ以上故郷に原発がある現状は続けて欲しくないし、他の原発立地の人たちに同じ目に遭って欲しくない」と、東京のデモにゲストで参加した人もいる。

だがそこで彼らの多くが感じたのが、どうしようもない違和感だ。

ことさら悪意を見せるわけでなくとも、なぜこうも無神経なのか、なぜ現実を見ようとしないのか?同じことは東京から来たそういう「反原発」の人を受け入れた地元の人たちも感じていた。

たいした被曝が確認されていないいわき市の南部で、翌年には田植えを始めているた風景を見て「やっぱりやっちゃうのね。国の圧力が怖いのは分かるけれど」とか言っちゃうらしい。あんたら百姓が田畑に賭ける誇り、生き甲斐をなんだと思ってるんだ? 
飯舘村、長泥の除染実験
 無論一方で、いわき市の中央台のブルジョワ奥様だとか、福島市の大学教員のなかには、なにしろ東京に憧れ、標準語でお上品に喋るのがプライドだったりするのか、「危険です危険です」と地元で調理される学校給食すらストップさせて、東京の模倣にひたすら走った人もいる。 

広野町と楢葉町の境
日本の中央集権社会が招いた堕落とアイデンティ喪失の滑稽な悲劇であり、福島県から地元採用された東電正社員が同様の無神経さで「俺たちは日本を救ったんだ」とか同級生に威張り散らして呆れられるのと、実は同じことだ。

昨年末に特定秘密保護法が強硬されたときには、「私たちの言論の自由が奪われる」「好きなことが言えなくなる」「藤原さんだって日本でもう映画を作れなくなりますよ」とか言われ、途端にデモになぞ行く気が失せてしまった。

ちょっと待てくれよ、おい。

あれが無茶苦茶な法律であることに異論はなく、むしろ僕はもっとも厳しい批判を言って来た部類だが、この法律で僕の表現の自由が直接に侵害されることはない(処罰されるのは機密を漏らした公務員だ)。せいぜいが間接的には持っている永田町や霞ヶ関方面からの裏の噂の入手ルートがいささか枯渇する可能性がある程度だが、特定秘密保護法を使って僕が作る映画を止めることは出来ない。

だいたい、そんな国家機密の暴露がなくても、僕の政治的なテーマの映画の一部は一応は左派リベラルの日本の独立系映画業界でも敬遠されたりすることが少なくない。米軍基地(というか米兵住宅)を扱った『フェンス』の第二部はたぶんにコメディとして構成しているが、笑いが出ないどころか、どこがブラックジョークなのかすら伝わらなかったのは、日本の、それもむしろ業界の人たちだ。 
山形ドキュメンタリー映画祭では遠慮した一般のお客さんに「笑ってよかったんですね」と後で言われたほどだ。 



寄生虫と外来生物による自然破壊の話のあと、米兵の奥様たちが乳母車で赤ん坊を連れているシーンを見せて思いやり予算の総額を告げれば、普通はギャグだと分かりますよね…?

「集団的自衛権は徴兵制になるから反対です」というデモにも、同じ違和感、同じ異様な自己中心主義、なにかの理念や「これが正しいことだと信じる」という意思も見えず、客観性の欠如した、ぶっちゃけただの自己満足の感をどうしても拭い切れない。

「戦争に行くのはいやです」ならば、せめて「私は人を殺したくない」を毎回毎回、付け加えてもらえないだろうか?

「どんな理由があろうが私は殺人は悪だと信じる」と言ってくれないだろうか?言わないでもいいから、心の中でしっかり自分のなかに落とし込んでくれないだろうか?

「自衛官が殺される」だけではなく、「自衛官が人を殺す」に反対してもらえないだろうか?自衛隊は私たち国民の自衛権を担保し、いわば肩代わりすることで存在して来た組織だ(というのが従来の憲法解釈)。つまりその自衛隊が他国の人を殺すのは、私たちの国、私たち国民の名においてである。私たちはその意味で、殺人行為の間接的加害者にもなる。「それはいやだ」となぜ言えないのだろうか?

「戦場で人を殺す」とはどういうことか、この際ちょっとでいいから考えてもらえないだろうか?

第二次大戦中から、米軍では戦場における「非効率」を研究して来ていて、ごく初期から分かっていたことがある。戦場におけるいわゆる「無駄」は、その八割以上が、いざ他人を殺すときに人間が躊躇することが理由だった。 

ジョン・ヒューストン監督『そこに光あれ』 

以後、米軍ではこの人間には誰でも備わっている本能的な良心に着目し、いかにその良心の働きを弱めるかを計算した訓練プログラムの開発を進めて来た。 


スタンリー・キューブリック監督『フルメタル・ジャケット』 

イラク戦争の結果、帰還兵にPTSD患者が多く、殺人事件まで多発している理由は、ただそれだけ過酷な戦場だっただけではない。まさに「良心を殺す」ことを目標とした訓練プログラムが、その人たちの人格まで歪めてしまったのだ。

まだ60年安保で国会前で絶望的に闘った世代(つまり小学校低学年か幼稚園で、空襲で逃げ惑った世代)が、「孫を戦場にやりたくない」と言うなら分かる。



大島渚監督『日本の夜と霧』


それにしてもあなた達は、デモや政府に反対するということを、なんのためにやっているのですか?

自分が社会の一員としての責任感から、少しでもこの社会をいい方向に進めたい、悪い方向や危険な方に進むのを阻止したい、という意志は、建前だけでもいいから言わなければなるまい。

「ワタシいやなんです」だけなら、なぜ他人があなたの言葉を聴く必要があるのだろう? 
なぜ「さいかどーはんたーい」と間の抜けた踊りをやってみたり、黄色い声で「安倍死ね!」と絶叫しただけで「なんで行動しているボクの言うことを聞いてくれないの!」と、上記の「首都圏反原連」とか名乗る人たちのように勘違いしたことが言えるのだろう? 
デモとはパフォーマンスだ。パフォーマンスは観客が見るためのもので、演者の自己満足を満たすためにあるのではない。

もうひとつ滑稽なことがある。

こうした最近のデモは(官邸前にせよ、新大久保の「在特会」と「カウンター」の双方にせよ)、かつてのような組合等の組織による呼びかけではなく、ネットを使って参加者に声をかけている。

だからついうっかり「レッドウルフさん」が新聞記事になってしまうように、ネット上で知り合ったどうしの「オフ会」の感覚が抜け切れていない。

ちなみに福島民友の記者はちょっと意地悪はやっていると思うけどね。「レッドウルフ」さんだの「ぼんちゃん」さんだの「どーどる」さんなどが新聞記事に出るだけでまるでマンガだ。よほどネット依存でもしていない限り読者は失笑する。 
しかしそんなのは、気づかず実名を名乗らなかったあなた方の自業自得だ。

彼らがデモで絶叫する(しかしなんで「安倍死ね」とか言うのかね?正義のためのデモじゃないのか?)以外の発言の場も、主にネットである。

なのに彼らはネット上で批判されると、「俺たちはお前らみたいにネット上で批判してるんじゃない!行動しているんだ!」と言って批判を逃れる手口を、ほとんど水戸黄門のご印籠のように振り回せばいいと思い込んでいる。

いやだから、国会前で「死ね」と叫ぼうが(批判にもなってない)、ネット上できちんと論理を構築して筋道の通った批判を繰り広げようが、言葉は言葉です。

で、どっちかといえば後者の方が高級な言論であること、民主主義の社会にはむしろ後者が必須であることは、言うまでもない。

しかし「レッドウルフ」さんねえ…

7/09/2014

「集団的自衛権」と言う話自体が欺瞞だった


すでにこの前のエントリーで言及はしていることだが(いやその前から言っているか)、長文のなかであまり目立たないのかも知れないので、今回の安倍政権による閣議決定の重大な欺瞞を、あらためて指摘しておく。

今回の閣議決定で決まったことの本当の内容は、「集団的自衛権の容認」ではない。結論から先に言ってしまおう。安倍が言ってしまったことの意味は「中国といつでも戦争が始められるよう、日本から先制攻撃も出来るようにしました」だ。

まずミスリーディングな世論操作で誤解されがちだが、「集団的自衛権」の話を装って実際に強行されたのは、自衛権に基づく武力行使の発動のための、三つの新たな要件だ

①我が国に限らず、密接な関係の他国が攻撃された場合でも、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある
②(危険を排除する)ほかの適当な手段がない
③必要最小限度の実力行使にとどまる。

この①がこれまでの憲法の自衛権の解釈と決定的に異なるわけだが、文言だけをちゃんと読めば「集団的自衛権」に該当する「密接な関係の他国が攻撃された場合」は、「そういう場合も含む」という意味合いの付随でしかない。「我が国に限らず」、つまり第一に「我が国が」が前提となっている文章構造だ。

