最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

11/16/2013

トウキョウから遠くはなれて


誤解を恐れずに敢えて言ってしまおう。被害の規模から考えれば、この種の原発事故として、福一事故は驚くほど運がいい。

こんなこと言ってしまっては、いつ家に戻れるのか、諦めるべきなのかの目処すら立たないままの避難されている皆さんや、原発の現場で日々過酷な労働条件で闘っている作業員の皆さんに申し訳ない気もするが、たぶんその皆さんがいちばん分かっておいでだろう。

大気圏中に拡散した放射性物質のほとんどは、3月15日の水素爆発で2号炉から放出され、風で北西方向に拡散したものだ。それ以降も放射性物質が大気圏に出てしまうことが完全に封じ込められているわけではないが、それでも実際の放射能汚染被害は、ほとんどがこの2号炉の爆発由来のものだ。

そして太平洋に大量に流れ出し続けるままになっている汚染水も、2号炉のものだ

今回の事故当時、4号炉はたまたま定期点検で空だったものの、大ざっぱな単純計算でも本来ならこの4倍の被害でもおかしくないのだし、2号炉だって津波で冷却系が失われた原子炉としては、もっとひどい事態もあり得た。

さらに地震の影響は現状未確認のままだが、それだってもっと大きな被害をもたらした可能性はもちろんある。

4号炉では運び出しが始まったが、それぞれの原子炉建屋には使用済み燃料の冷却プールがあり、そこで保管冷却中だった核燃料もある。

すべてが2号炉の炉心並のトラブルになっていたら(そしてそうなってもおかしくなかった)、たぶんに大ざっぱな、素人に分かり易い「目安」で言ってしまえば、今の4倍どころか8倍以上の被害規模になっても、不思議ではなかった事故なのである

運がよかった、事故初期に、吉田所長(当時・故人)をはじめ現場の皆さん(その多くは下請けの、双葉郡地元の作業員)が、優秀で冷静で、ふるさとを守るためにも死にものぐるいで頑張ったからこそ、なんとかこれで済んでいるのである。

今後の原発事故でも同じように行くとは限らない。この事故だって今後もこのままなんとか、最低限の被害で抑えられるとは限らない。

その現実だけでも、原子力発電をこのまま続けて行くことに心から賛成できる人はめったにいないと思うのだが、原発を止めるべきではないかという議論はこの2年半、まったく進んでいない。

「反原発」も「脱原発」も、ただのかけ声止まりなままだ。

時々なにか問題が明らかになり報道されると、「東電けしからん」で盛り上がること、それ自体は別に構わないが、東電を責めるだけで事故が終息するわけでもなく、まして電力会社を追いつめただけで脱原発が可能になるなら、誰も苦労はしない。

それどころか僕たちの国が資本主義の社会である以上、現実はまったく逆だ。

長期的な脱原発方針ないし原発ゼロ方針の決定なしに、ただ「再稼動反対」だけを行き当たりばったりに唱えるのでは、営業運転出来ないままの原子炉をいつでも稼動出来る状態に維持する経費だけで、電力会社の経営は圧迫される。早晩、「これ以上は経営上無理」でなし崩しに再稼動になるのは目に見えている。そうなった時に今のままのヒステリックな東電叩き、電力会社憎しだけの「反原発」では、なんの説得力を持ち得ないのだ。

昨年、大飯原発が再稼動された時にしても、「さいかど〜はんた〜い」と連呼するだけでは阻止出来るわけがないのも最初から分かっていたはずだ。電力の需給データの公表、その精査を当時経産大臣だった枝野幸男氏に要求することも考えず、「現時点では反対」という分かり易過ぎる欺瞞に引っかかって支持を表明するような始末では、そもそも本気だとすら思われていない。
需給データも提示しない政府に「電気が足りない」で押し切られたのだから、反対デモとしてずいぶん間の抜けた、無惨な敗北だった。いやむしろ、世論のガス抜きがしたかった、「反原発の主張は現実的でない、反対する者は世間知らずなのだ」という印象を強めたかった官邸側との出来レースだったと言われれば、大いに納得できてしまう。
野田首相(当時)と面会したら、ネット上のハンドルネームを名乗って世間の失笑を買うくらいなんだから、本当に世間知らずのお子ちゃまのデモごっこに過ぎなかったわけだし。


元首相の小泉純一郎氏にはいろいろ前科があって、おいそれと信用できないのは分かる。だが、彼がこの件で言っていることはまったく正しい。

首相が決断しないで誰が決断するのか?

世論調査によれば、すでに8割前後が、少なくとも原発政策がこのままではいけないと思っているはずである。その国民を代表して決断を下すべきは総理大臣だし、ロジカルに考えれば考えるほど、結論は見えているはずだ。


「小泉は首相だった頃は推進派だったはずじゃないか」

その通りである。確かに原子炉の設計寿命の法的規制を35年から40年超に延長したのも、小泉政権の時だ。

で、だから?それがなんの批判や、小泉氏への反論になるの?

福一事故のようなことが起って、それでまったく考えが変わらないと言うのなら、その方がおかしい。

今までの反原発・脱原発の議論のなかでもっとも現実性の高い、プラグマティックで説得力のある正論を言っているのは小泉氏だ。本気で原発を止めたいのなら、止めるべきだと思うなら、これを利用しないテはないはずだ。

「福一事故で考えが変わった」、これも一般市民にとってもっとも正直に共感出来ることのはずではないか。いや逆に、これだけの事故にも関わらずほぼ最低限の被害で済んでいるのは、最後の警鐘とみなすべきだ。今考えを改めないで、どうするのか?

そういうあなた達だって、福一事故の前に「原発は止めるべきだ」と本気で考えていたのだろうか?

関心すら持っていなかった、福島浜通りに東京の電気のための原発がふたつもあったことすら、「原発ムラが隠していた」からではなく、自分たちに関心がなかったからこそ、知らなかったのではないか?
そのこと自体を責めているのではない。ただそれを誤摩化して絶対正義であるかのように気取るのはおかしい。 
過ちに気づいて改められる限りにおいて、間違える権利もあるし、それを乗り越えて自分で選択する自由こそが、我々の基本的人権なのだ。それでいいではないか。

いや実際には、一昨年の事故の発生以来、今までだって、あなた方は本当に原発の問題やこの事故に関心を持って来たのだろうか?

たとえば今年の夏になって突然、汚染水漏れがスキャンダルになったのだって、かなり不思議な話だ。

2号炉の格納容器下部、サプレッション・チェンバーが大きく破損して、そこから燃料を直接冷却して放射性物質を多量に含んだ水が漏れているのは、事故当初から分かっていることだ。

だがこの水漏れも結局は、オリンピック招致の邪魔になりはしないかで話題になっただけ、どこから、なぜ水が漏れているのか、なぜそんなに汚染水が出てしまうのかを確認することもなく、めでたくオリンピックがゲット出来てしまえば、もうその対策ですら一面にもトップ項目にもならない。

まあ最初からこんな調子だった。

この2年半以上、なんにも進んでいないだけなのかも知れない。そしてそれは報道の問題だけでなく、「反原発」運動だって変わらない。それにしたって2年も経っているのに事故の現況を体系的に理解しようとすらしないのは、どういうわけなのか?

この汚染水については、オリンピック招致の過程で安倍氏が「世論の関心も高い」(って、どこが?)として国の積極介入を表明して報道の注目を集め(そこで初めて「世論の関心」が高まったんでしょうに安倍さん)以来、さすがに歪曲や隠蔽の意図ははっきりして来た。

いやなんだかもう、この総理大臣閣下が関わると、報道で歪曲や隠蔽が起るのがお約束になっているみたいだ。

今や報道で完全にうやむやにされているが、最大の問題は、事故当初からずっと2号炉から漏れ続けている推計一日300tという汚染水のはずだ。安倍首相がはっぱをかけて、凍土の壁を原子炉と海の間の土のなかに造り、といったまたずいぶんSFチックな対策も発表された。党の方でコンクリートで地中に堰を造ることが提案されたら、首相のメンツを潰すのか、と官邸が怒り出す一幕もあった。

いや地下に空洞があった場合だとかを考えたって、コンクリの方が確実じゃないのか?

それがいつのまにか、2号炉のサプレッション・チェンバーからの汚染水の話が消えて、話題は今や福一の敷地を埋め尽くす多量の汚染水タンクからの水漏れのことにスリ替わっている。

そのタンクでなぜ水漏れが発生するのか(なぜ水が漏れるようなタンクだったのか)の根本的な理由も考えずに東電を「いい加減だ」と責めて済むのなら、こんな楽チンな話もない。 
直接的には様々な理由があげられるが、端的に言えばすべて、事故の処理が決して国の管理ではなく、法制度上は民間の一営利企業である東京電力の管理責任で行われているが故の限界だ 
本来、大規模原子力災害は、国が電力会社の財産権を制約する形になっても、強制的にでも政府が管理権を掌握すべきものだ。福一事故の場合は、東京電力自らがそれを申し出たのに、拒否したのが当時の菅直人首相だ。 

だいたいそのタンクだって、溶けた燃料を冷やした水の置き場がすぐになくなるのは、事故後数週間で分かり切っていたはずだ。

事故初期に政府高官が「タンカーをチャーター」と言い出して、そんな話を船会社が飲むわけもなく立ち消えになり、静岡にあったメガフロートを買い上げて等々のすったもんだもあった。高濃度汚染水の収納先がないため、事故前の極めて低濃度の水を溜めていたタンクを空にすることになってまたもやマスコミが大騒ぎし、「海洋テロ国家だ」と一部のジャーナリストがわけもわからず叫んだりした時点から、基本的な問題はなにも変わっていない。

この時には、ようやく津波の瓦礫の後片付けが済んだいわき市の四倉の漁港で、TBSの取材班が漁師さんから東電を非難するインタビューを撮ろうとしていたのだが、漁師さんは目を白黒させるばかりだった。
漁師にしてみれば、遥かに高濃度の汚染水の漏洩を少しでも減らせるのなら、汚染水とはいえかなりの低濃度、海洋で拡散すればすぐ問題のない数値に落ち着くものが放出されるのはやむを得ない、という計算はすぐに出来る。海洋汚染は漁業にとって、リアルな現実の問題なのだ
『無人地帯』の撮影で四倉に行った際、この同じ漁師さんに会った。 
開口一番「インタビューはもうたくさんだべ」と言われたが、話はずいぶん聞かせてもらった。「ここはもう年寄りばかり。復興って言ったって5年もかかるなら、四倉の漁はもう続けられないよ」と言うわけで、小名浜漁港に行くよう勧めてくれたのも、その人だった。

2011年4月22日、小名浜港


そして案の定、2011年の末にはすでに、野田首相(当時)の収束・「安定冷却」宣言の陰で、もの凄い数のタンクが敷地内に林立していたのだが、この写真は東電の広報がホームページから取得できるようにしていたし、ニューヨークタイムズに掲載された記憶もあるのに、日本のメディアにはまったく出て来なかったし、「反原発デモ」などで言及する人もいなかった。

正直、こうなると東京電力の社員にもちょっと同情したくすらなる。

むろん東電の態度はいろいろ問題だらけなのだが、自分たちがちゃんと考えもせず、公開になっている重要な情報すら無視して「とにかく東電が悪い、隠蔽しているに違いない」一本槍では、さすがに嫌気も差すだろう。

だいたい東電に問題が多いのは、別のところ、こと今まで東京の電気を作る仕事に貢献して来た地元の人たちに対してだ。
補償問題はいつまでも曖昧なままな上に、いざ浜通りの地元から責められる立場になると、無自覚な東京のエリート風が鼻に付き、木で鼻をくくったような、「田舎」だと馬鹿にした態度になるという。

