10/31/2010

『ほんの少しだけでも愛を』と大阪の人たちの差別について

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2011、編集中)

どうも今の日本の「差別」をめぐる悲劇の根幹は、出自や民族、生まれつきの“障害” などで「生まれながらに差別される人々」がいることではないらしい。

逆に「マジョリティ」の側に自分が「生まれながらに差別する側なのだ」と思い込んでいるビョーキな人が多いことに、本質的な問題があるらしい。

でも本当にそんなことがこの社会の「差別」の本質だとしたら、非常にアホらしいわけで、しかも救いがない。

被害者が生まれるのは一方的に加害者側の責任でしかないが、加害者の側はただ自分の考えを再検証して、差別なんてアホなことをやめればいいだけなのだ。

なんで自分でまずできる、遥かに楽なことをやらないで「俺たちは差別する側なんだと言われるのが怖い」とかの思い込みに、必死でしがみつなければならないのだろう?なぜそんな下らないことに必死でしがみつけるのだろう?

なんで「差別される側がいなければ、せめて目立たなければ、声が大きくなければ、自分たちは差別をしているなんて言われないで済むのに」などと、スーパー身勝手な甘えのまっただ中に自分を貶め続けることが出来るのだろう?

ガキじゃあるまいし、幼児退行か、などと言ったら子どもたちに失礼だろう。子どもの方がまだずっと賢い。

大阪で『ほんの少しだけでも愛を』を撮っていてショックだったのは、大阪におけるいわゆる同和であるとか、在日コリアンの問題を取り上げたとたんに、「東京の人間がそんなことに興味を持つのは、東京のエリートが大阪を差別してるんや」みたいに言われたこと。

しかも「東京のエリートが大阪を差別してるんや」みたいに中央集権コンプレックスを丸出しにした挙げ句、「同和地区なんかで撮影したら、大阪では上映させない」とか言い出したのが、50代のいい歳した大人なんだから、開いた口が塞がらないわけである。

なにそのまったく他人が見えてない超ワガママって?

さらにショックというよりも空いた口が塞がらないのが、「同和地区なんかで撮影したら、大阪では上映させない」と言い出した50代のいい歳した大人というのが、さる自称・「大阪の市民の映画館」の経営者だったこと。

アジア映画の映画祭とかやりながら、韓国本国で保守派が在日コリアンを蔑視しがちなことを、嬉しそうに “教えて” くれたりするんだからやってらんないのである。いやそれくらいのこと知ってるし、だいたい韓国のナショナリズムについて「欺瞞だ」と批判的な発言をソウルの映画祭などで堂々とやってるのが僕なんだが…?

それも小川紳介や土本典昭に心酔しているフリをして、自分の映画館でも良心派・社会派ぶって、自分たちとは無関係の差別をめぐる映画、たとえばイスラエル映画、僕が友達なので関わっているアモス・ギタイの映画を上映したいから協力してくれ、とか言って来る人だったりするのである。

 『ほんの少しだけでも愛を』抜粋

自分たちとは無関係の、たとえば外国の差別をめぐる映画は、上映したいと協力を求めてくるような映画館経営者が、その同じ相手について「同和地区なんかで撮影したら、大阪では上映させない」とか言い出すんだから、こりゃ完全にビョーキの世界なわけだ。

だって偽善なら偽善で、もっとうまくやるだろう、普通? こんなにバレバレなことやって怒られないと思うほどに、甘えてるんだろうか?

でもこういうビョーキな世界は恐らく、別にその映画館経営者個人や、大阪とか関西地区に限った話でもない。日本全国の問題であり、たまたま歴史的経緯で大阪で表出しているのに過ぎないのだろう。

というか、僕が今「ビョーキな世界」と言ったことについては、彼はすかさず「東京のエリートが大阪を差別してるんや」とか言い出すんだろうな。

だいたいそれってあまりに考えが甘い。「東京」?いえ私は半分ヨーロッパで育ち、「お前は日系ユダヤ人に違いない」とイスラエル人にからかわれ、「どこにも属さない」強いて言えばいわば世界市民でしかないし、映画という世界的/普遍的なものに属している人間なんですわ、お気の毒さま。そこまで自分たちのコンプレックスを無自覚にも分かり易くさらけ出して、どうするんだ?

さらに始末の悪いことに、まあ「関西の男性」にありがちな行動原理として、怖いからさすがに僕には面と向かっては言わない。ならせめてバレないところでの陰口で済ませりゃいいようなものを、わざわざ僕の耳に確実に入るところで言う。

気持ち悪いので本人に「そんなこと本当に言ったのか」とわざわざ問い合わせてあげたのだから、その時に「絶対にそんなことは言ってない」と言えば、まだチャラにできることなのに、逆ギレで激怒はしても絶対に否定はしないのだから、じゃあやっぱり本当に言ったんだね。

よくもまあこんなに無意味で、ただ卑劣で気持ち悪いだけのことを、いい歳した大人ができるもんである。

 『ほんの少しだけでも愛を』結論部分(ナレーションはこの内容を膨らませて再録音の予定)

昨晩、ツイッターで「差別する側はしばしば差別される側でもある」と書いたのだけれど、これには訂正が必要だろう。

差別云々でもなんでも、単に自分の限界がつきつけられたときに、相手に対して相対的に劣等な立場になったとコンプレックスに苛まれ「差別された」と思い込める輩が、その劣等感の解消を求め、優越感に浸りたいために、差別する相手を必要としているのだろう。

つまりは自分たちのマイノリティ性に絶対に気づきたくない、マジョリティでありたい人々が、幻想のマジョリティであることの担保として、差別なんてことをするのではないのだろうか?

いずれにせよ、えらく不自由な話である。

しかし自分で勝手に不自由になってるだけの連中の身勝手のせいで、いわゆる「同和」であるとか、あるいは在日韓国朝鮮人の人たち、障害者の皆さんが余計な苦労をさせられるのだから、まったくひどい話だ。

そんなに相対的な優越感が大事なんだろうか?

自分を愛するということが出来ない人々なのだろうね。

だから自信が持てず、他人に認められたいですらなく、ただひたすら批判されたりして「下位」に自分が置かれることが怖いだけなんだろう。

自分を愛するって、大切なことですよ。

それができなきゃ、自分の経営する映画館を大事に出来ないし、だからそんな自爆発言も、無自覚にしてしまうんだろうけど…。

自分を愛すること、愛せるだけの自分になれることを本気で目指していれば、差別だのいじめだの、やってるヒマもなくなるし、その必要も、動機もなくなるのだし。

逆にいえば、差別をし続けたり、いじめをやる人というのは要するに、本当はそういういやらしいことを、やりたくてしょうがない、そうやってくだらない優越感に浸りたいか、自分が「下」に見られるのを恐れているだけなのだろう。

3 件のコメント:

  1. 知らない事を知ることは嬉しいことばかりではなく、
    衝撃的なこともあるのだということを思い出させて頂きました。
    無知は罪が無い。
    などと、ぬるま湯的なことを言っていられなくなります。
    本当にご苦労様でした。

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  2. 匿名7/14/2013

    完成版はどこで見れますか?

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    1. 今年のヴェネチアに間に合わせるか、来年のベルリンを狙うか、と言ったところでして、まだ完成してません。しばしお待ちを

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