1月19日付けで、
ベルリン国際映画祭フォーラムの部門プレスリリースが出た。
映画祭公式ホームページより
Jan 19, 2012: Everyday Life and Fantasy in the Forum 2012
"Three films from Japan deal with the tsunami of 11 March 2011 and the meltdown at Fukushima nuclear power station. In
No Man’s Zone (Mujin chitai), Fujiwara Toshi advances like a Tarkowskian Stalker into the contaminated zone around the nuclear reactors and evokes images of an invisible apocalypse. "
「日本からの三本の作品では、2011年3月11日の津波と、福島原子力発電所のメルトダウンを取り上げる。『無人地帯』では、監督の藤原敏史はタルコフスキーの『ストーカー』のように事故中の原子炉の周辺の汚染されたゾーンを突き進み、見えざる黙示録の光景を浮かび上がらせる」
…というわけで、これまで公式には言ってはいけなかった(といって、
東京フィルメックス映画祭でのワールドプレミア時に、日本国内では言っていいとの許諾はとっているが)、
『No Man's Zone 無人地帯』の公式出品の件も、やっとおおっぴらに言っていいわけなので、あらためて言います。
『No Man's Zone 無人地帯』は今年のベルリン国際映画祭の公式出品作品に選ばれました(って、なんだか今さら、あまりサマにならない…)。
ベルリンでの公式上映の日程は以下の4回
予告編(英語版)
出品者側は出品者側で、基本プレミア上映ばかりなので、映画祭に上映素材を送るギリギリまで作業を続けていたりする。『ぼくらはもう帰れない』では仕上げ作業自体をぜんぶドイツでやっていたものの、フィルムが映画祭に届いたのはプレス試写の日の朝、ドイツ語字幕版はその翌日だった。
『無人地帯』は既に東京フィルメックスで上映したとはいえ、音の作業などまだ完全ではなく、今回はその時に気づいた修正点も含めて、またフィルメックスでは2チャンネル・ステレオ上映だったので、今回は5.1チャンネルのミックスをまだこれから行うことになり…下手すると、公式上映の前日となる11日とか10日くらいに、上映素材を担いでベルリン入り、ということになってしまったりとか、どうもまたギリギリになりそうだ。
要するに、こういう大きな映画祭に出品っていうのは、いろいろ大変なのですが、とはいえベルリン映画祭はドイツの首都の大都市のど真ん中でやる映画祭だけに、一般の観客の参加も多く、とても楽しい、いい映画祭なのだ。
その辺りがリゾート地に一週間とか10日だけ世界の映画業界が進駐していくだけの、カンヌとかヴェネチアとは大きく違うし、僕の作っているような映画には向いている。確かに通常の商業的な映画の標準から外れたスタイルとか話法を持った映画は作っているが、決して「業界内」の「プロ」向けの、お高くとまった【難解な映画】ではないし、こと『無人地帯』は下手すると、むしろ「映画業界のプロ」とくに「批評家」には、本質的に嫌われる部分すらあるので。
端的に言ってしまえば、震災と原発事故を撮った映画である以上、誰だろうが “安心して見られる映画” にはなっていないし、そのつもりもなかった。こと無人の地と化した20Km圏内(今では警戒区域)の、それも津波の被害を受けた場所を撮るにあたっては、「安心して見られる」ということなどあり得ないし、ならばそのことに正直な映画にしようと最初から思っていた。
