最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

6/30/2017

下村前文科相への闇献金が「違法性はないから問題はない」という倒錯



森友学園の「安倍晋三記念小学校」スキャンダルと加計学園獣医学部 “えこひいき” 疑惑が解消されないまま、自民党右派念願の共謀罪こそ強行突破で成立させたものの、国会閉会後は都議会選直前になって失言・問題発言とスキャンダルが山積状態の与党に、ここへ来てその都議会選を指揮する都連会長にして安倍首相の側近に、ヤミ献金疑惑の発覚だ。

自民党の幹事長代行で都連会長の下村博文・前文科大臣は、週刊文春で報じられるとその日の午前中に釈明会見を行った。速やかな対応で火消しに動いたのまでは良い…のだが、会見がまったく釈明になっていない内容なのに、「事実無根」と週刊文春を非難するとは、いったいどういうことなのだろうか?


文春の報道の根拠は明示されている。

下村事務所の内部文書に、2013年、14年に渡って100万ずつが「加計学園」の名義で入金されて2年で計200万としっかり記録されていたのだ。

つまりどう考えても「事実無根」とは言えず、その記録が誤解を招くものであれば、説明責任があるのは下村氏だ。

まず大原則として、政治家の政治資金は入金も出金もすべてクリアに記載し公表されるべきであることは確認しておこう。現行の政治資金規正法では20万以下の入金は公表の義務はないとなっているのは、事務的な煩雑さを避けるための例外に過ぎない。

さて下村氏が「事実無根」「選挙妨害」と文春を非難する根拠だが、毎年100万で2年で計200万と記載されているのは、加計学園の秘書室が取りまとめて下村事務所に持って来た合計100万円で、その中身は11人の個人や団体からの、それぞれにバラバラの献金で、いずれも20万以下だから記載の義務はない、というものだった。

いやはや、公表してしまうと差し支えがある献金元だから名前を隠す、法の抜け道を使ったヤミ献金の手口を、こうも分かりやすく説明してくれて、下村さんどうもありがとう、勉強になりました、としか言いようがない。

言うまでもなくこの200万円が加計学園から(下村氏の主張に基づけば「を通して」)下村氏に献金された2年間、氏は文部科学大臣の地位にあった。

法の抜け道を使ったので形式上違法ではない、というだけではむろん「事実無根」になるはずがないし、こんな理屈は政治資金規正法の立法主旨からすれば、形式上のへ理屈としてすら成立しない。

政治資金規正法で入金を明記しなければならないのは、その政治家の職務権限に直接の利害関係がある業界や個人からの献金が、贈収賄になる可能性があるからだ。そして学校法人である加計学園から(下村氏の主張では「を通して」)の年100万の献金があったのは、学校法人を所轄する文部科学大臣である下村博文に対してだった。

文部・教育行政に関わる政治家が学校法人やその関係者からの献金を受けていればそれだけで十分な疑惑になるわけで、こと教育に関わることでもあり、いっそう「李下に冠を正さず」を心がけるのが、まともな政治家だろう。

ところが下村氏がやっていたのは、大目にみてもスモモの木の人通りから隠れた側でこっそり冠をかぶり直していたに等しく、しかも今はそこからしっかりスモモを持って出て来たのを見とがめられ、「いやたまたまスモモが落ちて来た」とか「間違って手が当たってしまったので」などと言い張っているに等しい。

11件の個人や企業が購入したパーティー券を加計学園が取りまとめてくれたのだとしても、その購入者名は「これから調べる」「都議会選挙後に」と言っているのも、あまりにもおかしい。下村事務所はその領収証は発行していなければならないし、パーティー券購入者の名簿にも当然記載しているはずだ。

だいたい11人が一口2万のパーティー券を購入しているのにきっかり100万円というのは、人を馬鹿にしているのかとしか思えない御都合主義もいいところ。それも一度ならともかく、2年連続だ。

加計学園側ではこの下村氏の会見を受けてパーティー券購入を「とりまとめた」ことは認めたが、購入者については「プライバシー」を盾に公表できないと言い始めているが、これもまったく成立しないいいわけだ。

パーティー券の購入は政治献金に当たり、プライバシー保護の対象ではまったくない。

政治資金規正法が20万以下の献金については記載は不要としているのは、単に事務的煩雑さを回避する例外でしかないはずで、結果として公表の義務はないとしても「プライバシーだから言えない」とは、立法主旨に完全に反する。

大原則を改めて確認しておこう。政治家の政治資金は入金も出金もすべてクリアに記載し公表されるべきであることが、政治資金規正法の基本理念である。下村氏はその法に組み込まれた抜け道を悪用して記載義務を逃れ、今はそういう誤摩化しの手口を使ったのだから問題ない、と言い張っているだけだ。

その例外処置で記載の義務がない小額献金に小分けしたから、記載の義務はないので「問題はない」というのは、法を理解しない稚拙な詭弁でしかないのだ。こんな姑息な誤摩化しで、しかもそもそも事実に反して週刊文春の記事を「事実無根」と言い張る(根拠はある。下村氏自身の事務所の出納記録だ)のは、いったいどういう了見なのだろうか?


だがこういうのは、下村博文氏に限ったことでもない。

前文科事務次官の前川喜平氏は、第二次安倍政権になってから「大がかりな仕掛けの中で、一見正当な手続きを踏んだかたちをとって、実態としては特定の件を特別扱いすることを正当化する。こういう手法がものすごく増えてきているように感じます」と週刊朝日のインタビューで指摘している。

氏は実例として加計学園の問題の他に、「明治の産業革命遺産」の世界遺産推薦を挙げている。この時には文化庁と文科省で進めていたのは、長崎のキリスト教文化遺産群(浦上天主堂などの建築と、隠れキリシタン信仰の関連遺跡および今も残る隠れキリシタン信仰の宗教儀礼等の無形文化)だったのが、加藤六月氏(故人・自民党運輸族の大物)の娘・康子氏が運動をやっていた松下村塾などの世界遺産化の運動を安倍首相が気に入り、強引に日本政府推薦にねじ込んだのだ。

この時にはその加藤康子氏だけでなく、元ユネスコ大使で文科省から加計学園の千葉科学大学に天下りしていた木曽功氏も内閣参与に就任し、安倍の趣味の世界遺産登録を強力に推進する体制が政府内に作られていた。ちなみにこのうち木曽氏は、文科省の後輩である前川次官(当時)に加計学園に便宜を計るよう圧力をかけようともしている。

