参院通過のギリギリになった数日間、反対の声がメディアでも、野党からも、そして国会を取り囲むデモでも盛り上がったものの、それでも「特定秘密保護法」は成立した。
もっとも、衆院を通ってしまえば、もはや成立しないわけがないのは最初から分かっていたはずだ。
もう忘れてしまったのか?我々は一年前の衆院選で
与党に2/3絶対過半数を与えてしまっただけでは飽き足らず、
夏の参院選でも
与党に歴史的な大勝を許している。いかに今さらになってやっと数の暴力と言おうが、今国会でこの法を通すと与党は明言していたのだし、ギリギリの数日で慌てて反対しようが、まともな議論もなく強行されるのは、当然の想定の範囲内だった。
昨年に一時は永田町がやはりデモで騒然となったはずの、「再稼動反対」デモと同じ失敗が繰り返された、とも言える。
「電力が足りない」が再稼動が強行されるいいわけになるのは、最初から分かっていたはずだ。だが「まず政府は電力の需給データを公表し、精査して本当に電気が足りていないのか示すべきだ」という要求は決して「反原発デモ」の主流にはならず、議論のベースになるデータもないまま「足りている」「足りてない」の机上の空論の押し問答だけが続き、もはや手遅れだと分かり切っている時点でやっと「さいかど〜はんた〜い」と国会前で踊り出すだけでは、止められるはずもない。
逆にこれを「再稼動はやむを得ないのだろう」という世論操作のガス抜きに使うことにだけは、政府官邸は抜け目がなかった。
それにしてもシュプレヒコールで決然と意思を主張するのではなく、なぜ歌ったり踊ったりしなければならないのだろう?
そういえば昔の学生運動でも、破防法阻止で火炎瓶闘争までやっても、政府に強行されてしまえば、とたんに火炎瓶闘争を指導していた側が歌って踊って、を始めていた。今もまったく同じ心理で、踊り出すまでのタイムスパンが圧縮されているだけなのかも知れない。
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大島渚『日本の夜と霧』 |
特定秘密保護法案は、
夏の参院選では与党のアジェンダで上がっていたはずだし、衆院選で既に安倍自民党総裁は
「改憲」を争点に上げていた。なぜ選挙の時に、この政権が極右の強権的な全体主義の傾向を持つことや、この法案の危険性を、メディアは報道しなかったのか?
衆院選の争点だと安倍晋三が言っていた改憲の中身すら、自民党が出している草案は報道にまるでのらなかったではないか、今さら遅いよ!
特定秘密保護法案だって、せめて衆院での議論が始まった段階でメディアが反対の声を上げていれば、まだこうはならなかったはずだ。いや今でこそ反対だ、こんな問題がある、と言っているが、これでは最初から記者クラブを通して共謀していたのだと思われても仕方あるまい。実際問題として、参議院での採決直前にならなければこのように反対の報道が盛り上がらなかったのでは、メディアがただ「私たちは反対したが、無理だった」というためのエクスキューズにしかなっていない(と言うか、
経験則から言えばまた記者クラブぐるみの世論操作と疑うのが当然)。
言うまでもなく特定秘密保護法は、このブログで
既に述べた通り、発想自体が馬鹿げた法律だ。
国家機密を狙うスパイが合法かどうかを気にするわけもなく、懲役刑で脅したところで、最初からバレないいようにやる。公務員には元から守秘義務があるのに、わざわざ懲役刑で縛りをかける、というのも奇妙な話だ。
それでもあえて機密を守る新たな法が必要だとしても、その枠内でもこの法案は杜撰過ぎる。そもそも何が機密に当たるのかの具体的なイメージすら、提出している与党も反対する側も分かってないのだから当然なのだが、
条文だけを読めばなにを機密とするのか、なにが機密であるべきかすら極めて曖昧である。
このままでは恣意的になんでも機密に出来てしまい、チェック機能がないことが国会で問題になると、政府側は「第三者機関」と言いつつ首相が第三者になると言ってみたり、次官の会議と外部の有識者と言ってみたり…首相が任命する内閣のメンバーである次官や、内閣府が任命する「有識者」が第三者になるわけがないだろうに。
こうも杜撰である、法律の体裁すらあやふやなことを、衆院での議論の時からメディアと世論が大掛かりに、成立直前の勢いで反対し指摘していれば、どれだけ与党が圧倒多数でも、廃案にだって追い込めたかも知れない。
少なくともまともな議論は出来たはずだ。
だが「国家機密とはなにか」「なにを、なぜ守る必要があるのか、だとしたらどう守るのか」という議論は、特定秘密保護法案をめぐる騒動のなかで、ほとんど出て来ていない。そのことがいちばん危険にも思える。
これでは「気分の問題」でしかない。
気分の問題だけで中身も深く考えないまま、方や「我々はお国のために秘密を守るのだ」と強がりを言う側がいて、もう一方では「治安維持法の再来、民主主義の死だ」と絶望を装った極論を語っている。その狭間にいるのは「この法律には賛成だが決め方が」と言い続ける維新やみんなの党だが、衆院の段階で理屈としてはまともに見える主張で修正させたはずが、土壇場で無原則な例外を認めてその修正を骨抜きにしたのだから、どこまで本気だったのだろう?
