黒沢清さんから「今度の映画はホームコメディなんですよ」と聞いていたが、その待望の新作『トウキョウ ソナタ』を見た。もしかしたら映画というメディアがもう消滅しつつあるかも知れない、少なくともなにかの役に立つという可能性(映画のためにも、あるいは見た人のためにも)が抹殺されつつあるかも知れないと思ってしまう今日この頃、しかも現にエドワード・ヤンもロバート・アルトマンも亡くなってしまった現代に、黒沢清だけはその新作を見るたびに、まだ映画を死なせてはいけない、と思わされる。ということは自分も頑張んなきゃいけないんだよなぁ、と言うことでもあって、『トウキョウソナタ』は、現代日本映画にとっての希望であると同時に、厳しい叱咤激励でもある。
とりわけ『トウキョウ ソナタ』は堂々たる映画である。カンヌ映画祭で「ある視点部門」の審査員賞をとっているが、なんでコンペティション出品じゃなくて、パルムドールじゃないの、と言いたくなるほどだ。だが初試写に続いて行われた記者会見で主演の香川照之が話してたところだと、「ある視点」の方がずっとよかったのかも知れない。コンペはほとんどが招待客・関係者チケットの、いわゆる「映画で食ってる人々」で席が埋まってしまうのが、「ある視点」はコンペ上映にあぶれたというか、普通の観客がちゃんと見に来る部門だ。そして気取って知ったかぶった映画人は、たぶんこの堂々たる映画を素直に見ようとはしない。日本映画という前提条件にいいかげんな東洋趣味が先立って、この映画を東洋の彼方の国の奇妙な家族の話としか見ようとしないだろうし、おかしな象徴性を読み取ったフリをして分かったように思い込むだけだろうから。まあなにしろ凄い反響だったようだが、普通の観客ならある意味、当たり前だ。仕事で映画を見るのでなく、自分のこととして、この映画を見るのだし(そうでなくてフィクションの映画なんて見る必要があるのかどうかも、大いに疑問だし)。
とはいえ『トウキョウソナタ』という題名が,黒沢が大ファンでもある小津安二郎を否応なしに想起させるように、とくに日本人にとってこの映画は強烈なノスタルジーを喚起させるところがある。まったくそういう撮り方をしているわけではないのだが、それでも二階建ての一軒家で二階が子供部屋、一階に食堂と台所と居間があって、その居間の窓からも家に入れるという、そういえば我々の世代なら子供のころに自然にやっていた家への入り方はなくなり、今の家は玄関からの出入りばかりだし(マンション暮らしならなおさらそうだし)、この映画の家族の住む家だって居間の窓からの入り方を許す構造になっているわけでもないのだが、会社をリストラされた父(香川照之)が帰り道に小学6年生の次男に会い、次男は普通に玄関から家に入るのに、なんとも居場所がない父は(かなり強引に)居間の窓から家に入るところに、痛烈なノスタルジアと、その懐かしい過去の回復なぞ現代では決して不可能なことの、あたかもジョン・フォードの後期の作品のような強烈な両義性が、この映画の行く末を早々に決定づける。題名の「東京」が小津映画のような漢字の「東京」でなくカタカナの「トウキョウ」であり、実際のフィルムで出て来るのはカタカナですらなくアルファベットの「TOKYO」であることも、それを暗示しているのかも知れない。今の東京をかつての「東京」としてはもう呼べなくなっている、つまり何かが壊れているように、どこかで道を外れてしまってもはや回復不可能なかつてそうであったなんらかの調和を、それでも回復しなければならないという強烈に両義的な矛盾に、この映画が向き合っていくしかないことを。
父は次男がピアノを習いたいと言うときにはなんの理由もなくただの意地で反対し、長男がアメリカ軍に志願すると言うときにも反対し、この時には反対する確たる理由もあるのに、それを語ることすらできず、戦争ということをなにも分かっていない息子と同レベルに陥って喧嘩わかれになる。なにを言っても思い通りにさせてくれないでただ怒ってる父というだけなら、その父と子のあいだに立ってなんとかことをおさめ続ける賢い母というのも含め、過去にそこそこにまっとうに成立していた日本の家族だ(よくも悪くも、うちもそうでした)。だが一見古風なくらいに頑固親父であるように見えるこの映画の父は壊れている。リストラされ、かつての “日本男子” の常套句だった「女房の一人くらい食わせられないで」どころの話ではないし、こそこそと、少年時代のような家への入り方をしてしまう、実のところ大人になりきれないまま、過去の大人が敷いたレールの通りにサラリーマンをして来ただけの「父の威厳」は、青天の霹靂のようなアメリカ流の「能力・成果主義」、その実残虐な資本主義、お金第一主義に、木っ端みじんにされているのだから。
