最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/31/2013

2014年・この国はどこに向かうのか?


2013年の日本の政治は、安倍晋三首相の靖国参拝という、その実内容自体はどうでもいい割にはダメージだけは大きい珍事を最後の大事件に終わろうとしている。

このテの愚行にこの一年間ですっかり慣れっこになってしまったことこそ、この一年の最大の政治的変化なのかも知れない。

あまりに次から次へと、安倍首相やら菅官房長官やらから問題発言が飛び出すので、前の問題が解消もされずまともに議論もされないまま、次の話題に移ってしまって忘れてしまいそうなほどだ。

変な耐性さえついてしまって、驚きも、たいして重要視もしなくなってしまっている。

とはいえ、毎回毎回、同じことは考える。「安倍晋三は本当に、自分がなにを言っているのか分かっているのか?」

「レーダー照射された!」なんて馬鹿騒ぎはもう覚えていない人の方が多そうだし、アルジェリアの反政府勢力によるプラント占拠・人質事件での安倍氏の失態など、もともとメディアはちゃんと批判しないし、もはや誰もなんとも思っていないかもしれない。

いや重要なはずの外交日程を切り上げて「事件の対応に当たる」って日本にいながらなにが出来るのかもよく分からないのだが、アルジェリアの大統領と電話会談で「テロと断固と闘う」と合意しておいて「(日本人の)人命優先」を言い張ったとか… 
…だからそれだったら「断固と闘う」ことにならないでしょう?自分がなにを言っているのか分かってるのかこの人は?

そしてこの事件を教訓に、在外公館の駐留武官制度を強化し、邦人保護に自衛隊を使えるよう検討するとか言い出したことは、もうみんな忘れている。

これも「安倍晋三は本当に、自分がなにを言っているのか分かっているのか?」な話だ。

他国の施政権下、他国領で、自国の軍事組織を自由に活動なんてさせられるかっていう。国際常識のカケラもないのか? 
それ、明らかな国際法違反であり、戦争しかけてるのと同じことですよ、安倍さん。平和ボケもたいがいにして下さい。

「自分がなにを言っているのか分かってるのかこの人は?」危険な極右であるとかネナナチ歴史修正主義である以前に、歴史修正主義にしたって論理的に成立していないのだから困る。

そこにあるのは妙に薄っぺらなセンチメンタリズムだけ、8月の原発忌にも終戦記念日にも、言葉だけ、上っ面だけの言葉が繰り返されただけだった。

一皮むけば、空虚なセンチメンタリズムの虚勢に基づく幼稚な自己正当化だけが優先されるのが、安倍氏の特徴なのかも知れない。そしてそうした安易で空虚な感情優先の非論理は必ずしも、安倍氏だけの問題ではない。

こうやって安易なセンチメンタリズムと、すぐに忘れ去ることだけに耽溺して来た一年間のあいだに、たとえばそろそろ、もう三年前になる震災の復興はなにも進んでいなかったりする。原発事故の収束のめども、政府の見立てが20年になったり40年と言ってみたり、要はなんの切迫した感覚も遠くはなれた東京でやっている話には感じられもしないし、原発事故と無関係な宮城や岩手の被災地ですら、津波が到達した地域はどう復興するのかすら決まっていない。

確かに、この震災と原発事故の被災者は、合計で30万少ししかいないかも知れない。つまり人口の0.3%。だからってこうも安易に感傷的に搾取したり、すぐ忘れたり、を繰り返していいわけもないはずなのだが、我々日本人の総体は、その相手が人間であるということすら考えられなくなっているのだろうか?

今年で仮設住宅宛の住所に年賀状を書くのは三回目になる。 
本来なら仮設は二年間限定のものなのに。 
それだけで年賀状を書くのも気がめいってしまうのも、それはそれでしょせん東京にいてなんのダメージも受けていない者の勝手ではあるのだが。

本ブログで触れ損なったトンデモ発言といえば、福一事故の「汚染水は完全にブロックされている」という、地元福島県やとくに原発事故避難民のひんしゅくを買ったこと以上のものもあった。

いざ福一を視察した安倍氏は、無邪気に「これは24時間やってるの?」と尋ね、それがそのままテレビの電波に乗ったのだ。

現場で働く人たちや、福島浜通りの地元の人たちに至っては、唖然としたことだろう。いやあのね…原子力災害に昼や夜や人間が普通に起きてる時間、寝てる時間は関係ないから。

こんな無責任首相であるにも関わらず、東京は2020年のオリンピックをゲットしてしまった。イスタンブールから無理矢理、金ずくで奪ったオリンピックであるだけでも恥である上に、口先だけは「震災復興の応援」とかで、7年後にまだ廃墟のままの津波被災地に聖火ランナーを走らせて、それで「復興を励ます」つもりらしい。

「安倍晋三は愚かである」、これだけ言っていれば済むのだったらそれで済ましたいが、その彼が総理大臣、つまり国家の政治的指導者として許容され続けていることがさらに怖い。

いかに運だけはよく、様々な失態や問題にされるべき判断が別の話題ですぐかき消され、官邸とべったりの大手メディアが懸命に別の話題を報じることも可能になるチャンスにだけは恵まれているとはいえ、あまりにも不思議だし、不気味でもある。

そもそもまともな政治的な議論というものすら、成立しないままなのが二度目の安倍晋三政権の一年間だった。

2013年は日本の政治的風景や社会から、「知性」が消え去り、いよいよ「議論」がなくなった年として記憶されるのかも知れない。

確かに安倍晋三もむちゃくちゃだが、安倍に批判的であるかのように見える人ですら同レベルにトンデモな話や筋の通らない歪曲、詭弁があまりに目立ち、特定秘密保護法案でも原発政策の今後にしても、反対派も含めてほとんどまともに議論が出来ていないのだ。

一方で今年はまず、大島渚がついに亡くなった年だった。

そして年末には、フランス映画社の経営危機が報じられた。映画の世界でも、かつてあった「知性」とか「教養」とか「品性」、あるいは「頭の良さ」の意味、善意や親切心、人間らしさや矜持、人としての幅といった、社会を社会たらしめて来た肝心のものが、この日本社会からは確実に失われつつあるのかも知れない。

こんな日本のどこが「美しい」国なのか? 残されたのは薄っぺらなエゴを、幼稚に言い張る空虚な言動や表現だけなのかも知れない。

今これを書きながら、紅白歌合戦ではなくNHK教育テレビの年末のクラッシック音楽総括番組を聴いている。最後の曲は、N響が初めてザルツブルク音楽会に参加した際の『幻想交響曲』だ。

日本の大晦日がワルプルギスの夜というのも、今年の大晦日にはふさわしいのかも知れない。

まさに人間不在の、魑魅魍魎と魔物だらけの歪んだ国に、日本国は落ちぶれようとしているのか?

なんだかんだでここまで豊かな国、経済水準も教育水準も世界でトップクラス、それも人口一億を超える、世界に多大な影響力を誇り尊敬と憧れも集める大国のはずなのに、なぜ日本人大衆は勝手に不幸になり、こうも自信を失い、立場もわきまえずに自己中心的な保身にのみ耽溺し、安倍晋三ごときにすがって、幼稚な身勝手の殻に必死で引きこもっているのだろう?

この国はこれからの新しい一年、いったいなにに怯え続けるのだろう?

12/29/2013

フランス映画社の功罪


フランス映画社が事務所の家賃未払いを巡って差し押さえに遭っており、危機的な状態にあるらしいことが報道されていた。


日刊ゲンダイの報道 
http://gendai.net/articles/view/newsx/146824

ジャン=リュック・ゴダールの『ゴダール・ソーシャリズム』が確か最後の配給作品になるのだろうか? 社長の柴田駿さんには、最近はお会いする度にマノエル・デ・オリヴェイラの『アンジェリカの神秘』はいつ見せてもらえるのか、などとせっついて顔をしかめられたり、年賀状には『メトロポリス』の完全版の劇場公開も控えていると書かれていたりしていたが、作品は持っているらしいながら長らく目立った活動がなく、テオ・アンゲロプロスの遺作となった『第三の翼』も日本配給権は当然柴田さんが獲得していたのが、今年の東京国際映画祭で『エレニの帰郷』という邦題で上映された時には、配給は東映が、と告知されている。

アンゲロプロスの映画で一本だけ、最後の一本のみ日本で「BOWシリーズ」というフランス映画社のレーベルがつかないことになると知って、なにか妙な気分だったし、その告知を読んだ時点で、このようなことになるかも知れない予想も、正直に言えばなくはなかった。


公私ともに親しかったテオが撮影中の交通事故で急逝し、一時は柴田さん川喜多さんが支え叱咤することで映画を作り続けた大島渚も長かった闘病の末に、もうこの世の人ではない。

あっというまに時が経ち、気がつけば時代はまったく変わっている。


僕らの世代にとってはまず『ベルリン天使の詩』の大ヒットでミニシアター文化を作り上げた最大の立役者/功労者が、柴田駿さんと妻の川喜多和子さんの率いるフランス映画社、「名作を世界から運ぶ」と銘打ったBOWシリーズという認識になるが、この作品で日本で大人気監督になったヴィム・ヴェンダースだけでなくゴダール、アンゲロプロス、侯孝賢の『恋々風塵』や『非情城市』、それにオリヴェイラ…新作の吸血鬼映画が公開中のジム・ジャームッシュも最初に日本に持って来たのはフランス映画社だし、アンドレイ・タルコフスキーの『ノスタルジア』も柴田さんと川喜多さんご夫妻が紹介してくれたからこそ僕が日本で見られて、衝撃どころかワンシーンワンシーンが無意識レベルで刻印されたほどの映画であり(『無人地帯』にはそっくりなシーンがかなりある)、柴田さんが『運命』を『炎のアンダルシア』の題名で日本で公開してくれたからこそユーセフ・シャヒーンにも会うことが出来、ルノワールの『黄金の馬車』も『ゲームの規則』も、柴田さんがリバイバルや日本初公開をした古典だ。


今度やっと公開する拙作『無人地帯』は、僕の場合は『ノスタルジア』と『サクリファイス』から見始めたタルコフスキーの絶大な影響がある映画だったり、シャヒーンには「若者は映画評なんてやってないで映画を作れ」と言われたり、僕の映画のスタイルが長廻しを多用していることにアンゲロプロスの映画を見て来たことが関わってないはずもなく(『ぼくらはもう帰れない』では自嘲的なギャグにまでしてしまった)、もちろん『黄金の馬車』もあるし等々、考えてみればフランス映画社なしには僕はここにいない。柴田さん、川喜多さんとこの会社が紹介してくれた映画は、それを見て来た僕たちにとって大切な宝であり、数々の大きな影響を与えてくれた、学ばせてもらった存在である。


いやそれ以前に、60年代に日本の若い映画作家たち、大島渚や吉田喜重の映画を積極的に海外に紹介したのもSHIBATA ORGANIZATIONつまりフランス映画社だ。70年代には創造社を解散し、映画作りなんて経済的に見合わないことはもうやめようとすら思っていたという大島さんに「復活」のチャンス、つまりフランス資本で『愛のコリーダ』『愛の亡霊』を撮らせたのも、柴田さんと川喜多さんである。


もうどれだけ、このご夫妻、この会社のおかげで見ることが出来た、いやフランス映画社なしには存在しなかったかも知れない映画の影響下に自分があるのか、分からなくなるほどだ。

柴田駿さんに最近お会いするのはなぜかお葬式が多く、もっとも最近だと1月の大島渚監督の葬儀だった。実はこのご葬儀の事務方を取り仕切っていたのが柴田さんと、フランス映画社のOB、OGの皆さんだったらしい。その大島渚監督の野辺の送りが、フランス映画社の最後の大きな仕事になるのだろうか?


600万という滞納額は僕なんかにとってはかなりの額だが、記事を読む限り未払い額よりも、それを口実にこのビルからフランス映画社を立ち退かせようという(寿司チェーンの飲食店ビルに一軒だけ映画配給会社というのも座りが悪いのか)ことなのかも知れないし、東和財閥の創業者一族の末裔でもあり、川喜多映画記念映画財団という遺産継承組織もあるのだから、この額を払えないだけで、ということでもないようにも思える。


とにかく記事だけではどういうことかさっぱり分からないのだが、確かなことはフランス映画社がもう間もなくなくなる、柴田駿さんが、もしかしたらご自分の意思なのかも知れないが、長年の活動に終止符を打ち、店じまいされるであろう日が近づいていることだろう。

確か柴田さんは昭和15年生まれ、妻の和子さんを亡くされてもう20年だかになるのだったか、引退を考えられていても、隠棲されるのだとしても、今まで本当にありがとうございました、どうぞご自由に余生をお送りください、という以外になく、一抹の寂しさとともにひとつの時代の終わりの象徴を噛み締めるだけだ。

なのに敢えて「功罪」と題名に書いたのは、この日刊ゲンダイの記事にも関わる「大きな誤解」があるからである。

あたかもフランス映画社が「フランス映画」を日本に紹介して来た会社のように書かれているし、社名からそう思われても無理もないのだが、上記のざっと挙げてみた、同社が作品を配給してきた監督名だけ見ても、ゴダールは実はスイス人とはいえフランス映画でいいとしても、ヴェンダースはドイツ、ジャームッシュはアメリカ、マノエル・デ・オリヴェイラ監督はポルトガルの大巨匠だし(こないだの誕生日で105歳だって)、侯孝賢は台湾映画の代表的作家(家系は中国本土)、タルコフスキーはロシア人で、もちろんテオ・アンゲロプロスはギリシャ人だ。

オーストラリアのフェミニスト映画作家、ジェーン・カンピオンだってフランス映画社が第二作『エンジェル・アット・マイ・テーブル』をまず取り上げ、カンヌ映画祭でグランプリをとった『ピアノ・レッスン』を日本でも大ヒットさせ、僕がいちばん好きな『ある貴婦人の肖像』も柴田さん配給だった。

社名は「フランス映画」でも、実はちっとも「フランス映画」ではなかった。シャヒーンなんてエジプト映画ですよ。柳町光男監督が台湾で撮った『旅するパオジャンフー』というすてきな映画も、BOWシリーズの映画になった。


柴田さんはご存知のはずだが、僕は実はこの「フランス映画社」という社名が大っ嫌いで、つまり僕にとっては国内でこの社名を名乗ったこと(国際的にはSHIBATA ORGANISATION, INC.である)がこの会社の「功罪」の「罪」の方なのである。

結果から言えば、柴田さんと川喜多さんが国籍に関わらずあちこちの国から「傑作を世界からはこんで」くれたことが、世間的には「フランス映画」というスノッブな高踏文化趣味のレッテルに無理矢理くくられることになってしまった気が、今でもしてならない。

実際には柴田さん、川喜多さんにはそんなつもりはまったくなかったのだろう、優れた映画が好きで紹介する責務、優れた作家たちの仕事を親しみを持って擁護しただけなのだとしても、ただこの社名だけで「おフランス」的な教養主義の植民地主義を発散しているように思えてしまうのだ。

そういえばもう一つのミニシアター文化立役者の雄、ユーロスペースは、90年代にサミュエル・フラー監督を日本に招いたとき、サムが「映画会社にしてはずいぶん野心的な名前だ」と冗談にしていた。ユーロつまりヨーロッパである。実際にはイラン映画なんかも紹介し、アッバス・キアロスタミが日本で撮った最新作は同社の製作だ。




その社名が与える誤った印象が、例えばこのブログの前々項で触れたような、今に至る日本のアーティスティックな映画の受容における植民地根性的なスノビズムのゆがみと脆弱さに行き着いてしまっている気もしないでもない。

ちなみに『無人地帯』が日仏合作なのは、原発事故パニックというかお祭り騒ぎの日本国内にいては冷静に編集が出来なかった、信頼する友人で一緒に仕事がしたかった編集者がたまたまフランス人だったし音楽を頼みたかったバール・フィリップスも南仏在住、そして日本に住むフランス人のヴァレリー=アンヌが製作を引き受けて、フランスのプロデューサーのドゥニ・フリードマンを巻き込んだから、ということだけが理由だ。僕自身はフランスを「高級文化のブランド」とはまったく思っていない、むしろなまじ小学校がフランスだったので、変な国くらいにしか感じない。

結局、僕がそのなかで映画を作っていることも含めて、日本のいわばアーティスティックな映画は、「文化大国フランス」先進文明のヨーロッパというような虚構のイメージに支えられた植民地主義的な文脈で存在し、消費され、今や多重の危機的状況にある。

折しも今年には、堤清二氏も亡くなった。

今思えば、堤さんがセゾン・グループを擁して立ち上げた、「セゾン文化」とも呼ばれた新しい日本の消費文化のあり方は、バブルのあだ花だったようにも見えるのだが、あの時代には確かに、単なる成金趣味ではない「文化的な消費生活」を受け取り、映画にしても、ちょっと背伸びかも知れないにせよ、なにかよりおもしろい、美しいものに「高級感」も含めて受容しようという空気があったし、フランス映画社も、セゾン・グループの映画事業部門シネ・セゾン(映画の配給も行い、映画館も経営していた)も、確かにいい映画、本当におもしろい映画を紹介していた。

「豊かさ」ということについて、なにか金銭を超えた付加価値を見る、成金趣味を超えたなにかがこの時代の文化には確かにあった。ブランド品でもただ「有名ブランド」でなく、良質な作りとデザイナーの個性に価値を見いだす流行のなかで、三宅一生、川久保玲、そして山本耀司らが(パリ・コレクションでの評価からの“逆輸入”的な受容でもあったにせよ)一世を風靡した。

今そのセゾン文化的なもので残っているのは、無印良品だけなのかもしれない。 

「無印」の本来のコンセプトこそが、セゾン文化的なものの本質だったと思う。ただのバブル的な消費、お金を使うことではない、豊かな生活を夢見ると同時にシンプルななにか、「本質的な価値」を考えることが、バブルの中の日本では確かに始まっていたのだが、しかしそれも含めて、バブルの崩壊とともに消えてしまったことになる。

よい映画、芸術表現としての映画を見る観客がどんどん減って行く危機、そして高踏文化趣味のイメージだけが残って、映画が見られてもそのインパクトが去勢されている、シネフィルの趣味的な自我の維持に貢献はしても、どんなにいい映画でも深いところにはどんどん響かなくなって来ている危機が、今の日本にはある(日本だけではない、フランスでもそうだ)。そしてよい映画自体が減って来ているし、作りにくくなって来ている。

