そもそも最初から、すべてが感情論から始まった。そして採決に至るまで、結局は感情論と安易で粗雑な印象論しか、政府与党からは出て来てはいないし、強行するその動機自体が感情論でしかない。その挙げ句に多数議席を確保しながら、詐術まで用いた暴力的な委員会採決である。
参院の特別委員会での採決の混乱は、あまりにもわけが分からない人も多いだろうし、まず何が起こったのかを簡単に説明しておこう。
鴻池委員長への不信任動議が否決され、委員長が復職したところで、通常の手続きなら当然しめくくりの総括質疑がある(首相と担当大臣も出席も、そのためのはずだ)のが通例だ。その進行手続きの確認のため、野党の理事が委員長席に向かった。そこへいきなり、委員会室後方で傍聴していた、この特別委員会には所属しない与党議員たちが、委員長席に駆け寄り始めたのである。
参院の特別委員会での採決の混乱は、あまりにもわけが分からない人も多いだろうし、まず何が起こったのかを簡単に説明しておこう。
鴻池委員長への不信任動議が否決され、委員長が復職したところで、通常の手続きなら当然しめくくりの総括質疑がある(首相と担当大臣も出席も、そのためのはずだ)のが通例だ。その進行手続きの確認のため、野党の理事が委員長席に向かった。そこへいきなり、委員会室後方で傍聴していた、この特別委員会には所属しない与党議員たちが、委員長席に駆け寄り始めたのである。
同委員会に所属する野党議員たちは委員席に座っているので、当然この異変に気づき、慌てて阻止しようとやはり委員長席に向かい、もみ合いになった。委員会に所属しない、最初から実力行使のためだけに待機していた与党議員が委員長を取り囲む。前の方の席の野党議員が慌てて委員長のマイクは奪っていたので、与党議員にがっちり廻りを囲まれた委員長の声はまったく聴こえない。委員長の声ではなく、与党の筆頭理事である佐藤正久議員の合図に合せて、委員である与党議員が起立する、というだけで「採決」が行われ、起立多数ということで安保法案は特別委員会を通過した…とみなして本当にいいのだろうか?
不信任動議の討論でどんどん委員会室後方で傍聴する与党議員が増えて行ったのも、単にこの暴力的な実力行使のためだった。これから最後の総括審議に移るはずだと思っていた野党側を騙すため、わざわざ首相本人や防衛・外務の両大臣までが顔だけ出していた。当然すべてが仕組まれたシナリオ通りの「だまし討ち」であったわけで、だから乱闘が始まっても、委員会所属の与党議員たちは、平然と席に着いたままだったのだ。
百年以上の日本の憲政と議会政治の歴史のなかでも、これほど馬鹿馬鹿しい採決が行われたことは恐らくあるまい。
参議院特別委員会、最終日
すべては最初から安倍晋三首相の感情論で始った
昨年夏に「新三要件」と称する国による武力行使に関する新解釈を発表した時、当然違憲性が指摘されるその内容について、安倍首相は「人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません」などと、手前味噌な感情論に過ぎないことを語った。
その同じ記者会見で持ち出したのは、国名と地名の明示を避けながらも「南シナ海」、「東シナ海」の領土問題で、これまた感情論の偏向でしかない上に、名指しを避ければそれでいい、どうとでも言い逃れできるはずだと言わんばかりの不誠実な、それも稚拙過ぎる詭弁である。
もちろん安倍は本当なら「中国」「南沙諸島」「尖閣諸島」と言いたかったはずだが、ここで名指ししてしまっては、日本が中国を仮想敵国視して平和憲法を変えようとしていることが露骨に分かり易過ぎるので、本人としては「大人の対応」で「自重」したつもりだったのだろう。
南沙諸島におけるいさかいは、感情論を排し客観的に見れば、中国、マレーシア、ヴェトナム、フィリピンがそれぞれに領有権を主張しつつ、それぞれにその一部を実効支配して、島嶼の埋め立て拡充などの開発を進めている。
昨年段階で起こっていた目立った衝突は、愛国的な感情論に囚われたヴェトナムの民間活動家が、中国が実効支配し埋め立て開発を進める島に突っ込もうとして国境警備当局に阻止され、死亡事故に至ったことだ。
民間人を殺した中国の「横暴」には感情的には反発を覚えるにしても、感情論は感情論に過ぎず、それを「海洋進出の野望」に強引に結びつけるのはあまりに粗雑なプロパガンダであり、南沙諸島と尖閣諸島を関連づけて「中国の脅威」を語るのに至っては、幼稚過ぎる感情論の暴論でしかない。
外国に支持されている、と主張したい感情論
もちろん南シナ海は日本にとって、西半球からの重要な海上輸送路に位置する。インドとも、スエズ運河を通ってヨーロッパとも、ホルムズ海峡を通って中東の産油国とも、アフリカとも繋がっており、その安定は日本の経済産業にとって極めて重要だ。だがその経済的利得を「自衛する」と称する自己中心的な感情論での武力行使が国際的に認められるはずもなく、なればこそこの水域の安定のためには外交努力で、それぞれに南沙諸島の領有権を主張する各国間の調停を諮るのが、アジア最初の先進国であり世界屈指の大国として、日本の「大人の」役割のはずだ。
だがそうした外交努力は安倍内閣のもっとも苦手とするところどころか、最低限の外交常識もないこの首相は、中国以外の当事国が日本を頼ってこの安保法制に賛同しているのだと言い張る。
もちろん世の中そんなに甘いわけがない。
当事国はそれぞれに日本の援助や、日本との経済関係の重要性から、安倍に尋ねられればリップサービスに務める。だが一方で、中国との重要な経済関係を損ねてまで一方的に日本の側につくことなど考えてはいない。本音を言えば、日中双方との良好な関係こそが国益なのに、日本はいったいなにをやっているのだ、と思っていて、そうした不安は控えめな言い方とはいえ、今年4月末のアジア安全保障会議でもはっきり表明されていた。中国側が南沙諸島埋め立てについて説明し、アジアからの参加国は揃ってその内容に納得したと述べ、日本と米国に外交努力を求めたのである。