長男がアメリカ軍に志願するという設定は、事前情報でそれだけ聞くと荒唐無稽に思えるが、映画のなかでは異様に迫真性を持って響く。イラク戦争に行った米軍兵の3割くらいが米国国籍を持っていないという現実と、ただの対米従属でそのイラク戦争に参戦し、米軍基地を「思いやり予算」で光熱費に娯楽施設まで含めて無償提供するのもやむを得ないと言うことになってる日本の実体からすればあり得ない話ではないどころか一歩先のことだし、その核心を黒沢清は豪速球と言っていいほどストレートに暴露する。テレビのニュースの街頭インタビューとして繰り返される「日本はアメリカに護ってもらっている」という思い込み、それと対比して「俺が家族を護っている」という父親のやせ我慢の、リストラされた彼の最後のよりどころみたいな威張りどころも、そのどちらもが表層だけの空虚な思い込みでしかなく、絶望的なまでになにか根っこのようなもの、あるいはリアルさの感覚が抜け落ちたお芝居でしかない。
見栄と中途半端に現実に妥協することばかりが繰り返される社会のなかで、そことつながるように家庭が空虚な枠組みだけになっていく。食卓に4人家族が揃うことはめったになく、揃えばかえって居心地の悪さが漂う。台所のハッチから覗き見るように撮られた食卓は白色電灯の琥珀色の光が照らし、画面手前では白い食器が台所の蛍光灯で冷たい光を放つ、その空虚な檻から逃げるように、そして実は自分たち自身から逃げるように、家族の面々はそれぞれに映画の中盤から闇雲に走り出す。一見、一人だけちゃんと家族それぞれの顔を見続けて来て賢く安定しているように見えた母親ですら、走り出す。走り出す先に何が見えるのか? ただ闇雲に走るしかないのか? 役所広司の泥棒とともに海にたどり着く小泉今日子が、あまりにも美しい。
道路に散乱するゴミに足を滑らせて転び、血を流しながら、父親は「どうやったらやり直せるのか」と絶望的につぶやく。「やり直す」のは家族のことだけではあるまい。いつのまにかリストラ・サラリーマンが幽霊のようにそこらじゅうにたたずみ、ハローワークに行列するようになってしまった東京。若者に「戦争に行ったら人を殺すんだぞ」とすら言えなくなってしまった、大人になりきれない大人たち。戦争に行くということは人殺しになるのだということにも気づかず、それが現実かどうかも考えられずに「日本はアメリカが護ってくれているんだから」を鵜呑みにし、そのアメリカが正しいかどうかすら考えられなくなった若者たち。子供に「なにが正しいのか」も教えなくなった教師。そんななかで大人であるがゆえに囚人になってもいる妻。いつのまにかこうなってしまった日本は、「どうしたらやり直せるのか」? それは日本だけではない。この狂った世界全体が、「どうやったらやり直せるのか?」 やり直しなぞ効かないことを百も承知しながら、それでも『トウキョウ ソナタ』はそのことを問う。そしてあえて、絶望のどん底であるようでいてものすごくシンプルな希望まで見いだす。
『トウキョウ ソナタ』は堂々たる映画であり、ミステリアスな映画だ。そしてミステリアスだからこそ真実に映画的な映画であり、そしてなによりも、見た人にとって恐ろしく役に立つ、生きて行くことのためになる映画だ。エドワード・ヤンが遺作にして20世紀最後の傑作となった2000年の『一、一 a one and a two』(日本公開題は『ヤンヤン、夏の思い出』)という家族を主人公とした映画で21世紀に映画を継続させたのを受け止めるかのように、『トウキョウ ソナタ』という家族を主人公とした映画は、21世紀の映画がついに生み出した初の21世紀の傑作だとこの際言ってしまっておこう。アメリカ映画が死に体になった20世紀の末からの状況のなかで、エドワード・ヤンというアメリカ留学帰りの映画作家の手になる『一、一』と、黒沢清という映画とはまずアメリカ映画であった映画史を受け止めて来た映画作家が、もはや死んでしまったアメリカ映画の過去を継承しつつも、現代のそれ自体が死に体になりつつあるアメリカから脱した映画によって21世紀の映画を創始したことは、指摘しておかなければならない。
小泉今日子がたどり着く海は、太平洋であるはずだ。そして太平洋の向こうには、アメリカがあるはずだ。真夜中の海の向こうに、我々観客には決して見えない「星のようなもの」を見て、彼女は泣き崩れる。アメリカの戦争に行った長男は、そこでなにかを学んだことを、手紙で書いてよこす。
少なくとも、21世紀においても映画が役に立つメディアであり続けなければならないし、それが決して不可能ではないことを、『トウキョウ ソナタ』は黒沢清らしい慎ましさのうちに静かに宣言している。だからやっぱり変に気取って諦めたりせずに、こういう映画を作るように頑張んなきゃいけないんだなぁ、と改めて噛みしめる。
6/04/2008
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