そして今年の夏、突然に、オリンピックがらみで騒ぎ出すだけでは、さすがに脱力する。

政府がやっと国費注入を決断したのは評価したい…と思ったら、「カネは出すが責任はとらない」が露骨なのだから、いやになってしまう。

資金面以上に、法や制度の壁、行政組織の課す制約からしても、処理方針自体に政府の決断がなければなかなか進まない、営利企業の枠内でやるのでは、現場の作業員の給料すらリストラ対象になるのだって、資本主義では理の当然なのに。

汚染水問題は、亡くなった所長の吉田さんが最初から「水との戦いになる」と言っていて、僕らだって水が象徴的な意味を持つからこそ、『無人地帯』でも最初から水のショットはなるべく撮り溜めて、音響設計でも水流の音にこだわったくらいなのだが、なぜこんなに汚染水が出ているのかを、大手のメディアでもネット論客でも、ぜんぜん説明してくれない。

実はよく分かっていないんじゃないか、とすら思えて来る。

なにが問題なのか分かっていたら、2号炉と海の間を凍土の壁でせき止めて、とかの政府案には「それは危ないのでは」と疑問が出ておかしくないはずだ。

今の課題は、汚染水が漏れる量を減らすことではなく、汚染水が生成してしまう量を減らすことのはずだ

なんとか溶けた燃料の冷却に使う水を濾過し放射性物質をある程度取り除き、同じ水を繰り返し使うサイクルを確立すること。それが出来ない限り、いくらタンクを増設したってきりがない、いやもう限界だ。

ところが2011年当時、メディアとくに一部のジャーナリストがわけもわからず「海外の叡智を」と言い出して菅首相(当時)がフランスのサルコジ大統領(当時)に買わされたAREVA社製の浄水装置がすぐに故障してまったく使えなかったことも、東電も政府も発表しているのにほとんど記事にならなかったし、今の国産の浄水装置ALPSが故障したことも、修理が終ったことも、ごく小さな記事にしかならない。

いやだって、事故の解決の本丸はここですよ?ALPSが稼動し、そこにこそ十全に予算を、国費も含めて投入し、増設出来れば、汚染水問題解決の目処は立つ。それまでは、水との戦いは続く

2号炉の場合はその上で、サプレッション・チェンバーの破損状況を把握して修理、漏れている穴を塞がなければ、汚染水の大量海洋漏出は止められない。

そのためにも現状汚染水があふれ、その一部が海に大量に流れ出ている、この現状をまずなんとかしなければならない。その目処も立たずに凍土の壁とやらで安倍さんの大好きな「ブロック」をやってしまえば、今まで地下水脈を経て海に流れ出ていた汚染水が逆流し、破損部分修理の目処がますますつかなくなる。

こんな順番は、1足す1は2レベルの、簡単な理屈のはずなのだが、その1足す1は2の計算みたいなことをメディアも、ジャーナリストも、政治家も、誰もやっていないようにしか見えない。
こんな報道やネット上論客ばかりでは、一般市民がなにがなんだか分からなくなるのも無理はない。



「日本人なんてそんなに暴れたり、暴動なんて起こさないと思うんだよな。知識もあるし、しっかりしてると思うよな。(だから)はっきりしてもらえば」
––映画『無人地帯』より、飯館村・長泥の鴫原区長


今度の週末から台湾の台北で、核廃絶の映画祭があり、そのオープニング作品で『無人地帯』が上映される。


台湾も原発開発を続けている国だし、舞台あいさつや質疑応答、取材なども受けなければいけないので、お国の原発自事情を簡単にでいいから教えてもらおうと、送ってもらった資料をみて驚いた。4つあるうちの3つの原発が、首都・台北から直近の海岸地帯にある。いずれの原発も、30Km圏内の人口が700万を超える

これでは事故が起ったら大変な、収集不能の、国が滅びるような事態になるのだが、逆に敢えてぶっちゃけて言ってしまえば、今の日本と較べれば、台湾は正直なだけいいような気もするのである。

受益者がちゃんとリスクを負っているじゃないか

「東京に原発を」という、その昔、反原発運動のあいだで冗談半分で言っていた話は、日本の場合は地質学上無理なのだが(関東平野全体が比較的新しい堆積土壌だし、東京の海浜部はほとんどが近世以降の埋め立て、地盤が弱過ぎる)、いかに頑丈な岩盤が必須とはいえ、250Km先の福島浜通り、新潟の柏崎、果ては計画中のものなら下北半島まで(あそこも2つのうち1つは、東北電力でなく東京電力)、最大の消費地東京を賄う東京電力の原子力発電所は、いずれもその管内の外どころか、遥か彼方の東京から遠くはなれて立地している。

それをいいことに、東京オリンピックの誘致に当たっては元皇族の竹田宮のJOC会長が「東京は250Km離れているから安全」と繰り返すとか、あまりに無責任にも程がある。

元とはいえ皇族がこれではまったく困ったものなのだが(民草のなかで最も大変な思いをしている者たちを慮るのが、「天皇」の文化的な役割だ)、一般市民だって他人のことを言えたものではない。

福一事故以来、こと僕たちの映画の業界では、「フクシマから遠くはなれて」だの「フタバから遠くはなれて」だの、60年代のフランスの映画『ヴェトナムから遠くはなれて』にひっかけてずいぶん軽薄なことを、東京では言って来た。

冗談じゃない。

そんなことを言うのなら、「トウキョウから遠くはなれて」こそが正しい。

ましてフランスの映画作家たちが「ヴェトナムから遠くはなれて」と言っていたのは、旧植民地とはいえ確かに遥か彼方な他所の国で、ヴェトナムの人々がその映画を見ることもたぶんなかったのに対し、福島と東京は…

「ずっと送電線でつながってたんだけどねえ」とイヤミのひとつも、本来なら言いたくなる。

それに常磐線の特急や、高速の常磐道に乗れば2時間強しかかからない。福一事故で国道6号線や常磐線が遮断されてしまい、浜通りの双葉郡以北は20Km圏をぐるりと遠廻りすることになり、東京はずいぶん遠くなってしまったが、今だっていわき市の仮設だとかからは、東京はなにか用事があればちょくちょく出て来れる場所だ。 
ここの出身者で東京で勉強する人、住んで働く人たちだって多い。
つまり、福島から見れば「遠くはなれて」なんて実はいないはずなのに、東京ではなにも考えずに「遠くはなれて」なんて言っている。これでは決して距離ではなく精神の問題で、「心がなんと遠くはなれてしまったのだろう」「そんなところにせっせと電気を送っていたのか」と、がっくりも来てしまうだろうし、腹も立つはずだ。

いかに「当事者のことは分からない」「立場が違うのに代弁は傲慢だ」とか言い訳したところで、この程度の、いわば最低限の想像力も働かないことに開き直るのは、それこそ傲慢だ。

まして僕らのやっている映画という稼業は、他者を撮ること、他人様にキャメラを向けることが本質である。「分からない」とかいって傍若無人に、それ自体が武器であるキャメラを向けるなんて、やってはいけないはずだし、そもそも映画で撮れる絵にならないから、行為自体が無意味になる。ますますもって、無駄なことで他人様のお時間を拝借して迷惑をかけてはいけない。

別にはなれた遠くの国のことなら構わない、というわけではないが、身近な隣人のことをこうも無視できる、人間扱いせず「対象」として、自己の思い込みや願望の投影先だけとして扱える、相手の立場を想像すらしないのでは、さすが倫理観のタガが外れ過ぎで、自分を取り巻く世界に対する認識が狂っている

その上、原発が立地した現地の当事者は確かに福島県であり青森であり宮城であり、あるいは関西電力なら福井県だったりなど、要するに東京や大阪などの大都市からみれば「田舎」、「僻地」扱いの土地であるとしても、その電気を使って来た方の当事者、巨大消費地は主に都会、つまり僕たちなのだ

原発の「恩恵」を言うのなら確かに、たとえば人口8万の福島県双葉郡で、原発ふたつと広野の火力発電所で直接雇用は2万くらいはあったはずだ。

つまり経済と雇用が原子力と東電なしには成立しなかった、その以前、高度成長時代前半にはどの家でも出稼ぎは当たり前だったのだし…と、そんな話を「恩恵」と言ったところで、元を糾せば戦後の日本が中央集権の、地方の地場産業を重視しない経済構造を採用し、その地方は最初から不利で不公平な立場に置かれて来たのではないか。

いや厳密に言えば戦後に限った話ではない。 
東北地方で作られた電力を京浜工業地帯に供給するシステムは、元々は軍需産業つまり「お国のため」に押し付けた構造だ。

最初から不公平な構造があるのに、それにのっかって東京なり大都市がまず豊かになったその側が、自分たちが電気をふんだんに享受して来たことは忘れた顔をして、「原発で潤っただろう」などと言うのは、あまりに厚かましい

東京でこの事故以来、にわかに「反原発!」「フクシマから遠くはなれて!」と言っている人たちが、実は恥ずかしくてずっと逃げ続けている、誤摩化している事実がある。

あなた達は2011年3月11日の夕方以前に、福島の原発の電気を東京でずっと自分達が使っていたことを、知っていたのだろうか?

正義ぶって東電や政府を叩く者たちが、誰もこの問いに正直に答えない。

「騙されていた」「知らされていなかった」とは言わせない。

事故のわずか7年前、2004年に、福島第一原発のことは、大きなニュースになっていた。

小泉政権の時に国が原子炉のそれまでの法定の設計寿命を35年から40年以上に伸ばす決定をしたことは、5大紙すべて一面に載ったはずだし、TVのニュース番組でもトップニュースで、『報道ステーション』などはかなり大掛かりな特集を組んでいた。

知らなかった、興味も関心もなかった、忘れていた、と正直に認めればいいものを、なぜ誤摩化し、逃げるのだろうか?それでは却って不信感を招くだけでなく、単純に失礼であることすら気づかないのだろうか?それが僕には未だに、さっぱり理解できない。

小泉純一郎と同じでいいじゃないか。これだけの事故があって、考えを変えない方がおかしい。

「ずっと電気を使っていたのに、知らなくてごめんなさい」とさえ言えば、たいがいはそれ以上責められることなんてまずない(先方にしてみれば、認めてくれればそれで結構、今さら責めたって始まらない)、ただやっとお互いに話がし易くなる、やっと対等の関係になるだけだ。

その対等な関係を拒絶したいだけなのだとしたら、この人たちは結局は原発にも原発事故にも興味がないまま、ただ流行のお手頃な自己正当化のツールに飛びついただけなのだろう

2004年のその当時にも、プルトニウム再利用の問題なども重なり、各メディアは報道を続けようとしたものの、あまりに一般読者・視聴者の関心が薄かったので途中で立ち消えになってしまった。

我々は「安全神話に騙されていた」のではない。そんな自分を甘やかす嘘はもうやめよう。東京が遠くはなれているのをいいことに、原発の排水で近海では魚が巨大化しているんだ的な都市伝説をなんとなく面白がるだけで、関心がなかったのだ。

そして今も、結局は「フクシマから遠くはなれて」であることに変わりはないようだ。

竹田宮だけでなくみんなの本音が、「250Km離れてるんだから東京は安全」なのだ。自分たちだって危険かも知れないと思っていたら、こんな態度では済まないはずだ。

一応は反原発を掲げて先の参院選に当選した議員だって、山本太郎氏とか「さすがに2年も経ってその主張内容はないだろう?」という公約の中身だし、またその太郎議員ももはや反原発の主張ではなく、「天皇陛下にお手紙を渡したけしからん」でしか話題の人にならない。
双葉町の前町長だったのが、すっかり「東京」におもちゃにされ搾取された井戸川さんなどは、同じ選挙で南相馬市の仮設住宅でタイベックスを着て街頭演説をやっていたらしい。
結局アピールする先は、どれだけ実は無関心で軽薄で薄情だろうが、東京なのだ。「トウキョウから遠くはなれて」しまった地元の人、元は町長の井戸川さんですら、自分の地元を無視するように洗脳されてしまった。