そして文章それ自体の要点の、本当に重要な変更は、なによりも「明白な危険がある」だけで自衛権に基づく武力行使が可能になったことだ。

集団的自衛権に関することは、そこに「他国が攻撃された場合でも」が、いわば「例えば」という感覚で付随されているに過ぎないのが、この文章の構造であることは、見逃さない方がいい。

しつこいようだけど大事なことなので繰り返しました。 
そしてやっぱり気になるので、もう一回言います。文章のキモは「我が国に」「明白な危険がある」だけで自衛権の行使が可能になっていることで、肝心だったはずの集団的自衛権は、実は「他国が攻撃された場合【でも】」という追加です。 
「集団的自衛権」に賛成だ、反対だとやっていた隙に、まんまと「霞ヶ関文学」のなかでも見事に洗練された、最高傑作レベルの欺瞞にやられてしまった。
集団的自衛権を日本にも危機が迫る場合にのみ「限定的に」(なんてことは滅多にあり得ないはずだが)行使を許すのであれば、最低でも「他国が攻撃された場合【に】」、本来ならより厳密に「【に限って】」でなくてはならなかった。

これまで日本の自衛隊が自衛権に基づき武力を行使出来たのは、日本と日本人が直接に攻撃を受けるか、その領土・領海・領空が侵犯された場合に限られていた。この制約があれば、実際に自衛行為であることに疑いの余地のない場合のみに、武力の行使が限定される。

だが新要件は根本的に違う。「明白な危険がある」というだけならば、イラクのバース党政権が大量破壊兵器を持っているから明白な危険だ、という理由でアメリカがイラクを侵略したのと同じ理屈でも、「明白な危険」に対する「予防的先制攻撃」での戦争が可能になる。

自衛のために予め先制攻撃で危険を取り除くと言えば、実際には侵略を含む戦争を始める口実としていくらでも使えるわけで、確たる証拠が実はなくても「危険だから」「我が国の存立が」という理由だけで、戦争を始められてしまうのが、新しい三要件のその①なのである。。

従来なら領空ないし領海が実際に侵犯された場合のみ、自衛隊が出動し、警告して追い出すだけで、相手が攻撃を始めない限り発砲することもなかった。だが「明白な危険がある」と言い張れば、他国の船や飛行機が国境に近づくだけで、公海やその上空、相手国の領空領海内で先制攻撃が出来る理屈になる。

日本のメディアが中国の軍艦船や軍用機が尖閣諸島の「接続水域」に、と騒ぐのは、実際には日本側の主張でも中国側領海領空に、人民解放軍が展開しているに過ぎない。 
だがこの新三要件なら、「明白な危険」つまり「尖閣諸島を攻撃するに違いない」と言い張って、国境を越えた先制攻撃が出来てしまうのだ。

安倍政権が本当に集団的自衛権、つまりアメリカの “自衛” 戦争に日本も参加したいことだけが目的だったのか、アメリカの要請で集団的自衛権を検討したのがきっかけで、この新要件の文面になってしまったのは公明党や世論との妥協や調整の結果だったとしても、結果として出来上がった文面自体が恐ろしく危険なものであることは、そう決めてしまったら今後はこの文言が一人歩きするであろうことを防ぐためにも、ちゃんと問題にした方がいい

ただしこれは完全に国際法違反であり、国連が安保理決議に基づく武力行使を決定する要件を満たしている。

安倍ちゃんの大好きな「法の支配」が厳密に適用されるなら、イラク戦争では本来ならむしろ国連軍がアメリカの戦争を止めさせるために組織されなければならない、と理屈ではそうなったはずだ。

その意味では、安倍政権がこうも恣意的に自衛権の発動要件を極めて危険なものに変更しても、(実際にそれを行使すれば国際法違反になるので)国連安保理でアメリカが拒否権を発動してくれることでも期待しない限り、実行に移されることはまずないだろう。

言い換えれば、これは日本の自衛権行使の対米従属をますます強める内容でもある。

そんな従属をされては、アメリカはかえって迷惑だろうが。

果たして安倍政権があまりに馬鹿だから気づかずにこんな文言にしてしまったのか、最初からこれを狙って、国民を騙すカムフラージュとして「集団的自衛権」を認めるのだと言って来たのかまでは、よく分からない(と言っておく)。

だが実践すれば明白に国際法違反になることも含め、この新3要件が(拒否権を持つ常任理事国である)アメリカの庇護ありきの話にしかならないことは確かだ

そのアメリカを指すと思われるのが「密接な関係の他国が攻撃された場合でも」というのもよく分からない言葉で、普通なら同盟関係にあるアメリカ一国だけを指すと解釈しがちだが、はっきりと「同盟国」と言っているわけでもない。

「同盟国」ではなくあえて「密接な関係の他国」となっていること自体は、典型的な「霞ヶ関文学」だ。 
ここがあまりにあからさまに曖昧なので、つい後の「でも」が本当は条件付けの「に限り」でなければならないことを見落としてしまう。この目を逸らさせる洗練された手口といい、相当な手練の官僚の作文に思われる−−もちろん悪い意味で。 
つまりもちろん、安倍の希望なのか書いている官僚の仕組んだわなのかまでは分からないが、これは意図的に計算し尽くされた詐術である。

安倍が中国と戦争をしたいのなら、南沙諸島を口実に、フィリピンは「密接な関係の他国」だ、ヴェトナムは日本の原子炉を買っているから「密接な関係の他国」なのだ、そして「日本も尖閣諸島が」と言って戦争を始められてしまう。いや単に「理屈ではそうなる」だけでなく、会見で安倍自身がそう言ってしまっている

「連日、ニュースで報じられているように、南シナ海では、この瞬間も力を背景とした一方的な行為によって国家間の対立が続いています。これは人ごとではありません。東シナ海でも日本の領海への侵入が相次ぎ、海上保安庁や自衛隊の諸君が高い緊張感を持って24時間体制で警備を続けています」安倍晋三記者会見より

「中国」と国名の名指しこそないが、この下りは露骨な挑発でしかない(しかも虚偽と一方的な決め付けの誇張を含む)。通常の外交ではこんなことをやれば、それこそ相手国が激怒し、戦争になってもおかしくない。その国との関係を破綻させようとする発言だ。

それでも反対する人たちを含め、なにしろ「集団的自衛権」の話だと言われて来たもので、ついアメリカの戦争に日本が参加出来るようにすることなのだと誰もが思って来てしまっているし、アメリカに命じられたのだろう、安倍はアメリカの言いなりなのだ、と疑う人すら多い。

だが、それだったらアメリカが歓迎しなければおかしい話であり、だからメディアもその方向性で一生懸命報道しようとしている−−もはや安倍政権になってからは日本のメディアの常態と言っていい、政権擁護のための歪曲で。

実際には、アメリカは国防総省の報道官が簡単なコメントで質問に答えただけだ。

ここにも、もうひとつの、大きな欺瞞がある。

本当にアメリカの要請、ないしアメリカが歓迎することならば、なにしろ日本の戦後の方針を大転換する「集団的自衛権の容認」で、利するのはアメリカなのだし、なんといっても日本の首相の一大決断なのだから、ホワイトハウスが直接に安倍に何かを言わなければおかしい。

それこそアメリカの要請や要望であったのなら、直接の電話会談でオバマが安倍に感謝なり評価の言葉を伝えなければ、釣り合いが取れない。

その当然の儀礼をアメリカが取らなかった理由は二つ考えられるだろう。その1)アメリカは日本を属国としかみなしておらず、対等の独立国としての儀礼を尊重する気すらない。その2)オバマ政権は安倍政権のこの動きをまったく評価していない。

今のアメリカの大統領がバラク・オバマなのだから、その1)は絶対にあり得ないのは言うまでもない。まさに過去のアメリカがそういう傲慢な態度を時にとって来てしまったことへの反省が、ポスト・ブッシュ、ポスト・イラク戦争の、世界の信頼を回復したいオバマの外交の原点のひとつなのだ。

もちろん正解は その2)の方で、実は「日本の集団的自衛権の行使」は、ちっともオバマ政権が望んだことではないし、この無視っぷりもその態度を鮮明にしたことに他ならない。

むしろこれまでも何度も、日本が中国を挑発して東アジアの安全保障を揺るがすこと、韓国を侮辱してアメリカの重要な同盟関係を傷つけることについて、警告を発して来たのがオバマ政権である(ルース大使を安倍が無視し続けるので、わざわざケネディの娘を駐日大使にしたのに至っては、ほとんどイヤミだ)。

ところが新三要件以上に、それを発表した安倍の会見が、露骨に中国を挑発する内容なのだ。こんなもの戦争でも覚悟しない限り、アメリカが評価出来るわけがない。

そして現代のアメリカ全体が、こんな似非「集団的自衛権」を求めてもいない。

だから保守系のワシントン・ポストのような、日米安保や日本のイラク派兵を積極的に評価して来たメディアですら、安倍の動きを危険なものとして批判し、今回の閣議決定の手続きが違法ではないかと疑いを述べている。 
当たり前のことだ。オバマの方針というだけでなく、世論におけるイラク戦争の後遺症の厭戦気分で、アメリカがどこか他国に軍事力を大々的に行使する、日本を始め列国に協力を求めるなんていう事態は、当分はあり得ない。 
しかも新三要件には「我が国の存立」「国民の」と明記され、安倍自身が会見で「イラク戦争のようなことに参加することはない」と明言してしまった。これではアメリカにとってなんのメリットもないのだ。

