4/17/2011

エドワード・ヤン、「人生は本当はシンプルなものだ」

 エドワード・ヤン『Yi Yi: a one and a two』(2000)

エドワード・ヤンが中国語ではただ「一」という数字の二度繰り返し、英語題は「一と二」とだけ名付けた遺作、日本の公開題名は主人公一家の末息子の名前をとって「ヤンヤン 夏の想い出」となった、この上なくシンプルにしてこの上もなく複雑な人生の機微を見せる映画が、久々に東京で上映中だ。

  4月22日まで高田馬場の「早稲田松竹」にて
  http://www.wasedashochiku.co.jp/lineup/nowshowing.html

「アジア映画」の枠組みに押し込められてしまいがち、それは未だ商業的にはアメリカ中心、芸術文化的にはヨーロッパ中心の植民地主義的な構造が残る世界の映画界のなかでは下に見られがちなハンディを意味するのだが、エドワード・ヤンが1980年代以降の世界映画でもっとも重要で、もっとも優れた、その作品の芸術的価値の最も高く、その映画の提示する哲学的な意味がもっとも知的で、洗練され、そして深い映画作家の1人であることは、間違いがない。

結婚式で始まりお葬式で終る映画。「結婚式は縁起のよい日を選んで、赤いものをたくさん飾って賑やかにするものだが、現実にはそんなに幸福なものとは限らない。一方で葬儀は悲しいものだとされているが、静かに心を落ち着かせられる場でもある」(エドワード・ヤン)

未だに建前は中華民国を名乗る台湾という国の持つ歴史的に複雑なアイデンティティの混沌と、その軸足の定まらない社会のなかの少年時代の心の闇に切り込んだ記念碑的な大作『クーリンチェ少年殺人事件』の深遠な政治性は、ドイツ社会の偽りの戦後を揺さぶり続けたライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの過激さに比肩し、近代化する社会のなかでの女性のアイデンティティの揺らぎを鮮烈に捉えた長編デビュー作『海辺の一日』はすでにイングマル・ベルイマンの哲学的な女性の実存の探求と並び称されるべきものであると同時に、巧みなフラッシュバック構成はベルトルッチの『暗殺の森』に互角の奸智を見せ、都市生活者の孤独を凝視する『台北ストーリー』『恐怖分子』の洗練を極めた冷徹さはミケランジェロ・アントニオーニをも圧倒しかねないものであり、その作品に一貫する映画メディアそのものへの問いかけは、ジャン=リュック・ゴダールに一歩も引けをとらない。

8歳の少年はひたすら他人の背中の写真を撮る。「自分の背中は、自分では見られないでしょ」

ひとことで言うのなら、現代映画とは、エドワード・ヤンのことなのだ。

高度に文明化した「現代の世界」を適確に見せ続ける感性をこれほど洗練させ、そこに生きることの人生の意味そのものをかくも奥深く追及し続けることが出来た映画作家は、我々の時代においてエドワード以上には、いない。

   『台北ストーリー』

   『恐怖分子』

   『独立時代』

そのエドワードが、『クーリンチェ少年殺人事件』で台湾史と自分の前半生を総括した後、「台湾は豊かになった。台北でもロサンゼルスでもパリでもベルリンでも東京でも、人間の生活はそう変わらない世界だ。だからこそ僕は、これからは若い世代に語りかけなければならない」として作った『独立時代』『麻雀』を経て、到達した境地であるこの映画は、これまでの作品のすべてを引き受け、その自分自身への解答ともなっていながら、とてつもなくシンプルで、難解さのかけらもなく、ひとつの家族の日常をただシンプルに、淡々と見つめる。その深い感動に比肩しうる映画は、映画史上に小津安二郎の『東京物語』くらいしか思い浮かばないかも知れない。

実のところ、あまりに見事にそれまでの作品で提示して来た現代人の孤独と精神の空虚への解答ともなっているこの映画を見て、エドワードに「この映画でひとつだけ心配なのは、このあとどんな映画を作るの?これが遺作でもおかしくない」と尋ねてしまった。

彼は笑って「まだ映画でやりたいことはたくさんあるから心配要らないよ。今度は刑事ものをやりたいと思ってるんだ。アメリカで、シアトルを舞台に中国系の刑事が主役になる。最近のアメリカ映画を見ていると、アクションの撮り方があまりになってないので腹立たしいんだ。正しいアクションの見せ方をアメリカ人に教えてやるつもりさ」と笑っていたのだが…。


だが映画史上もっとも悲痛な喪失の物語でもある『東京物語』とは真反対に、ただもっともシンプルな数字である『一』の繰り返しだけの題名を持つこの映画は、人生そのものを受け入れたときに目の前に広がる大きな希望に、満ちあふれているのである。

そしてこの映画の7年後にこの世を去ったエドワードが、実はこの映画の撮影中にすでに大腸がんの診断を受けていたことを知って見る時に、我々はそのフィルモグラフィを貫く驚くべき真実に、気づかされるのだ。

 エドワード・ヤン『海辺の一日』冒頭部

『海辺の一日』の終盤近く、二人のヒロインの一方の兄でもう一人のヒロインのかつての恋人だった医師が、がんで亡くなった時の様子が、妹であった女から恋人であった女へと告げられる。

そのすべてを、人生の失敗も挫折も、死をも受け入れる言葉は、実はこのエドワードの遺作とまったく同じことを、すでに語っていたのだ。

すべてを受け入れた先の再生、それは今のこの日本でもっとも求められているものなのかも知れない。

 『Yi Yi: a one and a two』お葬式で終る映画

そしてエドワードの映画、とくに『独立時代』『麻雀』とこの遺作の晩年の三作品が語っているのは、その再生は我々が自分から虚心に探求しようとし尽くしたそのときにだけ、唐突に、簡単に、見つかるのだということだ。

すべてを受け入れたとき、この世界はささやかな奇跡に満ちている。エドワードはそっと、そう呟き続けている。

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