ここで自称「反対」の側だけを責めるのもフェアではない。「反原発」に対して「反・反原発」なるものも出て来ると、輪をかけて軽薄な人でなしだ。

原発がなければ自分たちの電力が足りなくなる、と正直に言うのならまだいい。だが他人ごとのように経済が云々、挙げ句に「地元の人が困る」から再稼動と、無節操に「地元の人」の人格を無視して玩具にする無責任な独善っぷりは、まさにどっちもどっちで、非人間的だ。

むろん現実問題、原発の地元はいずれも雇用を原発に大きく依存しており、全国の原子炉が停止状態では13ヶ月ごとの定期検診もなく、仕事がなくなってしまった下請け業者の経営は苦しい。だが、だからって即「再稼動を早くしてくれ」などという話になるわけは決してなく、今のようにこれからどうするのかが決まらないまま運転停止の状態がいちばん苦しい、この中途半端さをこそなんとかしなければならないのだ。

ちょっとは想像力を働かせてみて欲しい。

原発の地元だって、作業員の皆さんだって、あなた方と同じ人間なのだ。「当事者性の欠如」などと小難しい言葉で自己正当化を計ってないで、普通に想像や推測が出来るレベルまでは、当然配慮もすべき、考えるべきだ。

福一原発事故が起ってしまった今、喜んで原発の仕事を続けたいと思う人がどれだけいるだろう?元請けの電力会社も政府もここまで自分たちをないがしろにすると分かった今、忠義や恩義を感じるだろうか?

それでも原発を止めて行く、という政治の決断が(首相の、国会の決断が)下されない以上は、原発をちゃんと動かせる専門の労働者は絶対に必要になってしまう、その責任があるから、転業も転職も出来ないのだ。

いやまったく、原発で働く人たちに少しは、敬意とすら言わない、他人様を人間扱いする意識が持てないのだろうか?

いつのまにか巷では、福一で事故収束のため働いているのはヤクザがらみの犯罪予備軍だらけということにされてしまっている。「なんだ結局、差別対象の“汚い仕事”扱いなのかよ?」と偽善と差別意識がむき出しになるのにもウンザリする。
確かに事故初期から現場に入っていた人のなかには、法定被曝量を超えてしまってもう働けない人も出て来ていて、人手不足はどんどん問題になって行くだろうし、とりあえず水で溶けた燃料を冷やす段階で悪いなりに安定はしているので、必要な人手は原子炉の専門家よりもタンクの増設、瓦礫撤去、痛んだ原子炉の補強などの土木系が増え、東電もお金がないのでずいぶん安い賃金で、という現実もある。 
だがだからって、暴力団系の口入れ屋がすべてを仕切っているような話でももちろんない。

だいたい「福一の現場の労働者が衝撃の告白」って、ちゃんと現場が分かっているベテランはそう簡単に出られないってば。下請け、孫請けなんだから、自分のクビだけでなく会社に響く。責任ある、実際の事故収束に頑張って取り組む立場にある人たちこそ、簡単にはしゃべれないのだ。

僕たちも『無人地帯』の続編『…そして、春』の撮影で、そういったプロの証言もずいぶん聞いて来た。ただし基本的に表には絶対に出せない、映画にもそのまま使えない。インタビュー撮影なんてこっちから「やらないでいい」と言うくらいでなければ、信用されない。

僕たちが提案したのは、誰から聞いたのか分からないくらいまで内容を切り詰めて文章に起こす、様々な人の話を基にいわばフィクショナルな作業員の人物を創造した言葉を、ナレーションとして俳優に朗読してもらうことだ。こうでもしなければその人たちを守れないし、その現実の生活を侵害する権利なんて誰にもない。

雇用と生活を守るだけでなく、「原発で働いてるんだから推進派なんだ」とすぐ罪人扱いする人たちの、無神経で身勝手な攻撃だなんて理不尽も、それ以上に阻止しなければならない。

テレビでよくやる、顔にぼかしをいれたり背中からとか、曇りガラス越しで、声を変声機でいじって、というあのやり方はみにくいだけでなく、知り合いが見ればだいたい分かってしまうのである。まさかそんな我々の業界では常識であることを黙って取材して、せっかくお話してくれる人を騙すわけにもいかない。だいたいそうやって話を聞くプロセスで、親しい友達にもなっているのだし絶対に裏切れない。

ツイッターで発信している人には何人も「本物」がいるが、これはそれなりの立場の人たちなので、本社が把握してもクビを切ったり契約解除は出来ないからだ。 
その立場のギリギリで、少しでも世間の無理解をなんとかしようと頑張っている皆さんの勇気と知性は、心から尊敬する。

だがそんな直接に事故に直面する人々のことは忘れたのか眼中にないのか、もはや福一は東京にとって、時々思い出したように話題にするだけで、本質的な興味は誰も持っていないようにも見える

もし本当に心配で、興味や関心があるのなら、この事故がいったいどういう事故なのか、素人でも分かる基本的な部分くらいはさすがに踏まえるはずだ。

もっとも、メディアもそういった報道にはなんの関心もないらしく…というかよく分かっていないままにその時その時の話題にとびついて報道するだけでは、そのメディアを通じて情報を得る一般市民に分かれという方が無茶ではあろう。

僕ら普通の一般市民には直接関係のない、細かな話かも知れないが、あまりに誤解がひどいので、ちゃんと確認しておこう。

事故現場や、あるいは東電や政府の直接担当者たちが、基本的で重要な情報を隠している、状況把握に必要な事実を隠しているわけでもない。問題はそこから先の情報の伝達にある。

まず震災・事故発生当初の官房長官・枝野氏以来、今では安倍晋三総理に至るまで、政府を代表して発表している人たちがまず、よく分かっていないらしい。

枝野氏は、国会事故調の調査に答えた時点で、氏が官邸記者会見で発表したことにほとんど嘘や間違いがなかったにも関わらず、本人は嘘をついているつもりでいたことが分かってしまった。

安倍氏に至っては…。一日300tと推計される汚染水を、どうやってブロックするのだろう?いつから福一の港湾部0.3平方キロはぜんぶ堤防で囲われたのか知らないが、そんなことやったらすぐに溢れるよ。

東電だって、記者会見をやっている広報がどこまで理解しているのか怪しいものだが、データを書類で渡しているはず。それでも恐らく記者さんたちはちゃんと見ていないか、読み方も知らないで報道気取りなのだろう。

分からないところがあれば質問すればいいはずなのだが、「分からない」ということを認めたくないらしい。これは政治家から記者、ネットで発信する人たちに至るまで、みんなこんな調子だ。皆さんあまりにも勘違いしているのではないか?原発事故とはそもそも、分からないことがあまりにも多いものなのだ

事故当初、一部の原子力の研究者がテレビに出ては一生懸命説明していた。本物の研究者であればあるほど、事実として確認が出来ないこと、把握出来ない状況は、分からないとはっきり言う。元々原子炉の運用システムが停電でダウンした事故で、計器が死んでいるんだから分からないことだらけなのだし。

ところがテレビのキャスターの多くは、研究者がそこまでは分かっているから分かり易く説明している部分ですら理解せずに、「チェルノブイリが」「メルトダウンが」とだけ、言葉の意味もよく分からず繰り返し、「それはまだ分からない」と本当のことを言った研究者は「御用学者」扱いである。 
実はなんにもよく分かっていなかったNHKの解説委員がもてはやされ、さすがに現場などから苦情が来て、この解説委員が出られなくなると、「原発ムラに潰されたのだ」の大合唱となった。

そんな混乱した、情報が錯綜するばかりだった2年半前以来、ことの本質はなにも変わっていない。

この事故が「レベル7」と決まった時の、皆さんの喜びようも忘れられない。

「レベル」が6なのか7なのかよりも、この事故の固有の事象がどういうことなのかを正確に把握することの方がよほど大事なはずが、レベル6じゃないかと言う人がいればまた「御用学者」の大合唱だった。

原子炉と原発の常識では、臨界中の炉心が爆発崩壊したチェルノブイリの「メルトダウン」で「レベル7」と、今回の地震後自動停止中だった原子炉の冷却系派損による炉心の崩壊熱による溶融は、かなり異なった事象のはずなのだが…

だから「政府がメルトダウンを隠蔽した」というのも、まったくの虚報である。当初「メルトダウン」はチェルノブイリ事故のような、臨界炉心の崩壊を意味していた(…はずだ。上杉隆さんらが意味をぜんぜん分かっていなかった可能性は相当にある)。その定義では、福一事故は「メルトダウン」とは言えない。だから枝野会見で当初「メルトダウン」とは言わなかったのは、単に用語の問題に過ぎない。だからこそ必要だったはずなのに無視されたのは、用語ではなく事故のメカニズムこそちゃんと理解されるような説明だ。

逆にいえば、やれ「レベル7」だ、などと大騒ぎする必要もなかった、ということでもある。

…というか、「レベル」なんて元々、そんなに意味があるような、こだわるべきポイントですらなかった。ただなにがどうなってるのかよく分かってない、分からないとは自覚すら出来ない人たちにとって、分かり易くとっつき易い「記号」に過ぎなかった。

福一原発事故は、なんと言っても「想定外」事故である。

1965年に建設が決まって以来、先述の2004年辺りまで関係者が信じていた事故可能性の想定は、単なる間違いだったのだ。

そして人類がこれまで把握している「最先端科学」なんて、まだまだその程度なのだし、今の知見だってどこまで当てに出来るのか、さらなる「想定外」が起らない必然はどこにもないのだ。

そのことこそが、今回の事故の教訓のはずなのに、「いや新しい、厳しい想定だから大丈夫です」と言われて、本気で安心できる人がいるのだろうか?

なにも学習出来ていないどころか、ここまで日本社会が(世界でもっとも識字率や就学率が高いとされる、教育大国のはずが)科学的で冷静なものの考え方が苦手だったというのが、僕には正直、いちばん想定外だった。

原子炉の中は見えない。放射線が強過ぎて目視で確認なんて絶対に出来ない。核分裂の現象は理論的にはかなり解明されているが、それでも理論は理論、実際に分からないことは、分からないのだ

この「分からない」ということすら分からない社会に、原発の電気を使う資格なんてない日本はおよそ原発なぞを利用して電力を享受する資格なぞない、怠けた社会、勉強しない国、自分たちにだけひたすら甘い国だったのだ。

それをちゃんと反省するのなら、日本の原発政策の将来に於いて、とられるべき道は目に見えているはずなのだが…。

11/11/2013

特定秘密保護法という、子供じみているからこそ危険な茶番


特定秘密保護法が制定されれば、国民の知る権利が阻害される、言論弾圧法になりかねない可能性があるのは、理の当然の話だ。

にも関わらず、言論の自由や知る権利と、国家の利益を守る情報安全保障のどちらを優先すべきなのか、そのバランスはどうとられるべきなのか、という本来の論点は、この法案の制定をめぐる議論でほとんど意味を持っていないし、今後持つこともなさそうだ。

この法案が今抱えている問題、それがポテンシャルに危険性だらけなのは、このような本来議論されるべきまっとうなレベルではなくそれ以前の、もっと根本的な倒錯にある。

そもそも、立法目的はなんなのか?

