ちょうど一年前の大晦日には、このブログにこんなことを書いていた→ 「2010年-この国はいったい何を恐れているのだろう」
その時には3月11日の大地震ようなことが起こると考えてもいなかったし、あの日を境にこの国は大きく変わったはずだとも言える。先日、イタリア人の映画ジャーナリストに取材を受けたときにも、自分で「2011年3月11日は1945年8月15日と同じくらい重要な日付けだ」と言っている。
イタリアの日本映画ウェブサイト「Sonatine」 Matteo Boscarol によるインタビュー(英語)
同、レビューしかし一年前に書いた昨年の総括と、その決定的な日付けから8ヶ月以上も経った今の現状を比べると、本質的なことはなにも変わっていないのだ、とも思えて来る。
平気で嘘をつく人々と、その嘘に平気で騙される人々。
もはやなにも筋が通らない、筋を通すことを誰も気にもせず、閉塞感を皆が愚痴りながら、自分の現状をなにも変えようとは決してしないニッポン人。
失敗も冷静に受け止められず反省もできない国。
自分からはなにもしない人々の国。(2010年12月31日の本ブログ)我々は、この大天災とそこに誘発された人災(原発事故)から、なにも学習していないのかも知れない。いやむしろ、こと原発事故をとりまく諸問題は、ただこれまでずっとあったのに誰もが見て見ぬ振りをしてきた様々な矛盾が、顕在化しただけなのだとすら、言えてしまいそうだ。
3/11の地震には、誰もがそうであったように自分も驚いた。まったく予想も覚悟もしていなかった(この列島が地震の巣の上にあることは自明であるのに)。
しかし正直に言って、その日の夜ぐらいから福島第一原子力発電所でどうも問題が起こっているらしいと報じられたときには、もちろん「大変なことになった」とは思ったもの、想定外とか驚きという意味では、たいして驚きはしなかったのである。
簡単な話だ。福島第一原子力発電所が老朽化していることも(設計上の耐用年数を越えて運用されていたことも)、津波想定が甘かったことも、すでに新聞やテレビの報道で知っていたのだ。
既に知っていて、理屈としては想定できることなのだから、「驚く」というのは少し違う。
しかしそれでも、世論はすぐに『国民は安全神話に騙されていたのだ』という、それこそ神話に他ならぬ虚構に飛びついた。福一に潜在的な危険性があったことは、かつて五大紙の一面トップの記事にだってなっていたのに。
「大手マスコミは東電にお金をもらっているから、真実を報道して来なかったのだ」という、まったく事実に反する話は(繰り返し言うが、僕だって新聞とテレビで【知っていた】のだから、報道はもちろんされていたのだ。それもかなり大きく)、しかし「知らなかった自分たちに罪はないのだ」という無責任さに徹したい欲求から、あっというまに世論の大勢が盲目的に信じ込むものとなった。
まさに失敗も冷静に受け止められず反省もできない国そのものではないか。
「安全神話が」「東電が」「推進派が」と騒ぐ人たちに、2004年の秋に一時は大問題になったはずの原子炉の耐用年数延長決定をめぐる報道を指摘すると、確実にヒステリックに…反論すらせずに話を逸らして、なぜか「推進派だ」と罵倒までされてしまう。
奇妙な話だ。どんなに知らんぷりをしようが、その事実がちゃんと、現実としてあったことを、指摘している相手は知っているのだ。いまさら誤摩化したところで、今度は嘘つきという罪を重ねるだけではないか。
なぜその時には関心を持ちたくなかったのだ、国が決めたことなんだから大丈夫だと思ってしまったのだと、素直に過ちを認められないのだろう?そこで気づかなければ原発を止めて行くのなんて無理に決まってるのに。なし崩しで「のど元過ぎれば」になるのは分かり切っているのに。
なにしろ、なぜ原子炉の耐用年数を延長するという無茶苦茶な決定を政府が下したのかと言えば、それはなによりも「東京の電力が足りなくなる」からだった。
中越地震で柏崎の原発が自動停止し(これは原子炉の安全機構が働いたのだから、怒るべき話ではない、念のため)、この原子力発電所が活断層に囲まれていたことが明らかになった。その当時、地震などの問題があまりないとされていた福一にもっと電気を作らせないと、東京が困ったことになると予想されたのだ。少なくともずっと反原発運動などに関わって来た人達は、耐用年数延長問題も、その時には一部の地震学者から貞観地震のときには福一にも10m超級の津波が来ていた可能性があると指摘されていた(ちなみにこれを大々的に特集で報じたのはTV朝日系の『報道ステーション』である)ことも、さすがに知っていたはずだ。
なのにその人達までがなぜ、「安全神話に騙されていて国民は知らなかったのだ」という神話に他ならない虚偽を鵜呑みにする素振りをするのだろう?