安倍政権は安保法制に44カ国が賛同していると外務省を通して盛んに喧伝しているが、これも馬鹿げた感情論に訴えかけた詐術でしかない。なぜ「外国に認められた」がそんなに重要なのか、安倍氏本人のコンプレックスから来る感情論すら垣間見えるが、タネを明かせば安倍本人が首脳会談で、岸田外相が外相会談で直接尋ね、外務省が各国の外交当局に片っ端から問い合わせ、返事があった国が44カ国だったというだけのこと(ちなみに安倍が再登板後に会談した首脳だけでも56カ国、つまりそれ以下)で、それぞれに経済大国である日本との関係を荒立てたくはないし、他国の安全保障政策にみだりに口出しをすることは敵視を宣言するに等しい行為なので、否定的な解答など出て来るわけがない、ただのリップサービスでしかない。
ちなみに中国も韓国も、公式にはことさら反対などしていない。衆院での強行採決と前後して、「首相周辺」からのリークとして安倍が「南沙諸島に間に合わない」と口走っていることが報じられても、中国政府は静観し、ただ皮肉たっぷりに「我が国の主権の侵害につながらないということでは、日本政府を信頼する」と外務省報道官が言っただけだ。
最初から議論を放棄しながら、採決だけは感情に走って強行する
日本人の母親と赤ん坊を運ぶ米艦船というイラストまで飛び出した、感情論に塗り固められた「新三要件」発表から一年余が経ち、与党は提出した一連の安保法案を、修正要求にも一切応じず、強行で成立させようとしている。
法としての論理構成上の瑕疵が暴かれても、さすがに歯止めがなさ過ぎるので国会承認を絶対必要要件とすべきと言われても、武器等防護が集団的自衛権行使の抜け道になることを指摘されても、与党やその支持層、この法案に賛成する側から出て来るのも感情論でしかない「対案を出せ」だったする。
だが例えば同盟国の核兵器すら法文上は「後方支援」の補給業務で運べてしまう問題なら、その禁止を明記するだけで事足りるので「対案を出せ」は成立しない。
国会承認の厳格化についても、それ自体が対案で要は書き加えればいいはずが、自分達の法案に訂正が入ることを嫌うという程度の感情論で、閣議決定で済ますという。
参議院の特別委員会での採決に至っては、いかに劣化した安倍政権とはいえまったく想定外の結末だったが、動機はといえば総括審議すらやりたくない(問いつめられて恥をかく)首相の感情論しか思い当たらない。いや国会会期を10日残しながらの強行も、理由はなんと大型連休中には反対の国会周辺デモが盛り上がるだろうから、それを避けたい、「不測の事態が起こりかねない」というだけだ。
政府答弁を信用するなら、既存の法制度と出来ることはほとんど変わらない(ただし抜け道だけはそこらじゅうにある)
それにしても奇妙なことだ。
違憲性や、自衛官に及びかねないポテンシャルな危険性を指摘される度に、政府の答弁は「そういうことはやらない」と、自分達を信用しないのかと言わんばかりの感情論で応ずるだけ、実際の法文に書き加えることは拒絶するのだが、答弁で「やらない」と明言して来てしまったことを積み重ねると、ほとんどが従来の個別的自衛権で十分にカバーされて来た内容しか残らない。
安保法制自体が違憲であるだけでなく、法制度としてあまりに瑕疵が多いことは、衆院を通過した際に別のサイトの記事で説明した通りだが、いったいなんのためにこんな法律をわざわざ決めるのか理解できない。
安倍が衆院では言い張っていたホルムズ海峡機雷掃海も、現実性が皆無であることを本人ですら認めざるを得ず「想定していない」と答弁し、もはや立法事実すらなくなってしまったぐずぐずの論理矛盾も、しょせん最初から安全保障政策を感情論と勘違いして来た安倍政権の当然の帰結だと言えよう。
もちろん裏では、国会では「やらない」と言っていてもそれが出来る余地を残しておきたい(つまりは、やる気満々である)二枚舌であるのも当然で、そのやり方が稚拙過ぎるから野党に問いつめられることになるのだが、そうなるとますます意固地に執着して、なんとしてでもこの法案を今国会で成立させなければとムキになるのに至っては、安倍個人の感情論以外にさしたる理由が見出せないのである。
なぜ安倍とその周囲は、かくもなりふり構わずにムキになっているのか?
なぜ自民党議員からはこの裸の王様に「王様は裸だ」と言う者がまったく出て来ないのか?
巷では安倍が訪米時の議会演説で、集団的自衛権の行使を可能にする法整備を約束してしまったことが、今国会での成立に固執する理由であるかのように語られているが、これも相当に眉唾だ。
法としての論理構成上の瑕疵が暴かれても、さすがに歯止めがなさ過ぎるので国会承認を絶対必要要件とすべきと言われても、武器等防護が集団的自衛権行使の抜け道になることを指摘されても、与党やその支持層、この法案に賛成する側から出て来るのも感情論でしかない「対案を出せ」だったする。
だが例えば同盟国の核兵器すら法文上は「後方支援」の補給業務で運べてしまう問題なら、その禁止を明記するだけで事足りるので「対案を出せ」は成立しない。
国会承認の厳格化についても、それ自体が対案で要は書き加えればいいはずが、自分達の法案に訂正が入ることを嫌うという程度の感情論で、閣議決定で済ますという。
こんな妥協で折れてしまうのも、次世代の党はどうせ定年退職した自民党右派のOBクラブ、新党改革は小泉の郵政選挙で飛び出しただけの自民党分派とはいえ、日本を元気にする会は最後の最後であまりに無様な妥協に陥ってしまった。
参議院の特別委員会での採決に至っては、いかに劣化した安倍政権とはいえまったく想定外の結末だったが、動機はといえば総括審議すらやりたくない(問いつめられて恥をかく)首相の感情論しか思い当たらない。いや国会会期を10日残しながらの強行も、理由はなんと大型連休中には反対の国会周辺デモが盛り上がるだろうから、それを避けたい、「不測の事態が起こりかねない」というだけだ。
「不測の事態」?確かにデモに問いつめられ、追いつめられた安倍首相が、いよいよ感情論に走っていったいなにを言い出すのか、どんな無茶な命令を自民党内に支持し始めるのか、こんな出鱈目な委員会採決すら平気でやってしまった後では、なにをやってもおかしくない。
政府答弁を信用するなら、既存の法制度と出来ることはほとんど変わらない(ただし抜け道だけはそこらじゅうにある)
それにしても奇妙なことだ。