フランス映画の凋落、こと日本のマーケットで売れるようなフランス映画がどんどん減っていることがフランス映画社が今のような現状に陥った理由であるかのように言う向きもあるが、それはまったく違う。元からフランス映画社は決してフランス映画の配給会社ではなかったし、80〜90年代にはフランス映画の配給作品が実はほとんどない(フランス資本は入っていても)。むしろ作家性の強い、芸術的な作品が「フランス」というブランドで受容されて来たのが、日本人がそういった「文化大国フランス」に憧れて背伸びすることをあまりしなくなったのが現代なのだ、と言うべきだろう。

一方で作家との個人的な信頼関係に根ざした柴田さんの商売のやり方が、インターナショナル・セールス・エージェント、各国の映画を引き受けて世界各地に売りつけて行くことが専門のビジネスの台頭する今の世界の映画業界に合わなくなったことが、この凋落に結びついたとは言えるだろう。アンゲロプロスは自分の映画の権利の一部を必ず自分で保有していたので、親友でもあった柴田さんの会社が日本で配給してくれることを信頼して任せていた。その契約は5年であるとか年期を区切ったものではなく、20年前でも30年近く前の映画でも、だからフランス映画社がまだテオの映画の日本での権利を管理して来た。だが現代に作られる優れた、アーティスティックな映画ですら、ほとんどはそういう扱いではない。作家ではなくインターナショナル・セールス・エージェントが、極めてビジネスライクに業務をこなし、契約していく。

柴田駿さんがやって来たような、作家と作品を大事にする、ちょっと貴族的でもある優雅なやり方では、現代の爛熟した資本主義化の浸透した映画の世界では、通用しなくなったということなのだろう。今やカンヌ映画祭なんて、ダニエル・シュミットが『カンヌ映画通り』で皮肉ったどころではない、一皮むけば猛然たる金とビジネスのジャングルだ。

それはかなり残念なことだとも、僕は思う。いやかなり怖いことですらある。そんな寂しさとどうにもならない不安も覚えながら、これからフランス映画社と柴田駿さんが “消えて” 行くのを遠くから見つめることになるのだろう。


ひとつ残念なことがある。柴田駿さんが時にとてもややこしい人であることは僕だって承知している。幸か不幸か、巷に噂される恐怖物語に(なんだかんだで柴田さんが有能で、実績も重ねて来られ、人脈も凄いことへの嫉妬も含めた誇張も相当にあるのだろうが)僕自身は接したことがないが、これだけのことを成し遂げた人なのだから強烈な、ものすごくわがままで偏屈で、変人であった面もなかったはずはないとは思う。

だがそれも含めての柴田さんであり、そこまで強烈な個性があるからこそ出来たお仕事なのではないだろうか?

ひどい目に遭った人だっているのは分かる。だがフランス映画社がこのような状態になった時に、やたらと柴田駿さんに関するいやな噂が耳に入って来るのはどうにもいたたまれない。だいたい、世界の映画業界はどんどんビジネス・ライクになって行くのに、これでは逆行して内輪主義で陰湿で退化している話になりかねない。

個人的な好き嫌いはあって当然だし、あれほど個性の強い人なんだから馬が合わない人だって幾らでもいていい、それが個人と個人の話なら。だが落ち目になったのをいいことに、柴田さんに冷たくする、業界まとめて柴田さんの陰口で盛り上がるとか叩くとかになりそうなのだとしたら、それはやっぱり違うと思いたい。

だいたい、いい映画なんて強烈な個性がなければ作れない以上は、扱えるものでもないと思う。そういう強烈な個性の持ち主が力を持っているときは黙っていて、恨みだか欲求不満を溜め込んで、落ち目になったら仲間はずれで袋だたきとか、そんなのは、なんというか…「映画的」じゃない。

優れた映画の作り手や、それを本気で支える人たちは、差別的であってはならない。映画とはそういうものではなく、そんな人間の矮小さを超越したものを目指さなければならない。だが差別をしないということは、別にやさしいとか思いやりがあるとか、弱者がどうこう、というものではない。

大島渚だって意地悪な人だった。でも陰湿ないじめみたいなことは絶対にやらない人だったと思う。僕の場合も含めて多くの若者、若い男の子が、堂々と、公然といじめられましたが、それも愛情たっぷりに。それは僕なら僕を叱り飛ばし挑発して、より僕が自由になれるための刺激として、大島さんがやっていたことだ。この人は出会って、ちょっと気に入った若造には、ことごとく同じような刺激と挑発をやっていやのではないかと、亡くなった今になってなんとなく分かって来た。

一方で柴田駿さんが本当はなにを考えていた人なのか、よく考えてみたらたまに食事をごちそうしてもらったりしたことを思い出しても、実はぜんぜん分からないのである。僕の場合はそれはそれでぜんぜん構わないし(部下として仕事されて来た人は大変だったろうけど)、なによりもいろんな映画を見せて下さったことに感謝があるだけだ。

あと何度かごちそうしていただいた、築地のお店の海鮮丼は本当に美味しかったです。

12/27/2013

安倍チャンがまたやらかしてしまいました



この人には利害の計算という政治家にとって必要不可欠な判断がまったく出来ないようだ。そしてそれ以前に、学習能力というものがないのかも知れない。

最初に首相だった時には、慰安婦問題に関して国会答弁で河野談話見直しを口走り、ブッシュ米大統領(当時)に怒られて慌てて撤回した。靖国参拝も断念せざるを得なかった。それでも最初の安倍政権は、本人の病気ということになっているが要は病気を口実に辞任を迫られ、あっけなく短期政権に終わった。

小泉純一郎の郵政民営化大花火の遺産である圧倒多数与党の議席をもってしても、安倍、福田麻生とどんどん自民党の政権基盤は弱体化し、2009年の政権交代に至ったわけである。

今度はその民主党(霞ヶ関傀儡)政権の野田が、オバマのアメリカに無視されて辞任を迫られ、玉砕解散に至ったわけだが。

今回は自分が党首の選挙で、それも二度も(衆院参院両方で)大勝した。今や衆参両院ともに圧倒多数で、「オレは小泉を抜いた」と妙な自信をつけているのかも知れない。それでも第二次安倍政権でも河野談話を見直すとか言ってみたり、村山談話を「そのまま継承しているわけではない」と発言してみては、批判を受けると一転撤回するしかなかった。(メディアはあまり報じないことだが)アメリカの、今度は民主党のリベラル派だから歴史問題には遥かに厳しいオバマ政権が怒るので、やはり見送りになったのは、最初から当然の展開である。

むしろ霞ヶ関は、この総理大臣が極右の差別主義者であり、日本国内自体に露骨な中国と韓国への差別意識に満ちた嫌悪が蔓延しつつあることを隠すのに必死だ。 
国連総会では安倍をなんとか説得して、核廃絶まで含めてかなり踏み込んだ平和主義や、女性の権利尊重の演説までやらせた(これも日本のメディアはあまり報じない)。

なのに靖国神社に行っちゃうんですねえ、この人。後先も余波も、過去の経験から当然想定出来るリスクも、なにも考えずに。

メディアは「中国が」「韓国が」とばかり騒ぐが、なぜ「(同盟国であるはずの)アメリカが」を必死で隠すのだろう?これもメディアは隠そうとしているが、尖閣諸島問題でも中国の防空識別圏の問題でも、米国は形だけは同盟国の体裁は保つものの「これは元々日本が引き起こした対立だ」と認識しているから、いっこうに味方する気配はない。

安倍首相はバイデン副大統領と「撤回を要求する」という共同声明を出そうとして、あっさり断られている。バイデン氏は中国でも習近平主席とは、実はその話はほとんどしていない。形だけ懸念を表明しつつ、「日本と話し合って欲しい」で逃げた。

中国としては「うちは出せるカードは全部出しても日本は引きこもっているだけだ。日本はアメリカの属国のつもりなんだから、いい加減アメリカがなんとかしてくれないか?」が本音なので、それを言われたくないバイデンはなるべく早く別の話題に移ったわけだろう。

バイデンが「とにかく日本と話してくれ、日本にも話すように言って来た」と言うのだし、中国外務省はさっそく「防空識別圏に関して関係各国と話し合う準備は出来ている」と声明を出し、しかしそれでも日本はまたもや、ただ黙り込んで自国内に引きこもったままで、「安重根は犯罪者だ」とかワケの分からないことを叫んでいる。

安倍チャンの方でもバイデンさんに、日中間で危機管理を話し合う機会を設けるよう要求されているのだけどねえ…。

そこへ今度は、毛沢東の生誕120周年の誕生日にぶつけたのかどうかは知らないが、昨日安倍晋三総理大臣はいきなり靖国神社に参拝した。そして「中国、韓国の人々を傷つけるつもりはありません」のだそうである。

いや「つもり」って…子供じゃないんだから。

いやこれが、「私的参拝」で「英霊を」が目的ならこっそり静かに行けよ、なにマスコミに声かけて御霊屋上空にヘリまで飛ばして生中継なんてさせてるの?「中国や韓国を傷つけるつもりはない」って嘘ばっか、わざわざショーアップして刺激しようとしているとしか思えない。

いやそもそも、「傷つける」とかそういう問題では本来ないのだが、安倍首相は靖国参拝をやれば相手国を「傷つけられる」と思い込んでいるから、そんなことを言うのだろう(そうでなければ、そんなヘンな言葉思いつきませんよ)。

「上から目線」というのはイヤな言葉、あまり正しくない日本語ではあるが、自分がやることで相手を傷つけられると思い込む、この安倍氏らのまるで小学生のいじめっ子みたいな態度には、ピッタリの形容だと言わざるを得ない。 
いや安倍さん達が勝手に、自分たちの内輪だけで、そう思い込んでいるだけなんですけどね…。

「私的参拝」をここまでショーアップするのは、これで中国や韓国を「傷つけられる」、尖閣諸島問題では完全に行き詰まってダンマリを決め込んで国内に引きこもるしかない、韓国相手ではAPEC会議では安倍自ら及び腰で自らパク・クネ大統領に握手を求めて余裕の対応をされ、日韓外相会談では岸田外相が韓国側になんの反論も出来ず引き下がるだけ、という外交的連敗のリベンジでもしているつもりなのだろう。

だが中国と韓国は別に感情的に「傷つく」のではないし、今までだって「私たちは傷ついた弱者なんだから配慮しろ」と言って来たのでもなく、今ではアメリカも含めて、この事態を、日本側が勘違いしているのよりも遥かに深刻に受け止めている

日本がこのまま暴走を続け、尖閣諸島や竹島で武力衝突、日米同盟があるものだからアメリカが中国との武力対決に巻き込まれる、なんていう極端な事態ですら、もはや想定に入れているのだ。

だからバイデンの東アジア歴訪は、日本にアメリカが巻き込まれないようひたすら慎重だったのだし。

まただからこそ習近平の方が、防空識別圏問題をわざわざ作ってアメリカを巻き込もうとした(アメリカが日本を押さえてくれることを期待)のであり、だが共和党系のアーミテージらエセ親日派とは違って日本を属国とはみなさない、独立国として最低限の尊重は守りたいし、安倍晋三の狂気としか思えない行動に巻き込まれたくもないオバマ政権は、困惑しつつ「とにかく日本と話し合ってくれ」で話を終えているのである。

「靖国神社の参拝は、いわゆる戦犯を崇拝する行為と、誤解に基づく批判がある」とのんきなことを言っている安倍チャンたちは、つくづくなにも分かっていない。靖国神社を参拝することは、そこにA級戦犯が合祀されている以上、戦前戦中の軍国主義と戦争犯罪、侵略戦争を日本政府が肯定したという政治的ジェスチャーにしか見えないのだ。

いや現に安倍チャンや自民党右派だって、それを肯定したくて「靖国に行きたい〜」と叫び続け、「従軍慰安婦なんてでっち上げだ」「日韓併合は朝鮮が望んだんだ」等のねつ造した虚構の歴史観を振りまいているのだが、安倍チャンたちの欲望が単に「ボクたち悪くないモン!日本だけが悪い悪いなんて言われたら、ボクたち傷ついちゃうモン!」と言いたいだけだとしても、他国からはそうは見えないのだ。

いやだって、そんな子供っぽい話で国家の既存の方針や条約に書かれた約束を反古にしたり、国の行く末を危うくするような大騒ぎを始めるなんて、大人の政治家なら逆に誰も考えません。

サンフランシスコ講和条約でも、日韓基本条約でも、日中友好条約でも、日本は軍国主義と戦争犯罪、侵略戦争を否定する、つまりは「二度と繰り返さない」を確約することで、独立や国交を回復しているのである。靖国を参拝する、イコールA級戦犯を崇拝する、つまり東京裁判の判決を否定することは、即イコール、「二度と繰り返さない」という約束を反古にする意味しか、他国・他者から見れば持ち得ないのだ。

「そんな馬鹿な」と日本人には思える。

だがハタ目には、今日本外交がやっていることは、そんな究極の狂気の沙汰すら想定しなければならないほど、既に狂気としか見えない領域に足を踏み入れているのだ。

なにせ改憲だって話題になっている、それが日本の再武装を可能にする改憲だから、国連事務総長すら警戒しているのですよ?

そんなことも分からず「傷つけるつもりはない」なるピンボケなコメントは、中国韓国の外交当局は目を白黒させるかズッコケるだけならまだいい。意味や意図がまったく分からないだけに、「こいつ本当にアブナいんじゃないか?」とますます警戒する。

「今の日本は、日本の総理大臣は本当に狂っているのではないか?本気で軍国主義を復活させたいのではないか?」という疑念は、ここまで外交的に意味不明な言動を繰り返して来た今では、想定の範囲内に入れざるを得ないのだ

なによりも尖閣諸島は実効支配している領土である。その実際に領有している側がわざわざそれを外交問題にするというだけでも奇妙な話であり、前首相の恩家宝は戸惑いながらも懸命に、中国側には領土的野心がないこと、日本を友好国とみなしていることを示そうとした。菅直人首相が自分で潰したメンツをわざわざ立ててあげるように奔走し、震災直後には福島県にまで乗り込み…。それでも野田首相がわざわざ尖閣諸島問題を再燃させたのには、さすがに匙を投げ、現実的な判断として政権世代交代に向けて対日抗議デモを許して国内引き締めを計った(まあそこは大人の政治家だから、したたかにちゃっかり利用。転んでもタダでは起きない)。

習近平新主席は、安倍が野田以上の強硬姿勢に出ることも計算に入れながら、公明党の山口書記長が訪中すればアポなしでも会談に応じて安倍の親書を受け取り、本来なら公的な場では禁句であるはずの「棚上げ」の約束(中国側に不利な密約を、周恩来からあえて田中角栄に提案したものである)を公表し、田中角栄の側近であった野中広務に確認までしてもらった。つまり、中国は公式には尖閣諸島を自国領とみなして来たが実質は日本の実効支配を認めて来たし、その方針を変えるつもりはないのだから、領土問題で二国が争う必要はないはずだ、と繰り返したのである。

これを無視するというのは、さすがにあらゆる外交常識であり得ないことだ。なにしろ日本はなにも損をしない(なにも得もしないが、元から実効支配している領土なんだから、最初からこれ以上得られるものはない)。

日本側は安倍に批判的な一部の世論さえも含め、ここがまったく分かっていないようだが、中国側が関係改善に向けてさんざんサインを送っているのを、日本政府は外交チャンネルでまったく無視したままなのである

やっていることと言ったら国内向けの官邸記者会見などで国内向けにしか通用しない強気のポーズを繰り返し、それを記者クラブを通じて官邸と癒着した大手メディアがひたすら国内の内輪のみで増幅させているだけだ。そしてついには、やはり日本国内に引きこもったまま靖国に参拝し、「傷つけるつもりはない」である。

なんなんだろう、この100mくらい相手から離れたところでシャドウボクシングをやりながら「怖くないぞ!お前なんか怖くないぞ!」と叫んでいるみたいな珍妙さは? 
これでは何がやりたいのか、まったくわけが分からない。

いやちょっと歴史を勉強していれば、「大本営発表」で勝った勝ったと繰り返し、負けている戦争を2年も3年も引き延ばして国家を滅亡の淵まで追いつめた第二次大戦中の日本と、ほぼそっくりにすら見える

そんな日本に、米国も困惑している。

オバマ政権の方針は、最初から日米安保を日本をアメリカの属国とみなす同盟ではなく、対等な独立国どうしの正常な同盟関係としてみなすことだった(属国に対する宗主国の責任なんて負いたくない、ということでもある)。日本のニュースではなぜか「同盟」を優先して訳しているが、allianceと言った場合それが軍事同盟とは限らない、単なる二国間関係のことを指す用語でもあるし、ルース前大使や、先頃就任したケネディ大使がこの語を使うときには、たいがい注意深くfiriendship andと枕詞をつけるか、場合によってはfriendshipとだけ言っている。

オバマ政権にとっては、日米同盟を元に日本をアメリカの属国とみなしてきたアーミテージ氏であるとかケヴィン・メア氏であるとかの共和党系の、日米安保利権で食って来てもいる勢力は邪魔であり、排除したい存在だ。

それはオバマがブッシュの失敗を克服する新しい世界秩序を目指しているからでもあり、より具体的には軍事費の膨張を押さえ、出来れば削減して、財政規律を取り戻し、自らの公約である社会保障と社会秩序の回復に予算をまわしたいからであり、ブッシュ政権下で破綻しかけたアメリカ経済の回復のためにも、東アジア経済の成長と安定、それをアメリカ経済と結びつけることが極めて重要だからだ。

その米国から見て、日中関係だけでなく、やはりアメリカの同盟国(軍事的にはより重要)である韓国との関係まで悪化させる日本の動きは、理解不能、意味不明である。どうみても日本の国益にかなうことには見えないのだから、もうどうしようもない。

中国から見ても日本の動きは謎だ。

中国が「世界の工場」として急成長を遂げたといっても、そのメインは最終組み立て工場であり、日本からの部品の供給が不可欠である。逆に日本にとって、中国国内の工場に安定して部品を供給すること、中国国内であっても日本企業の工場を安定して稼働させ、日本企業が円滑に商売を出来ることは、日本経済にとって不可欠なはずだ。なのになぜ、日中関係を日本が悪化させるのか、自国の立場が回復不能になる状態に日本がどんどん自分を追い込んで行っているのか、中国にとっても米国にとっても、あまりに不可解なのだ。

なぜこんなことになったのか?

