1/21/2008
地方の文化を考える(東京から見えること)
「東京から見えること」というわけで写真は東京の風景にしました。いろいろウザい街ながら、やっぱりこうやって見ると凄いですね。こんなとんでもない都市は世界でも滅多にありません。真似なんてやりようがないだろうし。
さて昨日は飯塚さんの映画『映画の都、ふたたび』を、映画による日本人論、現代日本社会論として出色の傑作として取り上げたのだが、より普遍的なコミュニティ論としての飯塚さんの映画のおもしろさは別として、文化における東京一極集中の現状に対して地方からどう文化を育てて行くのかということを考える上でも、もちろん示唆に富む映画だった。
その意味でも映画のなかで東京事務局が出て来ないのはちょっと残念なのだが、その不在故にかえって地方文化の現状の問題がいろいろ浮かび上がって来る映画になっていると思う。当事者にとっては公平性に欠けるといった不満が出て来るとは思いつつも、だから「山形国際ドキュメンタリー映画祭」という固有の問題だけの映画として捉えないで、もっと広い視野で考えてみたい。どっちにしろ映画を見ただけの感想だということは、まずお断りしておかなければならない。その上で耳障りなことも書くかも知れないが、あくまで映画というそれ自体はフィクションの体系のなかに見えたことだとご了承ください。
…と書いているところで、国会中継で自民党の伊吹幹事長が世にも奇妙な代表質問をやっている。一瞬、野党の代表質問かと思いましたよ、コレ。だって批判ばっかりじゃないですか--ただし野党・民主党の主張に対する。それも論理的に破綻した言いがかりのような、あっというまに反論されるような内容を、代表質問は党代表の質問に対して内閣が応えるという形式なのを悪用し、つまり野党は反論できないシステムを利用して。「肝心の質問はどうなったんだ?」と思うのは言うまでもないが、それ以上にまず姑息でみっともない。民主党・鳩山幹事長のすさまじい政府批判にあふれた代表質問の時以上に福田総理大臣が居心地悪そうな顔をしているのがなんだかおかしい。伊吹さんはこういう卑劣でみっともない態度が、かえって自民党への支持を落としかねないことに思いが寄らないのだろうか? これに拍手喝采している自民党議員って…。しかも、肝心の福田さんの答弁は、自民党の皆さん、ほとんど聴いてませんね。
閑話休題。『映画の都、ふたたび』でどうしても気になるのは、10数年も映画祭をやっていながら、山形のとくに行政が映画祭の中身となると「プロである東京」におんぶにだっこで、そのことになんの疑問もなく、映画祭専属スタッフの「専門員」(それって映画のプロってことでしょ?)として市に雇用されていた民間人に、「映画のことは東京に任せて、君たちは事務屋に徹しろ」と言い続けることだ。それも「文化振興課」の課長だとか、映画祭の運営に関する会議に出席している役人なのだから、文化行政を担っている人たちのはずなのに--それも市民の税金を使って、市民の税金で給料をもらってるんでしょ? あなたたちだって「プロ」のはずでしょう?
だいたい不思議なのは、「映画のプロ」にもいろいろあるにせよ、我々作っている側はいわば職人で、やってることの大半は非常に地道な、事務的とは言わないが技術的ないわば手作業だし、配給業務ならば事務ができなければ仕事になりません。プロデューサーにせよ配給会社にせよ、会計決算だとかがきちんとしていなければ、税務署の監査は入るし業務上横領で告発だってされかねない。いみじくもあくまでボランティアのスタンスで映画祭を支えて来た桝谷さんが言っているが、「経営」という視点というか、お金を集めて帳尻を合わせてくらいのことは仕事であれば誰でも考えなければいけない話であって、そんなに特別な話ではない。
それを文化行政を担う公務員が事務屋であることにプライドを賭けられても、市民としてはちょっと困ってしまう。 だっていくら役所となるといろいろ煩雑な書類が必要になるのかも知れないとはいえ(ってそれが煩雑でより人件費を食うとすれば、公金の税金なんだから経費の無駄だとかの問題になりません?)、民間だってみんなやってることでしょう? なにがそう違うのかよく分からないんですけど、なのに民間からの「専門員」が「公金を使うことの重み」とかの反省の弁を言わなければ許されないのだから。民間会社の金だって杜撰な会計なんてことやったらまずいんですよ。いや税金の重みは感じてもらわなければ確かに困るのだが、それって会計監査の問題というより「なんに使うのか」を我々市民は見ているんだし、つまり価値のある映画祭を作りあげるのが仕事であるはずだ。それが「東京は映画のプロだから」って中身を任せていいもんじゃないでしょう? それだったら「矢野さんは優れたディレクターだから」と言うべきところだが、どうもそういう意味で言ってるのではないらしい。「東京のプロ」にはなにも言えないから自分のところの専門員に八つ当たりしてるみたいに見えてしまう(あくまで映画を見た限りのはなしで、たまたまそう写っただけなのかも知れないが)。
山形国際ドキュメンタリー映画祭は公平に言って世界に冠たる映画祭だと思う。それも権威主義でなく、新しい映画の流れに敏感で新進の映画作家を世界に先駆けて評価もして来たし、スペシャルイヴェントでも独創的な切り口のプログラミングで注目されて来た。山形がここ10数年、日本どころか世界にドキュメンタリー映画の文化を発信して来たことは客観的な事実なのだと思う。その文化は山形の文化であり、少しは地元としてプライドを持ってもいい。仮にプログラミングの実態を東京事務局が担って来たとしても、その人材を選び雇って信頼し、映画祭を維持して来たのは山形市と山形市民であるはずだ。矢野和之さんというディレクターに世界でも有数の映画祭を作らせたのは山形であり、矢野和之さんが作って来たのは山形の文化であり、山形市役所も山形のスタッフも、それを共に作って来たはずだ。ところが『映画の都、ふたたび』を見ていると、どんどんそういうプライドを人々が失っていく、あるいは失わされていくように見えるし、10数年この映画祭を作って来た矢野和之さんがよそ者として排除されえいるような感覚がつきまとう。住んでるところが違ったって、10数年やってれば仲間でしょう? というか、矢野さんがやって来たことが山形の文化になっていなければ、なんのための映画祭だったのだろう? 『映画の都、ふたたび』の見せるコミュニティの崩壊は重苦しい。しかしなんらかのコミュニティの存在しないところに、文化なんて成り立つのだろうか?
そろそろ20年にもなるのに、未だに東京と山形の違いという単純に地理上の形式を山形の側が思い込んでいるようでは、まずいんじゃないかとどうしても思ってしまう。名実共に山形の映画祭にするために事務局の企画運営機能を山形に移していくというのもひとつの正当な考え方だとは思う。しかしなかなか東京でないと人脈などで困るところがあるのは現実だろう。映画の業界があまりに東京一極中心なのは現実だし、でもそうはいっても、インターネットの世の中になれば事情は変わって来るのではないだろうか? 地理的には確かに東京、山形で分かれて映画祭を準備することになるにしても、10数年もやっていればもう少し一体感というか、精神的なつながりがあってもいいのではないか? 少なくとも、「東京は映画のプロだから」と言って切り離しているのではやはりちょっとおかしい。せめて参勤交代の時代の藩みたいな感覚ぐらいは生まれなかったのだろうか? それを外注業者扱いというのは…。一方で、10数年もやっているのだから、システム的にも外注業者の立場にならないように組織を変えておかなかったのかというのも気になるし、そこで今度は硬直した「行政」と「民間」の区分けが見えて来てしまい、そっちもそっちで暗澹とした気分になる。ならばNPOというのは形式の問題に過ぎないのか?