国家機密を狙うスパイ活動をやる者が、その行為が違法であるか合法であるかにこだわると思っているだけでも、それこそ椅子から転げ落ちるほどの驚くべき平和ボケである。

この法案は日本が「スパイ天国」であることに対応するための立法などではまったくなく、ただ「対応していますよ」というポーズを取りたいがためだけに、国会ですったもんだやっているのである。

いや安倍晋三首相は、この違いすら分かっていないのかも知れない。 
その意味でも、そもそもこんな法律は、作るだけ無駄なのであり、国会の審議時間の無駄、まず国費の浪費だ。

日本がしばしば「スパイ天国」と揶揄されるのは、確かにその通りである。

我が国の政府は情報管理がずいぶん下手くそかつ杜撰であり、なにが守られるべき機密でありなにが活用されるべき情報なのかもよく分かっていないどころか、法律の制定以前に、こと外交分野では、「絶対に出してはいけない情報」「公開・公表・公言されてはいけない話」が、平気で外に出てしまうことすら多々ある。

機密であるべきが当然のことが、それも政府関係者や政治家の気まぐれや、その場限りの人気取りですぐ公表されてしまう…

…というより、それが機密であるべきこと、言ってはいけないことだという認識がそもそもない。あまりに世間知らず過ぎて、区別すらついていないようにしか見えない。

なにが「言ってはいけない」ことなのかすら分かってないのに、懲役の罰則で脅すだけでは無意味で効果がないし、刑罰で脅さなければポロポロ機密を漏らす、守秘義務の意味すら分かっていない公務員ばかりなのだと、世間様に向けて公言しているような話だ。

小泉訪朝の以前に、元首相の森氏が拉致問題について、被害者がヨーロッパの何処かの国で突然見つかったことにすればいい(つまり北朝鮮側がこっそり被害者を東欧のどこかで解放する)、と言ったことがある。

うむ、なるほど、両国のメンツを潰さずに済むという点で賢い解決策だった。だが森氏は一点だけ、根本的かつ絶望的に間違っている。

あくまで秘密裏にやらなければ成立しないやり口を、日本の重要政治家が公言してしまったら最後、その手は絶対に使えなくなる。実行したところで、メンツはもはや守られず、「ああ、そうやったんだね」と思われるだけなのだから。

田中眞紀子氏が外務大臣だったとき、オーストラリアの外相とのクローズドの会食で、真紀子氏が当時のブッシュ政権について率直な疑問を呈したことが、マスコミでデカデカと報道された。これが真紀子氏を更迭するための世論操作目的の、外務省による記者クラブ会員社への意図的なリークだったのは、誰が見ても分かる話であり、現に真紀子氏がマスコミに責め立てられ更迭に追い込まれる、大きな原因のひとつになった。

外交機密費問題に切り込もうとしたり、官僚レベルではなく日米ならば外相個々人のレベルでの信頼関係を構築しようとした真紀子氏は、外務省にとっても霞ヶ関全体にとっても、邪魔だった。「こんな外交が分かっていない外相は国益を損ねる」と、彼らは信じて疑わなかったに違いない。

だがこのクローズド会談の内容をリークした外務省関係者は、情報安全保障の基本中の基本において、根本的に間違っていたし、それを大々的に、コンテクストも理解せず報道したメディアも、その国益の損ね方、日本の国際的な信頼のぶっ壊し方は、およそ田中氏を責められる話ではない。「お前らこそどこまで非常識なんだ」という話である。

高官どうしのクローズドな会談は、内容が公開されないからこそ際どい話も含めて突っ込んだ議論や情報交換がなされる場だし、そのためにこそクローズドに、国家機密扱いにしているのだ。そのような場では日本側にせよオーストラリア側にせよ、ブッシュ政権に気兼ねして遠慮した話などしないし、オーストラリア政府にしてみればこのリークは、信頼を損ねる裏切り行為に等しい。

なにしろ日本の外務省の省益のため、日本国内の権力闘争のために、オーストラリアの外交機密がおおやけになってしまったのだ。普通に怒るし、非難声明などを出すまでもなく、「あの国は信用できない」と思い、以後はその教訓を実践するだけだ。

鳩山由紀夫氏がオバマ米大統領の来日時に「トラスト・ミー」と言ったという話だって、本来なら両首脳のどちらかの口から以外では、絶対に公表されてはならない情報だ。
この件でもマスコミは鳩山氏を責めまくり、まんまと霞ヶ関は鳩山氏を首相の座から追い落とすことに成功したわけだが、非常識で平和ボケで「宇宙人」が国益を損ねたのは、首脳間の私的な会話をリークした官僚とそれにのっかたメディアであって、鳩山氏ではない

なにが守られるべき情報なのかの区別も出来ない、その最低限の常識に基づいた判断力も持たないほど官僚の教育がなっていない時点で、「この法律を決めれば情報がきちんと守られる」と思い込むこと自体がナンセンスであり、本末が転倒しているのである

これこそが特定秘密保護法案の、実際の政治状況下における最大の問題点であり、危険性だろう

そもそも法案を提出している側が、なにが国家機密であるべきなのかさっぱりなにも考えていないし、それをどう守るのか、たとえばマスコミの疑念や追及をどう逸らすのかなども、まるで分かっていないのだ。

まして彼らは、国家機密指定というものの機能すら分かっていない
たとえばイスラエルは核保有の有無自体を、国家最高機密にしている。実は核兵器なんて持っていない、そんな資金も技術も持っていないのかも知れないが、核保有の有無自体が国家最高機密である時点で、誰もがイスラエルが実は核武装しているのだ、という前提で安全保障政策や外交方針を決定する。
逆にそういう効果を狙うのでなければ、国家機密は、機密が存在することすら厳重に隠されなければならない。 
「機密にしている」=「なにか後ろ暗いことがあると怪しまれる」のもまた、理の当然だからだ。 
それをわざわざ大袈裟に、かつおおっぴらに法律で決めるとか言い出しているのだから、もうなにをか言わんやの平和ボケ、外交音痴どころか安全保障も、国際政治における情報の重要性もまったく分かっていない

「スパイ天国」状態を解消するのなら必要なのは組織を作ることでも法律を決めることでもない、人材の育成と情報管理教育の徹底だ。それなしに、国家機密を運用したり守ったりは出来ない

「日本に機密を守る法制がないから各国が信頼せず機密情報をもらえない」と言い張る、日本版NSC構想に絡めて政府が言い出していることも、ちょっと考えればナンセンスそのものだ。

各国が自国の情報安全保障に鑑みて情報提供を渋るのは当然、国家機密なんてみだりに他国に提供するものではない、という当たり前のことが、日本政府や安倍晋三には分かっていないらしい。

同盟国だろうが、利害が常に完全に一致するわけもなかろうに。どこまで無邪気に子どもっぽく、米国を学校の先生かなにかと勘違いしてるのだか。

戦略上、共有がどうしても必要な情報でも、それがなされないことが仮にあるにしたって、それは法律の有無の問題ではなく、日本政府の情報管理能力が信頼されていないからだ。

それを「情報を漏らした公務員は懲役10年になるから、これで大丈夫です」って、これほどの前科を政治指導者レベルや官庁ぐるみで繰り返して来た上に、どうも刑事罰で脅さなくては情報を漏らしてしまう程度に守秘義務の意識がなっていないらしい(だってそういう法律ですよ)日本の役人を、それこそ諸外国が信頼するわけがない。

しかも「各国が信頼せず機密情報をもらえない」と自民右派を中心に言い張っている言い訳というか実例が、たとえば今年初頭に日揮のアルジェリア駐在の社員や重役が人質に取られたテロ事件で、巻き込まれた日本人の安否確認の情報すらアルジェリア政府がなかなか提供しなかったことだったりする。

こんなこと言っていては、ますます「こんな平和ボケの日本政府に機密情報を渡して大丈夫なのか?」と各国は心配するだけなのだが

日本に情報を出すもなにも、アルジェリア政府自体の情報確認がなかなか出来なかった、困難を極めただけだ。

まったく、日本の政治家も官僚もマスコミも、どこまで平和ボケなのか?
砂漠のど真ん中の僻地にあるプラントでの武装反政府ゲリラ集団との衝突である。現状把握だけでもどれだけ困難を極めるのか、遺体が見つかっても身元確認の照合がどれだけ手間取るか、ちょっと考えれば分かるだろうに。
だいたい日本人の安否情報なんてアルジェリア政府が隠すべき機密でもなんでもない、むしろ出来ることなら真っ先に、向こうだって知らせたい、知らせなければ自国の信頼が失墜し、重要な外交関係を損ねると分かっている情報だ。
それを「アルジェリア政府が隠した」と言わんばかりの言い草が、どれだけ相手国に非礼で、外交関係を損ね、日本の国際的な信頼を失墜させるのか、考えもしないのだろうか?

だいたいこの人質事件の際には、それでなくとも安倍晋三首相の政権は世界の失笑を買っている。だいいち安倍氏の東南アジア外遊の切り上げにこの事件をいいわけに利用しただけでも、国際的な信頼を損なうを通り越して噴飯もの、呆れて笑うしかない話だ

なにしろこの首相閣下、相手国の神経を逆撫ではするわ、国際的な立場(たとえば対中関係)を邪魔するわで、ハタ迷惑なだけの極右歴史修正主義を振り回しながら、自国の利益でも相手国の利益でもなく、アメリカの国益のためにアメリカのTPP構想に従うよう説得して廻るという間抜けっぷりだったのである。どれだけ日本との友好関係を重視する東南アジア諸国でも、さすがに呆れてまともに相手にされず成果ゼロ。さてどうしたものかと官邸も外務省も迷っていたところへ、テロ事件発生で緊急帰国という格好がついただけに過ぎない。

むろんアルジェリアで起っている人質テロ事件に、安倍が緊急帰国しようが外交日程を予定通りこなそうが、出来ることなんてなにもないのだから、本当なら外交日程を重視することが常道だ。

しかも自分のメンツを保つ為に官邸と外務省の官僚が苦しい手に出ただけで、自分はお役人に守ってもらっただけだ、とはまったく自覚出来ていなかった安倍首相閣下は、アルジェリア大統領との電話会談で、あろうことか「断固としてテロと戦う」と合意しておきながら、「人命優先」を要請したのである。

呆れてものも言えない。

「断固としてテロと戦う」とは、日本人の犠牲を覚悟して反政府武装勢力ないしテロ組織の鎮圧を最優先する、という意味にしかならない。こんな矛盾したこと言ってどうするつもりだったのだろう、安倍首相は?