「安倍がバカだから」で済ましたいところだが、それだけでもないと思う。安倍だけでなく日本の、安倍に反対ないし批判的な人たちですら、今の世界のなかの日本の立ち位置を、正確に把握出来ていないことが根本的な原因なのだ。

安倍氏の靖国私的参拝に対し、ケネディ駐日大使率いる(国務省よりもオバマのホワイトハウスと直結している)駐日アメリカ大使館は、即座に「日本は友人であり同盟国だが、失望した」とする声明を出した。

たとえばこうした米政府の発言を、「オバマ政権は日本より中国と仲良くしたいのだ」「日本はアメリカから見捨てられる」と解釈する人が多い。

安倍シンパの人たちですら実はそのことを恐れてもいるし、だからなんの根拠もなく民主党政権は短命お飾りで、アメリカの実権は共和党なのだとでも思い込んでやり過ごそうとしている。 
(で、毎度おなじみアーミテージ詣で、となるわけである。 いや今じゃただの、政権からつまはじきにされたシンクタンクの役員だってば)。

「日本は大事な友人であり同盟国である」というアメリカの態度は、オバマ政権になってもなにも変わっていないどころか、むしろかつてなく大まじめに実践されている。鳩山由紀夫が首相だった頃、オバマは日本の国益を最優先してまでその関係を強化しようとさえしていた。たとえば国務省東アジア課や国防総省の(利権があるが故の)反対を恐らくは押し切るか無視して、オバマと当時のクリントン国務長官は鳩山が普天間基地を最低でも県外に移設することに賛成している。

だから鳩山は彼に「トラスト・ミー」と言ったのだ。その文脈以外にこんな発言出てくるわけないじゃん。子供でも分かるよ。

ルース駐日大使(当時)に広島に行かせ原爆資料館を見学させたのも、(それが日本の悲願だろう、とアメリカ側は当然考える)広島と長崎への原爆投下についての謝罪の下準備であることは明確だし、自ら広島に行って謝罪すること、そこで核廃絶サミットを日本に主催してもらうこと(これも普通なら日本が国の名誉にかけて喜んでやりたがるはずのことだ)すら、希望していた。

なぜか日本がそれを無視した(アメリカの政治家は誰でも、日本はアメリカが広島と長崎のことを謝罪するよう望んでいるはずだ、と当然思っているのだが)のは不可解であり、鳩山の退陣も不可解ならその後の菅、野田の対米関係のやり方もさらに不可解であったにせよ、オバマのアメリカが日本を「見捨てる」としても、それは日本の政治家を「見捨てる」というか「相手にしても仕方がない」と諦めるだけであって、米中関係を優先するために日米関係を無視する、どうでもいいと思うことではまったくない

なにを勘違いしているのか知らないが、日本はアメリカの最重要な貿易相手国のひとつであり、日本の資本はアメリカ経済に多大な投資をしているし、その日本が今も誇る世界最大の銀行預金量などの莫大なマネーをもっとアメリカ経済に投資して欲しいだけでなく、日本は中国と並んで最大の米国債保有国だ

そしてアメリカ経済を支えるIT産業は日本の部品がなければ成立しない(たとえばapple製品はアメリカ企業の製品だが、中身は日本製の部品が大きな割合を占める)し、やはり順調な成長分野のメディア産業は腐っても鯛の日本製のカメラやモニターその他がないと成立しない。

そして日本は人口一億超の、それも世界でもっとも裕福な部類に入る所得水準の、巨大マーケットだ。

これだけの大国である日本、それも東南アジアにも、中近東にも、アフリカにも、そして無論中国と韓国と台湾の東アジア圏にも、アメリカとは比べ物にならないほど濃密な人的交流をもち、アメリカ人と異なって信頼もされている日本人を、アメリカが無視するわけが、出来るわけがない。

ブッシュ・ジュニアが失ってしまった最大のアメリカの財産とは、アメリカの信頼とアメリカへの憧れである。その8年間の政権の途中で、アメリカ人は突然、自分たちがもはや世界から尊敬され憧れられる国ではなく、時には憎悪され、少なくともまるで信頼されなくなっていることに気づいた。こと発展途上国と新興国の気持ちが、アメリカから思いっきり離れてしまっていた。

バラク・オバマが大統領に選ばれたのは、諸外国に対してアメリカの信頼を取り戻せる大統領、アメリカの理想がまだ終わっていないことをなんとか示せる候補だったからでもある。



だからバイデンさんには気の毒だが、次の大統領はヒラリー・クリントンの方が勝ち目がある。初の黒人の次は初の女性の方が、「アメリカという夢と理想」はまだ保てる。

逆に言えばオバマ政権はアメリカが信頼を失っていることを自覚している政権でもあるし、だから外交ではそれまでのアメリカ政府とは異なった態度を取っても来ているし。バイデンやオバマが建設的な米中関係を望んでも、元々似たような文化圏である上に、冷戦が終わるよりもずっと前、80年代には経済進出が本格化していた日本と日本人が中国に持っている人脈の厚みが、アメリカだけで出来ることとは比べ物にならないのも、分かっている。

そして中国も韓国も、むろん日本を無視する気も、敵視する気もない。だいたい、そんなこと出来ない。経済的にも政治的にも、損をするだけだし、日本経済が大コケでもしようものなら、両国とも大損害が波及する。だから日中関係の険悪化が日本経済に響くことを、両国は誰よりも心配している(なぜ日本人がそれを心配しないのかは、謎なんですけどね)。

日本人の大多数が、どうもこのことを分かっていない−−日本は未だに世界有数の大国、世界をリードする国のひとつなのだ。アメリカが中国との関係強化を望むのは、日本とも中国とも仲良くすることがアメリカの国益だからだ。むしろ日本を介して中国と仲良くする方が合理的なくらいで、「ジャパン・パッシング」なんてことは本来考えるはずもない。

だが結果として、アメリカ外交のジャパン・パッシングは起こっている。

しかしそれは決して、日本がアメリカにとって重要な国でなくなったからではない。アメリカにとって日本の政治は、どう相手にしたらいいか分からない存在になってしまったから、仕方なく、なのだ

ただでさえ差別と闘って来た初の黒人大統領、それも教養もあり頭の回転も早く話もうまいオバマにしてみれば、どうしようもない金持ちボンボンで露骨に差別主義者でどうもネオナチらしい上に妙に卑屈な権威主義者、そのうえ教養は全然ないし、会話が成立しないほど頭が悪そうな安倍晋三は、相手にするだけ疲れるというより、ほとんど生理的な嫌悪感さえ覚える相手だろう。


やっと日米首脳会談が実現したときの、オバマの隠しようにも隠しきれない不機嫌っぷりは強く印象に残る。もう単純に「オレはこの男は大嫌いだ」が顔に出てしまっていた。

その上この安倍という男、どうも日本の侵略戦争の歴史をまったく悪とは思っていないらしい。これは中国や韓国以前に、アメリカの国是に関わる問題だ。日本の軍国主義が悪でないのなら、原爆投下も東京大空襲も正当化され得ず、アメリカにとって第二次大戦が「正義の戦争」でなくなる。

その上アメリカ大統領として最初に会った日本の総理大臣、今は副首相が「ナチスに学べ」なんて言っちゃうし…

原爆投下が人道上の罪であり戦争犯罪であるのは、実は自明のことなわけだし、クリントン時代に米政府が日系人の強制収容を謝罪したのに続き、自分の代ではやはり原爆と、それに沖縄戦のことは、アメリカが謝罪しなければならないだろうし、核廃絶とまでは行かずとも核削減の道筋もつけたい…と思っていたら、日本政府がその謝罪をまったく望んでいないし、被爆国の悲願である核廃絶にも興味を持たず、むしろアメリカが沖縄に配慮することを妨害さえするのだから、もうわけが分からない。

いやアメリカの、元は虐げられた黒人出身の大統領にとっては、まったく理解不能だろう。自ら独立や自主性を拒絶する政府がいるだけでも不思議だし、それも世界屈指の大国、人口でも経済規模でもアメリカの最大の同盟国、白人国家でない初の近代的先進国として自信満々な国でなければ本来おかしい国が、属国・保護国扱いを一生懸命望んでいるのだから。

かと思えば「慰安婦は売春婦に過ぎない(って国家が直接に強制的な売春に関わっていたのが慰安婦問題の本質だ)」とわけが分からないことを、今の日本の首相の仲間たちがアメリカの新聞に意見広告を出してみたりとか、在日米軍に日本の売春産業のトップセールスをやっちゃう政治家までいるとか、歴史修正主義の主張が歴史修正主義としてすら論理的に成立していないのだから、アメリカにしてみれば頭を抱える他はない。

だいたい、安倍晋三に靖国神社を参拝イコールA級戦犯を崇拝されては、習近平やパク・クネ以上に困るのがバラク・オバマなのだが…。 
いや中国や韓国が怒り東アジア情勢が緊張するのも困るが、なにも知らないブッシュ・ジュニアがただの無名戦士の墓と思い込んで行きかけて、共和党の一部が激怒して取りやめになったことだってある。中国や韓国にとって以上に、アメリカの右派にとって東京裁判で死刑になった日本の戦犯は「悪魔」、絶対的な悪なのだ。
そんな基本常識も分かっていない、外交常識のまるで通用しない今の日本の政権と、どうやり取りをすればいいのだろう?それは仕方なくジャパン・パッシングにもなると思うよ。
それでも「大事な友人であり仲間」なんだから少しは道理を持ってくれと、どんなに日本政府に無視されても言い続けているのが、前大使のルースさんであり、今の大使のケネディさんなわけだ。 
(さすがにケネディの娘なら、妙に卑屈なアメリカへの憧れ媚び売り丸出し安倍晋三なんだし、少しは言うこと聴くだろう、と半ばヤケクソの超セレブ人事だったんだろうね)

韓国も中国も、過去の戦争はあっても数千年にわたり文化圏を共有し、似通った、相互理解が可能な文化を持つ日本を、なにかあれば「同じ東アジアのよしみ」でそこはやはり信頼しているし話しやすいし、日本製品の優秀さに憧れてもいるし、市民は日本の大衆文化も大好きだし、日本から学ぶものが多いとまだまだ考えている。むしろ超大国アメリカと向き合うとき、先進国の大国として遥かに長い歴史を持っている日本があいだに入ってくれたり味方してくれることが有利ですらある。

なのに日本だけが、東アジアでアメリカに好かれるのは我が国一国だけじゃなきゃイヤだと駄々をこねているのか、米中友好や米韓友好イコール日本が捨てられる、と勘違いしているのだ。他の国は東アジア共同体、こと経済ではこれからの世界を率いる経済圏を目指しているのに。

逆に言えば、アメリカも中国も韓国も、台湾ですら、今の日本を実はまったく理解していないとは言える。

確かに日本と日本人は、世界中から理解されていない国と民族なのかも知れない−−多くの日本人がそう思い込んでスネているのとはまったく違った次元で、極めて皮肉なことに。

ここまで裕福で、豊かな文化伝統を持ち、近代化学の分野でも優れた才能も輩出し、住めば安全で清潔で快適に見える、夢のような「先進国」を実現し、日本=おしゃれで高級イメージで、チェーン店などの進出も目覚ましいのが、その当の日本人がかくも自信をまったく喪失し、まるで幸福でなく、自分たちが大国であることに気づいてすらいない。

なぜなのか、とても不思議に見えるはずだ。

一度も植民地にされた歴史がない、独立を守り抜いて来たはずの民族、それも洗練された歴史伝統や文化芸術だけでなく、近代的な科学技術でも世界をリードするような中身を持っているはずの国が、かくも植民地根性に精神を毒され、アメリカに隷属したがり、中国や韓国を下位にみることで必死に偉ぶり、差別したがりつつ怯えている。

これは確かに、まったく理解不能だ。

12/26/2013

映画と人種差別、植民地主義と映画祭


2013年の世界の映画界で恐らくはもっとも困った問題のひとつは、世界的にも権威の高いカンヌ映画祭の新人監督賞(camera d'or)が、あろうことか人種差別映画に与えられてしまったことだろう。

賞を与えた側が、この中国語原題を「パパとママのいない家」というシンガポール映画が実は根本的な構造からして人種差別であることに気づかなかったどころか、中国系シンガポール人が作った映画が自分たちヨーロッパ人と同じ差別を共有していることに無自覚に安心し、自分たちのレイシズムなコロニアリズムを「これは差別じゃない」と(自分たちでは)思えるお墨付きを、自らに与えている構図になる(結果としてフランスなどではそれなりに興行成績をあげている)のだから、根は深い。

いや実は、「パパとママのいない家」という原題の通り、この若いシンガポールの監督が当初構想したであろうそのままの映画であれば、そこまで差別映画にはなりはしなかったろうし、せめて中国語原題の直訳で海外に紹介されていれば、まだマシだったとすら言える。

監督自身の家が子どもの頃、フィリピン人のメイドを雇っていて、仕事に忙しい両親よりもそのメイドにかわいがってもらった、その思い出を映画にした、子どもの視点から見た世界。そこに(子どもにはよく意味が分からない)外国人のメイドがいて、大人や世間は「よそ者だ」と差別しているが、仕事に忙しくてツンケンとした両親と違ってやさしいおばさんだった、というだけの映画だったなら、ハートウォーミングな良作で済んだだろう。

ところがこの企画はどうもあちこちの映画祭に併設された新人養成ワークショップを巡ったらしく、そこで誰かが余計な入知恵をしたのか、プロデューサーの意向が入ったのか、この映画は二つの点で人種差別にしかならない方向性に陥ってしまっている

ひとつは、余計なメッセージ性を込めてしまい、フィリピン人のヒロインをそのために搾取していることだ。

映画の設定は90年代末の世界通貨危機で経済が不調なシンガポール、父親は失業したことを妻子にも言えずに見栄を張り、それでもメイドを雇い続けるのはおかしな話なのだが、大団円は妻も夫の失業という不名誉を受け入れて、「お金だけが人生の目的ではない」という結論に落ち着き、家族が大事な教訓を得るのに一役を果たしたメイドは、フィリピンに帰って行く。

いやこの展開だけで、「ちょっとふざけんなよ、どういう傲慢な差別する側のご都合主義なんだよ」と、本来なら即座に気づくはずなのだが…。 
いやだって、そもそも「お金だけが幸福ではない」が現実に有益な教訓なのであれば、フィリピン人が男も女も世界中で出稼ぎ労働をやっているなんてことにはならないだろうに。 
これに感動できる人って、差別意識の固まりである以前に、恐るべき想像力欠如ではないか?

もうひとつは、フィリピン人メイドの女性を、ただ子どもの目から見た他者と見せていればいいものを、彼女の「内面」を描こうとしてみたり、シンガポールのフィリピン人移民社会の現実に踏み込むつもりなのか、彼女がアルバイトで美容院で働くことにしてみたりしたことだ。

国際電話でフィリピンに電話させるシーンを何度も入れては、子どもを預けているらしい妹がどうもわが子を大事に扱っていないらしいと観客を心配させてみせる、そのことで彼女が雇い主の家のやんちゃ坊主をかわいがる動機付けを説明した気分なのだから、そんな薄っぺらな図式に他者である人間を押し込めること自体が、どれだけフィリピン人とフィリピン社会への差別性に満ちたものであるのか?

そこに映画を作っている側だけでなく、褒めたり評価したりしている側が気づかない、むしろその差別性を「善意」と勘違いして喜んでしまっているんだから、頭を抱えてしまう。いや他者である人間を他者として、対等な人間として認められないことこそが、差別の根源なんだってば。

いやほんと、この業界で生き延びて行くことに大いに不安を感じます、僕は。 
というより、映画という表現メディアが、アートとしてもはや死滅に向かっているのかも知れない。 
別に僕は「差別と闘う映画作家」ではないが、自分が映画で撮っている世界に差別的な構造があればそれは映画に映ってしまうし、それを誤摩化す器用さは僕にはないし、ヨーロッパが未だに植民地主義の差別性から逃れられない社会であることも見えてしまうんだから、無視はできない。 
いやむしろ、積極的に海外との共同製作もやっていると、出資している国の植民地主義が僕の映画、僕の表現を浸食・侵略することは、極度に警戒していなければならない。

アルバイトの美容院勤めは法的にはビザなし労働の違法行為になるので雇い主(やはりフィリピン人)はがめつい金の亡者として描かれ、子どもを預けている故郷の家族(もちろんフィリピンのフィリピン人)もあまり褒められたものではない存在と観客に認識され、対比としてヒロインの「無欲」さと「善良」が際立つわけだ。

いやちょっと待ってほしい。貧しいから出稼ぎに来たのであれば、彼女だって子どもを預けた家族が、その子に十分に構ってやるほどの余裕がないことは百も承知のはずだ。 
無欲で善良と美化したつもりが、これではただの知恵が足らない女だ。

このヒロインのフィリピン人女性だけは善良で、おかげでわがままなやんちゃ坊主は思いやりを持つように少し成長し(というのが彼女への思いやり…というのがミソで、まさに「差別する側」の温情という構図なんだけど、作り手も観客もまるで無自覚)、とげとげしく性格もよくない母親も(またこの対比が、人種差別以外にも思いっきり女性蔑視でもある)、失業したことを妻に言えなかった父も改心して(男のダメさを描くようでいて根本的に甘ったれた男の身勝手ミソジニー、妻がやさしくないのが悪いんだよね…ってあのさぁ)…

…そしてメッセージは「お金だけが幸福ではない」って…

それは経済レベルでは先進国並みに豊かなシンガポールや(政治的には独裁国家みたいなものだが)、先進国のヨーロッパや、あるいは日本だから言えることだ。

欲のない善良なヒロインは、結局フィリピンに帰ってちゃんと我が子を守り育てることができてめでたしめでたし、とラストではっきり言ってしまうと、さすがにこの映画の人種差別的な説話構造があまりに無神経であることが露骨になるだけでなく、物語の基本設定が破綻するので(だ か ら、子供を育てるにも満足にお金がないから出稼ぎに行くんです!)、そこは曖昧に済ましているのだが、そんな小手先の誤摩化しで隠せるものではない。

世界中に出稼ぎに行かなければならないフィリピンとフィリピン人の現実に言及すべきだった、というのではない。マルコス政権がどうこうとかアキノ民主化の頓挫とか、フィリピンの政治情勢や貧困の説明を入れる必要があるのではない。

ただしそこにある肝心の問題、今の世界が未だに人種差別に満ち植民地主義に根ざした経済構造を持っている現実、僕たちの意思や良心ではなく経済原理と経済格差の資本主義の暴虐が世界を支配していることを、なかったかのように振る舞うために、他ならぬその構造のなかで搾取されている側を説話的に利用する映画を作ることは、さすがに許されない

なぜフィリピン人が世界中に出稼ぎし、女性はメイド、男性は老人や病人の介護で世界で大活躍することになっているのか、そのとても分かりやすい人間的なレベルでの動機すら、この映画の作り手たちも、褒めている人間も、考えもしないのか?

