Les cheveux noirs - videos.arte.tv←このリンクでご覧下さい
アラン・ベルガラの企画した、映画における髪の毛をめぐる展覧会/特集上映のために、諏訪敦彦が監督した短編『黒髪』。
広島市出身の諏訪にとって、原爆という記憶は実は常にその作品になんらかの形で取り憑いているのかも知れない。描こうとしても描けない、語れない、撮ることのできないその「記憶」に、『Hストーリー』以来久々に挑戦したこの秀作は、原爆という記憶を忘れてはいけないはずなのに忘れてしまっている現代の日本を、静かに告発しているのかも知れない。
原爆については、叔父の母が入市被爆者でその妹さんが行方不明なのと、祖父が8月6日の夕方に「見たこともない火傷の患者」を診察した記憶を幼少時に聞いてる程度の関わりしかないが、それでもやはり自分の記憶のなかの刺になってる何かが、諏訪敦彦が原爆に取り組んだ映画には、明らかに刺激される。
たとえて言うなら、21世紀に入り改装された原爆資料館を見て感じる違和感、そこに明らかに失われている、幼稚園のときに最初に見たこの資料館に確かにあったもの、それが今はもうないことの怖さを、この『黒髪』や、あるいは『Hストーリー』を見ると思い出してしまうのだ。
「原爆とは語り得ない、映画に表象不能な記憶なのである」というスタンスはデュラス/レネ『24時間の情事』における、岡田英次とエマニュエル・リヴァの会話「君は広島でなにも見ていない」「私はすべてを見たわ。資料館も、病院も」「いや君はなにも見ていない」という対話以来の主題だ。
吉田喜重などはこの問題に極めて理知的に取り組んで『さらば夏の光』『鏡の女たち』、未完の脚本『女たちの遠い夏』、オペラ『蝶々夫人』を手掛けて来たわけだが、諏訪敦彦のこの同じ表象不可能性の問題への取り組みは、潜在意識の闇から沸き上がっているようで、あまりにも不穏だ。
『Hストーリー』の禍々しい痛々しさも、咀嚼するのに何年もかかった。この一見ささやかな短編にもまた、なにか底知れぬものがある。
2/28/2011
2/21/2011
『暗殺の森』における父性の不在〜父探し/父殺し、そして自分殺し
ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』(1970)
承前
『暗殺の森』で主人公マルチェロ・クレリチが、恩師であり実は暗殺対象であるルカ・クワドリ教授に電話するとき、その番号は当時のジャン=リュック・ゴダールの電話番号なのだという。
『勝手にしやがれ』以来ゴダールを崇拝して来たベルトルッチは、これを「僕自身の父殺しの欲望の現れだ」と笑う。電話番号のことは冗談半分のいたずらだったとしても、クワドリ教授はクレリチにとって「父的な存在」ないし「父性/父権の代替物」であるのは確かだ。
だが『暗殺の森』は「父性なるものの」の記号に満ちたエディプス的な映画であるのは、そのことに留まらず、そして単に物語上の次元だけではない。
ベルトルッチが冗談半分で「ゴダール(=映画的な父)相手の父殺し」と言うように、彼自身がいわゆるシネフィル映画作家で、映画史上の「父たち」の記憶を受け継ぎながら、その「父権」との葛藤を徹底的に意識して産み出した映画、それが『暗殺の森』でもあるのだ。
『人生は我らのもの』のネオン・サイン
1937年が舞台であることが、ジャン・ルノワールが人民戦線政権成立と呼応して作った映画『人生は我らのもの』の題名引用で示されることに始まり、アールデコ調のタイトル文字、アールデコ調ホテルの調度、それが1900年万博の特設駅でありオーソン・ウェルズが『審判』を撮ったオルセー駅のホテル(ちなみに30年代当時のオルセー駅は巨大な廃屋で、実際にはホテルはなかった)であったり…
アールデコ調の字体と、アールデコの調度
…こういった意識的な選択が、30年代風の衣装と当時の建築様式を使うこと、つまり37年という時代設定を表現する手段としてだけを意図したものではないのは、言うまでもない。
映像のスタイル、撮り方の問題として、『暗殺の森』は映画史と20世紀美術史を意図的に模倣するスタイルを混在させているのだ。
アールデコに始まり、構成主義、表現主義、イタリア未来派、フィルムノワール、シュルレアリスム、バウハウス、ナチス建築から、ゴダールの映画に至るまで、20世紀のさまざまな文化遺産の記憶が、複数の多様な(ときに相反する)「父たち」的なもの記号として、『暗殺の森』のスタイルには満ち溢れている。
そうした父的な過去の記憶は、模倣であり引用であると同時に、この映画における葛藤の対象でもある。この葛藤の緊張感こそがこの映画の独特の様式を支えている。
ドイツ表現主義、イタリア未来派、ファシズム様式、
シュペアーのナチス建築の様式などなど、そして影…
映画そのものとそれを創造する行為が「父殺し」の儀式でもあることで、矛盾と緊張のなかにこそ、フォルムと内容の一致を試みる。
逆に言えば、 意識的に「父的なるもの」の抑圧的な記憶を自らのスタイルに課している映画『暗殺の森』の主人公マルチェロ・クレリチがまた、父性の不在と父的なものへの願望に苛まれる存在であるからこそ、そのマルチェロが映画そのものになっている。
だからこそマルチェロは、ゴダールの電話番号に電話をかけ、暗殺対象であるクワドリ教授に会いに行くのだ。
『勝手にしやがれ』的/フランス・ヌーヴェルヴァーグ
的な手法のショット
