北京オリンピックのメイン会場のデザインや配置には、風水思想が盛り込まれているらしい。風水師が「伝統文化コンサルタント」として関わっているらしいのだが、主催当局では否定して「環境への配慮」だけを主張しているらしい。風水は大地と地形の流れを「気」と考えてそれを誘導するような考え方なのだし、それを「自然環境を考える上で東洋の伝統を」とかなんとか言ってカッコつけた方が、国際的にみれば中国で開催するオリンピックとして自国の個性と文化を主張していてよろしいということになると思うのだが、なにしろ近代(西洋)科学の裏付けがない “迷信” である以上、なかなかそうは主張できないらしい。
中国の場合、文革で風水も当然弾圧されたのだろうが、それをヌキにしても自国の伝統文化だからこそ「非科学的な遅れた迷信は外国からバカにされる」と思い込む後進国のコンプレックスは悲しいまでに見当違いだ。我が日本の廃仏毀釈運動とか、光琳の「八つ橋図屏風」のような国宝級の美術品が明治初期に海外流出しているとかも、ずいぶん悲惨な話ではあるが。
その北京オリンピック開会式では花火を空撮で見せる映像がCGだったとかで騒ぎになっている。航空管制などの事情で撮れない映像なのだし、ショーアップの一部としてそんなに大騒ぎするほどのことでもないのだが、むしろ驚くのは…僕は「偽装」報道で初めて見たのだが、素人さんならともかく、映像のプロが見れば一発でCGと分かる映像じゃんか。55秒に1年かけて渾身の見事なできなのだが、見事に奇麗過ぎてなんとも勘違い…。
花火がCGでしたというのは、実際には撮れないアングルを再現してるだけなんだからそんなに目くじらを立てたくもないが、開会式で歌っていた少女が実は口パクで、声は別人、その理由が歌っている女の子が歌はうまいが見た目が可愛くないから、という共産党幹部の指示だったというのは驚いた。教育的配慮ゼロの成金見栄っ張り根性丸出しじゃん。なんと醜悪に、オリンピック精神に反してることか。
もっと驚いた偽装は、開会式で56の少数民族の子供たちが民族衣装で登場したのは、実は少数民族ではなく漢民族の子どもばかりだったという話。主催当局は「中国ではよくあること」とあっさり認めたらしく、偽装という認識すらない様子。いやはや、この鈍感さは凄い。少数民族問題が中国内政の不安の火薬庫になっているのも、そりゃ当然だ。
総合演出・張芸謀も、だいたい誇大妄想なだけでスカスカな映画しか作れなくなって久しいが、最近の勘違いの最たるものを開会式で炸裂させちゃったのか? なんだか体裁を整えることと見栄を張ることにのみ必死になってるとしか思えないオリンピック。大国だけどまだまだ後進国という現状から名実ともに超大国の先進国に飛躍したい気持ちばかり先走って、逆に後進国のコンプレックスばかりが露呈してしまっている。我が日本だって、世界第二の経済規模を持つ大国でもっとも進歩している先進国(よくも悪くも)なのに欧米コンプレックスは未だ根強く、「世界に」という言葉が必要以上に強調されるきらいは強いが、まだ中国の現状に較べれば大人しくて上品なような気がする。根本的なところで自信が持てていないのは、相変わらずだけど。
鈴木英夫『社員無頼
・怒号編』
パースの消点から権力が発せられる構図
昨日、アテネフランセ文化センターでの「鈴木英夫シンポジウム」のあと、アテネの松本さん、蓮實重彦、クリス・フジワラ、篠崎誠、それに黒沢清の各氏らと食事。黒沢さんが「海外で評価されるのはいいんですけど、日本映画として、日本映画特集みたいな枠だけで見られるのは少し抵抗を感じますね」と言っていたが、それにはまったく同感。もちろん「世界にはばたく日本映画」みたいな枠でないと文化庁も外務省も、あるいは経産省や各種団体だって動きにくかったりするのは分かるし、ある意味では当然だとも思うが、しかし我々がやってるのはあくまで「映画」なのであって、国籍の特殊性だけで色眼鏡で見られるのを自分たちからやる必要もないと思う。
楊徳昌『枯嶺街少年殺人事件』
ところで鈴木英夫にもっともよく似た感性を持っている、「鈴木英夫的」というか、鈴木英夫がもっとも近い映画作家と言うのでは、もっともあてはまるのがエドワード・ヤン(楊徳昌)だろうと、僕は勝手に思っている。国籍・国境云々でなく、現代社会への目線や考え方、見方が似ているのだ。
上の二つほどうまく決まってはいないけど
『ぼくらはもう帰れない』
クリス・フジワラはミケランジェロ・アントニオーニをあげていた。それもそれで納得。ちなみにヤンもアントニオーニも、映画の空間把握がとても建築的である点でも鈴木英夫に共通している。ただそれなら鈴木が撮った「東京」こそ、いちばん魅力的な都市であると東京中毒である僕なんかは言い切ってしまいたくなるけど。
鈴木英夫『脱獄囚』
楊徳昌『枯嶺街少年殺人事件』
シンポジウムでなぜか増村保造の『偽大学生』と鈴木の共通点みたいな質問が出て、蓮實先生が「増村が『新しいこと』として意識的にやっているようなことを、鈴木英夫は『ただ自分がそうやりたいから、おもしろいから、映画的だから』としてやっている」と、相変わらず一流のハッタリのなかに鋭さを込めたことを言っていた。増村という人は凄いとは思うのだが、『華岡青洲の妻』と『清作の妻』以外はあまり好きになれない監督なのだが、この蓮實先生の指摘には目から鱗。逆にそれだけ分かり易い増村は評価され、鈴木英夫は忘れられかけてたということか?
ちなみに映画的な人間観察として、『その場所に女ありて』の司葉子は、増村映画の若尾文子がこれみよがしにもだえるように息を荒くしているどの姿よりも、現代的な女性の実存と不安を精緻に描写していると思います。これが日本映画として国際的に評価されなかったり、日本からこれを売り出そうとしないとしたら、映し出しているのがあまりにモダンな現代社会なので、「日本的」に見えないからなんだろうなぁ。まあ『ぼくらはもう帰れない』も「日本的じゃない」と一部の自称アジア映画専門家から批判されてますが(笑)。
8/18/2008
8/14/2008
鈴木英夫、東京を撮り尽くした映画作家
『社員無頼
・怒号編』
東京駅丸の内南口から新丸ビル、丸ビル、東京中央郵便局
鈴木英夫の映画のおもしろさのひとつとして,恐らく誰もが気がつくのはそのロケーション撮影の見事さだろう。なにしろ、今はDVDで見られるわりと初期の『殺人容疑者』はオールロケ撮影で、時には俳優を雑踏に放り込んで隠しキャメラで撮影したセミ・ドキュメンタリーの手法が売りだったくらいだし、有楽町駅前で撮られた、まさか映画の撮影とは思っていない通行人まで巻き込んだ逮捕シーンは本当に驚くし、『危険な英雄』の身代金受け渡し現場になる渋谷駅東口なども迫力満点だ。
『殺人容疑者』有楽町のガード下。撮影と知らない通行人が逮捕に協力?
