こういうものを褒めるときにいちいち言葉で説明するのも野暮ではある。とはいえ写真はスケール感がない(実はかなり大きな金銅像)ので、今ひとつよく分からないが、最終日ギリギリで滑り込みセーフだった上野の国立博物館の国宝・薬師寺展では金の光背をはずしての展示で、この金銅の立像それ自体の、すくっと直立して凛とした姿をシンメトリーの様式美で際立たせながらも、たおやかに優雅な美しさはやさしさと気品に満ちあふれる。今回の展覧会の最大の売り物の、国宝・薬師三尊の脇侍にあたる月光・日光両菩薩像ももちろん息をのむ美しさだし、こちらも光背ナシ、全角度から見られるだけでなく、本尊の薬師如来が奈良でお留守番してるので両菩薩二体のみで構成するシンメトリーもまた妙なるものなのはもちろんだが、個人的には薬師三尊より少し古い様式であるがゆえのシンプルであるがゆえの奥深さ、なにかを読み取ろうとする見るものの意思など無視してただ純粋にそこに立っているこの聖観音菩薩立像の姿に圧倒…はされないなぁ。どういえばいいのだろう?
大変な話題の展覧会の最終日・日曜日のわりには、昨日の土曜は待ち時間が最長3時間だったそうだが、今日は20分くらいで入れた。そうは言っても混雑は混雑で、当然みなさん食い入るように見つめているのだが、それでも自然に人の譲り合いの流れが出来て、車椅子の人がくればいちばん像に近い位置をほとんど反射的に譲ってしまうような、見る者をそういう気持ちにさせてしまう存在なのだ、この観音像は。
日光・月光両菩薩ももちろん素晴らしい。おもしろいのが、遠目にまず両方を見ると、向かって右の日光菩薩の方が優美に官能的で、軽やかに片足に重心を置いて少し身を傾けた姿はやさしげで女性的で、左の月光菩薩の方が一応は同じポーズではあっても、動きがあまりなく男性的に見える。それがそばに行って見ると、とたんに日光菩薩の方が力強く男性的で、足などはどしっと大地を踏みしめている。官能的に見えた身体の起伏(日光の方が胸などが少し厚い)が、間近だとまるでたくましい筋肉のようにも見えてしまうのだ。それに対して月光菩薩は、ニュートラルに超然としている。どちらもとても美しい。
東博が開館時間を8時まで延長していたので、平常展にも久しぶりに目を通して(もしかして10年ぶり以上じゃないか?)、都合6時間くらい博物館をさまよっていたことになる。東洋館のペシャワール出土のガンダーラ仏や、中国・西方の石窟の仏像も、朝鮮半島の仏像も見たし、薬師寺のものより一世紀くらいさかのぼる法隆寺宝物館のたくさんの小さな仏像(主に観音像)も見た。サイズは小さいものの、同じ時代のはずなのにずいぶん様式にバリエーションがあったり、僕は信仰や宗教とはおよそ無縁な疑りぶかい無神論者なのだが、とはいえ大昔の無名の仏師たちが長い歴史と文化の流れのなかで、こうも心を込めて、かつ薬師寺の仏像などのように途方もない美意識と技術力を注ぎ込んで、こういう美しいものを作り出しいたことには、感服する他はない。それも圧倒されるのでも、おもしろがるのでもなく、ただため息が出るほどに美しく、ずっと見ていても飽きない。薬師寺の国宝といえば、それこそめったに見られない(正月だけご開帳になるらしい)、教科書とか画集でしか見たことがない吉祥天女像も、本物を見るとあらためて実に幸福なミステリアスさで、見ていてなんだか安らかな気分にさえなる。吉祥天女なんだから縁起もいいんでしょうし、恐らくは。しっかし奇麗だよねぇ。
もちろん、我々が現代に映画を作る時、こんなものに到達できるわけもない。それはそれで仕方がないし、それでいいのかも知れない。考えてみれば仏像というものが生まれたのは、激しい戦乱の時代に、それまでの仏足石のような間接表象では、仏法による救済に説得力がなくなったから、人々が仏そのものの姿を求めたからだという。一方で映画というのものは世界の醜さに対置して超越的な美に救いを見るのとは正反対に、世界が醜いのならその醜さとも向かい合わなければいけない。だからってただ醜さをそのまま映画にしていいわけもないのだが。
こうやって幸福でけっこう安らかな午後を過ごし、〆には北斎の風景版画の独創性をおもいっきりエンタテインメントとして楽しみながら(しっかし、北斎ってホント、おもしろいわぁ)、その同じ日に上野からふた駅しか離れてない秋葉原で史上最悪の通り魔事件があったことを、家に帰れば報道番組でやっている。
派遣社員として働いていた青年がとつぜん、世の中なにもかもやになったというだけで、17人もの人間を殺傷した。殺すのは誰でも良かったと証言しているそうで、フジの報道番組では櫻井よしこ女史が「世代的な病理を考えざるを得ない」とかコメントしていたが、この人はたぶん映画『タクシードライバー』も、小説『罪と罰』のラスコーリニコフも知らないのだろう。現代の日本にトラヴィス・ビックルやラスコーリニコフがいれば(で、必ずどの社会にもいるはずだ)、殴り込みをかけて殺す相手である彼らにとっての世界の堕落の象徴、少女に売春をさせているヘルズキッチンのヒモや、金貸しの老婆に相当するのは、そりゃアキバでしょう。