そのクレリチにとって、「父たち」とは、政治的な存在であると同時に、潜在的に性的な存在でもある。
無論この映画の政治的テーマであるファシズムとは倒錯した抑圧的/誘惑的な父性と父権の体制であり、そこに順応し承認されることをクレリチは求めている。
一方で哲学の師である自由主義者のクワドリ教授もまた、クレリチにとって父への憧れ的な存在だ。
この2つの父的なものは、かなり似通った性的なものに結びついている。つまりファシズムの指令を受ける時にはドミニク・サンダ演ずる娼婦がいて、ドミニク・サンダの主たる役柄は、クワドリ教授のあまりに若い(バイセクシャルの)妻だ。
もちろんこの娘のように若い妻は、クレリチにとっては自分の母の、自分よりも若い運転手の愛人アルベリと、無自覚に重ね合わされるものでもあるはずだ。
だからこそ彼は、そのアンナとも、寝なければならない。
いずれにせよこの主人公のやることはすべて、彼からすれば「しなければならない」「しょうがない」ことばかり、動機でなく強迫観念でしかないのだ。
アンナと寝ることは、彼にとって「父的なるもの」である教授から妻を奪うエディプス的父殺しであると同時に、その「父」である教授と間接的に交わることも意味する。
ファシズムという抽象的な父権と、実態のある父的存在であり知的な代父とも言える恩師の教授、そのどちらかの父権に認められ所属することをクレリチは求める。
哲学の博士号すら、彼にとっては「父的なるもの」に認められるためのものに過ぎなかったのかも知れないし、ファシズムというマッチョな父権的世界では、博士号を持つインテリであることは、弱さ=差別の対象とみなされかねないと、彼は思うのだろう。
だから部下のマンガニェッロが「博士」と呼ぶのを、わざわざ「同志だ」と言い直させる。
と同時に、その言い直させる命令に優越感を覚えもする。
複数の映画的な「父」〜様々な時代の多様な映画様式
の模倣が混在する、分裂的なスタイル
実のところ、クレリチがファシズムに走ったのは、少なくとも本人が教授に言うことに示唆されている限りでは(取り入る芝居かも知れないが)、教授がパリに亡命したことで、自分が「父」に見捨てられたと感じてしまったからなのでもあることも、彼が教授に言うことのなかに暗示されている。
クレリチは父的なものへの所属を求めて哲学の博士号までとっていながら、別の父的なものへの所属を求めファシズムに走る。
そんな彼の母は麻薬中毒で、若い運転手を愛人にしている。
運転手と言えば、少年の彼を同性愛に目覚めさせたのも運転手であり、その存在もまたある意味で、憎しみと否認の対象としての「父」なのではないか?
そしてその体験は、神父(またもや父的な存在)への告悔のなかで語られ、その記憶はマンガニェッロとの駄々っ子のようなやり取りのなかで甦る。
入れ子構造で示される、三つの抑圧的な父性。
『暗殺の森』マルチェロ・クレリチの告悔
そんな父探しに明け暮れる彼自身の家族はと言えば、まず婚約者(妻)の家庭には、父親の姿が不在だ。
そしてクレリチ自身の実父は、発狂して精神病院にいる。
バウハウス的なモダニズム空間である精神病院
父はかつてミュンヘンでヒトラーの台頭を目撃し、どうもファシズムの拷問の加害側か被害者のどちらかであったことが暗示される。
そうした強烈に父権的で暴力な記憶の一方で、しかし発狂した今では、母の夫としても彼の父としても、居ながらにして居ない、中途半端に不在だ。
婚約者の家では、クレリチの父の精神病が遺伝性のものだとする密告の手紙が話題になる…というか、梅毒性だとすれば遺伝性ではないはずだが、密告の中傷ではそうなっている(しょせん科学的な合理性なんてあり得ない手紙なのだろうが)。
父からの遺伝性の狂気…その一方で梅毒性とすれば性感染だ。不在の父でありながら、その呪いだけはクレリチに、常に重くのしかかっているのだ。
婚約者の家での密告の手紙と覗き見の空間を支配するのは、ファシズムやナチズムの社会に蔓延した優生論的な差別への恐怖だ。
遺伝性の狂気や、性病=性的な倒錯。いずれも「父の不完全さ、父の罪」をめぐる問題である。
発狂した父
クレリチは自分自身がクローゼットな同性愛者であるだけでなく、父が発狂して精神病院にいるという点でも、優生論的な差別が蔓延する社会のなかで巨大なコンプレックスと恐怖を、常に抱え、怯えるしかない。
密告の手紙への冷静な対応は、彼が常にそうした偏見の恐怖に晒され、慣れっこになってしまっていることを示している。
だからこそ彼は、神父に向かっては、「普通さ」「平凡さ」への所属願望を激しく吐露するのだろう。
同時に彼は、そうした「普通」で「平凡」のブルジョワ的価値観が陳腐で偽善であることへの軽蔑を隠さない。
だがそれでも彼は神父(=またもや父権的存在)に、自分はそこに所属したいから結婚するのだと、感情を高ぶらせて言い張るのだ。
『暗殺の森』が父殺しの物語であるのは、ただ父的な存在であるクワドリ教授をクレリチが暗殺しようとするからだけではない。ファシズムもまた父権であり、神父という父権的な伝統の表象を彼は拒絶し、ファシズムへの共感を叫ぶ。
少年時代に彼と性交を持った運転手もまた「歳上の男性」=「父」でもある。
運転手と少年時代のクレリチ
マンガニェッロとクレリチ
そうした「父たち」「さまざまな父権」を相手に、クレリチはひたすら否認/拒絶と同化願望/承認願望の発露を繰り返すのだ。
