最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/27/2008

愚の骨頂…

平和の祭典の聖火ならぬ騒動の火種が、我がニッポン国長野を通過して行きました。いやまあ留学生を大量動員かける中華人民共和国大使館というのも凄いのだが、チベットに平和と自由を訴える亡命チベット人の皆さんとその支援者に、いつのまにやら中国が嫌いなだけの右翼まで入って騒動のメインを担ってるというのも、同じくらい低レベルの話で困ったもんだ。チラっとしか写りませんでしたが、4月8日のこのブログで取り上げた、ニュース23が取材していた映画『靖国』で銀座の映画館シネパトスに街宣をかけた右翼の坊やも、中国人留学生の集団に果敢に襲いかかってましたねぇ。我ながらつまらんところ見てるもんだが。

なんというか、他人様の大変な不幸を、自分たちのどーでもいいような鬱憤のはけ口に利用しないでもらいたいもんだ。

とはいえ中国人留学生の皆さんの無知と傲慢と恥知らずも、他人様の国のことながらあきれ果てる。どうもあの方たちは、中華帝国の歴史も知らないらしいし、まして民族自決権の理念(最近は孫文先生の三民主義なんて教えてないですかねぇ…)なんてまったく理解しておらず、ただ自分たちのことしか考えられず、他人からどう見えるかなんて想像も及ばないようだ。そりゃ日本の右翼も同じといえばその通りながら、まだ日本では少数でしょうし、外国に行ってまでやらんやろ、さすがに。映画『靖国』の右翼活動家相手の試写の後のディスカッションで、「外国の人に日本の神道を理解してもらえるとは最初から思ってない」とそれなりに賢そうな右翼の人が言っていて、まあ「理解してもらえるとは最初から思ってない」ってのもいくら民族宗教とはいえ説明不足過ぎるが、少なくとも他民族に強引に押し付けないだけまだマシか(もっとも、我がニッポン帝国は植民地支配した土地には押し付けましたが)。

たぶんなんの基礎知識もないところで、インターネットでいい加減な知識を仕入れて知ったフリをしてるんだろうなぁ、ちっとも思考能力も使わずに(苦笑)。まあその点では「中国嫌い」だけで長野に行ってらっしゃるプチウヨの皆さんも同じようなものなんだろうが。

中華帝国というものが歴史上どういうものなのかまったく知らないらしい…。明朝の正史には、あたかも明がチベットの宗主国であったようなことが書いてあります−−ってそれを言うなら、足利将軍だって明朝から「日本国王」に奉ぜられてますよ。日本は中国の一部ですか? 違うでしょうに。まだ足利将軍はちゃんと国書を送ってますが、チベットの側では商売とか、お坊さんが訪問しているだけで、そのお坊さんたちだって別段政治的実権があったり、ダライ・ラマの命令で、なんてことは一切なく、ただ自分の意思で中国旅行をしただけ。それを明朝が格好がつかないからダライ・ラマの公式の使者であるかのように公式記録に書いただけ。だいたい、大昔から中華帝国は外交使節が来たら、実態は対等の外交関係で通商を行うだけでも、自分たちの側では「朝貢」ということにして、属国であるかのように自分たちの側では装う、という見栄っ張りの歴史をお持ちなんですけどねぇ。学校で教わらなかったのかな? 清朝の時代には実質保護領みたいな関係だったが、それは愛親覚羅皇帝一族がラマ教の檀家だからってだけで、檀家が宗教上のお師匠さんをお守りするという関係。チベットとしてはダライ・ラマを元首とする宗教政府が続いていても、中国と喧嘩してもしょうがないから中国側が北京や南京であたかも皇帝の支配領域であるかのように記録しているのには目をつぶっていたし、北京や南京でもチベットが実はぜんぜん属国でも領土でもないのを百も承知で、ただタテマエではそう装ってたってだけの話。

一見「大国」という自信をつけているように見えて、実のところかつての「帝国」の幻想を非常に薄っぺらに自己内で再生し、その幻想以外につながっている理由を見失っている超大国。彼らにとってオリンピックは、幻想の自己内確認の手段にしかなっていないし、だからこそあそこまでヒステリックになるのだろう。だがどんなにヒステリックになったところで、中華帝国という幻想自体が、そもそもが広大な国土のなかで限られた交通・通信手段、コミュニケーションが限定されていたことによって成立していたものであって、現代の高度情報通信社会では意図的に盲目になる以外に幻想としてすら成り立たない。だからこそ無理にでも周縁部であるチベットなど少数民族地域を実効支配しようとしているのだろうが、実効支配した瞬間にそれがリアリティの問題、他者とどう関わるかの問題になって、その現実を前にしたときに、幻想なぞは打ち壊されるものでしかない。だから必死に逃避するしかない。そもそも中華帝国のオブセッションである「中央集権」自体が、あの国土の広さでは、リアリティの問題として無理がありすぎたのだ。リアルな中華帝国の歴史とは、帝国の統一の歴史であるよりは、せいぜい皇帝にして一代か二代の最盛期だけ強引に中央集権体制を作り、あとは何世紀かかけて腐敗し崩壊しバラバラになっていくという、そうとうに虚しい繰り返しでしかない。ちなみに漢民族の皇帝でそれに一応は成功したのは唐の玄宗くらいしかおらず、元や清といった異民族王朝の方がまだちゃんと機能していたというのもまた、「中華帝国」の厳しいリアリティ。しかも清はまだほぼ漢民族化/中華化した王朝で傅義だとか満州語もできなかったそうで実態もまあ「中華帝国」だが、史上最強帝国のひとつモンゴルの大ハーン帝国において、「元」「大元」というのは中国人相手にそう名乗っただけの一行政地域に過ぎません。

だいたい、仮に本当に中国の属国であったとしても、その少数民族が民族としての独自性をちゃんと維持していれば、異なった民族なんですってば。単に現在の国際社会の理念がそうなっているだけでなく、そもそも他者は他者でしかない。どう逆立ちさせようがチベット人は「中国人」にはなりようがないのだ。いっそ「中国はモンゴルの一部です」とか「中国は満州の一部です」とかいって、中華人民共和国の独立そのものを否定してやろうか、まったく。そういう理屈に過ぎんじゃない、「チベットは中国の一部」っていうときのあなた方の根拠は。だいたい公平性とか善悪の普遍性とかいうことが、まったく頭から抜け落ちてるとしか思えん。だが抜け落ちていても当たり前といえば当たり前−−過度に自己中心的で他者について盲目にならなければ、かの国をつなぎとめている幻想はそもそも維持できないものなのだから。

ちなみに中国を支配した帝国がそれなりの統治なり支配なり軍事的勢力範囲を実際にチベットにまで及ぼしたのは、モンゴル帝国(ただしその行政区分上、チベットは「元」ではありません)と清朝と、現在の中華人民共和国だけだ。中華民国にいたっては、だいたい実質上国内統一すらできていないし、四川省、青海省あたりの国境紛争のなかでパンチェン・ラマ10世の指名に無理矢理介入しただけ。ダライ・ラマ14世を中華民国が指名・了承したという中華民国のデマ報道を本気で信じて「チベットは中国の一部」だと主張するんだから…。なんか凄い歴史教育をしてるんだなぁ、中華人民共和国って。パンチェン・ラマ11世誘拐行方不明事件に至っては、ダライ・ラマが転生児童を指名したことを「ダライ・ラマにそんな権限はない」とか主張するんですから…。あのぉ、阿弥陀如来様の化身である偉いお坊さんの生まれ変わり先を捜すのは宗教的な能力の問題であって、「権限」の問題じゃないでしょ…。それなりのお告げというか宗教的な予兆と判断されることに基づいて、「仏様のお導き」で転生した先の子どもを捜すという教義であって、そもそも無神論の共産党、世俗の人間の組織がそんなことやるのがおかしいじゃない。なんでそんな当たり前のことに疑問すら抱かないんだろうか? いったいなにを勉強してるんだ、そんな基礎的な思考力もなく。それに活仏の転生児童とはいえ6歳の子どもを家族共々拉致するって、そういうむちゃくちゃをやる政府になんの疑問も抱かないのかなぁ。

あげくの果てに「ダライ・ラマの支配下でチベットには奴隷がいた」んだそうです。これは恐らく、英訳とかなんとかが入り込んで誤訳の連鎖で完全に混乱してるんだろうなぁ…。昔、中華人民共和国がチベットに侵攻したときにプロパガンダで言ってたのは「農奴」がいたってことね。で、「農奴」ってのは普通の歴史および経済用語では「小作農」、英語でいえばpeasantを、わが日本の共産主義者がマルクシズムっぽくかっこよく訳した言葉が、中国共産党に輸入されてるだけ。どっかのバカが昔の共産党のプロパガンダを英訳したときに「奴隷」の「奴」だから「slave」と誤訳して、それが中国人留学生の脳内妄想のなかで飛び交ってるのか、それとも「農奴」という用語すら知らんのか? マルクス主義の用語すらちゃんと知らないって、中国共産党はどういう教育をしてるんだ? だいたいチベットには確かに小作と地主の制度はありましたけど、自作農が余った土地を土地をもたない人に貸すというような小作が多く(現ダライ・ラマの実家とか)で、中国の地主制度の本格的な農奴搾取よりはかなり穏やか。しかも遊牧民の方が多かったんだから。

んでもって、1940年代までのチベットに近代化・民主化の改革が必要だったかどうかと、それが中国共産党による押しつけであるべきかどうかは、まったく別次元の問題。ダライ・ラマの政府は13世の頃から近代化改革に着手してますがな−−13世のときは成功はしてなくてむしろ内政の混乱も招いたみたいだけど。なんというか、満州に5族共和の王道楽土を作ろうとしたニッポん帝国主義とほとんどおなじ理屈じゃないか。

なんで「愛国」を叫ぶ人ってどこの国でも無知で思考能力がないんだろ? だいたい長野まで聖火の応援に来るのは分かるけど、そこで自分の国の国旗を振り回すか、普通? 五輪の旗とか、北京オリンピックのシンボルマークの旗でも振るなら分かるけど。いったいこの人たちはなんのために外国に留学してるんだろ?

いやなにが嫌だと言って、東アジア文明特有の見栄と建前の文化というか、名目上はそういうことにしておくけど本当はどうなのか暗黙の了解、阿吽の呼吸みたいな「言わずもがな」でお互いの顔を立てる伝統がいいのか悪いのかはともかく、そういう文化的伝統があることもまったく知らず、従ってその意味するところもまったく理解できない若者が増殖していて、そういうのに限って「我が国の独自性」とか主張してるんだから滑稽すぎます。ただ「中華」とその昔「中華」が「吐藩」とか呼んでた「中華」から見れば周辺・辺境に当たる地域およびそこを故郷とする民族との関係の場合、この無知無理解・民族的根無し草の絶望的なアイデンティティ希求の滑稽さが、その単純アタマと無理解と無知のせいでとんでもない悲劇と破滅に向かっているのが、なんとも…。

時事通信の報道だと、こんな動きまで出ているらしい。

-----【時事通信、4月26日】-------【北京26日時事】中国チベット自治区ラサの旅行社によると、6月に同自治区内で行われる北京五輪の聖火リレーを参観するツアーが人気を呼んでいる。旅行社が中国国旗やそろいのTシャツも用意。3月の暴動の影響が懸念されるラサの聖火リレーだが、当日は成功を支援する「赤い旋風」が巻き起こりそうだ。
 聖火リレーは6月19日に同自治区の山南地区を、20~21日にラサを通過する予定。これらのルートでリレーを参観する団体旅行を扱う西蔵中国青年旅行社は、注文があればリレー応援に必要な国旗や衣服のほか、横断幕なども提供。既に国内の旅行客から多数の参加申し込みを受けているという。
 一方、聖火到着に合わせラサの観光名所ポタラ宮では、旅行社などにより数万人規模の愛国集会が計画されているもようだ。

…喧嘩売っているというか、自爆行為にしか思えないのだが…。もう、これはどうなるんだろう? アメリカの大学でチベット支援の学生運動に襲いかかろうとした中国人留学生を、やはり中国人の女性留学生が「冷静に話し合いましょう」と呼びかけただけで、「裏切り者」と中傷され、実家がとんでもないことになっているというし。政府がやっとダライ・ラマの代理人との直接対話を始めると公表したが、自分たちが煽った「愛国心」で今度は政府がおっかなびっくり、対話を始めたとたん「腑抜け」とか国内の突き上げが怖くなってる感じもする。12億人の未来は本当に大丈夫なんだろうか。冗談でもなんでもまく、このまま人類史上最大のマッチョ衆愚に堕落するつもりなんだろうか?

