それとも単に、本数が多すぎてついていくのが大変? なにしろ37歳で早死にしてるのに、監督している作品本数は40本超っていうんだから、まあなんとも忙しい。粗製濫造? いや確かに荒々しい、題材の乱暴なまでの過激さにばかり注目が集まる一方で、極めて直裁なスタイルの作品が多いが、実は相当に緻密な映画作家でもある。最盛期には一年に2本も3本も長編映画を作ってるこのスピーディーさ、少しは見習わないと。一部の作品はDVD上映になってしまうらしいが、フィルムで上映するものは状態もいいし、必見。そろそろニッポン人もファスビンダーを「発見」してもいい頃だ。「ニュー・ジャーマン・シネマ」の後の二人、当時から日本で人気だったヴェンダースとヘルツォークに較べ、ロマンチシズムのかけらも見せない乾いた空気感は、今の日本にはむしろしっくり来る気がする。ファスビンダーの見せる人間はしばしばミもフタもなく身勝手で、なまじやさしさぶりっ子が横溢する日本産の映像には,少なくとも刺激的に新鮮なはずだ。この写真は『マリア・ブラウンの結婚』のファーストシーンだが、いきなりこの強烈なコントラストですからね、のっけから。

『マリア・ブラウンの結婚』は物語自体は戦後の混乱した西ドイツ社会のなかで戦争未亡人になったハンナ・シグラが逞しくのしあがってく女傑一代記、日本が世界に誇る異常人気テレビドラマ『おしん』(世界でもっとも多くの人が見たテレビドラマの部類に入るらしい、とくに発展途上国で絶大な人気を誇る)みたいなものなんだろうが、彼女の直面する困難とその振り払い方が、まあ『おしん』とは正反対と言えば分かり易いかも知れません。公開当時の日本では批評家もみんなひいちゃったらしく、ファスビンダーとしては手抜きとしか思えんこの後の『リリ−・マルレーン』の方がよっぽど評価されたみたいだが、むしろこの逞しさは凄みすらあって(というか凄みそのもので)あっぱれとしか思えんのですが。日本の大人の男って、こういう点ではダメだよねぇ。強い女は母親役割の強さでないと怖くて逃げちゃう、というか、土日の過去ログの続きでいえば、自信に満ちて威張るのは自信のなさを必死で隠してるせいなのかも知れん。
時節がら異様に強烈なのが、もともとファスビンダーの問題作のなかでも最大の問題作と言われる『キュスタース小母さん天国に行く』だろう(この上と下の写真)。ただし当時攻撃されたのとは別の理由で。フランクフルトの、父の帰りを待つ慎ましい労働者の家庭で、ラジオの臨時ニュースが聞こえる。工場で労働者が上司を撲殺し、機械に飛び込んで自殺したという。その労働者というのがなんと、この家の主だったキュスタース氏で、突然降って湧いたような妻の災難が始まる。ジャーナリストは酒に酔うと暴れる暴力夫というセンセーショナルな記事をでっちあげ、共産党の地方幹部夫妻は彼女を利用しようと、夫は労働者の権利を守るために戦ったのであって方法が間違ってただけだと彼女を説得する。息子は妊娠中のホワイトカラーのインテリ妻の言いなりで、保養のためにアイスランドに休暇旅行で葬式にも参列せず、急を知って舞い戻って来た歌手の娘はでっちあげ記事に協力してその記者の愛人になる始末。
愛と誠実さが意味を持たない社会のなかで家族も身勝手でバラバラになるというのは、ファスビンダー映画に共通する家族像だから今さら驚かないはずだし、ジャーナリストがでっちあげ記事を書き上げるプロセスの描写は見事にシンプルかつストレートで圧巻かつスリリングだが、そのこと自体は現代社会では当たり前とすら言えるメロドラマで、今さら怒るようなことではない。なにが叩かれたかといえば「共産党への中傷だ」ということだったらしい。
『キュスタース小母さん天国に行く』の真の過激さはここにある。皆が夫が死んだ理由を整理した物語を求め続ける。ジャーナリストは紋切り型の薄っぺらな父権批判のステレオタイプの物語をでっちあげ、共産党は労働者の英雄としての物語をでっち上げる。それは私利私欲や打算でももちろんあるのだが、それ以上にこの不可解な事件の理由をなんとか理解したいという衝動に突き動かされているからだと、ファスビンダーの映画は示して行く。しかももっともその物語を求めているのは、でっちあげられた物語に搾取されていると表層上の物語が示しているはずのキュスタース小母さんなのだ。映画はその小母さんの素朴で狂おしいまでの愛に共感しながら、一方でその彼女が完全に誤ってもいることを示して行く。
なにが辛いって、ついこないだの秋葉原の事件や、事件後20年経って死刑執行となった宮崎勤とか、気がつけば我々は必死で犯人たちの物語を求めてしまっている。映画の共産党幹部が創り出す物語は、考えてみれば秋葉原の事件について派遣労働の不当を訴えるときの論理とほぼ同じものだし、物語作りに関してはこのブログだって同罪だ。どうも映画を作っているときにはほとんど必然的に物語の曖昧化や解体をやっている僕自身が、文章ではどうしても物語の論理にのっとられてしまっている。一方で秋葉原の事件では、犯人自身が孤独な自分という破綻した物語を自分で綴り続け、その結末としてあの事件に行き着いた。一方で宮崎勤の物語は事件の発覚で始まり、我々が納得できる物語を見いだせないことをあざ笑うように、ほぼ確実に詐病であろうでっちあげの物語を次々と作っては20年間我々を翻弄し続けた。まるでファスビンダーがそのすべてを見越していたようにも思えてしまう。まあ、おかげで僕自身は自分の過ちに気づけたわけだが。

まあとにかく、この際だから見直す映画も含めて、いっぱい見ましょう。
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