それを見せて行くこの映画自体もまた、映画史・美術史の伝統という、これまた「複数の父権的なもの」に支配されながら、自身が一個の映画となるべく格闘しつつ、そこにこそ映画のフォルムを見いだすのである。
「父」の代わりを求め続ける一方で殺し続けもする矛盾した行動の一方で、クレリチ自身の実父は「居ながらにして居ない」状態にある。
精神病院にいる発狂した父は、ミュンヘンでヒトラーが街の変人から「政治的なカリスマ=究極の(凶暴な)父権」に上り詰める様を目撃していた。
またイタリアではファシストによる拷問に関わったことが示唆され、そうした忌まわしいと同時に父の強さにも結びつく「父の記憶」を息子が突きつけると、父は暴れ出し自分を拘束衣で縛らせる。
発狂した父はこうして狂気のなかに閉じこもることで、息子と向き合うことを拒絶する。
クレリチの、代父を求め続ける一方でその代父を否認し殺そうとし続ける行動は、この父とのあいだにあり得なかった父子の関係の代替を求め続けることでもあるのかも知れない。
しかもクレリチは、父の発狂や父の過去の罪が自分に遺伝しているのではないかという恐怖に、常に苛まれなければならない。
運転手と少年クレリチ、背後にはヴァチカン〜歴史的な父権
自分が同性愛者だと気づきながらもそれを認められないこともまた、「父たち」との関係と、そこに本当の父子関係、彼にとっての「父性」が徹底してが不在であるなかに、位置づけられるのだろう。
実態として不在の父、自分を愛さない父、その心の隙間に、歳上の男性=父である運転手が少年時代の彼を性的に愛することで入り込み、そして罪深く呪われた自分を殺すように要求する。
運転手は少年マルチェロにとって不在の父の代替/分身であると同時に、性的な関係を持つことで彼自身の分身になる。だから彼は、自分を撃てと彼に言われるがままに、銃を発射することで、運転手を殺すと同時に、自分を殺してもいる。
その時このいわば「性的な父」は、「知的な父」であるクワドリ教授の暗殺を予見してもいると同時に、クレリチにとっては「人を撃った」こと以上に、自分もまた撃ち殺されるべき「罪深い」=呪われた人間であるという意識を刷り込んでしまう。
運転手がマゾヒスティックに罪の意識に苛まれることを欲望するかのように飾っていた十字架もまた、少年のクレリチにその意識をさらに強くさせるだろう。
むろん十字架はクレリチにとって「信仰」の問題ではない。ただ教会も「普通の世間」の重要な一部だというだけのことで、社会的に呪われてしまうことこそが、居場所を失って生きていけなくなると思ってしまう点で、決定的なのだ。
運転手が彼を誘惑するのに用い、そして彼が運転手を撃つ拳銃が、またドイツ製のモーゼル銃なのだが…。
言うまでもなく、『暗殺の森』で繰り返される、この父探しと父殺しは、根本的に不毛なものでしかあり得ない。
象徴的な父殺し、つまり父を越えることがフロイトの言うように息子が自分を確立するための成長段階だとするのなら、逆にクレリチは自分を棄てることしか、あるいは自分自身から逃げ続けること、そうすることで「父たち」に認められることしか求めていないし、求められないのだから。
同性愛者かも知れない自分、父から狂気や罪を遺伝されてしまってるかも知れない自分、その父から否認されている自分。その自分を偽り別の人格を与えてくれる「父性」を、彼は求め続けるて彷徨い続けるしかない。
まず哲学者であるクワドリ教授に、自分から逃げ続けるための偽りの自分でしかないものを、その偽りの自分のままで承認して欲しいというのはどだい無理なことだ。
『暗殺の森』クレリチとクワドリ教授、プラトンの洞窟の暗喩
そんなことをクレリチは百も承知しているはずだ。元からないものねだりにしかなり得ない。
逃げ続ける自分を隠して別の偽りの人格で認めて欲しいという願望自体が、哲学を学ぶこととは、最初から矛盾しているのだ。そのような考え方しか出来ないのなら、どんな哲学も教養も、ただの偽りの装いにしか成り得ないに決まっている。
だからクレリチは、結局は知的な大府であるクワドリ教授を暗殺するしかなくなり、一方でどんなにファシズム的な強い父/男性性に憧れるようが、自分には最初から無理なのは分かり切っている。
分かっているのに、それでも彼は求めてしまうのだ−自分から逃げ続けるために。
中華料理店のクワドリ夫妻とクレリチ夫妻
その逃げ続けているだけの自分という存在をないものにしてくれる、自分が演じている自分自身を認めてくれる父を求めること、その代父の下に所属して依存し、コンプレックスの固まりの自分自身を棄てられることだけを、クレリチは求め続けている。
だがそれは完全に自己矛盾し、あらかじめ破綻した、蛇が自分の尻尾を飲み込むような堂々巡りでしかない。
こうして彼は哲学を学んだものの、その恩師=代父が亡命することでその父に棄てられ、反動として対極の父権であるファシズムへの所属を求める。
「平凡」で「健全」なブルジョワ的偽善を軽蔑するものだと分かっていながら、そのブルジョワ的な「平凡」「普通」が密告とうわさ話と覗き見とやっかみ、そして秘密に満ちておよそ健全ではないこと(密告の手紙は、少女時代の妻を強姦し愛人にしていた叔父が出したものだ。そこにも父権の裏切りがある)をその欺瞞と偽善も含めて百も承知していながら、それでも彼はその「普通さ」への所属を求める。
少年時代に運転手に犯された秘密を持つ自分であるから、妻が少女時代に叔父に犯されたことの告白に安心さえする。だがそれは妻への共感でも同情でもない。結婚前のマルチェロに、イタロたち盲人しか友達がいなかったのと、同じことに過ぎない。