だとしたら恐ろしい無神経であり、現実無視であり人間不在、映画という表現メディアの根本的な投企に反することであり、反映画的だ。

映画とは、作家の意図に沿った脚本通りに撮られる劇映画ですら、根本的に機械であるキャメラを介して「他者」と向き合うことから始まる表現メディアのはずだ。 
僕たちはCGIで作られた人間のように見えるキャラクターが、人間の組んだプログラムに従って行動するゲームを作っているのではない。キャメラ位置を決めるのは僕たちでも、そのフレームに切り取るのは自分の意思の独立性を持った人間であったり、自然であったり、その存在に僕たちの意思の完全な支配が行き届いているわけではないモノだ。 
その「他者」の個性というか、存在そのものを生かすことでしか、映画は映画にならないはずだし、その「他者」の意思や個性や存在を、僕らが完全に理解し把握すること自体があり得ず、他者性を帯びた人間(たとえば異民族や、様々なマイノリティ)相手にキャメラを絶対権力であるかのように行使することは、差別に他ならないし、そもそも反映画的だ。

いや、作った側も見て褒める側も、そこに横たわっている差別の構造を考えないわけがない。だが自分がその構造のなかで差別する側にいることに、向き合うことを拒絶している、逃げているのだ。その自己逃避の結果、この映画も、評価する者たちも、出稼ぎするフィリピン人を決して対等な人間として見ていないし、恐らくは見られなくなるだろう。

そして無欲でやさしいフィリピン人メイド(って思いっきり『アンクル・トムの小屋』、善良な差別される側=差別する側に都合がいい被差別者、のファンタジー)を、一応は「自分たちが以前には差別していた側(もうやめました、と自分では思いたい)」に属するシンガポール人の映画が描いたことを妙に褒めてしまったのが、シンガポール以上に家事や介護などの家庭内労働を、フィリピン人や中近東出身者に依存しているヨーロッパなのだ。

もうあなた達の無自覚な差別的ファンタジーの自己正当化もいい加減にしてもらえないか、と彼らにとっては「自分たちが以前には差別していた側(もうやめました、と自分では思いたい)」に属するアジアの人間としては思わざるを得ないし、そう抗議せざるを得ない。

(というか、見ているだけで腹が立つ、生理的に不愉快になるのが正直なところ)

いやもっとも、その僕たちだって他人事のように「怒る側」でいられるわけでもないのである。それを言ったらアジアの国ではあっても先進国である日本が、実はいちばんひどいのだから。

小泉純一郎が首相だった時、元国連難民高等弁務官の緒方貞子氏に外相就任を打診したことがある。緒方氏はその時、「こんな恥知らずな移民法制を持った国の外務大臣になぞなれない」と突っぱねたという。

恥知らずな移民法制とは…日本ではフィリピン人メイドやフィリピン人介護者を見かけることはまずないのだが、メイドは需要自体あまりないのはともかく(戦後日本では廃れた慣習だ)、需要がどんどん高まる介護関係でもフィリピン人が(フィリピンからいちばん近い巨大先進国であるにも関わらず)いないのは、緒方氏の言い方を借りれば、「売春婦になる以外にビザを出さないのが日本」だからだ。

日本の法制度は、「特殊技能」を持ち雇用主が身柄を保証する以外の外国人が、日本に居住し働くことを認めていない。家事労働などは「特殊な技能」とは見なされず、フィリピン人女性に認められるのは「エンタテイナー」にほぼ限られる。

エンタテイナー、つまり歌や踊りというタテマエだが、要はフィリピン・パブなどのホステスであり、フィリピンの歌や踊りが実際のフィリピン・パブの売り物でないのは、言うまでもない。

だから緒方貞子氏は歯に衣を着せず、「売春婦しか受け入れない恥知らずな移民法制」と断言したわけだ。人種差別であり、女性蔑視でもある。

もうひとつフィリピン人女性が日本で居住権を得られる手段が、結婚だ。これだってまあ、はっきり言えば、顧客が不特定多数ではなく夫一人になること以外は、身売り/売春、性奉仕(プラス家事労働)か、子供を産む機械扱い、差別排外主義にして女性蔑視だ。

もちろん個別のケースでは暖かい家庭を作る場合だって多々ある、増えて来ているにせよ、それを言い訳に現実から目をそらせる偽善に染まってはならない。

たとえば三鷹市で起きた女子高校生ストーカー殺人事件の加害者は21歳の、フィリピン人の母を持つ混血青年だった。母は2歳の時に、日本人の夫から離婚され、女手一つで彼を育てたという。容疑者はTBSの取材に、被害者戸自分の家庭環境のあまりの違いが憧れとなり交際したが、別れられると同時にそれが憎しみに転化した、と語ったそうだ。

そこから先のTBSの報道が凄い。「家庭環境の違い」という容疑者の言い分に反駁するために、片親であっても母が容疑者を大事に育てていたこと、異母妹がいて彼もかわいがっていたことを持ち出したのだ。

一体なんたる見え透いたごまかしか。家庭環境の違いとはもちろん彼がフィリピン人との混血であり、母も自分も必然的に人種差別を受ける側であることに決まっているだろうに。だが報道は一切そのことに言及しないのが今のニッポンであるのは、差別する側の視聴者にとって不愉快だからだ。

特定秘密保護法に関連して権力のメディア支配が問題になっているが、今の日本では政府や官僚組織以上にメディアを暴虐に支配し言論の自由を圧殺している「権力」がある。それは私たち自身、「日本人大衆」の、自分たちが批判されることに対するあまりにもの脆弱さと、身勝手さの暴虐だ。




だが「だから日本のテレビは」とは言うまい。

この「パパとママのいない家」という中国語原題のシンガポール映画を、カンヌ映画祭が評価し、世界の映画界が追認してしまっているのだから、その差別性と、自分たちが差別する側であることから逃避し誤摩化す態度の傲慢さには、まるで大差がない。

世界中に出稼ぎすることでなんとか、恐ろしく人種差別的な経済不均衡のある現代の世界に生き残りの道を見いだしているフィリピンの人たちは、世界中の先進国や新興国で、私たちの身近で働いている身近な他者だ。

その他者の内面までは搾取してはならないという矜持と自制もなく、支配する側=雇用する側=差別する側である豊かな側が、自分たちに都合のいい「善良で無欲な」フィリピン人を見いだし(つまり『アンクル・トム』現象)、その描き方を「世界の映画界」が肯定する。

その映画では「善良で無欲なフィリピン人ヒロイン」の対比として、「私たちはフィリピン人を無節操に美化する差別主義者ではありませんから、フィリピン人にだって悪い人はいることを見せます。この映画は差別じゃないんです」と言わんばかりに不法労働で荒稼ぎする美容室店主を持ち出し、親戚の子を大事にしないフィリピン人を(電話の向こう側だけで)設定し、ヒロインの純真な内面を描いた風を装って適当に美化することで、「お金がすべてじゃない」という大切なメッセージを伝えた気でいるのだが、支配する側=雇用する側=差別する側である豊かな側が「お金が全てではない」世界をちゃんと作っていれば、フィリピン人が必死で世界中で出稼ぎをし、この美容院店主にしても彼女がここまで必死になる必要なんて、そもそもなかったはずだ

私たちの世界の未だにレイシズムな構造は我々先進国、先に豊かになった方ばかりが得をし、お金の格差が彼らがフィリピンで幸福になることを阻んでいる(同じことはたとえば高度成長期に日本国内でもあった。だからこそ、彼らは出稼ぎをするのであり、なりふり構わず(違法行為を犯しても)働くのは、生き延びるため、少しでも幸福に近づくためだ。

それを分かった風な顔をして薄っぺらな道徳を説くことくらい、傲慢で差別的なこともあるまい。先進国のそこそこに金持ちであれば、ほどほど以上の「お金」は虚栄なのかも知れない。だが貧しい者、貧しい国にとっては、その「お金」がほどほどにすらないことが、幸福の最大の障害なのだ

身近な他者としてのフィリピン人家庭内労働者(日本では法的身分はそうではないが、フィリピン人主婦だってまあメイドみたいなものになりかねない)を映画で描くなら、それは毅然とした「他者」としてその生存に敬意を持って描くしかないはずだ

まして売春をしてまで生存の闘いを続け、少しでも幸福に近づこうとする、日本に未だ大勢いるフィリピン人女性を見せるのなら、それは何重にも僕らの思慮と創意工夫を必要とすることになる。

内面を理解して見せたつもりになぞなってはならない。分かった風なぞする前に、フィリピン人ならフィリピン人としての言葉に耳を傾ける以外に、僕たち映画の作り手の立ち位置はあり得ないだろう。キャメラとはそこまで暴力的な装置にもなり得るのだ。

まして自分たちの偽善的な道徳の説教に、その存在を搾取するなんてのは、あまりに差別的であり、非映画的だし、それをヨーロッパや東京の観客がありがたがるのなら、「骨の髄まで差別的」で「映画の死に加担している」と言われてしまっても文句は言えまい。

まだ演出のあり様で、脚本と物語の構造それ自体の差別的な構図をひっくり返すことは可能だったはずだ。そういう演出力、映画力をこの若い監督が発揮しているのなら、なるほど新人監督賞もふさわしかっただろう。

だがそうはなっていない。残念ながら器用でウェルメイドに薄っぺらな演出で(つまりこの監督、とても優等生ではある)、物語構造の差別性をマイルドに口当たりよく見せているだけで終わってしまっている。

いや、そこまで小器用な映画に終わっているからこそ、今のオランド政権のフランスのカンヌに評価もされたのだろう。

この物語で差別的でない映画を作る、真に映画的な演出力を発揮すれば、見る側が属する差別の構造を、その見る側に突きつける映画に必然的になる。それは優れた映画になると同時に、多くの(その実、差別する側に安住している)人には、不愉快であり、腹立たしい作品になったはずだ。

若い監督なんだから、ひとつくらいの失敗はあっていいとは思う。人当たりのよさそうなイケメン君だし頭も良くて器用なようだし、フィリピン人の出稼ぎ家内労働者を描こうとしたこと自体は評価してあげたいし、シンガポール人の子供とフィリピン人メイドの交流を描くことにも意味はあった。

だがだからこそ、そこから先でこうも差別性の罠に陥ってしまったのは、なぜなのだろうか?


  • 単にこの中国系シンガポール人の青年が、いろいろと恵まれて満ち足りた(しかし精神的には不自由な)環境で育っているからこそ、無自覚に差別的なのか?
  • 彼がシンガポール社会の持っている差別性に無自覚にどっぷり浸かって育ってしまっているらしいことだけが、問題なのだろうか?


いや、それはまったく違うと思う。

むしろ監督本人は必ずしも差別的なのではないのだが、優等生タイプで人当たりがよく、器用で、頭もいいことが、結果として彼の失敗の個人的な原因にはなってしまったのではないか。そしてそれは、彼だけを責めるべきことでもない。

むしろその頭の良さ、人当たりの良さが仇になったのが、現代のアジアで映画監督として頭角を現すときに、その受け皿が「国際映画祭」という構造であるからだと、率直に認めざるを得ない。

これは僕自身、とても言いにくいことだ。自分自身が確信犯的に、「世界の映画祭で評価される」ことを利用して来ている映画作家でもある。

だが自分がその文脈でそこそこに評価されているからこそ敢えて言うが、ヨーロッパは未だに植民地主義から抜け出せていないし、国際映画祭というヨーロッパ中心の業界はやはり根本的に、植民地主義的なシステムであり続けているのである

カンヌなりベルリンなりで評価を受けるアジアの作家になるには、ヨーロッパが期待する(その実、未だに人種差別的で植民地主義的な意識の構造で見ている)「アジア」の枠内に留まり、「ヨーロッパ」を脅かさない、批判したりストレートに凌駕したりないスタンスに自制というか自分を去勢した方が、よほどの天才でない限りは、明らかに手っ取り早いのだ。

ヨーロッパで評価されたかったら、(差別する側の・植民地主義から抜け出せない)ヨーロッパを脅かしてはいけない。

分かりやすい例が、80年代からの台湾映画の国際映画祭市場での勃興だ。80年代に侯孝賢、エドワード・ヤン、90年代には蔡明亮と、台湾映画は立て続けに国際映画祭のスター監督にして映画的に傑出した才能を送り出した。

HHH-侯孝賢の肖像(監督ジャン=ピエール・リモザン)

だが中国文化的なノスタルジアを存分にかき立ててエキゾチックに見ていられる侯の映画が真っ先に不動の地位を確立し、『非情城市』で頂点を極めると同時に、自分の映画に現代的な芸術性を取り込もうとして長いスランプに陥ったのに対し、最初から台湾という何重にも中途半端な国家のアイデンティティに真っ向から取り組み、極めて現代的なスタンスで有無を言わさぬ現代映画の最重要な傑作2本、『恐怖分子』『クーリンチェ少年殺人事件』を立て続けに世界に問うたエドワード・ヤンは、台湾を出発点に「現代の世界」を問うたからこそ、まっとうな評価を受けることにはなかなかならなかった。

エドワード・ヤンのデビュー作『海辺の一日』

台北の若者が日本の若者やヨーロッパの若者ともはや大差ない前提で、若者がこれからの世界に生きることの意味を真摯に語ろうとした『独立時代』『麻雀』の二作品に至っては、それがあまりに世界共通の、先進国の問題をそのまま浮き彫りにする現代性に満ちた映画であったがために、ほとんど敬遠すらされていた。

いやこの二作、エドワードが冷徹な現代作家である一方でとてもやさしい人であった、そのやさしさが全面に出てしまった意味では「中途半端」で、ちょっと気恥ずかしさすら覚えるほどのナイーヴさも露呈してしまって、映画のフォルムとしてはいささか破綻している箇所があることは認めるにせよ、まるで無視されたことはあまりにおかしい。


一方、エドワードと同じように映画の最先端を実験し続ける蔡明亮は、その手法があまりにミステリアスに見えることに、彼自身が自分が同性愛者であることを隠さないことの異化作用も手伝って、エキセントリックな天才というか、いわば「異なる者」としてなんとか国際映画祭の世界に立場を確保し続けている。

蔡明亮の短編『Walker』

だがエドワード・ヤンが1980年代以降の世界の映画でもっとも現代的かつもっとも知的な映画作家であり、台湾映画、アジア映画がヨーロッパのインテリゲンチャーな映画を現代性と知性において圧倒的に凌駕していることを、ヨーロッパのインテリゲンチャーな顧客層を想定している国際映画祭というマーケットは、なかなか受け入れられないまま終わってしまった。

もしエドワードが台湾人でなくヨーロッパの人間だったら、『恐怖分子』の段階で既に彼がたとえばミケランジェロ・アントニオーニの系譜を引き継ぎ、さらにその主題性を突き詰め凌駕すらした孤高の現代映画作家であることは、もっとすんなり評価に結びついたはずだ。 
アントニオーニの理念的な抽象性には留まらず、暴力やアクションの演出でもシャープで豊かな映画的な肉体性に満ちあふれた『恐怖分子』が、たとえば台北ではなく西ベルリンが舞台だったら、『ベルリン天使の詩』以上の世界的ヒット作になっていただろう。

エドワード・ヤン『恐怖分子』 
(東西分断国家だったドイツと、未だに分断国家である中華民国と中華人民共和国、こと台湾の民族構成の複雑さを考えれば、このアナロジーは恐らく成立する)。

だがアジアがヨーロッパを現代性において知的/芸術的に凌駕ないし拮抗し得ることすら、未だにヨーロッパには、こと芸術や文化の領域では、なかなか受け入れられない現実なのだ。映画が芸術表現であるのなら、普遍的で人種民族に関わらず平等であるべきだ。だが映画の業界は、その芸術性の最先端であるはずの国際映画祭ですら、残念ながら未だに平等でも普遍的でもないのだ。

エドワード・ヤンの言葉を借りれば、「中国人は素朴で貧しくて大変で、でも善良で…なんてことはない。台北でも東京でもベルリンでもニューヨークでもパリでも、均質化しているこの世界で、僕たちの悩みはそんなに変わらないはずだ。貧しい過去を描く中国映画だけが受け入れられるのなら、それはおかしい」

そしてたとえばホワイトカラーの家庭で夫婦とも仕事を持ち、フィリピン人の女性がメイドとして家事や子育てを、という現実も、ヨーロッパとシンガポールでもそう変わらない。

だが同じ人間であっても、そのシンガポールでメイドを雇う中国人とフィリピン人では、置かれた立場がもの凄く違うし、本来ならシンガポールの中国人も、差別的な移民法制でそのフィリピン人の家庭内労働者(メイドは需要はあまりないが、たとえば介護従事者)すら受け入れない我が国でも、経済的には白人国家と限りなく同等になっても、文化的/歴史的には、だからこそこの違いが今の世界にあることに、より敏感でなければならないはずだ。

Nelson Mandela (1917-2013) photo by Raymond Depardon

折しもネルソン・マンデラが亡くなったが、マンデラが闘った南アフリカのアパルトヘイト政策を最後までサポートした国が、白人の国家ではなく「名誉白人」扱いを許された日本だったことも忘れてはなるまいし、マンデラの死を伝える報道に、僕たち日本人が「名誉白人」であったことへの反省がまったくなかったことも、僕たちは深く肝に銘じなければなるまい。