4/23/2008

被害者感情を尊重するということ、あるいは「死」に意味があり得るのか

「被害者側の感情」が、厳罰化や死刑の存続の主たる理由になっている。その象徴的事件が昨日差し戻し審判決が出た光市母子殺害事件であり、あるいは「危険運転致死罪」だったりする。だがこのブログで1月に取り上げたが、マスコミが「危険運転致死罪」の適用を煽った北九州市の公務員が酔っぱらい運転で三人の子どもを死なせてしまった事件で、遺族である母親は、被告の量刑がどれだけだろうが、そのことは亡くなった子供たちの命とはなんの関係もない、と判決後の記者会見で述べた。テレビのニュースの多くがそこは放映しなかったのは残念だが。

昨日のブログで、地下鉄サリン事件で亡くなった駅助役の高橋さんのことに触れた。高橋さんがどう亡くなったのかについては、たとえば村上春樹の『アンダーグラウンド』では複数の証言がある。高橋さんは駅の助役として、部下や後輩に任せず(つまり彼らを守って)自分で危険なサリンの袋を運び出したため、大量の毒を吸ってなくなった。一方で『アンダーグラウンド』には、高橋さんの救急搬送についての重要な証言も含まれるのだが、それは読んで頂くとして、彼がなぜ亡くなったのか、その最大の理由、ニュースに触発されて高橋さんの像を作ったというオーストラリアの彫刻家の言葉を借りれば彼が「英雄」であったことを知り、妻の高橋シズエさんも少しは心が和んだという。実際、証言から明らかになる高橋さんの行動はあまりにも立派であり、高橋さんが命がけで袋を運ばなければ、国会議事堂前駅でもっと多くの死者が出ていただろう。

裁判で「真実を明らかに」という常套句がある。だがたとえばオウムの裁判は、加害者である被告の犯罪を明らかにし、裁くためのものだ。彼らの行為についてのものであって、彼ら以外の人々にとってあの3月20日の朝に本当はなにがあったのかの「真実」を明らかにすることが目的ではない。裁判は加害者がどう殺したかの問題をめぐるものであって、被害者がどう死んだかの問題をめぐるものではない。まさかそんな無茶な弁護をする弁護士なんていないだろうが、「加害者の行為」だけが問題なら、理屈の上では高橋さんが亡くなったのは彼が自分でサリン袋を運んだからであって、被告だけの責任ではない、という言い草すら、たとえば無理にでも被告の責任を軽くしようとする弁護方針の理屈としては成り立ってしまう。司法によって犯罪者の行為を裁くということは、理論的には本質的にそういう残酷な理不尽を含んでいる。

我々は無神経に「加害者」「被害者」と言ってしまうし、裁判、司法手続きはその区分けを前提に成り立っている。そこで構築される犯罪という物語のなかで主体、主人公は加害者であって、被害者とされる側は受動態の脇役にしかなり得ない。殺人が起るとき、被害者は自分がそれまで生きて創造して来た自分の人生という物語を唐突に中絶させられるだけではない。その殺人の真実が裁判のために整理された犯罪という物語になるとき、今度は公の場において被害者の物語は無視され、加害者の物語のなかに組み込まれる。家族がどう死んだのか、家族の物語がどう終わったのかを知りたいという気持ちは、このシステムのなかでは必然的に無視される。犯罪者の残酷さを強調するために被害者の物語が語られれば、今度はその物語までが加害者の物語でプロットを展開させる要素にのみ凝縮され、搾取される。司法のシステムそのものの根源に、この構図が組み込まれてしまっている。

なにもそのシステムを問題視しようというのではない。ただ目的が違うということだけだ。だからと言って被害者の物語は司法の制度になじまないから、被害者感情への配慮を求めることがそもそも矛盾しているのだと言う気もしない。まったく逆に、司法という理論がそうなっていても、それが現実に適用されれば必然的に被害者の物語がそこに組み込まれていく以上、むしろその本質的な残酷さに気づいて、和らげるように、最大限の配慮がなされなければいけない。そして「被害者側の感情」を理由に厳罰や死刑を正当化することにしか利用しないとしたら、それはあまりに配慮がなさ過ぎる。というか、配慮とすら呼べず、究極の搾取でしかないことに、我々はそろそろ気がつくべきだ。

4/22/2008

「死刑という残酷な判決を出すような社会」

山口県光市の母子殺害事件の差し戻し審で判決が出た。世間の注目はもっぱら死刑になるかどうかばかりのようだが、ある意味で結果は最初から分かっていたわけで(「特段死刑を回避する理由が認められない」として差し戻されているのだし)、むしろ特筆すべきは主文を後回しにした、量刑を最後に言う、つまり判決理由が量刑の説明とならずに逆にその理由の結論として量刑が宣告されるという判決の出し方ではないかと思う。

最高裁で「特段死刑を回避する理由が認められない」と言って差し戻されていると言っても、被告の年齢・殺害された人数からするとこれまでの判例を覆す厳罰の新判例になるわけで、マスコミの注目はそれまでの永山基準と呼ばれる判例が覆るかどうかの表層上の事象だけなのだろうし、「専門家」というのはそういうもの、少なくともニュースというものはその表層的な記号のフォローまでしか出来ない。死刑廃止論者中心の弁護団も、死刑へのハードルが下がるかどうかだけを危険視しているわりには、それでいてたぶんに支離滅裂なストーリーを構築して「殺人」ではなく「傷害致死」だとして争い、「死刑」そのものを争う弁護策をとらなかったのは、素人目にはなんともくだらなく思えるし、結果として裁判所にことごとく否定される惨敗となったわけだ。これはちょっとおかしい。死刑制度の是非というのは、本来なら倫理的・哲学的な問題、つまり私たちの「社会」に死によって人を罰することが許されるのか、たとえ社会全体の利益だとしても人を殺すことが許されるのか否か、我々の社会にその資格があるのかの問題であって、弁護テクニックの問題ではないはずなのだが。

広島高裁としては「特段死刑を回避する理由が認められない」と最高裁が言っている以上、それでも死刑にすべきでないと主張するには勇気を持って「特段の理由」を示す必要があるが、そのチャンスすら弁護方針が封じてしまった格好になる。もし裁判官たち自身が死刑判決を出すことに倫理的な躊躇を感じていたとしても(相手は18歳で牢屋に入って9年間、27歳になるまでまともに「人生」を生きられなかった若者なのだから、それでも心から悔やんでいるのなら罪を悔やみ償ってやり直すチャンスを与えたくなるのが人情だし)、あんな弁護をやられては文字通り死刑を回避する理由、私たちの社会が果たして人に「死」を持って罪を償うことを要求する資格があるのかの問いが、ほぼ完全に見失われてしまう−−つまり償いとは、本人が心から罪を悔いることによってこそ成し遂げられるべきであるはずではないかとは、あんな弁護をやられては、とてもではないが言えなくなってしまう。

なにせ「ドラえもん」に「魔界転生」って、しかも裁判官はちゃんとこの山田風太郎の小説を読んだらしく、「本当に読んだのならあり得ない記憶違い」を指摘していた。「ドラえもん」だって押し入れが「4次元ポケット」って、そんな設定あったっけ? タイムマシンはのび太の机の引き出しにあったように僕は記憶しているのだが…。ドラえもんが寝てるのは押し入れだけど、別に押し入れに住み着いた座敷わらしの類いじゃないし。「魔界転生」は知らないが、この供述には狂気にはその狂気なりの論理性があるはずのがまるで抜け落ちている。「ドラえもん」を妄想するなら、その「ドラえもん」の設定には、狂気であるからこそ忠実であったはずだ。ただ判決文の行間にも疑いがにじみ出ているが、この新供述が被告の自発的なものだったのかはかなり怪しい。弁護側の小手先のこざかしい技に、虐待を受け寂しい子ども時代で精神年齢が12歳といった「死刑を回避すべき」かも知れない理由になるものも潰されざるを得なくなった。

今度映画版も公開されるらしい人気の刑事ドラマ『相棒』で、津川雅彦演じる法務大臣が死刑執行命令書に署名せず、業を煮やした検察のトップ岸田今日子が拘置所の職員を使って死刑囚を殺させるという話があった。津川雅彦の法務大臣が死刑執行を拒否する理由は、実家がお寺で、自分は還俗しているもののやはりどうしても殺生戒を破れないというもの。この元法務大臣がその後もたびたび登場しては死刑とか法制度と政治の関係問題を突く話を持って来て、法務省が実はえん罪だと気づいていて19年間死刑執行しないことが法務大臣の極秘申し送り事項になってるとか、下手するとテレビの方が映画よりも自由に日本という社会をあぶり出しているじゃないかと思ってしまうくらいだが、現実の死刑廃止議連の親分・亀井静香も、やはり仏教徒だから死刑には賛成できないと言う。かつ自身が警察官僚出身だからこそ…って「あんな尋問で自白をとっていたら、絶対にえん罪が避けられない」と、野党になったら人間は正直になれるものです。「たいていは拘禁反応のノイローゼで、まったく頭がおかしくなった状態で自白する。他ならぬ私が言うんだから本当です」。

一方で現実の司法はもっと恐ろしい。当時新米の左陪席だった判事、判決文を書かされた裁判官ご本人が、退官後に涙を流しながら「私は無罪だと確信していたが、2対1の多数決で死刑判決になった」と告白した袴田事件は、明らかに『相棒』の最新シリーズ最終回の、えん罪の可能性が高いから執行命令書に署名しないことが極秘引き継ぎ事項になっているという話のモデルになっている。石橋連司演ずる三雲判事が 19年前に無罪だと思っていた被告が多数決で先輩判事に逆らえず有罪の判決文を書いたトラウマを抱えていて、その彼を通して司法制度の硬直性と、人を裁くことの資格が問われる。一方、現実の袴田事件では先日、どうも袴田死刑囚が犯人でない可能性が高い新証拠が出て来ているのに、最高裁がなぜか再審請求を蹴ってしまった。ドラマのなかの政府は国家の威信を守るためにこっそりえん罪死刑囚を生かし続けるが、現実の最高裁は形骸化した権威を必死で保守するためだけに、かえって司法の権威を失墜させている。事実はフィクションよりも恐ろしい。

最高裁がかつての最高裁自身の判例を覆して「特段死刑を回避する理由が認められない」と言って差し戻した事件に関して、広島高裁の判事がこの判決の出し方をしたのは、一種の逆説なのかも知れない。判決を出す前にことこまかに弁護側の主張をひとつひとつ否定した上で、弁護のやり方からして被告に反省や改悛が見られずただ死刑を逃れることしか考えていないとしか言いようがない、だから「死刑」と言い渡す。わざわざそういうことをやった意味、裁判長の思い、それがなにを伝えようとしているのかを、我々も少しは考えるべきではないのか。このやり方のほうが、死刑判決とそれが新しい判例になってしまうことよりも、本当ははるかに重要に思える。だいたい、人の生き死にに関わることが、年齢が何歳で何人殺した、というだけで決められていいのか? 死刑制度反対の弁護団は結果としてその死刑制度そのものに潜むあまりにもの残酷さと不条理、そこであまりにも人の命が軽視されていること、そしてそもそも我々の社会に人を裁いて死を要求するだけの資格があるのかという問いを投げかけようとは、まったくしなかった。「死刑のハードル」という形式論に留まって、二人殺したのではなく一人は傷害致死だから殺人は一人だと言う結論を作り上げようとしたとき、実は自分たちが「死刑のハードル」からさえ逃げていたことに気がつかなかったのだろうか?