失礼を承知で言ってしまえば、どうしても自分たちを田舎の小都市と卑下するコンプレックスが感じられてしまってしょうがないのだ。今更「東京」で「プロ」という話でもないでしょう。山形の映画祭だから山形出身でないと、というのも狭量なナシュナリズムならぬリージョナリズムに他ならず、そんなんじゃ地方から文化を発信して中央集権状況を解消するなんてことにはとてもなりそうにない。そうでなくて「山形映画祭の矢野和之だから」であるべき話であって、それはディレクターの個性であり個人の能力のはずだ。といって東京の人間がこういうことを言っても説得力がないのはじゅうじゅう承知だが…。でもなんだか、地方都市の文化アイデンティティという点でもものすごいポテンシャルを持った文化事業を、その価値を自覚できずに無駄にして、どんどん骨抜きにしているようにも思えてしまう。それも紛れもない地方都市の文化事業を。
昨年に山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ったとき、「山形と映画」という企画シリーズをやっていて、なにしろ滅多に見る機会がない映画を見られてありがたかったのだが、でも「山形と映画」っていうのもアレだし、いちばんおもしろかったのが主演女優が山形出身というだけの『東京行進曲』でしたから、なんだかなぁ…。
1/20/2008
飯塚俊男さんの『映画の都、ふたたび』
昨日、飯塚俊男さんの『映画の都、ふたたび』をやっと拝見し、引き続き行われた「山形国際ドキュメンタリー映画祭はどこへ行くのか」というシンポジウムにも立ち会った。正直言うと、このプログラムの立て方はちょっともったいなかった気がする。飯塚さんが自分のデビュー作であった『映画の都』と、その対象であった山形国際ドキュメンタリー映画祭に熱い思いがあるのはよく分かるし、表層上は映画祭の危機を撮った映画であるのだから、映画祭の未来を語るのも一見必然的な流れには見える。でもあまりに予定調和過ぎるし、実は映画をその対象の枠内に押し込めて、映画を映画として見させない仕掛けになってしまってはいなかったか?
そろそろ4本目が完成する僕の長編のフィルモグラフィのうち、一本は劇映画のメイキングであり、もう一本はドキュメンタリー映画監督の肖像、どっちも「映画について」のドキュメンタリー映画だ。テレビ用の作品だとさらに3本、やはり映画や映画監督がらみのドキュメンタリーがあるのだから「お前が言うな」と言われそうだが、はっきり言えば「映画についての映画」というのはまずつまらない。映画への愛情とか熱意とかを画面の前面に押し出された日には「勝手にしろ」と言いたくなる。だいたい好きでなきゃできない、というか「好きだ」とか「愛」とかの上っ面の美辞麗句を超えられないようではいい映画なんてできないだろうし、自分の愛だのを観客に共有するように強いるのは手前勝手すぎて、ほとんどポルノグラフィめいた猥褻さにさえ陥りかねない。本気で映画への愛についての映画をやって成功させた人は、ゴダールくらいしかいないかも知れない(『映画史』)。あとはアルトマンの『タナー・オン・タナー』(『タナー'88』の続編)かな? そのどちらの天才も、「映画への愛」に対して、いつも以上に厳しく冷徹な目線を向けている。
飯塚さんの映画は、決して映画についての映画に留まっていないし、実を言えば「映画についての映画」なのは表面上そうであるだけだ。そもそもこれは映画祭という組織運営についての映画であり、それがただ「映画祭への熱意」などだけでは済まないことをはっきりと映し出している。旧県庁の時計塔の整備から始まることで「時」をまず印象づけるこの映画は、18年前の第一回映画祭を撮った『映画の都』の、未使用ラッシュも含めた抜粋を織り交ぜながら、映画はそこに流れた10数年の歳月を見逃しはしない。皮肉にも10回を数える映画祭で、立ち上げの時と現在の危機の時の主人公たちがほとんど同じであることに、彼らにとっても10数年の歳月が流れたことが胸に沁みる。その歳月で彼らがどう変わったのか、変わらないのかは、見ていて正直辛くなるものでもあった。
『映画の都、ふたたび』を映画祭についての映画として見るのなら、興味を持つのは映画祭関係者だけだろうし、「人ごとではない」と身につまされる程度の映画で終わってしまうかもしれない。実際、上映会に集まっていたのはそういう人がほとんどだったのだろうが、そういう映画としてだけ見るのはとてもつまらなく、もったいなく思える。まず日本のドキュメンタリーとしてなによりもこの映画がおもしろいのは、地方自治体の職員、いわばお役人が堂々と発言している数少ない、もしかしたら初めての映画だということだ。なにしろ自治体職員も官僚も、まず取材に応じてくれませんし、内輪の会議なんて撮らせませんから。まして内輪の会議で彼らがどういうことを言い、どう行動するか、そのドラマチックさの迫真性はそんじょそこらの劇映画が足下に及ぶところではない。
それも役人VS役人ではなく、映画祭のスタッフである嘱託職員はいわば民間人で、その彼らが、役人と向き合う会議なのだ。当事者は大変だろうが、映画としてはスリリングで怖く、そして映画的に抜群に面白い。、もちろん台詞の内容自体は、ほとんど重要ではない。言葉のカードを用いて民間人を吊るし上げ、潰すことで自分たちの「偉さ」を再確認せずにはいられないその姿が、映画には浮かび上がる。人間は与えられた状況のなかで自分の役割を演じることでサバイバルし、あるいは自分に与えられた状況のなかで自分を誇示し権力を振るうことで自己アイデンティティを再確認する。こと日本人の組織に属することを第一に考えてしまう国民性、それがどれほど残酷なことにもなりうるかが、これほどリアルに撮られた映画も珍しい。リアルなのは当たり前か。ドキュメタリーなんだから。
いやまあ、見ていてあまり気持ちのいいものではないにせよ、映画による日本人論、現代日本社会論としてとにかく秀逸だ。だからこれを「映画祭についての映画」としてだけ見るのは、あまりにもったいない。もっと凄いのは2007年4月を持って市役所から独立し、NPOつまり民間になった映画祭事務局のなかに、市役所的なパワーゲームの論理が伝染していく怖さだ。市役所側に会計監査の不備をネタにいじめられ、反省の弁を述べながら感極まって涙を流すというお約束どおりにやらなければならない“儀式”を捉えた会議シーンは飯塚さんがこの映画で撮ったなかでも最高の瞬間のひとつだが、その屈辱まで味あわされた彼女が結局クビを切られる(嘘だろ!)、それも引導を渡すのはNPO側だという、その会議をあえて字幕で処理し、その理由を明確にはしないという判断と、夜中に窓越しに、事務所にポツンと座った彼女を撮ったロングショットは、本当に凄いし見事に映画的で、恐ろしく残酷だ。
社会的にも、いわゆる「民営化」に、どれだけ机上の空論とは異なったドロドロの現実があるか、とても勉強になる。一方で思い出したのが、昨年大騒ぎになった安倍総理大臣の辞任劇だ。ほんの一年前にあそこまで持ち上げていた「戦後生まれの若い首相」をよってたかって引きずりおろした自民党は、そりゃ安倍さん自身が無能過ぎたのがいちばん悪いとはいえ、ちょっと見ていて気持ちのいいものではなかった。もうちょっとやりようがあったんじゃないか。