あるいは『社員無頼』ではオープニング・クレジットの背景に東京駅ホームの出勤シーンが映し出され、本編のファーストカットは丸の内南口から左手に東京中央郵便局、右手奥には丸ビル、この構図の切り取り方は緩やかなカーブを描く郵便局と丸ビルの角の丸さを生かした非常に洗練したタッチで、丸の内という都市空間の均整のとれた空間設計を見事に捉えている(当時は丸ビルや郵便局をはじめ丸の内のビルはほぼすべて高さが統一されていた)。同様なショットは、国鉄本社勤務サラリーマンが主人公の『サラリーマン目白三平』シリーズでも見られる。こういうロケは、今の日本映画では、僕たちが『ぼくらはもう帰れない』でやったみたいな完全なゲリラを覚悟しないと、無理だよねぇ。東京のフリをして前橋で撮ったりするのが日常茶飯事なわけだし。
僕あたりが見ていて面白いのは、東京の町並みが40年50年と経ってまったく変わっているのに、都内のロケ地だとかなりの場合、どこで撮ったのかが分かってしまうことだ。渋谷駅や新宿駅は駅舎が建て替えられているのに駅名が出なくても判別がつくし、『その場所に女ありて』で一夜を共にした司葉子と宝田明が朝、別れるシーンも、よく見れば宝田明の側の背後画面右隅にニコライ堂が見えるとはいえ、そうでなくてもすぐにお茶の水駅の聖橋口付近だと分かって、逆についニコライ堂を探してしまうほどだ(だから気がついたのかも知れない)。
『殺人容疑者』最初の現場は、南側の桜丘辺りから遠景に渋谷駅と、白木屋(東急デパート東横店)
『脱獄囚』のフラッシュバックで、池辺良たち警視庁捜査一課が殺人犯を逮捕するのはたぶん鴬谷、『殺人容疑者』で最初に死体が見つかるのは移転前のユーロスペースがあった辺りだろうとか、シーンが始まったとたんにピンと来る。なぜ町並みがまったく変わっているのに分かるのかと言えば、鈴木英夫の撮り方が町並みをただ建物の表面的な特徴などのランドマークでなく、崖や丘、川などの地形と、道路や橋、とくに列車など、地理的条件を画面に取り込んでいるからだ。これほど東京を撮るのがうまい監督は正直、初めて見た。彼はたぶん東京を、その地形・地理から歴史まで、知り尽くしていたのだろう。
『脱獄囚』
山手線の北側、東京北部台地のへりと線路が接する位置にある駅
これほど東京を撮り尽くした映画作家もいないだろうと言いたくなるくらい、ロケがめちゃくちゃうまいのに、本領が発揮されるのはオールロケの『殺人容疑者』よりもむしろ屋内はすべてきちんとセットで撮っている東宝に移ってからの作品だというところに、鈴木英夫の「東京という都市を撮る映画作家」としての並々ならぬ才能が隠れているのだと思う。
エドワード・ヤン(楊徳昌)『一、一』
高速道路沿いのマンション
藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』中央線と総武線、水道橋付近
まずセットが、脱獄囚』の警視庁なんて、窓からちゃんとれんが造りの法務省が見えたり、『社員無頼』の本社なら丸の内のはずれ、今だと再開発で国際フォーラムになってるあたり(それならば下車駅は東京駅でなく有楽町のはずではあるが)、『その場所に女ありて』ならば東銀座あたりという、その地理的な条件にちゃんとあわせて作られていることだ。その地区の建築的な特徴がセットに反映されているこの繊細さ、そしてセットに再現されたパワーポリティック的な空間としての職場におけるキャメラ位置の適確さ。
鈴木の映画では、ある場所をまず最初に紹介するためのフルショット、つまりエスタッブリッシング・ショットでほとんど必ず、パースを生かした画面構成を使う。パースなんて概念を頭に入れて映画を撮っている監督自体が希少例だろうが、ほとんど建築家並みの空間整理の感覚を、この映画作家は持っているのだ。優れた映画作家のなかに絵画的なまなざしを持っている人、あるいは写真家的な見通しのよさをが生きている監督は多いが、建築的な感性というのは明らかにこの人の強みである。パースをつい撮ってしまう全体の透視性の一方で、彼の演出は屋内も街角も、実用的な空間、人間がそこを使う場所として見て、演出している。
『社員無頼・怒号編』権力的空間としての職場
だからこそ彼は職場をパワーポリティックスの渦巻く場として見るために必要な構図を次々と見つけて行けたのだろう。時にはずいぶんカット割が細かいのに、ひとつとしていい加減なショットがなく、考え抜かれた構図で、たとえば会話シーンでそれぞれの人物を同じフレーミングのままで撮って編集で切り返しにつなぐみたいなシーンは、たぶんまったく撮ったことすらないのではないか? 会社なんていう平凡きわまりないはずの空間がここまで映画的に充実してくるのは、その建築空間が持っている実用性や意味性を、演出の知性が見抜いて映画に取り込んでいるからであろう。
楊徳昌
『独立時代』
楊徳昌『一、一』
藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』
こんな凄い人が生涯中堅どころ、自分の企画をこなす看板監督でなくスタジオのなかでお仕着せの企画を量産する立場であり続け、現役当時には批評的な評価もたいしてなかったというのは腑に落ちない。結果としてすべてが傑作とは言いがたい、まったく性にあってない映画もありそうだし、67年にはテレビに転向を余儀なくされたそうだが、当時のテレビだと台詞で聞かせたり説明するよりも、まずなによりも構図で見せるという演出家は辛かっただろう。傑作の部類に入る『黒い画集・寒流』でも「これが松本清張原作でなければもっとおもしろかったろうに」と思ってしまう(ちなみにこの映画も、銀行のシーンがとにかく際立っている。本店の窓口とか、たぶん本物だろうな)ところも確かにある。
『目白三平物語・うちの女房』東京駅丸の内南口から丸ビルを臨む
同、現在の丸の内OAZO(旧国鉄本社跡地)前から行幸通り方向
とりあえず『その場所に女ありて』は紛れもない日本映画の最重要作の一本だ。いや今こそ、日本映画としてこういう映画をもっと撮らなければいけないのだという強烈な焦りと嫉妬すら感じてしまう。逆に言えば、すごく現代映画なんだろう、たぶん。
『ぼくらはもう帰れない』丸の内OAZOの屋内
・怒号編』
東京駅丸の内南口から新丸ビル、丸ビル、東京中央郵便局
鈴木英夫の映画のおもしろさのひとつとして,恐らく誰もが気がつくのはそのロケーション撮影の見事さだろう。なにしろ、今はDVDで見られるわりと初期の『殺人容疑者』はオールロケ撮影で、時には俳優を雑踏に放り込んで隠しキャメラで撮影したセミ・ドキュメンタリーの手法が売りだったくらいだし、有楽町駅前で撮られた、まさか映画の撮影とは思っていない通行人まで巻き込んだ逮捕シーンは本当に驚くし、『危険な英雄』の身代金受け渡し現場になる渋谷駅東口なども迫力満点だ。
『殺人容疑者』有楽町のガード下。撮影と知らない通行人が逮捕に協力?
あるいは『社員無頼』ではオープニング・クレジットの背景に東京駅ホームの出勤シーンが映し出され、本編のファーストカットは丸の内南口から左手に東京中央郵便局、右手奥には丸ビル、この構図の切り取り方は緩やかなカーブを描く郵便局と丸ビルの角の丸さを生かした非常に洗練したタッチで、丸の内という都市空間の均整のとれた空間設計を見事に捉えている(当時は丸ビルや郵便局をはじめ丸の内のビルはほぼすべて高さが統一されていた)。同様なショットは、国鉄本社勤務サラリーマンが主人公の『サラリーマン目白三平』シリーズでも見られる。こういうロケは、今の日本映画では、僕たちが『ぼくらはもう帰れない』でやったみたいな完全なゲリラを覚悟しないと、無理だよねぇ。東京のフリをして前橋で撮ったりするのが日常茶飯事なわけだし。
僕あたりが見ていて面白いのは、東京の町並みが40年50年と経ってまったく変わっているのに、都内のロケ地だとかなりの場合、どこで撮ったのかが分かってしまうことだ。渋谷駅や新宿駅は駅舎が建て替えられているのに駅名が出なくても判別がつくし、『その場所に女ありて』で一夜を共にした司葉子と宝田明が朝、別れるシーンも、よく見れば宝田明の側の背後画面右隅にニコライ堂が見えるとはいえ、そうでなくてもすぐにお茶の水駅の聖橋口付近だと分かって、逆についニコライ堂を探してしまうほどだ(だから気がついたのかも知れない)。
『殺人容疑者』最初の現場は、南側の桜丘辺りから遠景に渋谷駅と、白木屋(東急デパート東横店)