一方、ニュースは遺族が「満足する判決」と言った判決を、ただそれが死刑だったからであるかのように伝えているが、本当にそうなのだろうか? むしろ言葉にならないし言葉で安易に説明すべきでもない、なにか言葉に出来ないものをなんとか伝えようとしているこの判決の出し方、死刑かどうかよりもまず被告がなにをやったのかを重んじて延々と判決理由を読み上げたそのことが、遺族の心を9年ぶりにやっと和ませたのではないか。裁判官の心がなんとか、なにかを伝えようとしているのを、どこかで遺族も感じたのではないか。

まず明らかなのは、弁護側の方針の虚しさへの怒り、そして被告人に自分の犯した罪をもう一度考え直して欲しいということ。傍聴していた佐木隆三氏が弁護方針を「自爆行為」と指摘し、「被告人が生きて罪を償いたいと思っていたとしても、そのことにまったく役にたってない」と語っていたが、ある意味で裁判官が主文の前に判決理由を読み上げ、しかも微に入り細に入って事件そもののを再現するように語ったのは、せめてその役に立ちたいという思いではなかったのか? 「君はかくかくしかじかこういう許されない罪を犯した。それをよく考えなさい、思い出しなさい」。

この裁判が死刑判決で終わるのはある意味、最初から分かっていた。よほどのことがない限り、他の判決は(最高裁がああ言っている以上)あり得ない。だが広島高裁の判決はある意味でほとんど自動的な手続きとしての死刑を、その出し方を変えるだけで、裁判官たち自身が人間としての自分の責任と義務を少しでも、彼らの出来る限り深く考え、彼ら自身の人間としての匂いを持った判決に変えようとしたのではないか。少なくとも遺族は、そう受け取っていたように見える。

もう少しマスコミの記者さんたちが賢かったら、もっと広く深い意味を持ち得たはずだ。つまりどうしても報道したい判決を聞くまで、記者さんたちはずっと判決理由を事細かに聞くことになる。傍聴席で彼らは被告を見て、被害者遺族を見て、彼らと共にこの判決理由を聞かざるを得なくなる。単純に数行の記事には凝縮できない「犯罪」というものの実相を、彼らもまた考えなければならないようにこの判決は作られていたはずだ。本当なら記者たちは、その時点で「判決が出ました、死刑です! 死刑です!」と叫ぶ以上の報道を考えなければいけなかったはずだし、人の命の重みが分かっていたら、考えたはずだ。彼ら自身もまた、この判決の本当の意味と、「死刑」ということの重みを考えて報じるべきだった。一見裁判所が死刑を出しているように見えるし、我々はそこに逃げている。だが実は、裁判所は我々の社会を代表して死刑を宣告しているに過ぎない。ましてマスコミはたとえばこの判決が無期懲役だったら、裁判所を叩くだろう。我々と我々の社会が、死刑囚を殺しているのだ。国民主権の国で死刑があるというのは、そういうことだ。

それにしても記者さんというのは不思議な人たちだ。ずいぶん長くかかった判決理由の読み上げは、聞いてりゃ判決が死刑なのはほぼ予想がついておかしくない内容だったようだし(なにせ弁護側の主張は、被告自身が暴力的虐待の犠牲者であることに理解を示した以外は、ことごとく弁護側の主張をバッサリ切り捨てているのだそうだし)、そうでなくても最高裁が「特段死刑を回避する理由が認められない」と言って差し戻していて、マスコミも死刑を求めるような論調を繰り返して来たときに、死刑判決そのものは今更驚くような話ではないはずなのだが。なんであんな節操のかけらも見せずに「判決が出ました、死刑です! 死刑です!」と、そのことだけに興奮できるんだろ?

鳩山法務大臣が規則的なペースで順調に執行命令書にサインしていることが批判されている。むろん法務大臣就任時の無責任な発言などいろいろ困った御仁なのだが、我々は彼を責めることでなにかから逃げてはいないだろうか? 凶悪犯に死刑判決が出たと興奮し、鬱憤を晴らす。その一方で死刑執行命令書によってその死刑が執行されることには反対する。そこではなにかが、明らかにおかしい。

詳細な判決理由を延々と読み上げたことは、なによりも遺族にとって「家族はなぜ殺されなければならなかったのか」というどうしても知りたいことを、改めて聞く機会を与えること。被害者側の新しい権利として特別に傍聴できるようになった遺族(以前は遺族だろうが抽選に並ばなければならず、死刑がかかっているような注目の裁判だと、マスコミが融通でもしないと傍聴できないことがほとんどだった)もまた、判決理由を聞くことで、被害者がどう死んだのか、なぜ殺されなければいけなかったのか、最も知りたかったことを聞く。マスコミは被害者遺族と加害者をあたかも対立図式であるかのように報じ、被害者遺族の復讐を安直にはやし立てる。だが本当は死刑になるかどうか、犯人が殺されるのかどうかが本当の問題ではないはずだ。裁判で本当に「真実」が明らかになるかどうかは制度上大いに疑わしいが、しかしその真実のかけらでも把握することを、被害者遺族は求めているのではないか。なぜ愛する家族は殺されなければならなかったのか? 愛する家族は、どう死んだのか?

この裁判は言うまでもなく、死刑を求め続ける遺族の意思が広く喧伝されて全国的な話題になった事件だ。正直に言って、殺されたお母さんの夫、赤ちゃんの父である遺族には、ずっと違和感を感じて来た。この人の人生はなんなのだろう。もっともいろんなことを学んで吸収し、人生を楽しみも出来る若い時期を9年間も復讐に費やすことで自分の人生を止めてしまっていいのだろうかとすら思って来た。犯行時にはまだ彼も23歳、妻子の死は辛くても、新しい人生を始めることもまた必要なのではないか。それができないのはあまりに不幸ではないか。忘れろとは言わないが、乗り越えることは必要なのではないか。いかに憎い犯人とはいえ、その死刑を求めること、はっきり言えば憎しみの対象を殺すことだけが生き甲斐になっていいのか。

だが今日、彼の記者会見を見たとき、彼は本当にただ「死刑」を求めていた復讐の鬼であるだけのように見えていたのが本当だったのか、マスコミが作って来た彼の人物像そのものに疑問を感じた。今日の記者会見で彼は「死刑」それ自体、つまり被告が「殺される」ことを求めるわけではなく、この国の司法制度で死刑があり、それが18歳から適用されるものである以上、この犯罪には死刑という判決しかないと思って来た、と語った。一方で死刑制度そものの是非を、彼は明言しようとはしない。つまり、日本に死刑がなく終身刑が最高刑ならば、それでよかったという意味にもとれる。

その上で彼は人の命の重みという言葉を執拗に繰り返している。そういった部分は生放送以外ではカットされるのだろうが、実はそここそが本当に重要だったのではないか?

「被害者感情」を言い訳に死刑の存続を正当化し、厳罰化を歓迎する世論がこの国にはある。この光市母子殺害事件はその代表的なプロパガンダとしてマスコミに利用され、安易な同情論に染め上げられた遺族は復讐の鬼として、「異常な」犯罪者との二項対立によってもてはやされて来た。そのことについては、僕自身が正直に言って、彼に反発すら覚えて来た。だが今日の判決を受けての彼の記者会見は、それを覆すものだった。「死刑という残酷な判決を出さない社会をどう作るのか」、この判決を受けて自分もまたまっとうに生きていかなければいけない、と彼は語った。

彼が本当に戦って来たのは「異常な」犯罪者である被告ではなかったのではないか?

彼はまた、永山基準の判例によって自動的に量刑が決まって、という従来の司法の流れや、「死刑のハードル」という安易なマニュアル化を厳しく批判してもいた。「それぞれの事件をよく検証して」、個別の事件に対して罪を決めるべきである、と。人の命の重みが、「死刑」といううすっぺらな言葉にのみ集約され、被害者がそれまで生きて来たことのその人だけの生き方も、せいぜいが「死刑」への気分をセンチメンタルに高めていくことにしか使われない。なんら深く考え抜き迷い抜く倫理的で人間的な悩みを経ることなく、ただ「判例」をもとにしてマニュアル的に決まって行く。そうした非人間的なテクニック論の司法によって、死者の記憶は二重にも三重にも蹂躙されていく。地下鉄サリン事件で亡くなった国会議事堂前駅の助役高橋さんの奥さんのシズエさんがが最近出版した手記では、ご主人の遺影を裁判に持っていこうとして裁判所に拒否されたことが書かれている。傍聴も最初のころは、ごく少数の親切な記者が融通してくれなければ席もなかった。シズエさんも「麻原を殺せ」のイメージでマスコミで見せられていたが、手記はむしろ高橋さんがどう死んだのかを知りたいという望みに貫かれ、高橋さんを「英雄」と呼んだオーストラリアの彫刻家に心から感謝している。高橋さんが亡くなったのは、自ら命を賭してサリンの入ったビニール袋を運ぶ役を担ったからだということが、様々な証言から明らかになっている。

そういえば今回の事件でもまず遺族が注目されたのは、裁判に妻と子の遺影を持ち込む権利を勝ち取ったことだった。そして今日、遺族は、被告が以前に送って来た手紙を開封しないと言った。「罪を逃れるための反省文に過ぎないのではないか」「彼の本当の気持ちが書かれていないようにしか思えない」だという。そして被告が判決後一礼したことについて、遺族は「彼がなにを考えているのか “まだ” 分からない」と語った。そして彼はなによりも、この判決後に被告が手紙を書くのなら、それは読むとも言った。

マスコミは残念ながら「死刑判決」にしか興味を示さないし、彼もまたそれに乗せられて来たのも事実だろう。だが一方で、彼は実は犯罪被害者の権利を守る運動でずいぶん大きな功績を残して来ているし、それは「厳罰化」などに単純化できることじゃない。本人が言うようにかつては被害者側が裁判を傍聴するのも不可能だった、「お国」「司法」が人間の心を無視して裁判を進めるシステムを、彼は変えさせた。被害者がちゃんと裁判を傍聴できる権利を獲得もしたし、遺影も裁判所に持ち込めるようにした。我々が普通に知っているのはその程度のことだが、実は被害者の側の心のケアというのは、恐ろしく複雑な問題でありながら、まったく省みられて来ていない。そして我々世間は彼らの感情に味方するフリだけしながら、「死刑だ死刑だ」だけを騒ぐ。彼の「復讐」を成功として持ち上げることで我々は「異常な」犯罪者への憎悪を一晩だけ満足させてスッキリするかも知れないが、それが彼の「復讐」であったのなら、その復讐殺人の罪を今度は彼が背負っていかなければならなくなることを、我々は少しでも考えたことがあるだろうか? 広島高裁の裁判官は、少しでもそれを考えていたのかも知れない。だから「我々は君が犯した罪をかくかくしかじかこう認識し、それを許せないと考える。だから」という形の判決をやったのではないか。そのことにこれまで恐ろしく頑なだった遺族の心の中で、少しでもなにかが和んだ、どこかで彼は本当の自分を取り戻せたようにも見える。

これは彼の「復讐」ではなかったのだ。少なくとも今の彼は、そんなものちっとも求めてはいないことを言っている。彼はただ法治国家において最高に残酷な罪には最高の罰をという、ある意味で単純すぎるほどにシンプルな法治の適用を求めただけだった。弁護側の出して来たストーリーに「本当に罪を後悔しているのなら、死刑は回避できたのかも知れないのに」とさえ言っていた。社会のレベルでは被害者二人だけでなく被告自身も含めて三人の命が奪われることは「明らかに不利益」だとも言い切ったーーあえて殺された妻子と殺したも元少年を合計して「三人」と。

彼はただ、無駄に殺された妻と子が生きて死んだことになにか納得できる意味を見いだしたかっただけなのかも知れない。

亡くなった妻子に「どんな言葉をかけたいか」というマスコミのおなじみの無神経な質問に、彼はそれは言いたくない、「自分だけの言葉にさせて欲しい」と言った。どれだけこの「社会」が残酷にこの青年を搾取して来たか、味方をするフリをしながらどれだけ彼を傷つけて来たか、いかになにも理解して来なかったか、我々こそが反省しなければならないのかも知れない。

