最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

6/23/2008

写真は「真を写す」のか? ドキュメンタリーはどうなのか?

あるいは、ぶっちゃけた話「真実」なんて本当に存在するのか、ということにもなる。この週末から開催中の「難民映画祭」で、エロール・モリスの最新作『Standard Operating Procedure』が上映された。


残念ながら国内公開の予定は今のところないらしく、映画祭での上映はこの一回だけだったので、見逃した人にはもうしわけないのだが、あまりにも高級で奥の深い、複雑怪奇な傑作なので、公開なんてしないでもいいようにも思えてしまう。ヘンな言い方だとは思うが、じゃあこの傑作をまともに受け止める度量が今の日本の映画業界と称するところにあるかと言えば…。一般の観客には素直に受け取って深く考える人も絶対にいるだろうけれど、そこに伝わるようにこの映画を論じたり評価したり宣伝できるのか? 最悪、誤解をふりまいて映画を潰してしまうことにもなりかねない気もする。

断っておくけれど、この映画を議論すること自体が恐ろしく高度な知性を要求されることもまた確かなのだろうが、そういう能力の問題だと言うわけではまったくない。むしろ自分の権威主義や「正義」を表明したい自己顕示、映画に詳しいとか「分かっている」フリをしたがる、あるいは超大国アメリカを批判できる自分に酔う、要するにその威張りんぼな自意識をどこまで超えて、「分からないからこそ怖い」と率直に認められるかどうか、その恐怖に肩書きも地位も関係ない一人の人間として向き合えるかどうかの問題だ。

映画というのは本来、見る人ひとりひとりが自分の人生に照らし合わせてなにかを学ぶメディアのはずだ。いちいちアンドレ・バザンの「ミイラ・コンプレックス」やラカン心理学の鏡像を持ち出す気もしないが、要するに映画のなかに見ているる他者から、その他者についてどのように見ている自分について知ることなしに、本当に映画を見たことにはなるまい。現代映画にもなれば我々はほとんど強迫観念のように我々の作っている映画がどう世界を観客に見せているかの視点それ自体を、いわばタネ明かしのように組み込みさえしている。それをあたかも客観的な知識のように分析したフリをすることで、その偽装のなかに自らもまた限界をいっぱい抱えた人間であることを隠蔽してえらぶろうとしたろころで、そのような「映画ギョーカイジン」の自己満足にお客さんがつき合ってくれる必要性がどこにあるのだろう? その必要性がある場所は一カ所しかない−−「映画ギョーカイジン」の欺瞞的な自我のなかだけだ。しかも映画というのは本来、そういう欺瞞をもっとも毛嫌いする表現メディアのはずなのだ。

スクリーンの前にあらゆる観客が平等なだけでなく、映画を成立させている機械のシステムの前には我々もまた万能のクリエイターではない。お客さんも作り手も共に生きているこの世界という空間と時間に対しては、我々もお客さんも同じくらい時には無力な存在でしかあり得ない。もちろん我々の方が作ってるだけ責任は大きいにせよ、それは責任を負うということであってそれを言い訳にこっちが偉くなるようなことでは、本来まったくないはずだ。

Standard Operating Procedure』はなによりもその写真表現、映画表現の本質をまず浮かび上がらせている映画だ。なによりもまずこの映画の関心の出発点は、悪名高いアブグレイブ虐待事件の写真だ。だがここで出て来る写真/映像に写っていることがどこまで本当なのかは、この映画の主人公たちがどれだけ自分たちの証言を「本当だ」と本気で言い切れるのかどうかと同じくらい、あやふやな問題にならざるをえない。それらが何を意味するのか、映画作家自身が、それが自分にとっても深淵な謎であって単一の「真実」ぶった解釈謎あり得ないことを明示している。それを「映画ギョーカイジン」が自分たちだけには真実が分かっているといわんばかりの態度で威張ってしまうためにこの映画を褒めるなら、その時点で「なにも分かってないじゃん」と一般の観客に痛烈に批判されても文句は言えないはずだ。でも一部の人はそれでも文句を言って自己正当化に必死になるんだろうけれど−−この映画の旬人工たち、アブグレイブ事件の当事者だった米兵たちの必死の自己弁護に較べれば、はるかにとるに足らない自己満足のために。