だから安倍政権がこうも拙速に「集団的自衛権の容認」に突っ走る国際政治的な必然性は、実はどこにもない。これはどこまでも、安倍が勝手にやったことだ。そして安倍がやってしまったことは、国際政治における日本の国益には一切関係がない。恐るべき外交音痴というか、外交上の自爆行為でしかない。

実ははしゃいでいる安倍本人以外は、どこまで本気なのかも疑わしい。さっそくこの新三要件を実践に移す法改正は、もう来年の通常国会への先送りが決まっているし、なにしろ「解釈改憲」という法論理でありえない倒錯なのだから、いざ立法手続きが取られれば、さすがに最高裁が黙ってはいまい。 
違憲立法審査権が発動されれば、首相の責任問題に発展し、内閣総辞職ものだ。

安倍が総理大臣になってからというもの、なにかがあると安倍が国内で迂闊なことを言い出さないように外遊させる、というのがこの困った総理大臣のお守りをしなければならない外務省の役目のように見える。

というわけで安倍はただいまオーストラリアに外遊中で、首脳会談で「集団的自衛権の行使容認」が評価された、と日本国内では報じられている…のだが、それがどのような言葉だったのかはぜんぜん報道で明示されないのだから、まるで眉唾である。

もちろんこの明らかに外務省発表に基づく報道を、真に受ける方がおかしい。

だいたい外務省が安倍を外遊させたがるのは、外務省記者クラブか官邸記者クラブの、自分達の息のかかった、お気に入りの記者しか随行しないからだ。厳しい質問もしないし、安倍がすぐやってしまううっかりの失言暴言は随行記者達が率先して隠してくれる。 
テレビで生中継だとそれでも困ったことが起こる。オリンピック招致で安倍が自慢げに「汚染水は港湾内0.3平方キロでブロック」を言ってしまったあと、NHKの速報ニュースはその部分を編集カットして放映しなかった。ところが安倍が祝賀会でも何度も「港湾内0.3平方キロでブロック」を繰り返すので…って、もちろん後で国会でも問題になった。まったくの嘘だったから当然だ。

実際にはオーストラリア首相は、せいぜい相づちを打ったくらいで、内容のあることはなにも言っていないのだろう。なにしろ相手は自国を訪問中の友好国の首脳である。面と向かって「あんたのやったことは違法で迷惑だ。それに危険だ」などと言える立場ではそもそもない。そんな外交辞令の冒涜は相手国との関係の破綻、下手すれば戦争の原因にまでなってしまう。

日本国民がオーストラリアに悪感情を抱くようなことをやってしまえば、輸出入や、観光にだって響く。

その上、首脳会談で決まったことのひとつは、兵器産業に関する輸出入の協定だ。ますます安倍が自分の「成果」のつもりの「集団的自衛権」を自慢げに言い出しても、相づちを打つ位しかできないのは当たり前である。

それにオーストラリアは軍事的には日本の同盟国(「密接な関係になる他国」として通常想起される国)でもなんでもなく、そもそも日本の集団的自衛権の行使なんて直接に歓迎する理由もへったくれもない。この国に歓迎されようが、実はまったく関係ないのだ。わざわざこんな無関係でたいして意味もないリップサービスをメディアに報道させていること自体が、薄っぺらな世論操作だと見抜くくらいのメディア・リテラシーの知恵は必要だ

言い換えれば、安倍本人はともかく、周囲や官僚はかなり焦っているから、少しでもポジティブに受け取られそうなネタを、なんとか報道させようとしただけだ。

実は「集団的自衛権の行使」どころではないもの凄く危険な内容の、「いつでも戦争が出来るぞ」宣言であり、仮想敵として中国を事実上名指ししている結果、既にそこまで気がつかれているかどうかはともかく国際的に極めて評判が悪く、肝心のホワイトハウスにも、国務省にも無視され、アメリカのメディアが批判一色であることを誤摩化し、あたかも中国と韓国だけが反発しているかのように偽装するための稚拙な偏向誘導に過ぎない。

だいたい他国の首脳や政治家の発言を、日本に都合良くねじ曲げて国内向けに発表し、メディアがその言いなりになるのは、我が国の外務省がいつもやっていることだ。

2010年の前原クリントン会談の外務省発表がインチキであったことは、前原自身がぶら下がり会見で認めざるを得なかった 
外務省が当初報道させたように、クリントン自身が「尖閣諸島は日米安保の適用」と言ったのではまったくなかった。 
前原が何度もその言質を求めて地図まで出して食い下がり、クリントンは「テクニカルにはそうなる」と認めただけで、続けて「だから日本が、その安保が適用されるような事態を起こすことは、アメリカは絶対に賛成しない」と逆に釘を刺されたのが真相だった。この事実を今に至るまで日本のメディアは誤摩化している。

「集団的自衛権の行使容認」を決定したのでは実はない、新たな自衛権発動の三要件を安倍晋三自身が発表した記者会見の中身となると、これはもうまったく集団的自衛権の話になっていない

今まで「集団的自衛権を認めるのかどうか」で盛り上がって来てしまった流れで、本当の内容がそうなってしまったと気づかないかも知れないが、安倍の実際の発言は、露骨に「日本は中国の脅威と対抗するのであり、中国と戦争をするためには、この新三要件が必要だ。これでいつでも戦争が出来る」と言い張る内容になってしまっている

政策発表の会見の場で、このバカ総理は事実上中国を仮想敵と名指しして、これからの日本は先制攻撃だってやるぞ、と大喜びで自慢げに脅しているのだ。まあご本人が「抑止力」などと無邪気に告白しているのだから、まぬけというか頭隠して尻隠さずというか…。

一方、こうして名指しで侮辱され中傷挑発された中国はと言えば、7月7日は盧溝橋事件の77周年だった。

またなんと最悪のタイミングで似非「集団的自衛権」、その実「中国といつでも戦争を始められるための三要件」を決めてくれたものだ

ますます「もう一回中国と戦争するぞ、先制攻撃だって辞さないんだ」と言う意味になってしまうではないか。

本来やるべきだったのはまるで真逆で、この式典にこそ、ドイツのメルケル首相だけでなく、安倍晋三自身がオーストラリアなどに行かずに出席すべきだった。日本側は首相でなければ、最低限でも外務大臣が行かなくてはならない。せめて大使くらいは列席したのだろうと思いたいところだ。ちゃんとそうやっていなくて、日本が侵略戦争を反省している、と言えるのか?

日本のメディアはこの式典や中独首脳会談、そこでの習主席の演説も、あたかも日本を挑発したかのような文脈で報道しているが、それに騙されるのだとしたら我が国の民度もほんとうに落ちるところまで落ちた、安倍晋三だけでなく日本国民がそろって世間知らずの大バカに成り下がった、と言わねばなるまい。

盧溝橋事件をきっかけに起こった、日本の当時の呼び名で言えば日支事変、歴史学的に言えば日中戦争は、日本による中国への一方的侵略戦争であり(海を隔てた他国領にここまで侵攻して「自衛のため」と言えるはずもない…はずがそれでも「自衛だ」言い張る人たちなのだから、新三要件は本当に危険だ)、日本はその戦争に敗れ、断罪され、謝罪反省することで国際社会への復帰が認められたはずだ。

なのにその記念式典を「反日だ」などと言うのなら、いったいなにを謝ったつもりなんだ、という話にしかならない。

恐るべき非常識の傲慢さだ。というか、要するに人種差別なわけですが。

しかも実際に、日中戦争が日本の自衛だったなどと平気で言い張ってしまう人たちが、その侵略加害国の政権を握っているのだ。これで中国の国家主席が日本に言及しないわけがない。

それでも習主席は、その歴史修正主義の動きについて「日本を批判」は決してしていない。あくまで日本の「一部」の、具体的な言動を批判しただけであって、日本国民全般への敬意と尊重は、儀礼上ちゃんと守った内容である

もう一点。盧溝橋事件をきっかけに日本は電撃的に中国本土への侵略を進め、中華民国はほとんど抵抗も出来ずに敗走を続けているので、その意味ではこれはボロ負けの敗戦の屈辱を記念する、日本の被害を訴えるイベントにならざるを得ないように思えるが、実際には「抗日戦争」の始まりを記念する式典と銘打たれている。 
いい加減に目を醒して欲しい。中国は(そして韓国も)「反日」などではないし、そんな意図も悪意もどこにもない。そんな言い草は日本人の側の人種差別の裏返しとしての被害妄想でしかない。 
中国のナショナリズム、愛国主義にとって大切なのは「日本に酷いことをやられた」ではなく、あくまで「苦しい戦いに勝って祖国を守った」ことの顕彰である。

自分達を日本の「一部」としか習近平が認識していない、という態度に安倍晋三たちのプライドはますます傷つくのかも知れないが、それで侮辱されたとしても侮辱されたのは「日本」ではない。あくまで、あなた達、明らかに狂ったことを言っている個々人だけだ。

繰り返すが、習氏が批判したのはあくまで日本の「一部」である。明確な意図を持ってあえて(必ずしも事実でない、と恐らくは承知の上で、礼儀として)そう言っている。「一部」つまり決して「日本」全体を敵視しているのではない、と明言しているのだ。

そこを見誤って「反日だ」などと騒ぎ出すようなら、ますます「日本は、安倍は中国と戦争をしたがっているのだ」と思われても文句は言えない。

いったいこれのどこが「日本を守る」首相なのだろう?どんどん危険な立場に、この国とその国民を追い込んでいるだけだ。

だがもっと恐ろしいことがある。「集団的自衛権」には反対している人たちですら、安倍が中国と戦争をする、そのために予防的な自衛と称して先制攻撃も出来る様になった、と言われれば、心のなかでは賛成するのではないか?