弁護側は即刻上告した。恐らく裁判所としても予測の範囲内だろう(だからまだ「死刑」を出せたのかも知れない)。普通の手続きならこの上告をすぐに最高裁が棄却し、死刑が確定する。だが遺族の記者会見を見ていると、最高裁は棄却する以上のなにかをしなければならないと思う。単なる手続き論ではなく、もう一度裁判官たちが自分の人としての心で、この事件と今という時代のなかでその「死刑」がどんな意味を持ちうるのか、遺族自身が「死刑という残酷な判決」と言ったその言葉をただ機械的に繰り返すべきなのかどうかを、まず考えるべきだろう。そして我々の世間も「死刑です!」と興奮なぞしている暇があったら、「死刑」ということの重みをまず考え直さなければならない。我々には人を裁いて死を宣告する資格があるのか? 「被害者感情」を安易に搾取する社会の集団ヒステリーとしての世論におもねるのでなく、人間として我々の社会に本当に「死刑」で持って罪を償わせることが許されているのか、その重荷を背負っていく覚悟が我々にあるのかを、最高裁の判事も我々も考えなければならない。彼らが、そして我々がそこから逃げるなら、殺された若い母親と赤子は、結局は犬死にということにもなってしまいかねない。遺族は「彼がなにを考えているのか “まだ” 分からない」と言った。そして彼が今後書く手紙は「読む」と。

ただ遺族である本村さんには、もうこれ以上、社会が背負うべき重荷まで一身に背負うのはやめてもいいですよ、と伝えられるものなら伝えたい。やるべきことはもう十二分にやったのだから。

これからこの社会を「死刑という残酷な判決を出すような社会」にするためにやらなければいけないこと、この判決の重荷を背負ってまっとうに生きていくためにすべきこととは、誤解を恐れずに言えば、今度は本村さん自身が幸福になることだと思う。もうまなじりを決して戦わなくてもいい。ヒステリックにさえ見えるほど思い詰めた顔でなく、事件が起る前の親子の写真に写っていた微笑みを、もう取り戻してもいい。死後に霊魂が本当に残るのなら、奥さんと娘さんもそれを望んでいるはずだ。あなたは不器用なまでに純粋に、誤解されてまでも彼女たちを愛し続けた。その愛をあなた自身にも、他の誰かにも、向けてもいい。「妻と娘と犯人の三人の命が奪われることになる」社会を、「死刑という残酷な判決」が出ない社会にするときに、役に立つのはそのあなたの愛と、同じ立場にある犯罪被害者の人たちに示したあなたの思いやりなのだから。

4/18/2008

アイデンティティの問題

このブログは表記通り「勝手に愚痴言ってるブログ」で、時間があるときにほとんど反射神経的に、たいして深く考えもせずに書いているせいなのだが、ここのところどうも「靖国」だの「北京五輪」などに関する下らない話が多すぎまして、ちょっと反省。いやまあ現実に起ってることが下らな過ぎるのでしょうがないという言い訳は成り立つのでしょうが、しかし本当はもう少し真面目に考えれば、どっちの問題も「民族のアイデンティティ」とどう向き合うのかについての…というか現代におけるその本質的な問題にちゃんと向き合えないが故に起っていることではある。

非常に見事に向き合って、自身の民族的/文化的アイデンティティを発展させ昇華させているのがダライ・ラマ14世なのだろう。少数民族の抵抗運動に脅威と恐怖から「テロリスト」のレッテルを貼ってそれ以上考えもしない世の中(ヴェトナム戦争はもはや大昔…ベトコンのゲリラは今の中華人民共和国風にいえば「テロ」ってことになるんだろう…)で、実態はまったく植民地主義から抜けきってない世界のなかで脅威と恐怖のパラノイアから本当に少数民族の抵抗を「テロリスト」に追い込んでいる世界の大勢のなかで、チベットが中国人以外にはそうは見られないのは、ひとつには中華人民共和国の単純化されたナショナリズムのプロパガンダがあまりにも内向きで無粋だからなのももちろんなのだが、一方でダライ・ラマ14世のふるまいと、その語ることが単に自民族のことだけでなく普遍的な慈悲・博愛と非暴力平和主義であること、そしてとくに仏教徒でなくても会ったとたんにたいていの人が魅了されてしまう人柄が大きいのは確かだ。チベット文化の最良の部分を体現し、その価値が普遍的であることを指し示す「民族の象徴」がいる点では、チベット民族はとても恵まれているとすら言える。本来なら、どの民族文化だって根底の部分に普遍的な価値があるはずであり、そうでなくてその民族が数世紀に渡って社会を維持出来てきたはずがない。だがなぜかチベット人だけが、その中核にある普遍的な価値を維持しているようにも見える。それは現代中国の漢民族の民族主義の薄っぺらな、もの悲しいまでに20世紀前半の欧米のナショナリズムのコピーでしかない空虚さと、強烈なコントラストを放つ。

世界に跋扈する多くの民族主義は、その部分をまったく見失うことで単純化された「勝ち/負け」レベルの力の誇示、マッチズモに陥っている。それは「金銭」「経済」という悪い意味でとっても普遍的に均質化された価値観(我々はそれをカッコつけてグローバリゼーションと呼ぶ)へのほとんど自動的な反応なのかも知れない。過去に明らかに「勤勉」の美徳を尊び、細かな手仕事と職人的直感から生まれる自由さの追求のなかに類いまれなる洗練されたミニマリズムを発達させて来た我が日本が、勤勉を突き詰めて経済大国になったとたんに、成金趣味の過剰装飾の悪趣味に覆われ、「勤勉」がいつのまにかマニュアルへの服従になってしまったのもしかり。その絶頂期には「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と妙に空威張りしていたのは今いずこ。その凋落と並行していわゆる「右傾化」が進んで来たわけで、「南京大虐殺はでっち上げ」を主張する某元芥川賞作家が、まあ文学的才能が枯渇したのもあるんでしょうが、ああいうことを露骨に言い出す前はソニーの会長と共著で「Noと言える日本」とかを書いていたのだった。もっとも、石原慎太郎の本当の才能はまったく枯渇していないのかも知れない。つまり、「太陽の季節」以来、“時代の空気” を捉えてそれにおもねる直感だけは衰えず、今や希代のオポチュニストである。70過ぎてあそこまで本能的に敏感なのは、それはそれで立派なのかも知れん…。あの歳になればそこに少しは自己省察とかがあってもいいとは思うが。

中国は毛沢東の元で儒教的伝統がガチガチの封建主義になっていた旧弊な社会制度を改革しようとしたのはいいが、性急にぶっ壊そうとした文化大革命が大惨事になり、いつのまにか「社会主義」なぞどこへやら、伝統的価値観の悪いところ(なにかと中央集権体制を夢想したがる想像力に欠如した権威主義と、科挙の伝統の官僚主義の腐敗)だけ残して文化的・倫理的に根無し草となると、民族の誇りと言って拝金主義とマッチョなナショナリズムに頼るしかなくなる。あの悪趣味極まりない「鳥の巣」にエクスタシーを感じ、聖火リレーを露骨な国威発揚と勘違いしてしまう。実際にやってることと言ったら、オリンピックに万博と、大嫌いなはずの日本の真似、それも実にヘタクソな真似じゃんか。まだ東京オリンピックはなんだかんだ言っても円谷選手という実にニッポン的にうるわしくも複雑さに満ちた国民的悲劇神話と、天才・丹下の恐ろしく美しい体育館と、市川崑の傑作映画を遺して日本人の文化を継続させ、70年万博で日本人は「こんにちは、こんにちは、世界の国から♪」と歌っていたし、ソウル・オリンピックで韓国政府がソウルの表通りから犬料理店を駆逐したのはちょっとやり過ぎだったが、そうしたちょっとやせ我慢まで含めた「世界に自分の国を見せる」「世界に興味を持つ」努力(それは客人を歓待するという中国も含めた東アジア的伝統でもある)と較べて、国際的大イヴェントを控えた中国の今の内向きさ加減、外の世界に対してまったく盲目なのはなんなのだろう? 漢民族の「国民性」なのか、共産主義の破綻の後遺症なのか、それとももっと広汎に、21世紀の人類の問題なのか?

日本で起きたのとは比べ物にならない暴力的なスピードと乱暴なやり方で、自らを振り返る余裕もなく進行する「近代化」。戦後の日本はまだ高度成長からバブルまでに2,30年はかけている。中国はオリンピックをやる前からすでにどう見てもバブルだし、オリンピックが終わることにはバブルははじけるのかも知れない。日本は70〜80年代には幻想とは言ってもそこそこに実態はあった「一億中流」があった。中国は社会主義の掲げる平等など一度も形式的にさえ実現できないまま、実はかつての階級制が猛烈な格差社会へとそのまま以降してしまっている感さえある。だいたい毛先生も、その師匠マルクス御大もとっくに看破していたはずだ−−市場主義の経済至上主義はそのまま放置すれば破綻する。巨大な傲慢さでそれを制御できると必死で思い込み、拝金主義とうわべだけの「近代化」に奔走し、世界最大の民族だとうぬぼれながら、その裏で漢民族アイデンティティそのものがバラバラに崩れ落ちている。同じ漢民族マジョリティの台湾の世論は今や「独立」を表立って標榜しようとすらしないで自然に「台湾人」になってしまっている。国内の地域格差はそのまま事実上の階級格差で、一方で共産党下部組織の官僚的特権は変わらない。

お金と権力以外の目標も指標も失って空虚さを抱えたその現実から逃げようとオリンピックに象徴されるナショナリズムの幻想に恍惚となることが…ってのは彼らの問題なのだから彼ら自身が考えればいいことなのだが、その発露はいささかハタ迷惑で、そして見ていて滑稽であることに彼ら自身が気がついていない。いや、どこかで気がついているからこそ、よりヒステリックにサドマゾヒスティックな恍惚に没入していくのかも知れないが。自国の特殊警察にオリンピックの聖火を他国で警護させ、それも見るからに専制的にテレビで見ても分かるように取り囲んで、いったいなにを勘違いしているのか? 彼らはどうせこう言うだろう−−「チベット独立分子がすべて悪い」と。つまりなにもかも“他人のせい”。かつて彼らが批判したはずのアメリカ帝国主義とまったく同じパターンを、アメリカ人以上に下品で野蛮でカッコ悪くやっている。

民族的アイデンティティの保持というのは一般に保守主義に分類されることであり、っちゅうか旧来の伝統のconserve なんだから conservatism 本流そのものなんだろうが、現代の世界でマッチョ的、男権的というかフロイト的に言えばずばり男根主義な保守主義としての「民族的アイデンティティ」は根本的な矛盾を孕んでいる。挙げ句の果てに共産主義を目指してたはずの革命中国がもっともその矛盾のどツボに嵌っているのだが、グローバリズムの世界の偽りの相対化のなかで、個々の価値の相対性を認めることは逆にその価値判断に触れないということなかれに陥り、結局頼れる価値観はしごく単純化された経済的指標とか軍事力とかの「強弱」になり、男根主義的な民族主義は自国が「強い国」「大国」で「無謬」…というよりは批判されることにもの凄く神経質になる。そこでは個々の民族が本来歴史のなかで育んで来た価値観なり倫理観のデリケートな部分はまったく消え去り、どこの国の保守的ナショナリストも結局まったく金太郎飴状態、たとえば日本の「南京大虐殺はねつ造」派と彼らの天敵の中華ナショナリストたちは、行動パターンなどあまりにも似過ぎていて、民族の固有性もへったくれもないし、アメリカの宗教右派の人々とも非常によく似ている。

そんな世界のなかで、なぜチベットが異民族支配と抑圧と離散のなかでチベット民族の文化をああも美しく維持できるのだろう? ダライ・ラマがなぜああいう人物になり、チベットを離れることでチベット文化を守るという離れ業を思いつき、実践できているのか? 誤解を恐れずに言えば、もしチベットが20世紀のなかで普通の発展途上国として継続していれば、こうはならなかっただろう。中国に占領されて民族文化をかなり強引なやり方で抑圧されたからこそ、彼らにとって「近代化」はあまりありがたいものに見えなかったのではないか?