悪名高いアブグレイブ刑務所の米憲兵による収容者虐待事件の真相を探る映画として、政治的にいかにアメリカのイラク侵略が巨大な誤りであったかを糾弾する映画という側面も重要は重要だし、虐待事件に関わってしまった米兵たちが陥った「戦争の狂気」の恐ろしさが、この映画を非常に力強い反戦映画にしているのも確かだ。でもそういう政治的なプロパガンダが目的だったらエロール・モリスはこういう映画にはしなかったろうし、実はそんなことにはほとんど興味がないのかも知れない。むしろ「正義」のプロパガンダを鵜呑みにして「アメリカけしからん」と溜飲を下げたい薄っぺらに政治的な観客には、この映画は不満だらけになるかも知れないし。もっとも「アメリカけしからん」なんて、ことイラク戦争については最初から分かりきっていたことだから、今さら映画でいちいち主張して欲しくもないけれど。

まだ一回しか見られていないから、僕もこの映画を解説したり論評する自信もない。自分がどう考えなにを思ったかすらまとめられない。この我々の世界がいかに混沌としたものであり、「真実」を記録し混沌を整理して理解しようする道具が、逆にその混沌をかえって深い闇にしていることを、この映画は語っているのかもしれない。

いずれにせよ、当事者たちの証言からアブグレイブの真相が明らかになると思ってエロール・モリスがこの映画を作っているのではまったくないのは確かだ。証言はあくまで証言であり、当事者が言ってるんだからたぶん本当なのだろうと同時に、あくまで本人がそういう物語として自分のうちに記憶しているに過ぎない「事実」でしかない以上、それだけですでにエロール・モリスの好む言葉でいえば「人物の内的なフィクション」でしかない。ホロコースト否定論を扱った『死神博士の栄光と没落』、マクナマラ元米国防長官の一人芝居(?)の『フォッグ・オブ・ウォー』、そしてイラク戦争とアブグレイブ事件を扱った『Standard Operating Procedure』と、戦争と歴史に関わるきわどい題材の作品がここ数本続いていながら、彼の映画の根本的な興味は常に「人物の内的なフィクション」であって、初期の怪作・大傑作の『ヴァーノン、フロリダ』以来まったくブレていないとも言える。

とはいえ『Standard Operating Procedure』でモリスが一歩大きく踏み込んでいる点が二つある。フロリダ州の片田舎の寝ぼけたヴァーノン村の人々は勝手に誰にも迷惑をかけずに自分たちの内的フィクションの世界を妄想し続けているだけかも知れないし、自称世界最高の死刑技術の権威「死神博士」ことフレッド・ロイヒターにせよ、『Fast, Cheap and Out of Order』のカラフルな主人公たち(猛獣の曲芸師、庭師、ロボット工学の世界的権威に、動物学者)にせよ、厳然と自分たちの世界を自分で作って護り続けられる意味では個性と自我が完成した人間たちだ。そしてロバート・ストレンジ・マクナマラといえば20世紀最高の知性、もっとも頭のいい人間の一人かもしれない。その恐ろしく頭のいいマクナマラが驚異的な論理性を徹底させながら回想する、彼自身がその積極的な一部であった20世紀の戦争の歴史が、その頭の良さにもかかわらずまったく不条理でばかばかしく、人類史上最大の愚行の連続にしか見えなくなるところに、『フォッグ・オブ・ウォー』のスリリングさがあった。

『Standard Operating Procedure』の主人公たちを加害者と捉えるかシステムの犠牲者と見るか、それを問うこと自体がこの映画を誤解することにつながりかねない。ひとつ言えるのは彼らの誰一人として「自我」と呼べるほど確固たるものをまったく持っていないことだ。アブグレイブ事件に関わった人間たちは皆自分に不安な存在、右も左も分からないまま戦争状況に放り込まれて、戦争という精神状態と軍隊組織という精神構造にすっかり浸食されたなかで自分たちの「内的なフィクション」を作りあげている。これまでのエロール・モリス映画の主人公たちが自己弁護をするとしてもそれは自己表現のための自己弁護だったのが、この映画の主人公たちは必死に社会や周囲、もしかしたらこの映画にも強制された自己弁護のための自己表現をしている。そこが痛々しく、そして恐ろしい闇がそこにある。

