最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

1/25/2015

イスラム国と日本と「身代金」と


イスラム国による日本人二人人質事件は、‪期限の72時間が虚しく経過したところで、安倍‬首相がどうも本気で身代金を払いたがっていそうな展開らしい。

記者の質問に副総理の麻生太郎氏は苦虫を潰した顔で「聞いてくれるな」と言わんばかりだし、アメリカとイギリスは露骨に警戒し、アメリカは国務省も大使館も露骨に牽制発言を繰り返し、イギリスに至っては電話首脳会談の内容を(外交ルールに反してまで)リークして、安倍の日本政府に釘を刺そうとしている。

その「テロと断固戦う」側のすったもんだをあざ笑うかのように、イスラム国は湯川氏が殺害されたらしいと思わせる、湯川氏の遺体と見える写真を後藤氏に持たせた動画を公開した。どんなに安倍が口先だけは「許し難い暴挙」と言ったところで、これで後藤氏まで殺害、となればその安倍がなにをやり始めるのか、想像もつかない。

日本政府はいわば、自分で自分を追いつめてしまっていて、イスラム国側はそれを利用している。こと安倍氏自身の困った性格は、そんなイスラム国側の情報心理戦にみごとつけ込まれている。

そもそも後藤・湯川両氏は数ヶ月以上イスラム国に拘束されてはいても、特段の迫った生命の危機にはなかった(イスラム国では宗教裁判とはいえちゃんと裁判をする手続きをやろうとしていた)状態だった。それが、突然殺害予告の脅迫ビデオが出る事態の急展開は、安倍首相が中東歴訪中にイスラム国敵視を公言してしまったからこそ起きた

だが日本のメディアはその安倍氏の稚拙な外交的失態から国民の目を逸らそうと、イスラム国が残虐な「テロ組織」で「過激派」だと強調する一方で、二人の被害者のうち一人、フリー・ジャーナリストの後藤健二氏を一生懸命美化して来てしまった。

紛争地の子どもたちの境遇に胸を痛め、それを日本に伝えて来たジャーナリストとして氏を賞賛すればするほど、政府が後藤健二氏を救出しない(出来なかった、という以上にそもそも最初はやる気がなかった)で見殺しにしてしまえば、もはや安倍政権の浮沈に関わりかねない。

日本が機密費でこっそりと身代金を拠出すること自体は、政府の内部で当然検討されていてしかるべき選択肢だし、あくまで極秘裏を貫く限りはそう非難されるべきことでもない。外交、安全保障とはそういうものだし、だからこそ国家機密を守らなければならないのだ。過去には小渕首相が身代金提供を決断して人質を解放させた(そして徹底して秘密は守った・最近鈴木宗男氏がやっと明かした)事例だってある。

ダッカ事件で日本政府が取引に応じたことも、間違いだと一方的に叩かれているのは日本国内だけだ。

「テロ組織と取引はしない」ことは、確かに国連安保理の決議にもなってはいる。

しかしそれもまたタテマエに過ぎず、国家にとってもっとも大切なのはやはり、目の前で命の危機に晒されている自国民であり、完全に秘密を守るか、その政府が公には「身代金なんて絶対に払っていない」と言い続ける限りは無視するのが、国際社会の紳士協定のようなものなのだ。

それでも今、アメリカやイギリスがあからさまに牽制までするほどに本気で危惧しているのは(そしてそういう常識が一応は分かっている麻生太郎氏もえらく心配していそうなのは)、なにしろ安倍晋三のことだから自分の手柄にしたい、とにかく威張りたい、内外から浴びている批判に対抗したいだけで、「私の決断で後藤さんの命を」とか、おおっぴらに言い出しかねないことだろう。

外交が実際には国益や国際社会の信義、ないし利害よりも、国内世論への対応で左右されるのも、これまたどこでもある話ではある。とはいっても安倍政権の場合はそれが極端過ぎる、すべてが国内向け人気取りにしかなっていないどころか、首相の子どもじみた自慢や、首相とその周囲のごく一部の人たちのご機嫌取りだかのために、外交が左右されてしまうことがあまりに多いのは、由々しき問題だ。

実際、この人質事件にしても、安倍政権のやっていることは最初から、途方もなさ過ぎる平和ボケの、勘違いの連続なのだ。

それまでイスラム国にいわば「未決囚」として勾留されていた湯川・後藤両氏が突然「人質である敵国民」になってしまったこと自体、安倍が得意気に「テロと戦う自分」をアピールしたくてイスラム国敵視を明言した上で周辺国を敵対国とみなして資金供与を言ってしまったからだ。

時系列を見れば明らかなことを誤摩化そうとして「人道支援だ」「誤解だ」と、国内からの批判に一生懸命に反論したつもりになっていること自体、この政権の外交があまりに幼稚過ぎることの好例になっている。そもそも「反論」として成立していない後付けの言い訳に過ぎず国民を馬鹿にし過ぎだし、だがもっと重大なこととして、こんな子どもじみた「反論」もどきでエゴを発散したところで、イスラム国に対しても、イスラム国を決して快くは思っていないムスリム諸国相手にも、今さらなんの説得力もない。

国内的にはその首相の失態を誤摩化すために、被害者のうち後藤健二氏をしきりと立派な、純粋な人だと持ち上げることを報道にさんざんやらせた結果、いまさら後藤氏を見殺しにもできず、本気で身代金支払いを考えざるを得なくもなって来ている。だから政府は一生懸命、イスラム国と交渉するためのルートを探して情報収集に励んでいると公言しているが、売名行為や、詐欺まがいの手法で「240億円」という巨額な身代金のおこぼれにあずかろうとして交渉仲介を名乗り出る者たちに翻弄されるだけだろう。

そもそも本気で身代金が欲しくてイスラム国が2億ドルと言っていると思うのだろうか?「2億ドル」という要求が本気に見えるのだろうか?

2億ドルというのは安倍がカイロでイスラム国周辺諸国をその敵対国とみなして資金供与を言ってしまった総額とぴったり同じ金額で、つまりイスラム国側のメッセージははっきりしているし、2億ドルもの金をどう受け渡しする(イスラム国側から見れば「受け取る」)と言うのだろうか?

ほんとうに、度を越した平和ボケもたいがいにして欲しい。

日本政府とたとえ間接的にでも交渉に応じるということは、イスラム国側からすればその支配中枢の居場所を敵国(とくに米国)に察知されるリスクを伴う。日本側との交渉に間接的にでも応じて人質の安否や所在を伝えるだけでも、その情報はすぐに米国に伝わるだろう。「普通の国」ならそこも含めて、とくに米国が同盟国だからこそ絶対に情報を漏らさないように細心の配慮を徹底させるが、これまでの外交・国際政治上の経験則からして、こと日本にそれを期待するお人好しはいない

イスラム国にとってのその危険は、米軍などの空襲が続く中、かつてどうもフランスが実はこっそり身代金を払って自国民の記者を解放させたらしい時とは、比べものにならないほど大きい。今までアメリカの「テロとの戦争」に一定の距離を置いて来たそのフランスが今はその戦争をやりたくてしょうがない、というだけでも、今回の人質事案は、これまでのケースと根本的に状況が違うのだ。

イスラム国の高官と人脈があるというジャーナリスト等が仲介を言っているのを政府が無視している、という非難も一部では高まっているが、そっちもそっちで本気で言っているとしたらよほどズレている。記者会見などで公言してしまったのだから、イスラム国側が彼らと今後接触はしない。ただでさえ人質・身代金事案は極秘裏で進めるのが常識であるだけでなく、現状のイスラム国は圧倒的な力を持つ複数の「敵国」相手に戦争状態にあり、この人質事件がその結果起こっていることが理解できていないのだろうか? 紛争地帯の報道で名を馳せたジャーナリストのはずが、そんなことすら踏まえられないのか?