どう考えても不当に搾取され世界のあまりにもの理不尽さにどう向かい合っていくかの距離感を失い、その世界のなかで孤立していく人間。一方ではコスプレのミニスカ女にオタクなあんちゃんやオヤジがローアングルのカメラで迫り、メイド喫茶とやらで「ご主人さま〜」とかやってることを、世間では「日本の新しい文化」だと妙にもてはやす。秋葉原の歩行者天国での過剰なパフォーマンスがさすがに問題になったのがついこないだだったことを、マスコミはもう忘れているのだろうか? それがこの犯人が秋葉原を選んだ可能性を、考えもしないのは鈍感すぎる。たまたま今日が7周年になるらしい、国立エリート小学校に切り込んだ宅間守の事件を、もうマスコミの皆さんは忘れているのだろうか? 宅間守が今回の通り魔犯と同世代だとでも言うのか? 問題は世代ではなく、社会全体だろうに。
それは彼らにその怒りを短絡的な暴力としてでしか発露させられない社会(それにしても今回の犯人はトラヴィスやラスコーリニコフに較べてずいぶん安直で短絡的だ)、憎しみの増大と暴力の発露は、必ず見当違いの結果しかもたらさないことにすら気がつけない世間(というのは、中国・北朝鮮・韓国がただ単に嫌いで日本に核武装をとか言ってる連中としょせん同根)でもある。今日犠牲になったのも、多くがいわゆる「アキバ」とは関係のない人たちだったようだ。
もちろんアキバ系だからって殺していいわけでもないんだろうが。『罪と罰』の金貸し老婆だって、殺してはいけない。いかにメイド喫茶も、ミニスカのコスプレ露出狂女も、その女たちにローアングルでケータイのカメラを向ける連中が醜悪だろうが--そういうアキバ系だって、一応は人間なんですから。それが文化だと言うなら、確かに文化かも知れない。『タクシードライバー』で不眠症のトラヴィスがぼんやりみているポルノだって映画であり、宅間守が強烈な憎しみを抱いた、お受験に狂奔するうすっぺらな親のやってることもまた教育であるのと同じレベルで。よくも悪くも、お受験狂奔は現代の日本社会の構造には適した教育であり、アキバ系が今の日本の現状のレベルの低さ、価値観の絶望的な薄っぺらさにはちょうど適した文化であるのも、また確かではある。だからってそういうレベルの低さ、醜悪さにつきあった映画を作る気もしませんが。
私事になってしまう上に日本ではほとんど上映していないので申し訳ないのだが、拙作の『ぼくらはもう帰れない』で、この問題を我々は扱っているはずである。ただしアキバのメイド喫茶じゃあまりにくだらないので、くだらなさの本質は同じでももう少し映画的に見えるSMクラブの「女王様」(だいたい女性が「ご主人さま」なんて気持ち悪過ぎる。同じ既存の役割分担の設定にまったく依拠した人間性の欠けた関係でも、まだS女の方が見ていて不快感はない)が登場し、反社会的に孤立して自分のなかに自分を追い込んでいく青年は、暴力に走るよりはもう少し賢く、文字通り自分が自己の内に孤立するアクションとして、他者に攻撃性を向けることで自己正当化するかわりに、ポラロイド写真で自分の顔を撮り続けている。
見た人にはこう言えば分かるだろうが、あの人物の発想の元はまさに『タクシードライバー』で、ただし自動車という金属の棺桶のなかに自分の身体を閉じ込めるかわりに、自分のイメージをポラロイド写真機という棺桶にするのはちょっと小さ過ぎる箱に閉じ込めることになった。それ自体は些細な自分に対する立ち位置の違いが、その先にひとつの希望を、トラヴィスやラスコーリニコフや、あるいは黒沢清の『アカルイミライ』の浅野忠信や、宅間守や秋葉原の通り魔犯が、殺人ではなく別のもっと本質的な方向に行ける可能性を、我々の映画は示唆しているはずだ。…っつってもカントク兼プロデューサーが現代の日本の映画を売ってる業界が陥っている現状の理不尽と、その業界の側の創造性のなさにつき合いきれず(だいたい映画それ自体のなかでその方面もけっこうおちょくってるわけだが)、どうせ黒字にしようがないから日本での公開なんてしなくていいと、まったく反社会的になってるんだから文句も言えないのだけど。
ちなみに7月に、横浜の「黄金町映画祭」でやっと東京(の近く)でも上映します。7月26日から。
聖観音菩薩立像に日光・月光両菩薩に吉祥天女の話が、なんだか俗っぽい自分の映画のことになってしまった・反省!
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