秋葉原の事件を云々するのならドストエフスキーを読むべき、と自分で言った手前、『地下室の手記』(江川卓訳、新潮文庫)を久々に再読中。いや出だしから実に見事なまでのダークな心理の発露、自己嫌悪にどっぷり浸かったその自分に陶酔している40歳の元官僚・現無職の心のなかの不条理が緻密かつ雄弁な名文で綴られて行く。秋葉原通り魔事件犯人の掲示板書き込みを見て釈然としない人は、やっぱりこれを読んでみるべきだと思う。
昨日は心理的・個人の内面的なことからこの殺人犯を解釈してみると書いた気がするが、その気持ちが失せてしまった。だって『地下室の手記』を読めばこれにかなう説明なんて恐らくないのだから。しょせんこの日記は日々のできごとについて思ったことを、愚痴言って好き勝手に書き残してるだけの備忘録のようなものなので、読んでる人はご容赦下さい。
それにしても実のところ、もしあの大量殺人を犯した青年が、なんだかわけがわからなくてもいいからドストエフスキーを読んでいれば、ああいう事件は起こさずに済んだのではないかともちょっと思う。
どんな人間でも、自分のことを最もよく分かってないのは、たぶん本当は自分自身なのだ。
ましてあの犯人の青年や、ドストエフスキーの描くこの根っからの自己否定男のように−−後者は文字通り「地下」に押し込めるかっこうで−−自分のなかに閉じこもっていれば、ますますかえって自分の思い込みと現実に自分がどのような存在でどのように見えるのかの区別がつかなくなるだろう。
遠藤周作のエッセイで占い師を研究したかなり笑えるものがあった。占い師の鉄則は「あなたはいい人だ。いい人過ぎて周りに誤解されている」と言えば、ほとんどの人は「当たってます!」と思うので商売になるのだそうだ。
『タクシードライバー』について、ポール・シュレイダーは「Self-imposed loneliness」という言葉で主人公の精神状態を形容している。トラヴィスが女性と親しくなることを望みながらも、一方で自分でその機会を破壊して嫌われるようなことをやり、案の定嫌われたところで相手とその彼女を含む「世間」への嫌悪をますます膨らませて行くという矛盾した行動であり、本人は矛盾していることにまったく気がついていない。
報道されている写真で見る限り、秋葉原事件の犯人は、掲示板で書き込んでいることとは異なり、そんなに「不細工」というほどのものでもない。
あまりに自分とよく似た問題を抱えた男がその心理の闇を自分でも気がつかないうちに見事な論理で解説している体裁になっている『地下室の手記』や、あるいは『タクシー・ドライバー』を見ていれば、少なくとも自分のような人間が一人ではないことには気づけただろうし、気づいた瞬間にある種の冷静さにもたどり着けたかも知れない。フィクションの効用には、そこに描かれた他者のなかに自分を見いだすことも明らかにある。
ちなみに今日の写真は『ぼくらはもう帰れない』のスチル写真。考えてみればこの映画の主人公たちのほとんどが1984年生まれ、秋葉原の事件の犯人と同世代だった。
劇映画ではあっても設定は出演者が持ち込んだものだし、ストーリー展開はディスカッションと即興で、演出からの介入はどこでどの人物を組み合わせるか程度に限定している。だからこの映画がこの時代のこの世代の “気分” を写し取っていることだけは、それはもう演出における僕の腕の良し悪しとは別次元のことで、単に仕掛けと原理によって、確かなことだろうととりあえずは言えると思う。とりあえず見て頂くしかないわけだが…。
…というわけで横浜の黄金町映画祭での上映予定
7月26日(土)12:30
7月28日(月)20:30
8月 1日(金)10:30
http://www.koganecho.com/program/main/bokurahamou/