イスラム国は今、日々米軍などの空襲に晒されているのだ。

取引場所に現れた途端、どころかなんらかの形で返答を伝える、当然CIAなどにマークされているジャーナリスト相手にそれこそメールを使うだけでも、居場所を探知されて米軍のドローン(遠隔操作の無人対地攻撃機)にピンポイント攻撃されるかも知れない。

イスラム国側にそもそも日本と交渉する気がないという可能性がもの凄く大きいことは当然考慮に入れなければならない。どう見ても今回の人質事件・脅迫・殺人予告の最大の目的は、身代金ではない。これは彼らからすれば、日本との「戦争」であり、しかも「戦争」を仕掛けたのは(カイロで安倍があんな演説をやってしまった)日本側なのだ。

だがそのこと自体を安倍政権はなんとか誤摩化したい、安倍がカイロで自慢げにやってしまった演説がとんでもない失言だったと認められないせいで、日本の対応も日本の世論も、これが外交の問題であるはずなのに、どんどん国内限定の堂々回りに陥るばかりだ。

それにしても「あくまで人道支援だ」と強調するのなら、「日本はイスラム国を敵視したつもりはない」と声明を出さなければ筋が通らないのだが、この人たちは本当になにを考えているのだろう?

1/23/2015

【緊急提言】 イスラム国人質事件を本当に解決したいのならば


イスラム国に拘束された日本人2名の人命こそ最優先だと安倍晋三首相が言うのなら、しかし「テロは許せない」から「身代金は払えない」のであれば、出来ることはある。日本政府はイスラム国側が提示した72時間という期限を本日午後2時50分と見ているそうだが、ならば本日2時でもいい、日本人2人の命を救うために(安倍さん自身大好きな)首相直々の記者会見をやればいいのだ。

そこで安倍がカイロで演説した、イスラム国と敵対する周辺国への2億ドルという資金供与をいったん凍結し、「あくまで人道支援」と言い張っているのだからより有効な、安倍自身の唱える「積極的平和主義」の理念にも合致した、たとえば医療団の派遣や、日本が直接難民キャンプを設置し運営するなど、文字通り積極的な人道支援策の平和主義を検討する、と表明すればいいのである。

これで湯川・後藤両氏はほぼ確実に解放されるか、少なくとも即座に殺害されることはないだろう。

政府は懸命に「情報収集に当っている」と言うが、外務副大臣をわざわざヨルダンに置きながら、不思議なことにこの事件を理由に安倍氏は(現地により近いはずの)中東の歴訪を切り上げて帰国している。政府専用機には首相官邸に集まった情報はすぐに伝わるシステムになっているし、首相自らがことの解決に当るのなら、中東に留まった方が出来ることは多かったのではないか?

それこそヨルダン国王やアッバス・パレスティナ自治政府評議会議長にでも直に協力を要請してもよかったし、緊急にトルコに飛んで大統領と会談をしてもよかったはずだ。ところが帰国した安倍氏が懸命に連携を確認しているのは、なぜかオーストラリアだったり、イスラム国と敵対関係にある米国やイギリスだ。これでどうやってイスラム国との交渉の糸口が掴めると言うのか?

人質になっている湯川氏は昨年8月以前に、後藤氏も10月にはイスラム国に拘束されていたとされ、その情報を外務省も政府も把握していた。その数ヶ月に渡り、殺害予告の類いは出されていない。

僅かに信憑性がかなり疑われる身代金要求のメールが後藤氏の家族に届いていただけだが、そんなもの後藤氏がイスラム国に入って消息が途絶えた時点で誰でも出せるし、アルカイーダでもイスラム国でも、実は携わってないテロ行為でも声明を出したり、逆にアルカイーダを名乗っても実態は不明というのは、もはやおなじみだ。 
こうしてインターネットの特性を徹底的に利用した情報操作と撹乱の心理戦こそ、アルカイーダがもっとも得意として来たことであり、それはそこから派生したイスラム国にも引き継がれている。

要するにこれまで殺す気がまったくなかったように見えるこの日本人二人が、このタイミングになぜ突然殺害予告となったのか、時系列を単純に追うだけであまりに自明なことを、なぜか日本のメディアははっきり言わない。

言うまでもなく、誰が見ても、これは安倍首相の中東歴訪を狙ったものだし、それも事前から計画されていたこととは考えにくいのは、要求されていると報道される身代金(なお実際の犯行声明ビデオのニュアンスは異なる)の額を見れば当然だろう。要求額は2億ドル、安倍氏がこの犯行声明ビデオが出る前々日だったか、よりにもよってエジプトのカイロで、イスラム国と敵対する周辺諸国に供与すると演説した資金の総額とまったく同額だ。

なぜ湯川・後藤両氏は拘束から何ヶ月も殺害予告もなく、出所の怪しいメールが後藤氏の留守家族に届いただけだったのか?

湯川氏の場合はその理由すらはっきりしている。

昨年、イスラム国から日本人の裁判があるのでイスラム教徒でイスラム法に詳しい日本人を招聘したい、との申し入れがあり、それに応じて入国したのが同志社大学客員教授の中田孝氏(ムスリムとしての名はハッサン)だった。中田氏はこうした事件になるまでは、日本人の裁判のためイスラム国に招聘されたことは語っていたが、その日本人が誰だったのかは今まで公表はしていなかった。それでもだいたい類推はつくことだし(他に裁判になる日本人が見当たらない)、現に殺害予告を受けた1月22日の記者会見で、それが湯川氏の裁判だったこと、イスラム国に入国したものの米軍の空爆が激しく、裁判を開くどころではなく帰国せざるを得なかったことを明かしている。

日本の報道では「テロ組織」「過激派」という枕詞で紹介される偏見で気づかない人も多いのかも知れないが、イスラム国はどの他国の承認も受けていないとはいえ、一定の支配領域を持ちそこを統治している意味ですでにひとつの「国家」の体裁になっているのが現実だ。

統治理念が時代錯誤過ぎるイスラム法の厳密な適用なのは我々いわゆる先進国の現代人には当然の違和感があるし、基本的人権などの理念が世界標準の現代にはおよそ受け入れ難いとしても、それでも国として現実のある地域を統治すること自体は、やっているのだ。もともとルーズな組織構成と思われ、末端までは行き届かないとしても、あれだけの広さの土地でそれなりに人口もある時に、ただ「テロの暴力」だけで支配し続けられるわけもあるまい。