妻が少女時代に性的な虐待に遭っていたことを知って、クレリ
チは初めて妻を抱くことが出来る
ただ彼女もまたトラウマを抱えた存在であることへの安心感、彼女もまた「普通」ではない、だから自分が下に見られることがない相手であるので、優越感を持てると言うだけのことだ。
自分自身のコンプレックスから逃げ続けることしか彼が求めていない、またそれしか求められない以上、同性愛者かも知れない自分、父から狂気や罪を遺伝されてしまってるかも知れない自分(もはや自分が何者であるのかも判然としない)を否認し続けようとする以上、他者に向ける真の感情もまた、彼には持ち得ないものなのだ。
そこにあるのは「父的なるもの」の支配下にある者たち(自分たち)のあいだでの、相対的な上下と、優越感/劣等感だけだ。
彼の感情には、なんらかの父性に認められるための無自覚な演技しか、あり得ないのかも知れない。
もはやそこに彼自身は居ないのだ。「《父》に認められること」でしか自分の居場所が見いだせない、しかし自分は決して認められない存在なのだと思ってしまっている以上は。
『暗殺の森』完遂されない父殺しは、自分を殺すことに至る
『暗殺の森』は父殺しの物語であると同時に、父たちによる子殺しの物語でもある。
父権により緩慢に殺されている子ども達は、それでも父の代替の承認を求めて彷徨うが、父性に命と愛を与えられず、父権に殺されている自分自身という存在から逃げ続けるしかない。
むろん、どうやったところで、自分自身からなんて逃げられるわけもないのだが。
退廃するブルジョワジーの空間、クレリチと母
自分から逃げ続けることを隠す自己欺瞞として哲学を学んだところで、行き場のない自己矛盾の堂々巡りになるだけだ。哲学とは「自分で考えること」が基本なのに、その主体である自分をあらかじめ否定して、「認められること」しか、彼は望めない。
だが「平凡さ」「健全さ」のブルジョワジーに所属と承認、居場所を求めることが、彼にとっては最初から矛盾した願望でしかない。彼自身がうわべの偽善だけにせよ十字架を飾るような「平凡」「健全」に差別され糺弾される存在なのだから。
ましてファシズムという野卑な父権に所属と承認を求めようが、それは繊細なインテリでトラウマを抱えた彼にとって、元から居場所などになり得るはずがない。
だから典型的なマッチョである部下のマンガニェッロとの関係でも、立場上の身分は上でも、「ひ弱なインテリ」として、実際には二人の力関係はすぐに逆転してしまうのだ。
発狂した父から狂気や罪が遺伝してしまっているのではと怯え、自分が同性愛者であることにも怯えているクレリチにとって、マッチョで野卑な父権制イデオロギーとしてのファシズムは、もっとも近づいてはいけないもののはずだ。
なにしろ定義上、そうした「弱い人間」(トラウマや“不健全さ”を抱えた者)は、真っ先に排除されるのがファシズムのイデオロギーのはずなのだから。
父殺しの物語であると同時に、父たちによる子殺しの物語でもある『暗殺の森』は、こうして自分殺し、自己破壊の物語となる。
ファシズムとはそういうものだ。そしてこの映画が作られた時代の左翼運動の多くも、看板が違うだけで本質的にファシズム的なものでしかなかった。
1970年につくられた『暗殺の森』は、アメリカの70年代映画などに根源的な影響を与えた映画だ。だが日本でまともに公開されたのは1980年代の末、ベルトルッチが『ラストエンペラー』でメジャーな人気監督になってからやっとだ。
ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』(1987)
この映画もまた20世紀の政治史における「父たちによる
子殺し」の変奏といえる
日本の60年代〜70年代世代がこの映画を知ることなく、そこに見せつけられている病理が自分たち自身の病理であることに気づけず、その病理を抱えたまま今では「父」の世代となって、緩慢な抑圧で子供達の世代を殺し続けているのが、今の日本なのかも知れない。
それがこと大阪のようなローマ並みに「歴史=何千年、何世代もの父たちの記憶」が深く刻印されながら、その「歴史=父たち」の存在が隠され、そこへの意識が去勢されている都市、つまり父的な遺伝として引き継がれているものがあまりに大きい一方で、歪められ隠蔽されている場では、顕著にならざるを得ないだろう。
ローマ〜現代の人間が「歴史=何世代もの父たち」に押しつぶされそうな都市
だいたい京都や大阪に限ったことでもなく、団塊の世代とその後続世代男性は、『暗殺の森』の主人公の父みたいに精神病院に入るまでもなく、父として存在感希薄で息子と向き合えず、なのに越えられることで子分を失いメンツを潰すことだけは恐れる、「居ながらにして居ない父」がやたらと多いのでもあるし。
彼らの父たちにあたる世代が、第二次世界大戦の前線にいて、その忌まわしい記憶を隠し続けて来ざるを得なかったのでもあるし、息子たちである団塊もまた怖くて聞こうとすらして来なかったのでもあるし、つまりはやはり「居ながらにして居ない父」。そうしておかないと父たちを糺弾しなくてはならなくなるから。
だがその罪を糺弾するなら、それが自分たちに遺伝し継承されていることを恐れなければならないから。
もちろんそんな恐怖は、科学的にも哲学的にも、政治的にも不条理・非合理だ。だが彼らに合理性を期待できるだろうか?