違憲性や、自衛官に及びかねないポテンシャルな危険性を指摘される度に、政府の答弁は「そういうことはやらない」と、自分達を信用しないのかと言わんばかりの感情論で応ずるだけ、実際の法文に書き加えることは拒絶するのだが、答弁で「やらない」と明言して来てしまったことを積み重ねると、ほとんどが従来の個別的自衛権で十分にカバーされて来た内容しか残らない。
民主・維新両党の提出した領海警備の整備法の方が遥かに実効性も現実性も高く、しかも海上保安庁の警察権の整備が主たる法案なので、もちろん違憲性もない。
だいたいこれは、近年に中国の民間漁船の珊瑚密漁などが問題になっていることだし、与党こそが早急に進めていておかしくない立法で、民間漁船への対応は自衛権ではなく警察権の執行なのだから、安保法制はまったく関係がない。なのに杜撰な感情論で、民間漁船の密漁すら「安全保障上の脅威」と言わんばかりの者が、与党内部にすら少なくない。
安保法制自体が違憲であるだけでなく、法制度としてあまりに瑕疵が多いことは、衆院を通過した際に別のサイトの記事で説明した通りだが、いったいなんのためにこんな法律をわざわざ決めるのか理解できない。
安倍が衆院では言い張っていたホルムズ海峡機雷掃海も、現実性が皆無であることを本人ですら認めざるを得ず「想定していない」と答弁し、もはや立法事実すらなくなってしまったぐずぐずの論理矛盾も、しょせん最初から安全保障政策を感情論と勘違いして来た安倍政権の当然の帰結だと言えよう。
もちろん裏では、国会では「やらない」と言っていてもそれが出来る余地を残しておきたい(つまりは、やる気満々である)二枚舌であるのも当然で、そのやり方が稚拙過ぎるから野党に問いつめられることになるのだが、そうなるとますます意固地に執着して、なんとしてでもこの法案を今国会で成立させなければとムキになるのに至っては、安倍個人の感情論以外にさしたる理由が見出せないのである。
なぜ安倍とその周囲は、かくもなりふり構わずにムキになっているのか?
なぜ自民党議員からはこの裸の王様に「王様は裸だ」と言う者がまったく出て来ないのか?
巷では安倍が訪米時の議会演説で、集団的自衛権の行使を可能にする法整備を約束してしまったことが、今国会での成立に固執する理由であるかのように語られているが、これも相当に眉唾だ。
米国との絆を深めて中国と対決する、というあり得ない夢想
再び昨年に安倍が新三要件を発表して集団的自衛権の行使を可能にすると言った時に戻ろう。この時には、米側でわずかにあった反応は、国防総省の報道官コメントだけだった。
ペンタゴンや軍の一部にとっては、自衛隊に米軍の任務の一部を肩代わりさせられる期待感があるのも確かだ。しかし米社会の全体では、今年の安倍の議会演説でも、米国のメディアは保守系も含めて新冷戦時代を招きかねない危険性が厳しく批判され、日中の関係悪化にアメリカが巻き込まれて米中対立となることへの露骨な警戒が露になっている(日本のメディアはまったく報じなかった)。保守論客の重鎮にして安全保障問題の米国における最大の権威一人、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官もわざわざ極右のFOXテレビに出演し、世界第一位と第二位の経済大国が対立することは「明らかに愚かしいことだ」と明言した。
軍の一部や共和党急進派には、未だに中国が共産党政権であることへの不信感があって、米中新冷戦を目論む傾向さえあるのも確かだが、それが米国社会や政界のメインストリームだとはおよそ言い難い。軍需産業の政治的発言力は21世紀に入って低下して来ているし(代わって発言力を増しているのが金融産業、例えば保険会社)、その軍需産業界自体にしても、民生部門では中国を重要なマーケットと、比較的安価な労働力で工場を運営出来る生産基地とみなし関係悪化は望んでいない。米国と中国のあいだで知的所有権や人権問題をめぐる対立があるのは、アメリカ企業(軍需産業も含む)の中国進出を容易にするためであって、冷戦構造の再現などアメリカはまったく望んでいない。
アメリカは対イスラム国の戦争の犠牲を日本に肩代わりさせたいだけ
それでもオバマ政権ですら安倍のいう日本の集団的自衛権の行使に一定の期待感を持つのは、対中国なぞまったく関係ない分野でのことだ。中近東紛争への介入に自衛隊が参加してくれることになるのなら、オバマすらもちろん反対はしないし、オバマの次の政権が民主党のままでも、共和党に代わっても、その要請が日本に来るのはかなり可能性が高い。なにしろイラク戦争のトラウマから国民の支持が集まらない対ISIL(イラクとレヴァントにおけるイスラム国、の頭文字表記)掃討戦は、軍の士気もまったく上がらないままたいした成果もあげられず、本来なら必要な地上軍の投入を兵士の生命安全を優先してあきらめ、実効性のほとんどない空爆しか出来ていないのが現状だ。そうして泥沼化するシリア情勢で膨大な難民が生まれていることも、危急の国際問題である。
早晩、アメリカやヨーロッパ各国がシリアに本格的な軍事介入を始めることは十分にあり得るが、ここで戦死者が出るリスクを少しでも日本が肩代わりしてくれるなら、アメリカとしてはなりふり構わず協力を求めたい気はもちろんある。
だがその日本の国会では、野党に問いつめられた安倍首相が「イラク戦争のようなことに参加することは絶対にない」と明言してしまっている。
元々、日本の国会で審議も始っていないのに法制度について約束してしまった安倍の演説を、アメリカ側でも最初から話半分でしか聞いていないのは、アメリカの政治家が日本とは違って一応は民主主義国家の政治家である以上、当然のことである。あんな約束、そもそも非常識過ぎて話半分にしか聞かれていない。
つまり安保法制が今国会で先送りになったところで、アメリカがそんなに怒ることなぞ別になく、しかも安倍自身の国会答弁を信用すれば(イラク戦争のようなものには参加しない)、アメリカがここで期待していたことはまったく満たされないのだ。議会に諮ってもいない法律を約束することはもちろん、議会での答弁を安直に覆すことも、安倍首相にとってはどうでもいいことなのかも知れないが、アメリカの政治家の感覚では考えられない大スキャンダルなのだ。
