1/16/2018

伊藤博文は “農民” だったから、明治維新は身分に関係なくて「志」?(安倍首相おなじみフェイクニュース)


今年は明治維新から150周年になるが、安倍晋三首相の新年の記者会見の全文をたまたま見ていて、ちょっとびっくりしてしまった。明治維新は「武士、農民、町民、それまでの地位や立場に関係なく、志を持った人々が全国各地で立ち上がり、明治国家建設の大きな原動力となった」のだという。


安倍首相年頭記者会見(全文と動画)
https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2018/0104kaiken.html

冗談も休み休み言って欲しい。1867年から68年(慶応3年から4年・明治元年)の政権交替は、要するに徳川幕府から薩長の下級武士の維新政府へと権力が移ったことで、確かに武士階級のなかでは最上位とほぼ最下位で身分がひっくり返った革命にはなるが、しょせんはその武士階級のなかの話だ。

武家以外の身分の参加といえば、公家の岩倉具視が権力の中枢についたが、農民町民の「参加」があったとしたら、大政奉還の前後に「ええじゃないか」音頭ブームが広がった程度のことだ。

今村昌平監督「ええじゃないか」1981年

あるいは武家階級以外の身分からの「明治維新」への支持であれば、官軍の東征の先鋒になったのが相楽総三ら「赤報隊」で、年貢を半減するという明治天皇の勅令を吹聴して廻るのが主な任務だった。これは確かに街道筋の農民にすぐに広まったわけで、そういう意味では新政府への支持は一応広がったように見えた。

ただし西郷隆盛が実質指揮する新政府軍は、年貢半減の噂があまりに広がり庶民に本気で信じられてしまうと、相楽総三らを「偽官軍」と断じて、デマを振りまいたとして処刑してしまった。

 岡本喜八監督「赤毛」1960年

要するに、武家以外の身分の関わりで言えば、農民から見れば武士が自分たちを騙しただけなのが明治維新だった。

それどころかこの赤報隊、大政奉還と王政復古クーデタがあった慶応3(1867)年の後半には、江戸市中で強盗や放火、辻斬りなどのテロ行為でさんざん江戸の一般市民の命を危険に晒していた。江戸町奉行所の役人がこうした殺人犯を追跡すると、逃げ込んだ先は薩摩屋敷だ。江戸市民の命を危険に晒す犯罪行為に怒った幕臣たちがついにこの薩摩屋敷を攻撃して焼き討ちにしたと報せを受けた、京都にいた西郷隆盛は、「これで倒幕の大義名分が立つ」と喜んだとも言われている。

そして翌慶応4年の3月には、新政府軍は人口100万超を誇った江戸の町民を犠牲にしてまで江戸城総攻撃もやる気だった。なんとかこれを食い止めたのが2人の将軍未亡人、篤姫と和宮だ。和宮が官軍の名目上の上層部だった幼なじみの公家衆や元婚約者の有栖川宮を説得し、島津斉彬の養女・篤姫がかつて自分の婚礼を担当した西郷を説得したのだ。

それにこうして江戸庶民の生命が危険に晒されたずっと以前から、幕末政局の舞台になった京都では、市中で殺人を繰り返して天皇のお膝元の住民の命を脅かし続けたのが薩長の倒幕派だ。

長州藩などは禁門の変を鎮圧されると、腹いせの放火で京都の中心街を焼け野原にしている。

つまり「明治維新」は武家階級のなかの権力闘争で農民や町民にとって頭の上を通り過ぎて行っただけの「革命」に過ぎなかったどことでは済まない。新たな国家の権力を確保しようと争っていた「明治維新」勢力は、自分たち武家以外の農民や町人の命なんてなんとも思っておらず、平気で騙したり殺したりしていたのだ。

そんなテロリストの新興勢力の突き上げを食らった幕府が、政治権力を独占した統治する側の責任感から、他の身分の生命・生活を守ろうと腐心していたのが幕末の「明治維新」政局の実態だ。

ところが安倍さんは全身分が、身分に関わりなく「志を持った」結果が明治維新だという。その根拠は、

「初代内閣総理大臣の伊藤博文は、もともとは農家の出身であります」

なのだそうだ。

記者会見でこんなこと叫んで、よくもまあ記者さんたちから失笑が漏れなかったものだ。

まったく報道がないのも不可解で、10年前だったらあまりに無知非常識な「総理の失言」がおおいにワイドショーを賑わせていたんじゃないか?