その彼女の去った実行委員会事務局は、一見平和を取り戻したように見える。だがここまでものごとをこじらせてしまった結果の亀裂は、もはや補完しようもなくそこにある(安倍辞任のあと、自民党がバラバラになっているように)。彼女のことは象徴的な一事件に過ぎず、さまざまな亀裂が、この映画祭のために集まった人たちのコミュニティを切り裂いているであろうことは、新事務所のシーンの妙に居心地が悪かったり、不安定だったりするキャメラワークににじみ出ているし、民間NPOになったとたんに、逆に映画祭が官僚化して組織保全で硬直化してしまうとう矛盾。
それでも映画祭は開催されなければいけないのだが、この2007年の空気感は、10数年前の『映画の都』の映像のなかのそれとは、なにかが決定的に違っている。そこに『映画の都』から、89年の映画祭で来日したジョン・ジョスト監督のインタビューが挿入される。ジョストはそこで,アメリカ人に決定的に欠如していて日本社会にはある美徳を語っている。日本人は互いを思いやり、共同体を大事にする、という。その日本的コミュニティのしなやかさは、2007年の飯塚さんのキャメラが一生懸命探しても、もはやどこにも、空気感のなかにさえ存在していない。我々は過去10数年に日本社会がどれだけ野蛮化し、日本人が人としての本来の力を失ってしまったかを見せつけられ、唖然とするしかない。ほとんど同じ人たちが、10数年の時を経ただけで、本人たは変わらずいい人たちに見えるのに、そこに失われたものは決定的だ。
飯塚さんが、あるいは見ている僕自身が、過去を美化し過ぎているのかもしれない。それにしたって30代半ばのいわば大人とはいえ、年齢的にはいちばん若く、今後も成長していく可能性を秘めた女性を、ここまで孤独に追い込みいじめる場所に、もはやジョストの言っていたような美徳なんて信じようがなくなる。それも「いじめている」という自覚も、悪意も、たぶん当事者たちにはないのだ。むしろ申し訳ないと思っている風情さえ、飯塚さんの映像は映している。その彼女もまた、この一件で本来持っていた誠実さや純粋さをどこかで失ってしまったようにも見えた。
飯塚さんは元々はNPO化という「映画祭の危機」を耳にして、映画祭を守るためにこの映画を撮り始めたのだろう。だがドキュメンタリーのキャメラという機械が捉えたのは、原因がどこにあったにせよ、映画祭を中心にしたしなやかなコミュニティが結局は自己崩壊していく姿だった。そして飯塚さんはそれを、やたらと悪い面をあげつらったり悪役を作ったりはせず、あくまで対象への愛情を失わず、かといってお涙ちょうだいに持ち込みかねないところをギリギリでセーブし、非常に優れたドキュメンタリー映画を作り上げたと思う。この映画に出て来るお役人さんたちだって、決して悪い人たちには見えない。ただ共同体としての機能を失って冷たい制度となった組織のなかで、きちんと自分たちの役割を演じているようにしか見えない。
僕自身はその2007年の映画祭には作品ゲストとして参加しただけでから、実際の内情はぜんぜん分からないし、それは一応は知人ではある当事者たちの問題だから僕が口出しすべきことでもないだろう。憶測するに、当事者からすればいろいろ不満もある作品かも知れない(「こんなもんじゃなかった」とか「あの人のいいところだけ見せている」とか)。まったく内情を知らない僕ですら映画祭の中身をほとんど作っているように見える東京事務局、この10数年山形国際ドキュメタリー映画祭の質を維持し、世界でもっともおもしろい映画祭のひとつにしてきたディレクターの矢野和之さんがまったく出てこないのは気になった。なにしろ映画祭の期間中には矢野さんが今回で辞めるという憶測や噂が飛び交い、僕自身がテレビの取材に応じて「映画祭は優れたディレクターなしには成り立たない」と言っていたのだから。もっとも、この映画が映し出していることが現実なのであれば、矢野和之さんの10数年間の功績を心から讃える同時に、「本当にご苦労様でした。もうやめた方がいいかも知れませんね」とも正直思ってしまった。10数年も映画祭を続けて来た、それもドキュメンタリー映画祭を続けて来た結果がこうなるのなら、それはちょっと虚しい気もする。ドキュメンタリーは本来、どんなに残酷な映画でもその根底には人間への信頼があり、その信頼をこそ優れた映画は、究極的には伝えているはずなのだから。
でもまあ、故・佐藤真さんが繰り返し指摘していたように、映画として完成されたとき、ドキュメンタリーは現実にキャメラを向けていても作家の視線と思考を通して構築されたフィクションなのだ。だから山形国際ドキュメタリー映画祭がこれまでの功績をきちんと引き継いで継続することを願うのとはまったく別次元のこととして、この『映画の都、ふたたび』は日本における共同体の美徳の崩壊を見事に表現した作品として絶賛したいと思う。そして、だからこそ「映画祭なんて興味ない」と言わずに、というよりも映画祭のことは忘れて、日本人なら見るべき映画だと思うし、日本社会を知りたい人にはぜひみてほしい傑作だと思う。
とはいえ、本当の内情については知らないし口出ししないと言いつつ、気になったことが一つある。山形国際ドキュメタリー映画祭の危機的な状況、NPO化というのは、てっきり財政的な問題なのだろうと思っていた。それはそれで、我々には困ることだとはいえ、公金であり市民の税金なのだから、たとえば市議会で問題にでもなれば、文化というものが地域共同体のアイデンティティにとってどれだけ重要なのかでも論ずる以外に、「人はパンのみにて生きるにあらず」とでも強弁する以外に、どうしようもない。だが『映画の都、ふたたび』を見ても、その後のシンポジウムを聞いても、実はぜんぜんそういうことではないみたいなのだ。そのどういう政治の力学が働いているのかがまったく見えてこないところが、飯塚さんの映画のもっとも怖いところなのかも知れない。
とにかく映画では全く出てこないし、シンポジウムでもなんだか奥歯にものの挟まったような感じで避けられているので判断しようもないのだが、東京事務局の役割縮小というのも、行政の組織上はいわば外注業者扱いで、財政逼迫のなかでかつ映画祭がNPO化すれば、外注の外注という形式上の問題を巧く処理できないとか、地方分権の流れのなかで文化の東京一極集中を解消すべきという政治的な正当性の流れからも、東京の事務局が実質上作っている映画祭というのも建前上は…といった問題は想定して来た(し、それはそれでまっとうな議論ではある)。だからこそこの10数年、矢野和之さんと一緒に映画祭を作って来た山形の人たちが、もっと矢野和之さんを自分たちの大切な仲間として認識できないのか、東京に拠点があっても、映画祭を通じて山形の文化を育てて来たのは矢野さんじゃないかとか、仮に引退するにしたって「映画のプロだから」と上辺だけ持ち上げておいてその実外注業者扱いというのもないだろうし、「東京はプロだから」と20年やっていながらの残酷な甘えというのもちょっと怖い。その精神を引き継ぐのもまたコミュニティ、共同体の役割ではないか、それも優れた映画を信じることで結ばれたコミュニティなのだから、とか…いやその共同体が自己崩壊していることを映したのが、この映画なのか。とにかく怖いものを見てしまったなあ。その怖さが表面化するのでなく、じんわりとにじみ出て来るのが凄い。