「国が決めたことなんだから大丈夫だと思ってしまう」国民性というのは、原発事故でやれ「政府が隠蔽だ」とか「国民を騙している」と言っている人達でも、実のところその政府の権威への依存性がまったく変わってもいない、成長も学習もしていないことも、指摘しておく。
なにしろ放射能による汚染の実際被害を語るときにその人達が持ち出すのは、医学者の見解でも放射線の専門家の意見でもなく、最大の権威であるかのような顔をして言い出すのは「これまでの基準が1mSv/yだった」から、法律がそうなのだからそれを越えたら被害があるのだ、という倒錯した論理なのだ。
その基準や法はどのような理由で、どのような思想を背景に、誰が決めたものなのかということは、一切考えようともしない。そこに考慮すべき余地があることすら気づかぬまま、国家が決めたことに盲従したいだけなのだろうか?
なのに一方で、原発事故というかっこうのいいわけがあったから、その権威の担い手である政府であるとか官僚、あるいはやはりエリート社員の多い大企業である東京電力を叩いて鬱憤晴らしが出来るという、その状況に陶酔しているだけにしか見えない。
法の文言を杓子定規に踏まえるだけで、現行の法が人為の産物である以上は人間の限界性の枠内にしかなく、常に改められ更新されなければならないという、近代法治のもっとも基本的な部分をすっ飛ばして、「法治国家なんだから」と言い出す−−この「法治」「民主主義」をめぐる日本人の根本的な勘違いも、このブログではうんざりするほど繰り返して来た話ですよね、念のため。
しつこいほど繰り返すが、近代法治というのは民主主義と法の公平性、そして倫理という理想的な体系の理念がまずあって、その人為では到達不能かもしれない高度な理想を目標に、現実には限界だらけでなかなかそこに到達出来そうもない人間たちが、個々の矛盾や問題を地道にクリアしていくこと、常に理念の基本に立ち返って、現実の社会と照らし合わせながらその欠陥があって当然の法体系を少しずつでも理念に合わせて更新していく、そのプロセスの実践でしかない。「法で決まってるからそれを守れば法治だと認めてもらえるはずだ」なんて怠惰で依存性丸出しの話では、ないのだ。僕にはさっぱり理解できないことだ。
確かに政治家になったり、一流官僚になったり、東電のような一流企業に入るからには、東京大学とかその辺りの難しい学校に入らなければいけないわけで、子どものころからお勉強だって出来なきゃいけない。でもどんなに優秀な優等生だろが、人間は人間でしかない。学歴という権威だって極めて限界のあるものでしかなく、能力の物差しとしてそこまでアテになるはずもないことくらい、ちょっと考えれば分かるはずじゃないか。
ましてそういう学歴を支える日本の教育、とくに受験の実態が、極めて限定された分野での杓子定規な知的活動(と言うほど「知的」であるのかも疑わしい) にしか対応できないものであることだって、みんなその教育を受けているんだから分かってるはずだろうに。
「安全神話に騙されていた」というのが虚偽でないとしたら騙されてる方がよほどのお人好し(というか馬鹿)である以上に、原発事故をめぐって政府や東京電力が「隠蔽している!」などという話には、かなり呆れてしまう。「隠蔽」するもなにも、何を隠すべきかを判断できるほどの情報すら、政府や東電は把握していなかったというのが実態だろうに。彼らがいちばん「隠蔽」したのは、自分たちが実はよく分かってないことを必死で隠そうとして来た、とは言えるんだろうが。
しょせん、その程度のものである。それどころか官邸も東京電力も恐ろしく混乱していたことも、当時の報道を見れば分かりきったことだ。