7/07/2014

まともな議論が出来ない国民の『集団的自衛権』論議


まず憲法条文では一切の例外への言及なしに「国権の発動としての戦争と武力による威嚇又は武力の行使」を永久に放棄する、と明文化されているので、その解釈で集団的自衛権をどう容認するのか、論理的にあり得ない時点でこの議論自体がバカバカしい、というのは先のエントリーで触れた通りだ。

安倍晋三は最近、「法の支配」といえば中国へのいやがらせになると思い込んでいるらしく、天安門事件の記念日でも当然「自由と民主主義」と言わねばならないところを、自分達には日本の自由と民主主義を守る気がないと無自覚に自白でもしてしまったのか、官房長官が「法の支配」とか言ってしまって失笑を買っている。

およそ正当とは思えないにせよ、天安門事件の鎮圧が中国の国内法に基づいた権力の行使だったことは確かであり、「法の支配」では批判したことにもなんにもなりはしない。これではむしろ、天安門で自由と民主主義の理想・理念のために命を落とした(「非合法」活動家の)学生達への冒涜だ。 
そんな彼らが中国の一部の少数民族が弾圧や差別抑圧、同化政策に苦しんでいることを持ち出して中国を批判している気分でいるに至っては(チベットでも新疆でも、独立運動は国内法では「非合法」だ)、もう笑い話にもならない。

そんな安倍晋三が「法の支配」とか言いながら、憲法の条文をどうひっくり返したってあり得なさそうな「新解釈」を違法性の高い手段で強引に閣議決定し、その理論を一切提示することもなく「私には思えない」という感情論だけで押し付けている。

「人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません」安倍晋三 
…ってなんなんだ、このあまりに軽薄なオコチャマな言い草?

これのどこが「法の支配」なのか、さっぱり理解できない。

南沙諸島の領有権では中国と対立関係にあるベトナムに対しても「法の支配」とか言って中国との対決を促したようだが、南沙諸島における中国の立場は、尖閣諸島についての日本の立場と同じ、係争のある領土を実効支配している側だ。

「法の支配」を言うのなら国際法の運用は公平で公正でなければならず、中国でも(南沙諸島)日本でも(尖閣諸島)韓国でも(竹島)実効支配している側に同じルールが当てはめられなければ、「法の支配」とは絶対に言えないはずなのに、安倍はいったいなにを言っているのだろう?

さすがにアメリカのバラク・オバマ大統領はもうとっくに気づいているようだし(国賓として来日した際の態度でも明白だ)、中国の習近平主席もオバマに言われたのか、気づき始めたようだ−安倍晋三とは要するにひたすら愚かな、どうしようもなく頭が悪い、話が通じない、何も分かっていない人物だ。はっきり言えばただのバカである。

そう考えないと安倍の一連の外交における行動は辻褄が合わないわけだが、「集団的自衛権」の後に開かれた中韓首脳会談では、習主席も朴大統領も、日本の歴史修正主義や異様な外交展開は「適当にあしらう」、ないしちょっとからかう、という態度のように見える。公式の会談と会見ではわざと一切話題にせず日本側をやきもきさせておいて、最終日の私的昼食会での厳しい言及をプレスにリークしたのだ。

だが問題なのは、もはやただ安倍晋三とそのオトモダチ達だけではない。

日本では集団的自衛権の行使を認めるという「憲法の新解釈(になってない)」をアメリカが歓迎したかのように報じているが、実際には国防総省が簡単なコメントを出しただけだ。

アメリカが唯一の同盟国である以上、日本の集団的自衛権はアメリカの “自衛” 戦争に協力する意味しか持たないのに、その自分達の将来の戦争に協力するという決定について、ホワイトハウスがなにも言わない。

これで「アメリカが喜んでくれた」と思うなら、日本人の対米従属の奴隷根性も落ちるところまで落ちたと言わねばならない。

それどころか日本に行ける/働けるビザ枠の拡大を匂わされて、移民労働者の送り先としての期待が膨らむフィリピン以外は、どの国も政府は公式には安倍の決定を無視し、プレスではこぞって危惧し批判する論調が世界中から吹き出ている。

この「集団的自衛権」で得するはずの唯一の国である米国の、保守系のメディアですら、「緊張を和らげなければならないはずの東アジアでいたずらに緊張を高めるだけだ」として安倍政権に厳しい批判を投げかけ、そのプロセスがどう見ても非合法であることに疑問を露にしているのだ。

これでは日本の安全保障にも国際的な地位にもなんの貢献もしないどころか、信頼を失い安全を損ねることにしかならない。なぜこんな理の当然のことすら、日本では反対を表明するメディアでさえはっきり言わないのだろう?

「集団的自衛権」で「普通の国」になることは、冷戦の末期から日本の保守系政治家のオブセッションであった。だがそれはもう20年以上前の話だ。その20年以上のあいだに集団的自衛権が行使された代表的な戦争は、NATOによるユーゴ空爆、湾岸戦争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争、アラブの春でリビアへの介入、と言った事例が挙げられるが、どれひとつとして世界の安全保障に貢献したとは言い難く、むしろ禍根を残しその地域を不安定化させ、イラクとアフガニスタンとリビアに至っては惨憺たる結果しか招いていない。

「集団的自衛権に基づく武力行使」自体が、もはや時代遅れの安全保障論なのだ。

一方で2007年には、小沢一郎がより革新的な憲法の新解釈を提示している 
国連が完全に主導して世界の安全を守るためなら、国権の発動とは言えず、むしろ前文と9条に明記された「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言からして、日本は積極的に参加すべきである、との論だ。ところがこれに対して当時の自民党から出た反論もどきは、国連の軍事活動は前線での活動も含むので、自衛隊員が死ぬ、危ない、という話だった。 
いやもう…なんという卑怯で臆病な自己中心的発想しかない、理念も矜持もなにもない「政治」なのだろう? 
小沢の主張は、単に日本の軍事力行使の話ではなく、世界に向けて国連中心の新たな安全保障体制の確立を訴える画期的な、少なくとも「かっこいい」ものだったのだが。

オバマ政権はブッシュ政権の失敗を反省するあまり、継続した介入や政治的圧力が必要だったイラクのマリキ政権からも手を引いてしまい、国内の宗派に基づく対立を放置してしまったほどで、日本に集団的自衛権の行使に基づく戦争協力を要請する可能性なぞまず当分はない。

まだブッシュ政権、小泉政権とその後の安倍、福田、麻生の自民政権のときにこういう決定をしていれば、違憲性が高く反発と警戒は当然招くにせよ、これを強引にでも通す理由は分からないでもなかった。 
だが今やることには、周辺諸国へのいやがらせの虚勢で警戒心を抱かせる以外に、なんの国際政治上の意味ももち得ないのが、この「集団的自衛権」なのだ。

しかもアメリカの国益からしても今もっとも安定してくれていなければ困る東アジアにおいて、いたずらに緊張を高めて来た日本が、「集団的自衛権を行使出来るように」と言ってこれまでの平和主義を覆すことを言い出しているというのが、国際政治の文脈における今の状況だ。

しかもその中身は、実は集団的自衛権の話ではないのだから、安倍晋三がやっているのは二重の詐欺でもある。実際に閣議決定された中心は自衛権の行使に関する新しい三つの要件だ。

①我が国に限らず、密接な関係の他国が攻撃された場合でも、我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある
②(危険を排除する)ほかの適当な手段がない
③必要最小限度の実力行使にとどまる。

集団的自衛権の行使なら、「我が国の存立」はそもそも関係がないはずだ。他国の自衛戦争に介入することが集団的自衛権なのだから。そこを安倍政権は「集団的自衛権の行使は限定的で」と詭弁で誤摩化して一見わけが分からなくなっているが、よく見れば①と②は実は、一方的に他国を敵国と認識して先制攻撃を行うことも自衛権の行使として容認する、という意味であり、③はただの言葉の上での言い訳に過ぎない。 