自分から逃げ続ける人間がどんな科学を学ぼうが哲学を修めようが、それはかりそめの自己イメージを満足させるもの、暗記して点数をとったりする以上のものではない。所属願望を担保するレッテルでしかないのは、クレリチが哲学博士号を持っているのと同じことだ。
もし今では50代60代になって、なお「俺たちは大人になれなかった世代なんだ」などと責任逃れの言い訳ばかりしている彼らが、今なお『暗殺の森』をただ「映画史上の名作」の教養としてしか見られず、自分たちの背負う歴史も記憶も拒絶しつづけ、この映画が実は自分たちの病理を見つめる映画であることに気づけないのなら、それもまたクレリチが学ぶ哲学がまったく無意味であるのと同様、まったくの不毛な自己逃避にしかならないだろう。
一方で、若い頃に『暗殺の森』を見られず、自分の病理に気づけぬまま「父たち」になった世代の子となる、今のたとえば大阪の若者たちもまた、この映画を今見逃すか、これが自分たちの問題に気づけぬのなら、緩慢な子殺しの連鎖が続くことになる。
承前
『暗殺の森』で主人公マルチェロ・クレリチが、恩師であり実は暗殺対象であるルカ・クワドリ教授に電話するとき、その番号は当時のジャン=リュック・ゴダールの電話番号なのだという。
『勝手にしやがれ』以来ゴダールを崇拝して来たベルトルッチは、これを「僕自身の父殺しの欲望の現れだ」と笑う。電話番号のことは冗談半分のいたずらだったとしても、クワドリ教授はクレリチにとって「父的な存在」ないし「父性/父権の代替物」であるのは確かだ。
だが『暗殺の森』は「父性なるものの」の記号に満ちたエディプス的な映画であるのは、そのことに留まらず、そして単に物語上の次元だけではない。
ベルトルッチが冗談半分で「ゴダール(=映画的な父)相手の父殺し」と言うように、彼自身がいわゆるシネフィル映画作家で、映画史上の「父たち」の記憶を受け継ぎながら、その「父権」との葛藤を徹底的に意識して産み出した映画、それが『暗殺の森』でもあるのだ。
だいたい遺産/伝統というのは、ラテン文科圏では言葉からして「父」の派生語だ。仏語ならpatrimoine、イタリア語ならpatrimonia、そこには「父」を意味する「patri」が含まれている。
『人生は我らのもの』のネオン・サイン
1937年が舞台であることが、ジャン・ルノワールが人民戦線政権成立と呼応して作った映画『人生は我らのもの』の題名引用で示されることに始まり、アールデコ調のタイトル文字、アールデコ調ホテルの調度、それが1900年万博の特設駅でありオーソン・ウェルズが『審判』を撮ったオルセー駅のホテル(ちなみに30年代当時のオルセー駅は巨大な廃屋で、実際にはホテルはなかった)であったり…
アールデコ調の字体と、アールデコの調度
…こういった意識的な選択が、30年代風の衣装と当時の建築様式を使うこと、つまり37年という時代設定を表現する手段としてだけを意図したものではないのは、言うまでもない。
映像のスタイル、撮り方の問題として、『暗殺の森』は映画史と20世紀美術史を意図的に模倣するスタイルを混在させているのだ。
アールデコに始まり、構成主義、表現主義、イタリア未来派、フィルムノワール、シュルレアリスム、バウハウス、ナチス建築から、ゴダールの映画に至るまで、20世紀のさまざまな文化遺産の記憶が、複数の多様な(ときに相反する)「父たち」的なもの記号として、『暗殺の森』のスタイルには満ち溢れている。
そうした父的な過去の記憶は、模倣であり引用であると同時に、この映画における葛藤の対象でもある。この葛藤の緊張感こそがこの映画の独特の様式を支えている。
ドイツ表現主義、イタリア未来派、ファシズム様式、
シュペアーのナチス建築の様式などなど、そして影…
映画そのものとそれを創造する行為が「父殺し」の儀式でもあることで、矛盾と緊張のなかにこそ、フォルムと内容の一致を試みる。
逆に言えば、 意識的に「父的なるもの」の抑圧的な記憶を自らのスタイルに課している映画『暗殺の森』の主人公マルチェロ・クレリチがまた、父性の不在と父的なものへの願望に苛まれる存在であるからこそ、そのマルチェロが映画そのものになっている。
だからこそマルチェロは、ゴダールの電話番号に電話をかけ、暗殺対象であるクワドリ教授に会いに行くのだ。
『勝手にしやがれ』的/フランス・ヌーヴェルヴァーグ
的な手法のショット
そのクレリチにとって、「父たち」とは、政治的な存在であると同時に、潜在的に性的な存在でもある。
無論この映画の政治的テーマであるファシズムとは倒錯した抑圧的/誘惑的な父性と父権の体制であり、そこに順応し承認されることをクレリチは求めている。
一方で哲学の師である自由主義者のクワドリ教授もまた、クレリチにとって父への憧れ的な存在だ。
この2つの父的なものは、かなり似通った性的なものに結びついている。つまりファシズムの指令を受ける時にはドミニク・サンダ演ずる娼婦がいて、ドミニク・サンダの主たる役柄は、クワドリ教授のあまりに若い(バイセクシャルの)妻だ。
もちろんこの娘のように若い妻は、クレリチにとっては自分の母の、自分よりも若い運転手の愛人アルベリと、無自覚に重ね合わされるものでもあるはずだ。
だからこそ彼は、そのアンナとも、寝なければならない。
いずれにせよこの主人公のやることはすべて、彼からすれば「しなければならない」「しょうがない」ことばかり、動機でなく強迫観念でしかないのだ。
アンナと寝ることは、彼にとって「父的なるもの」である教授から妻を奪うエディプス的父殺しであると同時に、その「父」である教授と間接的に交わることも意味する。
ファシズムという抽象的な父権と、実態のある父的存在であり知的な代父とも言える恩師の教授、そのどちらかの父権に認められ所属することをクレリチは求める。
哲学の博士号すら、彼にとっては「父的なるもの」に認められるためのものに過ぎなかったのかも知れないし、ファシズムというマッチョな父権的世界では、博士号を持つインテリであることは、弱さ=差別の対象とみなされかねないと、彼は思うのだろう。
だから部下のマンガニェッロが「博士」と呼ぶのを、わざわざ「同志だ」と言い直させる。
と同時に、その言い直させる命令に優越感を覚えもする。
複数の映画的な「父」〜様々な時代の多様な映画様式
の模倣が混在する、分裂的なスタイル
実のところ、クレリチがファシズムに走ったのは、少なくとも本人が教授に言うことに示唆されている限りでは(取り入る芝居かも知れないが)、教授がパリに亡命したことで、自分が「父」に見捨てられたと感じてしまったからなのでもあることも、彼が教授に言うことのなかに暗示されている。
クレリチは父的なものへの所属を求めて哲学の博士号までとっていながら、別の父的なものへの所属を求めファシズムに走る。
そんな彼の母は麻薬中毒で、若い運転手を愛人にしている。
運転手と言えば、少年の彼を同性愛に目覚めさせたのも運転手であり、その存在もまたある意味で、憎しみと否認の対象としての「父」なのではないか?