『脱獄囚』のフラッシュバックで、池辺良たち警視庁捜査一課が殺人犯を逮捕するのはたぶん鴬谷、『殺人容疑者』で最初に死体が見つかるのは移転前のユーロスペースがあった辺りだろうとか、シーンが始まったとたんにピンと来る。なぜ町並みがまったく変わっているのに分かるのかと言えば、鈴木英夫の撮り方が町並みをただ建物の表面的な特徴などのランドマークでなく、崖や丘、川などの地形と、道路や橋、とくに列車など、地理的条件を画面に取り込んでいるからだ。これほど東京を撮るのがうまい監督は正直、初めて見た。彼はたぶん東京を、その地形・地理から歴史まで、知り尽くしていたのだろう。
『脱獄囚』
山手線の北側、東京北部台地のへりと線路が接する位置にある駅
これほど東京を撮り尽くした映画作家もいないだろうと言いたくなるくらい、ロケがめちゃくちゃうまいのに、本領が発揮されるのはオールロケの『殺人容疑者』よりもむしろ屋内はすべてきちんとセットで撮っている東宝に移ってからの作品だというところに、鈴木英夫の「東京という都市を撮る映画作家」としての並々ならぬ才能が隠れているのだと思う。
エドワード・ヤン(楊徳昌)『一、一』
高速道路沿いのマンション
藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』中央線と総武線、水道橋付近
まずセットが、脱獄囚』の警視庁なんて、窓からちゃんとれんが造りの法務省が見えたり、『社員無頼』の本社なら丸の内のはずれ、今だと再開発で国際フォーラムになってるあたり(それならば下車駅は東京駅でなく有楽町のはずではあるが)、『その場所に女ありて』ならば東銀座あたりという、その地理的な条件にちゃんとあわせて作られていることだ。その地区の建築的な特徴がセットに反映されているこの繊細さ、そしてセットに再現されたパワーポリティック的な空間としての職場におけるキャメラ位置の適確さ。
鈴木の映画では、ある場所をまず最初に紹介するためのフルショット、つまりエスタッブリッシング・ショットでほとんど必ず、パースを生かした画面構成を使う。パースなんて概念を頭に入れて映画を撮っている監督自体が希少例だろうが、ほとんど建築家並みの空間整理の感覚を、この映画作家は持っているのだ。優れた映画作家のなかに絵画的なまなざしを持っている人、あるいは写真家的な見通しのよさをが生きている監督は多いが、建築的な感性というのは明らかにこの人の強みである。パースをつい撮ってしまう全体の透視性の一方で、彼の演出は屋内も街角も、実用的な空間、人間がそこを使う場所として見て、演出している。
『社員無頼・怒号編』権力的空間としての職場
だからこそ彼は職場をパワーポリティックスの渦巻く場として見るために必要な構図を次々と見つけて行けたのだろう。時にはずいぶんカット割が細かいのに、ひとつとしていい加減なショットがなく、考え抜かれた構図で、たとえば会話シーンでそれぞれの人物を同じフレーミングのままで撮って編集で切り返しにつなぐみたいなシーンは、たぶんまったく撮ったことすらないのではないか? 会社なんていう平凡きわまりないはずの空間がここまで映画的に充実してくるのは、その建築空間が持っている実用性や意味性を、演出の知性が見抜いて映画に取り込んでいるからであろう。
楊徳昌
『独立時代』
楊徳昌『一、一』
藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』
こんな凄い人が生涯中堅どころ、自分の企画をこなす看板監督でなくスタジオのなかでお仕着せの企画を量産する立場であり続け、現役当時には批評的な評価もたいしてなかったというのは腑に落ちない。結果としてすべてが傑作とは言いがたい、まったく性にあってない映画もありそうだし、67年にはテレビに転向を余儀なくされたそうだが、当時のテレビだと台詞で聞かせたり説明するよりも、まずなによりも構図で見せるという演出家は辛かっただろう。傑作の部類に入る『黒い画集・寒流』でも「これが松本清張原作でなければもっとおもしろかったろうに」と思ってしまう(ちなみにこの映画も、銀行のシーンがとにかく際立っている。本店の窓口とか、たぶん本物だろうな)ところも確かにある。
『目白三平物語・うちの女房』東京駅丸の内南口から丸ビルを臨む
同、現在の丸の内OAZO(旧国鉄本社跡地)前から行幸通り方向
とりあえず『その場所に女ありて』は紛れもない日本映画の最重要作の一本だ。いや今こそ、日本映画としてこういう映画をもっと撮らなければいけないのだという強烈な焦りと嫉妬すら感じてしまう。逆に言えば、すごく現代映画なんだろう、たぶん。
『ぼくらはもう帰れない』丸の内OAZOの屋内
8/13/2008
鈴木英夫監督『その場所に女ありて』
アテネフランセ文化センターで開催中の鈴木英夫監督特集で、同監督の代表作とされる『その場所に女ありて』を見た。
とにかく呆気にとられるほど素晴らしい傑作であり、このアテネでの特集以前にこの監督のことをほとんど知らず、この映画を見ていなかったことが悔やまれてならない。もっとも、今回の上映プリントは新品らしく、フジカラー特有の寒色系に転んだシャープでクールな色彩美は、以前の上映ではここまで堪能できなかったらしいから、今回見られたのが本当にラッキーなのかも知れない。
土曜日の午後にもう一度上映があるそうだから、見ていない人は必見。その後で蓮實重彦、黒沢清、篠崎誠にわがアメリカの従兄弟(笑)クリス・フジワラ(従兄弟は冗談ですが、恐らく現代の世界でもっとも優れた映画批評家の一人)による鈴木英夫監督についてのシンポジウムもあるそうなので、このメンバーがこの特筆すべき隠れた日本映画作家について何を語るかも楽しみだ。
『その場所に女ありて』がとにかく素晴らしいのだが、それ以外にも秀作が多い。とくに『社員無頼』二部作、『非情都市』『危険な英雄』、それにこの『その場所に女ありて』は、日本人の多くにとって最も重要な現実でありながら日本映画がめったに取り上げて来なかった「仕事の現場」を明晰に演出し尽くした映画として傑出している。
労働者や農民、漁民などを描く映画ならまだたくさんある。だが戦後日本の主流であるホワイトカラー、つまりサラリーマンをここまできちんと描き、企業という社会の文化と行動原理をきっちり捉えた映画というのは、なぜ日本の映画では少ないのだろうとずっと疑問だった。いや日本だけでなく、世界を見回しても、エドワード・ヤンの『独立時代』『一、一』、それに『恐怖分子』の一部くらいしか、すぐには思い浮かばない。もちろんビリー・ワイルダーの『アパートの鍵貸します』くらい戯画化されたサラリーマン制度批判というかぼやきみたいなものなら、市川崑や岡本喜八の映画でなかなかの秀作はあるが、企業というシステムのなかでの人間関係のポリティックスや、仕事そのものが人間をどう変化させて行くかがちゃんと映画になっているかといえば、決してそうとは言えないだろう。ドキュメンタリーに目を向ければ、フレデリック・ワイズマンは一貫してその問題に取り組んできているとも言えるだろうが。
エドワード・ヤンの『独立時代』も、そういえば広告代理店が舞台
しばしば映画は「個人」やせいぜいが「家庭」という、宮崎駿的に言えば「半径3m以内」の私的な問題のなかに人生の真実を見いだそうとして来たのと引き換えに、「半径3m」よりも広い範囲になると突然、政治的な図式性に足下をさらわれてややもすれば安易な図式的批判(資本の巨悪を暴く、とか)に陥りがちであったり、あるいは特殊な仕事の世界の持つエキゾチズムと好奇心に頼ってしまいがちなところがある。
だが鈴木英夫の映画はまったく一線を画している。『彼奴を逃すな』『脱獄囚』などの人気があるサスペンスものでも、警察なら警察で刑事たちはまずなによりも「刑事というお仕事」をしている人であり、『悪の階段』の犯罪者集団ともなるとその集団のなかの力関係こそが演出のターゲットになる。情感や情念も、登場人物の「心理」も、鈴木の映画は潔く切り捨て、人間関係のパワーポリティクスにこそ向かう。彼の映画の主人公たちは,社会の制度的な構図のなかでよくも悪くもまず「普通の人」であり、だから現代日本でもっとも「普通」の環境である企業社会の分析的演出により彼が力を発するのも、当然なのかも知れない。
「企業」を描くことができた数少ない日本映画作家である鈴木のフィルモグラフィのなかでも,広告代理店で働く司葉子が主人公の『その場所に女ありて』は、日本映画のなかでもっとも重要な古典の一本に数えられてもちっともおかしくない高い完成度、映画的な美しさと厚みを発散している。