そもそも「なぜ松下村塾が?」をはじめ、この遺産群の選択には歴史学的に見て多々疑問がある。 
日本の産業革命はまず伝統の手工芸を発展させた軽工業・民生品の輸出を目指した殖産興業から始まり、戦前に生糸は日本の最大の輸出品だった。世界遺産登録された鉄鋼や炭坑などの重工業の発展は明治中期以降、富国強兵政策の転換があってからだ。 
その日本政府の強力な主張があったとしても、「明治の産業革命遺産」がICOMOSの推薦対象になったことにも、多々疑問はある。公式の政府推薦だけでなく、裏で相当に活発なロビー活動(買収なども服務)があっても驚かない。


加計学園問題でも、森友学園の「安倍晋三記念小学校」計画スキャンダルでも、安倍政権やその支持者が最後に行き着く言い訳は「違法性はない」だ。こうした主張は二重の意味で倒錯しているのだが、贈収賄などの刑事罰の対象にならないのは、確かにその通りだろう。

だが個人の刑事罰対象犯罪と、行政決定としての違法性は、まったく異なった次元の問題だ。それをごっちゃにしているのは、彼らには政治家、公職にある立場の自覚がまるでないとしか思えない。

稲田朋美防衛大臣の「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党として」大失言にしても、公職選挙法、国家公務員法、憲法に違反していると指摘されているが、いずれも刑事犯ではない。

加計学園スキャンダルをめぐって文科省の内部文書が報道や国会質問で取り上げられた件で、義家副大臣は「一般論として」と言いつつ国家公務員法に違反している可能性を答弁したが(前川前次官は「ただペーパーを読んだだけ」と義家氏本人には同情的だった。ただし「私だったらあんなペーパーは書きません」。ちなみに前川氏も指摘する通り、これは公務員の法的な守秘義務の対象にはならず、逆に徹底した情報公開の対象だ)、これも違法とみなされても(無理だが)刑事犯ではないし、自衛官が政治活動をやるのは違法だが刑事罰の対象ではない。懲戒の対象となり、解雇・罷免などの処分が出る。

だが刑事罰の対象にならないからといって、こと政治家の場合に、政治家としての罪や責任がないことにはならない。贈収賄がないからといって、行政の公平性が損なわれることが国民的損失であり、国民とその国家に対する犯罪行為になるのは、なにも変わらないのだ。

政治家としてあるまじき政治の私物化を続け、それが明らかになれば、本来なら政界の自浄効果と、有権者の審判に任されるはずだが、この両者の機能が麻痺していて、とくに前者は完全に絵に描いたモチとなっているのが、現代の日本の政治の深刻な問題だ。

下村博文氏の献金疑惑に話を戻そう。

釈明会見を聴く限り、下村氏は法の抜け道を利用して記載の必要がないように献金の名義を分散したのだから「問題はない」としか言っていない。だが政治資金規正法はそもそも、政治家が特定の個人や団体から資金援助を受ける引き換えに、行政が歪められることを防止するため、とくに政治家の職権と関わる分野の関係者からの献金をクリアにするものだ。

文科大臣にたとえばある学校法人から多額の献金があり、その学校法人が政策的に特別な優遇を受けていれば贈収賄になる。その献金がオープンに、誰もが見える形で公開されていれば、おいそれとその献金先を優遇するようなことはまともな神経ではできない、その抑止効果に期待して行政が不公正に歪められることを防ごうとしたのが、この法の最大の目的だ。

なのに文科大臣の職にあったものが学校法人から献金を受ければ当然疑念の目で見られるので、それを避けるために名義を分散させて不記載で済むようにしたから問題がない、などという詭弁は通用しないし、仮にほんとうに11件の別個の献金がたまたま合計で100万きっかりになっていたとしても、加計学園がそのとりまとめを行っているだけで、下村氏の事務所が同学園から金銭的な便宜を受けているという事実は、なにも変わらないのだ。

まして11件に分散しているのがただの名義貸しであれば、法の網をかいくぐったヤミ献金そのものだ。その疑いを晴らす根拠の公開を下村氏は出し渋り、加計学園は拒否している。

結果論からすれば、まだ正直に、加計学園からの献金を正直に記載・報告しておいた方がマシだった…というのはあくまで、加計学園の獣医学部が国家戦略特区に選ばれたことに、安倍首相が言うようになんら後ろ暗いことや不公正がなかった場合だが。

わざわざこんなせせこましい工作が行われていたということは、この国家戦略特区がやはり首相の意向で行政が歪められた、不正な「えこひいき」ケースであった疑念を、いよいよ深めることにしかなっていない。


こういうと安倍政権やその周辺からは「証拠がない」「挙証責任は疑いをかけた方にある」、そして「潔白を証明しろというのは悪魔の証明だ」と言い張るのも毎度のパターンになって来たが、これも一個人の犯罪と行政府の罪を恣意的に混同した倒錯だ。

「疑わしきは罰せず」、そして挙証責任を訴追した行政府に求める近代法治の原則は、個人を国家権力から保護するためであって、国家権力の横暴を保護するためではない。「証拠がないから疑わしきを罰せず」は、その証拠を握っていて、隠蔽し隠滅する権限も持っている権力側・行政府には適用されない。

それに加計学園スキャンダルにしても、下村氏への献金にしても、潔白であると証明することは「悪魔の証明」になぞまったくならない。

単に前者なら加計学園が今治市に作る獣医学部が国家戦略特区に決まった経緯を包み隠さず開示し、安倍政権が説明責任を全うすれば済む。前川氏を国会の証人喚問に招聘し、安倍首相や官邸高官、国家戦略特区諮問会議の民間議員、文科省・農水省と内閣府の担当官僚も証人喚問で証言すればいいだけだ。

下村氏の場合は11人の献金/パーティー券購入者を明らかにし、それぞれが自分が実際にパーティー券を購入したのであって名義貸しではない、と証明できれば、それで済む。

証拠を隠し続けておきながら「証拠がない」とは、どこまで話がアベコベなのか、呆れてしまうのが安倍政権のやり口だ。

あるいはやはり加計問題で、文科省が存在を確認した10月21日付けの萩生田官房副長官と文科省の専門教育局長の面談メモの件で、萩生田氏は自分は一切なにも言っていないかのような印象操作を必死に言い張っているが、実際には一部に自分が言っていないことが紛れ込んでいると主張しているだけだ。なのにそこをねじ曲げて文書全体が噓であるかのように言い募って印象操作に必死だが、このメモの中身は「誰が言ったか」の問題ではない。安倍政権全体が「加計ありき」で動いていたことがはっきりしている中身で、「誰が言ったか」に論点を誤摩化したところで、逆に安倍政権の「政治主導」のいい加減な不透明性こそが問われてしまう。