そしてその体験は、神父(またもや父的な存在)への告悔のなかで語られ、その記憶はマンガニェッロとの駄々っ子のようなやり取りのなかで甦る。
入れ子構造で示される、三つの抑圧的な父性。
『暗殺の森』マルチェロ・クレリチの告悔
そんな父探しに明け暮れる彼自身の家族はと言えば、まず婚約者(妻)の家庭には、父親の姿が不在だ。
そしてクレリチ自身の実父は、発狂して精神病院にいる。
バウハウス的なモダニズム空間である精神病院
父はかつてミュンヘンでヒトラーの台頭を目撃し、どうもファシズムの拷問の加害側か被害者のどちらかであったことが暗示される。
そうした強烈に父権的で暴力な記憶の一方で、しかし発狂した今では、母の夫としても彼の父としても、居ながらにして居ない、中途半端に不在だ。
婚約者の家では、クレリチの父の精神病が遺伝性のものだとする密告の手紙が話題になる…というか、梅毒性だとすれば遺伝性ではないはずだが、密告の中傷ではそうなっている(しょせん科学的な合理性なんてあり得ない手紙なのだろうが)。
父からの遺伝性の狂気…その一方で梅毒性とすれば性感染だ。不在の父でありながら、その呪いだけはクレリチに、常に重くのしかかっているのだ。
婚約者の家での密告の手紙と覗き見の空間を支配するのは、ファシズムやナチズムの社会に蔓延した優生論的な差別への恐怖だ。
遺伝性の狂気や、性病=性的な倒錯。いずれも「父の不完全さ、父の罪」をめぐる問題である。
発狂した父
クレリチは自分自身がクローゼットな同性愛者であるだけでなく、父が発狂して精神病院にいるという点でも、優生論的な差別が蔓延する社会のなかで巨大なコンプレックスと恐怖を、常に抱え、怯えるしかない。
密告の手紙への冷静な対応は、彼が常にそうした偏見の恐怖に晒され、慣れっこになってしまっていることを示している。
だからこそ彼は、神父に向かっては、「普通さ」「平凡さ」への所属願望を激しく吐露するのだろう。
同時に彼は、そうした「普通」で「平凡」のブルジョワ的価値観が陳腐で偽善であることへの軽蔑を隠さない。
だがそれでも彼は神父(=またもや父権的存在)に、自分はそこに所属したいから結婚するのだと、感情を高ぶらせて言い張るのだ。
『暗殺の森』が父殺しの物語であるのは、ただ父的な存在であるクワドリ教授をクレリチが暗殺しようとするからだけではない。ファシズムもまた父権であり、神父という父権的な伝統の表象を彼は拒絶し、ファシズムへの共感を叫ぶ。
少年時代に彼と性交を持った運転手もまた「歳上の男性」=「父」でもある。
運転手と少年時代のクレリチ
マンガニェッロとクレリチ
そうした「父たち」「さまざまな父権」を相手に、クレリチはひたすら否認/拒絶と同化願望/承認願望の発露を繰り返すのだ。
それを見せて行くこの映画自体もまた、映画史・美術史の伝統という、これまた「複数の父権的なもの」に支配されながら、自身が一個の映画となるべく格闘しつつ、そこにこそ映画のフォルムを見いだすのである。
「父」の代わりを求め続ける一方で殺し続けもする矛盾した行動の一方で、クレリチ自身の実父は「居ながらにして居ない」状態にある。
精神病院にいる発狂した父は、ミュンヘンでヒトラーが街の変人から「政治的なカリスマ=究極の(凶暴な)父権」に上り詰める様を目撃していた。
またイタリアではファシストによる拷問に関わったことが示唆され、そうした忌まわしいと同時に父の強さにも結びつく「父の記憶」を息子が突きつけると、父は暴れ出し自分を拘束衣で縛らせる。
発狂した父はこうして狂気のなかに閉じこもることで、息子と向き合うことを拒絶する。
クレリチの、代父を求め続ける一方でその代父を否認し殺そうとし続ける行動は、この父とのあいだにあり得なかった父子の関係の代替を求め続けることでもあるのかも知れない。
しかもクレリチは、父の発狂や父の過去の罪が自分に遺伝しているのではないかという恐怖に、常に苛まれなければならない。
運転手と少年クレリチ、背後にはヴァチカン〜歴史的な父権
自分が同性愛者だと気づきながらもそれを認められないこともまた、「父たち」との関係と、そこに本当の父子関係、彼にとっての「父性」が徹底してが不在であるなかに、位置づけられるのだろう。
実態として不在の父、自分を愛さない父、その心の隙間に、歳上の男性=父である運転手が少年時代の彼を性的に愛することで入り込み、そして罪深く呪われた自分を殺すように要求する。
運転手は少年マルチェロにとって不在の父の代替/分身であると同時に、性的な関係を持つことで彼自身の分身になる。だから彼は、自分を撃てと彼に言われるがままに、銃を発射することで、運転手を殺すと同時に、自分を殺してもいる。
その時このいわば「性的な父」は、「知的な父」であるクワドリ教授の暗殺を予見してもいると同時に、クレリチにとっては「人を撃った」こと以上に、自分もまた撃ち殺されるべき「罪深い」=呪われた人間であるという意識を刷り込んでしまう。
運転手がマゾヒスティックに罪の意識に苛まれることを欲望するかのように飾っていた十字架もまた、少年のクレリチにその意識をさらに強くさせるだろう。
むろん十字架はクレリチにとって「信仰」の問題ではない。ただ教会も「普通の世間」の重要な一部だというだけのことで、社会的に呪われてしまうことこそが、居場所を失って生きていけなくなると思ってしまう点で、決定的なのだ。
運転手が彼を誘惑するのに用い、そして彼が運転手を撃つ拳銃が、またドイツ製のモーゼル銃なのだが…。