日本政府がこの事件で、関係各国からの信頼を失ったのは確かだが、それは決して国家機密に関する法制度が整備されていなかったからではない。

そんな日本国内の手続き論を、各国の外交当局は気にしているのではない。重要なのは自国の提供した機密や、外交関係における自国のメンツを、日本政府が果たして実際問題としてちゃんと守ってくれるのかどうかであって、法制度の形式論を整えて「これでいいでしょうか?」という態度なんて相手にされない。

日本がアルジェリアの人質テロ事件で国際的な信頼を失ったのは、自国民の生命安全や経済的利権ですらなく、たかが自国の首相の失態を隠す為に事件を利用したことと、その失態を反省すらしていない安倍首相本人があまりにバカなことを言ったから、である。

まったく、他国との関係や駆け引きを、学校の先生かなにか相手の関係と勘違いしているのだろうか? 
「先生に言われた通りにやりましたから、ほめて下さい、認めて下さい」じゃ済まないんだってば。 

あるいは、日本は機密管理がルーズだという実例で挙げられるのが、菅直人政権当時の尖閣諸島騒動で、日本側が一方的に問題にした中国の民間漁船の拿捕をめぐる海上保安庁の記録ビデオが流出したことだ。

冗談も休み休み言って欲しい。田中眞紀子氏をめぐる外務省の情報リーク、鳩山由紀夫政権を退陣に追い込んだ「トラスト・ミー」発言や徳之島との秘密交渉のリーク報道と同様に、この尖閣ビデオ流出だって、官僚機構が世論操作を目的にわざとマスコミが大々的に騒ぐように流した「機密」であり、記者クラブ会員社と官邸や外務省が申し合わせて仕掛けた話だろうが

そもそもあのビデオを本気で冷静に分析すれば、あの騒動全体が日本政府による「やらせ」だったことが分かる(しかもその「やらせ」で目論んだことは、完全にアテが外れてしまった)。 
もちろんリークさせた方もそれを喜んだ側も、TVではその映像が編集されることも計算に入っている。 

Youtube上に「漏洩」した「機密」映像をしかるべき人間が見れば分かるはずのことだが、海上保安庁が突然漁船を包囲したので、普段なら警告を受けたら領海外に逃げるだけで済んで来たはずの漁船側がパニックになった、保安庁の船に体当たりするようにほとんど誘導されていた、と言っても過言ではない。 
だがTVではその全体は決して見せられないし、ネット上でも全フッテージを見る人なんてほとんどいないし、見方が分からない人がほとんどだ。 
なんと安直な世論操作であったことか。

国家機密を指定し、それを保護することに懲役刑を含む罰則を決めることは、ポテンシャルにとても危険なことである。

ところが特定秘密保護法案を提出している側は、なにが国家機密であるべきなのか、それを保護するとはどういうことなのかすら、まるで深く考えてすらいないし、だからそれがどれだけ危険でどんな弊害があり得るのかも考えていないのだ。

特定秘密保護法案自体が、ただの茶番なのである。

国家の重要な利益や安全を守るための情報管理以前に、この人たちは国家の重要な利益や安全とはなんなのかが分かっていない。なのに恐ろしく無邪気に、自分達のほんとうに利害ですら実はない、単なる上辺だけの保身や幼稚な感情の担保を、国家の利益や安全と勘違いしている。

安倍首相たちと来たら最悪、自分たちに都合の悪い情報が流出すること、自分達が馬鹿にされることが国家の利益や安全に反すると言わんばかりだ。

いや確かに、国家の政治指導者が国際的に馬鹿にされたり、悪評が喧伝されることは、国益に反する。だがそれ以上に国益に反するのは、その国家の政治指導者が国際的に馬鹿にされても当然で、悪評が立ってもしょうがないほど愚かなことだ。

これでも元大臣かよ、と呆れるしかない小池百合子議員に至っては、首相動静つまり首相の公的な活動すら機密であるべき、とか言い出し、さすがに菅官房長官も官邸記者会見でおおやけに否定するハメになった。  
 まったく「国家機密」「国益」を論ずる人たちの、なんと口の軽いことか。

なにが国家の安全や利益を守るために秘密でなければならないのか?

たとえば極めて厳重に国家機密を管理しているアメリカ合衆国では、すべての機密は50年以降、順次公開されなければならない。将来的には機密指定が正しかったのかどうかが確実に検証できるようになっているだけでも、なんでもかんでも都合が悪いからというだけで、機密にするわけはいかない。

国家政府たるもの、タテマエだけの問題にせよ、そこまであからさまに不道徳で、しかも馬鹿にされて当然なほどの幼稚な自己中心主義丸出しでは、成立しない。

ところが公文書の公開制度や、情報公開のシステムがあまりに杜撰な日本では、そんなことは期待出来ないどころか、歴史問題で日本に都合の悪い過去があるなら、その歴史文書すら「国益を損ねるから機密だ」と言い出しかねないのが、安倍首相たちである。

確かに国家の安全や利益に関わる秘密を守ることは、多くの国民の生命や財産を守ることに繋がる…場合もまあ、確かにある。

だがそれだけをもって「正義」とは言えないのが人間の世の中だ。「正しいこと」や「真実」ないし事実は、そうした人間の都合を超越している。「これが我が国の利益だ」と言い張ったところで、嘘は嘘なのである。

その線引きが分からない、自分の都合と正義を混同してしまう、幼稚で社会的な認識の低い人間に、「これは国家の利益に関わることだから秘密にしておこう」と決める権限を与えることこそが、確実に国家と国民の利益を損ねる。

確かに現実の世界は正直なだけではやっていけない、生き馬の目を抜く残酷さも持ち合わせている。

だが一方で国家はその社会を維持するために一定の倫理的規範を保たなければ、その国の法を守ることにすら説得力がなくなる上に、自己中心的に過ぎて平気で身勝手な嘘をつく、それもハタ目にはすぐバレるような嘘をつくようでは、外交で信頼もされないどころか、説得力もない。

そんな基本的な「国家とはなにか」の観念すら喪失しているのが今の日本であるようだ。

ゲッペルスは「嘘も百回言えば真実になる」と言ったが、そんなのはその場限りで、その嘘を信じたい人間が、「これが真実だ」という幻想を共有することになるだけのこと、同じ共有幻想に引き蘢った共同体の内輪限定で、他者、他人には関係ないし、通用するわけがない。

たとえば、外交や、それこそ戦争であれば、相手国には相手国の都合や戦略があって当然だ。

ところが今の日本には、この「他者」、他人様は他人様であって我々の欲望の延長に存在するわけではないという、当たり前の人生や人間社会、世界そのものの認識が欠如している

たとえば、都合の悪い過去を機密として隠蔽したり、それを口にする者を弾圧して黙らせようとしたところで、結局は通用するはずもない。事実は事実、歴史は歴史、過去は過去なのだ。隠したからって変えられるわけもない。 
ところが、在日コリアンに「特権」があるとかいう偉く珍妙な主張で新大久保やら大阪の鶴橋やら、各地の朝鮮学校の周囲で「街宣デモ」と称していやがらせをやる連中も、それを「ヘイトスピーチはやめましょう」と言っている自称「反差別運動」も、日本が朝鮮半島と朝鮮民族を植民地支配した歴史、戦後もずっと在日を差別して来た歴史を、在日コリアンや韓国、北朝鮮が口にしたら、「それは反日のヘイトスピーチだ」と言い張る人たちだったりするのだから、これはもう政治家やメディアがおかしいだけではない。
自分達が多数派のつもりの独りよがりで、こんな差蔑の暴力で脅して他人をどんなに黙らせようとしようが、歴史的事実は歴史的事実であり、嘘や捏造は嘘や捏造はでしかなく、同じ幻想を共有する内輪でしか通用しない、外の世界では相手にもされない幼稚な自己中心主義でしかないいことが、なぜ分からないのだろうか? 
日本国内の内輪のわがままでだけで 、ネット上で駄々をこねたくらいで、「反日だ」等といくら騒いだところで、誤摩化せるわけがない。 
そもそもあなた達が「日本人大衆」気取りで「多数派」の気分でいられるのは日本国内だけ、いやそれも現実には、あなた達の内輪だけに過ぎない。
ところがどうも、昨今の日本の「意識が高い人々」は、そんな当たり前の世界の認識すら欠如しているらしいのだが、「日本人大衆」をあまり馬鹿にされても困る。 

それにしても特定秘密保護法が成立したら、真っ先に、いちばん困るのは誰だろう、と考えると、案外これは決めるだけ無駄でなんの効果もない、形だけの法律になるかも知れない。いやまあ元から、法的な形式を整えたいだけの法律なのだが(どうも自民右派は、これが言論弾圧に利用できる法律だとすら気づいていないらしい)。

なにしろ直接に処罰対象となるのは、公務員が情報を流す行為であり、どの情報を流してはいけないのかの基準も曖昧なままだ。

今のままの議論では、政府側が言っている「第三者の有識者も参加して決める」云々が、実務の判断にはまるで使えない総花的なマニュアルにしかならないのも目に見えている。

結果どうなるのか?

官僚は今までのようにマスコミと結託した世論操作のために情報を流そうにも、暗黙の了解で行われるこうしたリークが、後から「特定秘密保護法違反だ」と責められることを当然恐れるようになる。

最悪、同じ省庁内のライバルから叩かれたり、各省庁同士の喧嘩に利用されかねないのだから、どうしたって慎重になるだろう。

そして政治マスコミが独自取材能力や洞察力を失ってサラリーマン化し、官僚化している、つまり報道のソースを官僚機構に頼り切っている現状では、特定秘密保護法違反を恐れて官僚の口が重くなられては、「言論の自由が脅かされる」以前に、大手メディアの日々の報道業務において死活問題になる。

なにしろ肝腎の報道するネタを、お役人が秘密保護法違反を恐れて提供してくれなくなるのであれば、今までのようにワイドショーで政局報道のエンタテイメント化も、今後はその材料が深刻に枯渇する。

これでは日本の政治・外交報道は破綻することになりかねず、困るのは確かに我々国民の知る権利のように見えて、実はそうでもない。

知る権利の方は、マスコミの取材能力が低下して官僚機構にのみ情報源を極度に依存するようになり、保守系もリベラル系も大手メディアはほぼ同内容の、金太郎飴な報道しか出来なくなった時点で、もうとっくに形骸化し、ほとんどなくなっているのだ。

実は特定秘密保護法で真っ先に困るのは、リーク情報やブリーフィングで結託して来た官民共謀の世論操作がやりにくくなくなる、霞ヶ関と大手メディアだ。

自分たちがいちばん困る、「言論の自由の侵害」以前に仕事そのものが成立しなくなる、自分達自身の首を締めることになる法律を、彼らはなるべく世間に注目させずにこっそり、穏便に通そうとしているのだから不思議だ。

なにが危険って、こんな人たちが、我が国の権力を掌握していることだ。極右や全体主義の蔓延以上に危険なのは、極右で全体主義を装うことが、頭の働かない、現実の観念の欠如した人たちのなあなあの共同体を許容してしまうことだ。

無能者たちの主導する甘えと身勝手のファシズムは、ただのファシズム以上に危険だ。

11/09/2013

ミケランジェロの正体

ミケランジェロ・ブオナローティ
『最後の審判』ないし『嘆きの聖母』のための習作

国立西洋美術館で開催中のミケランジェロ展は、ずいぶん変わった展覧会だ。

考えてみればこれほど展覧会がやりにくい美術家もいないわけで、フィレンツェにあるダビデ像なら高さ5.17mの巨大な大理石像。切り出した石からぎりぎり一杯で彫り出したので頭頂部に元の岩肌が残っているくらいで、とにかく大きいし、その置かれた空間における存在感はもっと凄い。

ミケランジェロ・ブオナローティ『ダビデ』

絵画作品でもまず思いつくのはローマのヴァチカン、システィナ礼拝堂の天井画『天地創造』と、祭壇壁画『最後の審判』だし、聖ピエトロ大聖堂のピエタ(嘆きの聖母)像や、彼が設計した大伽藍のドームおよび主祭壇にせよ、どれもよその美術館に運び出せるものではない上に、その置かれた空間の主役だから、常にそこになければ困る。

いや彫刻・壁画・建築によって、ミケランジェロが創造したのは、「作品」以上に、「空間」だったのかも知れない。

今でこそ彫刻家であり画家として知られるミケランジェロだが、ルネサンスの時代に究極の芸術とされたのは建築、空間を作り出すことだった。

イタリア各地を旅行しなければ本性がつかめない芸術家を上野で、というのもムシが良過ぎる、無理な相談ではあり、だからミケランジェロの作品世界の体感を期待して展覧会に行くと、クライマックスは4Kのカメラで撮影したTBS製作のシスティナ礼拝堂の記録映像だったりする。