真摯に震災の被害を前にしたとき、いったい本当はなにが起きたのか、なにが破壊されなにが失われたのかという、破壊の本当の意味すら、瞬時に判別することさえ難しい。まして基本的に人間の姿が見えない、人間にとっては異様な状態である。映像を読み解くとっかかり、手がかりがほとんどない。
普通の、いわゆる一般の、現実に虚心坦懐で真摯に向き合う人であれば、「分からない」のは当然のことだとすぐに理解するだろう。この巨大な災厄は、我々の理解の範疇を越えているのだから。
映画の冒頭の、浪江町・請戸の、漁港と町がすっかり津波で破壊された風景のパンは、凄まじい迫力であると同時に、既に理解不能な映像だろう。実際、初期の編集段階から試写をする度に、これを360度パンか、キャメラがもっとぐるぐる廻って移動しているのだと思う人が続出した。
案外と、映画を作っている側はなかなか気がつかない反応だ。なにしろ自分はその場に居たのだから、せいぜい100度か120度くらいしかキャメラを動かしていないことは分かっている。
だが確かに、言われてみれば、普通こんなに長いパン(3分37秒)を、それも望遠レンズで撮るなんてことはやらない(技術的には、撮影・加藤孝信の離れ業だ)だけでなく、なによりも映っているのが一面、混沌とした瓦礫の山、あるいは土台しか残っていない家々だったりしかない、まったく人間が見て理解できるように整理されていない風景だからこそ、見ていて混乱するのは当然かも知れない。
だったらその混沌と混乱の強烈さをいきなり印象づけて、我々がただ圧倒される他はなく、実のところそこになにが映っているのかすらほとんど “見えていない” ことを、正直に、率直に、そのまま印象づけるのが、この映画の冒頭の効果のはずだ。
ショットの終わりの方、実はまだ90度程度パンしたかどうかのポイントで、森の向こうに、ここから南7Kmほどの福島第一原子力発電所の煙突が見える。だがニュースで見慣れた独特の煙突ですら、もはや気がつかないほどに見る側の視覚が撹乱されているかも知れず、現に画面を凝視しているはずなのに、それでも見えなかった人も多い。
いや、凝視し続けることすら、困難な光景かもしれない。
それはむしろ当然のことなのだ。このショットを撮影の加藤孝信が当初躊躇したのは、決して210mmの望遠レンズでのパンが技術的に難しいからだけではない。あまりもの光景、それが40日間放置されたままの場所であること…もしかしたら瓦礫の下から、避難命令が出たために救援が来ないまま、見殺しになった方たちのご遺体が、垣間見えてしまうかも知れないのだ。
わがままな監督よろしく「いいから撮れ」と怒鳴りつけているだけ、「この画面は映画に必要だ」という判断だけに徹しているこっちの方が、むしろ異常なのだし、その監督は実のところファインダーを見ていないのだから、望遠レンズ越しに遺体を見てしまうことに怯える必要もないだけだ。
破壊の映像の混乱と混沌を前に、我々はその映像を読み解く手がかりを失う。
識別できる手がかりが実はあっても、それにすら気がつかないことも多い。この地震と津波と原発事故の災害というのは、それほどのものなのだし、避難された方に撮影素材を見てもらっても、しばらくどこか分からないことも多かった。
ナレーションで煙突が福一のそれであることを言うのは、あえてキャメラが通り過ぎた数秒後なのだが、実のところ、キャメラはその煙突を見たときに微妙にパンの速度が遅くなっているし、完成した映画ではそこで音楽(バール・フィリップスによるベースのピツィカート)を鳴らして指示すらしている。それでも、「今見えたはずだ」と言われて初めて慌てる人が多いのは、むしろ意図したことだ。
「見なかった自分」に気づいて欲しいのだ。
普通の、いわゆる一般の、この事態に真摯に向き合える人であれば「気づかなかったこと」、「理解できないかもしれない自分」という限界も、率直に受け入れるだろう。映画を見るということは、そこに見えないもの(死角にあったり、画面外だったり、文字通り目に見えないものも含め)を意識させられる行為でも、本来はあるわけだし。