我々にはどうしても違和感は禁じ得ず、コーランを実際に読めば首を傾げたくなる解釈も多々あるとはいえ、それでも彼らなりに統治を行う論理はあって当然であり、そして現にイスラム法に基づく裁判は行われているわけで、決して手当たり次第かつ(欧米メディアが示唆するように)恣意的に人殺しを楽しんでいるのではないし、だいたいそんなことをやっていてはあれだけの地域、あれだけの人口を支配できるわけもない。

既に明らかになっている事実から合理的に考えれば、湯川・後藤両氏はそのイスラム国で裁判を待つ身として身柄を拘束されていたと考えるのがもっとも自然で、だからこそ現に殺されてもいなかったし、殺害予告の類いもなかったのだろう。それが安倍首相の中東歴訪を受けて突然殺害予告、要求金額が安倍氏がカイロで言ったのと同じ額であれば、これで関連性がないと言い張る方に無理がある。

その無理を、首相官邸は必死で言い張り、メディアにそう報道させている。

イスラム国側から見れば、とまでは言うまい。

単純に客観的に言って、これまでイスラム国が処刑して映像等を公開している外国人は、すでにイスラム国と敵対関係にあるたとえばアメリカやイギリス等に限られる。フランスは拘束されたジャーナリストの身代金を払ったと噂されているが(公式には否定)、先日のシャルリー・エブド襲撃事件を見ても分かるように、フランスはイスラミズム武装集団にとっていつイスラムの敵になってもおかしくない国と言う認識だし(過去には北アフリカを植民地支配しアルジェリアの独立運動を暴虐な戦争で弾圧。最近ではシリア内戦にも、リビアのカダフィ体制崩壊にも派兵しているし、レバノンなど旧植民地への影響力も大きい)、それでも直接の空爆などに参加していない時点では、殺害はしていない。

まして日本人をいきなり殺害する理由が、時代錯誤で現代的な感覚では「暴虐」に見えるとしても、それでも曲がりなりにも「国」を運営している彼らには、犯罪でも立証されない限り、なかったはずだ。だからこそちゃんと裁判もやろうとしていたまま、アメリカ等の空襲でそれが出来ない状態だったのだろう。

だが安倍のカイロでの演説で事態は一変した。しかも演説をやった場所が悪過ぎる。

エジプトはアラブの春のあと普通選挙でムスリム同胞団が政権についたものの、イスラム教の宗教保守政党と呼ぶのが妥当なこの政治組織を原理主義のテロ組織ではと疑うアメリカの意向もあって、軍が強権的に政権を奪取し、現状は軍事独裁だ。ムバラク元大統領は釈放され、ムスリム同胞団も、アラブの春の原動力となった民主派も、激しい弾圧を受けている。そんな政権の大統領と昵懇になり(しかも昨年9月の会談で、イスラム国空襲を積極的に支持したのはむしろ安倍だった)、そこでイスラム国の周辺諸国を「敵対国」とみなす演説を行った、つまり言い換えればその諸国がこれからイスラム国と敵対することを前提に資金提供を言ったのだ。いまさら「人道援助だ」と言い逃れはできない。

ましてエジプトの次の訪問国はイスラエルで、昨年のネタニヤフ大統領来日で武器輸出入の協定まで取り交わしている間柄だし、この大統領はイスラエル国内の政治文脈でも極右の反アラブ政権だ。そのネタニヤフとアッバス議長のパレスティナ自治政府の仲介を、というのが安倍の今回の中東歴訪の売りどころのひとつだったが、ヨルダン川西岸をイスラエルの占領に甘んじつつ統治する世俗主義の自治政府は、ガザを支配するイスラミズム組織のハマスと敵対関係にある。イスラム国から見ればこれも、日本がいわば「イスラムの敵」になったとみなす大きな理由になりかねない。

安倍のカイロでの演説を機に、日本はイスラム国を敵とみなすことを表明したことにしかならないし、それをイスラエル訪問でダメ押しした格好になる。ならばイスラム国から見て湯川・後藤両氏は「敵国の人間」になってしまったことになるし、実際の犯行声明ビデオもそうなっている。呼びかけ先は日本政府ではなく日本国民で、2億ドルを拠出という判断を政府に撤回させる猶予が72時間、が実際の内容なのだ。

むろん現在の国際法では、敵国民だからといって殺していい、とはならない。だがそれでイスラム国を非難しようものの、ではその欧米主導で決まっている国際法が中近東のアラブ諸国に公正に適用されたことが、どれだけあっただろう?

イスラエルがヨルダン川西岸を占領し続けているのは国際法にも国際合意にも反するはずだし、アメリカのイラク戦争も国際法に違犯している。昨年のイスラエルのガザ攻撃は「自衛目的」という国際法の抜け道を使いつつ、「コラテラル・ダメージ」つまりやむを得ぬ巻き添えのフリをして一般市民の殺傷も目的としていたと疑われて仕方がないし、イラク戦争でアメリカ軍に殺傷されたイラクの一般市民についても国際法的には「誤爆」ないし「コラテラル・ダメージ」扱いで責任を問われていない。これでイスラム国に「国際法違犯だ許せない」を言うのには、かなり無理がある。

国内向けには「人命を最優先」と言い、情報収集に務めているとだけ繰り返す安倍政権のやっていることは、そもそもイスラム国支配地域内のどのような情報を収集する能力が今の日本政府にあるのか怪しいだけでなく、相手に対してはおろかか、イスラム国自体には反感が多い他のイスラム諸国にとってさえ、なんの説得力もない。

周辺諸国も人質2名の人命が懸かっているのと、日本の経済援助などがあるから、二枚舌のリップサービスをしているだけなのに、それをいかにもヨルダン国王であるとかが日本を支援しているかのように報じさせているのも欺瞞としか言いようがない。その欺瞞はすべて「そりゃ日本がああ言った以上は敵国扱いになるのはやむを得ない」という当然の理屈を誤摩化す、つまりは安倍がよせばいいのに「2億ドル出して日本もテロとの戦争に」と自慢してしまった軽率さを、日本の世論相手に誤摩化すためでしかないのでは、と疑われても、反論はまず出来ないだろう。

テロが現代の世界平和を脅かしている、だから妥協はできない、断固戦うという主張にも、一定の正当性は無論ある。だが「戦う」「テロとの戦争」を言うのなら、それなりの覚悟が必要なはずだ。たとえば「戦争」であるのなら、「断固戦う」のであれば、自国民の命を危険に晒すことは覚悟しなければならないし、国民にもそうはっきり言うべきだ。