さらに成立後になって、今度は国会の特別委員会を秘密会で設定し、そこで機密にすべきかどうかチェックするという(日経新聞の
昨日の報道)。いやもう…なんというか。「国家機密」の話をしているはずなのが、
なんでこうもその機密に触れ得る=漏洩し得る人数を、どんどん増やしているのかねえ?
なんでも国会議員が非公開の秘密会の内容を漏らした場合の罰則をこれから作るのだそうだ。もう、少しは真面目にやれ、という言葉しかない。
だいたい国家機密なんだから、目に触れる人数自体を限定するのが当たり前だし、ほとんどの機密は機械的・自動的に機密になる。
たとえばアメリカ大使館の間取りや階数は、テロ防止の観点から自動的に国家機密だ。在日米軍施設のゲートは自動的に軍事機密であり、撮影したら憲兵が飛んできます。そういうルールをまずきちんと作る、◯◯に関することは機密、このレベル以上のことは機密、と原則をまず決めれば煩雑な行政手続きは省けるし、漏洩リスクも減らせるし、ルールの決定自体はオープンに議論されるのだから、不正もかなり防げる。
たとえば自国の軍事組織の具体的な配備、たとえば自衛艦がどこにいるのかは、基本的に作戦上の重要機密になる。本来なら国民の知る権利の観点から、そのうちどこまでを公表していいのかを決める話だ。なのに
「中国にレーダー照射された!」と騒いで、尖閣諸島近海に自衛艦が展開していたという、普通に軍事機密であるだけでなく、領有権の係争がある海域なんだから外交機密であるべき事実を、ペラペラとマスコミに喋ってしまったのが現内閣だ。
そして今国会の最大の争点でありながら、こうした法の立法目的と運用に関する本質的な議論は、一切なかった。
より本質的な、国家の安全と利益を守るための情報保護と、公正な行政の運営を担保するための知る権利の兼ね合いの、どこに落としどころを設定するのかの議論もない。
チェック機能がないのは確かに問題だが、それだけが論点であるかのようになったのだって本末転倒、実は「議論しています」「反対しています」のポーズだったとしても驚かない。
なにしろチェック機能以前に、こればかりは絶対に機密指定を許してはならないことを、きちんと禁じる条文すらないのだ。
つまり、
違法であるが故に政府に都合が悪く、だから機密にして隠蔽してしまうことを禁じていないのが、この特定秘密保護法だ。
これくらいは最低限の基本的なルールとして条文に明記しなければ、政府が自分たちの違法・犯罪性のある行動は隠しますよ、と厚顔無恥の不正直さを宣言しているに等しい。
ところがジャーナリストでもこの肝腎の問題を指摘したのは、僕が見た限りでは
江川紹子さんだけだ。チェック機能を巡る細則以前に、真っ先に法案の根本的な瑕疵として議論すべき、メディアが大々的に書き立てて最も問題にするべきはずのことなのだが。
これは「なにを機密にしていいのか」チェック機能以前に、そのチェックの原則となるべき最低限のルールの問題だろうに。
その上機密指定の解除義務が徹底されていない問題も残っている。つまり
その気になれば、永遠に機密に出来るし、国家の違法行為などは、当然この対象になるだろう。
機密とする期限と解除については衆院で維新が指摘して、60年という年限が出たものの、あくまで原則で例外はあるというのに、なにが例外として許されるのかの議論もなにもなく、条文にも反映されていない。
つまりは極論、なんでも例外扱いが出来る。それこそ政府による違法行為だから機密にしたことなど、真っ先に例外扱いにしない方がおかしいだろう。なにが例外になるかのルールがないんだから。
さらに本会議強行採決が時間の問題になったところで、いきなり内閣の判断で機密を破棄出来るようになってるらしいことが報道された。なんという不正直さ、嘘つきっぷりなのか?日本政府はたとえば第二次大戦の終戦時にも、既にこれはやっている。
今回の特定秘密保護法を「民主主義の死だ」とかっこつけて言う人が後を絶たないが、これはそれ以前の問題だ。これでは悪行の隠蔽を奨励し、嘘つきを保護する法律である。
封建領主ですら、こんな不道徳は許されない。