そろそろ4本目が完成する僕の長編のフィルモグラフィのうち、一本は劇映画のメイキングであり、もう一本はドキュメンタリー映画監督の肖像、どっちも「映画について」のドキュメンタリー映画だ。テレビ用の作品だとさらに3本、やはり映画や映画監督がらみのドキュメンタリーがあるのだから「お前が言うな」と言われそうだが、はっきり言えば「映画についての映画」というのはまずつまらない。映画への愛情とか熱意とかを画面の前面に押し出された日には「勝手にしろ」と言いたくなる。だいたい好きでなきゃできない、というか「好きだ」とか「愛」とかの上っ面の美辞麗句を超えられないようではいい映画なんてできないだろうし、自分の愛だのを観客に共有するように強いるのは手前勝手すぎて、ほとんどポルノグラフィめいた猥褻さにさえ陥りかねない。本気で映画への愛についての映画をやって成功させた人は、ゴダールくらいしかいないかも知れない(『映画史』)。あとはアルトマンの『タナー・オン・タナー』(『タナー'88』の続編)かな? そのどちらの天才も、「映画への愛」に対して、いつも以上に厳しく冷徹な目線を向けている。
飯塚さんの映画は、決して映画についての映画に留まっていないし、実を言えば「映画についての映画」なのは表面上そうであるだけだ。そもそもこれは映画祭という組織運営についての映画であり、それがただ「映画祭への熱意」などだけでは済まないことをはっきりと映し出している。旧県庁の時計塔の整備から始まることで「時」をまず印象づけるこの映画は、18年前の第一回映画祭を撮った『映画の都』の、未使用ラッシュも含めた抜粋を織り交ぜながら、映画はそこに流れた10数年の歳月を見逃しはしない。皮肉にも10回を数える映画祭で、立ち上げの時と現在の危機の時の主人公たちがほとんど同じであることに、彼らにとっても10数年の歳月が流れたことが胸に沁みる。その歳月で彼らがどう変わったのか、変わらないのかは、見ていて正直辛くなるものでもあった。
『映画の都、ふたたび』を映画祭についての映画として見るのなら、興味を持つのは映画祭関係者だけだろうし、「人ごとではない」と身につまされる程度の映画で終わってしまうかもしれない。実際、上映会に集まっていたのはそういう人がほとんどだったのだろうが、そういう映画としてだけ見るのはとてもつまらなく、もったいなく思える。まず日本のドキュメンタリーとしてなによりもこの映画がおもしろいのは、地方自治体の職員、いわばお役人が堂々と発言している数少ない、もしかしたら初めての映画だということだ。なにしろ自治体職員も官僚も、まず取材に応じてくれませんし、内輪の会議なんて撮らせませんから。まして内輪の会議で彼らがどういうことを言い、どう行動するか、そのドラマチックさの迫真性はそんじょそこらの劇映画が足下に及ぶところではない。
それも役人VS役人ではなく、映画祭のスタッフである嘱託職員はいわば民間人で、その彼らが、役人と向き合う会議なのだ。当事者は大変だろうが、映画としてはスリリングで怖く、そして映画的に抜群に面白い。、もちろん台詞の内容自体は、ほとんど重要ではない。言葉のカードを用いて民間人を吊るし上げ、潰すことで自分たちの「偉さ」を再確認せずにはいられないその姿が、映画には浮かび上がる。人間は与えられた状況のなかで自分の役割を演じることでサバイバルし、あるいは自分に与えられた状況のなかで自分を誇示し権力を振るうことで自己アイデンティティを再確認する。こと日本人の組織に属することを第一に考えてしまう国民性、それがどれほど残酷なことにもなりうるかが、これほどリアルに撮られた映画も珍しい。リアルなのは当たり前か。ドキュメタリーなんだから。
いやまあ、見ていてあまり気持ちのいいものではないにせよ、映画による日本人論、現代日本社会論としてとにかく秀逸だ。だからこれを「映画祭についての映画」としてだけ見るのは、あまりにもったいない。もっと凄いのは2007年4月を持って市役所から独立し、NPOつまり民間になった映画祭事務局のなかに、市役所的なパワーゲームの論理が伝染していく怖さだ。市役所側に会計監査の不備をネタにいじめられ、反省の弁を述べながら感極まって涙を流すというお約束どおりにやらなければならない“儀式”を捉えた会議シーンは飯塚さんがこの映画で撮ったなかでも最高の瞬間のひとつだが、その屈辱まで味あわされた彼女が結局クビを切られる(嘘だろ!)、それも引導を渡すのはNPO側だという、その会議をあえて字幕で処理し、その理由を明確にはしないという判断と、夜中に窓越しに、事務所にポツンと座った彼女を撮ったロングショットは、本当に凄いし見事に映画的で、恐ろしく残酷だ。
社会的にも、いわゆる「民営化」に、どれだけ机上の空論とは異なったドロドロの現実があるか、とても勉強になる。一方で思い出したのが、昨年大騒ぎになった安倍総理大臣の辞任劇だ。ほんの一年前にあそこまで持ち上げていた「戦後生まれの若い首相」をよってたかって引きずりおろした自民党は、そりゃ安倍さん自身が無能過ぎたのがいちばん悪いとはいえ、ちょっと見ていて気持ちのいいものではなかった。もうちょっとやりようがあったんじゃないか。
その彼女の去った実行委員会事務局は、一見平和を取り戻したように見える。だがここまでものごとをこじらせてしまった結果の亀裂は、もはや補完しようもなくそこにある(安倍辞任のあと、自民党がバラバラになっているように)。彼女のことは象徴的な一事件に過ぎず、さまざまな亀裂が、この映画祭のために集まった人たちのコミュニティを切り裂いているであろうことは、新事務所のシーンの妙に居心地が悪かったり、不安定だったりするキャメラワークににじみ出ているし、民間NPOになったとたんに、逆に映画祭が官僚化して組織保全で硬直化してしまうとう矛盾。
それでも映画祭は開催されなければいけないのだが、この2007年の空気感は、10数年前の『映画の都』の映像のなかのそれとは、なにかが決定的に違っている。そこに『映画の都』から、89年の映画祭で来日したジョン・ジョスト監督のインタビューが挿入される。ジョストはそこで,アメリカ人に決定的に欠如していて日本社会にはある美徳を語っている。日本人は互いを思いやり、共同体を大事にする、という。その日本的コミュニティのしなやかさは、2007年の飯塚さんのキャメラが一生懸命探しても、もはやどこにも、空気感のなかにさえ存在していない。我々は過去10数年に日本社会がどれだけ野蛮化し、日本人が人としての本来の力を失ってしまったかを見せつけられ、唖然とするしかない。ほとんど同じ人たちが、10数年の時を経ただけで、本人たは変わらずいい人たちに見えるのに、そこに失われたものは決定的だ。
飯塚さんが、あるいは見ている僕自身が、過去を美化し過ぎているのかもしれない。それにしたって30代半ばのいわば大人とはいえ、年齢的にはいちばん若く、今後も成長していく可能性を秘めた女性を、ここまで孤独に追い込みいじめる場所に、もはやジョストの言っていたような美徳なんて信じようがなくなる。それも「いじめている」という自覚も、悪意も、たぶん当事者たちにはないのだ。むしろ申し訳ないと思っている風情さえ、飯塚さんの映像は映している。その彼女もまた、この一件で本来持っていた誠実さや純粋さをどこかで失ってしまったようにも見えた。