自衛のために先制攻撃が許される、という暴論で「大量破壊兵器」を理由にイラクを侵略したのが、アメリカのブッシュ政権である。今回の閣議決定は、まさにその同じ理屈で自衛隊による武力行使を容認する内容に、実はなってしまっている。

こんなものはアメリカにとってすら(「限定的」であくまで「日本が危険」でしか行使されないのであれば)はっきり言えば「ありがた迷惑」どころか危険でしかないし、そもそも今のアメリカはいわゆる普通の「日本の集団的自衛権」すら必要としていない。

まるで外交の戦略性の欠如したタイミングの愚行でしかなく、実は恐ろしく危険なのが、今回の安倍政権の決定だ。

アメリカだけではない。東アジアと東南アジアのあらゆる国々、ひいては世界中にとって、急速に成長を遂げた中国の巨大経済を抱える東アジア圏は、是が非でも安定してくれなければ困るのに、安倍はその安定をぶち壊すことばかりしている。

それもそのもっとも中軸となるのが、既に巨大経済大国である日本と中国の関係が安定し、順調であることであり、それは日本の経済にとっても死活問題であるはずなのが、安倍晋三のやっていることはまったくわけが分からない。

日本国内でだけは、あたかも中国が尖閣諸島を狙っていて、これまでも主張して来た領有権を強引に実態のあるものにしようとしているかのように思っている。

だが実際には、現状はどう贔屓目に見てもどっちもどっちであり、日本のメディアがたとえば「尖閣諸島の接続水域に中国軍の艦船が」とヒステリックに報道しているのは、日本側が主張する国境線の中国側領海で人民解放軍が展開しているに過ぎず、実は領海侵犯でもなんでもない。

ちなみに少なくともタテマエでは、尖閣諸島の周辺の日本が実効支配する海域空域に入っても、中国や台湾の立場ではそれは「領海ないし領空侵犯」にはならないが、両国ともそんなことは慎重に避けている。

それを言うなら、これまでの「棚上げ」約束を反古にし、さらに米国からも「やるな」と言われていた(それも前原・クリントンの外相会談で、はっきりと)、自衛隊の艦船および航空機の尖閣諸島周辺での展開を実はやってしまっていたのが日本であり、しかも「自衛艦がレーダー照射された」と大喜びで騒ぎ出し、その約束違反をうっかり公表してしまったのが安倍政権なのだ。

しかも現状の尖閣諸島をめぐる対立自体が、日本側の二度に渡る約束違反の、客観的に言えば挑発でしかない行動が原因だ。

まず菅政権の際に、民間の船は警告して追い返すだけ、上陸した場合は逮捕するが即座に強制送還、という約束を破って密猟の漁船を拿捕し船長を逮捕、それも日本の国内法の刑事手続きに違反して長期勾留したことがある。

日本では「体当たりして来た」と報道されているが、実際には突然包囲され拿捕された漁船がなんとか逃げようとするのに、海上保安庁の船がわざとその航路に立ちふさがってぶつけさせたのが真相だ。

そしてこの時も、中国は日本の法定の拘置期限が切れるまでは静観し、アメリカの圧力で日本が拿捕監禁した船長を釈放した後は、関係修復の努力を続けたのは一方的に中国側だった。

ところがこれに懲りずに日本側は、次の野田政権の時に一方的に尖閣諸島の国有化を宣言し、国連で野田自らが、なにもしていない中国をあたかも国際法違反であるかのように言いがかりをつけて挑発する演説をしてしまった。

その前に東京都知事だった石原慎太郎が「都が買う」と言ったのが悪い、と野田を擁護する人もいるかも知れない。 
だが慎太郎がその動きを見せたときには、中国政府は「日本国内の経済取引に我が国が口をだす謂れはない」とだけ外務省報道官が述べ、静観を表明していたのだ。日本が実効支配している事実は尊重し、そこで日本国民がたとえなにかの設備を建設しようが、それは日本国民の私有財産権の範疇であり、中国が批判すべきではない、という国際的には極めて当たり前の態度を貫いたのも中国だった。

野田の挑発行為に対しても、中国はこれまた外務省報道官のコメントだけで済ましている。

もっとも「現代の国際法は第二次大戦の結果の世界秩序に基づく」というたかが報道官のコメントで完全論破されてしまっては、野田首相の面目はまるつぶれではあるわけだが。

これ以降、尖閣諸島をめぐる状況はまったく動いていない。

いわば完全に外交的に敗北した日本が国内に引きこもった状態で、オバマとしては政権の交替による打開を期待したら(野田の自爆解散はオバマに再選祝いの電話を断られたから、が真相だ)、その結果が安倍晋三という悪夢のような想定外になってしまい、ひたすら硬直状態、さらには安倍政権の歴史修正主義による挑発東アジアの緊張が高まる結果になってしまった。

これも日本の報道はほぼ無視しているが、安倍はアベノミクスの宣伝のために呼ばれたダボス会議での演説で、中国との戦争も辞さない、としかとれない演説をしてしまい、欧米の保守系メディアがこぞって批判どころではない、警戒を露骨に表明している。

その安倍政権の詭弁に、今回もまたメディアも協力しているせいで、国民は完全に誤解しているようだが、仮に尖閣諸島を防衛する必要があっても、それは集団的自衛権にはなんの関係もない、個別的自衛権の範疇だ。

安倍が「抑止力」と言っているのに至っては、完全なナンセンスで、ただ「より日本がフリーハンドに戦争が出来るようになった」という漠然とした不安を周辺諸国に与えるだけだ。それが「抑止力」というのなら、それは憲法が禁じる「武力による威嚇」でしかない。

これまで日本国内で行われて来た「集団的自衛権」をめぐる議論自体が、客観的に見れば違法であり違憲、しかも現実の国際情勢に照らし合わせて意味不明であり、ただのバカかキチガイとしか思えず、しかもこの場合は文字通り「キチガイに刃物」にしか見えないというのが、ミもフタもない今の日本をとりまく国際情勢の現実なのだ。

これだけ尖閣諸島に熱狂しながら、実際にその領土領海を利用する気すらまるでない日本は(これも馬鹿げたこととして、日本人が上陸することも禁じられ、周辺の日本側漁民の操業も許されていない)、この領土係争がなぜあるのかすら理解していないらしい。

実効支配をしながら国民が利用することもない領土領海に、こうも異様に執着すること自体、ただ隣国に対する不条理な敵意が動機の嫌がらせにしか、ハタ目には見えない。 
というか実のところ、それだけが日本側の動機なわけだが、要するに中国が経済規模で日本を抜いたことがコンプレックスで、差別意識を丸出しにしているだけだ。

だいたい最初から中国側、周恩来が自国にとって不利なはずの「棚上げ」を田中角栄に提案し、台湾とも話をつけてくれたわけで、中国にとってタテマエでは領有権を主張せざるを得ないものの、この島々に領土的野心はないし、そこになんのメリットもなく、リスクばかりが大きいのが現実でもある。

中国および台湾の主張は、これは清朝から日本が植民地侵略の過程で奪った領土であり、終戦とともに中華民国に返還されるべきものだ、と言うことである。

相手の主張も理解せずに外交だの安全保障が出来ると思うのは、重度な引きこもりだとしか言いようがない。中国と台湾(中華民国)は、それぞれにサンフランシスコ講和条約で領土が返還される国と国民の主権の継承者として、その領有を(たかが無人島であり、建前に過ぎないとしても)主張しなければならない立場にある。

だがこれは言い換えれば、日本がもし領有権を放棄するなら、その瞬間に中華人民共和国と中華民国のあいだでこの島々の領有をめぐる、国家のプライドを賭けた衝突が始まる、ということでもある。1972年の時点ですら北京も台湾もそんなことを望んでいないから「棚上げ」になったわけであり、現代では中国と台湾の密接な経済関係があるなか、下手すれば台湾海峡で軍事衝突の危機すら覚悟するような状況は絶対に避けなければならない。

つまりはっきり言ってしまえば、尖閣諸島を巡る危機というのは菅、野田、安倍の三代の日本の政権が勝手にマッチポンプで騒いでいるだけであり、安全保障上の危機でもなんでもなく、個別的自衛権が発動される対象にすらならないのだ。

米中首脳会談では、オバマが習近平に、中国が自らの主権を主張することは、合法的で武力行使を伴わない限りは支持する、と言ったことが報道されている。つまりは国際司法裁判所に持ち込んでカタをつけてはどうですか、と日本の同盟国であるはずのアメリカが奨めているという意味にしかならないことを、日本のメディアでは誰も言わない。

「国際法上明らかに日本領」という、しょせん日本政府が言っているだけの、客観性の皆無な話を、必死で尊重だかカルト信仰でもしているつもりなのだろうか?