4Kはデジタル撮影映画で使われるフォーマットで画素数はHDの4倍、映画館でのデジタル上映の現行DCP規格は2K、上野の西洋美術館の地下の仮設の上映施設は、実は映画館より高画質なのだ。



いやこの十数分の映像だけでも一見の価値…どころではなく、高さが十数メートルはある礼拝堂の天井画と、前方壁面を覆い尽くす巨大壁画、現地では見上げるだけなのから、高精細の画像でこんなに間近に、フレスコ画に手早く描かれた画家の筆の勢いまで見えるなんてことはない。

ミケランジェロ・ブオナローティ、システィナ礼拝堂天井画(主祭壇側)
同、礼拝堂後方

そしてもう、『最後の審判』に肉感的なアップで迫ることの凄みと言ったら…。

システィナ礼拝堂は今世紀初頭に大修復工事が行われ、壁画の色彩の軽やかな明るさ、鮮やかさが目を見射る。

ミケランジェロ・ブオナローティ『最後の審判』

とはいえ実際のミケランジェロの、作品として完成されたものはほとんどない展覧会である。展示品は膨大なデッサン、建築家としての顔も持つ総合芸術家が遺したスケッチや設計図等など、そしてかなりの数の書簡が中心だ。

作品よりもその芸術家の実像を浮かび上がらせる展覧会なのでかなりアカデミックではあり、たとえば建築家・軍事技師としての仕事は、せめて完成した建物の模型や、実現しなかったものについても想像模型くらい作ってくれれば、まだミケランジェロのビジョンが分かり易く伝わったと思う。

書簡だって、翻訳くらいつけてくれたっていいじゃないか。要約しかない。

デッサンの数々は、『レダと白鳥』のためのレダの頭部のスケッチなど、実際の作品のための下絵も何点かあるが、人体の表現に取り憑かれた画家が遺した、肉体の部分部分の研究のための素描がかなりの数を占める。

ミケランジェロ・ブオナローティ『「レダと白鳥」のための頭部の習作』
完成作は焼失

これが案外におもしろい。やがて『最後の審判』の筋肉表現、裸体表現の圧巻に連なったのであろう日々の積み重ねの一端を伺い知ることが出来るのだが、いやまあなんとこの人は、人間の身体のさまざまなポーズの、その筋肉にこだわったものか!


『最後の審判』はルネサンス絵画の完成と爛熟から、絵画史のマニエリスム時代への転換を代表する作品だが、そこに至る画家の道程がコンセプチャルなものであるよりも、ほとんど偏執狂的な筋肉フェチの積み重ねの結果なのだと、とてもよく理解出来た。

それにしても『最後の審判』も、システィナ礼拝堂天井画も、完成作には男性も女性もいるが、デッサンはすべてが男の裸である。

『最後の審判』のための習作

いや『レダと白鳥』のためのレダの頭部の習作だって、モデルは男性、当時のミケランジェロの若い助手である。当時の習慣で女性モデルは滅多に使われなかったから、美青年をモデルにした、と一応解説にはあるのだが。

そう言われてみれば、システィナ礼拝堂天井画の巫女たちも、巫女だから女性のはずが、ずいぶん筋骨隆々の男性的な体つきだ。実はこれも、モデルは男であり、ミケランジェロは顔こそ端正で女性的かも知れないが、立派な筋肉の堂々たる男性的肉体を用い、それを女性像でもそのまま描写している。


ところでミケランジェロは終生独身で、甥のレオポルドを養子同然に可愛がっていた。今回の展覧会の展示品はほとんどが、レオポルドが相続したフィレンツェの屋敷、カーサ・ブオナローティに伝承されて来たものだ。

そのレオポルドとのずいぶん親密な手紙のやり取りとかを見て、膨大な男性裸体のスケッチ、そして女性の裸身も実は男がモデルと言われれば納得する『最後の審判』などの完成作の表現に接すれば、この展覧会が明言こそしないものの、そうとうにはっきり暗示していることがある。

そして最後の展示作品が、油彩ではなく素描だがこれはこれで完成作である『クレオパトラ』、それがとても深い親愛で結ばれた青年貴族へのプレゼントだったと言われれば、この展覧会が伝えるミケランジェロの実像は、たいがいの人には明らかだろう。

ミケランジェロ・ブオナローティ『クレオパトラ』
『クレオパトラ』は若い男性貴族だった恋人へのプレゼントだ。

カトリック総本山のヴァチカンを美の空間として創造したもっとも重要な芸術家ミケランジェロは、キリスト教で禁忌とされたはずの同性愛者だった。

あ、はいごめんなさい。こんなに勿体ぶっておいて、当たり前の常識みたいな結論で。

ミケランジェロと、フィレンツェ時代に壮絶な火花を散らしたライバルのレオナルド・ダ・ヴィンチが同性愛者だったなんてことは、たとえばレオナルドのほぼ遺作の『洗礼者ヨハネ』のモデルが彼の愛人だったとか、美術史では公然の秘密というか、今回のミケランジェロ展だって、日本の国立美術館だから明言は出来なかった程度の話だろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『洗礼者聖ヨハネ』

また同じ時代の、同じ職業でも、二人の男の趣味はずいぶん違ってたわけでもある…。

またたとえばレオナルドの晩年の傑作『岩窟の聖母』にしても、聖母たちのモデルは美青年だったのだろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチ『岩窟の聖母』
(ロンドン、ナショナル・ギャラリー版)
ほぼ同じ構図の作品はパリ、ルーヴル美術館にもある

キリスト教ではタブーなので明言されるようになったのは近代以降とはいえ、これまで書かれて来たミケランジェロ伝も、彼が同性愛者だったことは暗黙の前提になっている。

ローマ教皇に寵愛され、自身も敬虔な信者でもあった。肉を食しなかったことから粗食に徹したと思われ、システィナ礼拝堂では無理な姿勢で何年間もかけて天井に絵を描き続けた求道者。マゾヒスティックなまでに自分を追いつめた芸術家というイメージを裏で補完して来たのは、ミケランジェロが名声をほしいままにしながら、同性愛者であることの罪悪感を抱えて来たのではないか、という発想である。

『最後の審判』では、皮を剥いで復活した聖バルトロメオの、その脱ぎ捨てた皮の顔がミケランジェロの自画像になっている。

『最後の審判』の聖バルトロメオ

こんな崩れたような、疲れたような顔。彼が他に遺した自画像でも、ミケランジェロはどうも自分が醜男だと思っていた節が伺われる。これがまた、ミケランジェロの罪悪感と自己否定に苛まれたマゾヒズム的なイメージを作り出して来た。

だが修復のなったシスティナ礼拝堂の鮮やか色彩と勇ましい筆の勢いを再発見するだけでも、この罪悪感に苛まれて宗教的な求道に徹した芸術家のイメージは随分変わる。

システィナ礼拝堂天井画(部分)

どっちかと言えば、自分が逞しく美しい肉体ではないからこそ、そのコンプレックスも含めてそういう美しい肉体を愛した、と考えた方が自然だろう(同性愛者にはよくあることだし)。

どうも我々は、永い年月の煤がたまり(20世紀以前、礼拝堂の照明は当然ながら蝋燭などの灯火だ)、後代の修復でより暗い色に補色もされた、たぶんに暗く見えていたその感覚で、この一連の壁画を見て来たようである。

実はミケランジェロが描いていたのは、本当はもっと明るく力強くドラマチックな、裸体の讃歌、肉体へのオマージュ、その筋肉にこそ真実が宿るとでも言わんばかりの、官能的な絵画だった。

『最後の審判』のための習作

彼がほとんどマニアックなまでに描き溜め続けた男性の裸体の筋肉表現の習作にしても、その偏愛とまで言えそうな人間の、それも男性の肉体への讃歌は、およそ罪悪感など感じさせない。

もう描きたいから描いている、大好きだからこそ執拗に研究した、その官能的な眼差しはまったく隠されていない。

最新の修復は煤だけでなく、後代の修復加筆を出来る限り取り除くことが主眼だった。

『最後の審判』では、あまりに裸が多いので顔をしかめる教会関係者も出て来て、後に下半身を覆う腰布が描き加えられたことは記録に残っている。修復を通じてその事実も確認され、取り除けるものは一部取り除かれた。

それでも不自然な加筆の腰布は残っているのだが、修復の結果それが別の画家が描き加えただけにすいぶん場違いなことも明瞭になった。あらためて、まあよくもまあヴァチカンで第二の地位を占める神聖な礼拝施設の正面を、自分がゲイであることを隠しもしない表現で埋め尽くしたものだ。


どうもキリスト教では同性愛はタブー、性と官能は罪に結びつくというイメージは、ミケランジェロの時代にはいささか異なっていたのではないか。

ルネサンス、つまり「再生」「人間復興」と呼ばれた時代、カトリックはプロテスタントの勃興で教義的に危機にあったのと同時に、だからこそ案外と自由に信仰を問い直す空気もあったのかも知れない。

『最後の審判』はまさにそういう絵だった、ミケランジェロが教皇庁に寵愛されたのはまさにそういう理由だったからかもしれず、精神論の論理性に極度に傾き罪の意識、人間の原罪を強調したプロテスタントのカルヴァン派の対極としてこそ、この壮麗な肉体=人間性の讃歌は、描かれたのかも知れない。

なんと言っても、ミケランジェロが描いた時にローマはこの壮麗な裸体群像を賞讃したのだ。淫らだとして腰布で隠されたのは、その翌世紀のことである。

ちなみに書簡に直接当たれば、例の粗食伝説も、どうも彼が肉が嫌いだっただけに思えて来る。というか、おしゃれなゲイだからヴェジタリアンっぽかっただけで、晩年には甥がせっせと叔父の好きなワインやチーズを送っていたらしい。

今回のミケランジェロ展の最後の展示品である『クレオパトラ』は、修復で裏打ちを剥がした結果、裏面が描かれていたことが分かった。

毒蛇に乳房を噛ませて自殺し、愛するアントニウスの後を追った古代エジプト最後の女王は、表面では憂いを帯びた、哲学的な表情を見せている。

だがその表にぴったり合わせて描かれた裏面では、彼女は蛇に噛まれてびっくりしたように口を開けている。



美術史家はこの表裏一体の絵になにか深い意味、画家の人生観や哲学を探ろうとして来たのだが、僕にはどうも考え過ぎな気がしてならない。

なんと言ったってこれは若い恋人へのプレゼントである。その恋人相手にちょっとカジュアルな愛情表現も含めて、裏面にはミケランジェロの茶目っ気あるユーモアが表現されているように思えてならないのだ。

…というか、いかにもゲイ・テイストなギャグにすら見える…

これをプレゼントされた若い貴族は確か彼よりも20年以上若かったと思うが、天才画家・彫刻家・建築家の尊敬される、名誉名声を一身に浴びた巨匠が、しかし若い恋人の前では別人のように、ずいぶん仲睦まじかったことが伺える気がする。


ミケランジェロ・ブオナローティ『階段の聖母』

11/03/2013

「天皇の政治利用」を騒ぎ原発事故を忘れるあさはかさ


元タレントの参議院議員・山本太郎氏が秋の園遊会で天皇に手紙を渡したことが物議を醸している。自民党参院辺りからは「天皇の政治利用だ」として山本議員を「処分しろ」との声すら上がってるらしい。

陛下に手紙、波紋 政治利用、絶えぬ議論(朝日新聞)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201311010652.html?_requesturl=articles/TKY201311010652.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201311010652
非常識で教養を疑う発言の絶えない文部科学大臣の下村氏などは、「議員辞職ものだ」とか叫んでいるらしい。それも「田中正造が(明治天皇に)直訴して大問題になったことに匹敵」と“批判”した気になっているらしいが(産經新聞)、田中正造と言えば明治の偉人、これで貶してるつもりなんだろうか?だいたい現憲法でなく、明治憲法下での話だろうに… 
いやまったく、相変わらず安倍政権と来たら… 