飯塚さんは元々はNPO化という「映画祭の危機」を耳にして、映画祭を守るためにこの映画を撮り始めたのだろう。だがドキュメンタリーのキャメラという機械が捉えたのは、原因がどこにあったにせよ、映画祭を中心にしたしなやかなコミュニティが結局は自己崩壊していく姿だった。そして飯塚さんはそれを、やたらと悪い面をあげつらったり悪役を作ったりはせず、あくまで対象への愛情を失わず、かといってお涙ちょうだいに持ち込みかねないところをギリギリでセーブし、非常に優れたドキュメンタリー映画を作り上げたと思う。この映画に出て来るお役人さんたちだって、決して悪い人たちには見えない。ただ共同体としての機能を失って冷たい制度となった組織のなかで、きちんと自分たちの役割を演じているようにしか見えない。
僕自身はその2007年の映画祭には作品ゲストとして参加しただけでから、実際の内情はぜんぜん分からないし、それは一応は知人ではある当事者たちの問題だから僕が口出しすべきことでもないだろう。憶測するに、当事者からすればいろいろ不満もある作品かも知れない(「こんなもんじゃなかった」とか「あの人のいいところだけ見せている」とか)。まったく内情を知らない僕ですら映画祭の中身をほとんど作っているように見える東京事務局、この10数年山形国際ドキュメタリー映画祭の質を維持し、世界でもっともおもしろい映画祭のひとつにしてきたディレクターの矢野和之さんがまったく出てこないのは気になった。なにしろ映画祭の期間中には矢野さんが今回で辞めるという憶測や噂が飛び交い、僕自身がテレビの取材に応じて「映画祭は優れたディレクターなしには成り立たない」と言っていたのだから。もっとも、この映画が映し出していることが現実なのであれば、矢野和之さんの10数年間の功績を心から讃える同時に、「本当にご苦労様でした。もうやめた方がいいかも知れませんね」とも正直思ってしまった。10数年も映画祭を続けて来た、それもドキュメンタリー映画祭を続けて来た結果がこうなるのなら、それはちょっと虚しい気もする。ドキュメンタリーは本来、どんなに残酷な映画でもその根底には人間への信頼があり、その信頼をこそ優れた映画は、究極的には伝えているはずなのだから。
でもまあ、故・佐藤真さんが繰り返し指摘していたように、映画として完成されたとき、ドキュメンタリーは現実にキャメラを向けていても作家の視線と思考を通して構築されたフィクションなのだ。だから山形国際ドキュメタリー映画祭がこれまでの功績をきちんと引き継いで継続することを願うのとはまったく別次元のこととして、この『映画の都、ふたたび』は日本における共同体の美徳の崩壊を見事に表現した作品として絶賛したいと思う。そして、だからこそ「映画祭なんて興味ない」と言わずに、というよりも映画祭のことは忘れて、日本人なら見るべき映画だと思うし、日本社会を知りたい人にはぜひみてほしい傑作だと思う。
とはいえ、本当の内情については知らないし口出ししないと言いつつ、気になったことが一つある。山形国際ドキュメタリー映画祭の危機的な状況、NPO化というのは、てっきり財政的な問題なのだろうと思っていた。それはそれで、我々には困ることだとはいえ、公金であり市民の税金なのだから、たとえば市議会で問題にでもなれば、文化というものが地域共同体のアイデンティティにとってどれだけ重要なのかでも論ずる以外に、「人はパンのみにて生きるにあらず」とでも強弁する以外に、どうしようもない。だが『映画の都、ふたたび』を見ても、その後のシンポジウムを聞いても、実はぜんぜんそういうことではないみたいなのだ。そのどういう政治の力学が働いているのかがまったく見えてこないところが、飯塚さんの映画のもっとも怖いところなのかも知れない。
とにかく映画では全く出てこないし、シンポジウムでもなんだか奥歯にものの挟まったような感じで避けられているので判断しようもないのだが、東京事務局の役割縮小というのも、行政の組織上はいわば外注業者扱いで、財政逼迫のなかでかつ映画祭がNPO化すれば、外注の外注という形式上の問題を巧く処理できないとか、地方分権の流れのなかで文化の東京一極集中を解消すべきという政治的な正当性の流れからも、東京の事務局が実質上作っている映画祭というのも建前上は…といった問題は想定して来た(し、それはそれでまっとうな議論ではある)。だからこそこの10数年、矢野和之さんと一緒に映画祭を作って来た山形の人たちが、もっと矢野和之さんを自分たちの大切な仲間として認識できないのか、東京に拠点があっても、映画祭を通じて山形の文化を育てて来たのは矢野さんじゃないかとか、仮に引退するにしたって「映画のプロだから」と上辺だけ持ち上げておいてその実外注業者扱いというのもないだろうし、「東京はプロだから」と20年やっていながらの残酷な甘えというのもちょっと怖い。その精神を引き継ぐのもまたコミュニティ、共同体の役割ではないか、それも優れた映画を信じることで結ばれたコミュニティなのだから、とか…いやその共同体が自己崩壊していることを映したのが、この映画なのか。とにかく怖いものを見てしまったなあ。その怖さが表面化するのでなく、じんわりとにじみ出て来るのが凄い。
1/11/2008
またヘソを曲げた小沢一郎
小沢サンがまたキレた模様だ。給油新法の議決の本会議に出席せずに、大阪の知事選の応援に行ったらしい。しかし小沢サンがヘソを曲げる気持ちはよく分かる。
小沢の考えは、参院で民主党の対案も含めて継続審議にして、この法案を成立させないことだった。この考えはつい昨日の報道でさんざん叩かれていたが、今度は手のひらを返したように「議論もなく可決されて残念」って、なんだよそれ? 継続審議にすれば議論はできたわけで、一昨日の党首討論でも小沢はちゃんと議論はふっかけていたし、ただ福田総理が逃げまくって誤摩化しただけですよ。
社民党や共産党も地に落ちたものだ。この法案が絶対に通しては行けなかった法案であるのなら、通さないためには衆院で与党が2/3を占めている以上、再議決を防ぐためには参議院で採決しないで、延々と継続審議にすればよかったのだ。ちゃんとした議論が行われてそれが世論に反映されれば、そこで60日条項で衆院で再議決というわけには行かなくなる。それを与党の横暴を印象づけるために議決して、衆院で再議決させるなんて、政争の具そのものではないか。福島サンも志位サンも、あなたたちの平和主義ってこの程度のものなわけ?
で、現にこの法案は通す必要がないし、通さない方がいい法案だった。給油なんて再開する必要はまったくないどころか、アフガン情勢が今やカルザイ大統領自身がタリバンに対話を呼びかけるまで追いつめられ、パキスタンではブット暗殺でムシャラフ政権への不審が高まり、政情が極端に不安定になっているなかで、アメリカの言う「テロとの戦争」はほぼ完全に頓挫しているのだ。その上ブッシュは、パレスティナのアブ・マゼンと会談しても、イスラエルのオルメルトと会談しても、イスラエルの西岸への入植停止を要求どころか提案すらできないでいる。これでアラブ世界やイスラム圏はまったくブッシュを信用しなくなるのは目に見えているし、ブッシュは信頼回復の最後のチャンスをみすみす逃したわけだ。だいたいイスラム圏のごく一部の過激派の起こす「テロ」を防ぐのに、イスラム圏の圧倒的多数である戦争はきらい、暴力はいけない(ただし、だから「イスラエルはなんなんだ」という話には必ずなる)という穏健派を味方につけないで、どうするつもりなのか?