しかしそれが、「自分は映画のプロ」であり「映画を理解できるだけ偉いのだ」と思っている批評家であるとかジャーナリストの一部であるとか、「自分は一般人よりも映画が分かっているはずだ」と思い込んでいるいわゆるシネフィルな人達にとっては、相当に受け入れ難い話なのも確かだ。
彼らが「難解」をむしろ喜び、その難解さを解読できる自分にプライドを持っているとしたら、「難解」ではなく「理解不能」であることは、そういう人にとっては晴天の霹靂、それこそ理解出来るはずもないことなのだろう。
ぶっちゃけ、「見ること」のプロだと思い込んでいる人達に、「あなた達はなにも見ていないのだ」と真っ正面から言ってしまっているわけではあり…。
このアイディアは映画を作っている初期の段階から明白にあり、ただ編集のかなり最後の段階まで、あからさまなデュラスの『24時間の情事』の「君はヒロシマでなにも見ていない」との関連を指摘され、その薄っぺらな映画史のレベルで処理されてしまうのが悩みの種だった。しかし完成した映画を見てデュラスとの関連を指摘したがる人がほとんどいないのを見ると(クリス・マルケルやタルコフスキーの名前はたいていの評者から出て来るのに)、最終的にはうまくいったのだろう。
無論これを「デュラスへのオマージュ」とか安易に思い込み、決めつけるのでなく、デュラスの指摘が鋭く正鵠を射たものであって、この映画が同じ問題意識を継承しようとしているのだと指摘したジャン=ミシェル・フロドンであるとかの慧眼であれば、ありがたいとこそ思うだけだが。
しかし津波被害を現実に目にするということには、そんな自惚れでは立ち向かえない。
皮肉なことに、破壊の度合いが中程度であれば、壊れた家や瓦礫があるから、なにがそこにあってそれが破壊されたのかくらいは分かる。
だが最も被害の激しい場所では、全てが洗い流されてしまって、元からなにもなかったのと、ほとんど判別がつかない。
しかも『無人地帯』が見せる破壊と悲惨は、究極のところそれだけではない。
津波被害の光景よりも胸が痛むのは、他の被災地と違い、こうした場所が40日経ってもそのままであり、放置されて来たことだ(そしてそれから9ヶ月経った今でも、恐らくはそのままだ)。
これもまた無論、映像だけで表現できることではない。それが私たちの現実であり限界であることもまた、映画のなかで強調している。
そこに40日間も、画面には見えないだけでまだ亡くなられた(結果として見殺しになった)ご遺体が隠れているのかも知れないのも含め−本当は救出に来たかった福島県警の警察官たちが、防護服の下で涙を呑んで遺体の捜索に当たっているという、我々の社会が気づかぬよう、忘れようとしている悲劇も含めて。
無論、原発事故についての映画である以上、その直接の被害である放射能汚染は、目に見えないものである。
20Km圏内には桜が咲き誇り、5月の飯舘村では春の緑があまりに鮮やかで、本来なら田植えが終わったはずの田んぼが枯れたままであること、洗濯物が屋内に干されていることを除けば、なにも変わらないように見える。
だが目に見えない悪夢と恐怖、見えざる黙示録とは、決して放射能だけのことではない。私たち自身や、私たちの社会そのものが、いかにこの破壊と悲惨の前に狼狽えるだけで、その自分達の不安に向き合おうとするよりは、恐怖と興奮から数々の愚かしい行動に走り、本当に困難に直面している人達を無視すらしてしまったこと、例えば20Km圏内で津波に遭って、瓦礫の下で生き延びていたかも知れない人達を見殺しにする結果になってしまい、そのことを反省するよりはただ無視して来ていることもまた、見えない悪夢と恐怖であり、見えざる黙示録の光景ではないのか?