民主主義以前にあらゆる体制下で完全に倒錯した、普通の常識で「大人として子どもたちに恥ずかしい」というべきレベルの話であり、矜持や道徳の素振りすらかなぐり捨てている時点で、戦前戦中の軍国主義よりもまだひどい。
人間社会のもっとも基本的なルールを無効にする、「道徳の死」だ。
と同時に、その事実を示す文書等がなければ、その事実そのものがないに等しいと思い込んでいる時点で、現在の我が国の政府の、もう精神医学で言って
人格的欠陥としか言いようがないレベルの倒錯を示すことでもあり、しかもこの政府の場合、同様の前科は既にある。
実例その1)従軍慰安婦問題について、政府は公文書を調査した結果、強制を示す文書がなかったと主張している。それでも河野談話の段階では、文書が残存しなくとも強制があったことは自明だという常識的な立場がとられた。仮にそのような文書があれば、終戦時に破棄しているだろうし、そもそも命令を文書にすらしないのが普通だからだ。
ところが今や、安倍晋三首相やその周辺では、証拠文書がないのだから強制性があったのは嘘だ、と言い出している。
いや普通に歴史学者や裁判官が見れば強制があった証拠とみなす命令書すらある。
つまり、慰安婦の徴集に軍ないし警察の同行が義務付けられているのである。これで強制がなかったわけがない。なにもしなくたって武装した兵士や警察がいれば、その存在自体が、植民地の貧しい、社会的地位の低い階層の女性から見れば絶対に逆らえない、逆らえば殺されると思って当然、強制以外のなにものでもない。
実例その2)尖閣諸島の領有権は、日中国交回復の時点で、周恩来から田中角栄への提案で、「棚上げ」になっている。中国としては主権の範囲について公的には妥協出来ないが、日中友好を優先して、建前では領有権は主張しても実際には日本の実効支配を黙認しよう、と中国側から言ったのだ。むろんこういう話は首脳間の信頼関係に基づく約束で、文書に残せるわけがない性質のものだし(つまり外交機密)、日本側が「いや『棚上げ』とお宅が言ったはずだ」とおおっぴらに言い出したら、中国側は建前上は否認せざるを得なくなっただろう。
ところが現状は逆だ。中国側が「実は棚上げにした」と(本来なら自国政府が批判されかねない国家機密を)公言し、かつての田中角栄の側近・野中広務がわざわざその事実を確認しても、日本側が「外務省で調べたがそんな記録がない」の一点張りである。さらによく分からないのは、「棚上げ」は本来なら日本に有利な話、わざわざ中国が言ってくれたのだから日本側が確認すれば尖閣諸島は日本領として実は安泰に実効支配を続けられ、この騒動は一件落着になったはずなのだが。
中国はそうやって丸く納めるための日本への譲歩として、わざわざ本来ならタテマエ上は自国に不利な機密であったはずの「棚上げ」を自ら認めたのだが、日本側が「棚上げはない」と言ってしまった以上、中国政府としてはこれまでも公式には自国領と主張して来た場所なのだから、防空識別圏に含めることにするのは理の当然だ。日本側が約束を反古にしたのだから。
と言うより、中国にしてみればこれは日本側を交渉の場に引きずり出す最後の切り札だし、先ほど来日したバイデン米副大統領も、それを支持する形で「日中間で危機管理について話し合って欲しい」と安倍首相に提案し、日本側が言わせたかった「撤回を要求する」という文言は拒否した。一方は首相、もう一方はしょせん副大統領、ここまではっきり拒否すること自体、外交儀礼の序列からして、公的な共同会見などでは珍しい。
いやもう「安倍晋三たちって、バッカじゃなかろうか」という話でしかない。
そしてこの特定秘密保護法もバカげていて幼稚であるだけでなく、あらゆる意味で恥知らずな法律だ。我々がそろって「国民を愚弄するのもたいがいにしろ」と怒り、軽蔑していいことだ。
だがだからこそ、反対する側の主流の論理にも疑問を感じざるを得ない。
報道にあまり出て来ないから気づかなかった、ギリギリになって報道が出て、それで気づいて国会前で絶望的な状況のなか抗議をする人たちの誠意は、疑いたくない。
だが結果として、政府側の掌の上でいいように弄ばれていることになってはいないか?