どうせアメリカの政界はすでに大統領選挙一色だし、誰が勝とうがブッシュの進めた「テロとの戦争」が今のままで継続されるわけがない。日本の給油自体、アメリカの政界では「だから?」という程度の関心しか持たれていないし、アメリカの新聞でもほとんど報道されてませんがな。
今日本が動く必要なんてないのだ。延々と継続審議をすれば、給油再開も阻止できて、拙速な対米追従で国益を損ねる必要もないし、最大の国益でもある憲法順守と平和主義のアピールにもなる。福田政権だって冷静に考えれば、「与党はやりたいんです」というアピールだけはできるので、再開するポーズだけでほとんど税金を使わないで済む。共産党や社民党はなぜ反対したの? そりゃ小沢がキレても当然ですがな。この程度の判断もできないで、野党連合による政権奪取って、政権担当能力がまるでないし興味もない、党利党略しか興味がないエセ左翼と批判されてもしょうがないですよ。
もっとも、社民党や共産党の議員は、本気で給油の是非とかテロとの戦争だとか、議論するだけの能力もないのかも知れませんね。自信がないから与党の横暴を分かり易くアピールする安易な戦略に出たのか、とも思えて来る。どっちにしろ、あまりに情けなさ過ぎる。
しかしこうやってすぐ怒ってヘソを曲げる小沢一郎、この意外と単純なところが僕はけっこう好きなのだが、やっぱりある種の天才タイプって、他人がみんな自分ほど頭がよくないという単純な現実をしばしば見逃しがちなんですよねぇ…。
小沢の考えは、参院で民主党の対案も含めて継続審議にして、この法案を成立させないことだった。この考えはつい昨日の報道でさんざん叩かれていたが、今度は手のひらを返したように「議論もなく可決されて残念」って、なんだよそれ? 継続審議にすれば議論はできたわけで、一昨日の党首討論でも小沢はちゃんと議論はふっかけていたし、ただ福田総理が逃げまくって誤摩化しただけですよ。
社民党や共産党も地に落ちたものだ。この法案が絶対に通しては行けなかった法案であるのなら、通さないためには衆院で与党が2/3を占めている以上、再議決を防ぐためには参議院で採決しないで、延々と継続審議にすればよかったのだ。ちゃんとした議論が行われてそれが世論に反映されれば、そこで60日条項で衆院で再議決というわけには行かなくなる。それを与党の横暴を印象づけるために議決して、衆院で再議決させるなんて、政争の具そのものではないか。福島サンも志位サンも、あなたたちの平和主義ってこの程度のものなわけ?
で、現にこの法案は通す必要がないし、通さない方がいい法案だった。給油なんて再開する必要はまったくないどころか、アフガン情勢が今やカルザイ大統領自身がタリバンに対話を呼びかけるまで追いつめられ、パキスタンではブット暗殺でムシャラフ政権への不審が高まり、政情が極端に不安定になっているなかで、アメリカの言う「テロとの戦争」はほぼ完全に頓挫しているのだ。その上ブッシュは、パレスティナのアブ・マゼンと会談しても、イスラエルのオルメルトと会談しても、イスラエルの西岸への入植停止を要求どころか提案すらできないでいる。これでアラブ世界やイスラム圏はまったくブッシュを信用しなくなるのは目に見えているし、ブッシュは信頼回復の最後のチャンスをみすみす逃したわけだ。だいたいイスラム圏のごく一部の過激派の起こす「テロ」を防ぐのに、イスラム圏の圧倒的多数である戦争はきらい、暴力はいけない(ただし、だから「イスラエルはなんなんだ」という話には必ずなる)という穏健派を味方につけないで、どうするつもりなのか?
どうせアメリカの政界はすでに大統領選挙一色だし、誰が勝とうがブッシュの進めた「テロとの戦争」が今のままで継続されるわけがない。日本の給油自体、アメリカの政界では「だから?」という程度の関心しか持たれていないし、アメリカの新聞でもほとんど報道されてませんがな。
今日本が動く必要なんてないのだ。延々と継続審議をすれば、給油再開も阻止できて、拙速な対米追従で国益を損ねる必要もないし、最大の国益でもある憲法順守と平和主義のアピールにもなる。福田政権だって冷静に考えれば、「与党はやりたいんです」というアピールだけはできるので、再開するポーズだけでほとんど税金を使わないで済む。共産党や社民党はなぜ反対したの? そりゃ小沢がキレても当然ですがな。この程度の判断もできないで、野党連合による政権奪取って、政権担当能力がまるでないし興味もない、党利党略しか興味がないエセ左翼と批判されてもしょうがないですよ。
もっとも、社民党や共産党の議員は、本気で給油の是非とかテロとの戦争だとか、議論するだけの能力もないのかも知れませんね。自信がないから与党の横暴を分かり易くアピールする安易な戦略に出たのか、とも思えて来る。どっちにしろ、あまりに情けなさ過ぎる。
しかしこうやってすぐ怒ってヘソを曲げる小沢一郎、この意外と単純なところが僕はけっこう好きなのだが、やっぱりある種の天才タイプって、他人がみんな自分ほど頭がよくないという単純な現実をしばしば見逃しがちなんですよねぇ…。
1/08/2008
福岡の母はとても美しかった
福岡地裁が、酔っぱらい運転で3人の子どもを死なせた元・公務員に、危険運転致死傷罪ではなく業務上過失致死罪を適用して懲役7年の判決を出した。マスコミが猛反発している。
だがその一方で、被害者遺族であり、追突されて橋から落ちた自動車に同乗していて、海に飛び込んで必死に自分の子どもたちを救おうとしたご両親は、自分たちとしてわざわざ控訴を希望するようなことはしないと表明した。テレビのコメンテーターのなかには思わず「残念だ」などと口走った人もいてさすがにびっくりしたのだが、とかく「世論」はこの判決に猛反発して、危険運転致死罪をなんとしてでも適用させたいという「正義」が満ちあふれている。
問題の元・公務員はかなりめちゃくちゃに飲んでいて、しかも逃亡して水を大量に飲んで呼気のなかのアルコール量を減らしたとか、いろいろ「許されない」ことをやっているらしい。そりゃ酔っぱらい運転を戒めるために厳しく処罰するのも社会的に意味のあることかもしれない。だがまず、我々の日本社会の良心を信じるのなら、刑罰がどれだけ重いから、という以前に、三人もの子どもが死んでしまったことで、飲酒運転がいかに危険で、絶対にやってはいけないこと、どれだけ怖いことかは十分に浸透したのではないかと思うし、そうでなくて「刑罰が重くなければ減らない」というのでは、あまりにもニッポンの未来は暗いとも思える。
しかし今日はそんなことを書きたいのではない。被害者遺族であるご両親の、なんといったらいいだろうか、自分たちを襲った悲劇に直面しながら、とてもまともで、健全でおられるその姿の、悲しみを抱え今にも打ちひしがれそうだからこその強さ、その強さ故の美しさのことこそ、書くべきだと思う。
昨年暮れに福岡地裁が検察に訴因の追加を求めた際にも、ご両親は「憎しみのなかで生活し続けたくない」と、控訴を希望したりしないことを表明されていた。今日の会見でも、母親の方は被告に対して「自分のやってしまったことを理解して欲しい」と語りながらも、被告人をきちんと「さん」づけしている。
会見で質問されれば、そりゃ「危険運転致死罪の適用がいかに難しいか実感した」くらいのことはおっしゃるだろう。だがお二人をあたかも、「危険運転致死罪」が適用されなかったことに対するマスコミの安易な「正義」を正当化する理由づけにでも利用するような報道の仕方に、お母さんはあくまで礼儀を守りながらも、はっきりとそんな安易な「正義」を許さない言葉を言っていた。亡くなったお子さんたちにこう伝えたい、という言い方で、彼女は被告が何年の懲役になろうが、それは亡くなった子どもたちの命の重さにはなんの関係もないのだと、はっきりと言い切った。