そもそもこの政権には、証拠と事実、そして真実の関連性が理解できていないとしか思えないし、真実とはなにかを考えたこともないようにも見える。

なにしろ自分達は怪しげな根拠か根拠がまったくない話で他人を貶める印象操作に終始し、自分の主張を他人に押し付け拒否されたら「反日だ」と言いながら、事実や論理を元に問いつめられ反論できなくなったたとたんに「人の意見は人それぞれ」と逃げるのが毎度のパターンだ。

あるいは、近隣諸国との領土問題について、双方にそれぞれの主張があって対立しているからこそ領土問題になっているのに、日本政府の見解だから「真実」と主張して教科書に記載させようというのもこの政権だ。

自分達に都合が悪い事実の報道には「両論併記」をメディアに強要して自分達の自己正当化をねじ込んでいる割には、報道以上に客観性・公平性が重んじられ事実性を担保しなければならない教科書には一方だけの主張を記述せよと強要する、とんだ支離滅裂というか、御都合主義で自分達の欲望を押し付けることだけは一貫している。

挙げ句に、珍妙な閣議決定の連発である。

なにが事実であるかどうかは政府が決めることではないのに、「閣議決定だからこれは正しい」となると勘違いしているのだからお話にならないが(安倍昭恵総理夫人は私人である、安倍首相はポツダム宣言を読んでいる、等々)、最近では「そもそも」には「基本的な」という意味があるなど、滑稽な不条理喜劇の領域に突入している。


もっとも、この珍妙さは実は今に始まったことではなく、第一次安倍政権に遡る。慰安婦問題について「強制連行を直接に命じたことを示す文書は見つかっていない」と閣議決定したのが当時の安倍内閣だった。

こんな主張それ自体には、実はなんの意味もない。

日本軍と日本政府は終戦時に大量の公文書を破棄し証拠隠滅を大々的に行っているし、そもそも安倍たちがいう「狭義の強制(連行)」は当時でも違法行為で、そんな命令は口答で済まし証拠となる文書を残さないのも当たり前だ。それに政府が政府文書を調査したところで、見つからなかったことにすれば済むだけだ。

しかも「直接に命令した文書がない」に過ぎないことが、いつのまにか慰安婦問題自体が「ない」ことになぜかなってしまっている、稚拙で杜撰な印象操作を以来ずっと続けているのが安倍たちだ。

言い換えれば、元々が歴史修正主義、史実を無視して自分達の願望を「真実の歴史」と言い張る傾向が強かった人達が、その歴史修正主義の倒錯を現在形の出来事にも敷衍し始めているのが、安倍政権の現状だとも言える。

6/29/2017

稲田朋美防衛大臣「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党として」発言の本質的な危険性



「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」と言ってしまった稲田朋美・防衛大臣は、この都議会選の選挙集会の終了後、すぐに記者に取り囲まれた時には、自分が大変な問題発言をしてしまったことにまったく無自覚だったらしい。

板橋選挙区の集会だったので、隣接する練馬区に陸上自衛隊の駐屯地があるので、その駐屯地への地元の協力への感謝の趣旨だったと、まず記者に言ったようだが、そこで具体的な発言内容を問われても自分ではよく覚えていない、と答えている。

よく覚えていないというのが本気なら、逆に言えば発言の時点で自分でもよく考えずに言っていたわけで、現に録音された音声でもうわずった声で興奮気味だったし、この失言に至る発言の流れをみても、いろいろ混乱していてなにが言いたいのかさっぱり分からない。



感情に任せてこんな風になってしまうこと自体が、自衛隊という実力行使部隊、事実上の軍隊を指揮統括し、国外から侵略・攻撃があった場合に国土と国民の安全を守ることを第一の任務とするはずの防衛大臣として、まずこうした不用意なことを感情に任せて口走って性格上の問題だけでも、およそ不適格であり失格だ。

なにしろこんなに精神的に脆くて不安定、感情に走り易い性格では、軍事力を指揮する上で絶対に必要な冷静な判断力など期待できるわけがないし、言葉がこうも不自由では、命令の内容を伝えることすら大いに不安が残る。


それでなくとも稲田氏といえば、防衛大臣に就任後まもなく、8月15日に国内にいることを避けるため(公約である靖国神社参拝をやらずに済ますため)に海外出張したことを国会で詰問され、戦没者追悼式典に出席しない初の防衛大臣となったことを批判されると答弁席でぼろぼろ泣き出し、涙ながらに非を認めた人だ。泣いて謝って「もう許して」って。子どもじゃあるまいし。 
森友学園スキャンダルでは興奮して籠池泰典氏の弁護士であったことはないと断言し、すぐに京都地裁の出廷記録を出されて虚偽答弁に問われた。感情に囚われて売り言葉に買い言葉、ですらなくパニック状態で噓を言ってしまうなんて、それでは国務大臣、それも防衛省、安全保障行政のトップは務まらない。 
南スーダンPKO部隊の日報が破棄されてしまっていた件でも不安定で感情的な、そして中身もあやふやな答弁を連発し、実際には戦闘があっても憲法九条に抵触しないため「武力衝突」と呼ぶべきだ、とまで言ってしまった。この時も、この人は自分でなにを言っているのかもよく把握できないまま言ってしまったのだろう、やはり声が不自然にうわずっていた。 
自分の身辺の危機管理すらできない人間に、国家の危機管理が信任されるわけもあるまい。しかも「噓つき」である。

もっとも、この時の囲み会見でも、最初は大勢の記者がいることに稲田氏は本気で驚いたようだったが、すぐに記者に「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党として◯◯候補をお願いしたい」という発言の趣旨はなんだったのか、と質問されている。

ほんとうに覚えていなかったとしても、記者に言われた時点で自分の発言内容は把握できたはずだ。そこで「地元の協力への感謝の趣旨」と言い出したのも慌てて取り繕うためだったたようにも見えるし、笑顔を見せたと言っても、パニック状態になっている心理を誤摩化すための作り笑いか、思考停止状態でとりあえず笑顔を見せているような一種の無表情に近かった。

この6時代か7時ごろの発言がまず8時ごろ共同通信で流れ、稲田氏は官邸に呼び出されたようだ。菅官房長官は定例会見で自分が会って「誤解を招く発言は注意するように」と指示したと言っているが、実際にはなるべく早く会見をして撤回するように、と命令されたのだろう。菅長官だけでなく安倍首相にも会っていて、そこで首相が撤回するよう指示したらしい、という情報もある。

そこで午後11時半頃に急遽会見を開き撤回を明らかにした稲田氏だが、ここでの発言も問題だ。感謝を意味する言葉など皆無なのに、相変わらず駐屯地地元への感謝が趣旨だったと繰り返し、「誤解を招きかねない発言」だから撤回するとしただけだった。

だが「誤解を招きかねない発言」とはどういうことだ?