会場はこちら: http://www.jackandbetty.net/map.html
もっとも、ではまかせっきりで演出がまったくの無責任でいられるわけではなく、なにかを作ることはしていなくても、そこで写ってることがなにを捉えているかを見抜くのはこっちの仕事なわけだし、別にその世代の “代表的” な人間を統計的にサンプリングしたわけではないし、率直に言ってこの映画にとって「そんなこと知ったこっちゃない」レベルの下らない話だが。
そのプロセスのなかで、『地下室の手記』や『タクシードライバー』、『罪と罰』のことなどこちらからはおくびにも出していない。
しかしそれを考えなければいけないなにかを、ずっと感じていたのは確かだ。結果としてその部分が大きなテーマになっていったのは、そりゃ演出がやったことだろうと言われれば、反論はできない。
正確には演出は気づかざるを得なかったことと言うべき、っていうか映画監督の仕事ってたぶん「何を創り出すか」というファンタジーの範疇ではなく、我々の「思い」なんて観客にとってはどうでもいいはずのことであって、「何に気づくのか」の方がはるかに大きい。
とは言っても、別にこの映画の出演者の誰か個人が、この秋葉原の事件のようなことを起こす感じがしたというのではまったくない。
共通点が皆無というわけではもちろんないが、それ自体はそんなに珍しいことでもないのだし、現代東京版『タクシードライバー』のポラロイドカメラで自分を撮り続ける男は、確かにああいう方向に進みかねない鋭さと孤独な影があるからこそこの役が出来たし、今回の通り魔事件を映画化するなら主役もできる。一方で自分を客観視できてギャグにもできるだけの冷静さもあるからこういう形で演じられたのでもあるわけで、「自殺」の匂いが映画全体を覆っているという批評もあったし言われてみれば確かにそうなのだが、それでも結果として映画はそっちには決して進まない方向にまとめてくれたのだと思う。
『地下室の手記』や『タクシードライバー』、『罪と罰』的な、ある意味この映画の見せる東京であれば秋葉原の事件みたいなことがいつ起ってもおかしくない(と今回の事件が海外でも報道されてから、そういうメールも届く)空気があるのは、個人の資質よりも彼らが育って来た状況にその空気が漂っているからなのだとしか言いようがない。
具体的に言えば、たとえば高校生に『罪と罰』や『地下室の手記』のような本を読ませようとは決してしない教育、それを読むような子どもをむしろ煙たがるような教育だ。
それどころか、こういうものを読めないような教育すらしている。だいたいドストエフスキーのレベルの文学が一回読んだだけで把握できるわけがないし、一回読んですぐにはわけが分からない本で、読んでから相当に考えて咀嚼しなきゃ「読書感想文」も書けないだろうし現代国語の「作家はなにが言いたいのか」の正解も書きようがない。
だいたい、そんなもんを50字とかそこらで書けたり、三択問題で選べるのなら、誰も小説なんて書かんし、映画なんて作らんてば。
あたかもあらゆることに既に存在していて与えられうる正解があるかのような幻想を子どもの頃から押し付けられ、それがおかしいことに気づいていても表現する手段を持っていない。
それを持てるような教育をするのが「ゆとり教育」だったはずだし、『ぼくらはもう帰れない』や、秋葉原事件の犯人も、その教育で育った世代だが、実態が伴ってないから偽善にしかならず、二重三重に世間を疑うようにしかならないし、一方で疑っている自我に一定の自信、そう考えている自分が確かにそこにいることすら確信できない。
