最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

1/31/2013

集団的強迫観念の虚言癖状態になったマスコミが日本を滅ぼす

公明党の山口代表が先日、訪中し、唐家旋元外務大臣に面会、なんとかお願いしたところ、習近平新主席も快く、アポなしにも関わらず会談を引き受け、山口氏から安倍晋三首相の親書を受け取り、日中トップレベル外交にも前向きな姿勢を示した。

その前に、鳩山由紀夫元首相が訪中し、やはり習氏に会っているし、
南京大虐殺記念館を訪問し、慰霊碑に献花。その翌日に、安倍首相が就任する前から打診していたのにまったく目処が立たなかった日米首脳会談が、日米外相会談で「2月の第3週に」とやっと決まった。

この一連の流れの関連性はあまりに露骨なはずだが、日本のマスコミはそこをなぜか、一社たりとも論評しない。


日本が中国相手に謝罪する方向性を示したので、オバマ政権もやっと軟化して、日米首脳会談を検討し始めた、ということなのだ。


もっと言えば、安倍晋三がどうしてもやりたい日米首脳会談を「ご褒美」として吊るすことで、菅・野田二代の前代未聞の反中ナショナリズム外交の清算を、安倍新政権に要求しているのである。 
さらに安倍氏自身が「河野談話の見直し」など、性懲りもなく極右歴史修正主義的な態度をとっていることをやめさせる意味合いも強い。

鳩山氏はあくまで元首相であり私人として訪中したわけで、個人の認識であれば尖閣諸島問題が領土問題であることを日中双方が認識するのが当然という、まあ政府の公式見解を離れれば誰でも分かっていることを表明すると、あろうことか
日本の現職閣僚が「国賊」などと言い出した

するとマスコミは、また揃って、金太郎飴状態で、鳩山叩きを始める。


鳩山氏が「前首相」という立場で中国側のメンツを立てると同時に、その見解はあくまで政権となんの関係もない私人であるから、日本政府は鳩山氏の発言には拘束されない、という立場の二重性を巧妙に利用して、硬直した日中関係打破のきっかけを作る大活躍をしていたのに、である。


だいたい、これこそ日本マスコミの集団的虚言癖状態の最たるものなのだが、2010年から昨年まで、尖閣諸島が日中間の問題になったのは、常に日本側が仕掛けた話に他ならないことが、国民にはまったく伝えられていない。

公式見解のタテマエはともかく、たとえば領土問題がないのならなぜ日本政府がこの無人島をわざわざ購入するのか、筋がまったく通らないではないか。中国でなくたって、日本以外は世界中の誰も納得できない話だ。

中国憎しを煽るだけの産經新聞が氏を相変わらず批判するのはしょうがないにしたって、全マスコミ金太郎飴状態というのはやはりおかしい。


世界各国の
報道の自由度ランキングで日本は53位と大きく順位を落としたが、もっと下だっておかしくない−−マスコミ業界全体が、自ら「自由」を返上して、「赤信号・みんなで渡れば怖くない」というか「嘘もみんなで言えば本当になる」的な偏向報道を繰り返しているのだから、こうなるとジャーナリズムの自殺だ。

公明党代表の山口氏に至っては習主席宛の、安倍首相自らの親書を携えて訪中している。つまりこの訪中は、明らかに安倍晋三氏本人とその内閣、官邸の意向を受けたものだ。


なのにこの当然のことをマスコミはろくに報じず、自民党内からは「公明党が勝手なことを、けしからん」という声まであがっているらしい。


いったいこの人たちはどこまで非常識なのだろう?


日中首脳会談にむけた打診が気に入らないのなら、批判すべきは山口氏にそれを依頼した安倍氏だろう。


安倍氏だって国内向けのナショナリストぶったポーズとは裏腹に、もう妥協する他ないところまで追いつめられている、というだけのことだ。


 
それにしても中身があまりに空虚な安倍総理大臣所信表明演説

        ***

ところが、その安倍晋三本人までが、未だに自分が山口氏を事実上の特使として中国に派遣したことの意味が分かってないかのように振る舞うに至って、ついにアメリカが痺れを切らしたようだ。


昨日、ルース駐日大使がNHKの9時のニュースを呼びつけ、明確にアメリカの立場を、日本の(実質上の国営放送の)電波で流させたのだ。


<NHKのルース大使インタビュー>

NHKは声の吹き替えと編集で、ルース氏の発言のニュアンスをなるべく控えめに見せようと腐心しているし、ルース氏も日本側を説得するために言葉の端々に配慮を欠かしていないものの、それでもメッセージは明確だ。


アメリカはこれ以上、日中関係を日本が悪化させることを許さない。日本は即刻、中国との関係改善に務めるべきだ。


(もっとはっきり言えば、今の尖閣諸島問題は日本が勝手に始めたものであり、だから日本が中国に謝罪しなければならない、ということだ)

ルース駐日大使がわざわざNHKを呼びつけてこう伝えたということは、これはオバマ政権直々の意思表明である。周知のようにルース氏は元々政界ではなく実業界にいたオバマの友人であり、いわば側近中の側近として、オバマ氏に頼まれて日本に赴任している人物だ。オバマはそれだけ対日関係を重視しているのだ。

そのルース氏がはっきりと、「アメリカの考える東アジアの安定は、日米中の三国の緊密で安定した関係によってこそ成り立つものであり、米中関係はアメリカの国益でもある」と、ついに告げるまでの事態になったわけだ。


つまり、日本はこれ以上余計な邪魔をするな、という恫喝だとすら言える


こうした尖閣諸島問題をめぐる日本の国際的な立場も、日本のマスコミは伝えようとしない。あたかも中国の横暴が国際的に批判されているような印象さえ受けるが、実際には真逆で、同盟国である米国ですら日本の肩を持つ気はまったくないのである。
だいたい外務省の出している公式見解が愚か過ぎる。尖閣諸島を日本が正式に領有したのは1895年だというのだ。これでは「日清戦争のどさくさ紛れで、植民地主義的な野望で日本がこの島々を強引に奪ったのだ」という中国側の主張をわざわざ裏付けているようなものである。
日本が第二次大戦の敗戦国であり、その侵略行為や軍国主義が断罪されたことを忘れているのだろうか?日本側で(たとえば安倍晋三が)どのように当時の日本を正当化したがろうが、それが簡単に世界に通用するはずもない−−このあまりに当然の歴史認識も、日本のマスコミは、なるべく国民から隠そうとしている