「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」には、誤解の余地なぞどこにもない。防衛省と自衛隊が組織をあげてこの自民党候補を応援しているのだ、と言っている意味にしかならない。

文字通りそのまま以外の解釈は無理だし、そこで文字通り受け取った側を「誤解」などとは、ふざけた話だというのに、撤回はしても「謝罪」も皆無だったのは、いかにも安倍政権の閣僚、それも安倍首相のお気に入りの元祖「安倍チルドレン」らしい(稲田氏は2005年の郵政総選挙の際、小泉政権の官房副長官だった安倍氏の強い勧めで、弁護士から政界に転身している)。


安倍首相も絶対に謝るのはイヤだという身勝手があからさまなのが常で、国会で追及されるとすぐに印象操作のあからさまな偏向やデマをうわずった声で強弁し、なにがなんでも言い返してやろうという欲望に支配され、時間稼ぎ目当てとしか思えないとりちらかった、やたら長い答弁ばかり続けることに、予算委員会では自民党出身の山本一太参院議員自らが「総理、簡潔にお願いします」と再三注意を繰り返している。



防衛大臣として前代未聞の大失言には、歴代の元防衛大臣や自衛隊からも「あり得ない」と言った苦言が相次いでいるなかでも都議会選挙の真っ最中で、自民と敵対する都民ファーストの会の党首、小池百合子東京都知事は辛辣な批判を街頭演説でも繰り広げ、野党は首相に罷免を要求している。

だがしかし、問題の大きさに比して、メディアの報道はまだまだずいぶんおとなしい。

公務員は一部でなく全体の奉仕者と位置づけた憲法、公務員が政治運動にその地位を利用することを禁じた国家公務員法(なお大臣は特別職国家公務員)、自衛隊員の政治的な絶対中立(投票以外の政治参加や政治的意思表明の禁止)を定めた自衛隊法に違反する「可能性」というか、論理的には完全に法令違反なのだが、それ以上に大きな問題がこの稲田発言にあることとなると、なかなか突っ込んだ論評はない。

違法性に関しては明白なのに「可能性」であるとか「受け取られかねない」という言い回しが必ずつくのも、随分と遠慮しているし、上記の法的な形式論理の問題しか言及しないのなら、問題発言は問題発言であってもその危険性は、多くの国民にはあまりピンと来ないだろう。また、もっとも繰り返されている「自衛官に特定候補への投票を命じているようにも受け取られかねない」という形容は、さすがに実際の文言からすると飛躍し過ぎだ。だいたい、直接には自衛官にしか関係しないことだ。

これは自衛官相手ではなく一般市民の支持者集会での演説だし、その内容を伝え聞いて自民候補に投票するよう命じられたと思う自衛官がいるとも思えない。

また仮に命じられたって従う自衛官もまずいないだろう。なにしろ投票以外の政治活動の禁止と政治的な中立性は、自衛官の服務宣誓にも入っている。それに反することを言い出す大臣がいれば、問題となるのは逆に自衛官が「そんなことも知らないのか?」と文民である大臣を軽蔑し始め、防衛省内の統制が取れず、無能ゆえに信頼されない大臣によってシビリアン・コントロールがなし崩しになる危険の方が、むしろ大きい。


終戦記念日前後の外遊を国会で問われて泣き出したり、自衛艦の視察で甲板上をハイヒールで歩いていたりで、この大臣に対する自衛隊内からの信頼はとっくに失墜している。 
秋田県の自衛官募集事務所が「大臣(女性)はちょっと頼りないですが」というキャッチコピーの新規採用募集ポスターを作って問題になったほどだ。表向きは「女性蔑視」だから、という批判はただの建前だし、実際の稲田氏を知っていればこれを女性蔑視と受け取る人はいないだろう。 
そして極めつけが南スーダンPKOの報告記録を、官邸が必死に隠蔽しようとしたことだ。激化する内戦で隊員の命も危惧される状況をいかに真剣に訴えてもその文書を握り潰すようでは、つまり稲田大臣は自衛隊員の命なぞなんとも思っていないと思われても当然だ。

つまりこのような発言をしてしまう稲田朋美が防衛大臣の資質に欠ける、というのは正しいが、それはあまりに無能で人格も疑わしく、およそ部下となる自衛官の信頼を得られない、能力的な問題として日本の安全保障に重大な瑕疵を生じさせる可能性が高いからだ。

行政が公平中立の公正性を担保しなければならない、法と国家権力は政治的な立場に関わらず、平等に施行されなけれない、という大原則を理解できていないのなら、国務大臣はおろか国会議員としての資質すら疑われる(のだが、この点が大いに疑わしいのは、安倍政権では稲田氏に限ったことではない)。

だが稲田氏のこの失言について、このような建前上の形式論だけで批判するのは、問題の本質を見過ごしているし、同時並行で起こっている(同じ細田派で、安倍チルドレンの)豊田真由子議員の暴言騒動に較べて、都議会選への影響は限定されるだろうし、野党の罷免要求や臨時国会開会の要求も、野党が狙っているほどの世論へのインパクトはないように思える。



既に述べたように、この部分も含めてこの時の稲田氏の演説は、ちょっとなにが言いたいのか分からないほど素っ頓狂な内容だ。だがこれは、あまりに素っ頓狂で常識のタガが外れ舌っ足らずだから分かりにくいだけで、冷静に聞けばその言わんとするところは実ははっきりしている。

ここに至る前に、稲田氏は航空自衛隊の曲芸飛行チーム「ブルーインパルス」が東京五輪の開会式に参加するだろうと、あたかも防衛大臣として自分が決めた功績のように吹聴している。

また板橋の隣の練馬区の駐屯地について「地元の協力に感謝」などはまったくしていないが、代わりに地元が駐屯地に協力することは本来なら当然だ、と言わんばかりのことは口にし、それを自民党候補を板橋区民が支援すべき論拠として上げている。