『地下室の手記』や『タクシードライバー』に言葉にできない、一見なにがなんだか分からない不気味な共感を演じるスリルが最初から否定されている社会。時間をかけて悩んだり迷う自由もないで「夢を追う」「自分らしく」を強要される倒錯。「分からない」を認めない大人の傲慢。
だが10代にもなればまともな感性があれば気がつくはずだが、実際の人生は、なにがなんだか分からない状況がほとんどなのだ。
古来、人間は偶然を「神の意思」とかとりあえず理解することで人生の意味を見いだして来た。
ニーチェが「神は死んだ」と叫んで科学が宗教にとってかわって、人間が核兵器まで作ってしまってサルトルやカミュが「こりゃやばい」と思っても、世界の大多数はその警鐘を聞きながらも、科学技術の進歩で人類が総体としてはより恵まれた生活を送れることに、ある種の目標を見いだせて来た。
考えてみたら僕の世代だと21世紀はまだバラ色の未来だというように小学校くらいは思えていた。
でも1980年代の半ば以降、そういう進歩という理想はもう終わらざるを得なくなり、この世代がモノを考えるようになった頃にはバブルは弾けていながら、大人たちはバブルに踊ったことのどこが過っていたのかを反省もしないで、むしろ金銭こそが唯一の価値で経済とギャンブルの見分けがつかない非情で不道徳な社会がどんどん進行していく。
だというのに彼ら大人は自分たちの空虚さを反省もせずに、子どもに「夢を持て」とか言い続ける。
適度にまのぬけた「いい子」ならなんの疑いもなく、根拠不明の自信に満ちて「自分らしさ」を発散する。それがどんなに薄っぺらな装いに過ぎなくても、学校が子どもに読ませる本はむしろその幻想を助長する。
だがなまじ頭の働く子どもなら「そんなバカな」とどこかで思っていても、それは言ってはいけないことになっているし、それを言う手段を育てる教育はしていない。
この世代を乱暴に一般化してしまえば、彼らは恐ろしく自信があるか、まったく自分に自信が持てないかのどちらかだと多くの大人は言う。
そりゃお前たちだって同じだろうと言いたくもなるが、大人たちが分かっていないのはこの二つが二分できるものではなく「自信過剰」と「極度の自信のなさ」が同じ人間のなかで裏表になっていることに気がつかないことだ。
まあ彼らバブル以降の大人もまったく同じ問題を抱えているのだけど。つまり大多数の人間の自信過剰は、大人も子どもも、自分たちがもはや変わることも人間として成長することもできないという根源的な自己不信を隠す装いに過ぎない。
あまり感性が働かない大多数は、ゆとり教育世代であれば「自分らしさ」への極度な自信の底にある根源的な自己不信に気づきすらしないし、それはそれで一種の自己防衛本能でもある。
でもそれぞれが「自分らしさ」と称して皆が同じような茶髪にして同じようなタイト系のファッションにすればイケメンとなって適当にはモテる(少なくともそのように秋葉原事件の犯人には見えてたようだ)ことになるが、実は根源的な自己不信があるから自分は決して曝け出さないで周りに合わせることに腐心し、とにかく「認められている」ことに安心する。
だいたい周りに合わせるために童貞や処女を急いで捨てたい子どもが多いという倒錯した時代に、「自分らしさ」もへったくれもあるかよ。
このアホらしさと偽善にどこかで気づいてしまっている人間は孤立するしかない。
言わない方がいいことも言わずにはいられなかったりするから。というか、「ゆとり教育」で「自分らしさ」が大事なら、言えるような状況でないとおかしいのだけど。
『ぼくらはもう帰れない』は小泉純一郎の時代についての映画でもあるが、この気持ち悪さはその後の安倍晋三の最後に「KY」なる言葉が流行るに及んで、「ゆとり」で「自分らしい」のに「空気を読まなければ」いけないって、なんだよそれ?