だが日本の公式見解は、既に昨年このブログで指摘したように、実際にはかなり脆弱なものだ。もっとうまい主張があり得るのに、このままでは絶対に負けるようなことしか言っていない。

1895年から日本領?いやそのずっと前から琉球王国の重要な交易航路上に位置し、周囲は豊かな漁場で、琉球人がずっと生活に利用して来た、が主張の根幹じゃなければおかしいのに、1895年以前は「無主地」?日本は自国の歴史も知らない、東シナ海の交易ルートが日本という国家と民族の成立に密接に関わっていることすら知らんのか? 
尖閣諸島が「無主地」であったことなど、日本の歴史記録に残るそれ以前からあり得ない話だろうに。 
これは竹島でも同様で、日本政府の主張内容はまったく馬鹿げている

本気で尖閣諸島を守りたいのなら、せめて公式見解を見直してもう少し説得力を持たせる努力をした方がいい。だいたい中国にとって今もっとも重要な世界相手の商売を投げ捨てる覚悟で、いきなり武力侵攻なんてするはずもないだろうに。もし本気で領有権を狙って来るなら、まず国際司法裁判所に決まっている。

尖閣諸島の領有をめぐる日本の主張が植民地主義時代の時代錯誤、もう100年前の理屈だろう、と言われるような周回遅れであるように、今の「集団的自衛権」をめぐる議論も圧倒的に周回遅れな話でしかない。なぜ世界に冠たる経済大国の先進国、しかも教育水準の高さでも尊敬を集めるはずの日本が、こんな奇妙な時代錯誤をやっているのか、まるで理解不能である。

ところが日本国内で大真面目に交わされる話を見ていると、もっと面食らってしまう。

確かにいかに実効支配しているとはいえ、南沙諸島の開発を始める中国のやり方はいささか強引だし(とはいえ騒いでいるのは日本のメディアだけだ)、それ以上に中国との経済関係は自国の経済成長に不可欠ではあっても、あまりに巨大過ぎるその経済と商売のやり方の強引さに、「中国に飲み込まれるのではないか」という危機感もまた東南アジアに広まっている。

韓国でさえ先の首脳会談で、金融が中国に飲み込まれる危険性を含む協定を受け入れてしまった。台湾では馬英九の国民党政権が中国と締結したサービス協定に学生が台湾の労働環境の破壊に繋がるとして国会を占拠する抗議活動が盛り上がった。
そこで「中国経済に飲み込まれる」危機感を抑え、アメリカの言いなりになって板挟みにならないためにも、本来ならより関係を密接にしてバランスをとりたい大切な国が、日本のはずだ。だが日本はそんな近隣諸国の期待に気づきもせず、安倍晋三などは就任早々、自国が加盟するかどうかも決まっていなかったTPPへの加盟を薦める珍妙な行脚をやって、途中で立ち行かなくなってアルジェリアの人質事件を口実に日本に逃げ帰っている。

だがそうした中国の「脅威」があるとしても、およそ軍事的なものではないし、戦争なんてデメリットしかないことをどこの国も考慮すらしていない。むしろ徹底して回避する。

一方で中国や韓国を含む東アジア、東南アジアの国々にとって、日本は今でも最重要の経済パートナーのひとつであり、もっとも憧れる国でもある(敗戦のどん底から平和国家の経済大国として復活を遂げたこと自体が、近代史において特筆すべき偉業なのだ)。経済成長を遂げた中国や韓国以外の、たとえば東南アジア諸国では、だから現代の日本との関係を重視し、戦争中に侵略されたこと、その支配の暴虐については、なるべく言及して来なかった。

ところが日本ではそれを「親日国家」だと思って有り難がるのならまだいいのだが、植民地から解放してやったのだから感謝して当然だとか、挙げ句に中国に対抗して連携しよう、そのために集団的自衛権だ、などと本気で言い合っているのである。

開いた口が塞がらない。

タイ、バンコク、サイアム広場
たとえばインドネシアで「日本がオランダの支配から解放してやった」なんて言ったら呆れられる。日本はただ侵略しただけであり、日本支配の三年間はオランダの250年よりひどい、とすら言われている。従軍慰安婦問題はインドネシアにもあり、その被害で一生を奪われながら、今も生き延びている女性たちもまだ生きているし、「Ianfu」という言葉が一般に知られてさえいる(教科書にも載っているそうだ)。また戦後を通じて日本の経済が大事だった一方で、それが独裁体制を支えていたことも認識されている。

インドネシア、ジャカルタ

ミャンマーでもフィリピンでもヴェトナムでもタイでもマレーシアでも状況は同じようなものだ。ただ今の日本との関係を悪化させたくないから黙っているだけ、日本人に気を遣ってくれているから言わないだけだ。

しかも一緒に組んで中国と対抗する?

平和ボケの裏返しのパラノイアの、常軌を逸した軍事力崇拝もたいがいにするべきだ。そもそも世界史において、軍事力に頼って自国を守って来れた大国なんて数えるほどしかない。

人口だけでも巨大国家で、今や経済大国である中国と軍事的に対決する力なんて、東南アジアのどの国にも最初からないし、今後持つこともあり得ない。下手にアメリカの後ろ盾などに頼ったところで、ヴェトナム戦争の悲惨の再現になるだけだということを、日本のような平和ボケ幻想に浸ってはいられない国はどこでも理解している。

バンコク、旧市街、王宮前の市場でも中国語の看板
バンコク、路地裏
だいたい、東南アジアのどの国にも、中国系の住民がいて、社会のなかで重要な地位も占めている。東アジア、東南アジアは歴史的に中国文明圏であることを忘れられては困る。
バンコクの反タクシン派デモ現場でも中国語
バンコク、街のあちこちに見られる中国文化

ジャカルタ、中華街
巨大化を続ける中国経済に飲み込まれないためにも、東南アジアも台湾も韓国も、日本との密接な関係を期待しているのは確かだし、自動車から電子機器から無印良品やUNIQLOの日本ファッション、コンビニエンス・ストアや牛丼などの外食チェーンまで、日本の商品やサービスは高給イメージで生活に浸透し、日本との関係は今でも密接だ。

バンコクのショッピングモール。まるで日本テーマパーク
武力に頼らず大国として復活したこと、武士道が平和主義を含んだ世界でも稀な武人の哲学でもあることから、『ドラえもん』や『一休さん』などのアニメや、恐らく世界でもっとも多くの人が親しんだテレビドラマであろう『おしん』も含め、文化的にも憧れの的だ。

だが間違っても、軍事的な結びつきを強め、中国を一緒に敵視することなぞ、誰も求めてはいないし、そもそも現実的にあり得ない。

7/02/2014

「解釈改憲」は【あってはならない】のではない、論理矛盾で【あり得ない】 のだ


なにが気持ち悪いって、「解釈改憲」なる言葉が日々新聞紙面に踊り、ネット上を飛び交い、テレビから流れて来ることくらいに心の底から気持ち悪いことも、近頃めったにない。

いったいどこの大バカものがこんなバカげて意味が通らない言葉を知ったかぶりで捏造したのか知らんが、もし安倍晋三とそのオトモダチたちが「解釈改憲をやるんだ」と言っているのなら周囲の人間は諌めるどころか嘲笑するか叱りつけて「勉強し直して来い」と追い返すべきだし、もし誰かが安倍が集団的自衛権に関してやろうとしていることを「解釈改憲」と批判したのなら、その時点で議論終了だとはっきり安倍に言ってやればいい、いや言うべきだった。

「解釈改憲」なんてことは【あってはならない】のですらなく、そもそも論理矛盾で【あり得ない】ことなのだから、考えるだけ無駄だ。

なのにその後もまったく馬鹿げた話に時間や税金やメディアのリソースを無駄遣いするのは…日本は原発事故があって、原子力発電を再開するのかどうかを決めなきゃいけないんですよ?そんな電気の浪費を許していいのか?