「私たちは、たとえ間接的にでも暴力と受け取られかねないいかなる行為をもすべきではないのです。たとえ耐え切れない怒りに駆られているとしても、私たちが育んできた深く尊い価値を傷つけるようなことをしてはならないのです。私たちは非暴力の道を成就できる、と私は固く信じています。私たちは賢明であらねばなりません。これほどに先例のない愛情と支援を世界中からいただける理由はどこにあるのか、理解していなければなりません。」

ダライ・ラマ14世、2008年4月6日、「チベット人のみなさんに向けて」の声明


その「深く尊い価値」、非暴力、平和の希求、思いやりというのは、果たしてチベットだけのものなのだろうか? そんなはずはないし、だいたいダライ・ラマ14世自身が、本来それが人間として当然のことであるはずだと言い続けている。だがいわゆる保守伝統主義のほとんどは「愛国心」を煽りながら、それぞれの文化が本来持っているはずの智慧や道徳や美意識を真っ先に捨て去る。映画『靖国』で実はもっとも感情的な反発を潜在的に引き起こしている部分は、本当は南京大虐殺の写真でもなんでもなく、コスプレ参拝者のおよそ日本的美意識などとは無関係な滑稽さではないかと思う。見たくない自分たちの姿を撮られてしまったみたいな…

ダライ・ラマは実体ある国家組織を運営する日常生活的な政治の凡庸な現実と切り離され、理念をめぐる過酷な政治的現実に晒されて来たからこそ、直接「近代化」に晒される(それはもう、現代の世界において止めようがない)民族の国土を持たなかったからこそ、チベットの文化はチベット人のなかに残ったように思えてならない。ダライ・ラマはチベットという国土を離れることでしかチベットの文化を守れなかったから亡命しエグザイルの立場に身を置いたのだが、エグザイルの身になったからこそ、彼はダライ・ラマであり続けられたのかも知れない。同じような立場で思い浮かぶのはローマ教皇は、ヨハネ=パウロ2世までは辛うじて尊敬を集め得たものの、現ベネディクト14世の俗っぽさは「宗教的官僚」と揶揄され、ホンネが出たのか(?)的な差別発言は本名のラツィンガーをもじって「ナチンガー」と母国ドイツで言われているほどだ。

チベット民族にしても気になる現実もある−−たとえばニューデリーでの聖火リレーに呼応してデモを行ったのは、主にチベット青年同盟のメンバーだったようだ。そのデモのやり方は非常に、なんというか、普通の派手な、っちゅうかバタ臭いデモであり、チベットが宗教国家だったが故の非暴力主義や精神性などほとんど感じられない。サンフランシスコでのチベット側のデモ隊と中国系のデモ隊の衝突は、とてもアメリカっぽい風景だった。現実問題として、ダライ・ラマは抗議する自由は誰にでもあると表明しつつ繰り返し暴力的行動は慎むように呼びかけているが、あまり効果は発していない。亡命チベット人もまた明らかに変化し、「近代化」している−−チベットの文化が指し示し得た、あるいはダライ・ラマが説こうとし続けているオルタネイティヴな方向性とは異なった、世界中どこの発展途上国、あるいは先進国に住む発展途上国出身移民の欲求不満と変わらないような…。今のダライ・ラマがいずれ亡くなるか、影響力を失っていけば、チベットの運動が暴力的独立闘争に変貌する危険は十分にある。元々寛容の精神が非常に賞揚されていたはずのイスラムが今では一部の人間からどう解釈されているか、やはり徹底した非暴力主義であるはずキリスト教はなにをやっているか。チベット仏教だけがそうした変化から逃れられるという保証はどこにもない。逆に言えば今の争乱状況が、物事をなんとか平和的に納める最後のチャンスなのかも知れない。今のダライ・ラマがいなくなれば、精神的支柱を失ったチベット民族主義が凡百の暴力も辞さない独立運動に変貌することはないだろうか? そうなったら中国にとっても取り返しのつかない事態になるだろう。

4/16/2008

低レベルな話…

まさかとは思っていたが、いやはや…。

数日前にアノ『週刊新潮』の中吊りで「中国を批判できない朝日の『チベット報道』」、「なぜ『南京大虐殺』の熱意で『チベット大虐殺』を書かないのか」と出ていた。なら自分でも熱心に南京における日本軍の非人道的行為も糾弾して頂きたいものではあるが、朝日新聞とテレビ朝日がなさけないほどに、ことなかれが信条のNHK以上にチベット報道について及び腰なのは確かだ。テレ朝の報道番組で中国を真っ向から批判するのは、社員でないキャスターの『報道ステーション』古館伊知郎ぐらいなもので、それですらパートナーの朝日新聞の解説委員は、元北京支局出身だったりすることもあるのだろうが、非常に及び腰を通り越して故錦擣の立場を説明するのがほとんど擁護になっている。

まあしかし『週刊新潮』も『週刊新潮』。北京政府側はチベットにおける弾圧を否定し、民衆蜂起を「ダライ集団の陰謀に扇動されたごく一部」と言い続け、当初は当局側の発砲の事実さえ否定し続けていたが、『週刊新潮』などが「ねつ造」と主張する南京大虐殺は、日本陸軍の公式記録では「便衣隊を処刑」とある。「便衣隊」とは軍人が民間人に変装してスパイ/ゲリラ行為を行うことで、国際法上は民間人扱いには当然ならず、軍人であることを不当に隠しているため捕虜の保護の対象にもならず、処刑しても人道的・国際法的に問題にはならないとされている。

といって、これほど好都合のいい言いわけもなく、要するに平服の民間人を捕まえて「便衣隊」と決めつければ、いくら殺してもいいことになるわけで…。何万人も「便衣隊」がいること自体、不自然極まりないし、じゃあ便衣隊であることを証明する取り調べなどはあったのか、っちゅうわけで、「南京大虐殺」に多少の誇張や、不明の部分があるのは確かであるものの(だいたいそういう混乱状態のなかで「全容」が本当に把握できるわけもなく)、「ねつ造」を主張する人々の根拠はこの程度のものでしかない。「便衣隊を処刑」というのは、要するに「民間人を殺してしまいました」というときの体のいいいいわけに過ぎないことぐらい、誰にだってわかる。

同様に、民衆蜂起を「ダライ集団の陰謀」による「ごく一部の独立派」といくら主張したって信じるのは『週刊新潮』や稲田朋美レベルに自分たちの過ちについて盲目な自称 “愛国者” に過ぎないのだが、それだけでなくいわゆる中国側の主張が日本のいわゆる “右派” の皆さんの、たとえば「日本は朝鮮半島や満州にいいこともした」と言いたがるのとまったく同じ論理展開なので空恐ろしくなる。朝日と同様に「チャンネル桜」方面からは「反日メディア」と言われている毎日/TBS系だと、TBSのお昼のワイドショー「ピンポン」では、もう毎日チベット問題とオリンピック聖火騒動を取り上げ、2006年の来日時にダライ・ラマに取材して以来すっかり人間的に惚れ込んでしまった元NHK「週刊こどもニュース」池上サン(NHKなのにアメリカが強引にイラク侵攻しようとして国連でやったことについて、こどもたちに「ずるーい」と言わせてしまった人)がしばしばコメンテーターを務めたりしているのだが、今日はスタジオ生激論。チベット側は元ダライ・ラマ法王駐日代表部のペマ・ギャルホ氏、中国側が日中環境協会というNPO の理事長の宋青宜という女性。

しかしペマさんもその理由は分からなくもないながら、一時はウヨクな人々にあまりに近づき過ぎたり、ちょっとうさんくさいところがなきにしもあらず(モンブランのペンを持ってたりするせいで、偏見です、たぶん)、上品で知的な風情でいてその実政治的なウラの動きに長けた食えない人の匂いがプンプンする人ではあり、論敵としては相当に手強いのだろうが、それにしても中国側の代表でこうもうさんくさくて頭の悪い政府プロパガンダ垂れ流し女を連れてくるのも、こうなるとディレクター側の悪意かしらんと邪推したくなる。調べてみると島村宜伸元農林水産大臣(稲田朋美あたりを操ってるらしい楽しいタヌキ親父)が会長だったり、どうも日中両国の政権側の息がかかった「日中友好政策」の御用組織っぽいのだが、せめて多少は知性があり、政府の代弁でなく自分の意見(に聞こえること、というのでもとりあえずいいから)をきちんと言える人を出さないと、あかんでしょう。NPOつまり民間人が政府発表そのまんまのことを言っている時点で、中国においていかに政治的抑圧が強く自由がないかが印象づけられてしまっても文句は言えない。最低限、まともに日本語が出来ないと、日本語が極めて流暢なペマさんに太刀打ちできるわけがない。墓穴掘ってるようなもんじゃない。

それにしても宋青宜女史の主張と来たら目もあてられない。チベットでは中国支配下に入ってから平均寿命が伸びたとかうんたらかんたら、あっけなく「それは世界じゅうで伸びているでしょう」でおしまい。極度な貧困国を除けば、医療の進歩で過去半世紀において人間の寿命そのものが伸びているのだから。「昔のチベットには農奴がいた」って、そりゃ中国だって革命前は同じどころかもっといっぱいいたし、今だって現状は、市場経済を導入した結果農村から流出した労働者の酷使のされ方と言ったら国際的な人権団体からずいぶん批判されているし、農村における環境破壊は深刻だし、地主から解放された代わりに共産党末端組織にがんじがらめにされるんじゃ大差ないわな。それにペマさん曰く「そもそもチベット人は大半が遊牧民ですから」。「解放」以前の教育水準を批判して識字率が2%って、そこまではさすがにペマさんたちは言わなかったが、それって「中国語ができる」パーセンテージじゃなかったっけ?(そういうデータしか中国政府は出してない!) チベット語が出来る識字率でしたら、一家で最低でも一人は僧侶にする習わしから、中国よりもずっと識字率そのものは高かったはずだ(約3割と推計され、当時のアジアでは江戸時代末期で8割を超え、終戦時には90%以上だった我が日本国を除けば、かなり高い水準)。お経も読めなきゃ坊さんはつとまりませんから。

…と言うか、その言ってること自体の事実性の問題以前に、根本的な疑問−−中国政府がそんなにすばらしい政治をチベットでやっているのなら、なぜチベットで民衆蜂起が起きるのだろう? なぜ今も多くのチベット人がわざわざヒマラヤ山脈を越えてインドに亡命するのだろう? 現に不満があるときに、「寿命が延びた、教育も充実した、経済発展もした」といくら「中国はいいことをした」と言ったところで、なんの説得力もない。それは日本の右派の皆さんが朝鮮半島支配について「鉄道も造った」云々を言い張ったところで説得力ゼロなのと同様。バカな英国人あたりがしばしば口にして大顰蹙を買う類いの、植民地主義の論理でしかない。っていうか、今や北京政府の言うことって、毛沢東が徹底的にその非人間性を否定したはずの帝国主義の論理そのものだ。

だいたい「環境協会」理事長が、チベットの地下資源開発に伴う危険性が高い環境破壊の問題をスルーするんじゃどうしようもありません。もっともペマさんもかなり過激な発言がひとつあり、「漢民族が増えること自体がチベットにとっては環境破壊になる」…って、そりゃそうなんだけど(現在の漢民族の生活様式自体が環境破壊的)そこまで決めつけると誤解されかねません。もっとも、チベットの文化が単なる人権問題を超えて注目を集めているのは、まさにいわゆる「近代化」につきまとう環境破壊的な考え方のオルタネイティヴを提示しているからでもあり、その意味で漢民族を大々的に移民させての「経済発展」は、確かに環境破壊にほとんどダイレクトに結びつく。中国本土の環境破壊は、そりゃヒドいもんだし、二酸化炭素排出の割当にしても、そりゃ排出しまくって経済発展を遂げてしまった先進国が言うのも勝手とはいえ、中国政府もあまりにも自己中心的すぎる。いや地球全体のことを考えるべきだという以前に、この調子でやっていると中国自体の環境が破壊されかねない。あまりにも後先を考えなさ過ぎだ。いわゆる「先進国」がいろいろ犯した過ちを、そのまま踏襲する必要もないだろうに。

「もっと勉強して下さい」とばかり繰り返すのはいいけど、今さらそれ以前のチベットの政治体制の批判をしたところで、ダライ・ラマ14世本人の意向で祭政分離の方針が亡命政府で一貫して進められていること等々、「あなたこそもう少し勉強しなさい」と言われかねないていたらく。ペマさんにはあっさりと、亡命政府が選挙ベースの民主制で、チベット人なら誰でも投票権があること(ペマさん自身が投票していること)をアピールされてしまっていた。それにしてもなんでこんな人が中華民族代表で出て来たのだろう?