また練馬の陸自駐屯地について都(都議会)と国(防衛省)の連携が欠かせないとも言った上で、自分が応援演説をしている候補が自衛隊と防衛省とのパイプもあると強調している。そしてそうした連携ができる自民党多数の都議会との連携がなければ、東京都民の安全を守ることはできない、とまで言っているのだ。

その上で、「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党として」同候補への支援をお願いしたい、という発言が出て来るのだ。こうして見ると口先だけは「お願い」とは言っているものの、稲田氏のロジックは実はかなり明晰に、野党や都民ファーストを支持する有権者への脅迫になっていることに気づく。

つまり自衛隊と防衛省とのパイプも強い同候補が当選し、自民党が都議会の与党になって国(自民党の安倍政権)としっかり連携しなければ(というか、要は都議会が国政の言いなりにならなければ)、防衛省と自衛隊は東京都を守らない、と稲田氏は言っているのだ。



この期に及んで稲田氏の発言に問題はないとし、安倍首相を熱烈に支持し続ける、いわば彼らの「賛同者」である人達の主張と併せて考えれば、これは恐ろしい話だ。

安倍の熱烈支持層は一貫して、共謀罪に反対し、加計学園問題で安倍氏を追及する野党や一部のマスコミや日教組のような組織を、「反日」だと断じている。安倍政権で「公正であるべき行政が歪められた」と批判した文科省の前次官・前川喜平氏に対しては、官僚が総理大臣の命令に従わないのは言語道断だ、というのが彼らの主張であり、そしてその全ての背景に、中国だかコミンテルンだか在日朝鮮韓国人だかの「反日勢力」がいて、党首の蓮舫氏が日台混血の出自であることを持って「二重国籍の中国のスパイ」だから「反日」だとも断言している。

そうした危険思想のレッテル貼り…というか荒唐無稽なファンタジーのなんちゃって陰謀史観としか言いようがないものではあるが、こうした考えを民主党議員を「日教組!日教組!」と野次った安倍晋三が実は共有していることに疑念の余地はまずないし、その安倍氏にひたすら忠実な稲田氏も実は共有していると考えることにも、異論の余地はほとんどあるまい。

つまり稲田氏は、板橋区民が野党や都民ファーストに投票して自民党を「裏切る」のなら、板橋区民や東京都民と自衛隊の信頼関係が崩れる、それは「反日」であって反日の非国民を自衛隊は守らない、と言うに等しい論理を、実はこの場で展開していたのだ。

もう一点、稲田氏の演説が根本的におかしいのは、自分が防衛大臣なのだから、自衛官はすべて自分の命令に従うはずだ、という前提でこの演説をやっていることだ。「防衛省、自衛隊、防衛大臣として」候補者の支援を応援するというのは、そういう意味にしかならない。また同じ勘違いは、安倍首相が自衛隊関係で訓示を垂れる際にいつも自分を「最高指揮官」と強調することにも見られる。

ぶっちゃけ、この人達は「自分は上司でいちばんえらいのだから部下は自分の命令に絶対服従すべき」と信じて疑っていないのだ。だが官僚は上司となる政治家の命令の以前にまず法令に従い憲法を遵守する義務を負っている。内閣や大臣の政策に従うのは、あくまでその憲法と法令に定められた枠内でしかないのが法治主義の大原則だ。


小池百合子は稲田発言を批判するなかで、「私が東京都知事だからって、都庁17万の職員を代表して支持をお願いしますなんて言っていいわけがない」とバッサリ切り捨てていた。都知事が上司だからといって、都庁の職員は都知事の奴隷ではない。

自衛官なら、服務の際の宣誓の枠内でしか行動が許されないし、大臣の命令であってもその宣誓に反するものなら、命令に従う義務はない…というか従ってはいけない。

また自衛官には投票の自由は認められている。つまりどの政党のどの候補を応援するのかは、職務を離れて自衛官個々人の自由であり、大臣といえどもそこには決して介入してはいけない。

…というかこんなものは民主主義の近代国家以前の問題だ。

前近代の、封建時代の日本でさえ、君主や領主や軍の総大将など「上に立つもの」は、下位の立場にある者を慮って広く意見も聞き、厳しい讒言にこそ耳を傾け、信頼を勝ち得なければならない、ということが伝統的な日本の価値観として確立している。自分はえらいのだから下々は自分に従うべき、とする暗愚の君を許容する価値観なぞ、有史以来この日本に存在した試しがない。その統治に関するもっとも基本的な倫理をこそぶちこわしにしているのが、稲田氏であり安倍政権である。

こんなもののどこが「美しい国」なのか?「自分たちの味方をしないなら自衛隊はお前たちを守らないぞ」という稲田ロジックは、まことにはしたないだけでなく、恐ろしく危険だ。

6/21/2017

いったい何のため?誰のため?加計学園、共謀罪、安倍政権の止まらない暴走




安倍政権の暴走と腐敗が厄介なのは、安倍晋三本人にいわゆる普通でいう私利私欲がほとんど見えないところだ。

森友学園、そして加計学園との不透明な関係をめぐる相次ぐ疑惑にしても、安倍自身が贈収賄に問われるわけではないし、カジノ法案の強行採決でも、今国会に突然持ち出した「共謀罪の構成要件を厳しくした(ことになってない)テロ等準備罪」でも、彼自身が利権や利得、恣意的に用いられる権限を確保できるわけでもない。

安倍晋三が執着しているのは単に、「いちばんエラい人」の地位にあること、そのことで周囲に褒めてもらえ、尊敬されたいだけのようにしか見えない。

強行採決を連発した問題法案も、ただこれまで自民党が断念して来た立法を自分の政権は成し遂げたのだ、と言いたいだけなのかも知れない(ただしカジノ法案だけは別で、あれは明らかにトランプのアメリカへの媚び売り)。

森友学園のいわゆる「安倍晋三記念小学校」でも、8億の国有地値引きが安倍たち政治家にキックバックされたわけではない。ほんとうに総理の権力でただ自分が理想とする小学校を作りたかっただけ、そのために資金繰りの苦しいところをカバーしてあげたかっただけのようだが、ならばなぜそれまで幼稚園経営しかしていない、弱小の、たぶんに風変わりで、採算性や経営の継続性に疑問符がつくような学校法人に頼ったのかも、わけが分からない。そんなところにやらせるから8億円の優遇が必要になったのだろうし、自分が教育勅語の暗唱とか、ああいう教育方針を理想としているなら、堂々と政策でやればよかったではないか?