早晩、アメリカやヨーロッパ各国がシリアに本格的な軍事介入を始めることは十分にあり得るが、ここで戦死者が出るリスクを少しでも日本が肩代わりしてくれるなら、アメリカとしてはなりふり構わず協力を求めたい気はもちろんある。
だがその日本の国会では、野党に問いつめられた安倍首相が「イラク戦争のようなことに参加することは絶対にない」と明言してしまっている。
元々、日本の国会で審議も始っていないのに法制度について約束してしまった安倍の演説を、アメリカ側でも最初から話半分でしか聞いていないのは、アメリカの政治家が日本とは違って一応は民主主義国家の政治家である以上、当然のことである。あんな約束、そもそも非常識過ぎて話半分にしか聞かれていない。
つまり安保法制が今国会で先送りになったところで、アメリカがそんなに怒ることなぞ別になく、しかも安倍自身の国会答弁を信用すれば(イラク戦争のようなものには参加しない)、アメリカがここで期待していたことはまったく満たされないのだ。議会に諮ってもいない法律を約束することはもちろん、議会での答弁を安直に覆すことも、安倍首相にとってはどうでもいいことなのかも知れないが、アメリカの政治家の感覚では考えられない大スキャンダルなのだ。
アメリカの要請という欺瞞とリチャード・アーミテージ
参議院の審議では、生活の党に合流した山本太郎議員がアーミテージ=ナイ・レポートを持ち出して物議を醸した。
いったい誰に再教育されたのか、参院での審議が始まった頃には、まだまだ自説をまくしたてるだけで未熟さも目立ったが、それでも山本氏が言っていたことそれ自体は、これまでのただの売りだった反原発関連では無知や勉強不足が目立ったのとは別人のように、中身のしっかりしたものだし、質疑を重ねるうちに首相を問いつめるテクニックも身につけて来た。
誰の入れ知恵、というか山本議員を再教育したのが誰なのか(つまり本当は誰の考え、誰の論法なのか)見当は簡単につくが、その指摘通り特定秘密保護法も、武器輸出の解禁も、TPPへの参加も、集団的自衛権を行使できる法改正も、すべてこのレポートの提言が安倍内閣によって忠実に行われて来たのは事実であり、また永田町や霞ヶ関では暗黙の了解として受け入れられつつ誰も言わなかったことでもある。
遡れば日米常設幹部連絡会議があって、消費税導入も郵政民営化もすべてそこでアメリカからの年次要望書で提言されたことを日本政府が実行して来た過去もあり、その延長上としてある意味「自然に」受け入れられつつ、国会などでは誰もなにも言わないのも慣例化して来たそのことを、山本氏は(というか要するに小沢一郎が)タブーを破って突いたことになる。
だがその一件を持って安倍政権がアメリカの言いなりだから安保法制を強行しているとみなすのも、実情はそう単純でもない。かつての日米常設幹部連絡会議は日本政府とアメリカ政府の要職にある人間が参加する、公式の政府間交渉だったが、アーミテージ=ナイ・レポートはまったくそうした性質のものではない。
ブッシュ政権であればリチャード・アーミテージは国務副長官だったが、オバマ政権ではその影響下にあった国務省東アジア課のケヴィン・メアらも今や排除され、アーミテージはただの民間一シンクタンクに過ぎない。この政権が彼ら「ジャパン・ハンドラー」を最初から排除する気であったことは、その大使人事を見ても明らかだろう。最初はオバマの友人で政界と特段のつながりがなかったルース氏、そして今のケネディ大使、いずれもホワイトハウスと駐日大使館が大使と大統領の密接な個人的関係に基づく連携(つまり既存の日米安保既得権益集団の排除)が明白だ。そんなオバマ政権下のワシントンで、今やリチャード・アーミテージのほとんど唯一の存在価値は、日本政府とのパイプ、つまりは日本政府がなにを考えているのかの情報ソースとしてだけだ。
ここに国民への威圧感という感情論を利用したカラクリの仕掛けがあることにそろそろ気づいた方がいい。
集団的自衛権だけではない。
普天間基地の辺野古移設問題も、我々はアメリカの要請で断れないと思い込まされているが、ブッシュ政権ならともかく今のオバマの時代には、その実態は「アメリカ」ではなくリチャード・アーミテージという一私人の圧力でしかない。なのになぜ日本政府は、もはやアメリカ政府の小役人ですらない男の言いなりになるのか? なぜ我々日本国民は、こうも「アメリカの要請」「アメリカの圧力」という魔法の言葉に、コロッと騙されてしまうのだろう?
翁長沖縄県知事が訪米しても、会う要人はことごとく、辺野古新基地のことは日本政府が決めたことだから日本政府と話し合って欲しい、と言われたという。
客観的に考えれば、翁長氏はもちろん、米側の要人も、まったく嘘は言っていない。
ことオバマは元々、鳩山由紀夫と日米安保条約の見直しと対等な日米関係で合意していた間柄であり、鳩山とのあいだで普天間基地の県外移設も了承していた(だから鳩山はオバマに「県外移設はうまく行く、トラスト・ミー」と言ったのだ)し、広島を訪問して原爆投下を謝罪することは、むしろオバマの方が積極的だった。ルース、ケネディ両駐日大使も、対等な日米関係のために様々な配慮を日本に対して行って来ているし、沖縄で米兵による事件が起これば大使館の命令で米兵に外出禁止令まで出したのがルース氏だ。
今のアメリカ政界の認識では、沖縄の基地は日本政府に提供してもらっているものであり、日本政府が決めて提供すると言っている辺野古新基地には、海兵隊の基地として様々な制約があって決して満足出来るものでもなく、また沖縄の地元感情を逆撫でしたくなくとも、反対が出来ないのである。
タネを明かせば簡単なことだ。リチャード・アーミテージが今日本に「要望」ないし「押し付けて」いることは、彼にとって今や最大の後ろ盾である日本政府が期待している内容でしかない。集団的自衛権でも、TPPでも、原発再稼働でも、辺野古新基地でも、国民を説得するのが難しいから、アーミテージに頼んで「アメリカが言っている、断れない」ということにしているだけなのだ。
なぜ、リチャード・アーミテージの最大の後ろ盾である安倍晋三と日本政府(霞ヶ関)は、原発を再稼働し、辺野古新基地を沖縄に押しつけ、今は安保法制を強行するのか?