あげくの果てに「自分たちの代表を自分で選ぶのが現代の世界における自由」と指摘されても、「中国は13億人もいて、中国独自の進歩の仕方があるのだから、押し付けるな」だそうです。「つま中国13億人の民はバカだから自分たちの代表を責任もって選ぶ能力がないとお考えなのですか?」と突っ込まれても文句は言えないような情けない論法を、半分以上意味不明の日本語でダラダラと繰り返すのみ。いったいこの人、なにを考えてテレビに出たのだろう?

TBSが別個に取材していた、中華料理店の店員さんも、ほとんど自爆テロに近い論法。ネットで中国の報道をちゃんとチェックなさってるそうですが、中国の公的なメディアの報道はすべて政府の統制が入っているのは世界の常識。かなり改善はされて来ているものの、反政府活動家が外国メディアの取材を受けたら「国家の安全を脅かした罪」で有罪判決が出てしまうような法制度(で、その法律だって国民が選んだ議会で決めてるわけでなし。もっとも我がニッポン国だってこれまで官僚が作った法律をほぼ自動的に与党が通してしまうのが常ですが)が未だにある国で、ことチベット問題では先月の暴動だって報道官制の敷き方が猛批判をくらったばかりだ。当然中国メディアでは「チベットに自由はある」と報道されている−−漢民族で占められた共産党支部に従う自由は(名目上、自治政府職員にはチベット人が雇われるようになっているものの、共産党支部の「指導」には全面的に従うしかない)。宋青宜女史は自らも仏教徒だというが、憲法上は「信教の自由」は書かれているものの、中国政府がパンチェン・ラマを「指名」し、次のダライ・ラマの指名権まで政府にあると法律を作り、現ダライ・ラマの写真を寺院に置くことすら規制する「自由」というのも、たいした信教の「自由」です…って知らないのだろうが。

あげくの果てにこの中華料理店の店員さんは「チベットは中国の一部」で「チベット語は中国語の方言」って、あのぉ…。言語学的にまったく異なったルーツを持つ言語であり、交流は歴史的に密接なものの、異民族です。それにダラムサラの亡命政権とダライ・ラマの公式な立場は、あくまで中華人民共和国内でのちゃんとした自治というだけで、政治体制的、軍事的、外交的に中国の傘下に入ることをむしろ希望している。中国にいるのならともかく日本ならネットではフィルタリングのアクセス規制がかかっている中国国内と違って、どこの国のニュース・メディアでも読むことができる。それに外国に暮らしているのだし、自民族というアイデンティティと現政府を無思慮に同一化しないでもいいはずなのだが。4千年だか1万年だかの歴史のなかで、中華人民共和国は半世紀の歴史と伝統しかありません。

だいたい、現政権やその盲目的支援勢力が中華帝国に批判的(共産主義なんだから当然だが)なわりには、チベットが清朝の実質的保護国だった(…のは、皇帝がチベット仏教徒だったからであって、いわゆる属国とは扱いが違う)ことや、ダライ・ラマがチベットで政治的実権を握ったのはモンゴル皇帝の支援を受けて(こちらもチベット仏教徒…)という史実を持ち出すのも、いささか支離滅裂だ。あなたがた漢民族の「One China」に執着すればするほど、巨大国家としての中国は存続しようがなくなる。だいたい元朝はモンゴル人、清朝は満州人王朝、そうそう、あなたがた漢民族はねぇ、異民族の皇帝に占領されてたんですよん♪ お国の国父である孫文は、異民族支配を打破する漢民族の民族主義を三民主義のひとつに位置づけてたんでしょうに。

それに「チベット語は中国語の方言」って、そりゃ無知を曝け出し過ぎ。だいたい文字ですらまったく共有していない。この調子だと文字まで共有している日本語や朝鮮語まで(言語学的にはやはりまったく別系統だが)「中国語の方言」にされそう…。「中国の一部」って、この際だから「中国はモンゴルの一部です」とか、「中国は満州の一部です」とでも言ってあげようか。彼らの理屈だと歴史的にはそういうことになるし、いっそ青海省と四川省も甘粛省もチベットです、となる(単なるいやがらせですが)。元朝や清朝を持ち出すのなら、ギリシャかマケドニア辺りがプトレマイオス朝を持ち出してエジプトの領有権を主張したりして(笑)。今さら「大中華帝国」の時代でもあるまい。チベットだけでなくモンゴル人もウスベク人等など、少数民族の権利を認めたゆるやかな連邦制に以降しなければ、もたなくなるだろうに。もう普遍的原理としての社会主義の理想もとっくの昔に破棄しているんだから、各民族の独自性を認めない正当性がない。

「中国とダライ・ラマの対話」はどちらの中国人も賛成だそうだが、条件は「ダライ・ラマが独立を取り下げれば」って…。もう30年以上「独立でなく高度な自治」をおおっぴらに主張していますし、日本でもさすがに大きく報道された先日の記者会見でも、繰り返し言っていました。中国外務省の報道官は「言っていることとやっていることが違うから信用できない」とか言うだけで、先月の民衆蜂起をダラムサラの亡命政府なりダライ・ラマなりが「扇動」した証拠などまるで出せていない。それは部外者から見れば、「無根拠な言いがかり」にしか見えません。それか単なるパラノイア。

単純にナショナリズムな人々ってのは、本当に困ったもんだ。チベット支援の抗議運動に対抗して海外でデモやっている中国系住民の大半は、要するにチベットが独立すれば中国の版図が狭まるから、中華民族が支配する地域が狭くなるから文句を言っているに過ぎない。それは民族アイデンティとかの意識においてバカ単純すぎて危険なほどだし、少数民族を支配する漢民族の一員であるということに誇りを感じる「愛国心」ってのに到っては、自分たちが海外に移民してマイノリティの立場にあるコンプレックスの裏返しにしてもあまりにも幼稚だ。チベットを離れることによってチベットの文化と民族的アイデンティティを維持しようとしたダライ・ラマの方がよほど知的に洗練されて教養と精神性を感じさせるし、「民族文化」と「民族的アイデンティティ」についてのより高度で普遍的なことを考えさせる。

中国ではネット上でフランスのスーパーのチェーン「カルフール」の不買運動の呼びかけが広がってるそうだ。こうなると彼らの無根拠な愛国的熱意にはバカバカしくてつき合ってらんないよ、というのが正直な感想。一方でパリの聖火リレーで「身を挺して聖火を守った」車椅子フェンシングの女性選手がメディアで英雄に祭り上げられてるんだそうだが、こうなると盲目さも極まれり。実際のその場面の映像では、特殊警察部隊である聖火警護隊がとっとと彼女を静止し、なにが起っているのか分からずあっけにとられた彼女の持つトーチをテキパキと消火し、バスに避難するように言い、状況が理解できない彼女を放置して自分たちは勝手にトーチを持ってバスに向かう。これじゃ彼女から聖火を「奪った」のは聖火警護隊ぢゃん。彼女は騒ぎが起った方向とは逆方向にとっさに聖火を動かしただけ(誰だってそうするでしょ、反射神経が機能していれば)で、あとはなにが起っているのかも分からないままに聖火警護隊のなすがままに…つまり中国当局が聖火を消しただけ(しかも彼女は放置)。新華社や中央電視台がまさに「ねつ造」したヒロインに過ぎないのだが、そのねつ造の根拠であるはずの映像がぜんぜんそんな英雄的行動なぞ伝えていないときに、なんで騙されるんだろう? 普通、あの映像を見たら聖火警護隊への批判が高まっておかしくないのだけれど…。

本当に中国全体がそんなに愛国心で燃え上がっているとは、もちろん信じ難い。だいたいネット掲示板というのはたいがい、残念ながらそういうメディアに過ぎないわけで、それは日本の2ちゃん系右翼や、中国の「カルフール不買運動」に限った話ではない。英語の掲示板でブッシュの批判をすれば、アメリカのNERDSな「愛国者」が支離滅裂なことで「炎上」する。それはブッシュの不人気が明白になった現在ですらそうだ。

だがそれにしてもいわゆる「中国側」の動きは不可解だ。お国がかりで自国がファナティックなファシストの集団であるかのように喧伝するのが愚かなことだと、なぜ気がつかないのだろう? 他人から見て自分たちがどう見えるのか、ということにまったく考えが及ばないのだろうか? 日本ではまだ映画『靖国』を潰そうとしているのはごく少数の、はっきり言えば “おかしな” 人たちでしかない。政府高官だって少なくとも建前上は、実質上の事前検閲になった国会議員試写騒動などに批判的だ。もっとも、福田さんは自民党総裁なんだから、その愚かなことをやったのが自分の党の議員であることにもう少し責任を感じてもらいたいけれど…。まして映画祭とは比べ物にならないメジャーなイヴェントのオリンピックだ。もう少し世界の注目を浴びていることを考えて行動するのが、あれだけの大国を統治するのに必要な賢さだと思うが。

なんだかこうなると、中国全体が第二次大戦に向かう時代の日本にそっくりに思えて来る。そういえば1964年にやっと開催された東京オリンピックは、当初は1940年に行われるはずだったんだよね。ニッポン帝国主義を激しく批判するのなら、同じ過ちを自分たちで繰り返すのはやめて欲しい。

宋青宜女史のような人を見ていると、あれは日本のテレビで日本人に向けてアピールしているのではなく、「中国側の主張をアピールする私」を日本に住む中国人や、それこそ大使館とか北京の政府にアピールしているように見えて来る。というか、彼女の出演にはまったくもって、それ以上の効果はないだろう。オツムの程度の低さはまさに稲田朋美並みと言いたくなるが、ちょっと怖くなってくるのは、くだんの中華料理店の店員さんにしても、ああ言わなければ、自らの愚かさを曝け出さなければ、中国人社会のなかでの自分らの立場に危険が及ぶから、とも想像できてしまうことだ。大国のくせに世界のなかでの自分たちの見え方をまったく考えられないというのは、アメリカ並み?

(ちなみにタイトルをクリックすると、あまりにアホらしくて言葉を失うページにジャンプします。お楽しみ下さい。もっとも、「こうしなければいけない彼ら」を考えると、あまり笑っていられなくなるのだが。「進め一億火の玉だ」だけでも十分に物騒だが、「進め12億火の玉だ!」ってのは、そりゃもう…)

…しっかし、低レベルな話を延々と書き連ねてしまったが、さしあたりの結論は、島村元農水大臣(かつ島村元現陛下のご学友)は、宋青宜女史とか稲田朋美代議士とか、ホント女の趣味が悪過ぎませんか?

4/10/2008

これは悪質な冗談か?

「映画人九条の会」が声明を出した旨、案内のメールが来た。まずはその引用(声明文はタイトルをクリックして下さい)。

    映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題が社会問題になっ
   ていますが、3月27日、自民党の有村治子参議院議員は、
   参院内閣委員会で映画「靖国」問題を取り上げ、専門委員
  (審査員)の思想・信条にまで立ち入り、一委員が「映画人
   九条の会」のメンバーであることを問題にしました。
    有村議員は、「映画人九条の会」を特定の政治的イデオ
   ロギーに立つ活動であると断じ、「映画人九条の会のメン
   バーであることを知らないで選んだのか」「(その委員の)
   政治的、思想的活動が当該映画の助成金交付決定に影響を
   与えたのではないかという疑念を払拭せよ」などと執拗に
   文化庁に迫ったのです。

なんだそりゃ? 