ここに「パパとママのいない家」というシンガポール映画が明るみに出してしまった、もっと大きいかも知れない問題がある。

なにしろカンヌで新人監督賞を取ってしまった、という「国際的評価」「世界に認められた」勢いで、この作品は中国語圏映画のアカデミー賞的な賞である金馬奨の作品賞を(監督賞と主演男優賞をとった蔡明亮の個性が極度に突き詰められた傑作『ピクニック』を差し置いて)とってしまった。

蔡明亮『ピクニック』抜粋

ちょうどその時、僕は台北にいたのだが、金馬奨映画祭でこの映画を見たわけではない。見たのは東京のある映画祭だ。

この映画は、この東京のある映画祭に併設された新人監督養成ワークショップに参加していた企画でもある。東京での舞台挨拶では、そのワークショップで侯孝賢に指導され評価されたことを、この若い監督は(当然ながら)そつなく触れていた。

自分のところのワークショップを巣立った監督がカンヌで新人監督賞をとる−−「アジアの優れた才能を発掘して応援する」をコンセプトに「映画の未来へ」を掲げる映画祭にとって、一見これはとてもおめでたい、手放しで喜びたい成果に見えるのだが、逆にこの種の映画祭や、さらに言えば日本の「アーティスティックな映画」の受容のあり方の巨大な限界を曝け出してしまった事態であることは、もうここまで読んで来た方には一目瞭然だろう。

この映画の場合、カンヌで新人賞をとったからこそ、あえて選ばないくらいの矜持と自己主張が、「アジアの優れた才能を発掘して応援する」映画祭であればこそあってしかるべきだったのかも知れない。
いやむしろ、日本の映画業界カルチャーの特質を考えれば、それくらいの厳しさが求められてしまうのである。なぜならこの業界は決して広いものではなく、お互いに遠慮や配慮でがんじがらめになった、同調圧力が極度に強い世界である。この映画祭のワークショップを巣立った監督がカンヌで新人監督賞、という状況であえてその作品を批判することは、たいていの人は映画祭に気を遣って/喧嘩や排除を恐れて、こっそりとしかやらない。

だが元々、「アジアの優れた才能を発掘して応援する」はこの映画祭のありようの建前でしかなかったのかも知れない。

一方で実際に評価されて来たのは「世界の映画祭で評価された優れた映画を日本に紹介する映画祭」であり、「世界の映画祭」とはカンヌでありベネチアでありベルリンである以上、そこでアジアの新しい才能の映画を紹介するという構図はその実、きわめて植民地主義的なもの、カンヌやヴェネチアやベルリンの評価を無批判にありがたがり自身の精神を支配される植民地化装置にもなりかねない

この映画祭は、経産省と東京都がバックにあるいわば官製映画祭の東京国際映画祭が批判されがちなのと対比して、良質な映画祭として評価されて来たし、僕自身がそうした評価を真っ先にして喜んで協力して来た一人であり、いわば共犯者、加担者、同罪なのかも知れない。

東京国際映画祭の、官僚主義やさまざまな業界の利害に苦しめられている故の問題、批判され改善されるべき点はともかく(むしろ実際のスタッフはそこで闘っていることは指摘しておく)、自分もまたカンヌやヴェネチアやベルリンで評判になった映画ばかりを見たいあまり、「世界の映画祭で評価された優れた映画を日本に紹介する映画祭」というありように内在する植民地主義(というか植民地根性)の危険性に無批判、無警戒であったことには、僕自身も反省すべき点は多々ある。

いや最初は違ったはずだ。今やカンヌのグランプリ監督、世界の現代映画を代表する作家の一人であるタイのアピチャッポン・ウィーラーセタクンを発見したのは、カンヌはあたかも自分たちが発見した作家であるかのように言っているが、実はこの東京の映画祭が『真昼の不思議な物体』を上映したのが最初だし、この映画祭が彼を発見したからカンヌに紹介されることになったのが真相だ。

アピチャッポン・ウィーラーセタクン『真昼の不思議な物体』抜粋

もしカンヌやベルリンやヴェネチアの評価基準と同じ評価基準であるが故に、この映画祭が東京国際映画祭と対比されて評価されるのであれば、それは決して「日本を代表する映画祭」にはなり得ない。逆にぶっちゃけ、カンヌ、ベルリン、ベネチアといった映画産業的/映画祭的植民地宗主国の、極東アジア植民地における出店がこの映画祭ということにもなりかねず、しかもこの映画祭を見に行く観客の多くや、支える批評家が、それを望んでもいるのだとすれば、日本の映画祭カルチャー自体が骨の髄まで西洋の植民地として洗脳されたものでしかなくなる

その日本の映画文化のアイデンティティの不在という悲惨をこそ、この映画祭が実は体現して来たことになる。

いやしかし、作品は作品である。どこの映画祭であろうが優れた作品が本来なら評価されるべきだし、実際に評価されることも少なくないのだから、世界の映画祭が見いだした傑作を東京にも紹介することは、選考ディレクターの良心さえしっかりしていれば、とても良いことだ。

だが一方で、カンヌもベネチアのベルリンも、ヨーロッパが未だにそこから逃れられない植民地主義という負の歴史の文脈のなかにある。その中ではヨーロッパの植民地主義におもねる、現代の世界の構造のなかで差別する側/支配する側に都合のいい、口当たりのよい “ウェルメイド” なアジア映画も、やはりその方が評価され易いのだ。

エドワード・ヤンや蔡明亮、最近ではジャ・ジャンクーが国際映画祭のスター監督になったのは、そんな植民地主義をはねのけるだけの作品を問うているからである。


蔡明亮『ふたつの時、ふたりの時間』

だがもしこの映画祭の紹介するアジア映画の「映画の未来へ」がアピチャッポン・ウィーラーセタクンのおもしろさやジャ・ジャンクーの豪腕に、自らが日本の映画祭として、主体的・積極的に共感することでなく、その未来が「カンヌで評価されること」止まりの未来でしかなく、カンヌやベルリンやヴェネチアや「国際映画祭というマーケット」という、その実極めて植民地主義の暴虐が支配する業界内部で、より上位の映画祭に評価されることだけが無批判に大きな目標になってしまうのであれば(あるいは国際映画祭の業界のグル的な人物達との親交が映画祭の自慢になるのであれば)…

…エドワード・ヤンの言葉を借りれば「それはおかしい」。「僕たちは同じ人間のはず」だからだ。

だが一方で、こと企画段階からそういった映画祭カルチャーの文脈にあるワークショップを経てしまえば、ヨーロッパの権威性に作り手が染まってしまうことは、むしろその方が当然である。「その方が評価され易くて得」と思うだけではない。単に周囲の、自分が接する、自分よりも偉そうな人の言うことを若者がまじめに聞いているだけで、「アジアとしての表現」「アジアからの表現」はヨーロッパの、支配する側・差別し続ける側の受け手に都合が良いように、毒気を抜かれ、どんどん去勢されてしまうだろう。

人間とはしょせん、そういう意味では弱い存在だ。「スキャンダルが大好き」とのたまわった大島渚のような強烈な、ある意味むちゃくちゃで暴虐ですらある個性で自分を守らなければ、周囲に好かれて認められることの方が絶対に楽なのは言うまでもない。

このシンガポールの映画の場合、中国語の、つまりは本来の題名の「パパとママのいない家」ならまだよかった(両親不在の家庭で、息子はフィリピン人のメイドと、人種や身分にこだわらず人間的な関係を結ぶ)。

だが国際的に紹介されている題名の方は、監督がうろ覚えに記憶していた自分の家のメイドの出身地だったとか、この雇う側/支配する側/しょせんはフィリピン人を差別し、経済格差を利用して搾取し服従させる側のファンタジーであることを隠しもしない題名で紹介してしまったことは、現代の東京でやっている「アジアの」映画祭として、まったく致命的としか言いようがない。

恐らく映画祭側のエクスキューズは、それがカンヌで紹介された題名だったから従っただけだ、ということなのだろう。

それが「アジアの」映画祭の決定的な自己放棄になると気づきもせず。

いやこの映画を(人種差別映画であることに気づかずに)紹介してしまったこと自体が、映画祭的植民地宗主国、文化植民地主義のヴァンパイアリズム(吸血行為)をこの賞で露呈してしまったカンヌの権威性に、無批判に迎合してしまった、もっと言えば自分たちが「世界のカンヌ」に評価されたことの嬉しさ故なのかもしれない。

そして、そこにこそ、最大の問題が実はある。

それは僕たち現代の日本人が、マンデラがあらゆる“色”が平等である「虹の国」の理想を掲げて大統領となって20年経っても、未だに「名誉白人」であることにしがみついている問題であり、裏を返せば僕たち現代の日本人のアイデンティティが、自分たちが差別する側であることに安住しつつ、そのことを隠蔽することで成り立っているという問題だ

選考した側、映画祭のディレクションが、たとえ自分たちのところから巣立った若い作家の映画でも、それが人種差別映画であることを見抜くというか、理論的に分析し批判するまでには至らずとも、これを「アジアの新しい才能」として紹介することに違和感すら覚えなかったとしたら、それはもうお話になるまい。

だが恐らくは、そう言うことではない。

違和感を覚えていても、あるいは内部では反発や議論があっても、「いやカンヌが評価したのだから」と、カンヌが確かに世界の良質な映画を見せ続けて来た権威性の一方で、資本主義的な映画マーケットの戦場でもあり、そしてその全体が未だに植民地主義を捨てきれないヨーロッパの、フランスという文脈のなかに存在することへの疑いや警戒を持つこともなく、いわば映画的植民地主義の宗主国サマの権威にひれ伏して、自分たちの(アジアの人間としての)感性を押し殺してしまったのではないか?

だとしたら、これは映画や映画祭だけの問題に留まることではない。このブログで再三取り上げてきた、「世界のなかの日本」を考えるときの、僕たち日本人自身の総体の立ち位置の見誤り方の問題なのである

そして無論、このことを書いたのはなによりも、僕自身への自戒である。 
先述の通り僕自身が確信犯的に、「世界の映画祭で評価される」ことを利用して来ている映画作家であり、作っている映画からしてそうせざるを得ないからでもある。 
というのも、今度やっと公開になる(2012年のベルリン映画祭が完成お披露目だったのだから、もう2年前)『無人地帯』にしてもそうなのだが、僕の作っている映画の奥底にあるテーマには常に、「日本人とは何者なのか」「(自分が)日本人であるということは、どういう意味なのか」であるらしいからだ(意識せずとも、そうなってしまっている)。 

結果として『無人地帯』にしても、その前の『フェンス』でも、海外で上映すると却って来るのは、そこに映し出される極めて日本的な日本人である人たちが「すばらしい」という反応が必ずある。 
だがだからこそ、この二本の映画は、今の日本人の、こと都市部の多くの観客には、言われたくないことを言われて不快になる要素を含んでいる。「名誉白人」になってしまった現代日本人は、もはや「日本人」ではない、自分を失った民族であるということが、必然的に入り込んでしまうからだ。僕の映画は結果として、常にその日本人の自己喪失が出発点になってしまっているし、『ぼくらはもう帰れない』ではテーマそのものだった。 
今編集を進めている『ほんの少しだけでも愛を』は、たぶん日本では、映画祭でさえ怖くて手を出さないだろう。どのような言い訳が出て来るのかも十分に想定可能だが、ひとつだけ言っておけば、「部落解放同盟が文句を付けて来るのが怖い」は、たとえ『ほんの少しだけでも愛を』が被差別部落や同和政策にも触れた映画であっても、通用しないことは申し添えておく(見れば分かるはずだ)。 

いや本当に怖いのは、上映したくないのは、僕自身も含めた現代の日本人が「自分を見失い、自分に不正直な『名誉白人』であるが故に、差別することをやめられない民族である」ことが突きつけられるからでしょう。だったら解放同盟さんのせいにするのはやめて欲しい。それはあまりに無責任で、骨の髄まで差別的だ。

12/13/2013

特定秘密保護法のなにが問題なのか


石井731部隊の実態を日本人に知らしめた『悪魔の飽食』などで知られる作家の森村誠一さんが、特定秘密保護法の成立を受けて「無力感に陥ってはならぬ」と、それもわざわざ朝日新聞の読者投書欄に、投稿された。


森村さんももう80歳なのか、と驚く(氏の推理小説のいくつかは今でも二時間ドラマシリーズの人気原作になっていたりするし)と同時に、特定秘密保護法の原形は「太平洋戦争中、国民を欺き、国を誤らせた大本営発表」とは、さすが戦争の時代をご存知なだけに本質の突き方が適確だ。

まったくその通りの慧眼だと思う。

一部にはこの法を「治安維持法の再来」と恐怖するかのような言説がまかり通っているが、本ブログでも再三繰り返した通り、特定秘密保護法はあくまで原則、公務員を懲役刑で縛る法だ。僕たちの言動を直接制約する心配は、たとえば「安倍晋三首相は実は頭がもの凄く悪い」と言ったら国家機密漏洩になるぞ、というような冗談の与太話になる程度だし、教唆・強要は直に特定の公務員個人から機密情報を聞き出しでもしない限り、法的に成立しない(←しつこい。前項でもさんざん書いたことだろうに)。

中には良心的な官僚や公務員だっているのだろうし、「さすがにこれは隠しておくわけにはいかない」と思って内部告発する人が出て来たら、その善意が懲役刑になる、むしろその人たちのことを心配すべきだとも思うのだが?

自民党の石破幹事長がブログで「デモもテロも同じだ」とトンデモ発言をしたからといって、自分たちがこの新法の取り締まり対象になると恐怖するんだか喜ぶんだかしている人もいる。だが石破氏の書いたことがただのナンセンスなだけであり、同法とまったく関係がないことでデタラメを言って、国会通過を強行したことが世論にジワジワと効いて来るよう、国民を黙らせるように煽る演出でしかない。

特定秘密維持法は、およそ治安維持法のように、直接に言論弾圧に使えるものではない。

むしろこの法の直接最大の問題は、国家が嘘をついたり都合の悪いことを隠すお墨付きを法的に与えてしまったことだ。まさに森村さんの指摘する通り、「大本営発表」というフィクションの羅列と同じ発想なのだ。

戦時中の社会のことも思い返して欲しい。「大本営発表」が嘘であること、日本が戦争に負けつつあることを、ほとんどの日本人はどこかで気づいていたはずだ。だが誰もそれを口に出来なかった。皆が嘘だと分かっていることを信じるふりを装うことにおいて、共犯者になってしまっていた。

なぜかメディアは国会論戦の「チェック機能」のことばかりを書き立てたが、それ以前に問題なのは同法にはなにを機密とするのかのルールも哲学も原則もほとんど定まっていないこと、なにしろ国家の違法行為とその証拠を機密とすることすら禁じていないのだ。

「同様の法律はどこの国でもある」的な、毎度おなじみ “普通の国” 論を援用した賛成論も大いに誤っている。たとえばアメリカ合衆国は国家機密の管理がもっとも厳格な国家のひとつだが、だからこそあらゆる機密は50年の年限を過ぎれば公開されることが義務づけられている。違法行為とその証拠をフリーハンドに機密に出来る特定秘密保護法は、似て非なる代物だ。

公開されれば、それまで国家が隠して来たことは自動的にパブリック、公けによって検証され、誤りがあれば指摘・批判・糺弾され、誤りに基づくことは是正されなければおかしい。だから逆に、50年後でも暴露されれば自分も国家も信頼を失墜するようなことを機密には、本来ならなかなか出来ない。

自分が死後であっても大悪人になることを自虐的に受け入れたリチャード・ニクソンのような希有なまでに倒錯的な例外でもない限り。

ロバート・アルトマン監督『秘密の名誉』


たとえば広島と長崎の原爆被害のデータは国家機密とされたが、50年を経て機密解除になった結果、これまで分からなかった被曝被害の実態、原爆による被曝量がこれまで日本政府の原爆症認定の基準となっていたデータなどよりも遥かに大きかったことが明らかになり、未認定原爆症の問題が日本政府の誤り、結果として欺瞞によるものだったことも、今では議論の余地なくはっきりしている(…はずなのだが)。

ちなみにこの事実は専門家のみならず、NHKの特集番組などでさんざん一般にも周知されているはずが、ぜんぜん行き渡っていないことが福島第一原発事故の結果明らかになってしまったのも記憶に新しい。 
福一事故の以前からずっと「反核」で「反原発」だったと自称する人ですら全然知らないので、ちょっと驚いてしまった。

「低線量被曝」を「原爆症」の救済対象にしなかったのが問題なのではなく、原爆症の未認定患者問題で医学的な定説が覆されたことなどない。旧来の誤ったデータでは「低線量」と思われていた地域が、実は遥かに高い線量で被曝していた事実が、誤ったデータで隠されて来た結果、現実には大量に被曝していた人たちが原爆症と認められ救済対象にならない過ちを産んでいたのだ。

そしてすでに米国の機密解除で事実が明らかになっているのに、日本政府の被爆者救済は未だに誤った基準に基づいたままだ。

政府により見直しがやっと表明されたのは、今年の原爆忌が最初だ。

すでにこの機密解除から10年以上経っているのに、とんでもない不誠実な怠慢である。元は意図的な嘘ではなかったとはいえ、結果として嘘、その嘘で多くの人が無視されて来たのだ。こんなことを放っておいて、法を執行する権限を持つ政府としての権威が保てるわけが、本来ならない。

そして政府が未だに基準にしている誤ったデータで、福島第一事故について「低線量被曝でも危険なんだ」と言い募るのも、この政府と同じくらいな知的な不誠実であることは、やはり言っておかなければなるまい。

なぜ我が国では、政府を批判しているはずの人の多くまで、こうも政府の言うことを疑ってちゃんと精査する意識が持てないのだろう?なぜこうも根本的な所で政府を信じ切っている、政府の限界を認識せず、その誤りや嘘をあたかも本当のように信じてしまうのだろう?

あるいは福一事故に関しては、なぜ政府だからって正確な情報を実は持っているはずだ、隠蔽しているのだと思い込めるのだろう?

現代科学で分からないことを、政府が把握出来るはずもあるまい。

たかが役人だよ?国家権威と真実のもつ権威性はまったく別物だよ?いくら「お上」だからって、カミじゃないんだよ?