原発には利権というか電気産業界の都合もあるにせよ、辺野古基地も集団的自衛権も含め、結局は安倍がやりたいから、というのが強行する最大の理由に思える。火中の栗を拾う自分に妙なヒロイズムを感じているのか、90年代以降自民党の悲願であった集団的自衛権の行使容認、出来ることなら祖父岸信介の悲願であった改憲まで、それをやったのが自分だと思いたい感情論。辺野古に至っては、要するに国が決めたことをたかが沖縄県の反対で覆されるのは沽券に関わる、ということこそが実のところ最大の動機、つまりはプライドに固執しただけの、まったくの感情論である。
集団的自衛権の行使にしても、むしろ安倍から議会演説で約束しただけではない。
参院での審議で共産党が自衛隊統幕長と米軍の参謀総長との会談議事録をすっぱ抜いたが、これは「法案の審議が始る以前から米側に約束していた」ことだけが問題なのではない。どう読んでも日本側こそが積極的に、アメリカ軍の任務にぜひ協力させて欲しい、リスクを分担して欲しい、国民の反発などは一部 “左翼の運動家” だけだから心配は要らない、とまで売り込んでいるようにしか読めないのだ。つまりは集団的自衛権の行使でアメリカの戦争に巻き込まれるどころか、日本が積極的に巻き込まれたいのだ。
なぜか?自衛隊上層部OBからはその分かり易い動機すら明かされている。自衛隊が米軍のようなことが出来ないのが、彼らにとっては不満だった。安保法制で出来るようになるから賛成、というのだ。もちろんこれは上層部で命令する側の期待であり、実際に前線に立たされる一般自衛隊員の意見ではない。
「日本をめぐる安全保障環境の変化」とはなにか?
まるで壊れたロボットのように繰り返されるのが「日本をめぐる安全保障環境の変化」だが、その実態はといえば安倍は衆院での審議では「ホルムズ海峡の機雷掃海」を繰り返し、あたかも石油の輸入路の遮断が「存立危機事態」に当たるかのような、国際法上では集団的自衛権の行使というより経済利権目当ての侵略ととられかねない暴論を繰り返したが、これは中近東情勢の実際を見れば最初からまずあり得ない設定だった上に、それこそ「安全保障環境の激変」が起こる—イランと米国の核交渉が突然急展開を見せ、合意に至り、駐日イラン大使が安倍政権の論に明確な不快感さえ表明するに至った。「石油輸出国である我が国が、そんなことやるはずがない」。
イランがイスラム革命後まもなく米国と断交したあとも、日本は西側先進国では数少ない友好国であり続け、親日感情も強い国なのだが、安倍は自身の幼稚な感情論と無知で、この大切な外交関係すら傷つけてしまった。イランと敵対関係にある国でさえ、中近東では原爆から立ち直って平和国家になった日本への信頼感は強かっただけに、例えばアルジャジーラはこの安保法制をめぐる論議に注目して報道を続けて来た。
平和国家であった日本が70年の平和主義を棄てて、しかもアメリカの同盟国として海外で戦争をする国になる、それだけでも致命的なイメージダウンになりかねない上に、集団的自衛権が行使できるようになった日本に、アメリカが近い将来対イスラム国掃討戦への参加を要請して来る可能性が高いのは先述の通りだ。果たしてこれが日本の国益にかなうのだろうか?それどころか既にイスラム国は日本をテロのターゲットに加え、全世界の支援者に攻撃を呼びかけている。つまり安全保障上のリスクも、既に高まってしまった。
ホルムズ海峡の例が使えなくなった安倍は、それまでの禁を破って中国を名指しで、おおっぴらに安保法制が対象とする仮想敵国として語るようになり、東シナ海の中国側経済水域(日本側も認める中国側である日中中間線の西側)でのガス田開発を、国際法上なんの問題もないのにあたかも侵略行為のようにあげつらい、国民の感情論に訴えようとした。
そんな中国では、9月2日の日本の降伏文書調印70周年の翌3日に、抗日戦争勝利の記念式典と軍事パレードが天安門で行われ、安保法制の審議ではさすがに安倍に批判的になったメディアですら、この件では安倍が安保法制を通すために喧伝したい「中国の脅威」をさかんに報じた。
しかも主要国の首脳で列席したのは韓国とロシアだけ、安倍たちの分類では「反日国」だけで、中国は孤立を深めているかのような印象なのは、外国に褒められることに不思議にこだわる安倍政権の奇妙なコンプレックスを慰めてもくれよう。
だがこれも感情論におもねた歪曲虚報でしかない。実際には、この式典に公式に列席しなかった主要国はなんと日本だけで、私人である村山富市元首相の出席で辛うじて糊口を塞いだに過ぎない。首脳の列席はなかった国でも、揃って全権大使などを代表として列席させている。だいたい、いかに中国が大国になったからと言って、そうそう首脳がこのようなイベントに列席するものでもなく(他の政治日程が優先される)、ただし侵略の加害国だった日本は歴史的経緯から出席すべきだったのは、言うまでもない。
実際には、安倍がこれまた幼稚な感情論を発揮したというか、式典への列席は拒否して翌日の4日に訪中するから首脳会談をさせろ、という無茶苦茶な要求で中国政府と交渉していた。他の国々の手前そんなもの受けられるはずもない(こと訪問した他国首脳にあまりに失礼になる)が、中国政府は日本が侵略戦争を反省しない非常識な国だという印象が国際的に広まるのを避ける配慮で、この水面下の訪中交渉をなかったことにしてくれている。
この習近平の軍事パレードも、日本の国内では安保法制のために「中国の脅威」を喧伝する好材料になった。中国が自国の大国ぶりを見せつけることには、経済規模ですでに抜かれている上に過去の侵略の歴史を思い出さされる日本人全般がおもしろくない感情をどうしても持つわけで、そこへのうまいアピールにもなる。だがそうした感情論に走るあまり、我々はこのパレードの政治的な意味付けをまったく勘違いしている。
「中国の脅威」という感情論のフィクション
まずもちろん、これは第一義的に中国国内向けのイベント、つまりは国民を楽しませるお祭りだ。その対外的な面も含んだ政治的なメッセージ性については、なにせ「抗日戦争」勝利なので日本人は神経質になってしまいがちだが、習近平が発したメッセージは実際にはかなり異なっていた。「反日色が意外となかった」と菅官房長官は会見で述べていたが、なぜこうも自己中心的な感情論しか、この人々はもてないのだろう?