えーと、まず「日本国憲法を守りましょう」というだけで集まっている任意団体が「特定の政治的イデオロギー」なんでしょうか? 憲法を守ろう、ということを問題視することの方がよっぽど「特定の」…っちゅうか奇妙なイデオロギーですし、特別公務員の憲法遵守義務に違反してませんか? こんな言いがかりをやってちゃ、「本物の自治」を求めてるだけのダライ・ラマを「分離主義」「偽りと欺き」と無根拠に罵ってる北京外務省を笑えませんよ。我が国の誇るべき憲法を守ろうと言ったらいけないなんて、それこそ「反日」じゃんか。

それ以前に、もっと原則論の問題として、文化政策の専門委員といえば文化政策の援助金でなんら客観的な基準などあるわけもなく、複数の審査員それぞれの専門知識と美的センスの個人の判断の総意として助成金を出すかどうかが決定されるシステムでしょうに。そもそも美的・ないし芸術的判断が政治的な思想信条と切り離され得るものだとか、自身の政治的思考もない人間に現代に作られる作品についての判断ができると考える時点で、無知と教養のなさ丸出しではないか。ノンポリを決め込むこと自体、それもまた政治的スタンスである。

先日もちょっと本ブログで問題にしたが、その委員の判断力つまり能力ではなく「思想」のレッテル貼りで人選をするのなら、その時点で文化政策なんてプロパガンダにしかならない。政治家、それも与党の議員がそういうことを国会で問題する時点で、この国には表現の自由なんてありませんよ、と天下に曝け出しているようなものである。しかしそれにしても、自民党の女性議員って、なんでこうも恥知らずで非常識な人ばかりなんでしょう? ピンクの服来た勘違いおばさんとか元ミス東大がここまでブスになるかと呆れるバブリー・ファッション女とか、大臣になったら勘違いのど派手で安物のポリエステル製イヴニングドレスで就任式に出ちゃう教授夫人とか、「銀座のホステスかお前は」(といったらホステスさんに失礼だが)みたいな媚売りメイクの上にそのメイクにセンスのかけらもない、狸顔を無理矢理ダイエットさせたみたいなおねえちゃんとか、元アナウンサーのくせに日本語が不自由なバービー人形の出来損ないとか、揃いに揃ってオジさんに媚を売るしか能がない珍獣ショーか出来損ないの場末芸者の溜まり場にしか見えません。まともに知性とセンス、いくばくかの信念がありそうな女性といったら、ついこないだまで件のいんちきホステスのライバルという立場になってた野田聖子くらいしか思いつきませんがな。いんちきホステスまがいが元幹事長の武部あたりと並んだ画なんぞ、いまにも「パパ〜」としなだれかかり、鼻の下伸ばした武部が「ガハハハハ」と笑い出しそうで、なまなまし過ぎて目もあてられない。それでも国会議員、「選良」かよ? とてもじゃないけど品性がなさ過ぎるし、だいたい今時女性が男に媚びるか、客寄せパンダか、男の手先の使いっ走りしかできない、ってのはあまりにも、あまりにも…。

有村治子議員は『靖国』に出演している刀鍛冶の老人にも “問い合わせた” らしく、圧力を感じてしまったらしいご老人と家族が、「刀鍛冶の技術を撮らせて欲しいというから応じた。約束が違うから削除して欲しい」と言い始めてしまった。ちなみに表現と言論の自由を守るための法的な慣例、かつ法理論的にも正当な考え方として、実際にキャメラが廻っていることをその人が認識し、従って自由意志で撮影に応じていることが明らかな状態でなされた行動や言動に関しては、当人が撮られていることを承知しているのだから、後で見せて了承を得ることなどの約束を事前にしていない限り、削除などを要求する法的根拠はない(まして国会で問題にすることは、それ自体が稚拙すぎる)。とは言っても、こういうことが起ると本当にドキュメンタリー製作においてもっとも重要な対象との信頼関係がいよいよ作りにくくなる。そもそもは法的な問題などそこに持ち込んでは成り立たない関係性、信頼の問題なのだから。相手が権威・権力のある公人ならともかく、「これが映画になることであなたを裏切るようなことはいたしません」という信頼があって初めて映画に使えるインタビューなんて撮れるのだし、それをぶちこわしてくれるのは本当に迷惑だし、あんたら日本の文化をそこまでぶっ壊したいのかとあきれ果てるばかりだ。刀鍛冶の老人とその家族も本当に迷惑していることだろう。よくもまあ、国会議員の職権を濫用して、ここまで恥知らずでハタ迷惑なことをやりますね。お年寄りを針の筵に追い込んでなにが楽しいんだろう?

癒着を防ぐ必要は、とくに狭い世界のわりには派閥抗争の多い日本の映画界では確かにあるものの、芸術文化振興基金の審査員の氏名を非公表、守秘義務をかけている(らしい)のは、こういう時には本当に困る。そこで国会で問題にされた委員は、名前を公表していない以上、反論のしようがない。ほとんど欠席裁判みたいなものではないか。で、こういうところにも日本の官僚的メンタリティに浸食された社会制度の問題が浮き彫りになる。そもそも個々人の専門委員のそれぞれの個人としての判断を議論しあって決定することなのが、その判断を担っている個々人の責任がまったく無視されて、なぜそこに公金が助成されるのかの正当性と裏付けがまったく不透明になってしまう。本来ならその企画を選んだ委員たちが、「自分たちはこの企画がかくかくしかじかこういう理由で優れた企画になると信じたので助成を決めた」と、堂々と擁護すべきことなのに。

文化庁の出したコメントもかなりおかしい。「特定の政治団体や宗教団体の宣伝」云々にあてはまらないから問題がないって、だって応募された企画のすべてにそんな問題があるわけがない。そうでなくて「なぜ選んだのか」を堂々と主張しないで、文化も芸術表現もへったくれもないでしょうに。映画でもなんでも、表現行為というのは個人の表現であると同時に、それを受け取る側にとっても本質的に個人的な体験であるはずだ。なにかを「良い」と判断し、その意見を公にする時点で、その判断した主体もまた問われるのが筋であり、『シンドラーのリスト』を素晴らしいと表明すれば「ダッセー、あんな人工的な作り事のお涙ちょうだいの偽善に騙されて」と思われてもしかたがないのであって、そうではなく『ショアーSHOAH』を擁護しなければそれはみっともないことであり、『ショアーSHOAH』よりも『ソビボール1943年10月14日16時』がはるかに優れていることを表明すべきであり、あるいはマルセル・オフュルスの『憐れみと哀しみ』と『終着駅ホテル』をこそ評価しなければ「あいつはホロコーストも映画も分かっていない」とこき下ろされても文句が言えない(反論してもいいけど、『シンドラーのリスト』だったら恥の上塗りでしょう。『ミュンヘン』を持ち出さなければ映画も分からず政治的にも稚拙すぎると言われてもしょうがない)。そういうことが言えない社会というのは、要するに不自由な社会に他ならず、んでもって文化政策に言論と表現の不自由がつきまとうなら、それは文化の自殺行為だ。

まさか助成金の選考で落とした企画と比較しろ、と言っているのではないので誤解のなきよう。そうではなく、なぜその企画を擁護したのか(なぜ「落とさなかったのか」ではなく)をきちんと主張できない状況で専門委員の審査員に助成金の出す先を決めろというのは、そりゃ無責任になること、反論もなにもできない欠席裁判に追い込んで、権力に文化を屈服させることにしかならないと言っているのだ。自民党のバカ議員さんは、専門委員が非公開で守秘義務をかぶらされている立場だと知っていてあんな国会質問をしたのだろうか? まあ頭が悪過ぎてかつ倫理観も責任感もゼロだから、知っていてそもれがおかしなことだとも考えもせずにああいう卑劣なことをやったのかも知れないが、こういう不自由から文化政策を守るためには、専門委員を公開にするなり、少なくともそれなりの知的レベルの高い文化人が文化庁なり文化振興基金のトップ/総責任者になって、国会に出向いて稲田朋美とか有村治子とかがいかにバカで非常識で文化政策なぞなにも分かっていないことを論破し、連中がヒステリーでも起こせばしめたもの、国会議員なぞやらしておくべき責任感のある人間ではおよそないことを天下に曝け出してやった方がよっぽど健康だ。それで専門委員なり責任者の優秀さが示されれば、彼らが公金で行われる文化助成に責任を追うだけ優秀な人間であることもきちんと証明され、公金で文化芸術の創造に援助することの正当性も担保されるというものだ。結果として現制度は責任の主体/判断の主がどこにあるのかが不明瞭過ぎて、お上のお情けにすがる隙間産業のもの悲しさすら漂って、自分たちを護れないようになってしまっている。

日本の文化はほとんどの場合、反骨の反権力が作り、革新して来たんですがね…。それはもう、歴史的に。

緊急記者会見で田原総一朗氏が「偏向でもなんでもない」とか「反日でもなんでもない」って言っていたが、それもヘンだよなぁ。かつて『愛のコリーダ』裁判で大島渚が「猥褻なにが悪い」と堂々と言い放ったことが思い起こされる。なんというか、向こうのペースにのせられてそれに応じているだけってのも、喧嘩のやり方が下手すぎるようにも思う。「反日」かどうかは、南京大虐殺の写真があるだけで反日だという輩もいるくらいだし、稲田代議士は「靖国神社が戦死したら神様になるからと、天皇のために死ねと言う装置」であるという「メッセージ」を感じたのだそうだ−−ってそれって,靖国神社の教義そのものでしょうが(笑)。国の文化政策の支援に値するだけの映画として問題があるとしたら、もし本当に映画『靖国』がその程度の誰でも知ってる薄っぺらさに留まっているだけだとしたら、そのクオリティの低さのはず。なんら新しいことを我々の世界や社会や人生に新しい視野を広げることがないとしたら、そりゃ公金を投じる正当性がないんだろうが…。

靖国神社の「英霊」にせよ特攻隊の「神風」にせよ、本来なら誰でも思い浮かべるであろう疑問は、「本当にそんな明らかなご都合主義の迷信を信じられたのか?」「信じていたとしたら、それはなぜなのか?」だろう。ただそこに切り込んで行ったら、ますます「伝統と創造の会」に「反日ダ!」とぶっ殺されそうな…。だって、恐らく本気で信じていた人なんてほとんどいなかったのだろうから。たとえば教養あるエリートであった学徒動員塀が、信じられるわけがないでしょう。フィクションだと百も承知で、信じ込む努力はしていた、あるいはフリはしていたのだろうが、だからといって「強制」だったとも言い切れない。本音を言えば「しょうがない」というのが正直なところだろう。その言葉にならない微妙さにこそ、映画であれば切り込むべきだというのが個人的な意見だが、実をいえばその意味で「戦前戦中の日本軍国主義」というのは、決してそんなに異常なことでも、明らかな狂気でもなかったように思える。なにしろ「しょうがない」って、今でも我々がつい口にしてしまう言葉だ。

もちろんそういったことすら言い訳であって有村治子だの稲田朋子だのといった連中レベルのおバカさんの真意は、要するに中国人が靖国を撮ったことなのだから、それと同じレベルで争ったってダメでしょう。「偏向」にいたっては、「偏向」と言われてもいいくらいの自分の視点があってはいけないなんて、じゃあブニュエルはどうする?? むしろ「反日」「偏向」と言われかねない内容でも支援するくらいの方が、日本の文化政策の度量の広さを見せられてけっこうじゃないか、とくらい言いたくなる。

攻められている側の方に、どういう立場で対抗できうるのかの整理ができてない。映画『靖国』それ自体を擁護するのか、言論と表現の自由を護るのか、国の文化政策のあり方の独立性を論ずるのか、日本の右傾化に対抗して闘争するのか? 協力はしあっていいが、整理をしておかないと反論が散漫な繰り返しになってパンチ力が弱すぎる。映画作家がそんなことやる必要はないし、そもそも必ずしも向いていないだろうが、大物ジャーナリストもいるし、配給宣伝があるのはもちろん、支援しているなかにはプロデューサーも活動家もいる。彼らは擁護して戦う戦略をたてて組織化するプロでなきゃだめなはずなんだが。ちゃんと整理しないと、テキは「サヨクがまたサヨクなことを言っている」で終わってダメージは与えられない。

だいたいテキのやってることがそもそもおかしいどころか愚かしく醜悪なのだから、はっきりそう言えばいい。遠慮したところでテキは映画『靖国』を潰せば、彼らの内輪では彼女らの点数は上がるのだ。そろそろ最終兵器とも言える切り札を使うことだって考えてもいいのではないか? そりゃこれを言うのはとくに李纓監督には躊躇や不愉快さはあるだろうが、しかし…だって、はっきり言って、中国人の監督が靖国をテーマにしただけで「反日」とわめいてこの日本映画を潰そうとしていることの本質は、人種差蔑でしょ。

政治部の記者は小沢一郎が嫌い?