第一次政権の時には教育基本法を改正(?)したではないか。 
なぜ教育勅語を理想とする教育が日本に必要だと考えるなら、自らの政策として提起しなかったのか? 反対が多いと思うのなら、粘り強く誠実に、丁寧に説明して訴えるのが政治家の最大の仕事だということが、どうもこの人にはまったく理解できていないらしい。

加計学園の獣医学部は、今治市に37億円相当の市有地を無償譲渡されているし、国家戦略特区が通ればさらに市と愛媛県から100億規模の補助金が動くとされている(ただし愛媛県に詳細の話は一切いっていないし、県もなにも約束していない)が、これらの補助金だって安倍が横領できるわけではもちろんなく、金銭的に得するのは加計孝太郎サンと、安倍と加計双方につらなる日本会議人脈の土建屋等々だけだ。

安倍サン本人はこのオトモダチ連中にひたすら尽くすためだけに、行政を私物化して官僚相手に権力を奮い、恫喝さえ繰り返しているのが、このスキャンダルの本質的な構図なのだから頭を抱えさせられる。

森友学園スキャンダルも加計学園問題も、いったいなんのために安倍さんはこんなことをやったのか?

そうでなくとも加計学園の獣医学部の新設は、相当に無理がある計画だ。その推進に深く関与して「総理の意向」だと文科省に迫ったらしい内閣府の藤原審議官すら、その実現性にはかなり疑問も持っていたことが分かっている。学生が集まるのか、という共通した懸念は、今治市議会からも出ていた。

昨年10月21日付けのメモでは文科省に激しく迫っていたことが記されている萩生田官房副長官も、同じ10月の上旬の段階では、平成30年4月開学は無理ではないか、と疑問を呈していたはずだ(10/7付けメモ。文科省調査では未確認)。

だいたい、閣議決定された獣医学部新設の要件である、既存の獣医学部では対応できない高度な最先端の研究教育なんて、はっきり言えば三流大学でしかない岡山理科大に出来るとは、誰も思っていない。それどころか教員がちゃんと揃いカリキュラムが組めるのかさえ不安がある学部計画を最終的に認可するのは、獣医学部なら獣医学の専門家を中心とする委員が揃った審査会だ。

なのに安倍の意向を忠実に実践したいらしい地方創生大臣の山本幸三は日本の獣医師業界を侮辱中傷までしている。安倍の周囲からも獣医師会を抵抗勢力だ、既得権だと、名指しで中傷する言説も後を絶たない。ここまで反発を買っても、それでも審査会が公正な審査を心がけようにも、計画自体が元から認可を出せるような代物でもないのだ。

国家戦略特区の審査に提出された計画もたった2ページだったそうで、一応はもっともらしく最先端っぽいことを列挙してみたら、MERS(中近東呼吸器症候群)をMARS(惑星の火星)と書き間違えて国会で問いつめられるお粗末さだった。

「行政が歪められた」という文科省の前次官・前川喜平氏の告発に反論したかったのなら、安倍政権はこの獣医学部計画がいかに素晴らしいもので、新設の要件ももちろん満たして、最先端の施設を揃え、気鋭の研究者や臨床医が教育に当たるものだとでも示せば、「総理のオトモダチだから優遇された」という疑惑は払拭できたはずだ。なのにその肝心の反論は一切ない…というか、出来ない。

だいたい、そんな獣医学の最先端の「ライフサイエンス」や「人獣共通感染症」研究なら…というか、これはどちらも獣医学の専門ではなく、医学部や生物学、遺伝子工学、情報工学の最先端を横断する分野だなのだが、だからこそ新設の獣医学部で対応するよりは、既存の獣医学部のなかでもトップクラスの医学部や理学部を持つ、たとえば旧帝大系の国立大や、北里大などの理系で超一流の私大にやらせた方が、どう考えても政策として合理的だ。そうした超エリートの研究成果なら、そのまま日本の「成長戦略」として売り出し得るのだし、ならば「国家戦略」にもふさわしかっただろう。

だいたい獣医師の需給の問題がどうやったら「国家戦略」に当たるのかからして意味が分からない。安倍氏にはぜひ説明して欲しいが(和牛の輸出を増やす、とか言い出すならまるで「風が吹けば桶屋が儲かる」だし、対EUのEPA交渉でも、畜産分野でかなりの妥協をすると流れだ)、確かに家畜医に関しては慢性的な不足が東北や北海道では深刻だとされる。

ならば新設する獣医学部はとくに家畜の専門医の養成に重点をおいたカリキュラムを提案すれば、まだ国家戦略特区として通す理由にもなるだろう。

だがそれを言った瞬間に軍配が上がるのは、今回の疑惑で不透明な手段で応募できないようにされた京都産業大の方だ。ここの計画の目玉のひとつは、京都府内の酪農地帯に設置して、地元の牧場と連携して実際に牛を診る実習がたっぷり出来ることだった。

一方、加計学園の計画はどうかと言えば、先述の、文科省が公表した、常磐高等教育局長と萩生田光一官房副長官とのやりとり(2016年10月21日付け)をまとめた部署内共有のメモには、驚くべきことが記されている。

愛媛県は、ハイレベルな獣医師を養成されてもうれしくない、既存の獣医師も育成してほしい、と言っているので、2層構造にする 
「ハイレベルな教授陣」とはどういう人がいるのか、普通の獣医師しか育成できませんでした、となると問題。特区でやるべきと納得されるような光るものでないと。できなかったではすまない

(同メモの全文はこちら

「誰が言ったか」以前に、まずミもフタもなく、あられもなく、「加計ありき」そのもの…どころの話では済まない。

加計孝太郎氏が獣医学部を新設したがっているから「国家戦略特区」に獣医学部を含め、政策として実行するにはさすがにそれが許容される条件がつくのは当たり前なのだが、加計学園の計画はおよそそんなレベルにない。さてどうしてあげたらいいのかと、と政府で解決策を話し合って知恵を探してあげようとしている、それを結局は文科省に丸投げしたがっているわけだ。

いったいどこまでサービスがいいんだ安倍政権?