参院での議論の最中、自民党の幹部から「デモはテロと同じだ」というとんでもない失言が飛び出した。本来なら
麻生さんの「ナチスに学べ」失言と同様、クビが飛ぶ話なのだが、それでも権力者側にいれば地位が守られるのが安倍政権の日本である。石破氏の場合、むしろわざと言ったと考えた方がいい。
つまりはこれも政府側の確信犯的な世論操作だ。
政府はこの法律の決め方を通して、自分達が強権的な国家主義者であること、気に入らないことを言う国民はなりふり構わず黙らせることを、自己演出しているのだ。なのに今のような反対のやり方、僕たちがたとえば「映画が作れなくなる」と言い出すようでは、その演出を僕たちの側が補完することにしかなっていないのではないか?
いや実は、反対を言っている人の大半も、こういう法律は必要だと思い込んでいるのかも知れない。
さすがに反対しなければサマにならないから、手遅れになってからやっと反対が盛り上がったのではないか、とすら思えて来る。
特定秘密保護法は「民主主義の死」だという。「治安維持法の再来だ」と強弁する人も少なくない。
確かに今の政府与党が公言している(のにメディアが報じない)極右国家主義、全体主義路線の進行のワンステップに、今回の特定秘密保護法の強引な成立は位置づけられるのだが、
この法律自体はまずさんざん言って来たようにナンセンスだし、その条文は杜撰過ぎるし、こと我々国民の自由を直接に奪える弾圧法としてはあまり使えないことは、はっきりさせておくべきだ。
教唆・強要を処罰対象とする文言は一応はあるが、現代の日本国憲法と刑事訴訟法の範囲で検察側の立証責任を満たすには、文字通り金銭などの授受を伴い直接に公務員を口説くとか、弱みを握るか人質でもとって脅迫して漏洩させた事実でもなければ、まず成立しない。メディアと国民の監視の目さえしっかりしていれば、「政府は◯◯を隠している、許せない」程度のデモでの訴えを、特定秘密保護法違反で検挙することは出来ない。
だからこそ石破氏はわざと「デモもテロと変わらない」というトンデモ失言をやったのだろう。実際には特定秘密保護法がなんら拘束力や影響力を持たない範囲のことが、あたかも取り締まりの対象になるかのような印象を作るためだ。
幽霊の正体みたり枯れ尾花。
こんな子供騙しにのせられてはいけない。「今の政治家はこんなに怖い、なにか言ったら逮捕される」と(現実には不可能なのに)僕たちが思い込むことこそ、自民党右派と霞ヶ関が狙っていることなのだ。
一般市民が直接に国家機密を目にすることなどまずないのだから、僕たちがそれを漏洩することも難しい。米国の機密だってたとえば戦争中なら連邦政府の施設内や、日本でも駐日アメリカ大使館の内部では、間取りなどが分かるような写真は撮らないよう、撮ったら破棄するよう厳命されるが、こっそり撮影して持ち出し公表したから逮捕、とはならない(その程度の「国家機密漏洩」なら、僕はさんざん、
それこそ監督第一作からやっています。すみません)。
つまり
特定秘密保護法案は、実際には僕たちの生活とはほとんどなんの関係もない、まず拘束力も持たない。にも関わらずこれが危険になるとしたら、法律それ自体の機能とは無関係に “ジワジワと効いて来る” 場合であり、そのことを政府側は、この法律それ自体ではなく、
その決め方によって、まさに “ジワジワと効いて来る” ように演出しているのだ。
たとえば北朝鮮による拉致事件被害者家族の蓮池透さんは、家族にすら政府がほとんど情報を提供してくれなかった経験から、報道の萎縮がいちばん怖い、と指摘している。
(秘密保護法案)異論言えない「萎縮社会」 蓮池透さん
特定秘密保護法は、こうした情報を永遠に封印してしまうかもしれない。強い危惧を覚えます。一番心配するのは報道の萎縮です。政府から情報が得られない中で、新聞やテレビの報道は、家族にとって時に希望をつなぐ唯一無二の情報だったからです。http://www.asahi.com/articles/NGY201312040030.html