このページェントは「反ファシズム抗日戦争」の起点を1931年の満州事変から始った日本の本格的大陸侵略でも、1937年に始った日中戦争(支那事変)でもなく、なんと1895年の日清戦争に置き、礼砲の数も戦後70年ではなく日清戦争から数えて121発打っている。しかし「だから反日」なのではない。続けて習主席は演説で、1900年の義和団事件を強調して言及したのだ。こうなると中国を侵略したのは日本だけではない。義和団事件で清朝の交戦国になった英、露、日、仏、米、独、伊、そしてオーストリア=ハンガリー二重君主国の列強八カ国まとめて侵略者だという認識であり、実際にこれを契機に中国はどんどん欧米列強の利権によって分断され、中華民族のもっとも暗い時代が始まった歴史がある。つまりは日本と欧米列強の植民地侵略に中国人民が勝利したのだ、というのがこのページェントのメッセージであり、最新の軍事力を誇ったパレードも当然その文脈で読まれるべきものになる。現代の国際政治において、その意味付けはあまりに明晰だ。
19世紀以降、欧米白人国家が植民地主義で世界を支配して来た。まずその時代はもう終わるべきだと言うこと。その植民地主義から解放される新たな世界秩序は、既存の欧米中心の軍事ヘゲモニー、とりわけ米国一強支配から脱するべきであり、中国はその新たな国際秩序の責任の一端を担う準備があるという、そのアピールとしての軍事パレードだったのだ。
最新鋭の弾道ミサイルまでお披露目したパレードは明確に米国を意識しているし(このミサイルでは、米本土直接攻撃が可能になる)、これまでの米国の軍事的な一極支配に対抗するものではあるが、米中が今後対立することを必ずしも意味するわけではない(というか現状の米中関係では、あり得ないのは自明)。最大限に中国側の攻撃性を読み取っても「米国だけに好き勝手にさせない」までであり、決して米中が互いを仮想的国視する軍事競争が始まるわけではない。むろん集団的自衛権の行使で日本が米国と一体化して中国と対決するなぞ、まったくの絵空事で将来的にまずあり得ない。
またこの最新の軍備が日本にとって直接の脅威になるわけもなく、そんな脅しも北京政府はまったく意図していないし、このパレードが日本国内では「中国の軍拡で日本の安全保障環境が厳しくなった」という文脈で紹介されること自体が、恐らくは中南海にとってはかなりの想定外だろう。
それにやっと米国も狙える弾道ミサイルも実用化出来たのでそれをお披露目したわけだが、対日本ならその飛距離のミサイルは1960年代から中国は保有している。日本本土がその照準に入っているのはもうそろそろ50年、「日本をめぐる安全保障環境」は、中国に関しては特になにも変わっていない。いや、ますます強まる経済的な結びつきこそが抑止力になって、日中間で軍事衝突が起こる可能性の方こそ、むしろ劇的に低下しているのだ。
このページェントは「反ファシズム抗日戦争」の起点を1931年の満州事変から始った日本の本格的大陸侵略でも、1937年に始った日中戦争(支那事変)でもなく、なんと1895年の日清戦争に置き、礼砲の数も戦後70年ではなく日清戦争から数えて121発打っている。しかし「だから反日」なのではない。続けて習主席は演説で、1900年の義和団事件を強調して言及したのだ。こうなると中国を侵略したのは日本だけではない。義和団事件で清朝の交戦国になった英、露、日、仏、米、独、伊、そしてオーストリア=ハンガリー二重君主国の列強八カ国まとめて侵略者だという認識であり、実際にこれを契機に中国はどんどん欧米列強の利権によって分断され、中華民族のもっとも暗い時代が始まった歴史がある。つまりは日本と欧米列強の植民地侵略に中国人民が勝利したのだ、というのがこのページェントのメッセージであり、最新の軍事力を誇ったパレードも当然その文脈で読まれるべきものになる。現代の国際政治において、その意味付けはあまりに明晰だ。
19世紀以降、欧米白人国家が植民地主義で世界を支配して来た。まずその時代はもう終わるべきだと言うこと。その植民地主義から解放される新たな世界秩序は、既存の欧米中心の軍事ヘゲモニー、とりわけ米国一強支配から脱するべきであり、中国はその新たな国際秩序の責任の一端を担う準備があるという、そのアピールとしての軍事パレードだったのだ。
最新鋭の弾道ミサイルまでお披露目したパレードは明確に米国を意識しているし(このミサイルでは、米本土直接攻撃が可能になる)、これまでの米国の軍事的な一極支配に対抗するものではあるが、米中が今後対立することを必ずしも意味するわけではない(というか現状の米中関係では、あり得ないのは自明)。最大限に中国側の攻撃性を読み取っても「米国だけに好き勝手にさせない」までであり、決して米中が互いを仮想的国視する軍事競争が始まるわけではない。むろん集団的自衛権の行使で日本が米国と一体化して中国と対決するなぞ、まったくの絵空事で将来的にまずあり得ない。
またこの最新の軍備が日本にとって直接の脅威になるわけもなく、そんな脅しも北京政府はまったく意図していないし、このパレードが日本国内では「中国の軍拡で日本の安全保障環境が厳しくなった」という文脈で紹介されること自体が、恐らくは中南海にとってはかなりの想定外だろう。
いや、現代の日本がそんなにも中国を恐れるようになっていること事態、北京政府の立場からすれば思いも寄らないことなのだ。なんと言っても日本は中国から見て、経済の全体規模こそ日本を抜いたとはいえ人口差は10倍、つまりはまだまだ憧れの豊かな大国で、それは経済的な余裕が出来た中間層が観光や留学で日本に殺到していることを見ても分かる。
しかも靖国参拝にしても尖閣諸島問題にしても、日本はかくも自信に満ち溢れて中国を挑発して来ているではないか。歴史認識に至っては、平然と史実も日中友好条約の際に合意した史実の解釈もねじ曲げて、理不尽な言いがかりも平気でやっている。そんな日本が中国に脅威を感じているなどとは、中国側からみればあまりにもチグハグな話で、およそ想像が及ばないだろう。
それにやっと米国も狙える弾道ミサイルも実用化出来たのでそれをお披露目したわけだが、対日本ならその飛距離のミサイルは1960年代から中国は保有している。日本本土がその照準に入っているのはもうそろそろ50年、「日本をめぐる安全保障環境」は、中国に関しては特になにも変わっていない。いや、ますます強まる経済的な結びつきこそが抑止力になって、日中間で軍事衝突が起こる可能性の方こそ、むしろ劇的に低下しているのだ。
時代錯誤な世界観にしがみつく感情論
過去10年、20年で経済的成長が著しかったのは中国だけではない。