NHKの9時のニュースのメインキャスターは、局上層部の意向を受けて一生懸命に「日米安保」のことを尋ねたのだろう。


米国が重んじるのは日米中の緊密な友好関係である、という肝腎の話(これだって大使は随分配慮した言い方をしているわけで、要は日本が中国にこれ以上喧嘩を売ったら許さないぞ、ということだ)を告げられたあとの放映部分で、大使は日米安保についての米国の公式見解に基づく定型の外交辞令を繰り返し(それ以外のことは言いようがない、型通りの話でしかない)、NHKは一生懸命そこを強調することで、大使のインタビューの厳しさをなんとか緩和した印象で長そうとした結果、報道自体が非常に冗長で、「いったいNHKはなにが伝えたいんだ」という印象のものになっている。


だが大使はそこでも繰り返し明言している。 
日米安保がある以上、日本の主権が侵害されればアメリカが日本を守るのは当然だが、しかし日本の主権がどこまで及ぶかについて(つまり領土問題それ自体について)は、アメリカは介入する意図がない 
尖閣諸島問題が日本に帰属するかどうかについては、アメリカはノータッチ、勝手にやれ。ただし日中関係を悪化させることは許さない。 
もちろんこんなことは、2010年の菅内閣・前原外相があっけなくオバマとクリントンに梯子を外された時点で、分かり切っていることなのだが。

新聞各紙も他のテレビ局も、このインタビューをアメリカがNHKにやらせたことについて、今日の段階では無視し、
論評どころか言及を控えている。

「見たくないものは見ない」、自分たちが言及・報道しなければそれは存在しないのと同じなのだ、とでも思いたいのだろうか。

今まで彼らが報じて来た尖閣諸島問題の解釈とあまりに異なった現実の展開に、どう整合性をつけるのかで右往左往しているのだろう。


もっと
はっきり言ってしまえば、この問題で日本のマスコミは2年半前から、どう考えても不自然な、偏向した報道を繰り返している、いわば嘘をつき続けているわけである。

その嘘が今、ついにバレてしまいそうになっているので困っているのだ。

ここで「間違いでした」と言ってしまっては、ジャーナリストたちの沽券に関わるとでも言うのだろうか、未だにこれまでの、もはや間違いだと分かり切ってしまった誤った見方に固執し、嘘に嘘を重ねるような、いわば強迫観念的な虚言癖のような状態に、日本の報道は陥ってしまっている。

        ***

尖閣諸島問題だけではない。

普天間基地の問題でも、あるいは財政危機や消費税増税報道でも、日本のマスコミは今や、権力側が「報道させまい」とする以前に、報道する側、メディアの側
が、自分たちの過去ずっと誤報をやって来たことを隠蔽するための虚偽偏向報道を続けるしかないような状態に陥っている

まず、普天間基地移転問題をめぐる報道を復習してみよう

鳩山政権時の日本のマスコミは、あたかも米国の意向が絶対であり、鳩山が最低でも県外と言ったこと自体が誤りであるかのように報じて来た。

これも真相はまったく違うと考えなければ、事実関係の進展があまりに不自然ではないか。

オバマが来日した際に鳩山が「トラスト・ミー」と言ったことをマスコミはこぞって非難したが、そもそもアメリカ側の意向が絶対に普天間基地を辺野古に移転することだったのなら、最低でも県外を模索していた鳩山のなにをオバマが「トラスト」するのか意味が分からないだろうに。

普天間問題が当時の日米間の本当に最大の懸案だったのであれば、オバマは2009年11月の来日時にあんなに愛想良くリップサービスを繰り返したりしない。それこそ「最低でも県外」を鳩山が取り下げない限り、来日に難色すら示しただろう。

まして鳩山が「トラスト・ミー」と言ったのは、オバマ政権が県外移設を容認していたことが前提でなければ、文脈上絶対に出て来ない発言だ。

実際、国務省東アジア課や国防総省の一部のいわゆる「ジャパン・ハンドラー」、要は日米安保を利権とするごく一部の勢力はともかく、ホワイトハウスは日本が正式に要請さえすれば、普天間の海兵隊の国外移転ですら、取引条件次第では考慮する意思があった。

そもそもいわゆる「ジャパン・ハンドラー」は共和党系であり、今のホワイトハウスは民主党政権で、米中関係の発展を常に論じて来たバイデンが副大統領である。

オバマ政権としては日本と直接連携することで今の国務省東アジア課の、たとえばケビン・メアとかアーミテージのような人物の系列を排除して、より緊密な米中関係の構築と、最大の政権課題である財政再建のために軍事費の削減(=国防総省の権力の縮小)も狙っているから、わざわざ国務省とは無関係のルース氏を駐日大使に任命して、日米関係を大統領の直接マターにして来たのだ。

それにオバマの念願である核廃絶への道筋作りでも、日本は本来重要な意味を持っていた。

2009年4月、オバマ大統領のプラハでの演説

核廃絶サミットを始めるのなら誰がみたって最適地は広島と長崎である。オバマはルース大使に広島を訪問してもらい、それも父親と息子も連れて親子三代で原爆資料館を見学させ、涙の会見までさせている。

この時点で、オバマ政権のメッセージは極めて明確だったのに、日本のマスコミはそれをほとんど報じなかった。

核廃絶が被爆国日本にとっても悲願であるはずなのに。

そして被爆地広島・長崎の悲劇をきちんと米国民にも理解させることこそ、オバマにとってもっとも重要な軍事費削減に、もっとも日本が協力できる話でもある。

ところが日本のマスコミは、オバマが大統領になる前から民主党の下院議長がわざわざ広島を訪問している、そのことの重要な政治的な意味すらろくに報道して来ていない。


ちなみに鳩山氏自身もこの時に、当然ながらオバマに広島での核サミット開催を提案しようと考えていたそうだ。だが外務省と官邸スタッフに、「今はやめた方が」と言われて躊躇し、オバマ来日時には見送ってしまったのだという。 
(まったく、鳩山氏の欠点は、あまりに人が良過ぎて、無視すべき周囲の人間の言うことまで聞いてしまうことのようだ)