はっきり言って、集団的自衛権に関しては、反対していると称する人すら、こんな当たり前のことをなぜ誰も言わないのかが謎だし、本当に反対なんですか、と疑いたくすらなって来る。

繰り返すが「解釈改憲」なんて言葉は論理矛盾そのもので、まず単純にあり得ないことでしかない。憲法の条文に反するのなら、そこから論理的に導き出せることでなければ、そんなの「解釈」とはそもそも言わない。というわけで議論終了、はいさようなら。

…と本当にこれで済ませればいいはずだし、具体的な話はもう昨年の8月に、とっくにこのブログで書いているから繰り返すのもウンザリなのだが、もう一度。

日本国憲法第九条は、国権の発動としての戦争と武力の行使を禁止している。自衛隊があるのは国の自衛権のためではない。自衛権と言えども国の自衛権なら「国権」だからだ。ならばそれを理由に軍事力を行使してはいけない、と憲法には明記されている。
自衛隊の存在と活動が憲法の枠内で許されているのは、国の自衛権は行使できないが国民には自然権として当然正当防衛の権利、つまり自衛権がある。これは憲法では一切制約されていない(よほど特段の理由がない限り、制約してはいけない)。 
国の自衛権では決してなく、あくまで国民の自衛権を肩代わりして国民の生活と生命と財産の安全と自由を守る、国家の自衛ではなくあくまで国民の自衛のための軍事力としてのみ、自衛隊はその存在が許されている。

これが自衛隊が設置されて以来ずっと、内閣法制局による9条の解釈だ。「憲法解釈を変える」という話を議論するのに、元の解釈がまず明示されないこと自体、狂っている。

…というか狂っているのは今に始まったことではない。 
ほとんどの日本人が、政治家も含めて、なぜ9条があるのに自衛隊が合憲になるのか、その憲法解釈を知らないまま疑問にも思わず、今はこの元の解釈を知らないから安倍晋三内閣ごときの詭弁に手玉にとられているのだ。

では同盟国などが攻撃されたか、自衛の先制攻撃で戦争を始めた際に、自衛隊を出せるのだろうか?普通に考えて、答えは一瞬にしてNOだ。

同盟国ということは国どうしの関係であり、集団的自衛権とは国の自衛権の行使を個別でなく集団で、という話でしかあり得ない。ところが日本の場合、国の自衛権(国権の発動)で軍事力は行使してはいけない、と憲法に明記されている

よって集団的自衛権に基づく武力行使はNG、違憲。

だいたい個別自衛権VS集団的自衛権、という言葉の選び方と議論の設定からして、ミスリーディングなのだ。「個別自衛権」と言ってもそれは日本という国の「個別」ではない。この点では反対している人たちの多くも言っていることがおかしいし、なぜ憲法解釈の問題で憲法の条文それ自体を持ち出さないのか、理解に苦しむ。本当にやる気があるのか?

大前提としてはっきりさせるべきなのは、集団的自衛権の行使を可能にする解釈を、日本国憲法からひねり出すのが可能かどうかだ。

普通にどう考えても論理的にあり得ないし、安倍晋三が反論したい、「『集団的自衛権』を認める憲法解釈を」と言うのなら、その解釈を憲法条文からちゃんと論理的に導き出さなければ、そもそもお話にならない。

今まで一切、その肝心の解釈の理論を出して来てない以上、安倍政権も外務省も防衛省も、準備すらしていないのだし。

だからこんな議論はやっても無駄、で本来なら話が終わらなければならない。まともな法治国家なら議論するだけバカバカしい、というだけで済む。まったく国会も、内閣法制局も、最高裁もなにをやっているのだ? 国会議員たちなんて、憲法すら論じられない立法府とは、悪い冗談にもならない。

わざわざ軍事オタクの自民党の二世だか三世がのこのこ出て来て、よく分かってもいない安全保障政策を論ずるフリを演ずるまでもなく、これはまず第一義的に憲法の問題なのだから、あくまで憲法に則った論理的解釈を闘わすのが出発点でなければおかしい

安倍たちが現実にありえない具体的な事例を15だか8つだか出して来たことは、その事例が馬鹿げていてまったく具体的でも現実的でもない以前に、まず論点がズレている。

そんな議論を始める前に、どうやったら9条の条文から導き出される合理的解釈で集団的自衛権による軍事力の行使が許されるのか、まずその解釈をきちっと示すこと。話はそれからです。で、それはどう考えたって論理的に無理です。お話の順番が完全にひっくり返っているじゃないか、まったく。

今日のエントリーは最初、「まともな議論が出来ない国民の『集団的自衛権』論議』と題するつもりだった。
まあ「解釈改憲」なんて言葉を書くだけで、自分でもバカバカしくなってしまうのだし、その言葉を読んだだけで失笑して、最初から終わっている話なので、読まずとも内容が題名で分かる方が親切だろう。

だいたい、あり得ないと分かり切っている「解釈改憲」を許すか許さないかなんて議論すること自体、最近安倍ちゃんが大好きな「法の支配」の意味すら分かってない愚論であり、もう単純に恥ずかしい。なにが「美しい国」だ?

ひたすら無自覚に馬鹿を曝け出しているその痴態が単純に生理的嫌悪感すら及ぼすのが、この「集団的自衛権」をめぐるすったもんだだ。

だからますます腹が立つのだ。いつまでこんなみっともない、まったく美しくない真似を続けるのか?

集団的自衛権の行使を制約する三つの要件だと高村さんたち与党が言っていることに至っては、本気で言っているのならただのバカだけに危険過ぎるし、わざとなら極めて悪質かつ危険な詐術だ。

自衛権による武力行使が認められるのが「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合というのは、イラク戦争やアフガン攻略で米国のブッシュ・ジュニア政権が持ち出した、先制攻撃による自衛の権利という暴論以外のなにものでもない。

これは集団的自衛権の容認以上に危険な内容だ。ドサクサで紛れ込ませたとしたらあまりにもひどい。

まさにイラク戦争が好例なように、こんなことが自衛権による武力行使の要件になるなら、どんな言いがかりでもつけて「自衛権の行使」と称して先制攻撃で戦争を始められてしまう

たとえば尖閣諸島周辺の接続水域、つまり日本の主張する国境に基づいて中国側の領空領海に中国艦船や人民解放軍機が展開しただけで、これまで領海領空が侵犯されなければ自衛隊による対応が許されなかった制約もなく、「自衛」の名の下に攻撃が出来てしまう。

つまり「なんでもあり」で事実上いつでも戦争を始められてしまうし、より直近では、要は中国にいつでも戦争が仕掛けられる条件を、安倍政権はまんまと手に入れたことになる(といって日本国内の法的制約に過ぎず、無論国際法的に認められることではない)。

こっちの方が集団的自衛権よりもさらに問題も危険性も大きいことに、なぜ野党もメディアも誰も気づかず、自民党を批判しないのか?

だが不正直さと不真面目さ、論理的思考も現実の認識分析もすっ飛ばした感情論による誤摩化しが気持ち悪いし腹も立つのは、安倍晋三らいわゆる推進派だけではない。

反対派を称する人が日曜には新宿駅前で抗議の焼身自殺を諮り、一昨晩からは首相官邸でデモもやっているそうだが、自分の足で行動するのはけっこうなことだとは言え、熱意や悲壮感の発露もいいが、その前に少しは勉強くらいしてはどうか?

なぜ集団的自衛権に賛成するにも、反対するにせよ、憲法の条文をちゃんと踏まえて議論しないのだ?

こと反対ならば、「この条文ではどう読んでも不可能です。反論があるならどうぞ」とまず言わなければならなかったはずだし、これだけでほぼ確実に安倍晋三の子どもじみた野心は終わりになる。

「戦争に巻き込まれるのは」以前に、こんな解釈になってない解釈が通るはずがないし(なんたって「解釈改憲」ですよ、そんな論理矛盾そもそもあり得ない←しつこい)、もし通してしまったらおよそ立憲国家の政治家や政治ジャーナリストの資格がない。というか、「解釈改憲」=「ありえない」と気づいていないだけでも、野党も自由報道協会も含めて全員クビ!

いやなに、安倍さんはただ、自民党の歴代首相が出来なかったことを「ボク出来たもん」と自慢したいだけなのだし。

いやなに、デモに行ったりする人たちの真剣な思いは出来れば疑いたくはない…のだが、とはいえこっちの方でもさすがに、もう三度目ともなると、未だになんの学習能力もないやり方を繰り返しているのに、今さら信じろというには無理がある。

なにしろもう三度目の、敗北主義に彩られた「国会ないし官邸前デモ」、最初から勝つ気がないのか、と思われても仕方がないやり方しか出来ていないのだ。

その1)「反原発」と言いながら、大飯原発の再稼働が既定路線になってから「さいかどーはんたーい」と踊り出しただけで、なんとなく電力が足りなさそうだ的なことを匂わすだけの政府に対し「ならばまずきっちりと電力の供給能力データと需要データを出せ、議論はそれからだ」とは誰も言わなかった。だいたいいずれ原子炉を再稼働させようとするのは想定の範囲内だし、それが夏の需要が増える時期になるのは理の当然なのだから、半年前には需給データの精査を要求していなければ阻止なぞできない。

これで勝てるわけもなく、再稼働の前日に悲壮感たっぷりに国会前だか官邸前でみんなで涙を流し… 
…って、あれは自己陶酔のためではなかったのですか?本気で阻止する気なら、少しは考えるべき戦略というものがあるだろう?