上海相場の暴落騒動は、明らかに中国経済の変質、急成長が終わりこれから安定成長型の社会への転換という大挑戦に中国社会が向き合って行くこと、それが大きな困難を伴うであろうことを如実に示しはしたが、その前に日本が牽引車となった東南アジアの急成長だってまだまだ続いている。一方でアメリカもイラク戦争を契機に世界の一極支配の軍事ヘゲモニーを維持することは困難になり、ヨーロッパは今やドイツだけが一人勝ち状態の、EUの曲がり角にぶち当たっている。世界は多様化かつ多極化していると言えるだろうし、少なくとも安倍晋三が慣れ親しんで来たであろう、欧米がいちばん “えらい” かのように見える世界の様相は、すでに現実に見合ってはいない。
その変貌する世界のなかで日本の国際的な立場はどうあるべきか?この現代の日本が本当には直面しているチャレンジを、どうも認識することすら拒絶したいのが安倍政権やその周辺であるらしい。日本をめぐる安全保障環境は確かに激変したが、それはむしろ日本が安全かつ自由になったことを意味する。なのにその現実を受け入れられず、アメリカに従い、ヨーロッパに憧れてさえいればいい、その仲間入りを目指すことが日本の目標であった過去へのノスタルジアの身内に引きこもっている感情論こそが、安保法制の制定にかくも固執する乱暴さの背景にあるのかも知れない。
その白人至上主義的な幻想の世界観の中で、中国や韓国は日本より下位でなければならない。日本こそがアジアで唯一の欧米の仲間入り出来る先進国でなければならないという願望なぞ、もちろんもはや現実の世界で満たされるはずもないのだが、その現実の直視をこそ、安倍たちは恐怖しているのかも知れない。
多極化する世界のこれからの秩序がどうなるのか、まだ誰にも明確な未来像が見えているわけもないが、少なくとも日本が過去の冷戦時代に安心の幻影をなぜか見出し、アメリカの戦争に参加することで日本の国際的な立場が守られるわけではないのは確かだ。むしろ日米同盟は軍事的にも歴史的にもその役割を終えつつあり(というか、当初の役割は冷戦の終結で終わっている)、かといって日本が自主防衛で軍事力を強化する必要もまずない。
今さら「万が一の備えがないと不安」などという感情論に拘泥しているような時代ではなく(近代以降の安全保障や戦争で、そのような想定はほとんど意味を持たない)、とくに日本は、元から資源といえばなによりも人的資源だ。侵略したりするメリットはどの国にもないのだし、その認識は情報の国際化でますます世界的に強固なものとなっている。
日本がそういう希有な国であることをどこの国よりもよく知っているのは、言うまでもなく隣国である中国、韓国、そして台湾だ。
そしてそれらの国々から見れば、少なくとも日中関係が同じ意味で日本にとって重要なはずだと認識していておかしくない。その日中関係を悪化させようとする安倍政権の一連の行動は、理解不能で非常に不気味にも見えるはずだし、習近平があのパレードで提示した、新しい、アジアから見た世界史観にもっとも賛同してくれる国が日本であるはずが、これからの世界は白人至上主義から解放され、アジアが世界の中心のひとつであるべきだというメッセージに気づきもしないことにも、幻滅とともに「なにを考えているのか分からない」と頭を抱えているかも知れない。その新しい世界のもっとも鍵となるアジアの大国のひとつが、日本であるはずなのに。
安保法制の根幹は、無理があからさまだからこそ強行すること
それにしても、もはや立法事実すらなくなってしまった安保法制を、安倍政権はなぜこうも拙速に強行するのだろうか?
与党以外にも賛成の党が出たから強行採決ではない、などと独自定義の独りよがりの感情論に耽溺されたところで、政府の答弁が二転三転するばかりで指摘された法案の瑕疵が放置されたままでは、およそ議論が尽くされたとは言えない。しかも結局は、しめくくりの総括質疑を強引にすっ飛ばしての採決では、「強行ではない」と言い張るのには無理があり過ぎるし、こうなると「強行採決」と批判されることへの感情論の反発しかないように思える。
集団的自衛権の行使を可能にすることは、過去20年以上の自民党と、自衛隊上層部の宿願だったはずだ。他国の軍隊が出来ることが自衛隊には出来ないことのコンプレックスに囚われて来たこと自体が、まあ感情論と言ってしまえばそれまでだが、こうも長年思い込んで来たことなのに、理論武装がかくも稚拙なのはどうしたことなのだ?
違憲性が指摘されるのは分かり切ったことであり、前もって合憲とみなせる論理くらいは準備してないとおかしいはずが、出て来たのは「砂川判決」だけだ。
法文それ自体にしても、なぜこうも瑕疵が多いのか?11本もの法案を一括提出しているとはいえ、個々の法案のあいだのあからさまな矛盾点も放置したままとは、違憲性の問題以前にあまりにも粗雑だし、現場の自衛隊員にとってはこれだけでも行動が不要に制約され、危険が増大する。
普通に考えれば、それだけ自民党の行政担当能力が落ちている…と言うより、実際に政府提出の法案を作成するのは官僚なわけで、その官僚事務方がよほど劣化しているか、それともわざとやっているかだろう。防衛官僚、防衛省の背広組がわざと出鱈目な法案にしかしなかったことも、考えられなくはない。同省の内部文書を共産党が参院特別委員会で二度暴露したが、このリーク元も防衛官僚以外には考えられないわけで、つまり安倍が強行しようとしていることが危険過ぎると考えてサボタージュに走った者がいることも、十分にあり得るかも知れない。
だが一方で、政府与党、とくに安倍の周囲には、別の動機が考えられる。自民党タカ派の悲願だからこそ、あえて出鱈目なものを、無理難題で押し通すことこそが、この法案の狙いのひとつなのではないか?
与党以外にも賛成の党が出たから強行採決ではない、などと独自定義の独りよがりの感情論に耽溺されたところで、政府の答弁が二転三転するばかりで指摘された法案の瑕疵が放置されたままでは、およそ議論が尽くされたとは言えない。しかも結局は、しめくくりの総括質疑を強引にすっ飛ばしての採決では、「強行ではない」と言い張るのには無理があり過ぎるし、こうなると「強行採決」と批判されることへの感情論の反発しかないように思える。
集団的自衛権の行使を可能にすることは、過去20年以上の自民党と、自衛隊上層部の宿願だったはずだ。他国の軍隊が出来ることが自衛隊には出来ないことのコンプレックスに囚われて来たこと自体が、まあ感情論と言ってしまえばそれまでだが、こうも長年思い込んで来たことなのに、理論武装がかくも稚拙なのはどうしたことなのだ?