「ゆとり教育」で育った子どものあいだで「空気を読む」ことが価値観になるというのも、いや「空気」という漠然としたものを読みとれること自体は重要な能力だろうが、実際には「読む」のではなくそこに「合わせ」なければいけないのだから、実際には意識的に「読んでいる」必要すらない。倣い症で迎合していればそれでいい。これがストレスにならなければ、その方がおかしいだろう。
だがこのアホらしさを直感していても、たとえば秋葉原事件の青年は、その直感する自分に自信を持てるような状況で育ってない、人間存在は根源的には孤独であって自分で決めるしかないという開き直りの自信を持つことも禁じられれば、秋葉原の事件の犯人のように追い込まれるしかなくなることだって十分にあり得る。
『ぼくらはもう帰れない』が捉えていることの本質は、もしかしたらその矛盾なのかも知れない。でも一方で、この映画はその矛盾のその先で、恐ろしく楽観的にもなっているはずだから、そこに持っていった交通整理能力くらいは自信を持つべきなのかも知れないね。やったのは交通整理だけで、きっかけになる言葉すらそう聞こえるかもしれないけれどサルトルの引用ですらなく、わたしゃなにも言ってませんが。
一方でその交通整理や、自らをフィクションとして演じることであり得る客観性・自己の他者性の認識は、秋葉原事件の犯人には決して訪れなかったのだろう。
一見異様に見える、彼の掲示板書き込みにある強烈な自己不信は、実は彼が育って来た日本の現代が抱えた病理のロジカルな進展の当然の結果に過ぎない。
そこで「ゲーム」や「オタク」を責めてみたところでなんの意味もないし、やった行為は許せないのは言わずもがなであって鬼畜扱いしたところで始まらない。
恐らくなによりも絶望的な矛盾だったのは、宗教も進歩への奉仕も終わった時代に、そこから解放されて本当に生きることの意味を思春期から深く考えるチャンスに恵まれた世代であるはずの彼らに、まさにそのために考案されたはずの「ゆとり教育」がまったく機能しなかったことだ。
だからといって「ゆとり教育」のせいにしているのではないので誤解なきよう。
悪いのはその理念を使いこなすだけの智慧をまったく持っていなかった大人たち、あくまで人間の問題だ。
考えても見て欲しい。学習するという人間の成長に欠かせないプロセスの目標が、単にいい点をとって子どもの成績を自慢したい親の自己満足に奉仕するだけになったら、その子ども時代というのはどれだけ虚しいものか。『親の品格』とかいうくだらなくも偽善に満ち満ちたベストセラーの著者とやらが、テレビで「親が子どもを愛し過ぎている」とかエラソーなことを言っていた。なに勘違いしてるんだろ? 自分の自己満足のために子どもを搾取することのどこが「愛し過ぎている」のか?
「愛」とはなにかすらまったく分かってないだけじゃん。もっともその親だって、根源的に自信がまったくないから、子ども成績とかにすがって自分の教育に自信を持ったフリを自分相手にやっているだけなんだろうが。
先述のサルトルっぽい言葉というのは「人間けっきょく一人だろうが。全部なにもかも自分でやることは自分で決めるんだよ。そんなことにいちいち寂しいだとか言っていたらキリがないだろうが」というセリフだ。
秋葉原事件の犯人が本気でそう思えたらどれだけ楽だったことだろう、とちょっと思う。
彼の場合、派遣社員の不安定な身分がひとつの要因であることは疑いようがないが、社会的身分がなくなったからって自分の存在がなくなるわけではない。
生きていくだけならなんとかなる。昨年の正月に妹をバラバラ死体にしてしまった歯科医の息子がキレた言葉は、妹に「夢がない」と言われたことらしいが、人生の目標が「夢」だったらそりゃそれで困るし(実現しなきゃ意味ないじゃん)、本当にやりたい/やるべき目標なんてそう簡単に見つかるわけがないじゃん。
まだ二十歳だろ?
無茶な要求し過ぎてるんだよ、それも自分に閉じこもるという以外になんの逃げ道も与えずに。
で、そこに逃げ込めば今度は「引きこもり」「オタク」とレッテルを貼る。秋葉原事件の犯人の「彼女が欲しい」という切望だって、「人間けっきょく一人」なんだから、「不細工だからモテない」なんて他人の目を気にしてコンプレックスに陥った自分に妙な確信を抱くこともなかったはずだが、彼は自分を孤独の中へと切り離すことができなかった。