まして「地震予知」だの、それを政府が隠してるなんて…。ええ、確かに現代の最先端のプレート理論では、理論上は地震は予知出来ます----少なくとも1000年単位にはなる誤差を勘案すればね。地震兵器に人工地震?たかが発電用の原子炉だって実は現代科学の最先端の手に余るのに、そんな巨大なエネルギーを今の科学で扱えるわけがないじゃん。
東日本大震災が想定外(プレート理論からすれば当然考えておくべき話を見落としていたのも、東南海地震にばかり気を取られていた我が国の、「しょせんは人間がやること」)、福一事故も想定外、いかに我々の科学がまだまだ未熟で脆弱なものか、人類がいかに科学的知見を理知的に使いこなせていないかを突きつけられたのに、それがそんなに不愉快なのだろうか? 
また良くないタイミングでiPS細胞が話題になってしまったものだ。これで日本人はまたもや、「日本の科学は万能だ」幻想に逃避するのだろうか?

いやだから、「科学」という学問対象は僕たち人間の「外」にあるものであって、人間はその自己に外在する真実の探求を目指す立場でしかないんだって。

ある科学理論が間違っているのは、それを考え出し、信じた人間が間違っているだけであって、単に我々がまだ科学の理論にちゃんと到達出来てないだけなのだし、その権威付けは政府等の人間の機関が出来ることではない。

受験生にとって、問題を作っているからには出題者の先生は正解を知っているはずであることと、勘違いしているのではないか?

仮に国家の政治を司り行政を運営する政治家や官僚が100%誠実で無私で正直だと(まずあり得ない)仮定をしてみても、それでもしょせんは、人間がやることである。被曝など科学的な問題では、人類の持つ知見自体が未だ限られているのだし、まして「低線量被曝で未認定原爆症」云々の場合は、基礎となるデータ自体の誤りが既に証明されているのだ。科学的な間違いは、科学的な間違いである。事実関係の誤認は客観的に間違いなのであって、政府の都合も政府を批判する側も、立場は関係がない

あるいは人間どうしのあいだの営みである政治交渉や外交でも、我々は他者が何を考え何をしているのかを、推論や推測は出来ても、完全に把握出来ているわけがない。外交関係、つまりは他国に関してはなおさらのことだ。事実や真実はひとつであるとしても、我々がそれを見る視点が限定されているのだ。これはどんなに国家権力を握ろうが、超えられない人間の限界の壁だ。

まず僕たち日本人は、この自分達の哲学的な発想の欠如による、無自覚な権威主義を、この際しっかり反省するべきなのだろう。騙されるとかそれ以前の問題である。「しょせん(僕たちと同じ)人間のやること」なのだ

国家の安全保障に限ったことでもなく、経済の景気動向ですら政府発表のデータにあまりにも依存し過ぎているが、これこそ財務省や経産省が簡単に操作できる数字なのだし、彼らが学んで来た(正しいとは限らない)経済理論に基づく評価でしかない。政府の出す数字の上では好況なはずのに実感がないのはなぜだろう、自分達の業種だけが失敗しているのではないか、やはりリストラだ、とか思うのもいいが、政府のデータがご都合主義で歪められていたり、元々用いている理論の限界内にあることにも、気づくべきだ。

仮にテレビや雑誌でえらいエコノミストの先生が言っているからと言って、理論は理論であり、その予想通りに経済が廻るとは限らない。というかどんなにノーベル経済学賞(って言う賞自体がけっこう怪しい。アルフレッド・ノーベルはこんな賞作っていない)学者がスーパーコンピューターを使ったって、この世界のあらゆる経済事象をカバーした予測を計算出来るわけもない。

なにしろあらゆる経済活動は、究極的には個々人の購買意識などに行き着く。これはもの凄く気まぐれだ。

それこそ僕らの映画の業界がいい例で、ジェームズ・キャメロンが『タイタニック』を作っていた最中には、あの映画がレオナルド・ディカプリオの魅力(威力?)であんな大ヒットするとは誰も思っておらず、大赤字で自滅する、『天国の門』でUAが破産したように、20世紀FOXも危ないのではないか、と予想されていた。ディカプリオ自身、あの映画以前にはスターだったのは日本だけだ。
クリント・イーストウッドの『許されざる者』なんて、クリントの趣味の西部劇でワーナーもしょうがないから撮らせただけ、8月公開の吹いて飛ぶような地味な作品のはずが、あんなにもロサンゼルスの観客の心を鷲掴みにしてアカデミー賞なんて誰も予想していなかったし、『グラン・トリノ』に至っては「これは当たるはずがない」とワーナーは金すらほとんど出さず…がフタを開けてみればイーストウッド主演の興行記録を塗り替え。
亡きスティーヴ・ジョブスがiPhoneを発表したときに、まさか数年で電車に乗ればスマホでTwitterとかやってる人が10人はいる、なんて状況を誰が予想しただろう?10年前にSAMSUNGがスマホ分野で急成長なんて予測を、どの経済学者が立てていたか? 
だいたい、今の主流の経済理論は、実はインターネットの爆発的な普及以前のものであるし、当時はこんなこと誰も予測していなかった。

それどころか、もっと初歩的な見落とし(恣意的なのか、間違いなのかはともかく)もある。

たとえばアベノミクスで景気がよくなったと、政府とメディアは喧伝する。だがそこには、復興予算と称しつつ震災と無関係にバラまかれた税金がなぜか換算されていない。なんのことはない、元々景気がそこまで悪かったわけではない上に、菅・野田両首相の民主党政権による「復興」名目の、必ずしも被災地に投下されたわけではない大規模公共投資で、全国的に景気が多少は上向かない方がおかしいのに、そんなこと中学生でも気づくはずのことなのに、国民は政府の言いなりのまま「自民が政権に戻ってよかった」思い込まされている。挙げ句に安倍首相が「今はバンカーに入っていて」云々とゴルフの例を用いた、よく意味が分からない、というか安倍さん本人がよく分かってない喩えでケムに巻かれているようでは、あまりにお人好しというか、お上意識の権威主義に過ぎる。

特定秘密保護法を待つまでもなく、戦前戦中の反省はどこへやら、僕ら日本人はやはりどこまでも「大本営発表」体質から抜け切ってないのではないか? そこへ政府が嘘をつき、嘘を隠すことに法的にお墨付きを与えてしまう特定秘密保護法の登場である。

政府や政治家や官僚が間違っていることだけでも大いにあり得る上に、僕たちと同様に彼らだって100%誠実で無私で正直なわけはなく、自分の利害の保身で動くことの方が多いのかも知れない、と少なくとも想定に入れるべきだ。なのに社会的な地位の権威性を正誤の判断の基準と見誤ってしまうこと(両者はしょせん、哲学的にまったく別次元の問題のはずだ)があまりに多い国民性では、「大本営発表」が鵜呑みにもされるだろうし、だから特定秘密保護法のような法によるダメージはあまりにも大きくなる。

ちょっとあまりにも哲学的な発想がなさ過ぎる。「正しさ」とは、偉い人が言っているから、あるいは「みんな」が言っているからと言って担保されるものではない。

たとえ国家機密として現時点ではその情報が隠蔽されても、解除義務が厳密に決まっていれば、歴史の視点から誤りがあれば再検証される。だから解除義務は、ただ政府が自分たちに都合が悪い、というだけで機密指定することへのブレーキとして働くはずが、特定秘密保護法はそこにいくつもの抜け道がある。

衆院での議論の段階で維新やみんなの党がこの問題を指摘したはずが、与党は協議でこの指摘を呑んだふりをしつつ、双方馴れ合いで無原則な例外が認められてしまった。

違法秘密を機密指定することの禁止が、明文化されていない。この哲学とルールの欠如が、チェック機能の杜撰さ以前に、この法の最大の問題なのだ。その上機密の解除義務が厳密でない以上、政府はどんなに違法行為をやっても、嘘をついても、その事実を機密にしたまま隠すことが出来る。

まさに「大本営発表」の発想だ。
いかに「勝った勝った」と国民相手に喧伝したって、実際に負け続けている戦争で、神風なんて吹くわけもなく、負けるのは時間の問題なのに、口では「勝った勝った」と言っているので敗戦の決断すら2年、3年のレベルで先延ばし、膨大な犠牲を払うことになった。

これは歴史感覚がない、時間軸で物事が考えられない、その場限り・行き当たりばったりの刹那主義の発想でもある。つまりはまたもや、哲学的意識の欠如の問題でもある。

遠藤周作が『沈黙』で「日本という泥沼」とフェレイラに言わせ、遡れば『海と毒薬』で「神なき民としての日本人」を追及したのは、こういうことだったのか…。

「この人たちも結局、俺と同じやな。やがて罰せられる日が来ても、彼等の恐怖は世間や社会の罰にたいしてだけだ。自分の良心にたいしてではないのだ」 (『海と毒薬』)


言うまでもないことだが、どんなに悪いことをやっていても、それを隠し通せば糺弾されることはなかろう、と特定秘密保護法を決めてたかをくくったところで、誰か他者がその隠されたことを指摘することが絶対に回避出来るとはおよそ言えない。

そんな自分たちの主観性の限界も認識出来ないとは、どこまで自分達が生存を許されている世界をなめているのか、あるいは甘えて幼稚な世間知らずなのか、という話だ。

世界が自分たち中心に廻っているわけなどない。真実や正しさとは、自分たちの都合の外側にしか存在し得ない。その世界を見ている我々には、常に自分が見えている範囲という限界の中にしか居られないのは、当然のことだろうに。

たとえば従軍慰安婦の徴集に「強制があったと示す文書がない」と言い張ったところで、軍の命令、「お国のため」、それも朝鮮半島であれば植民地支配者の側だ。強制があったのが当たり前、と誰でも気づく。

その上軍や官憲の同行が義務づけられている命令書が出て来ている時に、これをそこに書いてある通りに「軍の委託業者の不正を防止するため」と文字通り受け取る馬鹿はいない。軍や警察がその場に居るだけで、銃を突きつけるに等しい強制だし、その命令が実際にどのように運用されていたのかは、当事者の証言を元に解明されるしかない。そんな調査を一切を怠っておいて「そんなことはない、韓国が反日だ」と言い続けているのが今の日本だ。

韓国政府が中国に、ハルビン駅に安重根の記念碑の建立を申し出たという。

反発した我が国の官房長官は「韓国政府には安重根は犯罪者だと言って来たはずだ」と不快感を露にした。官房副長官に至っては、「当時の日本が死刑にしたんだから犯罪者だ」と言ったんだとか…。まさに哲学的意識・歴史意識の欠如としか言いようがない愚劣さだ。

人間の社会、政府が定める法は出来る限り正義に近づけるよう努力して作られ、運用されなければならないのではあるが、しかしそれでも、しょせん人間の組織が、自分達の主観や都合で決めてしまった限界は常に内在する。それを少しでも克服する努力が課せられているのが法治主義なのに、歴史的な視点から見れば「安重根が犯罪者」などと安易に言えるわけもなかろうに、どこまで幼稚な身勝手な集団性に引き蘢った独善なのか?

まして抑圧的な征服者が、その征服された側に「うちが死刑にしたんだから犯罪者だ」って…通用するはずもないだろうに、そんな自己撞着。

当然、韓国政府がこれを批判するコメントを出すと、日本の官房長官は「過剰反応だ」って…いやいや、お隣の国の独立運動の悲劇の英雄の記念碑建立の話に、過剰反応したのが日本政府でしょうに。

安倍晋三首相に至っては「伊藤博文は長州にとって偉人なんだから」と言ったとか言わないとか…だからその「偉人」は朝鮮半島から見れば侵略者の代表なんです、初代朝鮮総督だったんだから。

特定秘密保護法とは、このような人たちの安直で不道徳な、哲学性的な自己認識の欠如した発想で作られた、彼らの空想的な世界観の産物にしかなってない法だから問題なのである

つまり違法行為とその証拠の機密化が禁じられていない、自分達がやったことを機密にしておいて「そんなことはない」と言い張れることに法によるお墨付きを与え得る法を、いかにもそういう発想をし続けて恥じない今の政府が手にしてしまったことが大問題なのだし、違法秘密の機密化も禁じていないようでは、どうもそのことが最大の動機で作られているような法律にしか見えないのだ。

逆に国家政府の行政を円滑に行い、国民に損害が出ることを避けるために機密として守られなければならない情報の漏洩を防ぐことには、この法律は(本ブログで既に述べた通り)ほとんど役に立たないだろう(←この理由はもうしつこくなるから繰り返しません)。だから「機密を守る法律は必要だ」としてこの法律に賛成する人たちは、そもそも前提が間違っているのだ。

いやもしかしたら、賛成している人も反対している人も、「機密」とはなにか、何が機密であるべきかが分かっていないのかも知れない(←結局また言ってる・しつこい!)。

いやなにも、自分たちに都合の悪いことだから国家にとって機密化が必要なわけではないし、政府の機密保護とは「政府に都合の悪いことを言ったら罰する」のでは本来ない。

ちょっと考えれば分かることとして、普通に社会生活を営み仕事をしていれば、国家や政府レベルでなくたって機密情報は幾らでもあるはずなのだが。

たとえば企業間の合意に向けた折衝は、その合意が確定するまでは当然ながら機密にしていなくてはならない。

株のインサイダー取引も禁止されている。インサイダー情報とは内部でなければ知り得ない機密事項だ。

僕らの日常的な業務で言えば、映画を劇場公開するに当たっても、製作・配給・劇場の三者がきちんと合意に達するまでは、「どこそこの劇場でやります」という話は外部には絶対に漏らせない。映画の共同製作ならば、どことどこのプロダクションが組んで、とかも話が決まるまではお互いに機密だし、一方で話を進めている間に他所とも話していることが、自分たち同士で伝えるならいいが他のところから噂で耳に入っただけで、せっかく進めていた契約はおじゃんになる。
いやそれこそ、「ベルリン映画祭でやります」「カンヌ映画祭で世界初上映」だって、映画祭の公式発表があるまでは機密情報です。年内に決まってたって年賀状で宣伝することすら出来ません。

国家機密だって、たとえば外交機密とは大部分がそういうもので、別に国民に明かせない密約であるとか(例えば日米間の密約で米兵の刑事事件を日本が訴追しないとか)だけが機密なのではない。

むしろそんなややこしい密約なんて他国に弱みを握られかねない話、普通の政府なら、めったにやりません。

普天間基地の沖縄県外移設を模索する鳩山政権が徳之島の自治体と交渉していたことも、条件が折り合うまでは当然ながら最重要レベルの国家機密だ。それが恣意的にリークされて交渉そのものを潰すどころか、政権を倒すのに利用されるなんてことは、国家・政府としてあってはならない。

ところがそういう官僚による恣意的な機密漏洩を用いた事実上のクーデタに、誰も疑問を呈しなかったのが、現代の日本国だ。

いやもうだいたい分かってるんだけど、「特定秘密保護法案は必要だ」と思い込んでいる人たち、この法案を強行した人たちや、賛成だと言っている人は、自分たちが大嫌いだった鳩山由紀夫を潰したやり口が、特定秘密保護法を当てはめれば関係者が全員逮捕で懲役10年となることに、気づいてすらいないだろう。

特定秘密保護法案は原則内閣府・防衛省・外務省だけが適用範囲と、これも維新が要求した修正だったはずが、これまたなし崩しで例外が認められてしまった

だが本来なら、法務省管轄の検察の捜査情報だって、起訴立件が決まるまでは原則機密だし、それは捜査当局の都合ではなく捜査される側の人権保護のために機密でなければならない。しかし特定秘密保護法の適用範囲の例外が認められ法務省の情報の一部も適用範囲になるとしても、彼らが考えている機密指定すべきこととは、強引なでっち上げによる冤罪などに関する秘密、検察の運営実態の違法性や非合理性であって、被疑者の人権を守るためではあるまい。

そう、小沢一郎を政治的に抹殺したのだって、本来なら法治主義の原則から機密であるべき不確定な捜査情報を、恣意的に漏洩した世論操作だ。機密捜査情報の恣意的漏洩を延々と繰り返しながら、フタを開けてみれば立件するための証拠はぜんぜんなかった。

いや彼ら霞ヶ関官僚に限らず、特定秘密保護法を推進する人も賛成する人も、あるいは反対する人たちの多くでさえ、捜査情報、被疑者に関する情報が本来なら裁判手続きの開始まで原則機密でなければならないことなど、当然ながら考えてすらいまい。

逆に法務省、検察庁が実は巨悪であるのなら、それが巨悪であることを隠すのが機密指定、という前提で進んでいるような話が、この特定秘密保護法なのではないか?