その私たちの社会それ自体の持つ見えざる恐怖と冷酷さを、今回の震災で増幅させて来たことについては、やはり被災の現実を伝えるよりも、そこに自分達が興奮してしまったジャーナリズムの責任(というか日本のジャーナリズムの無責任さ)を無視するわけにはいかない。
20Km圏内の南に隣接するいわき市では、放射能の恐怖に怯えた(実際にはこの方角への汚染の広がりはたいしたことがなかったのに)ジャーナリズムがほとんど被害を報じようとせず、実態とかけ離れた行政区分に基づいた報道で、50Kmや60Kmも離れた市の南の方ですら物流が途絶え、地元の人が「兵糧攻め」と揶揄する状況が起こっていた。
一方、三月半ばに比較的高い汚染地帯になってしまった飯舘村ではメディアが殺到したが、地元の人はマスコミも政府も「なにも分かっていない」と感じていた。
その事実を隠そうとしないこの映画が、東京フィルメックスで上映された後でほとんどの新聞マスコミに無視されたのは、まあ想定の範囲内ではある。
なかには「日本の映画ジャーナリズムの堕落に呆れた」とおっしゃって下さった知人も少なくはないのだが、僕自身は率直に言えば「マスコミなんてしょせんそんなもんだ」とは思っていた。とはいえ流石にまったく無視、自身も被災地の石巻に通われている
齋藤敦子さんが河北新報に書かれた以外にはなにも出ない、というのはさすがにびっくりしたが。
しかも東北の地方紙だけだ、という…。
また僕自身が上映後の質疑応答で、かなり厳しく震災報道を批判してしまったのもやり過ぎだったのだろうけれど…。
はい、ちょっとこれは言い過ぎました。とはいえ4月11日のこのブログでもちょっと触れたが(
3月11日から4週間)、9日目に救出された少年に対するメディアの扱い方とか、さすがに常規を逸していた。
とはいえ『No Man's Zone 無人地帯』が本質的に、一部の批評家やジャーナリストにとって、映画としてどう評価するか以前に拒絶反応を示すであろうほど不愉快になり得る最大の理由は、ベルリン映画祭のカタログのためのインタビューをやってくれた
クリス・フジワラが、極めて適確に指摘してくれた通りなのだろう。
There is no justifiable position to take with regard to this disaster. One of the functions of this film is to sustain that unsettling power, to make it intolerable again, to be in the presence of it.
この破壊を前にしたとき、完全に正当化され得る立場なぞあり得ない。この映画の機能のひとつはこの揺さぶる力を取り戻すこと、この災害を再び受容不可能なものにすること、災害の存在そのものを蘇らせるところにある。
確かにこの映画は、観客に自分を正当化し得る立場や視点を、一切与えようとしていない。そうでなくてはならなかった。それが一部の観客にとって、自らの限界を突きつけられることになり、不快に思われようが。
無論、我々映画を作っている側も、そんな正当化され得る立場などには立っていないし、そんな立場が見つかるはずもない。
映画自体が、「正当化され得る、観客が同化し易い視点」などないことを、くどいほどに、あえてナレーションを外国語(英語)にするというそのこと自体において、強調すらしている。
その意味で、観ている側もなにか自分の「正しさ」に安住して、安心して見ていられるようなところは、こうした映画のなかには決して作るべきではないのだし、作っている側がそれを偽装し、そこで観客の共感を得ようとするのなら、そんなのは自己欺瞞でありファシズムの芽でしかない。
英語だからと言って外国人がそう簡単に「上から目線」で断ずることなど出来ないように、この映画のナレーションはあえて英語のネイティブ・スピーカーの声ではないし、西洋的な視点を絶対的な基準として押し付けるのとは真逆に、最後にはその西洋文明のものの見方自体が問題なのだとすら言ってしまっている(しかもエンドクレジットで明かされる通り、朗読はアルメニア系レバノン系の女優であり、書いたのは日本人だ)。
植民地主義。映画のなかではさすがにこの言葉は直接使っていないが、ヨーロッパやアメリカの世界の見方とは、人間どうしでの他国や異文化に対する態度に限らず、根本的に植民地主義的なのだ。キリスト教文明は(その実、聖書の内容に反して)世界が人間のためにだけ作られ、存在しており、世界とは自然も含めて理解し支配し搾取し得るものなのだと思い込んでいる。
この病理からは、アジア映画を評価すると称する昨今の国際映画祭カルチャーもまた、決して逃れ得ていない。
そして核分裂反応によって得られる巨大なエネルギーを利用してしまうこともまた、この病理の延長上に必然的にあることなのかも知れず、原子力発電とはこの西洋的な近代文明の必然として産まれたものなのかも知れない。
ヨーロッパの観客には確実にナレーションがそういう西洋批判、つまりは彼ら自身のあり方を批判しているように聴こえるはずであり(そう演出したわけで)、ベルリンの観客はたぶん理解してくれるだろう。だが批評やジャーナリズムがどう反応するか、ちょっと楽しみではあったりする。