そこに彼の「孤独」の矛盾がある。孤独であることは、今の世間は絶対に認めないだろうけど、実はそんなに悪いことでもないのだが。
というか、けっこういいものですよ、他人を気にせず自分をみつめなおせるならば。自分って意外とヘンで思ったよりもおもしろいし。「へえ、こんな顔してるんだ」とか、「こんなこと考えてたのか」とか。
しょせん偽善に過ぎない薄っぺらな価値観からこぼれ落ちるだけの自我と感性を持っていながら、「人間けっきょく一人」になりきれず、孤独に追いつめられていくようでいて孤独な自我になりきれないところに、彼らのような青年の悲劇があったのかも知れない。とりあえず不細工不細工と他人の目を前提にしたコンプレックスに妙な自信を持つ前に、携帯電話をネット書き込みに使うだけでなく、カメラもついてるんだから自分の顔でも撮ってみて、じっくり見てみればよかったのに。そんなに不細工じゃないよ。
映画的にはポラロイドカメラの方がかっこいいですけどね。
昨日は心理的・個人の内面的なことからこの殺人犯を解釈してみると書いた気がするが、その気持ちが失せてしまった。だって『地下室の手記』を読めばこれにかなう説明なんて恐らくないのだから。しょせんこの日記は日々のできごとについて思ったことを、愚痴言って好き勝手に書き残してるだけの備忘録のようなものなので、読んでる人はご容赦下さい。
それにしても実のところ、もしあの大量殺人を犯した青年が、なんだかわけがわからなくてもいいからドストエフスキーを読んでいれば、ああいう事件は起こさずに済んだのではないかともちょっと思う。
どんな人間でも、自分のことを最もよく分かってないのは、たぶん本当は自分自身なのだ。
ましてあの犯人の青年や、ドストエフスキーの描くこの根っからの自己否定男のように−−後者は文字通り「地下」に押し込めるかっこうで−−自分のなかに閉じこもっていれば、ますますかえって自分の思い込みと現実に自分がどのような存在でどのように見えるのかの区別がつかなくなるだろう。
遠藤周作のエッセイで占い師を研究したかなり笑えるものがあった。占い師の鉄則は「あなたはいい人だ。いい人過ぎて周りに誤解されている」と言えば、ほとんどの人は「当たってます!」と思うので商売になるのだそうだ。
『タクシードライバー』について、ポール・シュレイダーは「Self-imposed loneliness」という言葉で主人公の精神状態を形容している。トラヴィスが女性と親しくなることを望みながらも、一方で自分でその機会を破壊して嫌われるようなことをやり、案の定嫌われたところで相手とその彼女を含む「世間」への嫌悪をますます膨らませて行くという矛盾した行動であり、本人は矛盾していることにまったく気がついていない。
報道されている写真で見る限り、秋葉原事件の犯人は、掲示板で書き込んでいることとは異なり、そんなに「不細工」というほどのものでもない。
あまりに自分とよく似た問題を抱えた男がその心理の闇を自分でも気がつかないうちに見事な論理で解説している体裁になっている『地下室の手記』や、あるいは『タクシー・ドライバー』を見ていれば、少なくとも自分のような人間が一人ではないことには気づけただろうし、気づいた瞬間にある種の冷静さにもたどり着けたかも知れない。フィクションの効用には、そこに描かれた他者のなかに自分を見いだすことも明らかにある。
ちなみに今日の写真は『ぼくらはもう帰れない』のスチル写真。考えてみればこの映画の主人公たちのほとんどが1984年生まれ、秋葉原の事件の犯人と同世代だった。
劇映画ではあっても設定は出演者が持ち込んだものだし、ストーリー展開はディスカッションと即興で、演出からの介入はどこでどの人物を組み合わせるか程度に限定している。だからこの映画がこの時代のこの世代の “気分” を写し取っていることだけは、それはもう演出における僕の腕の良し悪しとは別次元のことで、単に仕掛けと原理によって、確かなことだろうととりあえずは言えると思う。とりあえず見て頂くしかないわけだが…。
…というわけで横浜の黄金町映画祭での上映予定
7月26日(土)12:30
7月28日(月)20:30
8月 1日(金)10:30