(なお確かに、日本のとくに大手メディア、官庁の記者クラブ会員社の記者が、情報源の大半を官僚からの情報に依存している以上、政局や外交問題の報道などは今後とてもやりにくくなるだろう。
だがそうした報道は元々、官僚が世論を操作するために恣意的なリークでやらせているものだ。皮肉なことにその意味では、むしろ言論の自由はこの法律で守られてしまうことになる)
別にこの法案で突然言論の自由が阻害されるわけではない。
既にこの国に、そんな自由はほとんどなかった、実は僕たち自身が自らその自由を放棄し、他人に放棄させて来ている。特定秘密保護法を僕たちが通させてしまったのも、その当然の延長であり、帰結に過ぎないのかも知れない。
ここではっきりさせておくが、僕はずっとこの法案には反対しているが、僕自身の職業上の利害にはほとんど関係がないし、僕が自分の仕事で萎縮する必要もどこにもない。元から官僚に情報をもらったりすることが滅多にないし、守秘義務があるのだから機密情報なんて僕らにはまず教えてくれないし、その相手に自分のクビが飛ぶ話をキャメラの前で言ってもらうことなんて、そもそも不可能だ。
ただしかなりの部分は、話からだいたいの推測はついてしまうし、多くのメディアが僕にだってすぐ気づくことをなぜ書かないのか、僕にはずっと疑問でならなかった。
高畑勳さんや瀬戸内寂聴さんのような世代の人が、この法案に「いつか来た道」を見て頑なに反対されるのは非常に理解できる。この人たちはずっと以前から、日本には言論や表現の自由が実はないこと、
歳下の世代の我々が自らそこに加担し、自分で自分の自由を棄てて来たことに、危機感を持ってもいる。同じような世代の、今は亡き黒木和雄監督に、僕は生前にさんざん「今の日本は僕の少年時代にそっくりになって来ている」と警告された。
それは別に国家権力が、ということだけではない。我々国民もまた言論表現の自由の制約に、ずっと加担して来ているのだ。
たとえば僕たちの映画の業界でも、高畑勳さんや盟友の宮崎駿さん、亡き大島渚さんは別格として、僕が知る限り言論や表現の自由なんてほとんどなかった。黒木和雄さんや
土本典昭さん達は自分達でもその不自由とずっと闘いながら、僕たち後輩が自らその自由を無自覚に放棄していることを、とても不安に思って来られていた。僕にしたって黒木さんや土本さんの晩年に可愛がられた、まだ「今の日本は我々の少年時代に似ている」と警告して頂けたのは、僕が自分達に自由がないどころか、
自分で自由を放棄しかねないことに、まだ比較的自覚的な部類に属していたから、に過ぎない。
蓮池透さんが指摘したように、特定秘密保護法案が僕たちの自由を結果として束縛することになるとしたら、それは別に自民党だけの問題じゃない、僕たちの側自身の不自由さ、
自由から逃走している問題でもある。
大島渚さんが亡くなられてから、
生前の大島さんには「この映画の台詞は意味が分からない」とさんざん生意気を言って来た(そういう自由を大島さんは許して来た、むしろ僕にはそれを「強要」すらされていた)『日本の夜と霧』を何度も見直している。
鈍感だったというかなんというか、今見直せばこの映画が描く50年代60年代の左翼運動の病は、今の日本の不自由の縮図に見えるし、僕自身がこの20年くらい、そんな世界のなかで仕事をし、生きて来ていた。
『日本の夜と霧』で大島渚さんが暴いている、反安保や学生運動の側の病、言論と表現の不自由、思想の自由のなさは、権力側の不自由さの鏡像になっているし、それは今の、例えば僕自身が属する、どちらかといえばリベラルなはずの日本の映画の世界でも、まるでそっくりなのだ。
僕たちの言論の自由、表現の自由を奪っているのは果たして国家権力側だけなのかと言えば、それはぜんぜん違う。自分たちへの批判や、自分たちの反省を促されることを病的に恐れる人たちは、その自分達の存在自体が言論の自由や表現の自由を放棄していることに、なぜ気づかないのだろうか?