たとえば司葉子の衣装の選択ひとつをとっても、映画の衣装部は「その職業っぽい格好」の枠内で女優に似合っているか、おしゃれかどうか、せいぜいが役柄の「個性」で衣装を選んで、監督の承認で決めるというのが普通なのだが、この映画ではファッションがキャリアウーマン、とりわけ広告代理店の営業という仕事にとってひとつの道具で、自分がどう見られるのかが企業人にとってどれだけ重要なのかを、演出が理解し抜いている。だからシーンごとにTPOに合っているだけでなく、服装が映画が映し出す状況のポリティクスを明晰化してもいるし、その服選びがときには台詞よりもはるかに雄弁に人物を説明する。これもまた日本の社会ではリアルなことだ。だって我々の社会では、自分の考えをそうストレートに口にしてはいけないというのが暗黙の了解だし、だいたい世界中どこに行こうが、自分の置かれた状況や自分の感情を本当に適確かつ精確に言語化できる人間なんて、まずいないのだし。
それにしても司葉子という女優は素晴らしい。といってもその素晴らしさを本当に使いこなしているのは、この映画をはじめ『非情都市』『危険な英雄』などの鈴木作品と、あとは成瀬の僕にとっては最高傑作『乱れ雲』(ちなみに撮影はどちらも逢沢譲)だけなのだろうけれど。
とにかく呆気にとられるほど素晴らしい傑作であり、このアテネでの特集以前にこの監督のことをほとんど知らず、この映画を見ていなかったことが悔やまれてならない。もっとも、今回の上映プリントは新品らしく、フジカラー特有の寒色系に転んだシャープでクールな色彩美は、以前の上映ではここまで堪能できなかったらしいから、今回見られたのが本当にラッキーなのかも知れない。
土曜日の午後にもう一度上映があるそうだから、見ていない人は必見。その後で蓮實重彦、黒沢清、篠崎誠にわがアメリカの従兄弟(笑)クリス・フジワラ(従兄弟は冗談ですが、恐らく現代の世界でもっとも優れた映画批評家の一人)による鈴木英夫監督についてのシンポジウムもあるそうなので、このメンバーがこの特筆すべき隠れた日本映画作家について何を語るかも楽しみだ。
『その場所に女ありて』がとにかく素晴らしいのだが、それ以外にも秀作が多い。とくに『社員無頼』二部作、『非情都市』『危険な英雄』、それにこの『その場所に女ありて』は、日本人の多くにとって最も重要な現実でありながら日本映画がめったに取り上げて来なかった「仕事の現場」を明晰に演出し尽くした映画として傑出している。
労働者や農民、漁民などを描く映画ならまだたくさんある。だが戦後日本の主流であるホワイトカラー、つまりサラリーマンをここまできちんと描き、企業という社会の文化と行動原理をきっちり捉えた映画というのは、なぜ日本の映画では少ないのだろうとずっと疑問だった。いや日本だけでなく、世界を見回しても、エドワード・ヤンの『独立時代』『一、一』、それに『恐怖分子』の一部くらいしか、すぐには思い浮かばない。もちろんビリー・ワイルダーの『アパートの鍵貸します』くらい戯画化されたサラリーマン制度批判というかぼやきみたいなものなら、市川崑や岡本喜八の映画でなかなかの秀作はあるが、企業というシステムのなかでの人間関係のポリティックスや、仕事そのものが人間をどう変化させて行くかがちゃんと映画になっているかといえば、決してそうとは言えないだろう。ドキュメンタリーに目を向ければ、フレデリック・ワイズマンは一貫してその問題に取り組んできているとも言えるだろうが。
エドワード・ヤンの『独立時代』も、そういえば広告代理店が舞台
しばしば映画は「個人」やせいぜいが「家庭」という、宮崎駿的に言えば「半径3m以内」の私的な問題のなかに人生の真実を見いだそうとして来たのと引き換えに、「半径3m」よりも広い範囲になると突然、政治的な図式性に足下をさらわれてややもすれば安易な図式的批判(資本の巨悪を暴く、とか)に陥りがちであったり、あるいは特殊な仕事の世界の持つエキゾチズムと好奇心に頼ってしまいがちなところがある。
だが鈴木英夫の映画はまったく一線を画している。『彼奴を逃すな』『脱獄囚』などの人気があるサスペンスものでも、警察なら警察で刑事たちはまずなによりも「刑事というお仕事」をしている人であり、『悪の階段』の犯罪者集団ともなるとその集団のなかの力関係こそが演出のターゲットになる。情感や情念も、登場人物の「心理」も、鈴木の映画は潔く切り捨て、人間関係のパワーポリティクスにこそ向かう。彼の映画の主人公たちは,社会の制度的な構図のなかでよくも悪くもまず「普通の人」であり、だから現代日本でもっとも「普通」の環境である企業社会の分析的演出により彼が力を発するのも、当然なのかも知れない。
「企業」を描くことができた数少ない日本映画作家である鈴木のフィルモグラフィのなかでも,広告代理店で働く司葉子が主人公の『その場所に女ありて』は、日本映画のなかでもっとも重要な古典の一本に数えられてもちっともおかしくない高い完成度、映画的な美しさと厚みを発散している。
たとえば司葉子の衣装の選択ひとつをとっても、映画の衣装部は「その職業っぽい格好」の枠内で女優に似合っているか、おしゃれかどうか、せいぜいが役柄の「個性」で衣装を選んで、監督の承認で決めるというのが普通なのだが、この映画ではファッションがキャリアウーマン、とりわけ広告代理店の営業という仕事にとってひとつの道具で、自分がどう見られるのかが企業人にとってどれだけ重要なのかを、演出が理解し抜いている。だからシーンごとにTPOに合っているだけでなく、服装が映画が映し出す状況のポリティクスを明晰化してもいるし、その服選びがときには台詞よりもはるかに雄弁に人物を説明する。これもまた日本の社会ではリアルなことだ。だって我々の社会では、自分の考えをそうストレートに口にしてはいけないというのが暗黙の了解だし、だいたい世界中どこに行こうが、自分の置かれた状況や自分の感情を本当に適確かつ精確に言語化できる人間なんて、まずいないのだし。
それにしても司葉子という女優は素晴らしい。といってもその素晴らしさを本当に使いこなしているのは、この映画をはじめ『非情都市』『危険な英雄』などの鈴木作品と、あとは成瀬の僕にとっては最高傑作『乱れ雲』(ちなみに撮影はどちらも逢沢譲)だけなのだろうけれど。
8/05/2008
松本・地下鉄サリン事件
松本サリン事件の第一通報者で被害者の河野義行さんの妻で、やはりサリン被害者で14年間にわたりサリン中毒により意識不明だった河野澄子さんが亡くなられた。
河野さんといえば、第一通報者で発生現場が自宅そばだったため、当初は犯人ではないかと疑われ、警察の厳しい尋問を受けただけでなく、マスコミから重大な報道被害を受けた方でもある。
だが自分の受けた被害について恨みも憎しみも口にせず、犯行がオウムと特定され、オウム関係者が逮捕され、有罪判決が出ても、常に冷静さを失われず、むしろオウムを悪魔的に扱うことについて疑問さえ堂々と口にされて来た。その温厚な態度と、意識が戻らないままの妻をやさしく介護し続ける姿は、多くの人に感銘を与え続けて来た。
残念ながら、我々は今に至るまで、二つの毒ガス・テロ事件が我々の社会に与えた影響をきちんと把握できていない。あの事件がなんだったのかも、分かろうとすらしていない。だからとくに河野さんご夫妻からは、我々はもっと多くを学び、その意味をとらえ直さなければ行けない。
そして明日は63回目の原爆忌である。63年前にヒロシマで起ったことの真の意味も、我々は本当はまだ知らない。
河野さんといえば、第一通報者で発生現場が自宅そばだったため、当初は犯人ではないかと疑われ、警察の厳しい尋問を受けただけでなく、マスコミから重大な報道被害を受けた方でもある。
だが自分の受けた被害について恨みも憎しみも口にせず、犯行がオウムと特定され、オウム関係者が逮捕され、有罪判決が出ても、常に冷静さを失われず、むしろオウムを悪魔的に扱うことについて疑問さえ堂々と口にされて来た。その温厚な態度と、意識が戻らないままの妻をやさしく介護し続ける姿は、多くの人に感銘を与え続けて来た。
残念ながら、我々は今に至るまで、二つの毒ガス・テロ事件が我々の社会に与えた影響をきちんと把握できていない。あの事件がなんだったのかも、分かろうとすらしていない。だからとくに河野さんご夫妻からは、我々はもっと多くを学び、その意味をとらえ直さなければ行けない。
そして明日は63回目の原爆忌である。63年前にヒロシマで起ったことの真の意味も、我々は本当はまだ知らない。
8/03/2008
世界の終わり?