http://www.koganecho.com/program/main/bokurahamou/
会場はこちら: http://www.jackandbetty.net/map.html
もっとも、ではまかせっきりで演出がまったくの無責任でいられるわけではなく、なにかを作ることはしていなくても、そこで写ってることがなにを捉えているかを見抜くのはこっちの仕事なわけだし、別にその世代の “代表的” な人間を統計的にサンプリングしたわけではないし、率直に言ってこの映画にとって「そんなこと知ったこっちゃない」レベルの下らない話だが。
そのプロセスのなかで、『地下室の手記』や『タクシードライバー』、『罪と罰』のことなどこちらからはおくびにも出していない。
しかしそれを考えなければいけないなにかを、ずっと感じていたのは確かだ。結果としてその部分が大きなテーマになっていったのは、そりゃ演出がやったことだろうと言われれば、反論はできない。
正確には演出は気づかざるを得なかったことと言うべき、っていうか映画監督の仕事ってたぶん「何を創り出すか」というファンタジーの範疇ではなく、我々の「思い」なんて観客にとってはどうでもいいはずのことであって、「何に気づくのか」の方がはるかに大きい。
とは言っても、別にこの映画の出演者の誰か個人が、この秋葉原の事件のようなことを起こす感じがしたというのではまったくない。
共通点が皆無というわけではもちろんないが、それ自体はそんなに珍しいことでもないのだし、現代東京版『タクシードライバー』のポラロイドカメラで自分を撮り続ける男は、確かにああいう方向に進みかねない鋭さと孤独な影があるからこそこの役が出来たし、今回の通り魔事件を映画化するなら主役もできる。一方で自分を客観視できてギャグにもできるだけの冷静さもあるからこういう形で演じられたのでもあるわけで、「自殺」の匂いが映画全体を覆っているという批評もあったし言われてみれば確かにそうなのだが、それでも結果として映画はそっちには決して進まない方向にまとめてくれたのだと思う。
『地下室の手記』や『タクシードライバー』、『罪と罰』的な、ある意味この映画の見せる東京であれば秋葉原の事件みたいなことがいつ起ってもおかしくない(と今回の事件が海外でも報道されてから、そういうメールも届く)空気があるのは、個人の資質よりも彼らが育って来た状況にその空気が漂っているからなのだとしか言いようがない。
具体的に言えば、たとえば高校生に『罪と罰』や『地下室の手記』のような本を読ませようとは決してしない教育、それを読むような子どもをむしろ煙たがるような教育だ。
それどころか、こういうものを読めないような教育すらしている。だいたいドストエフスキーのレベルの文学が一回読んだだけで把握できるわけがないし、一回読んですぐにはわけが分からない本で、読んでから相当に考えて咀嚼しなきゃ「読書感想文」も書けないだろうし現代国語の「作家はなにが言いたいのか」の正解も書きようがない。
だいたい、そんなもんを50字とかそこらで書けたり、三択問題で選べるのなら、誰も小説なんて書かんし、映画なんて作らんてば。
あたかもあらゆることに既に存在していて与えられうる正解があるかのような幻想を子どもの頃から押し付けられ、それがおかしいことに気づいていても表現する手段を持っていない。
それを持てるような教育をするのが「ゆとり教育」だったはずだし、『ぼくらはもう帰れない』や、秋葉原事件の犯人も、その教育で育った世代だが、実態が伴ってないから偽善にしかならず、二重三重に世間を疑うようにしかならないし、一方で疑っている自我に一定の自信、そう考えている自分が確かにそこにいることすら確信できない。
『地下室の手記』や『タクシードライバー』に言葉にできない、一見なにがなんだか分からない不気味な共感を演じるスリルが最初から否定されている社会。時間をかけて悩んだり迷う自由もないで「夢を追う」「自分らしく」を強要される倒錯。「分からない」を認めない大人の傲慢。
だが10代にもなればまともな感性があれば気がつくはずだが、実際の人生は、なにがなんだか分からない状況がほとんどなのだ。
古来、人間は偶然を「神の意思」とかとりあえず理解することで人生の意味を見いだして来た。