まず当たり前の常識を確認しておこう。

天皇の権威や地位を名目に国権が行使されることは、日本国憲法下の立憲君主制において厳しく禁じられると解釈される「天皇の政治利用」の最たるものだ。

しかも厳重注意程度ならともかく、辞任勧告とかの物騒な話になれば、その目的が(政治家と呼ぶにはあまりに未熟とはいえ)曲がりなりにも一国会議員の失脚を目論むものとなる。つまりは最も悪質で危険な部類の、天皇の地位と権威の政治利用に他ならない。

天皇の政治的な地位が極端に制約されるに至った、戦前戦中の軍国主義への反省という歴史的な理由からしても、天皇をいいわけにして太郎議員の「処分」云々を言っている側こそ、許されるものではない。

いやまったく、国家の矜持も歴史も忘れ切った軽薄過ぎる悪ふざけもほどほどにして欲しい。

山本議員は「子どもたちと原発労働者を助けるためにお力をお貸し頂きたい」つもりで、政治利用の意思はなかったと言っているそうだ。

いやだから天皇の「お力」って、政治利用の意思を表明している以外のなにものでもないってば、と言う点では太郎議員は徹底的に馬鹿にされるべきである。ただしそれは論理的に無茶苦茶だから馬鹿にされるだけであって、およそ国権の行使で処分されるような性質のものではない。

「この議員は馬鹿過ぎてお話にならん」となるにしたって、その判断をするのはあくまで有権者である。天皇の名で国権を行使して失脚させる、なんてことは、それこそ民主主義と法治主義の基本原則に反し、絶対に許されてはならない。

それに太郎議員が無邪気にも「お力をお貸し頂きたい」というつもりだったと自白してしまっているのだから、確かに「天皇の政治利用」の意思はあったわけだが、その利用される権限が天皇にないのだから、実際に「政治利用」なんて成立するわけもない。

なのに太郎議員を「処分」なんて、そもそも話が無茶苦茶だ。まったくもって、これでは自民党参院は「法治国家」という意味すら分かってないわけで、こっちの方こそもう議員総辞職ものの横暴ではないか。

そんな処分を言い出してる側こそ、自分たちが天皇の地位と権威を政治利用しようとしている(それも悪用している)ことを深く反省してもらいたい。

ちなみに日本国憲法は、「天皇の政治利用を禁ずる」なんて直接にはどこにも書いていない。明記されているのは、天皇が国民統合の「象徴」であって、政治的実権を持っていない(また民主主義の原則に従って、持つべきでもない)ことだ。

 第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 第4条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

この憲法に基づいて禁じられていると通常解釈される「政治利用」とは、まずなによりも政府の権力行使の正当化に天皇の権威と地位を利用することである。
皇室外交にだって立派に政治的効果はあるが、それが禁じられているわけではないし、国の統合の象徴であり元は自然神崇拝の信仰体系の最高祭祀の「現人神」であった道徳権威と「象徴君主の徳」から言って、その天皇自身の考えが世論に一定の影響力を持つことは、そもそも人の心の問題であるのだから憲法などの法体系で強制的に禁じられることでもない。

憲法で、天皇は具体的な政治的決定権を持てないことになっているのだから、こんな話で「お力をお貸し頂きたい」と言われたって今上のおかみも困ってしまう。天皇が直接に「お貸し」出来る「お力」なんてないのにそんなお願いをするのも明仁さん個人に対しては確かに失礼ではあろうし、日本国憲法下における立憲君主制民主主義のシステムをなにも理解していないという意味では、確かに太郎議員に国会議員の資格はない、とは言えるのだろう。

だがこれは山本議員が「太郎クン、ちゃんとお勉強しなきゃダメだよコラ」とポカっと頭を小突かれ叱られて深い反省を促される程度の話に過ぎず、そして憲政についての無知と勉強不足を言うのだったら、憲法があらゆる検閲を禁じていることを無視して「ヘイトスピーチ規正法を」なんて言っている有田芳生議員なんてもっとこっぴどく叱られるべきだし、立憲政治の意味すら分かっていないで「天賦人権論を否定する新憲法」とか言っている片山さつき議員なんて遥かに厳重に注意を受けなきゃおかしいし、内閣法制局のトップを更迭して集団的自衛権を容認する憲法解釈を、と思い込んでいる安倍晋三首相に至ってはなんなんだ、オリンピック招致を利用して自分の失政を隠し人気取りに走るのに皇族まで担ぎ出したあんたは厳重注意じゃ済まないよ、という話にしかならない。

オリンピック招致に皇族がひと肌脱ぐ程度なら、人道活動や文化、スポーツの支援で皇族が活動することや、皇室外交による善隣友好外交推進の枠内に納まることなんだから「政治利用」を云々する話でも本来ならない。
だが政権の人気取りと世論操作のために是が非でもオリンピックだ皇族だ、それもその招致のやり方のあこぎさ(要はIOC内の人種差別主義者たちに金をばらまいただけ)は、あれじゃ明らかに現政権と現都政の政治目的であり、高円宮妃のスピーチの文言をどうこうすることで言い逃れ出来るような話ではない。
…っていうか、皇室の政治利用以上に由々しきことは、現政権がオリンピック招致を露骨に政治利用したこと、それも外交を有利にするためならともなく、真逆に日本の国際的信頼を失墜させるような話なんだから困ったもんだ。

なお付記するなら太郎議員、やってることがまったく無駄である。

今さらそんなこと、明仁さんの「お力」を請うまでもなく、明仁さん自身がその地位で許されている範囲で、さんざんやっているじゃないか。

たとえば昨年の天皇誕生日会見でも、川内村で除染作業を見学した体験を例に、原発事故の処理のあり方に厳しい疑問を投げかけたのも、今上のおかみの明仁さんである

被災地の復興には放射能汚染の除去や,人体に有害な影響を与える石綿が含まれるがれきの撤去など,危険と向き合った作業が行われなければならず,作業に携わる人々の健康が心配です。放射能汚染の除去の様子は福島県の川内村で見ましたが,屋根に上がって汚染を水流で除去するなど,十分に気を付けないと事故が起こり得る作業のように思いました。安全に作業が進められるよう切に願っています
(平成24年天皇誕生日会見・全文はこちら

震災直後から避難した福一周辺の住人への訪問を欠かさず、なにしろ今の天皇夫妻や皇太子夫妻のこの種の慰問といえばまず丁寧に話を聞くことで、被災者から「さすがに天皇は人として格が違う」と(政治家たちの独善っぷりのていたらくと比して)感嘆の声もずいぶん聴こえる。

そうやって天皇が会って話を聞いて来た被災者や家族の多くは原発で働く人でもあったりするし、携帯電話魔で、新聞だけでなくネットなども丹念に見て勉強しているとの噂も高い上に、自ら生物学者でもある明仁さんは、太郎議員なんぞより遥かに福一事故の実情についても、原発労働者の置かれた現状についても、被曝による被害の危険性についても、詳しいだろう。

その意味では、確かに山本議員、明仁さんの知性と良識を見くびっているのも、相当に失礼だとは思いますよ。

だがだからこそ山本議員が天皇に手紙を渡したことで大騒ぎしているわけであり、「処分」とか言っている連中の方がこの場合は遥かに悪質な上に、過剰反応がヒステリック過ぎて、無様なまでに無自覚っぷりで、下心がミエミエだ

すでに述べた通り、天皇に直接の政治権限はないのだから、山本議員が意図した方向での政治利用はそもそも成立しない、あり得ないことなのだ。

それでも彼らが「天皇の政治利用だ、処分しろ」と言っているのは、今の天皇夫妻がそれなりに人気があるからこそ世論に対して持っている影響力をこそ危惧しているからに他なるまい

自民党右派などから見れば、天皇こそが「山本太郎側」になりかねない。だから先手を打ってそれを封じ込めるために、山本太郎を叩いているわけでもある

つまり、ほっといたって今の天皇自身は、福一事故が起った今となってはおよそ既存の原発政策に賛成などしているはずもないし、天皇と言う地位に伴う責任と義務からしても、福一の地元に多大な犠牲を国家が強いていることを許せる立場にもない

はとこにあたる元竹田宮家のJOC会長が「東京は250Km離れているから安全」と、福島県民と福島県を見捨てることを平気で繰り返してしまったのは、元とはいえ皇族としてまったくあるまじき言動だ。天皇というのは、もっとも困っていたり苦しんでいたりする国民/民草にこそ、まずもっとも心を砕かなければならない存在なのだ。

今上天皇は震災と原発事故発生後、既に立場上許されるギリギリまで踏み込んで懸念を表明し続けているし、今後ももっとやるだろう。だからこそ山本議員の行動が「天皇の政治利用」になると思い込んで大騒ぎして、自分たちの政治的な都合に天皇を利用しようとしているのが彼らなのだ

いやだから天皇には政治的実権がないんだから、山本議員が手紙でお願いしたようなレベルでの政治利用なんて屁理屈は、そもそも成立しないってば。それを「処分」などといったいなにを騒いでいるのやら。 
太郎もおかしいが自民党も同じくらいおかしい。

それにしても今の日本のこの種の議論はまったく倒錯していて、およそ正気とは思えない話があまりに多い。

この園遊会の前に、天皇夫妻は熊本県訪問の一貫として水俣を訪れ、差別を恐れてかつては水俣病を隠すしかなかった患者さんに「真実に生きることができる社会をみんなで作って行きたい」と、踏み込んだ発言を避けるべきとされる立場では「異例」とも言われる発言をしている(いやまあ、実はこの天皇の発言として、ちっとも異例ではないのだが)。

本当にお気持ち、察するに余りあると思っています。やはり真実に生きるということができる社会をみんなで作っていきたいものだと改めて思いました。
本当に様々な思いを込めて、この年まで過ごしていらしたということに深く思いを致しています。
今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。みながその方に向かって進んでいけることを願っています
(朝日新聞より http://digital.asahi.com/articles/TKY201311010652.html?_requesturl=articles/TKY201311010652.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201311010652


水俣病という、これまた日本国家と日本という国全体の近代化が引き起こした、今もなお終らぬ悲劇に対する、天皇自身の口から出た重い意味を持つ発言よりも、たかが山本太郎が手紙を渡したからどうのこうのが話題になっていること自体、あまりにも社会全体の良識がぶっ飛んだ話だ

天皇と園遊会といえば、もう8年だか9年前だが、東京都の教育委員だった将棋の米長邦夫氏が胸を張って「全国の学校で日の丸と君が代を」と言ってしまった一件があった。「天皇の政治利用」と言うならまさにこれこそ政治利用だ。学校現場への政治的主張の強要を、天皇の名と権威を用いてやろうとした話に他ならないのだから。

米長氏の(あるいは彼も含めた、なんとしても子供に日の丸・君が代を崇拝させたい勢力の)露骨な天皇の政治利用を阻止できたのは、今上天皇がすかさず、あくまでにこやかに、しかしさすが明仁さんならではの機転を利かせた返事があったおかげ、ただそれだけである。

「強制はいけませんね」

この一言がなければ、天皇の地位と権威は、日の丸と君が代の崇拝を学校現場や教師に強制することに、思いっきり政治利用されていた。

あの時に誰も米長氏らがやろうとしたことが天皇の政治利用に他ならないことを誰も批判すらしなかったのに、今回の太郎議員のお手紙騒動が「政治利用」で大騒ぎになるのか(繰り返すが、米長氏のケースとは真逆に、そんな「利用」が成立するはずがないのに)、馬鹿げた倒錯だとしか言いようがない。

あるいは韓国の李明博前大統領が、任期の末期に慰安婦問題など戦争と植民地支配の責任の問題の清算を求める発言をした際、そこに天皇訪韓による清算への期待が含まれていたことだけをあげつらって「天皇に失礼」云々と大騒ぎしたのだって、無節操な国家主義の排他差別性丸出しの、みっともなさ過ぎる身勝手の、天皇の政治利用以外のなにものでもない。

まあ確かに、太郎議員の行動は宮内庁からすれば文句も言いたくなる話なのだが、それは政治利用云々とはまったく関係ないレベルでのことだ。

現代の要人警護のイロハからすれば、物品の手渡しはNGである。太郎議員は国会議員になって自らも警護を受ける身だろうに、そんな常識も知らんかったのか? こんなことやられては、SPも皇宮警察も面目丸つぶれだ。その意味では太郎議員は「コラ。お巡りさんの迷惑を考えなさい」と先輩議員に叱られるくらいのことは、まああり得る。

だが一方で、そんなもんは警備上の都合に過ぎないわけでもある。

それも9.11以降の「テロ対策」「特別警戒」ヒステリアの悪しき産物であり、そんなことを金科玉条に振り回して迎合する態度が無批判に済まされるのもまた、おかしな話ではある。

日本の識者や政治家は、9.11以降の警備警護ヒステリアのパラノイアの結果、アメリカ合衆国が恥ずべき盗聴国家になっていたことにも、危機感や反発を覚えないのだろうか?