結局、普天間問題では官邸・霞ヶ関とマスコミがアメリカという「虎」の威を借りて鳩山由紀夫政権を潰しただけである、というのが真相であるにも関わらず、未だに「鳩山が日米関係を悪化させた」という誤った見解がマスコミを支配しているのもおかしい。

普天間基地の県外移転を望まなかったのはアメリカではない。霞ヶ関なのだ。

鳩山の「少なくとも県外」が潰されたのもアメリカの圧力とは関係がない。徳之島に海兵隊の少なくとも一部を移す交渉が、地元自治体との秘密交渉の時点で官邸からマスコミにリークされ、まったく国内政治の問題で鳩山のいう「腹案」が潰されただけではないか。

よく事実関係をみれば、アメリカはそもそもまったく関わっていない。まして鳩山を、米国のジャパン・ハンドラーに属する小役人の戯れ言を真に受けて「ルーピー」などと呼ぶに至っては、悪意のある偏向そのものだ。

そしてアメリカの現政権が日本に期待し、日本にとっても有意義な核サミットの広島開催を望まなかったのも、オバマ政権下では野党でしかない共和党系とのパイプを守ることを優先した霞ヶ関とマスコミである。

日本のマスコミは、この時点でもすでに自分達の先入観に凝り固まって、事実関係を冷静に見られなかったのだろうか。

「日本はアメリカの言いなりになるしかない」という、独立国のメディアにはあるまじき先入観だ。

だから対等な日米同盟を模索してたのが鳩山政権だけでなく、オバマ政権もそれを望んでいたことすら、完全に無視してしまっていた

鳩山由紀夫の辞任を契機に,確かに日米間の政権どうしの信頼関係は著しく損なわれた。

だがそれは鳩山由紀夫が普天間の最低でも県外移設を唱えたからではない。信頼が損なわれたのは鳩山の「腹案」などの県外移設の計画が阻止されたからであり、彼の後に首相になった菅・野田が、米国の」というよりもジャパン・ハンドラーと俗に言われる、決してオバマ政権にとっては好ましくない米国内の一部の、共和党系の勢力におもねる外交に徹し、度が過ぎてそのジャパン・ハンドラーですら望んでいないスタントを(たぶん「ご主人様」に気を利かせたつもりで?)やってしまったからだ。

つまり、尖閣諸島をめぐって中国との対立を始めてしまったことである。

彼らはどうも、日本が中国と領土で対立すれば、心が離れてしまったアメリカが再び自分たちに味方してくれるはずだと信じきって、一連の自作自演の日中対決を始めてしまったように見える。

だとしたらなんとも愚かしい話なのだが。


        ***

というわけで、2010年の菅内閣のとき以来、緊張と硬直が続く尖閣諸島問題についても、検証しなければならない。

鳩山政権が潰されたあと、菅、野田の二代の民主党政権のあいだのこの問題の報道もまた、普天間問題と同様に、全マスコミほぼ同じ内容で、よく考えれば事実関係の展開からして極めて不自然なものだ。

2010年に前原大臣(当時、国土交通相から外相に)がハマった「船長」騒動でも、昨年に勃発した、石原慎太郎の「都が買う」に端を発した野田の稚拙なナショナリストぶりでも、日本の報道は完全に偏向して、およそ事実を伝えようとして来ていない。

一方的に日本が仕掛けた騒動であり、だから同盟国の米ですら、味方する気が最初からなかったのが真相なのだ。

当時、国連総会で菅と前原がオバマやクリントンと会談した際の内容を、日本のすべてのマスコミが同様に、どう考えても恣意的な誤訳としか思えない歪めた報道している。

英語がわかればこんな勘違いするはずがない内容なのに、外務省のブリーフィング通りにあえて誤報を流したとしか思えない。

船長の逮捕時には国土交通大臣、つまり逮捕した海上保安庁の担当大臣であり、その直後に外相になった前原は、「クリントン国務長官から尖閣諸島は日米安保の適用範囲内だとの言質を得た」と胸を張った。

だがこれは、外交の常識が分かっていれば不自然な発言であることはすぐ分かる。なのに「不自然だ」と報じて、クリントン氏の発言の真意を論じた日本のマスコミは皆無だ。

むろん米国が沖縄占領時代に尖閣諸島も支配していて、それも含めて日本に返還した以上、この島々が自動的に安保の適用範囲になるのは、クリントン氏もそう言われれば再確認するしかない、変えることも出来ない当然の話であり、本来わざわざ言う必要のないことだ。

なのにそれをあえてクリントン氏が言ったとして胸を張った前原の不自然さを、今でもマスコミは指摘しない。

だがこの際の会談の内容をちゃんと読めば、真相はすぐ分かる。

クリントン氏が「安保の適用範囲」と言ったのは、前原にそう問われたから他に返事のしようがなかっただけであり、続けて氏は「だからこそ安保が適用される有事を日本が起こすことは絶対にあってはならない」という主旨のことを、前原氏にかなり厳しく言っているのだ。

昨晩のNHKの9時のニュースでは、クリントン氏が最近また同様の発言をしていることを、2010年のことを忘れたかのように「今までにない踏み込んだ発言」として報じていた。

もちろんまったくの嘘っぱちだ。2010年の秋に前原氏との外相会談で言い、その後も国務省や国防総省の関係者が繰り返したことと、まったく同じ発言でしかない。

そして今あえて繰り返しているのは、日本に中国に謝罪させようと圧力をかけているだけである。

無論、実際に尖閣諸島で安保が適用されるような有事など起こるわけがない。

それでも日本側が中国に謝罪しろというアメリカの要求に抵抗出来る唯一の言い訳が、「ここで謝って中国が領土を要求したらどうする」だから謝れない、というものだから、クリントン氏はその言い訳を封じこめるために「(有事の際には)安保の適用」を言っているだけだ。