その2)特定秘密保護法案に反対するデモが昨年にはあったわけだが、あろうことか始まったのは参院での議論が膠着してからだ。またもや阻止するにはあまりに遅過ぎるし、しかも法案の問題点がどこにあるのかも指摘できない(おそらくはよく分かってない)杜撰さで「言論の自由がなくなる」とか…

僕らなんかは同業者の一部に、「映画が作れなくなりますよ」とまで言われた。いやすみませんねえ、最初から官庁から機密情報を映画のネタ用にリークして頂けるなんてこと、僕には滅多にありませんし、そんな国家機密を暴露する映画を作る予定もない。僕らにはまったく関係ありませんから。
というか、あなた自分が反対している法案の中身を知らないで反対してたんですか、ってな具合である。

その3)今度は集団的自衛権でも、デモをやるならまず立ち上がるのが遅過ぎる。国会が終わって、直接的に安倍達を止める手段がなくなってからやっとだ。しかも子どもでも気がつく楽勝の理論武装が本来ならあるのに、なぜ言わないのか?「9条の条文を読んで、どうやったらそんな解釈が可能なのか説明して下さい」、安倍晋三に対する殺し文句はこれで済む。

国会の議論がぐちゃぐちゃになっている時にデモかければそれなりの効果があったはずだし、今回だってなんに反対しているのかはっきりさせなきゃ、安倍晋三程度なら論破できるくらいの理論武装をしておかなければ、デモの意味がないでしょう?

これは考えるのもイヤなことだが、考えざるを得ない仮説がある…というかフロイトとか精神分析理論でも援用すればすぐに出て来る結論である−−原発の再稼働にしても、特定秘密保護法にしても、そして集団的自衛権にしても、反対を称する人たちも実は本音か、あるいは無意識・無自覚には、それらが必要だと思っているのではないか?

実は必要だと思っているから、自分は反対したという言質というかエクスキューズ作りをやっているだけではないのか?

本気で反対なら、議論に勝つ理論武装は必要なわけで、まず憲法の条文くらいは最低限でも読むだろう?というわけでハイ復習。

1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

で、この条文をちゃんと読めば、ここで僕が(このブログだけでも二度目に!)書いたことくらいすぐ思いつくはずだ。どうへ理屈をこねようが、集団的自衛権を認める解釈はあり得ない。

だいたい「抑止力」とかいう冷戦時代の時代遅れの安全保障論を持ち出しているのも、違憲なのだ。「武力による威嚇」は禁止なのだから。

仮によく考えなかったから思いつかなくても、だいたい僕が既に書いていることです。無料で読めるブログなんだからどんどん利用して下さって構いません。 
自分たちではうまく言える自信がないなら、論客だかオピニオン・リーダーとして利用したいんだったら、どうぞ僕を支援して、有名な知識人かなにかに祭り上げて下さいな。 
そしたら安倍さんに面と向かって言ってやりますよ、「まず9条の条文をどう読んだら『集団的自衛権』による武力行使が認められ得るのか、それをお答え下さい」。 
これで安倍さんが答えられなければ終了、夜遅くまで官邸前でたむろってる必要もないから、みなさんお家に帰りましょう。せっかく官邸前に来たんだから残って祝杯あげたい人はどうぞ。遥かに楽ではないか。どうせ安倍は答えられないんだから。

実は反対だ、自分は反対なんだ、と言わないと右翼みたいに思われるのがイヤで反対と言っているだけなのではないか? 本当は9条をきちんと守って、専守防衛で国民の生命と生活と財産の安全を守る場合だけ武力を行使出来るという自衛隊では、みなさん実は不安なんじゃないですか?

もしそうならば「解釈改憲」なんてそもそもあり得ない論理倒錯はもちろん、反対派のフリなんてやめて、ちゃんと憲法を改正する議論を始めて下さい。

なんちゃって、本気で日本の安全を守りたいのなら、そんな話もまた必要ないのである。

そもそも今の東アジアの現状で、戦争が始まるとしたら始めたがっている国はほぼ確実に安倍晋三の日本国だけだ。他の国は戦争なんて今始めるメリットがないと分かっている(いや日本だってなんのメリットもないのだが)し、むしろ絶対に避けたい。

東アジアは今や世界で最大規模にして最強の経済圏である。

その商売を守り、自国の経済の安定に結びつけることが、どの国にとっても最大にして最優先の国益なのだ(北朝鮮だってそれは変わらない)。戦争なんてもっての他なのだ。

尖閣諸島?あれは日本がナゼか一生懸命中国を挑発して既に完敗している(野田の国連演説に対し中国外務省が「戦後の国際的な法秩序は第二次大戦の結果に基づく」と報道官のコメントで済ませただけで、議論は終了中国の圧勝)、から「落とし前は付けて下さい」と言われているだけだし、仮に中国があの島々を自国が支配したいのなら、国際司法裁判所に持ち込みさえすれば、まず勝てる

それにアメリカだって巻き込まれたくない(日米安保により集団的自衛権を行使して日本を防衛する義務がある)から、あそこで軍事衝突が起こることを許さないという態度を貫き、「戦争を起こすな」と中国ではなく日本に対して、繰り返して牽制して来ている一方で、中国には既に国際司法裁判所に持ち込むのなら賛成する、とすら伝えている。

国務省と国防総省は今後万が一、またイラク戦争のような事態になったときには便利だから、日本の集団的自衛権を一応歓迎のポーズはとらざるを得ないが、現政権にとっては中国に不信感を抱かせるだけなので(習近平に「ほんとうにあの日本をなんとかしてくれませんか。アメリカの子分なんでしょう?」とまた言われるし)、むしろ迷惑がっている。4月のオバマ来日でも、それは彼の態度にはっきり出ていた。
だいたい中国の本音は一貫して、あの島々は日本が今のまま領有してくれた方が都合がいいのだ。 
日本が領有権を放棄でもしたら、今せっかく良好な関係を築き経済の要になった台湾と、国のメンツをかけた大げんかを始めざるを得なくなり、中国全土のあらゆるビジネスをうっちゃって、たかが無人島のために台湾海峡が緊急事態、ということにすらなりかねない。

集団的自衛権を憲法解釈の変更で認める(というのは条文を見る限りどうやっても不可能)にせよ、改憲で9条をいじるにせよ、そんな必要がない東アジアの現状で、今そんなことをやれば、周辺諸国の不安と疑心暗鬼を買うだけだ。それこそ安全保障リスクそのものである。

本気で日本という国を守りたいのなら、こんなもん賛成しちゃいけないのである。こんな話、安全保障政策としてもまったくの無駄どころか害悪しかない。

なお「他国の戦争に巻き込まれる」から反対というのは、それはそれで正しい主張ではある。

まったく安倍晋三とその周囲は嘘しかつけないのか、言ってることが嘘だと分かってないのか、そこへ行くと自民党の高村さんなんかは自分が嘘をついていることが顔に書いてある状態でテレビに写っていた。政治家があんな顔をしたらその政党には二度と投票してはいけない、という知恵すら我々日本人は失ってしまったのだろうか? それとも自分達が本当は共有している嘘を、自分達が言わずに済む、政治家が全部肩代わりしてくれることに安心出来るから、支持するのだろうか?

集団的自衛権とは、ヴェトナム戦争やアフガニスタン侵攻、イラク戦争のような事態、あるいはユーゴ紛争の際にNATO諸国がサラエヴォを空爆したような戦争行為に、日本も参戦することである。それ以外の意味は、「集団的自衛権」という概念にはまったくない。つまり、日本と日本人の安全に関係のない場所で、他国の自衛権のために戦争をやること、有り体に言えば「他所の戦争に巻き込まれる」ことだ。

外務省と自民党にとって、湾岸戦争に参戦出来なかったこと、イラク戦争でブッシュ・ジュニア政権に「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と恫喝されて水道工事に自衛隊を派遣し失笑を買ったことがトラウマなのは分かる。だが、ならばそういう戦争に参戦できるよう憲法解釈…は条文があの内容である以上無理だから、憲法を変えます、となぜはっきり言えないのだろう?

まるで美しくないです。どこが「日本は美しい国」なのか? 日本は本来なら「嘘つきは泥棒の始まり」とみなす文化伝統がある国ですが、あなた方のやっていることはつまり、日本を泥棒国家同然に貶めることでしょう?

こんな詐欺のなにが「法の支配」なのか?だいたいあまりに稚拙ですぐバレる嘘を繰り返してしまう、その頭の悪さが二重に恥ずかしい。なのにそれを指摘しないで反対派のフリをしていることもまた、同様の偽善に見えて来る。 
こうした政府と政権の欺瞞を、なぜ野党も識者もメディアも「嘘はやめましょう」とはっきり言わないのか? 
反対デモはなぜ「安倍晋三よ、嘘はやめろ」と言わないのか?

日本の外交的発言力は確かに、現状あまり高くない。それを軍事力の有無、戦争が出来ない憲法を持っていることのせいにしたがる人たちも多く、そんな人たちもまた集団的自衛権に賛成しているのだろうが、これも完全な勘違いだ。

日本の外交的発言力が低いのは、説得力がないからだ。なぜ説得力がないのかと言えば、言っていることがヘンだから、というのがいちばん大きい。

「解釈改憲で集団的自衛権を使えるようにします」なんてバカなことを言ったら、ますます「日本はなんでこんなおかしなことしか言わないのだろう?」と思われるだけだ。