真夏日の史上最多記録を突破しそうな夏の、8月最初の日曜日は、それだけで鬱病でも再発するんじゃないかと思うほどの蒸し暑さだった。このじっとりとした暑さ、温帯ではなく亜熱帯か熱帯としか思えない気候の原因が地球温暖化だとすれば、気力も失せる暑さに終末感を連想するのも、あながち被害妄想とは言い切れまい。
こうも暑ければ空調のお世話になるしかないのだが、空調を使えば熱は外に放出されて外気はますます暑くなるし、電気を使うということは地球温暖化に貢献することにもなる。都市部の高温・高湿度が夕立と呼ぶには風情をかき消すほどに激しいゲリラ豪雨を都市部にもたらし、という八方手詰まりに、現代文明の限界という言葉を、つい思い出してしまう。このままじゃ絶対に立ち行かないよね、これは。
そんな日曜日に偶然にもぴったりな大事故が二つ。首都高速の板橋の方では石油運搬車輛が横転して大火災になり、高熱で高架道路の鉄の構造体が歪んでしまって復旧のメドが立たないとか。江東区の見本市会場では満員のエスカレーターが原因不明の停止事故で、60人以上が将棋倒しになった。なんでも120人以上が殺到した重さで止まってしまったという説もあり、どちらも世界の、とは言わないが現代文明のある終末を予感させると言えなくもない。
そんな終末、じゃなかった週末の最大の話題は、福田内閣の改造である。サプライズがないというのが批判的な報道の論調になるのもなんとも小泉時代の悪しき遺産というか、小泉政治の問題を批判する論客が福田さんにサプライズがないのを批判しているのもおかしな話だが、堅実な布陣であるのは確かだろう。もっとも、現内閣の原型である安倍改造内閣だって、発足当時は一応、安倍の「お友達内閣」的危うさを排した手堅い仕事内閣とか評価もされていたのだし。
国土交通に谷垣さんや経済産業に二階さん、他にも特命大臣で与謝野馨さんや、自民党の女性議員では数少ない女を売り物にする必要がない女性議員の野田聖子さんや中山恭子さん(自民の女性議員なんて大半はホステス系しかおらんわけやし)が入閣するなど、政策通で知られる実力者も並ぶベテラン中心の手堅い布陣というのが政治記者の評価なのだろうが、裏返せば「なんだ自民党で政策通って言っても、この程度の人材しかおらんのかね?」と言いたくもなる。
なんといったってベテラン実力者ということは、福田さん自身を含め、現在の閉塞状態を作ったことに直接責任を負った世代の政治家でもあるのだし。これではますます「政権交代した方がいい」という感じにはならないのだろうか? 支持率はご祝儀で微増したそうだが。自分は国民に人気があると勝手に思い込んでる吉田茂の孫が自民幹事長で復活、というのもお笑い草にしかならないが、各大臣のプロフィールをよく見ればほとんどが二世、三世というのも(福田サン自身が福田赳夫の息子なわけだが)、こんな雑感も今更な気もするが、なんだかねぇ…。
実力派オールスターキャストの内閣にしてみたらかえって手詰まり感、閉塞感、今ある日本の政治的・社会的システムが明らかに限界を迎えていて、福田さんも含めてそこに気づいているであろうに、それでもなにもできないことを露呈しているように見えてしまってならない。それをあざ笑うような酷暑の折も折にタンクローリー火災で高速道路が半分溶けてしまい、ガソリン価格はリッター180円を突破し190円に迫る。原油高は少しずつ電気代にも転嫁されているし、東電の主力原発の柏崎刈谷は地震の被害で止まったままで、暑いからってみんなでうかつにクーラーをつけると、首都圏全体で電気需要がパンクするそうですよ…。
昨日まで『ぼくらはもう帰れない』を引っさげて「横浜黄金町映画祭」に参加していたわけだが、「世界が注目する日本の新しい才能」を売り物にするこの映画祭で見た若手の日本映画のほとんどにも、このような終末感、あるいは虚無感、喪失感、漂流感が横溢しているのは、僕自身の映画を含め、ある意味で自然だし当然のことだろう。
海外の映画祭でそれなりに評価されているだけあって一本一本の映画はかなりおもしろいし、マンガやテレビなどが原作の商業的な日本映画の大勢と較べて明らかに正直な映画であることに間違いはなく、それだけに現代日本を覆う感覚がより率直に反映されている。明らかになにか大切なものが失われているか、少なくとも我々の大半が見失ってしまっているこの現実は、なまじお金がなくて被写体をフィクショナルに作り込めないぶんもあるのかも知れないが、映画という半ば機械メディアを通したときにはどうやったって「そこにあったもの」としてすくい撮られる。今更ながら「やな国だねぇ」というか、もはやなにも信じられないという現状は否応なく感じられる。
ただ一本一本の映画をどう評価するかというのではなく、全体として、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚にどう向き合うのかについて、ここで上映された日本映画のほとんどがなんの本質的な答えも見い出していない。答えなんて少なくとも若手にあるはずもないんだからそれはそれでいいのだが、「それでも見いださなければならない」という感覚すら持っていない映画も少なくなかったこともまた、指摘しなければなるまい。その意味では映画を作るということが我々にとって逃避的行動でしかないということも、我々は厳しい自己批判として考えなければなるまい。
初日のシンポジウムで誰だったか、「映画を作らなければ生きていけない」というかっこいいことを言っていたのだが、悪いけれどそうしたナルシズムを一歩下がって批判されるとすれば、まだまだなんとなく生きてはいける現状のなかでのマスターベーションとして映画作りがあるのではないか、という指摘だってまぬがれないだろう−−−−「もはやなにも信じられないという現状」という感覚にどう向き合うのか、そこから逃げまくっていても十分に、現に生きて、しかも映画すら作っていられていられるのだとしたら。
もうひとつ指摘できるのは、若手の新しい才能の個性的な映画を集めているはずなのに、ほとんどの作品に濃厚に既視感が溢れていることだ。それも映画好きが作っているのなら、かなり限定されたネタ元の映画がすぐに指摘できるほどに。
もちろん、今やポスト・ポストモダンの世紀である現在に、いまさらシンプルにオリジナリティを求めること自体が誤りだし、ゴダール以来、映画史は元ネタがあってなにが悪いということを受け入れることで進展して来ているのだが、そうは言ってもネタ元があること、我々自身がパスティーシュやパロディから逃れられないことに自覚的であって、オリジナリティやリアリティ、素直に個性的な真実を追い求めることなぞもはやあり得ない限界のなかにいることを自ら批評的に曝け出すことによってしかポストモダン以降の芸術なぞあり得ないわけで、ただネタ元を素直になぞってオマージュ、自分の好きな映画の自己流再生産をやっているだけでも日本人、つまりアジア人、「東洋の黄色いサル」のイノセンスとして受け入れられるなら世界では評価してくれるのだとしたら、それはそれで国辱的な国際的評価かも知れない。
そういう僕自身の『ぼくらはもう帰れない』だって、批評的なスタンスを持った映画史への向き合い方、単なるオマージュ=模倣ではない批評的な引用・パスティーシュ・パロディという態度はゴダールやロバート・アルトマンから一歩も踏み出せていないといえばその通りだし、ただひとつだけ言い訳というか逃げを言ってしまえば、「即興」と宣言したとたんにジョン・カサヴェテスをネタ元だと見誤ったりした愚かな西洋人批評家にはさんざん遭遇したものの、「要は21世紀版のゴダール、ヌーヴェルヴァーグ」と指摘したのは当時の在ベルリン仏大使館の文化担当官のみ(「フランス映画はあれ以来、それを模倣しようとしては失敗し続けているけど、あなたの映画は初めて再現するのに成功しているわ」だそうです)、ロバート・アルトマンという影響について指摘したのはアルトマン本人が冗談めかしてだけだったと、自己弁護しておきます。まあバレなきゃいい、という話でもないのではあるが。
それにしても、あれをみて「カサヴェテス」とか考えるのはよほど盲目としか思えない。「即興」と聞いたら「カサヴェテス」って、そんな「知識」は知識ですらない、ただのパブロフの犬じゃん。イタリアで「カサヴェテス」なんて言われた日には、思わず単なる意地悪で「おたくの国のコメディア・デ・ラルテも我が国の歌舞伎も即興でして、影響を受けたのはその二つです」とケムに巻いてやったほど。んでもってそのどちらの伝統芸能ででも、即興ですが舞台空間は見事に様式化で整理され、完璧なコレオグラフィで進行します。
つまり『ぼくらはもう帰れない』が即興なのに構図も空間もオーガナイズされた運動のなかで進行するのは、歌舞伎的、つまり純粋に日本的なのである−−というのはまったくの大嘘だが。いやまあ、日本人ですから無意識に影響されている可能性は否定しませんが、でも無意識といえば最近突然に気づいたのは、僕の構図の切り方とフレーム内での時間的展開の癖が、しばしば日本の絵巻物と、伝統的な右隻・左隻の屏風の構図をかなりパクっていることで、それでついついワイド画面を使いたくなり、向かって右から左へと運動のベクトルが働いている画が多いのかと突然納得(注:スタンダード画面でほとんどが土本のアップで出来上がっている『映画は生きものの〜』はその限りではなし)。でも歌舞伎は、たぶんなんの影響もないんだろうなぁ…。歌舞伎って花道の位置関係上、むしろ左から右だし。
まあ方法論的にいちばんパクっているのは歌舞伎でもコメディア・デ・ラルテのどちらでもなく、ピナ・バウシュなんですけどね(笑)。西洋人に向かって「東洋の黄色いサル」が「ピナ・バウシュ」なんて口走ってその方法論を解釈し出したりしたら、いよいよもって嫌われるんでしょうね。なにしろ『ぼくらはもう帰れない』は、アジア映画を世界に紹介する伝導師を自任するトニー・レインズ辺りから徹底的に嫌われているし、曰く「お前の映画はアジア映画らしくない」って、だから?