平たく言ってしまえば、日本が「今謝ったら中国が調子にのって尖閣諸島に攻めて来たらどうするのだ」と駄々をこねているので、クリントン氏は「万が一そうなったら安保の適用範囲だからアメリカが守るに決まってるだろう?下らない言い訳はやめて中国に謝れ」と言っているだけなのである

尖閣諸島の領有権が日本のものなのか、中国のものなのか、台湾に貴族すべきかと、それを日本側から(すでに戦後一貫して実効支配しているにも関わらず)問題にして、日中関係を悪化・硬直させることの是非は、まったく別問題である

アメリカ側はそう明示して、日本側から問題を悪化させたことについて中国に謝れと言っているのだと、明確にしているのだ。


実際のところ、2010年の「船長」騒動も、昨年来の日中の確執も、ハタ目には一方的に日本が仕掛けただけであり、どちらも外交的に日本はあっけなく完敗している 
ところがマスコミは最初から日本が全面的に正しいかのような誤報を、金太郎飴状態で続けて来たし、それは今も変わらない。 
2010年には、前原・菅がクリントン・オバマと会談したその翌日に、問題の船長が釈放されているではないか。関連性はあまりにあからさまなのに、マスコミでそれを指摘することは完全にタブーになっている。
政府は沖縄地検の決定だと言い張ったが、アメリカがまったく味方する気がないことが分かったので慌てて釈放したことは、あまりに目に見えている。 
なにしろその直後に来日した米国務副長官が、船長の釈放を評して菅首相の高度な政治判断を褒め讃えているのだから、なにをかいわんや、なのだ。  
これでも日米外相会談や首脳会談と関係がない、「沖縄地検の判断だ」と言い張るのは、まさに悪い冗談でしかない。アメリカの圧力で菅政権が船長の釈放を決定しただけであるのは、あまりにあからさまだ。
そもそも、このときにも中国側は、はじめのうちは非公式に日本大使に(それも大使の都合にあわせて夜まで待って)話をしただけで、船長の勾留期限が切れて釈放→強制送還となることをじっと待っていた。
実態はともかく中国は尖閣諸島を自国領だと言っているのだから、公的にはあの事態は、中国からみれば自国領に日本の海上保安庁が領海侵犯して、自国民を拉致して監禁したという構図になる。それでも日中関係の悪化を望まないから、自動的に釈放期限が来るまで待って、ことを丸く納めようとしていたのは、冷静客観的に見れば誰の目にも明らかなはずだ
ところが日本側が勾留を自動延長(それも外相になった前原も、首相である菅も、官邸も、本来の勾留期間中にはなんの言及もしなかった)したから動き始めただけで、不可解なことはなにもなかった。 
のに中国がさすがに黙っているわけにも行かず抗議を始めたら、「唐突で不可解だ」「中国は強硬だ」と大騒ぎしてまったくの誤報を行ったのが、日本のマスコミである。 
誰一人この報道こそ不自然だと指摘しなかったこと事態が、あまりに変なのである。 
海上保安庁の手の込んだ「尖閣ビデオ」流出なんぞ、あまりにも稚拙で、誰が見たって海保と霞ヶ関の意図にしか見えず、しかも肝腎のビデオがテレビ屋なら誰でも不自然と分かる内容なのに、「中国けしからん」報道しかなかったのも、あまりにおかしい。 

このビデオは、映像のプロが見ればまず「これはやらせだろう」とすぐ思う。そうでなくて衝突してくる漁船を、こんな風に撮れるわけがない。
最初からどこにぶつかるかまで計算して、そこにキャメラを向けていないと撮れるわけがないんだから。つまりヤラセであることを、映像のプロであれば誰もが疑う。 
もちろん、ここであの船長を逮捕したこと自体がやらせであり、さらに海洋航行の専門家…というか船乗りが見ればだいたい、あれが海保が漁船を警告して追い払うとしたのでなく、捕縛するために取り囲んだ状況であるのはすぐ分かるだろう。 
死にもの狂いで体当たりしてくることも計算のうちだったどころか、これはビデオ映像だけでは確認できないことだが、ビデオであたかも漁船が海保の船にぶつかったように見えるのは、カメラが海保の船側にあったからそう見えるだけで、海保の側が漁船の船首に船をぶつけた可能性すら否定できない−−というか、そうでないとこんな画はなかなか狙えないはずだと、映像のプロなら誰でも気づく。 
少なくともテレビ局では、誰もがあの「尖閣ビデオ」の不自然さに気づいたはずだ。 
政治評論家も外交ジャーナリストも事態の進展があまりに不自然だと気づいて当然なのだ。 
なのに、あまりに不自然な、中国が仕掛けて来たかのような偏向報道を、全てのマスコミが繰り返したのだ。 
それも恐らくは、自発的に…。

        ***

そして昨年の、野田政権が始めた尖閣諸島騒動に至っては…

最初は日本国内で石原慎太郎知事が「尖閣諸島を買う」キャンペーンを始めても、中国政府はあえて論評もせず「日本国内の話だから」と無視した。

この領有権問題で、日中関係を悪化させたくないという意志は明らかだった。

それが日中の対立にエスカレートしてしまった唯一の理由は、石原に対抗意識を燃やした野田のパフォーマンスという、日本の政界の内輪でのコップの中の嵐に過ぎない。

そして中国政府はこの時も、野田が国連に持ち込んでまで騒ごうとするまでは無視・静観を決め込んでいたではないか。

日本のマスコミは、なのに中国がついに静観できない立場になって動き出したとたんに、中国各地での反日デモを扇情的に報道して、中国政府が演出したデモだとしきりに当てこすりをすることで、あたかも中国政府が敵意丸出しに尖閣諸島を狙っているかのように報じた。

冗談じゃない。すべて日本が勝手に騒ぎ、中国政府も立場上黙っていられなくなっただけだ。

もちろん中国は中国で、政権代替わりを控えた政情不安、しかも大物官僚の起こした汚職事件で国民の批判や次期政権への不信感が高まったのを、日本が勝手に騒いでくれた尖閣諸島問題を利用して、反日感情に世論の注目を集めることでうまくガス抜きした、という面では、とてもちゃっかりしていたわけだが、これも日本のマスコミが金太郎飴状態で報じた、あたかも中国が日本の領土を狙って盛り上がっている、というような事態ではおよそない。