そう言わない安倍政権は不正直だ、と言い切るのにもいささか躊躇するのは、それ以前に「実はよく分かっていないんじゃないか?」という疑いが拭い切れないからだ。

なにしろ安倍氏にはとんだ “前科” がある。二度目の首相就任からまもなく、アルジェリアで日揮の参画するプラントが武装集団に占拠され、日揮およびその関連会社の社員が人質になった事件があった時も、安倍氏は東南アジア外遊を急遽切り上げ、自ら指揮に当るかのように振る舞った。だがさっそくのアルジェリア大統領との電話会談で「テロと妥協せず断固戦う」で合意したはずの安倍氏は、その舌の根も乾かぬうちに「日本人の人命を第一に」と要請してしまったのだ。

この矛盾した言い草にアルジェリア側はさぞ困惑しただろうが、後者の要請は無視して強行突入で鎮圧、多くの日本人の死者が出たことはご記憶の読者も多いだろう。

しかも安倍氏は性懲りもなくその後にはこうしたテロ事件に対処するために自衛隊の派遣を検討すべきだと言い出している。明らかな国際法違犯で、他国の施政権下で自国民保護の名目で軍事力を動かすことは基本、侵略とみなされるという当たり前の常識すら、安倍氏は分かっていなかったのだ。 
なおこれは結果、防衛省が省益にうまく利用し、在外公館の駐在武官制度が拡充されることになった。

自分が自慢げにやった演説が敵対宣言、実質上の宣戦布告になってしまっていたことにすら無自覚で、指摘されたとたん慌てて後付けで通用しそうにもない言い訳を繰り返しているほどに無邪気で子どもっぽくては、戦争なぞ戦えない。本気で戦うなら、その敵こそまず理解し、その動機や目的を見抜き、行動パターンを読み解かなければ、負け戦になるのは当然である。

敵であるアルカイーダやイスラム国は我々のいわば「文明国」の側を恐ろしく熟知して、インターネットを駆使した情報戦や心理戦を仕掛けて来る。それに対して「テロとの戦い」を言う側は、ただ「テロ」とレッテル貼りして悪魔視するだけで、敵を理解する気もない。

いったい「戦争」とはどう言うことなのか、戦争が大好きなわりにはさっぱり理解していないのが安倍首相ではないのか、と言わざるを得ない。はっきり言えば「重度な平和ボケ」なのである。

だがこの「重度な平和ボケ」は、安倍氏に限ったことでもあるまい。

今回の被害者である人質二名のうち湯川氏は、民間軍事会社の経営を夢見て、その調査でイスラム国に入ったらしい。つまりイスラム国からみれば、「これからあなた達と戦うことを商売にしますから、そのためにお宅の国の事情を調べに来ました」という驚くべき無邪気さだ。しかも氏はMTFのトランスジェンダー、性同一性障害で身体的には男だが人格は女性という概念は先進国でこそ理解されるだろうが、これを言ってしまえば「差別だ」と怒られることを覚悟で言えば、イスラム国とその支配地域から見れば「女装した変な男」にしか見えず、コーランの解釈にもよるがイスラム国のような解釈では同性愛は禁止されている。そんなイスラム国支配地域に湯川氏がのこのことやって来て、どう考えても動機はスパイなのだから捕まえてみたところで、そのあまりの無邪気さというか、支離滅裂というか、その浮世離れっぷりに、イスラム国の側が困惑したのではないか?

強引過ぎるイスラム法支配とはいえ国ではあるのだから、では宗教法とはいえきちんと裁判をやろうと言うことになって先述の中田孝氏が招聘された理由がまた凄い。なにを言っているのか分からない、言葉が通じない、そこで日本語でコミュニケーションが出来てイスラム法に詳しい人間が必要だったから、というのだ。アラビア語が出来なかったのか、とまでは言わないが、イスラム国のメンバーには英語が出来る者が多いはずなのに、である。

フリージャーナストの後藤氏は、紛争地帯の子どもたちを取材して来た良心的なジャーナリストだと報道されている。なるほど純真で善良な人なのは分かるが、十数年以上中近東などを取材しているはずが、湯川氏が友人だとはいえその安否が心配というだけでイスラム国に潜入する、というのも理解しがたい。テレビではしきりに直前の、携帯電話で撮られた覚悟の動画が流されるが、どう編集で演出しようが「ことの重大さが分かっているのだろうか?」とは率直に思わざるを得ない。

氏の入国当時に日本はまだイスラム国に敵視されていないとはいえ、アメリカ等の空爆が続き混乱を極め、住民も末端組織も決して冷静ではいられない状況だ。

イスラム教に改宗しているわけでもない後藤氏がシリア人のガイドが止めるのも聴かずに、とはあまりに無謀で決死だったのかと思わざるを得ないわりには、湯川氏を探すついでにイスラム国の子どもたちを取材したいと言っていたとか、まったくどこに行くのか具体的な宛もなさそうなのに滞在日程が一週間にも満たないなど、どうにも不自然だ。

いや紛争地帯の取材を続けながらここまで純真でナイーヴでいられるのは本当に素晴らしい人なのかも知れないが、逆に言えばナイーヴ過ぎる、自分が取材している対象や状況の抱える政治的複雑さも理解できていなかったのではないか、あるいは感覚が麻痺していたのだろうか?

いずれにせよイスラム国支配地域にイスラム教徒でもない外国人ジャーナリストがこっそり潜入すれば当然警戒されるし、末端組織は「スパイらしい外国人を捕まえた」だけでも手柄になる。だが捕まえてみたらそもそも潜入取材の必要がない、むしろ最初に「子どもたちに会いたい」と申し入れていればまだ敵対国になっているわけでもなく、中近東アラブ諸国では人気がある日本人で、どうもスパイをやるには純粋で無邪気過ぎる、イスラム国を貶める目的にも見えないのであれば、これまた拘束した側のイスラム国がなにがなんだか分からないまま、困惑してしまったことも十分にあり得る。

だが湯川氏のことが(氏がMTFの性同一性障害であることも含め)報道しにくい、安倍政権の失態に触れられないタブーと、視聴者の感情に訴える演出の都合もあって、徹底的に「いい人」として報じられる後藤氏の、いわば美化の「やり過ぎ」の結果、テレビはとんだボロまで見せてくれている。

「危険な紛争地帯で子どもたちを思って取材した後藤さんの映像」として流されるものの多くは、以前にそのテレビ局が後藤氏の名前も出さずにニュースで使って来たものだ。そして今、後藤氏の危機を報道する同じテレビ局の、こちらは正社員の記者は、トルコとシリアの国境までしか行かない。

この奇妙な構図の裏事情に気づく視聴者も少なくないだろう。正社員に命の危険が及ぶ取材をさせたくないテレビ局が、紛争地帯の報道に重宝して来たのが後藤氏のようなフリーランスであり、危険も省みなさそうな(あるいは気づかなそうな)善良な後藤さんをいわばいいようにこき使って、報道する素材を得て来たのだ。確かにとびきり善良な人だったのだろう、その後藤氏が文句も言わずに熱心に撮って来るものが子どもたちであり、紛争の複雑な政治的な事情や解決の困難な入り組んだ対立図式のことなどよりもセンチメンタリズムを求めるテレビの商業主義にも合っていた、というミもフタもなく冷酷な搾取の構図が、そこには浮かび上がる。