特定秘密保護法の強行採決は確かに「いつか来た道」を再びなぞる危険性は、はらんでいる。でもそうなるのは我々国民が萎縮することに安住し、強権的な権力に同化する幻想に耽溺して、政府ではなく自分達が他人を黙らそうとし始めた場合だけだ。
だが今の日本社会の多数派は、既にそうやって自分達で他者をマイノリティの立場に追い込み、その他者を黙らせ、自らの自由も他人の自由も抑圧しようとする欲望を、もはや本能的なレベルで持ってしまっている。
「ボクたちが傷つくことを言うのは許さない」「そんなの抑圧的だ」、その身勝手な感情論がなぜか他者の言論や表現を抑圧する動機として正当化され、殺し文句は「そんなこと言うとみんなに嫌われるぞ」「みんなお前を嫌ってる」とか、こんな言い草がまかり通れば、自由なんて元からあるはずがない、デフォルト設定で全体主義なのだ。
みんながみんなで自分の自由、他人が自分を批判する自由を、徒党の暴力性と「傷ついた!」という幼い感情論だけで抑圧している、
本当のことを言えば叩かれる社会では、特定秘密保護法がなくとも言論の自由は元からないし、あんな杜撰な法律でも弾圧暴力装置として立派に言論を萎縮させてしまうだろう。
いやあんな法律がなくとも、既に萎縮しているし、萎縮させられること、萎縮する理由が明示されることを自ら望んですらいる。
いやそんな人たちの本音の深層心理では、特定秘密保護法は「情報漏洩で国家が脅かされる」という理由ですらなく、自分たちをこそ守るために必要な法律なのかも知れない。
元から周囲の目を配慮して自分が気づいている不都合な真実を言わない、それを言ってしまった人は袋だたきでいじめて血祭りにあげることで、マジョリティの側に自分の居場所を担保するのが習い性になっている人たちにとっては、「こんな法律があるから言えないんです」といいわけを担保してくれる特定秘密保護法や、治安維持法に類するものは、むしろ実はありがたい。
こと3.11以降今までずっと、現代の日本政府は(というか霞ヶ関は)不正直で無能で無責任だと、僕は言い続けて来ているが、一点だけ彼らが恐ろしく有能であることは、認めざるを得ない。
まさに痒いところに手が届くかのように、僕たち国民の側の歪んだ心理や後ろめたい欲望を精確に見抜き、一見反対するように見える者たちまで巧妙に操って利用し、社会を自分達の都合のよい方へと誘導できる狡猾さだけは凄い。
僕たちが福島第一事故を扱った映画『無人地帯』を海外合作で、編集つまり映画の論理構造を明確にする作業を海外でやり、日本側プロデューサーでさえフランス人だったのは、日本の映画の業界に言論の自由や表現の自由が実はない、僕たちが弾圧されたりする前から自分たちで自由を放棄しかねない、ただそこに反発するだけに気を取られてしまうのなら、ダメな映画になってしまうからに他ならなかった。
極端な話、もしフランスで、
イザベル・インゴルドに編集してもらわなかったのなら、日本国内だけで仕上げるのなら、20Km圏内の無人地帯で編集するしかなかったと思う。“
トウキョウから遠くはなれて” なければ、あの映画は出来ていない。
本当に隠蔽されたのは炉心溶融でも放射能漏れでも被曝の危険性でもなく、250Km離れた東京が40年間福一に依存して来た責任、政府の被災者に対する無責任、原発地元へのそこ以外の日本の露骨な差別意識、実は誰も事故の実態を理解する気すらない、
僕たちの傲慢で薄情な独善だった。
それが突きつけられた、ついに起ってしまった大規模原発災害ですら、本当のこと、
福一立地の地元の人にとっては分かり切った真実を言う自由すら自主規制してしまうのが、今の日本のインディペンデント映画ですらそんなもの…というか、インディペンデント映画業界こそ、それがかなり狭い世界なだけに、かえって『日本の夜と霧』度は高かったりする。
かと言ってそこに属さない自分に固執するだけでも、映画は映画にならない。ならば資金的にも物理的にも、そこから自分を隔離してしまう方が手っ取り早い。