萩生田氏は自分は一切なにも言っていないかのような印象操作を必死に言い張っているが(実際には、一部に自分が言っていないことが紛れ込んでいると主張しているだけで、その先をねじ曲げて文書全体が噓であるかのように言い募っている)、こんなのは「誰が言ったか」の問題ではない。安倍政権自体の「政治主導」のいい加減な不透明性こそが問われてしまう。

ちなみに前川喜平氏はこのメモと、面談の中身は承知していないという。メモで提案されているように常磐局長が加計学園の関係者がその後会ったのかどうかも、「報告を受けていませんから知りません。その頃には大臣・副大臣と直接やりとりしていたようです」というわけで、なんのことはない、かなり粘り強く抵抗しようとした前川氏は、次官つまり事務方のトップだというのに、この案件で蚊帳の外に追い出されていたのだ。 
省庁のガバナンスとしてあり得ない珍事だ。いったい誰の意向でこんな異常事態が強行されたのかといえば、まあ答えはほの分かり切っていて二、三人に絞られるし、誰かの「忖度」でもない。 
二、三人というか、安倍首相、菅官房長官、和泉首相補佐官の直接的な意向だろう。

閣議決定を経た要件に対応できていない加計学園の計画について無理矢理に辻褄を合わせる手段すら思いついていないことをそのまま文科省の官僚に丸投げしてその頭を悩まさせながら、一方で「国家戦略特区」なのにその目的に反する県の要望を聞き入れるような会話まで交わされている。これでは日本の「成長戦略」のための「特区」ではなく、むしろ(こう言っては悪いが)僻地で経済が伸び悩む地方の県を保護する新たな規制を作っているような話だ。

それが悪い、というのではもちろんない。むしろ必要な支援策に属するものにすらなり得る。ただしそれなら「構造改革」「規制緩和」で経済成長を促す新自由主義的な政策とはむしろ真逆な、社会民主主義的な施策のはずだ。

愛媛県の産業振興や、タオル製造のブランド化だけは成功したものの、従来の工業中心の産業構造が過疎高齢化もあって衰退している今治市への救済処置的な政策的援助なら、必要だ。だがそれは「成長戦略」のための「構造改革」で「岩盤規制」を打ち破るのとは、まったく異なった、むしろ正反対の政策的方向性になる。

それに少子化で全国で大学経営が苦しい現状があるのに、「学園都市構想」が有効だとも思えない。

まだ学力的にもトップクラスの有名校とか個性的な教育が売りになるブランド性があればいいが、こう言っては悪いが「たかが岡山理科大」ではそれも無理で、「そもそも学生が集まるのか?」という当然の疑問が出て来ると、途端に「学歴差別だ」「一生懸命やってるじゃないか」と、妙に浅薄な情緒論が飛び出すのも、安倍政権とその熱烈支持層の常だ。

加計学園・岡山理科大の獣医学部構想は、どう見てもごく一部の関係者以外には誰の利益にもならない計画で、「国家戦略」とは真逆に国民や日本経済にはなんのメリットもない。

愛媛県にとっても今治市にとっても、同じ労力と金をかけるならより実効性のある振興策を検討するのも、トップダウン政治主導の「国家戦略特区」ならせめてそれくらいは政府が考えなければならないはずだ。

これではこの安倍政権の売り物政策のひとつだったはずのものが、完全に羊頭狗肉と化す。

しかも、そのごく一部の利益を得る関係者に、安倍晋三首相自身が含まれるカラクリも想像がつかないのだ。萩生田氏ならば落選中に加計学園系列の千葉科学大学に客員教授として雇ってもらって救われたらしいが、それだってそんなにたいした金額でもない。

では安倍さん達はいったい誰のためにこんな無理な、自分達でその政策的な正当性を説明すらできない計画をゴリ押ししたのかといえば…安倍さんが「腹心の友」の加計孝太郎さんのために尽くす、純情な友情物語くらいしか、動機が思い当たらない。

厄介なのは私的なレベルなら「腹心の友」にひたすら尽くした熱く麗しい友情になることでも、行政府の長(「立法府の」ではない、念のため)には許されない政治の私物化、行政の公平性を著しく損なう「えこひいき」になってしまうことに、安倍にもその周辺にも、熱烈な支持層にもまったく理解できていないらしいことだ。

いやむしろ、彼らは「日本でいちばんえらい人」の友人であったり味方である自分達が「反日」の「敵」よりも優遇されて当然だ、と信じて疑わないでいる。

昨年暮れのプーチン露大統領来日時にも安倍の誇示したい「首脳どうしの信頼関係」や「外交成果」を言われるがままにテレビで垂れ流したジャーナリストの山口敬之がレイプを警視庁にもみ消してもらった疑惑も、「日本のため」に首相に尽くして来た山口氏がそんな訴えで逮捕されることこそ彼らには許し難いことで、被害者の若手ジャーナリストの詩織さんこそ「反日」のハニートラップだということになるらしい。

この事件は密室内の合意の有無が争点になる微妙な準強姦罪になるが、それでも被害者の証言に悪質性を見て取った所轄署が緻密な捜査で証拠を積み重ね、裁判所が逮捕令状の発行に踏み切ったという客観的な現実と、法があくまで公正に執行されるべき社会の根本倫理は、彼らにはどうでもいいことなのだ。

これは「テロ等準備罪」と偽装された、実際にはテロとまったく関係なさそうな罪でも共謀に基づく準備段階で処罰するからには「共謀罪」以外のなにものでもない、正式には「組織犯罪処罰法改正案」についても言える。

強行採決の参院本会議では野党の反対討論に「共謀罪で逮捕してやるぞ」という野次が与党席から飛んだ。

安倍を取り囲む人たちはこの法にそんな欲望とファンタジーを投影しているし、安倍政権はそんな周囲の人々の願望を満たすために、この新法を強行することを自らの使命として課していたのだ。

安倍がいきなり今年の憲法記念日に合わせて打ち出した「改憲案」も、同じような不可思議な、妙に感情的で薄っぺらに情緒的な動機ばかりが見える。

憲法9条2項の戦力不保持・交戦権否定の条項を変えるという元々の自民党草案なら、多くの国民にとっては賛成はできないし「改悪」にしかならないにせよ、「改憲」することの意味はある。既存の自衛隊の憲法上の制約を変えて日本の安全保障を強化し軍事力を拡大することには、確かにつながるからだ。

「改憲」によって国と社会の有り様がどう変わるのかなら、国民的な議論の価値は確かにある。だが安倍の満を持してのはずの改憲提案は、まったくそうではない。安倍の言う通りに9条の1項2項はそのまま、つまり今の憲法上の制約と同じ限定をかけたまま「自衛隊」を書き加えたところで…

「現状維持ならどう憲法に書こうがただの無駄です。日本の安全保障が高まることは1ミリもない。自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません」長谷部恭男・早大名誉教授(憲法学)
http://digital.asahi.com/articles/ASK6L5QP6K6LUTFK00K.html?rm=1299 