そうやって後藤氏の取材した子どもたちの姿をただ視聴者を涙させるだけで消費しては忘れて来た末に、平然とその後藤氏自身の危機をセンチメンタリズムに堕した商業主義と政権の過失の隠蔽に利用してしまえる報道があり、そこに喜んで涙しつつ「後藤さんの安全を」と言うだけで自己満足している視聴者・大衆がいるのだとすれば、そこにこそ「重度な平和ボケ」の核心がある。

なるほど、紛争地帯の子どもたちが可哀想であることに異論の余地はない。今、命の危険に晒されている後藤氏が気の毒なのもまったくその通りだ。だが「可哀想」「気の毒」で紛争が解決するのなら、イスラム国のようなものはそもそも産まれていない。

今、日本中が湯川氏、後藤氏が無事生き延びることを願っていることに、面とむかってとやかく言う人は中近東にも世界中にもほとんどいないだろう。

二人は「気の毒」だし「無事であって欲しい」のは当然で、人の命は尊いということが、どれだけ紛争の絶えない場所でさえ、だからこそほとんどの人間が信じている、あるいは信じたいと思っている絶対普遍の価値なのだ。

だが後藤氏たちの安否を気遣ってくれる、たとえばシリアやトルコの人たちにとって尊いのは、ただ日本人二人の命だけではない。

あらゆる人間の命が尊くなければならないはずなのに、今この二人の命を「最優先」と言い合っている日本政府や日本国中の人々は、ではその背後には何年も内戦の混乱が続くシリアやイラクの無数の人たちの生と死があることを、少しでも考えたことがあるのだろうか?

後藤氏が取材した子どもたちの映像に「可哀想」と涙するのはいいが、なぜそのような悲劇があるのかに、思いが至らないのだろうか?

疑問は持たないのだろうか?

イスラム国は確かに、世界を震撼とさせたアルカイーダから派生したテロ組織ないしイスラミズム過激派の作った「国」であり、その支配の中身はおよそ評価できるものではない。女性の地位、ヤジディ教徒やクルド人など少数民族の虐殺や虐待、湯川氏もそうであるような性的マイノリティの扱いなど、批判されるべきことはいくらでもあるし、強硬なイスラム法の厳格なのに妙に恣意的な解釈もおよそ評価できるものではなく、他者の信仰は尊重すべきだとしても、イスラムに関してど素人の筆者個人が見てもコーランをちゃんと読んだらこんな解釈にはなるまい、と思うところが多々ある。

だがそれでも、実態は「国」なのである。

その「国」の統治下には大勢の、普通の人たちがいる。「イスラム国を空爆」と言う時には、ただ「悪のテロ組織」だか「危険な過激派」だけを攻撃目標にするわけにはいかないのが現実であり、いかに「テロとの戦争」の正義を謳おうが、その空爆は確実に、イスラム国支配下にたまたま住んでいる、ずっと住んで来た土地が今はその支配下になった人たちの上にも、降り注いでいるのだ。

「テロは世界の平和への脅威」だから「イスラム国を空爆すべき」という、ではその「世界」に、その人たちは含まれないのだろうか? 「やむを得ない犠牲」だとしても、そこで犠牲になるのは湯川氏や後藤氏と等しく尊い、人間の生命ではないのか?

なぜイスラム国のようなものが産まれてしまったのか?

その背景にはイラクやシリアを始め、むろんガザやパレスティナ自治区もそうだし、アラブ圏、イスラム圏の人たちの生命が、決して日本人やフランス人(シャルリー・エブド襲撃事件は「許されない」かも知れない。だが、それでも犠牲者12人、立て篭り事件を含めて20人前後の死者だ)や、アメリカ人(9.11の死者は3000人強、一方でイラク戦争だけで死者は10万以上)と「等しく尊い、なぜなら人間はみな平等だからだ」とは決して扱われて来なかった20世紀の現実と、その延長としての21世紀がある。

あるいはヨーロッパのユダヤ人の第二次大戦前の推計約1000万のうち600万を殺したホロコーストを見ても、人間の命も、人間の権利も、西欧やアメリカが理念と掲げるはずの民主主義や平等主義が、その西洋と、西洋が支配的な地位を保って来ている世界で、決して守られて来たとは言えなず、人間は決して平等に扱われて来ていない。
ホロコーストはただナチの犯罪だけで済むものでもなく、ヨーロッパに蔓延して来た反ユダヤ主義と度重なるポグロム(ユダヤ人迫害・虐殺)の歴史の「最終的解決策」であったことは、多くの歴史家が指摘することだ。

イスラム国がなぜ産まれたのか?

「テロリストだ」「世界平和の脅威だ」とだけ言っていれば楽だが、それで済むと思ってしまっていることにこそ、恐るべき「重度の平和ボケ」がある。なにもこれは理想主義の平和願望で言っていることではない。我々の世界はそれだけの不満と怒りを産み出してしまい、それが今我々の安全を脅かしていることは忘れてしまっては、早晩我々自身もまた命の危機に晒されることを覚悟せねばなるまい。

だからこそ、安倍晋三首相は今日正午、記者会見をすべきだと、筆者は本気で言いたい。

問題は日本人二人の生命だけではない。「人道支援だ」と言うのなら、今もっとも支援が実は必要なのはイスラム国支配地域の普通の人たちではないのか? 2億ドルという金で片付けるのではなく、日本からイスラム国支配地域内に医療団を派遣するから受け入れて欲しい、とでも言えば、その「積極的平和主義」は、世界を変えられるかも知れない。

1/13/2015

「テロ事件」後のフランスで起こっている危険なこと


1月7日にパリで襲撃された「シャルリー・エブド(週刊シャルリー)」は週刊の風刺マンガ紙で、日本の報道で「新聞社」と言われて思うのとはかなりイメージが違います。この襲撃事件についての日本の大手メディアの報道は、犠牲者を哀悼するという市民が「私はシャルリー」というプラカードを持って集まるのを賞賛し「テロと戦う」を喧伝する現地報道のほぼ受け売りですが、これにはさすがに、違和感を覚える人が多いのか、識者などを中心に疑問を呈する発言が少しずつ出ているようです。

実のところそんな違和感では済まないほど、現地はもっと加熱しているようで、イラク戦争開戦時にアメリカ相手に戦争反対で外交的大立ち回りを演じたドミニク・ド・ヴィルパン元外務大臣が「戦争の誘惑に負けてはならない」と警告する文章を、フランスでもっとも権威ある新聞「ル・モンド」に寄稿したほどです。

実際、人質4名が犠牲になった容疑者たちの立て篭りは、警察が容疑者たち全員を殺害することで終わり、パリでは軍が自動小銃を持って警戒に当るなど、今の政府や警察の対応は完全に「戦争モード」と言えるでしょうし、フランス社会の全体もそれに同調しているように見えます。