特定秘密保護法は確かに僕たちの自由を(ある程度は)阻害するかもしれない。だがこの法案が通るだけで直接に不自由になる、なにかが言えなくなるわけではまったくない。そこまでの拘束力はこの法の文言には書かれていない。ただし元から自分の自由を放棄することに慣れてしまった僕らにとって、この法案は強烈な萎縮効果を持ち得る。
この法律や日本版NSCは愚かしいからこそ潰すべきである一方で、僕らが萎縮する必然などどこにもない、これが通れば自由がなくなると言うこともない。
むしろ一方で僕たちが反省すべきは、こんな出鱈目に今まで無批判で甘んじて来た自分たちの不自由さ、自分たちで自由を放棄して来たことなのだ。
尖閣諸島や
北朝鮮政局、日韓関係を巡る馬鹿げた歪曲報道、要するに
小泉純一郎の時代以上に危険な安倍晋三の時代の日本の状況とは、
端的に言えば「裸の王様」の童話そのままだ。
日本版NSCの第一回閣僚会合のあと、お膳立てをした首相補佐官から記者との懇談で出て来た発言が、「今後二週間に一回会合があるので、テーマ設定が大変」だったりするのだから恐れ入る(日本経済新聞、12月7日朝刊)。これでは本末転倒でまったくの無駄ではないか。
アベノミクスの大規模金融緩和に日銀総裁が賛成しなかったので更迭されたら、新しい日銀総裁は今さらになって「金融緩和政策は止めるべき時に止めるのがとても難しい、今回は長期国債の償還時期も重なってとくにチャレンジングだ」と言い出す(http://www.asahi.com/articles/TKY201312070132.html)。
いやそんなの最初から分かっている、バブル崩壊後にさんざんその失敗を繰り返して来たのになんの学習もしてなかったのか?
こんな無責任で自らの無能を隠そうともしない政府には、僕たちは子供のような自由さで「王様は裸だ」と言うべきなのだ。
とはいえ「王様は裸だ」と言い切る子供の視点の純粋さと自由さを持ち得なくなっているのは、なにも自民党や政治報道をめぐる情勢だけのことではない。
今編集中の
最新作『ほんの少しだけでも愛を』は、出演者と僕の労力以外は日本の出資はゼロ、製作国は日本ではなくインドネシア=タイ=ドイツ=フランス合作のほぼ無国籍になる。映画に使うシーンの選択と、どういう展開になるのかだけを示すラフカットまでは自分でやったが、本格的な編集には僕自身はほとんど口を出さず、バンコクで編集作業を続けている
リー・チャタメティクールに任せている。
出て来る話は、いじめに在日差別に遊郭に被差別部落となれば、当初日本で支援してくれた人たちは勝手に去って行ったし、僕自身もこの映画が扱っていることを「みんなが嫌がるからタブー」として来た日本社会の一員である以上、冷静さや客観性を保てない危険がある。
というか『ほんの少しだけでも愛を』は大阪で撮影した、大阪についての映画で、大阪では当初は「我々は映画を愛している、若い人を助けたい」という “善意” で支援してくれる人たちがいたのが、映画で扱っているのがいじめに在日差別、
飛田遊郭や釜ヶ崎にも入り込み、ラストは被差別部落のど真ん中で撮影と分かったとたん…
「そんな映画は大阪では絶対に上映させない」
…である。
これが日本映画の「自由」の現状だと絶望して、怒りや憎しみにだけ囚われて、「自分は間違ってないんだ」にだけ固執してしまえば、その敵愾心に囚われる自分もまた裸の王様になってしまうだろう。
それでは映画が作品にならない、ただの個人的な感情の自己正当化に堕してしまう。
だが映画とはそんなものではない。作品とは、そんな人間世界の俗世の都合や自己正当化の身勝手の外から、「王様は裸だ」という真実を照らし出すべき光に、ならなければならないはずなのだ。
まさに大島渚さんの『日本の夜と霧』の構造がこれであり、その意味で大島さんはこの問題作で、映画論そのものを実はやっていた。
この映画では、60年安保闘争の敗残を心の奥底に隠した人々の集う結婚披露宴に、津川雅彦さんの演ずる、逮捕状が出ている、常識では黙って隠れていなければいけないはずの学生が登場し、その場のうわべの平穏をかき乱すことから始まる。