そしてこの尖閣問題は、外交的には国連総会で、あまりにあっけなく中国圧勝で終わっている。

野田がなにを勘違いしたのか「国際司法」とか言い出したので、中国は「現代の国際法は第二次大戦の結果に基づくものだが?」と疑義を呈しただけで、日本は完敗しているのだ。

昨日もNHKの9時のニュースは、ルース大使のインタビューに合せて(どう編集や吹き替えでニュアンスを歪めようが、大使のメッセージは明確だ:日本が中国とこれ以上喧嘩する気なら、アメリカが許さない)、中国が今年に入って4回も日本を「領海侵犯」していると報じている。

これも客観性を旨としなければならない報道としては、スタンスがおかしい

中国側からみれば、公式には尖閣諸島周辺は「中国領」と一応タテマエでは言っているのだから、領土係争地域である上、中国からみればあれは「領海侵犯」にはならない

客観的にも領土問題が決着していない以上、「領海侵犯」とは言えない。日本政府の立場は日本の立場として、客観的に、たとえば第三国や、国際司法裁判所などから見てどう見えるかを、我が国だって大人の独立国なんだから、当然意識するはずだ。

ところがマスコミはその程度の節度すら持たずに報道している。

だいたい本気で狙っていたら、今だって中国は沿岸警備隊なんて出さずに、海軍を使って圧力かけて来てますよ。ところがこんな分かり切ったことすら、マスコミは専門家にも絶対言わせないのだ。

中国の沿岸警備隊が最近「(あくまで【日本からみれば】)領海侵犯」を繰り返す真意ですら、今まで誤報しかして来ていない日本のマスコミは、もはや正確に分析して報道することすら出来ない。

自分達がついた嘘にがんじがらめになって嘘を重ねる虚言癖状態だ。

もちろん中国側が「(あくまで【日本からみれば】)領海侵犯」を繰り返すのは、国連総会で日本が完敗した途端に、日本政府がただ引きこもるだけ、なんのアプローチもしないし中国側の非公式接触も無視するので、困ってしまっているから、というだけ。

これだけも外交ではあり得ない非常識なのだが、さらに驚くことに、国連総会での野田の愚劣な演説であっけなく完敗した日本は、さすがにどこの国でも「これはあり得ない」想定外の非常識外交をやってしまった。

自国のメンツがかかった自国開催のIMF総会ですら、自ら事実上ぶっ潰してしまったのだ。

日本が起こした尖閣諸島問題で日本が外交的に敗北し、そのまま黙り込んでしまっては、中国は閣僚級代表をIMF総会に出席させるわけにはいかない。これがユーロ危機の打開を話し合う会議で、日本と中国が持っている外貨をどう使うかが鍵だったのに、なにも決められない総会に、日本がしてしまったのだ。

中国は呆れたろうし、これには米国が激怒している。

しかも始末の悪いことに、野田がアメリカの辞任圧力に屈して辞任する代わりに意地を張って解散して政権が交替したはずなのに新首相が反中・反韓国の極右ナショナリズムを売りにしている、しかも歴史修正主義者の安倍晋三なのである。

安倍は前回首相だったときに、小泉時代に冷却化した日中関係の回復を結局は自分でやらされていたし、半ば公約と化していた靖国神社公式参拝も出来なかったし、従軍慰安婦問題の認識を示した国会答弁も、当時のブッシュ大統領からの圧力で撤回謝罪している。


「従軍慰安婦問題の謝罪」、ブッシュ大統領が安倍首相を評価 - 米国


だいたい、あまりに歴史の常識を踏まえない、愚か過ぎる話だ。アメリカは中国とともに第二次大戦の戦勝国であり、韓国もまたその戦勝国が絶対悪と断罪した日本軍国主義の犠牲国である。 
アメリカの国是において、日本の軍国主義は原爆の使用と言う非人道的手段を駆使してでも阻止されなければならなかった絶対悪なのだ。 
「中国は共産国だ」とか日本国内でどれだけ内輪の思い込みに耽溺しようが、冷戦は20年前に終わっているのである。第二次大戦の歴史問題で中国や韓国の反発を買う日本に、アメリカが味方できるはずもない。

ところがこの男、その経験からなにも学習していないらしい。

ところが日本のマスコミは、慰安婦問題にしても結局は態度を曖昧にし、「強制連行はなかった」としたがる日本側の(そもそも当時でも違法行為、公文書に記録を残すわけがない)一部の主張を「両論併記」したがり、クリントン国務長官がこの問題を「性奴隷」と明言したことも、日本ではほとんど報じない。 
だから安倍晋三も、自分の言動の重大さ、それがどれだけ日本にとって不利な状況を産み出し得るのかが、まったく理解できないし、誰もそのことを彼に教えてあげないから、前回首相のときにもこんなみっともないことをやっていながら、今回もまた繰り返そうとしているのだ。 
新首相の最初の外交課題であった日中関係の回復のやる気がまったくなかっただけでなく、またもや河野談話の見直しを口にして、欧米メディアに極右の歴史修正主義者、つまりはネオナチ同然という欧米社会では最大のタブーを犯したとして批判され、オバマ政権はますます態度を硬化させている。

安倍晋三自身が「最も重要な外交関係」と認識しているはずの日米関係まで、悪化させているのだ。

そこで逆に味方のはずのジャパン・ハンドラーに足下を見られ、オスプレイを自衛隊が購入することを検討し、集団的自衛権の問題をアメリカが好き勝手に自衛隊を使える方向に見直す可能性まで口にして、独立国の最低限の矜持すら売り渡してまで、オバマに会わせて欲しがっている始末だ。

最初の外遊となった東南アジア歴訪でも、なんとかアメリカの意向におもねてTPPへの参加を口説きに行き、しかしなにしろ日本国内でも賛否両論の問題なので、案の定さすがに相手にされずに、アルジェリアの反政府勢力による人質事件を口実に日程を切り上げて帰国する始末である。