こうなると違和感どころか、危機感を持った方がいいかも知れません。

事態は2011年に米国で、同時多発テロを受けてイスラム教徒への偏見と敵意がうずまき、アフガニスタンとイラクを侵略する「テロとの戦争」へと突入し、アメリカの名誉すら失墜する大失敗になった状況とどんどん似通って来ています。皮肉なことにその当時、先進国のなかでそのアメリカにもっとも厳しい批判を向けていた国が、フランスなのですが。

お隣の英国の「ガーディアン」紙も、フランスが受けた被害には同情しつつも、「これはあくまで犯罪であって戦争ではない」と指摘し、すでに中近東からの移民が大勢住んでいるヨーロッパで安易な敵意が大きな社会不安を引き起こしかねないとの危惧を述べています。ドイツでは「週刊シャルリー」がムハンマドを風刺したマンガを転載したハンブルグの新聞が放火されましたが、現地の警察当局は慎重で、容疑者の身許の公表は避けています。しかし一方でフランスでは、「ガーディアン」紙が危惧するように、「国民追悼の日」に定められた11日の日曜日には、ヨーロッパ各国首脳がパリを訪れ、「テロとの戦争」での連携を確認し、市民を動員した追悼行進の先頭に立ちました。

この「哀悼」の行進には、フランス全土で370万人がこの行進に参加したという、これは同国の歴史でもフランス革命時よりも、第二次大戦でのドイツ占領からの解放された時よりも多く史上最大だそうです。犯人グループは一人が自首した以外は射殺、関連性があると言われる別の銃撃・警官射殺・立て篭り事件の方でも犯人は射殺されているのに、いったいなんのため、なんに抗議して、なにと戦うつもりでデモ行進をしているのか、よく考えてみれば奇妙なことです。

にも関わらずフランスは事件を犯人の死では終わらせず、すでに「イスラム国」「イスラムのテロ」と戦う気まんまんのようで、2001年9月11日の米同時多発テロ事件から「テロとの戦争」になった歴史を繰り返しかねない動きが起こっている…いや事態は、今度は舞台が、すでに中近東からの多くの移民が住んでいるヨーロッパ(たとえばフランスでは人口の8%がムスリムと言われています)だけに、より深刻になるのかも知れません。

しかし違和感を表明はする日本の一部識者でも、もはや戦争になりかねない危険な流れがあることまでは遠慮があるのか触れない一方で、そもそもの攻撃対象になった「シャルリー・エブド(週刊シャルリー)」が掲載した、いわゆるイスラム教風刺マンガについて「他宗教への配慮が足りない」程度の、浅くていささか見当違いな議論しか提示できず、これでは建前では「言論の自由」を守る戦いだと言っている、その言葉で簡単に反論されてしまって相手にされないでしょう。

おそらくはフランスの事情をよく知らないので、なぜその風刺マンガにパリで大量殺人に至るほどの反発があったのか分からない…という以前に、事件の構図そのものをあまり把握出来ていないのかも知れません。

それも無理はないでしょう。フランス政府はこれがあたかも「イスラム国」に代表されるような中近東起原のいわゆる「イスラム原理主義組織」がフランスの「言論の自由」を攻撃した事件のように報道させていて、犯人グループもまたフランス人だったこと、アルジェリア系移民の子どもでフランス国籍を持ち、フランスで育っていることを考えないようにしている、メディアもそれを追認しているのですから。

しかも日本の識者の皆さんの知識としてある「フランス」や、日本人が観光で行く範囲のフランスでは、アラブ系のフランス人も少なくない(人口の8%)ことすら、めったに目にもふれないことでしょう。

留学や仕事でパリなどに住むことになれば、さすがに郊外の集合住宅が移民スラムになっている、パリ市内にもイスラム教徒、アラブ系やトルコ系などの人が多い地区があることは気づくでしょうが、それ以上の関心はめったに持たないで終わる場合がほとんどです。

繰り返しになりますが、今回の事件の犯人グループは海外から来た「テロリスト」ではありません。フランスで生まれフランスで育ったアルジェリア系移民の二世三世です。

しかし第二次大戦後のフランス近現代史の最大の汚点だったのがアルジェリア戦争、独立運動にフランス政府が植民地在住の自国民保護の名目で大量の軍隊を動員し、独立運動を徹底弾圧し、ナチスばりの拷問までやったことであるのは、今でもフランス人は多くを語りませんし、その植民地支配の結果として多くのアルジェリア系のフランス人が今もフランス国内にいる経緯をちゃんと理解している日本人は、「フランス通」に見える人でもほとんどいません。

とはいえフランスに留学でもすれば、同じ留学生仲間でアラブ圏からの出身者に出会うことも少なくないはずではないか、とは思います。

たとえばプルーストの大作『失われた時を求めて』全訳の偉業で知られる鈴木道彦先生は、ちょうどアルジェリア戦争の真っ最中にフランスに留学されていて、パリに亡命していたアルジェリアの独立運動家の学生たちと出会い、支配する側の民族としての責任に気づき、日本に帰国してからは金嬉老事件の弁護団を支援する運動など、在日朝鮮韓国人への日本人の民族責任を自覚する活動をされて来てもいます。

現状、フランス社会のなかでは、最近は一部にエリート層に進出しつつある移民系の人たちが注目を浴びることも増えては来ていても、移民スラムで育った人間のことがその立場から語られることはほとんどなありません。

フランスの教育制度にうまく順応できた一部を除けば、差別され社会の最下層にある移民の若者たちの存在がフランス社会全体にインパクトを持ち得たことと言えば、もう10年以上前の映画であるマチュー・カソヴィッツ監督の『憎しみ』くらいしか、未だにほとんど見当たらないほどです。

マチュー・カソヴィッツ監督『憎しみ』

逆に言えば、この事件の犯人を産んだような階層の人たちがそれだけ差別され、無視されて来て、自分たちの努力だけではどうにもならない状況、自分たちのアイデンティティそのものが生きていく上で圧倒的に不利になってしまう現実に、もう何十年にも渡って不満と怒りを溜め込んで来ているのです。

はっきり言えば、この事件を「イスラム過激派の国際テロがフランスを攻撃した事件」と見ることには、相当に無理があります。

警察に殺害された犯人たちが「イスラム」や「預言者」を語ったとしても、それは彼らにとってはカッコつけに過ぎず、一方でフランス人にとっては異教徒の狂信者のせいにできるご都合主義でそうなっていることが、たまたま運悪く一致しただけでしょう。

要はフランス社会のなかで居場所を与えられて来なかった若者がいて、「平等」を旧支配者としてのフランスの権威を認める同化主義の強制にスリ替えてしまい、結局は根深い人種差別と植民地主義をまったく解消できていない現代フランスへの彼らの不満の暴発こそが、この事件が起きた真相ではないでしょうか? 僕自身たまたまフランスで東洋人として育ち、たまたまいい学校だったので自分では直接にはそれほど差別の暴力に遭うことが幸運にしてなかっただけに、率直にそう思います。