ご両親には昨年、4人目のお子さんが生まれている。母はあえて、その模様をテレビに取材させさえした。残念ながらその取材したテレビ局が、そこまで取材を受け入れたご両親の意思をまったく理解していないように見える。なぜ分からないのだろうか? ご両親は三人の子どもを失った悲しみを背負いながらも、生き続けて行こうと決意し、そして実際に生き続けていることを。そのお二人にとって、新しいお子さんを育てていくことの方が、事故を起こした男がどういう判決を受けるかよりも、はるかに大事だということが。そして彼が何年の懲役を受けようが、亡くなった子らの妹になる幼子の将来になんの関係もなければ、亡くなったお子さんたちが戻って来るわけでもないという残酷な現実を、誰よりも直面しなければならないのがこのお二人であることが。そのことに対して、部外者である私たちには出来ることなどなにもない。まして酔っぱらい運転をして事故を起こし、焦って隠蔽工作をしようとしたくだらない男がどうなろうが、そんなくだらないことで左右されるはずがないし、左右されてはならない。ただ私たちは彼らの悲しみに少しでも思いを馳せながら見守ることしかできないし、きちんと生き続けようとされているお二人の強さと美しさに、学ばせてもらうしかない。
「遺族感情」が昨今、裁判の厳罰化や、厳罰化した判決を求める「世論」の正当化として延々と使われ続けている。だが遺族感情とはそんなに安易なものなのだろうか? 復讐が本当に、愛する家族を失った人々の心にぽっかりと空いた穴を埋めるのになにかの役に立つのだろうか? 犯人や加害者が何年牢屋に入ろうが死刑になろうが、それで亡くなった者が戻ってくるわけでもなければ、ひどい障害を負ってしまったりした身体が元に戻るわけでもない。判決がどうであろうが、被害者の悲しみや空虚、喪失に、なんの関係があるのだろう? それでも人間は生き続けなければいけない。死者を何らかの形で乗り越えるなり、その体験を自身の内で整理して生き続けることは、死者を忘れることでも、愛情の欠如でもなんでもない。むしろこの事故の被害者であるご両親は、だからこそ新しいお子さんに精一杯の愛情を注いで育てて行くことを決意されているのだろう。「世論」の求める復讐に巻き込まれないためにも、あえて新しいお子さんの出産を取材させ、自分たちが生き続けて行くことを表明されたのではないだろうか?
福岡地裁の判断については法的な意見は分かれているようだが、そもそも危険運転致死傷罪という法律自体に、構成要件としてかなり無理があるということだけは確かなようだ。だいたい、この法律が「罰する」内容それ自体が、立証という点ではほとんど無茶な話にならざるを得ないし、福岡地裁の判決もその点を指摘している。それにしても、この法を成立させた交通事故被害者の遺族の皆さんには大変に失礼ながら、あなた方が本当に求めたのは「復讐」だったのだろうか? 復讐として加害者がより長期に牢屋に入ることで、あなた方の心のなにが満たされるのだろうか? 亡くなった人が戻ってくるのだろうか? そうではなかったはずだ。あなた方はご自身の家族を襲ったような悲劇が繰り返されないことをこそ求めたはずだ。それに対して「厳罰化」が解決になるのだろうか?
この法を作った立法府にももう一度考えて欲しい。厳罰化は遺族の悲しみに応えるフリをするのに、もっとも安直なやり方でしかなかったのではないか? しょせん単なる人気集めでしかなかったのではないか? 結果として、法律として極めて不備の多い、論理的な構成要件がほとんど成り立たないようないい加減な厳罰化をやったところで、酔っぱらい運転が減るわけでもない。せいぜいが世間が溜飲を下げるだけ、「正義」ぶった人々が偉そうなことを言うのに便利なだけだ。だが「酔っぱらい運転はいけません」なんて、そんなことすでに分かりきっていて、分かっているからといって威張るような話でもない。なのに我々は近代法治の基本理念から言って理不尽スレスレの法律を許容し、それが適用されないからといって怒っている始末である。えん罪や理不尽な判決を批判するのと同じ電波で、そもそも法に基づく刑罰のあり方として無理がありすぎることを「世論」「社会の流れ」として要求する。だが法と理性による支配という近代社会の基本理念は、そんなチャチなものではなかったはずだ。
そんなすさんで品性を失った世の中のなかで希少にも思える、今回のご両親、とくにお母さんの、とてもやさしそうななかに、決然としたなにか、強さと潔さを感じさせるその姿からこそ、我々はなにかを学ばなければならないのだと思う。子どもを一度に三人もそろって失い、海に飛び込んで助けようにも力が及ばなかった深い自責を抱えながら、彼らはその悲しみや辛さといった言葉ではとても表現しきれない苦しみを、きちんと自分たちで受け止めようとしている。そして生き続けようとしている。それこそが、人間が人間として生きて行こうとする本当の姿なのではないだろうか? それはとても力強く、美しいものだ。テレビの中継映像というのはこういうときは本当に凄いと思う。どんなに編集で切り刻もうとも、その瞬間の映像には、やはりその当事者の真実の片鱗がなにかしら刻み込まれている。
だが、テレビ報道それ自体のなかでは、亡くなった子どもたちの命の重さにはなんの関係もないという発言をきちんと流してくれたのは一カ所しかなかったように思うし、報じているキャスターやコメンテーターもその意味をぜんぜん気にもしていないような口ぶりだった。大半は被告が厳罰を受けなかった鬱憤をなんとか正当化するために都合のいいところだけを報じ、安易な感傷論の跋扈はほとんどファシズムにさえ思える。
ご両親はまとこに気の毒だと思わざるを得ない。なんとか自分たちを襲った悲しみと喪失を受け止めるためだけでも大変なのに、自分たちの味方のフリを装い「正義」を振りかざす人々が自分たちを利用しようとする無自覚な残酷さからも、自分たちとお子さんを守らなければならないのだ。その彼らに、私たちの社会は、ほんの少しでいいから、まっとうなやさしさを持てないものだろうか? いやそれは我々の彼らに対する「やさしさ」の問題ですらない。私たちの「まともさ」の問題なのだ。そしてその「まともさ」がどんどん失われて来ているように思えてしまうのは、果たして単に僕の杞憂だろうか? だからこそ、あのご両親の「まともさ」はとても希少に見え、そして美しい。
だがその一方で、被害者遺族であり、追突されて橋から落ちた自動車に同乗していて、海に飛び込んで必死に自分の子どもたちを救おうとしたご両親は、自分たちとしてわざわざ控訴を希望するようなことはしないと表明した。テレビのコメンテーターのなかには思わず「残念だ」などと口走った人もいてさすがにびっくりしたのだが、とかく「世論」はこの判決に猛反発して、危険運転致死罪をなんとしてでも適用させたいという「正義」が満ちあふれている。
問題の元・公務員はかなりめちゃくちゃに飲んでいて、しかも逃亡して水を大量に飲んで呼気のなかのアルコール量を減らしたとか、いろいろ「許されない」ことをやっているらしい。そりゃ酔っぱらい運転を戒めるために厳しく処罰するのも社会的に意味のあることかもしれない。だがまず、我々の日本社会の良心を信じるのなら、刑罰がどれだけ重いから、という以前に、三人もの子どもが死んでしまったことで、飲酒運転がいかに危険で、絶対にやってはいけないこと、どれだけ怖いことかは十分に浸透したのではないかと思うし、そうでなくて「刑罰が重くなければ減らない」というのでは、あまりにもニッポンの未来は暗いとも思える。