「隠蔽」どころか、まだ内部で検討段階の案に過ぎないことが「高官の話」としてボロボロと出て来てしまう。そしてスクープされたことでその検討段階の案は既成事実化し、フランスのアレヴァ社の水浄化装置を使うことにしても、破損した原子炉建屋を覆うことにしても、どんどんお金がかかるが実効性は疑わしいことばかり決まって行く。あこぎな商売を狙ってる連中にいいように振り回されてるんじゃないか、とすら思えて来る状況に、また政府以上になにも分かってないで勉強不足であることがあからさまなマスコミが拍車をかけていることは、4月1日のこのブログ(「嘘でもないのにエイプリルフール的な…あまりに不条理な…そして滑稽な…悲しいまでに…」)でも指摘した。
先日も、原子炉内から放射性キセノンが検出されたことを、東京電力が慌てて公表した。まだ検出量も確定してない段階で、とにかく発表しなければというのは、ちょっとでも公表が遅れるだけで「隠蔽だ」と叩かれるのが怖いからなのだろう。しかし検出量が分かっていなければ何が起こっているのかは特定できっこない。「再臨界しているのではないか」と訊かれればNoと答える根拠がまだないのだ。果たして24時間後には検出量が特定され、結果はおよそ再臨界はあり得ない微量。そんなの量が確定した時点できちんと公表しておけば、結果として誤報だったものがNHKの7時のトップニュースになるなんてことは、なかったろうに。
福島県の放射線アドバイザーに就任した山下俊一氏が「こう言っては失礼ですが、日本全国理科音痴。そこに高度な核物理学が」だから「この際反省してきちんと勉強しなおすべき」と指摘した時には、「なるほど」と思った。果たして山下氏が指摘した通りのことが、ますます加速している。
しかもそこで最大の問題は、誰もが「自分たちは勉強不足だったかも知れない。確かに理科音痴だったのかも知れない」と反省すら一切しないことなのだ。
福一事故が起こるまでは原子力発電の問題にまったく無関心で、大々的に報道されていたことすら無視しておいて「安全神話に騙されていた」と必死で虚構を口にしているのと、まったく同じ心理だろう。
実のところ、我々は自分たちの使っている電気が実はどれだけリスクを伴うことなんて自覚したくなかった、ましてそのリスクを地方の、他に目立った産業つまりは雇用がない土地の弱みにつけ込んで押し付けて来たことを無視したかったから、関心を持たなかっただけなのではないか?
ひたすら自分が責められるかも知れないことを恐れているだけなのだ。そしてそれが大いに誤っていたことすら、大地震や大津波、それに原発事故を経ても、まだ学習しようとすらしない。
自分は「いい子」なのだと必死に思い込むこと、他人に批判されたりしたくないという以外のことは、これだけの災害が起こっても、まだ考えられもしないままなのかも知れない。
だがそんな自分の周囲の目ばかり気にして、そこでなにか間違いを指摘されたとたんに命が危ないとでも勘違いしてしまうところで思考停止していようが、大地震と大津波でひとつだけは確実に実感しなければならないはずのこととは、我々人間が信じ切って、そこに浸り切って生きて来た現代文明の価値観なんて、しょせんとても果敢ないということではないのか?
絶対に安全で快適な暮らしなど求めたところで、そんなこと自体が、この宇宙の巨大さの前に、決して到達できないものなのだ。
確かに今年の地震と大津波は、我々が知っている歴史のなかでは未曾有の天然災害だろう。東北の太平洋沿岸ではところによっては数十センチの地盤沈下も起きている。
それは凄いことだ。でも一方で、そうした地球の活動がなければ、この日本列島自体が存在していない。
逆に言えば、その壮大な大地の創造の物語のなかでは、この未曾有の大地震ですら、ほんのかすかな地殻の変動でしかない。
人間の存在とはしょせん、それほどに脆く果敢ないものだ。だがだからこそ、尊いのである。