…となってしまう。

だいたい安倍が改憲派の集会へのビデオメッセージや読売新聞のインタビューで述べた改憲の理由が、まさにそのセンチメンタルな情緒論で、憲法学者の一部が自衛隊を「違憲」という状況を変えたい、というだけの内容だった。

この安倍改憲案には、単に「改憲」をやった功績を自分のものにしたい、自民党の長年の悲願だった9条に手をつけることを自分は成し遂げたのだと言いたい、という安倍自身の願望も動機としては確かに見える。だから「改憲」ありきで、なにも変わらないのだから「自衛隊」を書き加えるくらいならいいだろう、という開き直りの理屈だ。そしてそんな子供染みた名誉欲以上には、安倍自身がこの改憲で得られるものはなにもなく、日本の将来を安倍の望む方向に変えること(「美しい国へ」ですか?)にもならない。

共謀罪もやはり自民党右派の「悲願」で、これまで再三廃案となってきたものだが、その強行の恩恵で巨大な捜査権力を手にするのも一部警察官僚であって安倍ではない。

むしろあまりに広範囲な罪状に適用されるこの新法は、逆に安倍の周囲や「味方」に対しても適用できてしまう内容になっている。

たとえば「組織的信用毀損罪」までがなぜか「テロ等」に含まれ対象犯罪になっているのがこの新法だが、自民党は「ネットサポーターズ・クラブ」とやらを組織していて、その会員を自称するネット・ユーザーはさかんに組織的・集団的に野党議員であるとか政権の批判者を「炎上」させようと嫌がらせや中傷を続けている。

その中傷や攻撃の中身は、たとえば加計学園問題で与党を追及する議員が獣医師会から政治献金を受けていると言った、そうしたいわゆる「ネトウヨ」の能力では得られそうにない情報を連呼していたり、一部のジャーナリストが官邸筋の情報として言及する噂を、それがテレビ等で発信される前から先取りしている。

こうした外形的な事実だけでも「自民党ネットサポーターズ・クラブ」の会員たちに自民党から情報が流され、その「炎上」騒ぎが組織的に特定個人や団体の信用を毀損する目的で共謀されたものであることが、容易に推測できてしまう。

いざ「共謀罪の要件を厳しくした(ことにまるでなっていない)テロ等準備罪」の適用第一号を全国の警察が競い合った場合、真っ先に目をつけられそうなのが自民党とその一部支持者、という冗談みたいなことも起こりかねないのが、この法の実際の中身なのだ。

ちなみにこのことに遅ればせながら気づいたのか、政府では成立ギリギリになって、SNSのやりとりだけでは共謀の証拠にならない、という解釈を言い始めた。 
だがそう解釈する条文上の根拠は見当たらない上に、そういう限定された運用ならば現代もっとも危険視されるISIS(イスラム国)やアルカイーダ系のテロは対象外になってしまうので、元々既存の予備罪にほとんどなにも付け加えないこの新法は、ますますもってテロ防止にはなんの役にも立たなくなる。

警察の中枢・上層部はもちろん、当分は安倍に恩義を感じて安倍の敵を潰すためにもこの法律を使うことも考えているだろうが、いくら安倍やその熱烈支持層が「反日」と断じようが、野党と北朝鮮政府やら全共闘崩れのかつての革命集団との「共謀」なぞ立証できるわけもなく、野党議員を潰すことなぞ出来なしない。

だいたい、共謀罪の適用第一号が政治性を持つ団体や市民運動になれば、国連人権理事会の特別報告者から示された懸念が現実になってしまい、政府は激しく非難され、政権支持率も暴落するだろう。

安倍政権にしてみれば共謀罪を成立させた直接のメリットは実のところその程度しかないし、むしろこれまでも政敵潰しに協力してくれた彼ら(たとえば前川喜平氏にしてもなぜまったくプライバシーに属する夜の行動が官邸に把握されていたのか?台湾政府が蓮舫氏の台湾戸籍を破棄していなかったと調べたのは誰なのか?)に報いたいのと、安倍にとってより重要なのは、これまで自民党右派が念願しながら廃案になって来たものを自分は実現したのだ、という自己満足しか見当たらない。

これは特定秘密保護法でも、安保法制つまり集団的自衛権行使の合法化でも同じことだし、憲法改正こそその最たるものなのは、既に述べた通りだ。

自民党の先輩達ができなかったことを自分が実現したという、その先輩達への奉仕の献身と、彼らを超えたという自己満足だけが、彼をこうした強行手法へと突き動かしている。

だからどんなに腐敗していても、安倍本人には古典的な政治腐敗の動機である金銭欲などは、その無茶苦茶な政治の私物化の政策には関わっていない。

一方で、現行の刑法は、政治腐敗についてそうした古典的な私利私欲しか想定していない。

金銭欲に目がくらみ行政をねじ曲げれば犯罪だが、安倍が行政をねじ曲げる動機はある意味でとても「純粋」だ。オトモダチや自分を助けてくれた者たちへの恩返しは、個人の私的なレベルだけで見れば、うるわしい友情物語になる。

だから加計学園にせよ森友学園にせよ、これほどのスキャンダルでも、贈収賄がらみの刑事罰には問えない。

だがもちろん、安倍自身が贈収賄などの刑法犯には問われないことを持って「違法性はない」というのは詭弁だ。

安倍個人の法的な刑事の責任、というか犯罪は問えないからといって、行政府として法令と、憲法に根本的に違反していることに変わりはない。

ちなみに森友学園スキャンダルに至っては、動機はもうあまりに笑ってしまう子どもっぽさだった。要するに安倍は「安倍晋三記念小学校」ができることが嬉しくてしょうがなかった、その喜びを自分に与えてくれた籠池泰典氏(というか、その周囲の日本会議人脈)に恩義を感じて、一生懸命に助けてあげただけなのだ。夫人の安倍昭恵は幼稚園児の「安倍首相がんばれ」に感動して感涙してしまうほどナイーヴだったが、同じ子どもっぽさを安倍晋三も共有している。

安倍晋三内閣とは「ブタもおだてりゃ木に登る」政権なのだ。ブタは一生懸命に果物がいっぱいなった木に登り、下で自分をおだててくれるオトモダチのために一生懸命にその果物を落としてあげることに、無情の喜びを感じているのだろう。

そのために安倍が注ぎ込んでいる努力は途方もない。彼自身の損失だけで済むのならまあ身から出た錆というだけで別に構わないのだが、国会の審議時間が安倍のくだらない時間稼ぎの珍答弁で浪費され、行政の実務を担う官僚が振り回されるのは、国民的かつ国家的な、重大な損失になりかねない。