東南アジア各国にとって、日本との関係は、アメリカとの関係、中国との関係と並んで最重要の、日本の言うことはなるべく向こうも聞く気であるのにも関わらず。

        ***

安倍晋三が無能であることが問題なのは当然ながら、今の日本が国際政治の現実を前に右往左往しているのは、マスコミの責任が大きい。

思い返せば最初から、野田が妙なナショナリズム反中外交の人気取りを、後先も考えずに始めた時点で、これが馬鹿げたパフォーマンスであることなど当然分かっているマスコミは、「なぜ日本が実効支配し、中国側がなにも動いていない島のことで、日本が勝手に問題を起こすのか?今騒いだところで、日本が得られるものはなにもない」と、野田を批判すればよかったのだ。

ところが2010年の尖閣諸島「船長」騒動の報道の誤りを認めなければ(おそらくとくにテレビは、分かっていて国民に嘘をついたことを含め)、マスコミにはこの批判が出来ない。だから自分たちの恥を隠すために、嘘に嘘を重ねてしまった。

安倍が冷静に状況を把握していれば、野田が自らが惨敗することがわかっている解散を強行して、政権が交代したのだから、新政権は「あれは前政権の誤りである」と言ってしまえば、それで済んだ話でもある。

だが野田がやっている明らかにおかしな外交を「これが日本の正義だ」と報道し、「中国けしからん」と安易なナショナリズムを煽ってしまった日本のマスコミには、そういう当然の指摘すら出来る状態にない。

これまでの報道が実は完全に間違っていた、この2年半、自分達がまったく見当違いの解釈で、誤った報道をして来てしまったその嘘を、ただ認めたくないだけなのだ。そのマスコミを、安倍は自分にとって好ましいというだけで信用しきって、ほとんど依存状態になっている。

そしてマスコミはマスコミで、今でも誤りを認めることが出来ないというだけで、ますます必死に、なりふりかまわぬ安倍晋三の擁護・支持の態度を極端にしている。

嘘を糊塗するために新たな嘘を重ねて行く、もはや集団的な強迫観念の虚言癖としか言い様がない。

安倍晋三は安倍晋三で、そうやってマスコミに支持され…というか煽られていることにいい気になって、外交的にますます不利な立場に日本を追い込んでしまっている

だがこれも時間の問題である。

アメリカ側はまだ、2月の第3週に日米首脳会談をとだけ言いつつ、その日程や協議する内容の事前交渉すらほとんど始めていない。安倍晋三政権が態度を変えるまでは、オバマ政権はいつでもこの会談を延期するつもりだろう。

安倍首相があと2週間とかそこら以内に、前回に首相だったときもそうさせられざるを得なかったように、今回もまた偏狭な極右ナショナリスト(それも歴史修正主義者)のポーズを改めなければ、たぶん再び、彼は病気を理由に辞任することになるだろう

これ以上は日本の現状が許さない。

もはや安倍晋三をもてはやす以外に選択肢のないマスコミは、アベノミクスとやらを必死で宣伝しているが、これで「景気が回復」したように見えるのは今のところ、単に円安になった結果、為替差益で日本の株価が上がったように見え、数字の上で大手企業の収益が、海外での儲けのぶんは日本円での数字があがって収益が改善したように見える、それだけの話だ。

だいたい、経済対策がそんなに即座に効果を出すわけがないだろう。今はまだせいぜいが「期待感」の段階であり、そして安倍晋三ともはや「噓つきどうしの一蓮托生」、強迫観念の虚言癖の共依存状態になっているマスコミが、必死でその「期待感」を演出しているのが現状だ。

一方で、客観的な目、たとえば国際社会の評価は、あまりに厳しい。

先週末にはIMFが日本の2013-2014年の景気動向予測を公表している。そこでは安倍新政権の経済対策は短期でしか効果が見込めず、無節操な財政出動が財政状態を悪化させる懸念が指摘されている。

その上でIMFは、日本の経済全体については、日中関係が悪化したままでは、日本の経済が悪化するであろうことを指摘している。

昨年の東京総会を日本が自爆的に失敗させた恨みを勘案しても、非常に重い指摘であることは間違いないし、だいたい客観的には誰でもそう思う。

アメリカが今や習体制の中国と日本の取り持ち役をやっている(習主席が山口氏とのアポなし会談に応じたのも、アメリカの要請だろう)のも、日中関係が悪化しては日本経済に深刻な影響があるだけでなく、中国への依存度が年々高まるアメリカの国益を損ね、また世界経済全体への悪影響も避けられないことを、オバマ政権は看過出来ないからだ。

国内向けでしか通用しない幼稚なナショナリズムに耽溺している場合ではない。

ましてやマスコミ業界が、これまでの自分達の報道を「間違っていた」という、それが言えないケチなプライドのせいだけで強迫観念的に虚偽偏向を報道し続けていい状態ではない。

1/23/2013

【追悼】大島渚、裸の肉体と、日本的感性における「魔」

『儀式』渡辺文雄、土屋清、乙羽信子

生前の、まだ二度目に倒れる前の、元気だった大島渚に、ほんの2~3ヶ月の間に何度もインタビューをしたことがある。『愛のコリーダ』の、修正部分が最低限のリバイバルのために、大島が取材を受けていた頃だ。

今思えば、たぶんその頃に大島に取材したなかで、僕がいちばん歳下の男性だったから、それも「今時の若者」には珍しく生意気だっかからおもしろがってくれていたんだろう。大島の妹でプロデューサーの大島瑛子さんには「あなたが来ると大島が元気になるのよ」とからかわれた。

あとあとになって考える度に、大島に言われたことの大半は、当時はさっぱり理解出来ていなかったと思う。

ひたすら繰り返されたのは、政治的なことを質問する度に怒られ、「僕の映画をそんなつまらない見方しないでくれる?」ということだった。

「だいたい君は若いんでしょ?自分の生まれた頃の政治の話で映画を見るなんて馬鹿じゃないか」

『愛のコリーダ』の、吉蔵(藤竜也)が2.26事件の隊列とすれ違うシーンについては「あんな下らないシーンのこと訊く奴は馬鹿だ」と怒られ、この映画のセットの随所に組み込まれた神道のモチーフについても「戸田さんが勝手にやったんじゃないの?忘れたよ」。