国家・政府の運営、行政が、単に正直で誠実なだけでは済まないのは確かにその通りだろう。あまり筋が通らない、後ろ暗い取引だって、場合によっては必要であるのかも知れない。だが忘れてはならないのは、一方で政府や国家は、社会秩序に責任を負い、その基礎となる法秩序の執行者なのである。より単純に分かり易く言えば、総理大臣とか大統領は本来、子供から見たら「偉い人」でなければならないのだ

どうも「国を動かすには多少なりとも悪いことは」という思い込み、国家・政府=巨悪でなければならない、というイメージに囚われ切った人たちがいるようだ。その卓袱台返し的詭弁として、国が決めたんだから正義なのだ、国家に不都合なことは隠すのが正しい、という歪んだ発想が、特定秘密保護法には見え隠れしている。

だが国家や政府が嘘つきで犯罪者であるのなら、国民が遵法精神なぞ持つ謂れはない。

たとえそれが建前でも、国家の正当性は倫理的・哲学的な瑕疵なく維持されなければならない。

これは内政だけではない。外交においても一方では確かに各国の国益があるが、その国家が主張し寄って立つところが正当であることも、国益の重要な一部である。

尖閣諸島は日本領」「竹島は国際法的に日本領であることは自明」なのだとしたら、それはお題目として繰り返すことでなく、客観的にその正当性を論証することであって、都合の悪い話は無視したつまみ食いで日本人にだけ通用するフィクションを「みんな」で信じ合うことではない。

「国だから間違っていると言われてはいけない」のではない、「国家が誤りを犯してはならない、誤りは是正されなければ国家の信頼は保てない」のだ。

特定秘密保護法とは、そんな国家の有り様の基本的な哲学が分かってない、巨悪と言われようがお国を守るのだと言う幼稚で哲学性の欠如したヒロイズムに耽溺するオコチャマたちが、法は正義によって裏付けられなければ意味がないことも理解せず、自分達が法で決めてしまえばそれが正義なんだと、その法が自分たちの国の法でしかなく国際的に説得力を持つとは限らないことにも気づかずに、内輪の引きこもりの独善に歪んだ法のお墨付きを与えてしまう代物だ。

だからこそ危険なのである。

事実や真実とは、為政者の都合や僕らの利害を超越した、その外にあるものだ。民主主義とは、僕たちのわがままや身勝手の最大公約数を国や社会の方針とすることではない。それぞれが根本的に自分には内在しない、自分の目先の利益や保身の外に本来ある「正しさ」や「みんなの幸福」を目指すそれぞれのやり方を自分で考え、その考えを突き合わせることから自分達が選べる範囲では最良の、もっとも正しい選択をするための手段が、民主主義なのだ。

それは決して「偉い人が言ってるから正しい」「みんながそう言ってるからお前は間違ってるんだ」で都合の悪いことは隠すことではないし、「日本人みんながそう言っている」から過去の戦争の誤りがチャラになるわけでも、「中韓は反日国家」になるわけでもない。

仮に僕たち国民の利益のために国家が犯罪や違法行為を犯すとすれば、その利益を享受する僕ら自身が不道徳、ということになる。

僕たち国民の大多数の利益のためには、国家が嘘をつき都合の悪いことを隠すべきだ、特定秘密保護法は必要だと言うのなら、この法律を決めたことで日本国が嘘つきの不道徳国家になるだけではない、日本人という民族が嘘つき民族になる。

だから歴史の教訓を思い起こそう。「大本営発表」がいかに「勝った勝った」と言い続けても、戦争には負けたのだ。

それも膨大な戦死者を出し、沖縄が悲惨極まる戦場となり、ほとんどの大都市が空襲で焼け野原になっただけでなく、あまたの戦争犯罪行為に手を染め、自国の兵士たち自身まで虐待し、無駄死にさせ、他国民にとんでもない犯罪行為まで繰り返した恥知らずの犯罪国家として、すべてを失ったボロ負けだった。

それでもなぜ日本が立ち直れたのか、なぜ奇跡の経済復興を成し遂げ、かつて侵略した相手の国々からさえ尊敬されるようになったのかも、思い起こすべきだ。

また身近な例では、東日本大震災の被災者がなぜ世界のメディアから賞讃されたのか、僕らの作った原発事故の映画でも、3年近く経っても海外で上映する度に「日本人は素晴らしい」と言われるのかも、被災地以外の日本は謙虚に考えていい。

“その人たちの日本” は、恥知らずな嘘つきの国でもないし、身勝手で不道徳な者たちの国でもない。

12/08/2013

特定秘密保護法は成立してしまったが…


参院通過のギリギリになった数日間、反対の声がメディアでも、野党からも、そして国会を取り囲むデモでも盛り上がったものの、それでも「特定秘密保護法」は成立した。

もっとも、衆院を通ってしまえば、もはや成立しないわけがないのは最初から分かっていたはずだ。

もう忘れてしまったのか?我々は一年前の衆院選で与党に2/3絶対過半数を与えてしまっただけでは飽き足らず、夏の参院選でも与党に歴史的な大勝を許している。いかに今さらになってやっと数の暴力と言おうが、今国会でこの法を通すと与党は明言していたのだし、ギリギリの数日で慌てて反対しようが、まともな議論もなく強行されるのは、当然の想定の範囲内だった。

昨年に一時は永田町がやはりデモで騒然となったはずの、「再稼動反対」デモと同じ失敗が繰り返された、とも言える。
「電力が足りない」が再稼動が強行されるいいわけになるのは、最初から分かっていたはずだ。だが「まず政府は電力の需給データを公表し、精査して本当に電気が足りていないのか示すべきだ」という要求は決して「反原発デモ」の主流にはならず、議論のベースになるデータもないまま「足りている」「足りてない」の机上の空論の押し問答だけが続き、もはや手遅れだと分かり切っている時点でやっと「さいかど〜はんた〜い」と国会前で踊り出すだけでは、止められるはずもない。 
逆にこれを「再稼動はやむを得ないのだろう」という世論操作のガス抜きに使うことにだけは、政府官邸は抜け目がなかった。
それにしてもシュプレヒコールで決然と意思を主張するのではなく、なぜ歌ったり踊ったりしなければならないのだろう? 
そういえば昔の学生運動でも、破防法阻止で火炎瓶闘争までやっても、政府に強行されてしまえば、とたんに火炎瓶闘争を指導していた側が歌って踊って、を始めていた。今もまったく同じ心理で、踊り出すまでのタイムスパンが圧縮されているだけなのかも知れない。
大島渚『日本の夜と霧』

特定秘密保護法案は、夏の参院選では与党のアジェンダで上がっていたはずだし、衆院選で既に安倍自民党総裁は「改憲」を争点に上げていた。なぜ選挙の時に、この政権が極右の強権的な全体主義の傾向を持つことや、この法案の危険性を、メディアは報道しなかったのか?

衆院選の争点だと安倍晋三が言っていた改憲の中身すら、自民党が出している草案は報道にまるでのらなかったではないか、今さら遅いよ!

特定秘密保護法案だって、せめて衆院での議論が始まった段階でメディアが反対の声を上げていれば、まだこうはならなかったはずだ。いや今でこそ反対だ、こんな問題がある、と言っているが、これでは最初から記者クラブを通して共謀していたのだと思われても仕方あるまい。実際問題として、参議院での採決直前にならなければこのように反対の報道が盛り上がらなかったのでは、メディアがただ「私たちは反対したが、無理だった」というためのエクスキューズにしかなっていない(と言うか、経験則から言えばまた記者クラブぐるみの世論操作と疑うのが当然)。

言うまでもなく特定秘密保護法は、このブログで既に述べた通り、発想自体が馬鹿げた法律だ。国家機密を狙うスパイが合法かどうかを気にするわけもなく、懲役刑で脅したところで、最初からバレないいようにやる。公務員には元から守秘義務があるのに、わざわざ懲役刑で縛りをかける、というのも奇妙な話だ。

それでもあえて機密を守る新たな法が必要だとしても、その枠内でもこの法案は杜撰過ぎる。そもそも何が機密に当たるのかの具体的なイメージすら、提出している与党も反対する側も分かってないのだから当然なのだが、条文だけを読めばなにを機密とするのか、なにが機密であるべきかすら極めて曖昧である。

このままでは恣意的になんでも機密に出来てしまい、チェック機能がないことが国会で問題になると、政府側は「第三者機関」と言いつつ首相が第三者になると言ってみたり、次官の会議と外部の有識者と言ってみたり…首相が任命する内閣のメンバーである次官や、内閣府が任命する「有識者」が第三者になるわけがないだろうに。

こうも杜撰である、法律の体裁すらあやふやなことを、衆院での議論の時からメディアと世論が大掛かりに、成立直前の勢いで反対し指摘していれば、どれだけ与党が圧倒多数でも、廃案にだって追い込めたかも知れない。

少なくともまともな議論は出来たはずだ

だが「国家機密とはなにか」「なにを、なぜ守る必要があるのか、だとしたらどう守るのか」という議論は、特定秘密保護法案をめぐる騒動のなかで、ほとんど出て来ていない。そのことがいちばん危険にも思える。

これでは「気分の問題」でしかない

気分の問題だけで中身も深く考えないまま、方や「我々はお国のために秘密を守るのだ」と強がりを言う側がいて、もう一方では「治安維持法の再来、民主主義の死だ」と絶望を装った極論を語っている。その狭間にいるのは「この法律には賛成だが決め方が」と言い続ける維新やみんなの党だが、衆院の段階で理屈としてはまともに見える主張で修正させたはずが、土壇場で無原則な例外を認めてその修正を骨抜きにしたのだから、どこまで本気だったのだろう?

さらに成立後になって、今度は国会の特別委員会を秘密会で設定し、そこで機密にすべきかどうかチェックするという(日経新聞の昨日の報道)。いやもう…なんというか。「国家機密」の話をしているはずなのが、なんでこうもその機密に触れ得る=漏洩し得る人数を、どんどん増やしているのかねえ?

なんでも国会議員が非公開の秘密会の内容を漏らした場合の罰則をこれから作るのだそうだ。もう、少しは真面目にやれ、という言葉しかない。

だいたい国家機密なんだから、目に触れる人数自体を限定するのが当たり前だし、ほとんどの機密は機械的・自動的に機密になる。

たとえばアメリカ大使館の間取りや階数は、テロ防止の観点から自動的に国家機密だ。在日米軍施設のゲートは自動的に軍事機密であり、撮影したら憲兵が飛んできます。そういうルールをまずきちんと作る、◯◯に関することは機密、このレベル以上のことは機密、と原則をまず決めれば煩雑な行政手続きは省けるし、漏洩リスクも減らせるし、ルールの決定自体はオープンに議論されるのだから、不正もかなり防げる。

たとえば自国の軍事組織の具体的な配備、たとえば自衛艦がどこにいるのかは、基本的に作戦上の重要機密になる。本来なら国民の知る権利の観点から、そのうちどこまでを公表していいのかを決める話だ。なのに「中国にレーダー照射された!」と騒いで、尖閣諸島近海に自衛艦が展開していたという、普通に軍事機密であるだけでなく、領有権の係争がある海域なんだから外交機密であるべき事実を、ペラペラとマスコミに喋ってしまったのが現内閣だ。

そして今国会の最大の争点でありながら、こうした法の立法目的と運用に関する本質的な議論は、一切なかった

より本質的な、国家の安全と利益を守るための情報保護と、公正な行政の運営を担保するための知る権利の兼ね合いの、どこに落としどころを設定するのかの議論もない。

チェック機能がないのは確かに問題だが、それだけが論点であるかのようになったのだって本末転倒、実は「議論しています」「反対しています」のポーズだったとしても驚かない。

なにしろチェック機能以前に、こればかりは絶対に機密指定を許してはならないことを、きちんと禁じる条文すらないのだ。

つまり、違法であるが故に政府に都合が悪く、だから機密にして隠蔽してしまうことを禁じていないのが、この特定秘密保護法だ

これくらいは最低限の基本的なルールとして条文に明記しなければ、政府が自分たちの違法・犯罪性のある行動は隠しますよ、と厚顔無恥の不正直さを宣言しているに等しい

ところがジャーナリストでもこの肝腎の問題を指摘したのは、僕が見た限りでは江川紹子さんだけだ。チェック機能を巡る細則以前に、真っ先に法案の根本的な瑕疵として議論すべき、メディアが大々的に書き立てて最も問題にするべきはずのことなのだが。

これは「なにを機密にしていいのか」チェック機能以前に、そのチェックの原則となるべき最低限のルールの問題だろうに。

その上機密指定の解除義務が徹底されていない問題も残っている。つまりその気になれば、永遠に機密に出来るし、国家の違法行為などは、当然この対象になるだろう。

機密とする期限と解除については衆院で維新が指摘して、60年という年限が出たものの、あくまで原則で例外はあるというのに、なにが例外として許されるのかの議論もなにもなく、条文にも反映されていない。
つまりは極論、なんでも例外扱いが出来る。それこそ政府による違法行為だから機密にしたことなど、真っ先に例外扱いにしない方がおかしいだろう。なにが例外になるかのルールがないんだから。

さらに本会議強行採決が時間の問題になったところで、いきなり内閣の判断で機密を破棄出来るようになってるらしいことが報道された。なんという不正直さ、嘘つきっぷりなのか?日本政府はたとえば第二次大戦の終戦時にも、既にこれはやっている。

今回の特定秘密保護法を「民主主義の死だ」とかっこつけて言う人が後を絶たないが、これはそれ以前の問題だ。これでは悪行の隠蔽を奨励し、嘘つきを保護する法律である。

封建領主ですら、こんな不道徳は許されない

民主主義以前にあらゆる体制下で完全に倒錯した、普通の常識で「大人として子どもたちに恥ずかしい」というべきレベルの話であり、矜持や道徳の素振りすらかなぐり捨てている時点で、戦前戦中の軍国主義よりもまだひどい。

人間社会のもっとも基本的なルールを無効にする、「道徳の死」だ

と同時に、その事実を示す文書等がなければ、その事実そのものがないに等しいと思い込んでいる時点で、現在の我が国の政府の、もう精神医学で言って人格的欠陥としか言いようがないレベルの倒錯を示すことでもあり、しかもこの政府の場合、同様の前科は既にある。

実例その1)従軍慰安婦問題について、政府は公文書を調査した結果、強制を示す文書がなかったと主張している。それでも河野談話の段階では、文書が残存しなくとも強制があったことは自明だという常識的な立場がとられた。仮にそのような文書があれば、終戦時に破棄しているだろうし、そもそも命令を文書にすらしないのが普通だからだ。

ところが今や、安倍晋三首相やその周辺では、証拠文書がないのだから強制性があったのは嘘だ、と言い出している。

いや普通に歴史学者や裁判官が見れば強制があった証拠とみなす命令書すらある。 
つまり、慰安婦の徴集に軍ないし警察の同行が義務付けられているのである。これで強制がなかったわけがない。なにもしなくたって武装した兵士や警察がいれば、その存在自体が、植民地の貧しい、社会的地位の低い階層の女性から見れば絶対に逆らえない、逆らえば殺されると思って当然、強制以外のなにものでもない。

実例その2)尖閣諸島の領有権は、日中国交回復の時点で、周恩来から田中角栄への提案で、「棚上げ」になっている。中国としては主権の範囲について公的には妥協出来ないが、日中友好を優先して、建前では領有権は主張しても実際には日本の実効支配を黙認しよう、と中国側から言ったのだ。むろんこういう話は首脳間の信頼関係に基づく約束で、文書に残せるわけがない性質のものだし(つまり外交機密)、日本側が「いや『棚上げ』とお宅が言ったはずだ」とおおっぴらに言い出したら、中国側は建前上は否認せざるを得なくなっただろう。

ところが現状は逆だ。中国側が「実は棚上げにした」と(本来なら自国政府が批判されかねない国家機密を)公言し、かつての田中角栄の側近・野中広務がわざわざその事実を確認しても、日本側が「外務省で調べたがそんな記録がない」の一点張りである。さらによく分からないのは、「棚上げ」は本来なら日本に有利な話、わざわざ中国が言ってくれたのだから日本側が確認すれば尖閣諸島は日本領として実は安泰に実効支配を続けられ、この騒動は一件落着になったはずなのだが。

中国はそうやって丸く納めるための日本への譲歩として、わざわざ本来ならタテマエ上は自国に不利な機密であったはずの「棚上げ」を自ら認めたのだが、日本側が「棚上げはない」と言ってしまった以上、中国政府としてはこれまでも公式には自国領と主張して来た場所なのだから、防空識別圏に含めることにするのは理の当然だ。日本側が約束を反古にしたのだから。
と言うより、中国にしてみればこれは日本側を交渉の場に引きずり出す最後の切り札だし、先ほど来日したバイデン米副大統領も、それを支持する形で「日中間で危機管理について話し合って欲しい」と安倍首相に提案し、日本側が言わせたかった「撤回を要求する」という文言は拒否した。一方は首相、もう一方はしょせん副大統領、ここまではっきり拒否すること自体、外交儀礼の序列からして、公的な共同会見などでは珍しい。

いやもう「安倍晋三たちって、バッカじゃなかろうか」という話でしかない。

そしてこの特定秘密保護法もバカげていて幼稚であるだけでなく、あらゆる意味で恥知らずな法律だ。我々がそろって「国民を愚弄するのもたいがいにしろ」と怒り、軽蔑していいことだ。

だがだからこそ、反対する側の主流の論理にも疑問を感じざるを得ない。

報道にあまり出て来ないから気づかなかった、ギリギリになって報道が出て、それで気づいて国会前で絶望的な状況のなか抗議をする人たちの誠意は、疑いたくない。

だが結果として、政府側の掌の上でいいように弄ばれていることになってはいないか?

参院での議論の最中、自民党の幹部から「デモはテロと同じだ」というとんでもない失言が飛び出した。本来なら麻生さんの「ナチスに学べ」失言と同様、クビが飛ぶ話なのだが、それでも権力者側にいれば地位が守られるのが安倍政権の日本である。石破氏の場合、むしろわざと言ったと考えた方がいい。

つまりはこれも政府側の確信犯的な世論操作だ。政府はこの法律の決め方を通して、自分達が強権的な国家主義者であること、気に入らないことを言う国民はなりふり構わず黙らせることを、自己演出しているのだ。なのに今のような反対のやり方、僕たちがたとえば「映画が作れなくなる」と言い出すようでは、その演出を僕たちの側が補完することにしかなっていないのではないか?