この映画を見てもアブグレイブ事件の「真相」は分からない。むしろその真相が到達不能なことを、映画は確信犯的な堂々巡り構造を次第に過激に露にして行き、ダニー・エルフマンがフィリップ・グラスばりの旋回構造的旋律を本家グラスよりもよっぽど執拗にやっている音楽が、その行き場のない永久的な回旋運動を裏付けさえしている。なるほど、複数の当事者たちの証言は一見、事件について一致した見解を示しているようにも聞こえて来る。現場に三台あったというデジタル・カメラで撮られた、同じ出来事の複数のカメラの視点からの写真も、なにが起こったのかを立体的に浮かび上がらせるようにも見える。だが一方で、それでも写真はフレーミングのなかに収まることだけを忠実に記録するに過ぎない。フレームの外になにがあったのか、映像に物理的には決して写らない人間の「内面」がどうなっていたかは、一台でなく三台もカメラがあってマルチアングルで撮られているからこそ、かえってそのフレームの外にあったか、なにかの物体が死角を作って見えなくなっているところにある暗闇の存在を不気味に浮かび上がらせる。

証言も一致しているからかえって不自然だ。取材に応じていない二人の下士官、フレデリック軍曹とグレイナー伍長が首謀者だったことで他の当事者が一致すればするほど、その二人のいい分を聞かないわけにはいかない。だがこの二人がある理由によって取材に応じられない状況であることにも次第に気づいて来るし、実際にその理由は映画のラストで明かされる。あるいはアブグレイブで収容者を尋問していた米政府機関がFBIやCIA、軍情報部と組織が分かっているぶんはまだいい。だがそのリストアップの最後に現れるOGAという略称、「Other Governmental Agencies、その他の政府機関」というカテゴリーの不気味な響き。


ここに浮かび上がる闇は二つある。ひとつは巨大な権力の闇。だがこの映画のなかではもっと恐ろしいかも知れないのが、絶望的な立場に追いやられた当事者たちの個人的な闇だ。反論できない二人にすべてを押しつけ、得体の知れないOGAのせいにすることで、彼らは責任逃れをしているとも受け取れる。だがもっと怖いのは、もしかしたら彼ら自身がなぜ自分たちがああいうことをやったのかをまったく理解できていないし、理解できる精神状態ではなかったとも思わせられるところだ。その内なる狂気におびえながら、彼らはただ必死に自分たいが一応は納得したフリのできる物語を求めているのかも知れない。なかでも「軍の蛮行の “記録” を残しておくために写真を撮る」とアブグレイブで働いていた当時から恋人に手紙で書き送っていたサブリナ・ハーマンが、それでも拷問で殺されたイラク人の死体をいっしょに写真にうつっていることは我々を困惑させるしかない。それも微笑んで、親指を上げた「good」のポーズで。

その真相もまた、なぜ事件が起こったのかの真相と同様に、分からない。言えるのはこの事件が確かに起こったことだ。彼らの撮った膨大な、その多くが目も当てられない中身の写真と、彼らの克明な証言が、その表層的な事実を確かに証明している。だが写真があって証言が積み重ねられれば重ねられるほど、我々は「真実」なるものに到達することなぞできないのかも知れないという究極の真理に行き当たる。それは光り輝いて世界を照らす「真理」ではなく、不気味な影、闇としてすべてを浸食していきそうな、、恐ろしい真理だ。撮影の鬼才ロバート・リチャードソンの生み出す強烈にまばゆい,白い光にあふれた再現映像の輝きも、目くらましにしかならず、光はなにも照らさない−−我々が狂っているのかも知れないという恐ろしいことを指し示す以外には。アブグレイブの膨大な写真たちは事実の断片を写しているのと同時に、我々がその見た目のショッキングさに留まってしまうことによって、なにか大きな闇を隠しながら、体現している。その闇とは、なぜそこで彼らが写真を撮ったのかというもっとも理解不能な動機かも知れない。

エロール・モリスはこの映画を、事件の真相を捜査する謎解きミステリーであると同時に、ホラー映画であると言っている。そのホラーが人間の心なのか、それとも写真という機械制度なのかも、我々に答えはないのかもしれない。実のところ、なぜ彼らは、そして我々は、じっくり見ることもできないほど多量の自分たち自身の写真を撮り続けるのか。そのなかに自分自身の姿を再確認したいのだとしたら、その撮る行為にとりつかれて自分自身を見失ってしまっているのも、デジタル画像時代の皮肉なのかも知れない。彼らの場合、それは悲劇にもなってしまったが。

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