違憲性が指摘されるのは分かり切ったことであり、前もって合憲とみなせる論理くらいは準備してないとおかしいはずが、出て来たのは「砂川判決」だけだ。
わざわざ「自衛の措置」と明記し「自衛権の行使」といった文言は用いていない、つまり集団的どころか個別的でさえ自衛権行使の合憲性には言及を避けた判決文で、対象となった事案は米軍の日本駐留の是非では、その判決文の恣意的曲解で違憲性の論理の穴を埋められるわけもあるまいに、案の定そこを指摘されても、ただ「論破されたくない」というだけの感情論で壊れたレコードのように同じことを繰り返すだけ…いったいどうなっているのだ?
法文それ自体にしても、なぜこうも瑕疵が多いのか?11本もの法案を一括提出しているとはいえ、個々の法案のあいだのあからさまな矛盾点も放置したままとは、違憲性の問題以前にあまりにも粗雑だし、現場の自衛隊員にとってはこれだけでも行動が不要に制約され、危険が増大する。
普通に考えれば、それだけ自民党の行政担当能力が落ちている…と言うより、実際に政府提出の法案を作成するのは官僚なわけで、その官僚事務方がよほど劣化しているか、それともわざとやっているかだろう。防衛官僚、防衛省の背広組がわざと出鱈目な法案にしかしなかったことも、考えられなくはない。同省の内部文書を共産党が参院特別委員会で二度暴露したが、このリーク元も防衛官僚以外には考えられないわけで、つまり安倍が強行しようとしていることが危険過ぎると考えてサボタージュに走った者がいることも、十分にあり得るかも知れない。
だが一方で、政府与党、とくに安倍の周囲には、別の動機が考えられる。自民党タカ派の悲願だからこそ、あえて出鱈目なものを、無理難題で押し通すことこそが、この法案の狙いのひとつなのではないか?
民主主義を破壊するプチ恐怖政治こそが、安保法制強行の狙い
どんなに反対があろうが、「国民の命と幸せな暮らしを守るためには絶対に必要な法律という信念」とやらを決して曲げないことには、安倍たちのナルシシズムや、とにかく批判されることに腹が立つので意地を張っている感情論も無論あるだろう。だが5連休前になんとしても法案を通す理由が、連休中には確実にデモの参加人数が増えて「不測の事態が」とまで言ってしまうのであれば、この政権が国民からの反対意見などまったく聞く気がないことを宣言しているようにも取れる。
だとすれば、不必要なまでに暴力的な手段で委員会採決を強行したことも説明がつく。生中継のテレビカメラの前でその醜態を晒したことすら、わざとなのかも知れない。むしろこの政府が自分達の「信念」だか「強固な意思」を押し通すためにはここまでやるのだと、国民に印象づけることにこそ狙いがあるのではないか?
自分達に反対するものは無視するか、身近であれば容赦なく叩き潰す。どんなに正しい意見だろうが、国民のデモだろうが、憲法学者や元最高裁判事、元内閣法制局長官の見解だろうが、聞く耳を持つ気もない。法の論理に基づいた合憲性など最初から関心もなく、ただ自分達が合憲だと言えばこれは合憲なのだ。明らかに批判されるべき行動でも、ネット上の支持者がスクラムを組んで叩いて封じこめる。法としての論理的整合性も、法的安定性も、そんな面倒な知的プロセスに自分達は興味がないのだと、安倍達は恒常的に宣言しているのに近いのではないか。
つまりは確信犯の知性と理性の放棄、反知性主義をこそ安倍たちは確立したいのかも知れない。自分達がやりたいことこそ、自分達の正義であり、それが「美しい国」だか「国民の命と幸せな暮らし」を守ることなのだ。むろん、こんなものは保守でもなんでもなく、極めて反日本的だ。安倍晋三は日本の民主主義を殺そうとしているだけではない。自民党も、日本が日本たる由縁も、抹殺はしないまでも、屈服させたいのだ。
だとすれば、不必要なまでに暴力的な手段で委員会採決を強行したことも説明がつく。生中継のテレビカメラの前でその醜態を晒したことすら、わざとなのかも知れない。むしろこの政府が自分達の「信念」だか「強固な意思」を押し通すためにはここまでやるのだと、国民に印象づけることにこそ狙いがあるのではないか?
同じことは、この時期に予定されていた自民党の総裁選で、安倍に対抗して立候補しようとした野田聖子議員の陣営を、容赦ないやり方で、それも執行部ではなく官邸が直接動いて切り崩したことにも現れている。関係者情報としてぼろぼろ漏れて来る内幕によれば、政治資金を断つことまで散らつかせたえげつない直接交渉で推薦人を断念させたのだという、そんな強権手法の内幕をわざわざマスコミに話すのも、よく考えれば不自然な話だが、完全には隠す気がなかった、むしろ国民にもちょっと報せたかったのではないか?
自分達に反対するものは無視するか、身近であれば容赦なく叩き潰す。どんなに正しい意見だろうが、国民のデモだろうが、憲法学者や元最高裁判事、元内閣法制局長官の見解だろうが、聞く耳を持つ気もない。法の論理に基づいた合憲性など最初から関心もなく、ただ自分達が合憲だと言えばこれは合憲なのだ。明らかに批判されるべき行動でも、ネット上の支持者がスクラムを組んで叩いて封じこめる。法としての論理的整合性も、法的安定性も、そんな面倒な知的プロセスに自分達は興味がないのだと、安倍達は恒常的に宣言しているのに近いのではないか。
つまりは確信犯の知性と理性の放棄、反知性主義をこそ安倍たちは確立したいのかも知れない。自分達がやりたいことこそ、自分達の正義であり、それが「美しい国」だか「国民の命と幸せな暮らし」を守ることなのだ。むろん、こんなものは保守でもなんでもなく、極めて反日本的だ。安倍晋三は日本の民主主義を殺そうとしているだけではない。自民党も、日本が日本たる由縁も、抹殺はしないまでも、屈服させたいのだ。