もっとも、これは「神道のモチーフ」だと思って訊いたから怒られたのだろう。今思えば、別の訊ね方をすべきだったのだ。

製作当時、大島は『愛のコリーダ』を「私と戸田重昌の遊興的な気分がもっとも色濃く出ている映画」だと称している。僕が取材したときには、「愉しいから作った」「映画を作ってる側が愉しまないで、観客を楽しませる映画なんて作れるわけがないだろう」とさんざん言われた。だから自分の映画を「楽しめ、愉しめ」と。




晩年に本人がそう繰り返したにも関わらず、大島渚の映画は政治的・前衛的な理論性の枠組みから語られがちだ。大島自身は『愛のコリーダ』の直前には「もう映画をやめよう」とすら思っていたともいうのだが、当時ですら自主製作映画は経済的に成立しにくく、生活の手段はテレビ出演などが主になっていたし、なによりも「どうせ僕の映画はいつも誤解されていた」からだ。

以来10余年、大島さんの映画を見直す度に「政治を忘れて“愉しんで”」見ることを心がけようとして来た。あるいは、大島さんにとってなにが「愉し」かったのか、先入観でも理論でもなく、大島が直感的にその映画に組み込んで来た思考というか、大島の映画が本当はなにを見せているのかに、敏感であろうとして来た。

2度目に倒れてから、大島渚は意識がほとんどなく、回復の見込みもほとんどなかった。そのまま12年、ある意味で12年前にもう「亡くなっているのだ」と考えるようにして来たし、その方が楽だった(あの大島渚が大島渚でない、という姿は耐えられない)、それでもどこかでいつか回復して、あの丁々発止の大島節で「君はまだそんな馬鹿なこと考えてるの?」とからかわれる日が再び来るのを期待していた。

それは今月の15日に、永遠にあり得ないことになってしまったのだが。

『青春残酷物語』

大島渚はエロスにこだわる人だった。それは政治的に受け取られがち、性によって反体制を貫く作家と言う枠組みで語られるのが主だったが、大島さんに言わせれば「そうじゃない、愉しいからだ」となる。

和服も大好きだった大島さんだが、「まことにエロチックな着物だからね」というのがその理由。懐から手を差し込む、裾をまくりあげる、帯を解けばすぐに脱げる、そういう裸に近いところが、大島さんには「愉しいこと」だったようだ。

映画の撮り方にこそ大島さんにとって「愉しいこと」が秘められているのだとしたら、はっきり言ってしまえば大島映画におけるエロスは、女性よりも男性のそれだ。

1960年当時の検閲などの制約(たとえば『悦楽』はずいぶんそれに傷つけられた映画だ)もあり、女性よりも男の上半身裸の方が見せ易かったこともあるのだろうが、それにしても出世作『青春残酷物語』でも、強烈な生命感を発散すのは川津祐介の裸の上半身だ。

大島映画には実際、物語上のなんの脈絡もなく上半身裸の男がよく出て来る。

絞死刑』裸にされた死刑囚Rの肉体

たとえば『絞死刑』で死ぬことを拒否した死刑囚Rの肉体は、蘇生のためになぜか上半身裸にされ、映画の不条理な展開に合わせてまずランニング・シャツを着て、それを脱ぎ、最後に学生服を着て、再び処刑される。

『新宿泥棒日記』では、ギターを弾き歌う唐十郎は、下腹部だげがギターで隠され、一糸も身にまとわない姿に見える。



『儀式』で小山明子演ずる伯母が裏山の墓地で日本刀で刺し殺された姿で発見されるとき、坊主頭の忠(土屋清)は、なんの脈絡もなく上半身裸だ。

この映画のクライマックスに至っては、輝彦(中村敦夫)の自殺した肉体は全裸で横たわり、大島はまずそれを尻からの、極度に縦方向の構図に様式化されたショットで見せる。

『儀式』大島が「三島由紀夫的人物」と読んだ輝彦(中村敦夫)の死

一方で主人公の満州男(河原崎健三)が裸になるのは、少年時代に風呂に入っていて、伯母(小山明子)に背中を流されるときだけだ。旧家の長男の息子の抑圧された、常に自信がなく自分が定かではない男の肉体は、清や輝彦のそれのような、強烈な、この世のものならざるかのような存在感を発することはない。

『戦場のメリークリスマス』で、セリアズ(デイヴィット・ボウイ)が軍事法廷で拷問を受けた証拠の背中の傷を見せようとシャツを脱ぐとき、ヨノイ大尉(坂本龍一)はその強烈な魅惑に惑わされてしまう。



これを同性愛的なイメージとみなすのは容易いし、実際に物語上そう解釈され得ることなのだが、大島の好んだ裸身のイメージの力は、それだけに留まらない。

場違いの状況のなかで剥き出しにされる男の肌は、まばゆいエロスを発散するだけではなく、場違いさ自体がその場の均衡を強烈に揺さぶる。そして大島映画におけるこうした男の裸身は、『儀式』の墓地と刺殺体のシーンや輝彦の死が典型なように、しばしば死のイメージと同時に提示される。

このことの意味は、『愛の亡霊』を大島が撮るに至って完全に明確にされるし、その文脈において『愛のコリーダ』における一見「神道的」に見える表象の意味をも明らかにされるだろう。

『儀式』においてはまだ、「神道」のそれとみなされうるイメージは、明治以降の日本の国家主義、軍国主義と保守思想、封建的な家父長制という、政治的批判の文脈から一応は逸脱しない形で登場はするのだが、そうは言ってもあまりに繰り返し、執拗なまでに、それも美しいシンメトリーに様式化されて提示されると、大島の言う彼と戸田重昌の「遊興的な気分」にも見えて来てしまう。大島は明らかに、こういうものが「好き」なのだ。

一方で墓地と刺殺体のシーンにおいて裸の男性と併置されている墓石や卒塔婆は、表面的には宗教的な表象であり死の象徴であると同時に、明らかにそれを越えたイメージが構築されている。


つまり、卒塔婆や墓石は大木と併置されるなか、裸の忠の肉体は「場違い」ではなく、むしろ彼こそがこの状況に一体化している。

重厚な移動ショットのなかで、裸の男=エロス=自然=死が、ひとつのイメージとして渾然一体となるこの瞬間は、すでに大島がやがて『愛の亡霊』を撮ることを予言しているかのようだ。
『愛のコリーダ』のセットの随所に、鳥居や神輿が配されているのも、都市のなかでさえ日本人の深層心理に潜むアニムズム的な感覚が遍在していることの現れではないのか? 言い換えれば、それは「神道」の象徴ではなく「カミ」そのものの表象だと言ってしまってもいい。

大島は、日本人の本来のアニミズム的感覚の文化における「エロス=カミ」をこそ追及していたのではないか?