「明治維新」についてはなにしろその後戦前までは、現体制・政権の正当化そのものだったので徹底的に美化されて来て、「維新の志士」が今で言えばテロリスト、長州が京都を焼け野原にしたこともあまり知られておらず、戦後もこの歴史を客観的に検証して一般に報せる努力はほとんど行われないままだが、それでも「伊藤博文は農民だった」はさすがに誰が聞いてもびっくりするような話だ。

普通に人名事典やWikipediaでも調べてみても、無論ちゃんと「武士」と書いてある。要するに下級武士の出身(実家は足軽)で、それ以上の伊藤の出身についてなんて歴史的に重要ではないのでほとんど誰も知らないし、興味も持って来ていない。

青年時代の伊藤俊輔(のちの博文)

そのまったく知られていない史実を言えば、確かに長州藩士で足軽身分の家の出の伊藤俊輔(のちの博文)は、今の山口県光市あたりで産まれたときは農民の子だった。幼名は利助で父は林十蔵という(ちなみに江戸時代には名字を公式に認められていたのは武士以上だったが、ほとんどの庶民に名字はあった)。

林家は貧しくここでは食べて行けなかったのか、やがて萩に移っている。江戸時代の後期には農民の子でも寺子屋などで教育を受けるのが当たり前で、こと教育熱心な気風があった萩で、利助が私塾に通い始めたところ、勉強がとてもよくできたという。林家はこの利助の才覚を見込まれたのと、なにしろ貧しかったもので、一家がまるごと長州藩の中間の養子になり、その中間が今度は足軽の伊藤家の養子になった。林十蔵は足軽の伊藤重蔵になり、息子の利助は12歳から武士階級で、武士として元服して俊輔を名乗った。

つまり伊藤俊輔、のちの博文はどこからみても武士階級の長州藩士だから「維新の志士」として活躍しただけで、12歳までは農民階級だったなんてわざわざ言及されることがめったにないのも、強調するような意味もないし、そもそも歴史を理解する上でまるで重要なことでもない。

強いて言うなら、むしろ勉強ができたので見込まれて武家の養子になったというのは、江戸時代の身分制度が実際にはそんなに厳格なものでもなかったという、現代人があまりよく分かっていない当時の社会のあり方を示す逸話だろう。

確かに身分・職業は原則として世襲だったのが前近代の日本だが、それだけでは才能がなかったりその職業に向かない跡取りでは家業が傾くことにもなりかねない。だからこの貧農の林家→武士の伊藤家のケースのように、養子がとても多かったのだ。


ところが安倍さんの頭の中では、たまたま伊藤が12歳までは農民の身分だった一事だけで、明治維新は「武士、農民、町民、それまでの地位や立場に関係なく、志を持った人々が全国各地で」となってしまうらしい。

史実はまったく逆だ。戊辰戦争で最大の激戦となったのが会津若松城の攻防戦でのことだ。会津武士は新政府軍の猛攻相手によく戦った一方で、東北への進軍を指揮した板垣退助は会津領に入ったとき、善政で知られた会津松平家なのに、武家以外はあっけなく新政府軍に服従して協力的だったことにショックを覚え、それが後に国民の政治参加を謳った自由民権運動を旗揚げする大きな動機になった。 
江戸時代に徳川家が推奨した上からの善政は一定の成果を上げていて、250年以上平和も実現したし、そのなかで日本人はそれなりに幸福だったので、自分たちは自分たちの職業や地域社会の生活に意識が向き、上に立つ人はしっかりやってくれているのだから自分達が国の行く末に関わろうという意識は、恐らく希薄だったのだろう。

だいたい「全国各地」って…?幕末・維新を取り上げたドラマや時代劇映画でも、舞台はひたすら京都だけなのも、まともな常識がある日本人なら誰でも知っている。

大名家が京都に入ること自体が墓参や寺社参拝など以外の目的ではタブー視されていたのが江戸時代で(武家全体の天皇への忠誠は、武家の棟梁の徳川家が代表していたので、大名が天皇と直接接触するのは謀反の疑いになる)、幕末期でも京都にいたのはごくごく一部の雄藩と、京都と天皇を守る任務を持っていた幕閣だけだ。

要するに、京都と薩長土肥や松平春嶽の福井藩などの一部雄藩を除けば「志を持った人々が全国各地で」どころかまるで逆、ほとんどの地方は「明治維新」にまったく関わっていない。京都の宮中でどんどん暴走して行く倒幕派を傍観するしかなく、気がつけば戊辰戦争に巻き込まれただけだ。

この総理、歴史に限ったことでもないが、とにかく自分に都合のいいことだけを取り上げて、その切り貼りだけで世界観を作ってしまうらしい。この演説も批判されたら「伊藤博文が農民出身なのは事実だ!」と言い張るのだろうが、これってフェイクニュースの典型的な詭弁ですよ。

それにしたって武家の養子で跡継ぎになってるんだから武士以外のなにものでもない伊藤博文が、産まれは百姓だったから「農民が明治維新で志を持って活躍」になるとは、安倍さんの歴史修正主義趣味も、こうなるとただのギャグにしかなってない。

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