大島さんが「僕はスキャンダルが大好きなんだよ」と言っていたのは、こういうことだったのか。
スキャンダルとは、「王様は裸だ」という事実を明らかにすることだ。だがほんとうは王様は裸だとみんな分かっているのに、誰も言わない、政府や国家権力が出て来るまでもなく、周囲の目が怖いから迎合するのは、自分たちも裸であることを言われたくないからだろう。
在日への差別はまだ
在日の人たちの努力や、韓国文化の「韓流ブーム」を巻き起こした努力で、少しは変わって来てはいるが、
被差別部落問題なんていっこうに好転もしないどころかもはや隠蔽されて誰もが見て見ぬ振りをして恥じず、部落地域がゴーストタウンと化すか歴史が抹消されるかのどちらか、という、自由も真実もまったく尊重されないのが、秘密保護法を待つまでもなく日本の現状だ。
「朝鮮人は出て行け、殺せ」という極端な排外主義を述べる者たちだけを人身御供にして、彼らを「ヘイトスピーチは」と叫ぶことで
隠蔽されているのは、100年以上に渡って日本という国家と民族が朝鮮民族を差別して来たこと、今なお普通に陰湿な差別があること、そして日本の植民地支配と暴虐な戦争の責任、我々の国家がまず謝り、反省しなければならないことだ。
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今の日本における「差別に反対」「ヘイトスピーチを許すな」とは、こういうことなのだろう。朝鮮民族を敵視し、差別したいことはちゃんと伝わるが、自分たちの内輪では「差別に反対している」とは思える。(JR中央線、大久保駅付近高架下) |
つまり「僕らに都合の悪いこと」はすべて、僕たちが「傷つく」から、自分たちが批判されるのは耐えられないから、
隠されなければならないのだろう。
そうやって
未だに日常に受けている差別を隠蔽され、差別を受けて来た在日の人たちにさえ「反日だ」という脅しで自分たちの苦しみや経験を語り、生き抜いて来た強さを見せる自由を剥奪させているのが、
「日本人大衆」の横暴である。
僕たち自身が、自由で自分らしく正直に生きるべくやらなければならない努力を放棄して、どんな理由でもいいから他者を叩く、仲間はずれを作ることで結束を高め、悪口陰口に耽溺する世の中を作ってしまっているのなら、その当然の結果として、特定秘密保護法案のような愚行がまかり通り続けるだろう。
いじめ問題なんて、被害者にしてみれば当然の正論すら、それを口にする自由を奪うべく
世間全体で圧力をかけている、自分達に都合の悪い真実や事実は国家機密扱いなのが「日本人大衆」その実、大半はいじめ加害者だ。
「いじめは加害者が全面的に悪い、罰せられるべき」
こんな当たり前のことすら言えないのがこの30年以上の日本である。
なぜ言えないのか? 「日本人大衆」の圧倒的多数が大なり小なりいじめ加害者であったことがあり、同時にいじめ被害者になることに怯えている。「お前は加害者だ、反省しろ」と真実を言われれば自分が攻撃される側になることを病的に恐れ、当たり前の真実をもう30年以上も隠蔽し、誰にも言わせないようにして来ているのだろう。
ここまで他人/他者が自由をもって真実や本音を言うことに社会の大半が実は怯えている社会、自分で気づいて反省し立ち直る自由をみんなで放棄している国では、「なんとなく国に都合が悪そうなことは言ってはいけません」となるらしい法が通るだけでも、言論の自由は完全に奪われるだろう。
大島渚さんの『日本の夜と霧』に話を戻せば、あの映画では戸浦六宏さんだけが実名のままの「戸浦」という役柄だ。津川雅彦演ずる異界からの闖入者・太田以外では、この戸浦だけが(酔っ払うことで)自由に本当のことを言える人物である。
なにも国家権力だけが僕らの自由を奪っているのではない。
僕たち自身が自分たちでお互いの自由を奪い合い、自分の自由を殺している、放棄している状況が、学校から仕事の現場のしがらみから、自由でなければならないはずの僕ら「表現者」の世界でまで蔓延している。
そんな今の日本だからこそ、馬鹿げた特定秘密保護法ごときが、恐るべき言論弾圧装置になり得る。