「世界が注目する日本映画」なんて、しょせんそんなものでもある。現実にはたとえば黒沢清のような、エドワード・ヤンとアルトマン亡き後では世界の現代映画でもっとも知的な作家が、日本映画を作っているのにも関わらず。だから外国でも日本でも、一般観客のうち賢そうな人が評価してくれることが、一部の信頼できる批評家や同業者の評価と同様、いちばん信頼できて励みにもなる。国境は実は、あまり関係ない。
いやそれ以前に、世界でもっとも「先進国」が成立している社会とは、この日本なのであって、ここに較べればヨーロッパなんて田舎です。だからこそ終末感、あるいは虚無感、喪失感、漂流感が横溢してもいるのだし。つまり我々は、現代文明の表層性をもっとも純然とシステマティックに実現して来た結果、その限界性にも、もっとも直面してしまっているのだ。
7月26日付けのブログで触れた「敗北感」云々という誤解は、「先進国」を見事に完成させてしまった国に自分たちがいることに気づいてもいないナルシスティックな鈍感さが生み出す言葉なのだろうとも思う。だいたい、そんな敗北感になぞ酔いしている余裕があってたまるもんか。向き合わなければいけないのは、その「先進国」を完成させた現代文明的価値観のほとんどが、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚が即座に疑いを向ける対象でしかもはやないということなのだ。
「若者が映画を見ない」と嘆く以前に、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚のなかでしか本質的には生きられない若者にどう語りかけるのか、どう我々の作る映画というものを信じてもらうのか、その表現を我々はまだまだ完成させていないという厳しい自覚であるはずだ。その自分の限界から逃避したければどうぞご自由に。でも逃げるなら、表現者であろうなんて大それた「夢」はお願いですから諦めて下さい。表現行為はあくまで他者に向かって行うことであって、自分自身の「夢」だかなんだかは、なんの意味も本来持っていないのですから(客をだまくらかすテクニックとしてはけっこう使える、というのは否定しませんが)。
自分のことばかり話してしまうのは悪い癖なので一般論に戻って、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚にどう向き合うのか。喪失感や、漂流感がほとんどの映画に漂っていたのだが、いわばその解消として暴力と流血という自己破壊的カタルシスに向かう作品も何本かあった。今回の映画祭に限らず、例えば万田邦敏監督の『接吻』などに感じる疑問がある。物語の流れとして必要なカタルシスに暴力を持って来るのは古典的な手法なのだが、そのことについて映画自体がどれだけ自覚的であるのかという問題だ。喪失感、虚無感、漂流感のある種の自己破壊的解消として暴力行為に走るということ自体が現実の精神病理学的にも、いわば自殺の代償としての他殺として、現実世界の病理になっている例は最近頻発していて、たとえば最近の加藤智大君の事件などは典型なのだが、いったい映画がその病理を無自覚に共有してしまっているのか、現実に対する批評行為として現代的な表現に結びつけようとしているのかが、不気味に曖昧なのだ。
たとえば黒沢清であれば、暴力を描いても常にそこからある批評的な距離を置き、さらには暴力行為自体が批評的視座を持って逆に社会の矛盾を照射する(ファスビンダーやエドワード・ヤンのように、黒沢はその「動機」に一切触れずあえて「不可解なもの」として同情すら拒否することでそれを実現しているのだと思うが)ところまで突き詰めるのだが、どうにも喪失感、虚無感、漂流感のある種の自己破壊的解消としての暴力行為がそれはそれでやはり病理でしかない。作家自身がその病理を無自覚に共有しているのだとすれば、暴力の安易な利用でカタルシスにするのは、観客とのあいだに病理の共有を強要することになってしまうことに、ピンク映画以降の、もしかしたらその影響下の日本映画は、ときにまったく無自覚であるのかも知れない。そこにノスタルジックなロマンチシズムを求めるだけで、本当にいいのだろうか? セックスと暴力の近似性が、非常に無自覚な形で作家自身のエクスタシーを表現してしまっているかのような。映画自身がその病理を無自覚に共有できる観客を求めているかのような…
そうは言っても、僕自身がやりたいと思っている企画のうち何本かは、冒頭かラストにかなりあこぎな暴力描写を想定しているし、だから偉そうなことを言える立場ではないのかも知れないが。まあ、それがカタルシスにはならないように、演出しなければなりませんね。やってみなけりゃ分からんことだが。
映画自体に濃厚な既視感が漂う(プロットだけで和製『ハズバンズ』や和製『ニュー・シネマ・パラダイス』だろうと見抜けてしまうとか)と同時に、そこに僕個人としてはけっこう耐え難いナルシスティックなノスタルジア、少年っぽい青春賛美で、喪失感が青春の喪失以上には発展してないとかが、無防備に横溢しているものもあった。形式的にもピンク映画だったり黒沢清映画だったりカサヴェテスだったり、作り手自身の青春の記憶に結びついているのであろう映画のスタイルが模倣されていれば、実はますますいわゆる映画批評家や映画ファンには評価し易い、つまり暗黙に作家の側との価値観の共有を幻想できる(実は欲望の共有に過ぎない)作品になるわけだが、それはそれでオマージュとして麗しいとも言えるだろうが、一方である種の逃避でしかないとも、論理的には言えてしまう。
まあそう言っていること自体が、僕が批評家出身であるが故のねじけた見方なのかも知れませんし、『ぼくらはもう帰れない』では逆にそのヒネクレぶりがほとんど攻撃的なまでにシネフィル文化を小馬鹿にしていて、見る人によっては恐ろしくチャレンジングになるように作っているわけですが。
…って言うか、今回の映画祭出品作が、河瀬直美の二本を除いてすべて男の監督の映画だからという単純な理由なのかも知れない。良くも悪くも、自戒も込めて、無自覚に「男の子カルチャー」っぽい映画が多いなあと、どうも思ってしまった。『ぼくらはもう帰れない』はまだ女性主人公二人と準主人公の女性一人が、演出にとってはある意味到達不能、下手すれば理解不能の自分たちの世界をちゃんと作り出していると思うが、それは即興で彼女たち自身が作った世界であるからに過ぎない(だから僕はズルいのである)。
で、「男の子カルチャー」で出てくる女性像というのは、やはりどうしようもなく男の都合にあった、男の子のファンタジーのなかの女性にしかならない。愚かな男を描くフリをして、最後にはその愚かさを受け入れてくれる女性でちゃんとオチをつけるとか。リアルなのは男の幻想に隷属してその一部になりたがっている女性だけだったりして。日本こそ最大の先進国だとさっきは言ったが、こと女性蔑視の問題だけは、未だに感覚の中枢からして発展途上国なのかも知れない。もっとも、まだ発展途上の高度成長が始まるか始まらないかの時代に、日本では世界映画史上もっとも成熟した女性映画を、成瀬巳喜男が作っていたのでもあるが。まあ成瀬の映画は、大人の映画ですから。
もちろん今回の映画祭で全部の映画を見たわけではないし、見た中でも例外はあって、たとえば台湾の女性は主人公の日本人青年よりもずっと男性的で芯の強さが、静謐なたたずまいににじみ出ていたりするわけですが、それは『ぼくらはもう帰れない』と同様、女性たちが男の子でしかない作家の幻想の埒外の他者としてそこに佇んでいる結果なのかも知れない。とかまあ、いろいろ考えてしまいますが、第二回の映画祭では、もっと女性の映画作家が活躍しなきゃいけないような気もする。というか、これからは日本でも女の撮る映画がおもしろくならなければならない。
そうでなくとも映画祭のスタッフ、ボランティアの多くが女性で、学生さんの一方で中年の主婦の方とかも多く、「男の子」している参加監督を母性本能で暖かく見守ってたのかも知れません。ちなみに『映画は生きものの記録である』は実は中高年女性(失礼!)の評判がいちばんよかった映画でしたが、これまで海外では先輩同業者以外では若者ウケがいちばん多かった『ぼくらはもう帰れない』も、横浜では妙齢の女性(失礼!)にかなり気に入られていたようで(SMとか出てくるのに)、話しかけられて褒められたりしてました…。母性本能で暖かく見守っていただくのも、悪い気はいないんですよね。甘えちゃいけない、自戒自戒!