いわゆる「イスラム原理主義」は彼らの鬱屈と怒りをなんとなく正当化できるというか、不良少年が暴れているだけ、ストリート・ギャングよりは立派に見える程度の理屈を、提供しただけです。

事件後にアルカイダが声明を出していて、確かにそこからの資金の供与はあったのかも知れません。 
とはいえ「イエメンでの軍事訓練」についてはほとんど笑い話で、市街地でのこういうアクションなら、彼らは「イスラム原理主義」が国際メディアで騒がれるようになった以前はストリート・ギャングだったりした、もともと喧嘩であるとかはもちろん、銃の撃ち合いだって経験があってもおかしくない若者たちです。 
今さら砂漠のなかでの訓練なんて必要は、今回のような事件を起こすのならまずありません。

それにそのアルカイダの声明は、「ターゲットの選択は彼らに任せた」ともはっきり言っています。

つまり「フランスの言論の自由を攻撃」が「国際テロ組織」の目的というのはほぼフランス側の作り話で、フランスで育って差別にさんざん遭って来た若者が、フランスの多数派の側からすればイスラム教の権威主義を批判したつもりでも、彼らからすれば自分たちを馬鹿にすることを目的にしたようにしか見えない「風刺マンガ(と呼べるほどのものであるかも疑問です)」を何度も掲載した「週刊シャルリー」、つまり「俺たちをさんざんバカにして来た側の代表」を攻撃目標にした、と見た方がよほど現実に近いでしょう。

「異教徒への配慮」を主張するのは、彼らが真面目なイスラム教徒だったことを前提にした発想です。なかには「イスラム教は偶像崇拝禁止なのでムハンマドを絵にしたこと自体が問題」と言う人もいますが、これもうわべだけの知識だけででっち上げた作り話だと考えた方が妥当です。彼らがそこまでコーランの中身を知っているかどうかさえ疑わしい。

だいたいイスラム教というのは今でも、一日5回のお祈りであるとか食べ物に関するルールなどの生活宗教の意味合いが強いし、中近東に行けばモスクはご近所のお年寄りの集会場みたいなもの、生活習慣の一部に深く根ざしてはいても、ほとんどの場合はそう真剣に熱中する宗教ではありません。ムスリムが「アッラーは偉大なり(アッラー・アル・アクバル)」と言うのは日本語では「万歳」程度の意味合いだし、「神の御心のままに(インシャ・アッラー)」は挨拶の一方で「なるようにしかならない」、もっと言えば他人からの頼み事を断るときの常套句(「神様の意思ならば従うが、私自身はやる気がしない」の意味)に使われるような言葉です。

イスラム教徒の発想は、日本人が戦時中に「神風が吹く」と言い合っていたのとは基本むしろ逆です。


祈る=◎取るに足らないことが明々白々なたった一人の嘆願者のために、宇宙の全法則を廃棄してくれるように頼む。(アンブローズ・ビアス『悪魔の辞典』)


世界を創造した、世界が存在している論理そのものである絶対神というのは、そう簡単に個々の人間や一部のグループの思い通りにしてくれるはずがありません。そこもイスラムの教義にもちゃんと組み込まれていますが、それ以前に生きていく実感としてそう思う方が自然でしょう。

しかもヨーロッパに移民する人の多くは、そんなに信仰熱心でもなくイスラムの共同体意識にあまり拘泥しない人ほどヨーロッパに憧れて移民するわけで、しかしいざ移民してみるとそこで苦労することが多く仲間が必要なので、その集会場のような意味合いでモスクがあるというようなことが、むしろ実態に近い。まして今回の事件の犯人グループのような、こう言っては悪いですが元ないし現役の「不良少年」は、そんなモスクに熱心に通ってイマーム(導師)のお説教に従うような若者では、そもそもないでしょう。

ドイツのトルコ人移民、アモス・ギタイ監督
ドキュメンタリー映画『ヴッパールの谷で』より

しかし土日がお休みのキリスト教文化圏のフランスなので、アラブ系でもイスラムの休日の金曜日は働く人が多いことにすら気づかないのが、マジョリティ側のフランス人の大多数です。まして郊外の集合住宅にあるようなアラブ系などの移民の人たちの生活になんて、そもそも関心がない。そっちの側からフランス社会を見たらどれだけ差別的な国かだなんて、自分たちでは気づきたくもない、気づかされたくもないのでしょう。

そうやって自分たちを無視して来た側がいて、ここ数年フランスはひどい不況ですが、そこで真っ先に首を切られるのも自分たちであるのに、その差別して来ている側がムハンマドを揶揄する、というより単に馬鹿にした落書き同然のものを「風刺画」と称するのなら、しかもそんな低レベルな表現を無神経に出せばフランスの大衆を喜ばせ自分たちを傷つけられると思っている差別意識自体が、これは信仰心云々とほとんど無関係に、ただ「俺たちを馬鹿にするのもいい加減にしろ」と思うのが普通の感覚ではないでしょうか?

「笑い死にしなければ鞭打ち100回」と言う
ムハンマドの“風刺画”で、「週刊シャルリー」でなく

「週刊シャーリア(イスラム法)」これが本当に風刺?

これでは「異教徒への配慮が足りなかった」のではなく、フランス人のマジョリティの側が、無自覚だったかも知れないにせよ露骨に攻撃的に差別を剥き出しにして相手を馬鹿にしてしまったことになってしまいます。

逆に言えば移民している人たちの多くにとって「イスラム」とは元々はその程度のもの、今回の犯人グループのような生い立ちの青年なら、せいぜい家に帰れば母親や妻が「もっと真面目に生活して」という意味で持ち出すのが「アッラー」や「預言者ムハンマド」であるに過ぎません。 
海外の「原理主義組織」と接触があったらしい容疑者たちも含め、というか彼らほどそうでしょう。

本当の動機は、自分たちが無視され馬鹿にされ、まともな仕事もなく、なのに発言権すら奪われているし、国籍があるはずなのに存在すら認められないことの鬱屈であり欲求不満、それを怒りと暴力として吐き出すきっかけを与えたのが、2001年に始まるいわゆる「イスラム原理主義」の「テロ組織」の果たした役割に過ぎない、と昨今「ホーム・グロウン・テロ」と欧米のメディアが言って日本にも輸入されている用語を見ると、思わずにはいられません。

しかしそんな現実に元からフランスの、白人であるマジョリティ側は元々ほとんど関心がないし、今回の事件では警察が容疑者を殺害して口封じしてます。

だから今後はいくらでも「イスラム原理主義のテロだ」と言い張れる。

実は国中で、これがフランス社会の人種差別と不公平が産んだ暴力であることを忘れたい、自分たちが未だに差別する国の、差別をして来た側の一員であることから目を逸らすために、「テロとの戦争だ」と言っているに過ぎないのではないでしょうか?