言うまでもなく、『暗殺の森』で繰り返される、この父探しと父殺しは、根本的に不毛なものでしかあり得ない。
象徴的な父殺し、つまり父を越えることがフロイトの言うように息子が自分を確立するための成長段階だとするのなら、逆にクレリチは自分を棄てることしか、あるいは自分自身から逃げ続けること、そうすることで「父たち」に認められることしか求めていないし、求められないのだから。
同性愛者かも知れない自分、父から狂気や罪を遺伝されてしまってるかも知れない自分、その父から否認されている自分。その自分を偽り別の人格を与えてくれる「父性」を、彼は求め続けるて彷徨い続けるしかない。
まず哲学者であるクワドリ教授に、自分から逃げ続けるための偽りの自分でしかないものを、その偽りの自分のままで承認して欲しいというのはどだい無理なことだ。
『暗殺の森』クレリチとクワドリ教授、プラトンの洞窟の暗喩
そんなことをクレリチは百も承知しているはずだ。元からないものねだりにしかなり得ない。
逃げ続ける自分を隠して別の偽りの人格で認めて欲しいという願望自体が、哲学を学ぶこととは、最初から矛盾しているのだ。そのような考え方しか出来ないのなら、どんな哲学も教養も、ただの偽りの装いにしか成り得ないに決まっている。
だからクレリチは、結局は知的な大府であるクワドリ教授を暗殺するしかなくなり、一方でどんなにファシズム的な強い父/男性性に憧れるようが、自分には最初から無理なのは分かり切っている。
分かっているのに、それでも彼は求めてしまうのだ−自分から逃げ続けるために。
中華料理店のクワドリ夫妻とクレリチ夫妻
その逃げ続けているだけの自分という存在をないものにしてくれる、自分が演じている自分自身を認めてくれる父を求めること、その代父の下に所属して依存し、コンプレックスの固まりの自分自身を棄てられることだけを、クレリチは求め続けている。
だがそれは完全に自己矛盾し、あらかじめ破綻した、蛇が自分の尻尾を飲み込むような堂々巡りでしかない。
こうして彼は哲学を学んだものの、その恩師=代父が亡命することでその父に棄てられ、反動として対極の父権であるファシズムへの所属を求める。
「平凡」で「健全」なブルジョワ的偽善を軽蔑するものだと分かっていながら、そのブルジョワ的な「平凡」「普通」が密告とうわさ話と覗き見とやっかみ、そして秘密に満ちておよそ健全ではないこと(密告の手紙は、少女時代の妻を強姦し愛人にしていた叔父が出したものだ。そこにも父権の裏切りがある)をその欺瞞と偽善も含めて百も承知していながら、それでも彼はその「普通さ」への所属を求める。
少年時代に運転手に犯された秘密を持つ自分であるから、妻が少女時代に叔父に犯されたことの告白に安心さえする。だがそれは妻への共感でも同情でもない。結婚前のマルチェロに、イタロたち盲人しか友達がいなかったのと、同じことに過ぎない。
妻が少女時代に性的な虐待に遭っていたことを知って、クレリ
チは初めて妻を抱くことが出来る
ただ彼女もまたトラウマを抱えた存在であることへの安心感、彼女もまた「普通」ではない、だから自分が下に見られることがない相手であるので、優越感を持てると言うだけのことだ。
自分自身のコンプレックスから逃げ続けることしか彼が求めていない、またそれしか求められない以上、同性愛者かも知れない自分、父から狂気や罪を遺伝されてしまってるかも知れない自分(もはや自分が何者であるのかも判然としない)を否認し続けようとする以上、他者に向ける真の感情もまた、彼には持ち得ないものなのだ。
そこにあるのは「父的なるもの」の支配下にある者たち(自分たち)のあいだでの、相対的な上下と、優越感/劣等感だけだ。
彼の感情には、なんらかの父性に認められるための無自覚な演技しか、あり得ないのかも知れない。
もはやそこに彼自身は居ないのだ。「《父》に認められること」でしか自分の居場所が見いだせない、しかし自分は決して認められない存在なのだと思ってしまっている以上は。
『暗殺の森』完遂されない父殺しは、自分を殺すことに至る
『暗殺の森』は父殺しの物語であると同時に、父たちによる子殺しの物語でもある。
父権により緩慢に殺されている子ども達は、それでも父の代替の承認を求めて彷徨うが、父性に命と愛を与えられず、父権に殺されている自分自身という存在から逃げ続けるしかない。
むろん、どうやったところで、自分自身からなんて逃げられるわけもないのだが。
退廃するブルジョワジーの空間、クレリチと母
自分から逃げ続けることを隠す自己欺瞞として哲学を学んだところで、行き場のない自己矛盾の堂々巡りになるだけだ。哲学とは「自分で考えること」が基本なのに、その主体である自分をあらかじめ否定して、「認められること」しか、彼は望めない。
だが「平凡さ」「健全さ」のブルジョワジーに所属と承認、居場所を求めることが、彼にとっては最初から矛盾した願望でしかない。彼自身がうわべの偽善だけにせよ十字架を飾るような「平凡」「健全」に差別され糺弾される存在なのだから。
ましてファシズムという野卑な父権に所属と承認を求めようが、それは繊細なインテリでトラウマを抱えた彼にとって、元から居場所などになり得るはずがない。
だから典型的なマッチョである部下のマンガニェッロとの関係でも、立場上の身分は上でも、「ひ弱なインテリ」として、実際には二人の力関係はすぐに逆転してしまうのだ。