だいたい、男は甘ったれたロマンチシズムで「終末感」「喪失感」とか言っているが、女性はけっこうしたたかに賢く、そんなこと気にせずに新しい世界を切り開いて行けるのかも知れない…ってのもまた男の幻想かも知れませんが。
こうも暑ければ空調のお世話になるしかないのだが、空調を使えば熱は外に放出されて外気はますます暑くなるし、電気を使うということは地球温暖化に貢献することにもなる。都市部の高温・高湿度が夕立と呼ぶには風情をかき消すほどに激しいゲリラ豪雨を都市部にもたらし、という八方手詰まりに、現代文明の限界という言葉を、つい思い出してしまう。このままじゃ絶対に立ち行かないよね、これは。
そんな日曜日に偶然にもぴったりな大事故が二つ。首都高速の板橋の方では石油運搬車輛が横転して大火災になり、高熱で高架道路の鉄の構造体が歪んでしまって復旧のメドが立たないとか。江東区の見本市会場では満員のエスカレーターが原因不明の停止事故で、60人以上が将棋倒しになった。なんでも120人以上が殺到した重さで止まってしまったという説もあり、どちらも世界の、とは言わないが現代文明のある終末を予感させると言えなくもない。
そんな終末、じゃなかった週末の最大の話題は、福田内閣の改造である。サプライズがないというのが批判的な報道の論調になるのもなんとも小泉時代の悪しき遺産というか、小泉政治の問題を批判する論客が福田さんにサプライズがないのを批判しているのもおかしな話だが、堅実な布陣であるのは確かだろう。もっとも、現内閣の原型である安倍改造内閣だって、発足当時は一応、安倍の「お友達内閣」的危うさを排した手堅い仕事内閣とか評価もされていたのだし。
国土交通に谷垣さんや経済産業に二階さん、他にも特命大臣で与謝野馨さんや、自民党の女性議員では数少ない女を売り物にする必要がない女性議員の野田聖子さんや中山恭子さん(自民の女性議員なんて大半はホステス系しかおらんわけやし)が入閣するなど、政策通で知られる実力者も並ぶベテラン中心の手堅い布陣というのが政治記者の評価なのだろうが、裏返せば「なんだ自民党で政策通って言っても、この程度の人材しかおらんのかね?」と言いたくもなる。
なんといったってベテラン実力者ということは、福田さん自身を含め、現在の閉塞状態を作ったことに直接責任を負った世代の政治家でもあるのだし。これではますます「政権交代した方がいい」という感じにはならないのだろうか? 支持率はご祝儀で微増したそうだが。自分は国民に人気があると勝手に思い込んでる吉田茂の孫が自民幹事長で復活、というのもお笑い草にしかならないが、各大臣のプロフィールをよく見ればほとんどが二世、三世というのも(福田サン自身が福田赳夫の息子なわけだが)、こんな雑感も今更な気もするが、なんだかねぇ…。
実力派オールスターキャストの内閣にしてみたらかえって手詰まり感、閉塞感、今ある日本の政治的・社会的システムが明らかに限界を迎えていて、福田さんも含めてそこに気づいているであろうに、それでもなにもできないことを露呈しているように見えてしまってならない。それをあざ笑うような酷暑の折も折にタンクローリー火災で高速道路が半分溶けてしまい、ガソリン価格はリッター180円を突破し190円に迫る。原油高は少しずつ電気代にも転嫁されているし、東電の主力原発の柏崎刈谷は地震の被害で止まったままで、暑いからってみんなでうかつにクーラーをつけると、首都圏全体で電気需要がパンクするそうですよ…。
昨日まで『ぼくらはもう帰れない』を引っさげて「横浜黄金町映画祭」に参加していたわけだが、「世界が注目する日本の新しい才能」を売り物にするこの映画祭で見た若手の日本映画のほとんどにも、このような終末感、あるいは虚無感、喪失感、漂流感が横溢しているのは、僕自身の映画を含め、ある意味で自然だし当然のことだろう。
海外の映画祭でそれなりに評価されているだけあって一本一本の映画はかなりおもしろいし、マンガやテレビなどが原作の商業的な日本映画の大勢と較べて明らかに正直な映画であることに間違いはなく、それだけに現代日本を覆う感覚がより率直に反映されている。明らかになにか大切なものが失われているか、少なくとも我々の大半が見失ってしまっているこの現実は、なまじお金がなくて被写体をフィクショナルに作り込めないぶんもあるのかも知れないが、映画という半ば機械メディアを通したときにはどうやったって「そこにあったもの」としてすくい撮られる。今更ながら「やな国だねぇ」というか、もはやなにも信じられないという現状は否応なく感じられる。
ただ一本一本の映画をどう評価するかというのではなく、全体として、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚にどう向き合うのかについて、ここで上映された日本映画のほとんどがなんの本質的な答えも見い出していない。答えなんて少なくとも若手にあるはずもないんだからそれはそれでいいのだが、「それでも見いださなければならない」という感覚すら持っていない映画も少なくなかったこともまた、指摘しなければなるまい。その意味では映画を作るということが我々にとって逃避的行動でしかないということも、我々は厳しい自己批判として考えなければなるまい。
初日のシンポジウムで誰だったか、「映画を作らなければ生きていけない」というかっこいいことを言っていたのだが、悪いけれどそうしたナルシズムを一歩下がって批判されるとすれば、まだまだなんとなく生きてはいける現状のなかでのマスターベーションとして映画作りがあるのではないか、という指摘だってまぬがれないだろう−−−−「もはやなにも信じられないという現状」という感覚にどう向き合うのか、そこから逃げまくっていても十分に、現に生きて、しかも映画すら作っていられていられるのだとしたら。
もうひとつ指摘できるのは、若手の新しい才能の個性的な映画を集めているはずなのに、ほとんどの作品に濃厚に既視感が溢れていることだ。それも映画好きが作っているのなら、かなり限定されたネタ元の映画がすぐに指摘できるほどに。
もちろん、今やポスト・ポストモダンの世紀である現在に、いまさらシンプルにオリジナリティを求めること自体が誤りだし、ゴダール以来、映画史は元ネタがあってなにが悪いということを受け入れることで進展して来ているのだが、そうは言ってもネタ元があること、我々自身がパスティーシュやパロディから逃れられないことに自覚的であって、オリジナリティやリアリティ、素直に個性的な真実を追い求めることなぞもはやあり得ない限界のなかにいることを自ら批評的に曝け出すことによってしかポストモダン以降の芸術なぞあり得ないわけで、ただネタ元を素直になぞってオマージュ、自分の好きな映画の自己流再生産をやっているだけでも日本人、つまりアジア人、「東洋の黄色いサル」のイノセンスとして受け入れられるなら世界では評価してくれるのだとしたら、それはそれで国辱的な国際的評価かも知れない。
そういう僕自身の『ぼくらはもう帰れない』だって、批評的なスタンスを持った映画史への向き合い方、単なるオマージュ=模倣ではない批評的な引用・パスティーシュ・パロディという態度はゴダールやロバート・アルトマンから一歩も踏み出せていないといえばその通りだし、ただひとつだけ言い訳というか逃げを言ってしまえば、「即興」と宣言したとたんにジョン・カサヴェテスをネタ元だと見誤ったりした愚かな西洋人批評家にはさんざん遭遇したものの、「要は21世紀版のゴダール、ヌーヴェルヴァーグ」と指摘したのは当時の在ベルリン仏大使館の文化担当官のみ(「フランス映画はあれ以来、それを模倣しようとしては失敗し続けているけど、あなたの映画は初めて再現するのに成功しているわ」だそうです)、ロバート・アルトマンという影響について指摘したのはアルトマン本人が冗談めかしてだけだったと、自己弁護しておきます。まあバレなきゃいい、という話でもないのではあるが。
それにしても、あれをみて「カサヴェテス」とか考えるのはよほど盲目としか思えない。「即興」と聞いたら「カサヴェテス」って、そんな「知識」は知識ですらない、ただのパブロフの犬じゃん。イタリアで「カサヴェテス」なんて言われた日には、思わず単なる意地悪で「おたくの国のコメディア・デ・ラルテも我が国の歌舞伎も即興でして、影響を受けたのはその二つです」とケムに巻いてやったほど。んでもってそのどちらの伝統芸能ででも、即興ですが舞台空間は見事に様式化で整理され、完璧なコレオグラフィで進行します。
つまり『ぼくらはもう帰れない』が即興なのに構図も空間もオーガナイズされた運動のなかで進行するのは、歌舞伎的、つまり純粋に日本的なのである−−というのはまったくの大嘘だが。いやまあ、日本人ですから無意識に影響されている可能性は否定しませんが、でも無意識といえば最近突然に気づいたのは、僕の構図の切り方とフレーム内での時間的展開の癖が、しばしば日本の絵巻物と、伝統的な右隻・左隻の屏風の構図をかなりパクっていることで、それでついついワイド画面を使いたくなり、向かって右から左へと運動のベクトルが働いている画が多いのかと突然納得(注:スタンダード画面でほとんどが土本のアップで出来上がっている『映画は生きものの〜』はその限りではなし)。でも歌舞伎は、たぶんなんの影響もないんだろうなぁ…。歌舞伎って花道の位置関係上、むしろ左から右だし。
まあ方法論的にいちばんパクっているのは歌舞伎でもコメディア・デ・ラルテのどちらでもなく、ピナ・バウシュなんですけどね(笑)。西洋人に向かって「東洋の黄色いサル」が「ピナ・バウシュ」なんて口走ってその方法論を解釈し出したりしたら、いよいよもって嫌われるんでしょうね。なにしろ『ぼくらはもう帰れない』は、アジア映画を世界に紹介する伝導師を自任するトニー・レインズ辺りから徹底的に嫌われているし、曰く「お前の映画はアジア映画らしくない」って、だから?