問題になった風刺画が実は人種差別の表現に他ならない、しかしだからこそフランスで話題になり人気にもなったことを隠したいから「言論の自由が攻撃された」と言っているだけ、というのが現実に近い。

そんな現代のフランスを見て、そこで育って子どもの頃から差別があることは知っている、それでも学校はとてもいい学校だったので民主主義とか自由とかの理念を本当に教えてもらった人間としては、心底失望しています。

フランス人たちが「言論と表現の自由」を言うのなら、僕がフランスの小学校(この学校はほんとうにとてもいい学校でした、帰国して日本の学校がひどいのでショック)でちゃんと教わったその「自由」は、抑圧的な体制とその体制を支えるマジョリティに対して自分の意志をきちんと表現する権利のことだったはずです。

むろん殺人は犯罪ですし、暴力で他者の言論を封じることは許されないことですが、一方で僕はたまたま小学生のころから、直接の暴力ではなく陰湿な人種差別という真綿で首を絞めるような暴力で、その自由をまったく享受できないアルジェリア系であるとかジプシー(今では「ロマ」でしたっけ)の人たちも見ていました。自分だってそれなりに、学校外ではたまにはいやな目にも遭って来ましたが、その人たちに較べれば遥かに楽だ、とも子どもの頃から思って来てもいます。

なお一応言っておきますが、僕が行った学校は私立の、イエズス会の学校です。 
公立の学校は危ない、差別されるからやめた方がいい、というフランス人の家庭教師の先生の助言があったからです。

その先生と学校がよかったお陰で、僕はたとえば、訛りのないフランス語も幸い喋ることができますし、文化芸術が大きな興味の対象ですからフランスのそれも学んでいるおかげで、一見フランスに「同化」しているようにも見えるはずです(実際、フランス史でさえそんじょそこらのフランス人より詳しかったりします)。そうやってフランス社会を半分は内側から見られて来た一方で、「有色人種」の外国人として外からも見て来た、そして小学生ですでに世界人権宣言の中身などをちゃんと教わった身としては、フランス社会はこの高邁な思想をきちんと背負って存続していくことについに疲れてしまったようにも、この事件への良心と良識のタガが外れた反応を見ていて、率直に思えて来ます。

実際、2011年に映画『無人地帯』の編集でパリに長期滞在したとき既に気づかざるを得なかったのですが、この10年くらいでフランス社会はどんどん劣化しています。 
人々の態度は攻撃的になる一方で極端に俗物化し、映画産業などは極度にスノビズムなセレブ崇拝に支配される一方で、長文の映画批評などは掲載される場がどんどん減っているし、もはやほとんど読まれない。

先述の鈴木先生がパリに留学されていたころ、フランスが国をあげてやっているアルジェリア戦争に公然と反対して、その植民地主義と人種差別を批判したのは、ジャン=ポール・サルトルを筆頭に、当時のフランス最先端の知識人・思想家たちでした。フランス映画の新たな時代を切り開いたヌーヴェルヴァーグの面々も、この戦争を批判する映画を発表しています。それがフランスの「言論の自由」「表現の自由」であったはずです。

しかしそのような発言や表現に多くの人が耳を傾け納得するか従うような教養主義、文化主義は、この事件のずっと前からどんどん減退して来ています。政治的には、得票数でいえばもっともコンスタントに数字をあげている、確固たる支持層を持っているのは、極右で移民排斥を謳う国民戦線です。

今起こっている事態には、ある意味でものすごく皮肉な面があります。

「週刊シャルリー」は発行部数が平均3万前後、それが事件当日夜の追悼集会に集まっただけでも3万5000、11日の全国哀悼の日では総計370万、つまり「週刊シャルリー」の読者の単純計算で100倍もの人が、多くが「私はシャルリー」という標語を掲げて行進し、異論を述べたり警告を発しようとする人がいれば「死者への敬意」を言って黙らせる勢いで、服喪を理由に自粛を強要し、国家国民の連帯を叫んで、列国の首脳まで参加して「テロとの戦争」で盛り上がっている。

かつてのフランスだったらこの過剰で軽薄なセンチメンタリズムを煽動する不気味さの国家主義の勃興があれば、真っ先に痛烈な風刺で揶揄し批判し、怒り出す人がいるのも気に留めず完全にバカにしきった風刺マンガを発表するのが、他ならぬ「週刊シャルリー」だったはずです。

「週刊シャルリー」は言論の自由があるはずのフランスで発禁処分になったことすらあるわけですが、それはレジスタンスの英雄で戦後は大統領として権威も権力も振るったシャルル・ド・ゴールが亡くなり、国葬になったとき、それを徹底的にバカにしきったマンガを掲載したからでした。「異教徒の配慮が足りなかった」という日本人の識者の皆さんは、この事実をどう考えるのでしょうか。当時の同紙が「国民的英雄」のド・ゴールに配慮が足りなかったのがいけない、と言うのでしょうか?

しかし今や、そんなアナーキーな「週刊シャルリー」について「私はシャルリー」と名乗る匿名の群衆が、クソ真面目に(しかし自分たちの社会の問題には目をつむって)「戦争」に突っ走っている、これはもはや現実が風刺を越えるほどに不条理であるとしか言いようがありません。

これが「言論の自由」を守る「戦い」なのか、むしろ真逆にすら見えて来ます。

ですから日本人がこの状況に違和感を覚え、異を唱えるのは、むしろやるべきことです。

ただし自分の知らない文化圏やその権威を批判するのには、客観的な立場の冷静さの強みがある一方で、その批判する相手をよく知らなければ的外れにもなりかねません。

「週刊シャルリー」のイスラム批判に問題があったのもそこでしょう。的を射た批判、シャープでレベルの高い、怒るスレスレで笑うしかなくなるカリカチュアの醍醐味ではなく、ただ上っ面だけ、最初からバカにしている相手をバカにしただけのことをやっていれば、それは「言論」でも「表現」でもなくただの差別の悪口になってしまいます。

こんなときに「異教徒への配慮」だかを語って気づいたことを言うのを自粛するころを強要するのは、危険をみすみす看過することでしかない。相手が「傷つく」もなにも、放置していればその相手国はもっと自分たちで自分たち自身を傷つけることにもなりかねないのですから。

それに日本は、キリスト教の国でも、白人の国でもないし、植民地主義に染まって他国を侵略して失敗したことを、フランスがアルジェリアに対する過去を誤摩化しているのとは違って、敗戦でしっかり反省したはずです(そのはずです、どうも総理大臣をはじめそういうちゃんとした歴史の理解がない人も一部にはいます)。

しかも戦後、戦争をやらない平和国家であり続けながら奇跡の成長を遂げた日本は、アラブ諸国やイスラム圏からも尊敬され、また国際援助やインフラ整備や工場などの建設、輸出入などで深いつながりも持ち、白人でなくキリスト教国でもなく十字軍などにも縁がない、中近東で戦争をやったことがない、侵略者であったことがないぶんまだ信頼もされていますし、世界有数の経済大国、こと科学技術産業のレベルの高さでは、白人中心の欧米だって一目置かざるを得ない先進国でもあります。

今この危険な、第二の「テロとの戦争」に向かう流れを食い止めるのに最適任な国は、私たちの国なのです。