しかし今日はそんなことを書きたいのではない。被害者遺族であるご両親の、なんといったらいいだろうか、自分たちを襲った悲劇に直面しながら、とてもまともで、健全でおられるその姿の、悲しみを抱え今にも打ちひしがれそうだからこその強さ、その強さ故の美しさのことこそ、書くべきだと思う。
昨年暮れに福岡地裁が検察に訴因の追加を求めた際にも、ご両親は「憎しみのなかで生活し続けたくない」と、控訴を希望したりしないことを表明されていた。今日の会見でも、母親の方は被告に対して「自分のやってしまったことを理解して欲しい」と語りながらも、被告人をきちんと「さん」づけしている。
会見で質問されれば、そりゃ「危険運転致死罪の適用がいかに難しいか実感した」くらいのことはおっしゃるだろう。だがお二人をあたかも、「危険運転致死罪」が適用されなかったことに対するマスコミの安易な「正義」を正当化する理由づけにでも利用するような報道の仕方に、お母さんはあくまで礼儀を守りながらも、はっきりとそんな安易な「正義」を許さない言葉を言っていた。亡くなったお子さんたちにこう伝えたい、という言い方で、彼女は被告が何年の懲役になろうが、それは亡くなった子どもたちの命の重さにはなんの関係もないのだと、はっきりと言い切った。
ご両親には昨年、4人目のお子さんが生まれている。母はあえて、その模様をテレビに取材させさえした。残念ながらその取材したテレビ局が、そこまで取材を受け入れたご両親の意思をまったく理解していないように見える。なぜ分からないのだろうか? ご両親は三人の子どもを失った悲しみを背負いながらも、生き続けて行こうと決意し、そして実際に生き続けていることを。そのお二人にとって、新しいお子さんを育てていくことの方が、事故を起こした男がどういう判決を受けるかよりも、はるかに大事だということが。そして彼が何年の懲役を受けようが、亡くなった子らの妹になる幼子の将来になんの関係もなければ、亡くなったお子さんたちが戻って来るわけでもないという残酷な現実を、誰よりも直面しなければならないのがこのお二人であることが。そのことに対して、部外者である私たちには出来ることなどなにもない。まして酔っぱらい運転をして事故を起こし、焦って隠蔽工作をしようとしたくだらない男がどうなろうが、そんなくだらないことで左右されるはずがないし、左右されてはならない。ただ私たちは彼らの悲しみに少しでも思いを馳せながら見守ることしかできないし、きちんと生き続けようとされているお二人の強さと美しさに、学ばせてもらうしかない。
「遺族感情」が昨今、裁判の厳罰化や、厳罰化した判決を求める「世論」の正当化として延々と使われ続けている。だが遺族感情とはそんなに安易なものなのだろうか? 復讐が本当に、愛する家族を失った人々の心にぽっかりと空いた穴を埋めるのになにかの役に立つのだろうか? 犯人や加害者が何年牢屋に入ろうが死刑になろうが、それで亡くなった者が戻ってくるわけでもなければ、ひどい障害を負ってしまったりした身体が元に戻るわけでもない。判決がどうであろうが、被害者の悲しみや空虚、喪失に、なんの関係があるのだろう? それでも人間は生き続けなければいけない。死者を何らかの形で乗り越えるなり、その体験を自身の内で整理して生き続けることは、死者を忘れることでも、愛情の欠如でもなんでもない。むしろこの事故の被害者であるご両親は、だからこそ新しいお子さんに精一杯の愛情を注いで育てて行くことを決意されているのだろう。「世論」の求める復讐に巻き込まれないためにも、あえて新しいお子さんの出産を取材させ、自分たちが生き続けて行くことを表明されたのではないだろうか?
福岡地裁の判断については法的な意見は分かれているようだが、そもそも危険運転致死傷罪という法律自体に、構成要件としてかなり無理があるということだけは確かなようだ。だいたい、この法律が「罰する」内容それ自体が、立証という点ではほとんど無茶な話にならざるを得ないし、福岡地裁の判決もその点を指摘している。それにしても、この法を成立させた交通事故被害者の遺族の皆さんには大変に失礼ながら、あなた方が本当に求めたのは「復讐」だったのだろうか? 復讐として加害者がより長期に牢屋に入ることで、あなた方の心のなにが満たされるのだろうか? 亡くなった人が戻ってくるのだろうか? そうではなかったはずだ。あなた方はご自身の家族を襲ったような悲劇が繰り返されないことをこそ求めたはずだ。それに対して「厳罰化」が解決になるのだろうか?
この法を作った立法府にももう一度考えて欲しい。厳罰化は遺族の悲しみに応えるフリをするのに、もっとも安直なやり方でしかなかったのではないか? しょせん単なる人気集めでしかなかったのではないか? 結果として、法律として極めて不備の多い、論理的な構成要件がほとんど成り立たないようないい加減な厳罰化をやったところで、酔っぱらい運転が減るわけでもない。せいぜいが世間が溜飲を下げるだけ、「正義」ぶった人々が偉そうなことを言うのに便利なだけだ。だが「酔っぱらい運転はいけません」なんて、そんなことすでに分かりきっていて、分かっているからといって威張るような話でもない。なのに我々は近代法治の基本理念から言って理不尽スレスレの法律を許容し、それが適用されないからといって怒っている始末である。えん罪や理不尽な判決を批判するのと同じ電波で、そもそも法に基づく刑罰のあり方として無理がありすぎることを「世論」「社会の流れ」として要求する。だが法と理性による支配という近代社会の基本理念は、そんなチャチなものではなかったはずだ。
そんなすさんで品性を失った世の中のなかで希少にも思える、今回のご両親、とくにお母さんの、とてもやさしそうななかに、決然としたなにか、強さと潔さを感じさせるその姿からこそ、我々はなにかを学ばなければならないのだと思う。子どもを一度に三人もそろって失い、海に飛び込んで助けようにも力が及ばなかった深い自責を抱えながら、彼らはその悲しみや辛さといった言葉ではとても表現しきれない苦しみを、きちんと自分たちで受け止めようとしている。そして生き続けようとしている。それこそが、人間が人間として生きて行こうとする本当の姿なのではないだろうか? それはとても力強く、美しいものだ。テレビの中継映像というのはこういうときは本当に凄いと思う。どんなに編集で切り刻もうとも、その瞬間の映像には、やはりその当事者の真実の片鱗がなにかしら刻み込まれている。
だが、テレビ報道それ自体のなかでは、亡くなった子どもたちの命の重さにはなんの関係もないという発言をきちんと流してくれたのは一カ所しかなかったように思うし、報じているキャスターやコメンテーターもその意味をぜんぜん気にもしていないような口ぶりだった。大半は被告が厳罰を受けなかった鬱憤をなんとか正当化するために都合のいいところだけを報じ、安易な感傷論の跋扈はほとんどファシズムにさえ思える。
ご両親はまとこに気の毒だと思わざるを得ない。なんとか自分たちを襲った悲しみと喪失を受け止めるためだけでも大変なのに、自分たちの味方のフリを装い「正義」を振りかざす人々が自分たちを利用しようとする無自覚な残酷さからも、自分たちとお子さんを守らなければならないのだ。その彼らに、私たちの社会は、ほんの少しでいいから、まっとうなやさしさを持てないものだろうか? いやそれは我々の彼らに対する「やさしさ」の問題ですらない。私たちの「まともさ」の問題なのだ。そしてその「まともさ」がどんどん失われて来ているように思えてしまうのは、果たして単に僕の杞憂だろうか? だからこそ、あのご両親の「まともさ」はとても希少に見え、そして美しい。
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