いや実は、反対を言っている人の大半も、こういう法律は必要だと思い込んでいるのかも知れない。 
さすがに反対しなければサマにならないから、手遅れになってからやっと反対が盛り上がったのではないか、とすら思えて来る。

特定秘密保護法は「民主主義の死」だという。「治安維持法の再来だ」と強弁する人も少なくない。

確かに今の政府与党が公言している(のにメディアが報じない)極右国家主義、全体主義路線の進行のワンステップに、今回の特定秘密保護法の強引な成立は位置づけられるのだが、この法律自体はまずさんざん言って来たようにナンセンスだし、その条文は杜撰過ぎるし、こと我々国民の自由を直接に奪える弾圧法としてはあまり使えないことは、はっきりさせておくべきだ

教唆・強要を処罰対象とする文言は一応はあるが、現代の日本国憲法と刑事訴訟法の範囲で検察側の立証責任を満たすには、文字通り金銭などの授受を伴い直接に公務員を口説くとか、弱みを握るか人質でもとって脅迫して漏洩させた事実でもなければ、まず成立しない。メディアと国民の監視の目さえしっかりしていれば、「政府は◯◯を隠している、許せない」程度のデモでの訴えを、特定秘密保護法違反で検挙することは出来ない。

だからこそ石破氏はわざと「デモもテロと変わらない」というトンデモ失言をやったのだろう。実際には特定秘密保護法がなんら拘束力や影響力を持たない範囲のことが、あたかも取り締まりの対象になるかのような印象を作るためだ。

幽霊の正体みたり枯れ尾花。

こんな子供騙しにのせられてはいけない。「今の政治家はこんなに怖い、なにか言ったら逮捕される」と(現実には不可能なのに)僕たちが思い込むことこそ、自民党右派と霞ヶ関が狙っていることなのだ。

一般市民が直接に国家機密を目にすることなどまずないのだから、僕たちがそれを漏洩することも難しい。米国の機密だってたとえば戦争中なら連邦政府の施設内や、日本でも駐日アメリカ大使館の内部では、間取りなどが分かるような写真は撮らないよう、撮ったら破棄するよう厳命されるが、こっそり撮影して持ち出し公表したから逮捕、とはならない(その程度の「国家機密漏洩」なら、僕はさんざん、それこそ監督第一作からやっています。すみません)。

つまり特定秘密保護法案は、実際には僕たちの生活とはほとんどなんの関係もない、まず拘束力も持たない。にも関わらずこれが危険になるとしたら、法律それ自体の機能とは無関係に “ジワジワと効いて来る” 場合であり、そのことを政府側は、この法律それ自体ではなく、その決め方によって、まさに “ジワジワと効いて来る” ように演出しているのだ。

たとえば北朝鮮による拉致事件被害者家族の蓮池透さんは、家族にすら政府がほとんど情報を提供してくれなかった経験から、報道の萎縮がいちばん怖い、と指摘している。


(秘密保護法案)異論言えない「萎縮社会」 蓮池透さん
特定秘密保護法は、こうした情報を永遠に封印してしまうかもしれない。強い危惧を覚えます。一番心配するのは報道の萎縮です。政府から情報が得られない中で、新聞やテレビの報道は、家族にとって時に希望をつなぐ唯一無二の情報だったからです。http://www.asahi.com/articles/NGY201312040030.html


(なお確かに、日本のとくに大手メディア、官庁の記者クラブ会員社の記者が、情報源の大半を官僚からの情報に依存している以上、政局や外交問題の報道などは今後とてもやりにくくなるだろう。 
だがそうした報道は元々、官僚が世論を操作するために恣意的なリークでやらせているものだ。皮肉なことにその意味では、むしろ言論の自由はこの法律で守られてしまうことになる)

別にこの法案で突然言論の自由が阻害されるわけではない。

既にこの国に、そんな自由はほとんどなかった、実は僕たち自身が自らその自由を放棄し、他人に放棄させて来ている。特定秘密保護法を僕たちが通させてしまったのも、その当然の延長であり、帰結に過ぎないのかも知れない。

ここではっきりさせておくが、僕はずっとこの法案には反対しているが、僕自身の職業上の利害にはほとんど関係がないし、僕が自分の仕事で萎縮する必要もどこにもない。元から官僚に情報をもらったりすることが滅多にないし、守秘義務があるのだから機密情報なんて僕らにはまず教えてくれないし、その相手に自分のクビが飛ぶ話をキャメラの前で言ってもらうことなんて、そもそも不可能だ。
ただしかなりの部分は、話からだいたいの推測はついてしまうし、多くのメディアが僕にだってすぐ気づくことをなぜ書かないのか、僕にはずっと疑問でならなかった。

高畑勳さんや瀬戸内寂聴さんのような世代の人が、この法案に「いつか来た道」を見て頑なに反対されるのは非常に理解できる。この人たちはずっと以前から、日本には言論や表現の自由が実はないこと、歳下の世代の我々が自らそこに加担し、自分で自分の自由を棄てて来たことに、危機感を持ってもいる。同じような世代の、今は亡き黒木和雄監督に、僕は生前にさんざん「今の日本は僕の少年時代にそっくりになって来ている」と警告された。

それは別に国家権力が、ということだけではない。我々国民もまた言論表現の自由の制約に、ずっと加担して来ているのだ

たとえば僕たちの映画の業界でも、高畑勳さんや盟友の宮崎駿さん、亡き大島渚さんは別格として、僕が知る限り言論や表現の自由なんてほとんどなかった。黒木和雄さんや土本典昭さん達は自分達でもその不自由とずっと闘いながら、僕たち後輩が自らその自由を無自覚に放棄していることを、とても不安に思って来られていた。僕にしたって黒木さんや土本さんの晩年に可愛がられた、まだ「今の日本は我々の少年時代に似ている」と警告して頂けたのは、僕が自分達に自由がないどころか、自分で自由を放棄しかねないことに、まだ比較的自覚的な部類に属していたから、に過ぎない。

蓮池透さんが指摘したように、特定秘密保護法案が僕たちの自由を結果として束縛することになるとしたら、それは別に自民党だけの問題じゃない、僕たちの側自身の不自由さ、自由から逃走している問題でもある。

大島渚さんが亡くなられてから、生前の大島さんには「この映画の台詞は意味が分からない」とさんざん生意気を言って来た(そういう自由を大島さんは許して来た、むしろ僕にはそれを「強要」すらされていた)『日本の夜と霧』を何度も見直している。


大島渚監督『日本の夜と霧』予告編

ストリーミングでの視聴はこちら 日本の夜と霧 - GyaO!ストア

鈍感だったというかなんというか、今見直せばこの映画が描く50年代60年代の左翼運動の病は、今の日本の不自由の縮図に見えるし、僕自身がこの20年くらい、そんな世界のなかで仕事をし、生きて来ていた。



『日本の夜と霧』で大島渚さんが暴いている、反安保や学生運動の側の病、言論と表現の不自由、思想の自由のなさは、権力側の不自由さの鏡像になっているし、それは今の、例えば僕自身が属する、どちらかといえばリベラルなはずの日本の映画の世界でも、まるでそっくりなのだ。

僕たちの言論の自由、表現の自由を奪っているのは果たして国家権力側だけなのかと言えば、それはぜんぜん違う。自分たちへの批判や、自分たちの反省を促されることを病的に恐れる人たちは、その自分達の存在自体が言論の自由や表現の自由を放棄していることに、なぜ気づかないのだろうか?

特定秘密保護法の強行採決は確かに「いつか来た道」を再びなぞる危険性は、はらんでいる。でもそうなるのは我々国民が萎縮することに安住し、強権的な権力に同化する幻想に耽溺して、政府ではなく自分達が他人を黙らそうとし始めた場合だけだ

だが今の日本社会の多数派は、既にそうやって自分達で他者をマイノリティの立場に追い込み、その他者を黙らせ、自らの自由も他人の自由も抑圧しようとする欲望を、もはや本能的なレベルで持ってしまっている。


「ボクたちが傷つくことを言うのは許さない」「そんなの抑圧的だ」、その身勝手な感情論がなぜか他者の言論や表現を抑圧する動機として正当化され、殺し文句は「そんなこと言うとみんなに嫌われるぞ」「みんなお前を嫌ってる」とか、こんな言い草がまかり通れば、自由なんて元からあるはずがない、デフォルト設定で全体主義なのだ。

みんながみんなで自分の自由、他人が自分を批判する自由を、徒党の暴力性と「傷ついた!」という幼い感情論だけで抑圧している、本当のことを言えば叩かれる社会では、特定秘密保護法がなくとも言論の自由は元からないし、あんな杜撰な法律でも弾圧暴力装置として立派に言論を萎縮させてしまうだろう。

いやあんな法律がなくとも、既に萎縮しているし、萎縮させられること、萎縮する理由が明示されることを自ら望んですらいる

いやそんな人たちの本音の深層心理では、特定秘密保護法は「情報漏洩で国家が脅かされる」という理由ですらなく、自分たちをこそ守るために必要な法律なのかも知れない。
元から周囲の目を配慮して自分が気づいている不都合な真実を言わない、それを言ってしまった人は袋だたきでいじめて血祭りにあげることで、マジョリティの側に自分の居場所を担保するのが習い性になっている人たちにとっては、「こんな法律があるから言えないんです」といいわけを担保してくれる特定秘密保護法や、治安維持法に類するものは、むしろ実はありがたい。 
こと3.11以降今までずっと、現代の日本政府は(というか霞ヶ関は)不正直で無能で無責任だと、僕は言い続けて来ているが、一点だけ彼らが恐ろしく有能であることは、認めざるを得ない。 
まさに痒いところに手が届くかのように、僕たち国民の側の歪んだ心理や後ろめたい欲望を精確に見抜き、一見反対するように見える者たちまで巧妙に操って利用し、社会を自分達の都合のよい方へと誘導できる狡猾さだけは凄い。

僕たちが福島第一事故を扱った映画『無人地帯』を海外合作で、編集つまり映画の論理構造を明確にする作業を海外でやり、日本側プロデューサーでさえフランス人だったのは、日本の映画の業界に言論の自由や表現の自由が実はない、僕たちが弾圧されたりする前から自分たちで自由を放棄しかねない、ただそこに反発するだけに気を取られてしまうのなら、ダメな映画になってしまうからに他ならなかった。

極端な話、もしフランスで、イザベル・インゴルドに編集してもらわなかったのなら、日本国内だけで仕上げるのなら、20Km圏内の無人地帯で編集するしかなかったと思う。“トウキョウから遠くはなれて” なければ、あの映画は出来ていない。

本当に隠蔽されたのは炉心溶融でも放射能漏れでも被曝の危険性でもなく、250Km離れた東京が40年間福一に依存して来た責任、政府の被災者に対する無責任、原発地元へのそこ以外の日本の露骨な差別意識、実は誰も事故の実態を理解する気すらない、僕たちの傲慢で薄情な独善だった。

それが突きつけられた、ついに起ってしまった大規模原発災害ですら、本当のこと、福一立地の地元の人にとっては分かり切った真実を言う自由すら自主規制してしまうのが、今の日本のインディペンデント映画ですらそんなもの…というか、インディペンデント映画業界こそ、それがかなり狭い世界なだけに、かえって『日本の夜と霧』度は高かったりする。

かと言ってそこに属さない自分に固執するだけでも、映画は映画にならない。ならば資金的にも物理的にも、そこから自分を隔離してしまう方が手っ取り早い。

『無人地帯』予告編(2014年2月、渋谷ユーロスペースにて公開)

特定秘密保護法は確かに僕たちの自由を(ある程度は)阻害するかもしれない。だがこの法案が通るだけで直接に不自由になる、なにかが言えなくなるわけではまったくない。そこまでの拘束力はこの法の文言には書かれていない。ただし元から自分の自由を放棄することに慣れてしまった僕らにとって、この法案は強烈な萎縮効果を持ち得る。

この法律や日本版NSCは愚かしいからこそ潰すべきである一方で、僕らが萎縮する必然などどこにもない、これが通れば自由がなくなると言うこともない。むしろ一方で僕たちが反省すべきは、こんな出鱈目に今まで無批判で甘んじて来た自分たちの不自由さ、自分たちで自由を放棄して来たことなのだ

尖閣諸島や北朝鮮政局、日韓関係を巡る馬鹿げた歪曲報道、要するに小泉純一郎の時代以上に危険な安倍晋三の時代の日本の状況とは、端的に言えば「裸の王様」の童話そのままだ。

日本版NSCの第一回閣僚会合のあと、お膳立てをした首相補佐官から記者との懇談で出て来た発言が、「今後二週間に一回会合があるので、テーマ設定が大変」だったりするのだから恐れ入る(日本経済新聞、12月7日朝刊)。これでは本末転倒でまったくの無駄ではないか。
アベノミクスの大規模金融緩和に日銀総裁が賛成しなかったので更迭されたら、新しい日銀総裁は今さらになって「金融緩和政策は止めるべき時に止めるのがとても難しい、今回は長期国債の償還時期も重なってとくにチャレンジングだ」と言い出す(http://www.asahi.com/articles/TKY201312070132.html)。 
いやそんなの最初から分かっている、バブル崩壊後にさんざんその失敗を繰り返して来たのになんの学習もしてなかったのか?

こんな無責任で自らの無能を隠そうともしない政府には、僕たちは子供のような自由さで「王様は裸だ」と言うべきなのだ。

とはいえ「王様は裸だ」と言い切る子供の視点の純粋さと自由さを持ち得なくなっているのは、なにも自民党や政治報道をめぐる情勢だけのことではない。

今編集中の最新作『ほんの少しだけでも愛を』は、出演者と僕の労力以外は日本の出資はゼロ、製作国は日本ではなくインドネシア=タイ=ドイツ=フランス合作のほぼ無国籍になる。映画に使うシーンの選択と、どういう展開になるのかだけを示すラフカットまでは自分でやったが、本格的な編集には僕自身はほとんど口を出さず、バンコクで編集作業を続けているリー・チャタメティクールに任せている。

出て来る話は、いじめに在日差別に遊郭に被差別部落となれば、当初日本で支援してくれた人たちは勝手に去って行ったし、僕自身もこの映画が扱っていることを「みんなが嫌がるからタブー」として来た日本社会の一員である以上、冷静さや客観性を保てない危険がある。



というか『ほんの少しだけでも愛を』は大阪で撮影した、大阪についての映画で、大阪では当初は「我々は映画を愛している、若い人を助けたい」という “善意” で支援してくれる人たちがいたのが、映画で扱っているのがいじめに在日差別、飛田遊郭や釜ヶ崎にも入り込み、ラストは被差別部落のど真ん中で撮影と分かったとたん…

「そんな映画は大阪では絶対に上映させない」

…である。

これが日本映画の「自由」の現状だと絶望して、怒りや憎しみにだけ囚われて、「自分は間違ってないんだ」にだけ固執してしまえば、その敵愾心に囚われる自分もまた裸の王様になってしまうだろう。 
それでは映画が作品にならない、ただの個人的な感情の自己正当化に堕してしまう。
だが映画とはそんなものではない。作品とは、そんな人間世界の俗世の都合や自己正当化の身勝手の外から、「王様は裸だ」という真実を照らし出すべき光に、ならなければならないはずなのだ。 
まさに大島渚さんの『日本の夜と霧』の構造がこれであり、その意味で大島さんはこの問題作で、映画論そのものを実はやっていた。
この映画では、60年安保闘争の敗残を心の奥底に隠した人々の集う結婚披露宴に、津川雅彦さんの演ずる、逮捕状が出ている、常識では黙って隠れていなければいけないはずの学生が登場し、その場のうわべの平穏をかき乱すことから始まる。 
大島さんが「僕はスキャンダルが大好きなんだよ」と言っていたのは、こういうことだったのか。


スキャンダルとは、「王様は裸だ」という事実を明らかにすることだ。だがほんとうは王様は裸だとみんな分かっているのに、誰も言わない、政府や国家権力が出て来るまでもなく、周囲の目が怖いから迎合するのは、自分たちも裸であることを言われたくないからだろう。

在日への差別はまだ在日の人たちの努力や、韓国文化の「韓流ブーム」を巻き起こした努力で、少しは変わって来てはいるが、被差別部落問題なんていっこうに好転もしないどころかもはや隠蔽されて誰もが見て見ぬ振りをして恥じず、部落地域がゴーストタウンと化すか歴史が抹消されるかのどちらか、という、自由も真実もまったく尊重されないのが、秘密保護法を待つまでもなく日本の現状だ。

「朝鮮人は出て行け、殺せ」という極端な排外主義を述べる者たちだけを人身御供にして、彼らを「ヘイトスピーチは」と叫ぶことで隠蔽されているのは、100年以上に渡って日本という国家と民族が朝鮮民族を差別して来たこと、今なお普通に陰湿な差別があること、そして日本の植民地支配と暴虐な戦争の責任、我々の国家がまず謝り、反省しなければならないことだ。

今の日本における「差別に反対」「ヘイトスピーチを許すな」とは、こういうことなのだろう。朝鮮民族を敵視し、差別したいことはちゃんと伝わるが、自分たちの内輪では「差別に反対している」とは思える。(JR中央線、大久保駅付近高架下)

つまり「僕らに都合の悪いこと」はすべて、僕たちが「傷つく」から、自分たちが批判されるのは耐えられないから、隠されなければならないのだろう。

そうやって未だに日常に受けている差別を隠蔽され、差別を受けて来た在日の人たちにさえ「反日だ」という脅しで自分たちの苦しみや経験を語り、生き抜いて来た強さを見せる自由を剥奪させているのが、「日本人大衆」の横暴である。

僕たち自身が、自由で自分らしく正直に生きるべくやらなければならない努力を放棄して、どんな理由でもいいから他者を叩く、仲間はずれを作ることで結束を高め、悪口陰口に耽溺する世の中を作ってしまっているのなら、その当然の結果として、特定秘密保護法案のような愚行がまかり通り続けるだろう

いじめ問題なんて、被害者にしてみれば当然の正論すら、それを口にする自由を奪うべく世間全体で圧力をかけている、自分達に都合の悪い真実や事実は国家機密扱いなのが「日本人大衆」その実、大半はいじめ加害者だ。

「いじめは加害者が全面的に悪い、罰せられるべき」

こんな当たり前のことすら言えないのがこの30年以上の日本である。

なぜ言えないのか? 「日本人大衆」の圧倒的多数が大なり小なりいじめ加害者であったことがあり、同時にいじめ被害者になることに怯えている。「お前は加害者だ、反省しろ」と真実を言われれば自分が攻撃される側になることを病的に恐れ、当たり前の真実をもう30年以上も隠蔽し、誰にも言わせないようにして来ているのだろう。

ここまで他人/他者が自由をもって真実や本音を言うことに社会の大半が実は怯えている社会、自分で気づいて反省し立ち直る自由をみんなで放棄している国では、「なんとなく国に都合が悪そうなことは言ってはいけません」となるらしい法が通るだけでも、言論の自由は完全に奪われるだろう


大島渚さんの『日本の夜と霧』に話を戻せば、あの映画では戸浦六宏さんだけが実名のままの「戸浦」という役柄だ。津川雅彦演ずる異界からの闖入者・太田以外では、この戸浦だけが(酔っ払うことで)自由に本当のことを言える人物である。


なにも国家権力だけが僕らの自由を奪っているのではない。


僕たち自身が自分たちでお互いの自由を奪い合い、自分の自由を殺している、放棄している状況が、学校から仕事の現場のしがらみから、自由でなければならないはずの僕ら「表現者」の世界でまで蔓延している。

そんな今の日本だからこそ、馬鹿げた特定秘密保護法ごときが、恐るべき言論弾圧装置になり得る