ニーチェが「神は死んだ」と叫んで科学が宗教にとってかわって、人間が核兵器まで作ってしまってサルトルやカミュが「こりゃやばい」と思っても、世界の大多数はその警鐘を聞きながらも、科学技術の進歩で人類が総体としてはより恵まれた生活を送れることに、ある種の目標を見いだせて来た。
考えてみたら僕の世代だと21世紀はまだバラ色の未来だというように小学校くらいは思えていた。
でも1980年代の半ば以降、そういう進歩という理想はもう終わらざるを得なくなり、この世代がモノを考えるようになった頃にはバブルは弾けていながら、大人たちはバブルに踊ったことのどこが過っていたのかを反省もしないで、むしろ金銭こそが唯一の価値で経済とギャンブルの見分けがつかない非情で不道徳な社会がどんどん進行していく。
だというのに彼ら大人は自分たちの空虚さを反省もせずに、子どもに「夢を持て」とか言い続ける。
適度にまのぬけた「いい子」ならなんの疑いもなく、根拠不明の自信に満ちて「自分らしさ」を発散する。それがどんなに薄っぺらな装いに過ぎなくても、学校が子どもに読ませる本はむしろその幻想を助長する。
だがなまじ頭の働く子どもなら「そんなバカな」とどこかで思っていても、それは言ってはいけないことになっているし、それを言う手段を育てる教育はしていない。
この世代を乱暴に一般化してしまえば、彼らは恐ろしく自信があるか、まったく自分に自信が持てないかのどちらかだと多くの大人は言う。
そりゃお前たちだって同じだろうと言いたくもなるが、大人たちが分かっていないのはこの二つが二分できるものではなく「自信過剰」と「極度の自信のなさ」が同じ人間のなかで裏表になっていることに気がつかないことだ。
まあ彼らバブル以降の大人もまったく同じ問題を抱えているのだけど。つまり大多数の人間の自信過剰は、大人も子どもも、自分たちがもはや変わることも人間として成長することもできないという根源的な自己不信を隠す装いに過ぎない。
あまり感性が働かない大多数は、ゆとり教育世代であれば「自分らしさ」への極度な自信の底にある根源的な自己不信に気づきすらしないし、それはそれで一種の自己防衛本能でもある。
でもそれぞれが「自分らしさ」と称して皆が同じような茶髪にして同じようなタイト系のファッションにすればイケメンとなって適当にはモテる(少なくともそのように秋葉原事件の犯人には見えてたようだ)ことになるが、実は根源的な自己不信があるから自分は決して曝け出さないで周りに合わせることに腐心し、とにかく「認められている」ことに安心する。
だいたい周りに合わせるために童貞や処女を急いで捨てたい子どもが多いという倒錯した時代に、「自分らしさ」もへったくれもあるかよ。
このアホらしさと偽善にどこかで気づいてしまっている人間は孤立するしかない。
言わない方がいいことも言わずにはいられなかったりするから。というか、「ゆとり教育」で「自分らしさ」が大事なら、言えるような状況でないとおかしいのだけど。
『ぼくらはもう帰れない』は小泉純一郎の時代についての映画でもあるが、この気持ち悪さはその後の安倍晋三の最後に「KY」なる言葉が流行るに及んで、「ゆとり」で「自分らしい」のに「空気を読まなければ」いけないって、なんだよそれ?
「ゆとり教育」で育った子どものあいだで「空気を読む」ことが価値観になるというのも、いや「空気」という漠然としたものを読みとれること自体は重要な能力だろうが、実際には「読む」のではなくそこに「合わせ」なければいけないのだから、実際には意識的に「読んでいる」必要すらない。倣い症で迎合していればそれでいい。これがストレスにならなければ、その方がおかしいだろう。
だがこのアホらしさを直感していても、たとえば秋葉原事件の青年は、その直感する自分に自信を持てるような状況で育ってない、人間存在は根源的には孤独であって自分で決めるしかないという開き直りの自信を持つことも禁じられれば、秋葉原の事件の犯人のように追い込まれるしかなくなることだって十分にあり得る。
『ぼくらはもう帰れない』が捉えていることの本質は、もしかしたらその矛盾なのかも知れない。でも一方で、この映画はその矛盾のその先で、恐ろしく楽観的にもなっているはずだから、そこに持っていった交通整理能力くらいは自信を持つべきなのかも知れないね。やったのは交通整理だけで、きっかけになる言葉すらそう聞こえるかもしれないけれどサルトルの引用ですらなく、わたしゃなにも言ってませんが。