『儀式』と『愛のコリーダ』の狭間に、大島が東映ヤクザ映画として映画にしようとしていた未撮影の脚本『日本の黒幕』において、アメリカから賄賂を受け取っていた右翼の巨頭山岡を暗殺しようとする純粋な右翼少年・びっこの江古田正夫というミッシングリングの存在を加味すると、より日本的な無意識に意識的に取り組もうとして来た(あるいは最初は、本人にも無自覚にそれが映画として立ち現れてしまったのか)系譜が、ひと際明瞭となるだろう。

正夫は山岡邸に忍び込み、びっこではあるが軽やかで(官能的な)身のこなしで、庭園の一隅にある小さなお社の前で右翼団体の制服を脱ぎ捨て、お社の前にしばしぬかづくのである。

そしてこの少年を山岡が愛し、彼の存在が、やがて山岡一族の秘密を暴露し、壮絶な死と性の饗宴となるクライマックスに向かう。

『愛の亡霊』

『愛のコリーダ』裁判における大島の有名な言葉に、「猥褻とは明治の官僚の下品な造語だ」というのがある。

教条主義的な二項対立図式に誤解されがちな言葉だし、実際に表現の自由を争う裁判での発言なのだから性の解放を謳う言葉として読むこともあながち間違いとは言えまいが、大島の真意は別のところにある。

文字通り「明治の役人が」西洋の「obscene」という概念を翻訳した言葉、つまり急激な近代化=西洋化のなかで抑圧され排除され見失われた本来の日本的な感性をめぐる言辞なのだ。

それは善悪二項対立とは相容れない世界観でもあり、考えてみれば大島映画のヒーローたちは、常にその両義性の、聖性とまがまがしさを同時に備えた存在であり続けている。『儀式』の輝彦しかり、『絞死刑』の死刑囚Rしかり。それは単に人間が決して善悪で割り切れないものだという通俗倫理レベルの話ではなく、大島映画においてはカミ的な存在であり、エロス=カミであるのだ。

最後の作品となった『御法度』がしばしば誤解されがちなのも、大島のこの問題意識が理解されていなかったからだろう。通俗的に解釈すれば、惣三郎(松田龍平)という魔性の少年が新撰組を惑わす物語であり、そのエロスは魔であり、悪であり、だから土方(ビートたけし)が最後にこの魔物を表象するかのような木を切り倒して終わる、とこのように、ホモフォビア的な説話として解釈されがちだ。


『御法度』土方(北野武)、沖田(武田真治)

だがそのクライマックスの前に、沖田総司(武田真治)が延々と、『雨月物語』の「菊花の契り」という同性愛の幽霊譚を語る場面を見逃してはならないのに、大島の描く新撰組の隊士の多くが元から「その気」があること、だいたい江戸時代において武士の衆道はむしろ当たり前であり、また新撰組それ自体がたぶんにいかがわしい秩序を持った急ごしらえの疑似保守的な集団であったことを忘れてしまうから、そう誤解されるわけだ。

言い換えれば、新撰組なんて元から乱れて当たり前なのだし、存在自体がどこか “不自然” なのだ。

これはさすがにエロス的な説話ではなく政治映画の極北とみなさざるを得ない『日本の夜と霧』ですら、見るからにエロティックな存在ではないとはいえ、不自然な偽善に塗り固められた、安保闘争の敗残の末の結婚式を、「場違い」であるがゆえに燦然とした津川雅彦がかき乱し、列席者を惑わす説話構造を持っている。


『儀式』の墓場のシーンの忠の裸身のように、大島の作品世界のなかでは、惣三郎の存在自体が聖なるものして禍々しいカミ的なものとしての、日本人本来の感覚における「魔」性であり、カミ的な存在なのである。

なるほど、確かに当初は木村拓哉を起用しようとしたものの大島が病に倒れ、撮影が延期になった結果起用された新人の松田龍平にはまだ、たとえば『戦場のメリークリスマス』のデヴィッド・ボウイのようなスター性や、『青春残酷物語』の川津祐介のようなまばゆい生命の躍動がなく、大島が目指したものを完全に映像化し切れていない面は否めない、肝腎の惣三郎がただのお稚児さんにしか見えない面はあるかも知れない。


だが『御法度』は、大島がどこまで意識的にやって来たことか、あるいは明治維新や近代化で失われた日本人の深層心理の問題だからこそ、あえて無自覚的・無意識的に自らの内から湧き出るものをフィルムに刻印しようとしたことなのか、そのひとつの到達点であるのだ。

もしかしたら、大島が晩年にあそこまで「愉しさ」にこだわったのは、「愉しくなければ映画など撮っても意味がない」と繰り返したのは、自分の内ににあるこの日本的な、アニミズム的な感受性が、日本人だからこその「愉しみ」、遊興的な気分にによってこそ深層心理の奥底から引き出されるのだと、信じていたからなのかも知れない。


いずれにせよ、大島渚とは「誤解され続ける」というより、ミステリアスであり続ける映画作家だ。

映画作家・大島渚という映画的存在それ自身が、『御法度』の惣三郎のような「魔」なのかも知れない。それはたまらなく魅惑と官能に満ち、近代=西洋化に染められた現代日本人を惑わし続けるのである。



『御法度』のラストで、土方は妖艶な桜の木を切り倒す。これは近代=西洋化が、日本人の無意識のなかにこそある日本的なるものを、畏れ忌避し、去勢しようとするイメージなのかも知れない。