「世界が注目する日本映画」なんて、しょせんそんなものでもある。現実にはたとえば黒沢清のような、エドワード・ヤンとアルトマン亡き後では世界の現代映画でもっとも知的な作家が、日本映画を作っているのにも関わらず。だから外国でも日本でも、一般観客のうち賢そうな人が評価してくれることが、一部の信頼できる批評家や同業者の評価と同様、いちばん信頼できて励みにもなる。国境は実は、あまり関係ない。
いやそれ以前に、世界でもっとも「先進国」が成立している社会とは、この日本なのであって、ここに較べればヨーロッパなんて田舎です。だからこそ終末感、あるいは虚無感、喪失感、漂流感が横溢してもいるのだし。つまり我々は、現代文明の表層性をもっとも純然とシステマティックに実現して来た結果、その限界性にも、もっとも直面してしまっているのだ。
7月26日付けのブログで触れた「敗北感」云々という誤解は、「先進国」を見事に完成させてしまった国に自分たちがいることに気づいてもいないナルシスティックな鈍感さが生み出す言葉なのだろうとも思う。だいたい、そんな敗北感になぞ酔いしている余裕があってたまるもんか。向き合わなければいけないのは、その「先進国」を完成させた現代文明的価値観のほとんどが、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚が即座に疑いを向ける対象でしかもはやないということなのだ。
「若者が映画を見ない」と嘆く以前に、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚のなかでしか本質的には生きられない若者にどう語りかけるのか、どう我々の作る映画というものを信じてもらうのか、その表現を我々はまだまだ完成させていないという厳しい自覚であるはずだ。その自分の限界から逃避したければどうぞご自由に。でも逃げるなら、表現者であろうなんて大それた「夢」はお願いですから諦めて下さい。表現行為はあくまで他者に向かって行うことであって、自分自身の「夢」だかなんだかは、なんの意味も本来持っていないのですから(客をだまくらかすテクニックとしてはけっこう使える、というのは否定しませんが)。
自分のことばかり話してしまうのは悪い癖なので一般論に戻って、「もはやなにも信じられないという現状」という感覚にどう向き合うのか。喪失感や、漂流感がほとんどの映画に漂っていたのだが、いわばその解消として暴力と流血という自己破壊的カタルシスに向かう作品も何本かあった。今回の映画祭に限らず、例えば万田邦敏監督の『接吻』などに感じる疑問がある。物語の流れとして必要なカタルシスに暴力を持って来るのは古典的な手法なのだが、そのことについて映画自体がどれだけ自覚的であるのかという問題だ。喪失感、虚無感、漂流感のある種の自己破壊的解消として暴力行為に走るということ自体が現実の精神病理学的にも、いわば自殺の代償としての他殺として、現実世界の病理になっている例は最近頻発していて、たとえば最近の加藤智大君の事件などは典型なのだが、いったい映画がその病理を無自覚に共有してしまっているのか、現実に対する批評行為として現代的な表現に結びつけようとしているのかが、不気味に曖昧なのだ。
たとえば黒沢清であれば、暴力を描いても常にそこからある批評的な距離を置き、さらには暴力行為自体が批評的視座を持って逆に社会の矛盾を照射する(ファスビンダーやエドワード・ヤンのように、黒沢はその「動機」に一切触れずあえて「不可解なもの」として同情すら拒否することでそれを実現しているのだと思うが)ところまで突き詰めるのだが、どうにも喪失感、虚無感、漂流感のある種の自己破壊的解消としての暴力行為がそれはそれでやはり病理でしかない。作家自身がその病理を無自覚に共有しているのだとすれば、暴力の安易な利用でカタルシスにするのは、観客とのあいだに病理の共有を強要することになってしまうことに、ピンク映画以降の、もしかしたらその影響下の日本映画は、ときにまったく無自覚であるのかも知れない。そこにノスタルジックなロマンチシズムを求めるだけで、本当にいいのだろうか? セックスと暴力の近似性が、非常に無自覚な形で作家自身のエクスタシーを表現してしまっているかのような。映画自身がその病理を無自覚に共有できる観客を求めているかのような…
そうは言っても、僕自身がやりたいと思っている企画のうち何本かは、冒頭かラストにかなりあこぎな暴力描写を想定しているし、だから偉そうなことを言える立場ではないのかも知れないが。まあ、それがカタルシスにはならないように、演出しなければなりませんね。やってみなけりゃ分からんことだが。
映画自体に濃厚な既視感が漂う(プロットだけで和製『ハズバンズ』や和製『ニュー・シネマ・パラダイス』だろうと見抜けてしまうとか)と同時に、そこに僕個人としてはけっこう耐え難いナルシスティックなノスタルジア、少年っぽい青春賛美で、喪失感が青春の喪失以上には発展してないとかが、無防備に横溢しているものもあった。形式的にもピンク映画だったり黒沢清映画だったりカサヴェテスだったり、作り手自身の青春の記憶に結びついているのであろう映画のスタイルが模倣されていれば、実はますますいわゆる映画批評家や映画ファンには評価し易い、つまり暗黙に作家の側との価値観の共有を幻想できる(実は欲望の共有に過ぎない)作品になるわけだが、それはそれでオマージュとして麗しいとも言えるだろうが、一方である種の逃避でしかないとも、論理的には言えてしまう。
まあそう言っていること自体が、僕が批評家出身であるが故のねじけた見方なのかも知れませんし、『ぼくらはもう帰れない』では逆にそのヒネクレぶりがほとんど攻撃的なまでにシネフィル文化を小馬鹿にしていて、見る人によっては恐ろしくチャレンジングになるように作っているわけですが。
…って言うか、今回の映画祭出品作が、河瀬直美の二本を除いてすべて男の監督の映画だからという単純な理由なのかも知れない。良くも悪くも、自戒も込めて、無自覚に「男の子カルチャー」っぽい映画が多いなあと、どうも思ってしまった。『ぼくらはもう帰れない』はまだ女性主人公二人と準主人公の女性一人が、演出にとってはある意味到達不能、下手すれば理解不能の自分たちの世界をちゃんと作り出していると思うが、それは即興で彼女たち自身が作った世界であるからに過ぎない(だから僕はズルいのである)。
で、「男の子カルチャー」で出てくる女性像というのは、やはりどうしようもなく男の都合にあった、男の子のファンタジーのなかの女性にしかならない。愚かな男を描くフリをして、最後にはその愚かさを受け入れてくれる女性でちゃんとオチをつけるとか。リアルなのは男の幻想に隷属してその一部になりたがっている女性だけだったりして。日本こそ最大の先進国だとさっきは言ったが、こと女性蔑視の問題だけは、未だに感覚の中枢からして発展途上国なのかも知れない。もっとも、まだ発展途上の高度成長が始まるか始まらないかの時代に、日本では世界映画史上もっとも成熟した女性映画を、成瀬巳喜男が作っていたのでもあるが。まあ成瀬の映画は、大人の映画ですから。
もちろん今回の映画祭で全部の映画を見たわけではないし、見た中でも例外はあって、たとえば台湾の女性は主人公の日本人青年よりもずっと男性的で芯の強さが、静謐なたたずまいににじみ出ていたりするわけですが、それは『ぼくらはもう帰れない』と同様、女性たちが男の子でしかない作家の幻想の埒外の他者としてそこに佇んでいる結果なのかも知れない。とかまあ、いろいろ考えてしまいますが、第二回の映画祭では、もっと女性の映画作家が活躍しなきゃいけないような気もする。というか、これからは日本でも女の撮る映画がおもしろくならなければならない。
そうでなくとも映画祭のスタッフ、ボランティアの多くが女性で、学生さんの一方で中年の主婦の方とかも多く、「男の子」している参加監督を母性本能で暖かく見守ってたのかも知れません。ちなみに『映画は生きものの記録である』は実は中高年女性(失礼!)の評判がいちばんよかった映画でしたが、これまで海外では先輩同業者以外では若者ウケがいちばん多かった『ぼくらはもう帰れない』も、横浜では妙齢の女性(失礼!)にかなり気に入られていたようで(SMとか出てくるのに)、話しかけられて褒められたりしてました…。母性本能で暖かく見守っていただくのも、悪い気はいないんですよね。甘えちゃいけない、自戒自戒!
だいたい、男は甘ったれたロマンチシズムで「終末感」「喪失感」とか言っているが、女性はけっこうしたたかに賢く、そんなこと気にせずに新しい世界を切り開いて行けるのかも知れない…ってのもまた男の幻想かも知れませんが。
登録:
投稿 (Atom)