一方でその交通整理や、自らをフィクションとして演じることであり得る客観性・自己の他者性の認識は、秋葉原事件の犯人には決して訪れなかったのだろう。
一見異様に見える、彼の掲示板書き込みにある強烈な自己不信は、実は彼が育って来た日本の現代が抱えた病理のロジカルな進展の当然の結果に過ぎない。
そこで「ゲーム」や「オタク」を責めてみたところでなんの意味もないし、やった行為は許せないのは言わずもがなであって鬼畜扱いしたところで始まらない。
恐らくなによりも絶望的な矛盾だったのは、宗教も進歩への奉仕も終わった時代に、そこから解放されて本当に生きることの意味を思春期から深く考えるチャンスに恵まれた世代であるはずの彼らに、まさにそのために考案されたはずの「ゆとり教育」がまったく機能しなかったことだ。
だからといって「ゆとり教育」のせいにしているのではないので誤解なきよう。
悪いのはその理念を使いこなすだけの智慧をまったく持っていなかった大人たち、あくまで人間の問題だ。
考えても見て欲しい。学習するという人間の成長に欠かせないプロセスの目標が、単にいい点をとって子どもの成績を自慢したい親の自己満足に奉仕するだけになったら、その子ども時代というのはどれだけ虚しいものか。『親の品格』とかいうくだらなくも偽善に満ち満ちたベストセラーの著者とやらが、テレビで「親が子どもを愛し過ぎている」とかエラソーなことを言っていた。なに勘違いしてるんだろ? 自分の自己満足のために子どもを搾取することのどこが「愛し過ぎている」のか?
「愛」とはなにかすらまったく分かってないだけじゃん。もっともその親だって、根源的に自信がまったくないから、子ども成績とかにすがって自分の教育に自信を持ったフリを自分相手にやっているだけなんだろうが。
先述のサルトルっぽい言葉というのは「人間けっきょく一人だろうが。全部なにもかも自分でやることは自分で決めるんだよ。そんなことにいちいち寂しいだとか言っていたらキリがないだろうが」というセリフだ。
秋葉原事件の犯人が本気でそう思えたらどれだけ楽だったことだろう、とちょっと思う。
彼の場合、派遣社員の不安定な身分がひとつの要因であることは疑いようがないが、社会的身分がなくなったからって自分の存在がなくなるわけではない。
生きていくだけならなんとかなる。昨年の正月に妹をバラバラ死体にしてしまった歯科医の息子がキレた言葉は、妹に「夢がない」と言われたことらしいが、人生の目標が「夢」だったらそりゃそれで困るし(実現しなきゃ意味ないじゃん)、本当にやりたい/やるべき目標なんてそう簡単に見つかるわけがないじゃん。
まだ二十歳だろ?
無茶な要求し過ぎてるんだよ、それも自分に閉じこもるという以外になんの逃げ道も与えずに。
で、そこに逃げ込めば今度は「引きこもり」「オタク」とレッテルを貼る。秋葉原事件の犯人の「彼女が欲しい」という切望だって、「人間けっきょく一人」なんだから、「不細工だからモテない」なんて他人の目を気にしてコンプレックスに陥った自分に妙な確信を抱くこともなかったはずだが、彼は自分を孤独の中へと切り離すことができなかった。
そこに彼の「孤独」の矛盾がある。孤独であることは、今の世間は絶対に認めないだろうけど、実はそんなに悪いことでもないのだが。
というか、けっこういいものですよ、他人を気にせず自分をみつめなおせるならば。自分って意外とヘンで思ったよりもおもしろいし。「へえ、こんな顔してるんだ」とか、「こんなこと考えてたのか」とか。
しょせん偽善に過ぎない薄っぺらな価値観からこぼれ落ちるだけの自我と感性を持っていながら、「人間けっきょく一人」になりきれず、孤独に追いつめられていくようでいて孤独な自我になりきれないところに、彼らのような青年の悲劇があったのかも知れない。とりあえず不細工不細工と他人の目を前提にしたコンプレックスに妙な自信を持つ前に、携帯電話をネット書き込みに使うだけでなく、カメラもついてるんだから自分の顔でも撮ってみて、じっくり見てみればよかったのに。そんなに不細工じゃないよ。
映画的にはポラロイドカメラの方がかっこいいですけどね。
0 件のコメント:
コメントを投稿