それに官憲が警備の都合でなにかを強要するにも、相手は政治家と呼ぶにはまだまだあまりに未熟な、インターネットの匿名性の集団主義の興奮状態が産んだあだ花の、ミーハーなタレント議員とはいえ、曲がりなりにも国会議員であるのだし、だいたい天皇にしたって別に警護する側のために、警護されることが目的で、存在しているんじゃない。


それにしても、今上のおかみの地位にあらせられる明仁さんの対応は、今回もたいしたもんであった。

ご本人がそのなかでずっと生活して来た、慣れ切っていておかしくない「要人警護の常道」には反する形で手紙を渡されても、うろたえることも取り乱すこともなく、警備要員に介入する余地を与えない、平常心の、堂々とした態度で、ごく普通に礼儀作法を守って手紙を受け取っておられた。

もう10年くらい前だが一度偶然立ち話をした…のではなく立ち話が出来る状況を明仁さんがすかさず見抜き、利用されたので、話し込んだことがあるのだけれど、その時のまったく偉ぶらない対等な態度物腰の適確さといい、言っていたことの率直さといい、この天皇はただものではない。
なんせ我々がドキュメンタリー映画を作っていて、必ずしも世間で喜ばれる内容ではない、むしろ批判的なこともやるのだから興行だとかの面では大変ではある、と言ったら、天皇はすかさず「だからこそ、そういう真実を伝えるために、あなた方には頑張って頂かなければならないのではありませんか」である。
場所がたまたま皇居と東京駅を結ぶ行幸通りだったので、天皇は続けてそれが天皇のパレード道路であり、東京駅が天皇の駅として設計されていること、戦前の天皇制国家主義がいかに危険なものだったかを、さらっとお話になったのである。中国と韓国に行きたい、そこでちゃんと戦争責任を謝罪するのが自分の役目だ、とも言っていた。
隣に居た美智子さんはちょっとハラハラしてたようです。いや陛下にしてみりゃ確信犯でしょうが。

いやはや、天皇が立派過ぎて国民が選ぶ政治家のダメさ加減を穴埋めするようなていたらくでは、現代の日本という国はまことに困ったものだ。立派な人柄の天皇を擁する天皇制が国民を甘やかし、無責任さのなかに放任する結果になってしまっているようでは、かえって害悪じゃないか、という話にもなりかねない。

今回の山本太郎議員をめぐる騒動は双方ともに何重にも倒錯した、無茶苦茶な話なのだが、なによりも腹立たしいのは、こんな馬鹿げた話がメディアやらネットやらを埋め尽くし、肝腎の福一事故の現状はどうなのか、事故処理の目処はどうなっているのか、なによりも被災者の今後の人生がどうなるのかを、世論がまったくなおざりにしていることだ

「天皇の政治利用」よりも遥かに大きな問題は、「原発事故とその被災者の無節操な政治利用」ではないか?

その事故の直接被害者である被災者・双葉郡や飯舘村、南相馬市の皆さん、福島県民は、東京など都会中心の「政治」の、呆れるほどの軽薄さで政治利用されつつ、実際にそこで生きて来た、今も生きている人々の生活は忘れられ、見捨てられても来ている。

太郎議員が批判されるべきなのだって、むしろこっちの政治利用ではないか。

反原発を主張して支持を集め議員になったこと自体はちっとも構わない。

「想定外」で(言い換えれば、現実にあっけなく凌駕されるほどずさんな想定しか出来ない文明を傲慢に信じ込み、科学技術に対する基本的な態度すらないがしろにして来た結果)こんな重大原発事故が起きて社会が大混乱になり、人口の0.1パーセント強とは言ってもこれだけの人々の人生と生活が振り回され宙づりにされ続ける現状を見て、そこに噴出した矛盾を真面目に考えれば、原発政策をこのまま続けることに政治的な疑問が出て来るのは、当たり前のことだ。

それも福一事故は決して「起り得る最悪の事態」ではない。報道メディアもネットも一蓮托生の興奮状態で集団パニックを演じて、わざと現実から目を背けているのかも知れないが、全国で原子炉54基どころか、6基の福一だけでの事故でも、もっとひどい状況になり得たことを忘れられては困る。
6基の原子炉がある原発で4基が津波で破損損傷(地震の影響だってなかったわけもなく、ただ確認出来ないだけだ)、それでも周辺地域や海の環境への影響はほぼ1基ぶん、2号炉の原子炉内の核燃料がもたらした被害だけで実質ほぼ済んでいるのである。
大気圏内への漏洩は、揮発性の、軽い放射性物質にほぼ限られ、より線量の多い重核種は勘案する必要がないレベルで済んでいるし、それも3月15日の2号炉の水素爆発の結果拡散したものがほとんどだ。最初から海に漏れているのは分かっているのに今年の夏になって突然騒ぎになった高濃度汚染水も、2号炉格納容器下部の(状況が未だに把握出来ない)重大な破損が原因だ。
しかも今回の事故の場合、4号炉は偶然、定期検査期間中で空だった。原子炉内の核燃料に加えて、その斜め上にある使用済み燃料保存プールも合わせれば、今回の「想定外」事故は、本来なら最低限でもこの8倍か、それ以上の放射能被害が、想定されて然るべきなのだ。 
日本はまだ運が良かった、いやもの凄くラッキーだったのである。

これでも原発を続けて行くべきかどうか、止めて行くとしたらどうやって止めて行くのか、真剣に議論されるべきなのに、肝腎のその問題はこの2年半以上、無視されたままだし、反原発運動ですらこうした本質的な議論からの逃避に共謀・加担している。

たとえば電力需給データの精査と公表すら経産省や官邸に要求もせずに、何ヶ月も前から読めている展開なのに、再稼動が秒読み段階になった時点で突然国会前や官邸前で「さいかどーはんたーい」と踊り出しただけの「反原発デモ」なんて、最初から負け戦を想定していたとしか思えない、ただの世論ガス抜き目的のお祭り騒ぎでしかなかった。

あの無惨な尻すぼみの終り方を見れば、最初から世論ガス抜きが目的で、背後で実は首相官邸辺りがけしかけていたとしても、驚きませんよ。

太郎議員が問題なのは、反原発の主張をしていることではない。

それだったら仮に原発推進の立場であっても、有効な反対意見としてきちんと認識し議論に応じなければ、民主主義は担保されない。

太郎議員が問題なのはあくまで、その反原発主張のなかで言っている個々のことが無茶苦茶過ぎて来たからだ。

単に筋肉おバカが売りだったタレントがトウがたって使い道がなくなっていたのを「反原発だから芸能界から干されて仕事が」と言い出した売名だけでも誉められたもんじゃないし、被曝であるとかの問題について言ってることも、その情報源も、デタラメ過ぎてお話にならず、これではかえって迷惑だ。原発に反対することよりも、福島県民や原発事故被災者を苦しめ、その利害に反し生活を追いつめること、神経を逆なですること、風評を広め、いわゆる被曝差別を助長し、原発事故を下衆な政治的お祭り騒ぎのために搾取することにしか、なって来ていない。

だがたとえば太郎議員に対し、被災地や原発立地地元が実際に悪評をたてられ侮辱されていることを批判するのなら当然の許容範囲ではあっても、原発の地元は原発推進に賛成なのだと決めつけて、太郎議員が原発に反対していること自体を叩くのなら、これもまた悪質な政治利用に過ぎない。

それも政治的な議論で勝ち目がないから「弱者・被害者」を利用した薄っぺらな感情論に走るだけの、民主政治を裏切るやり方だ。

たとえば自由民主党でさえ、福島県連は原発に反対、脱原発を主張している。こんな事態になれば「原発はもうたくさんだべ」と多くの人が思っているし、元々原発が立地して来たのだって「賛成」だからではなく、断れなかったからなのも、福島県に限った話ではない。

その意味でも、天皇が水俣で患者さんたちに「真実に生きることができる社会をみんなで作っていきたい(=今の日本はそんな社会になっていない)」と言ったことの意味は大きい。

水俣もまた、中央集権の経済発展と引き換えに同じような苦しみを味わされて来た「田舎」であり「辺境」なのだし。


土本典昭『不知火海』予告編

我々の国は経営能力と労働力の質の高さと技術力で、戦後の復興どころか、世界で屈指の豊かな大国になった。

だがそれと引き換えに、国内に凄まじい不公平と差別を作り出してしまったことは反省し、是正されなければならない。

水俣病事件はその最初の重大な警鐘であり、なのになんの本質的な反省も改革もないまま半世紀を経て、今は福島浜通りという「田舎」であり「辺境」が、原発事故に苦しめられている。

原発事故それ自体の被害だけでなく、我々の社会の精神的な脆弱さが引き起こした差別にも、福島は苦しめられている。いやそもそも、福島に原発が押し付けられたのだって、戊辰戦争以降のあまりに差別的な扱いの結果でもあるのだ。

天皇というのは文化的・歴史的に、そうした人間社会の権力権威体系がもたらす差別や不公平を、少なくとも精神的なレベルで是正する機能を持って来た、世界に例が稀な特殊な君主制である。 
それすら忘れて「天皇」を理由に国会議員を処分・失脚を狙うなんて、あまりにあさはかではしたない。 
それこそ原発労働者のために心を砕き祈ることこそが、山本太郎に言われるまでもなく、天皇の重要な文化的役割なのだ。 
参考:内田樹氏のブログより 2011年4月7日荒ぶる神の鎮め方同8日原発供養

今回の「政治利用」騒動でも、太郎議員を批判し攻撃する側もまた、「原発事故を下衆な政治的お祭り騒ぎのために搾取する」点において、良識のタガのはずれた被災者の政治利用で同罪である。

いや震災直後から被災者を「政治利用」して来たのはなにも太郎議員だけではないし、復興税の用途のデタラメさ加減に至っては、「被災者の政治利用」の政府ぐるみの詐欺であろう。

まったくもっていい加減にしろ、と言いたい。

福一事故は現在進行形の重大原発災害であり、現に困難に直面し続けている人たちがいるのだ

東電だろうが政府だろうが山本太郎だろうが、気に入らない相手を叩いて正義ぶって自己満足している場合じゃない。