発狂した父から狂気や罪が遺伝してしまっているのではと怯え、自分が同性愛者であることにも怯えているクレリチにとって、マッチョで野卑な父権制イデオロギーとしてのファシズムは、もっとも近づいてはいけないもののはずだ。
なにしろ定義上、そうした「弱い人間」(トラウマや“不健全さ”を抱えた者)は、真っ先に排除されるのがファシズムのイデオロギーのはずなのだから。
もっとも、こうした隠された倒錯した欲望こそが、ファシズムの本質でもある。
ヒトラー本人にも同性愛説や父が私生児であった説、ユダヤ人の血を引いている説まである。自分に本当はない「強さ」へのコンプレックスに苛まれた男たちの自己否認と憧れこそが、ファシズムのようなイデオロギーを産み出す本当の理由なのだ。
本質的に受け身でしかなく常に承認願望が優先されてしまう、やりたいことをやるよりも認められることを求めながら、認められることの一貫として「ワシはSやから」とか言う、たとえば昨今の大阪によくいる男性像の典型と同様、本質的に「弱者」でしかないからこそ「強者」に承認され同一化したい、そのことで「弱者」である自分を自己否認したい願望が、それが軽蔑すべき欺瞞であることを百も承知していながら、それでも彼ら自ら負け犬になっている者たちを、ファシズムへと追いやるのである。
だから『暗殺の森』ではクレリチは教授の暗殺を決意するしかなくなる。
だがどんなにファシズム的な強い父/男性性に憧れようが最初から無理なのは分かり切っているからその決意を実行できない。それが分かっているのに、彼らはそれを求める−ただひたすら、負け犬根性に耽溺する自分たち自身から逃げ続けるために。
父殺しの物語であると同時に、父たちによる子殺しの物語でもある『暗殺の森』は、こうして自分殺し、自己破壊の物語となる。
ファシズムとはそういうものだ。そしてこの映画が作られた時代の左翼運動の多くも、看板が違うだけで本質的にファシズム的なものでしかなかった。
1970年につくられた『暗殺の森』は、アメリカの70年代映画などに根源的な影響を与えた映画だ。だが日本でまともに公開されたのは1980年代の末、ベルトルッチが『ラストエンペラー』でメジャーな人気監督になってからやっとだ。
ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』(1987)
この映画もまた20世紀の政治史における「父たちによる
子殺し」の変奏といえる
日本の60年代〜70年代世代がこの映画を知ることなく、そこに見せつけられている病理が自分たち自身の病理であることに気づけず、その病理を抱えたまま今では「父」の世代となって、緩慢な抑圧で子供達の世代を殺し続けているのが、今の日本なのかも知れない。
それがこと大阪のようなローマ並みに「歴史=何千年、何世代もの父たちの記憶」が深く刻印されながら、その「歴史=父たち」の存在が隠され、そこへの意識が去勢されている都市、つまり父的な遺伝として引き継がれているものがあまりに大きい一方で、歪められ隠蔽されている場では、顕著にならざるを得ないだろう。
ローマ〜現代の人間が「歴史=何世代もの父たち」に押しつぶされそうな都市
だいたい京都や大阪に限ったことでもなく、団塊の世代とその後続世代男性は、『暗殺の森』の主人公の父みたいに精神病院に入るまでもなく、父として存在感希薄で息子と向き合えず、なのに越えられることで子分を失いメンツを潰すことだけは恐れる、「居ながらにして居ない父」がやたらと多いのでもあるし。
彼らの父たちにあたる世代が、第二次世界大戦の前線にいて、その忌まわしい記憶を隠し続けて来ざるを得なかったのでもあるし、息子たちである団塊もまた怖くて聞こうとすらして来なかったのでもあるし、つまりはやはり「居ながらにして居ない父」。そうしておかないと父たちを糺弾しなくてはならなくなるから。
だがその罪を糺弾するなら、それが自分たちに遺伝し継承されていることを恐れなければならないから。
もちろんそんな恐怖は、科学的にも哲学的にも、政治的にも不条理・非合理だ。だが彼らに合理性を期待できるだろうか?
自分から逃げ続ける人間がどんな科学を学ぼうが哲学を修めようが、それはかりそめの自己イメージを満足させるもの、暗記して点数をとったりする以上のものではない。所属願望を担保するレッテルでしかないのは、クレリチが哲学博士号を持っているのと同じことだ。
もし今では50代60代になって、なお「俺たちは大人になれなかった世代なんだ」などと責任逃れの言い訳ばかりしている彼らが、今なお『暗殺の森』をただ「映画史上の名作」の教養としてしか見られず、自分たちの背負う歴史も記憶も拒絶しつづけ、この映画が実は自分たちの病理を見つめる映画であることに気づけないのなら、それもまたクレリチが学ぶ哲学がまったく無意味であるのと同様、まったくの不毛な自己逃避にしかならないだろう。
一方で、若い頃に『暗殺の森』を見られず、自分の病理に気づけぬまま「父たち」になった世代の子となる、今のたとえば大阪の若者たちもまた、この映画を今見逃すか、これが自分たちの問題に気づけぬのなら、緩慢な子殺しの連鎖が続くことになる。
『暗殺の森』(1970年、ベルナルド・ベルトルッチ)は2/19日より京都みなみ会館、大阪シネヌーヴォで上映中。3月には横浜シネマ・ジャック&ベティでも上映。
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