本日の党首討論の逆ギレした福田首相はなかなか一見の価値があった。ニュースで抜粋を見ただけなのが残念で、フルバージョンで見てみたいものだ。しかし国会対策、国会運営で「かわいそうなくらい苦労している」って、無駄で無謀なことをやって苦労しているだけでしょうに。

だがその午前中に否決された日銀副総裁人事については、マスコミの論調はなんだかおかしい。鳩山由紀夫の顔を潰してまでの小沢のゴリ押しなのは、そりゃそうなのだが、「政局狙い」? ゴリ押しをしたのは原理原則論でしょう。それも原理原則をゴリ押しせざるを得ない状況を作ったのは、福田サンご本人ではないですか。人物本位なのであれば渡辺さんでも確かに専門知識などで問題はないそうなのだが、「財政と金融の協調」を言ってしまったわけで、官僚支配と行政の腐敗の構造を改革すると主張している小沢民主党がのめるわけがないでしょう。「バランスをとったパッケージ人事」って、「財務省に配慮したバランス」と自ら言っているようなものではないですか。これじゃ天下りという「形式」の問題ではなく、天下りの最大の問題である、天下ることで権限と利権と影響力を省庁が確保する構図そのものではないですか。

なぜか「権力闘争」というレベルでしか論評できないのが政治報道なのだが、国民にとって直接問題なのは権力闘争ではなく「国家のかたち」をどうするのか、という国家論、思想的な対立のはずなのだが、マスコミの政治部が真っ先にそこから逃げているように見えてしまう。というか、政治記者は結局は自民党におんぶにだっこだから、永田町の内輪の「勝った負けた」に過ぎないレベルでしかものごとが見えていないのかも知れない。まあ、なにせ某最大手新聞社の、政治記者あがり(ってことは自民党有力者の番記者あがりの)会長が、政界のフィクサー気取りで「大連立」とか構想しているんだから。彼らにとって小沢の原理原則論は、ほとんど宇宙人の意味不明の言葉のように聞こえているのかも知れない−−官僚組織なしにどうせ政府が維持できるわけがない、という思い込みで。当の小沢サンは「これは革命なんですよ」とすら(えらく分かり易く!)言っているのだが。「革命」が目的であって権力闘争はそのための手段に過ぎないのだが、政治関係の報道関係者には手段のマニュアルしか目に入らないのだろうか?

…というか、小泉時代以来「改革、改革」が流行語のようになっていて、昨年の流行語大賞の「どげんかせんといかん」ってのも要はそのバリエーションなのだが、本当に「変える」気がこの国にあるのだろうか? 政治家や官僚に限った話ではない、我々日本人全体が国を「改革する」、ということは我々自身が我々自身の意識を変えなければいけないはずだ。「どうせなにも変わらないさ」とうそぶくのは、実は変わる勇気がないことのカムフラージュなのかも知れない。というか、とりあえず「改革、改革」が上辺だけなのがバレた時点で「郵政民営化!」だけで自民党を大勝させてしまった国民に、本当に「変える」(あるいは「変わる」)気なんてあったんですか? 少なくとも政治部の皆さんにとって、それは本当はもの凄く困ることなんでしょうね。あと田原総一郎その他の皆さんも。だって今までの権力と癒着した情報入手が通用しなくなるんだし、権力者のお仲間のフリの優越感もなくなっちまうんだから。だから小沢民主党に不利なように,不利なように報道するわけで、ざっとネット上のニュースをブラウズした感じではそもそもの政府のあり方についての考え方の違いをちゃんと報じているのは、外電系のロイターだけだ。

福田さんの自爆戦略の最たるものという感じの首相答弁(って、答えじゃなくて質問が多かった…)なのだが、うがって見れば実は本当にいいたかったのはいちばん最後の「道路特定財源の一般財源化」のことで、「閣議決定だってやっていいですよ」と言うためのパフォーマンスだったのかも知れない。さすがに「党議決定」とまでは言えなかったようで、そこまで言わないと本当はいけなかったのだけど(内閣総辞職させてしまえば、閣議決定はなかったことにできる)、感情を露にして小沢を「攻撃」している(と伊吹幹事長は苦笑しながら一応エールを送っていたが)なかで、あっさりと党内で反発がすさまじいはずのことを、国会で約束してしまった、というかしまえたのだから。「ねじれ国会で民主党のせいでなんにも話が進まない!」という悲鳴は、実は「だから自民党が妥協しなければいけないんですよ」と党内を裏で説得するために言っているようにも聞こえる。これでとりあえず、閣議決定をやらなければ問責決議→総辞職か解散という流れを、福田自身がヒステリー(のフリ?)の流れでまんまと明言・確約してしまったのだ。伊吹サンの苦笑がこわばっていたのは、もしかして彼も気がついたからかも知れませんね。これで彼が幹事長の座に留まっていたいなら、道路特定財源の一般財源化の議論を党内で進めなければいけないことを。

で、「自民党対民主党」は権力闘争だし、政界再選含みなどいろいろあるのかも知れないし、政治的に現実を変えるには確かに権力闘争は必要不可欠だ。だがそれは手段であって目的ではない。政権交代がとりあえずいちばん分かり易い変え方だから政権奪取の闘争にはなるのだが、福田サンの真意が上記に近いものだとすると、話はもっと複雑になる。いずれにせよ本当に重要なのは、小沢の言うところの官僚支配と行政の腐敗の構造の巨大財源のひとつである道路特定財源をなくすかどうかが、「国家のしくみ」の実態を変える上でけっこう本質的な一歩になりうることだ。で、「官僚支配と行政の腐敗の構造」はとりあえず変えないと本当にマズいわけで、ただしそれは自分で判断も思考もせずに官僚的システムの自動運動を忠実にやってればいい、マニュアルと先例がすべて指示してくれて、というこの国の社会のなかでの我々の生き方自体を変えることでもある。それはおっかないことにも思えるが、一方でこの社会の全体を覆う不自由さを打破することにもなる。

もっとも、現実に対しても自分自身についても盲目になって、不自由さを不自由さと自覚せずにいれば平穏に生きられると思い込んでいれば、自由くらい恐ろしいものはないのかも知れない、というわけでエーリッヒ・フロムに行き着いてしまうわけですが…。

4/09/2008

「こうなることは十分に予想できていたはずだ」

あるいは「なぜそんなことするのか、なにを考えているのか分からない」日記、なんだかこのブログはしばらく、このどっちかに改名した方がよさそうな雰囲気になって来た。なんだかいかにもエラソーで恐縮で、好きな言葉ではないのだが、でも素人目に見てもそうとしか思えないことが多過ぎるでしょう、最近。

今日は日本政府のことでなく(って日銀副総裁人事はやっぱり民主党が蹴っちゃうようで、なんで蹴られるようなことを言っちゃうのか福田さんもなにを考えているのか分からない、というのは昨日書いた通り)、我が隣国中国のことである。胡錦擣政権もほんと、なにを考えているのか分からない。自国の立場を悪い方、悪い方へ、北京五輪が成功しないように骨を折っているようにしか見えないのだ。

日本ではまだなにが原因なのかよく分からない、パリやロンドンもヒステリックだ、欧米の人権外交はアジア人への人種差別じゃないか、と思っている人も多いようで、聖火リレーが予定されている長野も「けしからん」みたいな反応のようだ。「意見があるのは分かるが、オリンピックは平和の祭典だから、ぶちこわすのはよくない」みたいな。だが旧東欧圏が真っ先に国家代表の開会式欠席を表明したのや、英国の性格の悪いので有名な皇太子はまだおなじみの反共で中国が嫌いみたいな匂いはあるものの、イギリス全体でもフランスでもアメリカでも、むしろ国内の、それもどっちかと言えば左翼やリベラル派の突き上げが激しく、政府としてはそれを無視するわけにもいかない、というニュアンスが大きい。北京大学での講演で首相が批判的な演説をしたオーストラリアは左派政権だし、フランスは右派政権が中国政府に批判的な見解を出しているが、あれぐらい言わないと政権がますます不人気になるからだし、もっともおおっぴらに運動しているのは社会党で人権派、同性愛をカミングアウトしてバリバリのリベラル派であるパリ市長だ。もっとも、こうなるとフランスとイギリスでどっちが人権をより重視しているのかの競争みたいにも見えて来たが。

日本では歴史教科書と靖国の恨み(?)で中国が嫌いな自民党極右反中国派とか、それこそ小林よしのり辺りしかとりあげないのが常のチベット問題(江戸の仇を長崎で討つみたいな話が、マッチョ保守の方々はお好きなようで)だが、ここへ来て大手のなかではどっちかというとリベラル、左派である朝日・毎日、テレ朝、TBSのうち、とくに毎日/TBS系がかなり明確にチベット支持、中国批判を打ち出して来ている。ことなかれ主義NHKですら無視できず、中国より報道も控えめになりつつある。それでも「北京市民の怒りの声」をわざわざ報道するのは、おべっか使っているようにしか思えないのだけど。朝日だって以前に較べれば少しは進歩しているのだけど、しかしやはり解説委員などに中華人民共和国への幻想というか無自覚な服従から逃れられない人も多いようで…。

日本でこの問題が無視されて来たのには理由がある。まず政府が「靖国その他」の中国との衝突材料を抱えているなかで、これを持ち出して本格的な論争になるのを恐れることなかれ主義。経済界にしても日中関係を悪化させると商売に響くので、中国が確実にヒステリックに猛反発するこの問題は、いわば鬼門みたいなものだ。もうひとつは、最近はかなり改善されているにせよ、大手マスコミの多くが北京支局を閉鎖させられることを恐れていたから、というわけで要は事なかれ主義なわけだが。ダライ・ラマ14世はじつは仏教団体などの招きでけっこう来日しているのだが、彼の来日がニュースになったり、ニュースでなくても電波にのったのは3回に1回くらいがせいぜいという感じだ。それこそ90年代半ば、ということはダライ・ラマがノーベル平和賞を受賞した後になるはずだが、その来日の際にはワイドショーのレポーターがオウムの麻原の写真を突きつけて「この男を知ってますか?」と詰問していたりで、ダライ・ラマ14世が先進国の知識人から尊敬されているほとんど唯一の宗教指導者であること(たいがい欧米の知識人は無神論だから宗教指導者には否定的)なんて、ほとんど知られていないわけだ。

さすがにこの3月からのチベットへの弾圧と、チベット人の暴動は、今までのことなかれ主義で見て見ぬ振りでは済まなくなって来ているようだが、それでも聖火リレーのことばかり報道されると、なぜここまで反発があるのかは今ひとつ伝わっていないのかも知れない。だが「平和の祭典を妨害するとはけしからん」という人には、人命と人種差別と一民族の存亡と、聖火リレーという形式の、どっちが「平和」にとって大事なのか考えて頂きたい。他民族を押さえつけてその文化を奪い、人々を踏みつけにし、その民族宗教の最高指導者どころか活き仏様を誹謗中傷するだけでなく、僧侶にその誹謗中傷文書を「愛国教育」として暗唱するよう強制することのどこが「平和」で「調和」なのか。建前上は信教の自由を尊重すると表明しつつ、「国家への反逆者」であるダライ・ラマの肖像や写真は飾ってはいけないって、ダライ・ラマは教義上、ただの指導者ではなく、観音菩薩の転生なのだから、これじゃ江戸時代の踏み絵みたいなものだ。

1951年に始まった中華人民共和国のチベット進駐、というかはっきり言って占領は、一説には死者100万人の死者を超えるとまで言われる(駐日ダライ・ラマ法王代表部の出している数字は累計120万)。正確な数字は、なにしろ死者数を把握して公的な記録を作っているのが弾圧をしている側なのだから分からないが。世界で最も高い位置を走る鉄道として話題になったラサへの鉄道の開通とともに、「チベットのよりよい経済発展」と称して、漢民族の移民を政府は奨励している。結果として、ラサの人口35万のうち、25万人が今や漢民族、毛沢東時代に人民解放軍は「チベット少数民族の要請で」チベットに進駐したのだが、今やチベット人は首都では本当にチベット“少数民族”になってしまった。数の上だけではない。チベット人は実態としては強制で、自分たちの土地を「売り」(国が地上げ屋をやってるようなもんだ)、一等地は政府の施設になったり漢民族の会社や商店になり、鉄道の開通で重要な産業となった観光でも、利潤はおもに漢民族に流れる。どうも相当に埋蔵量があるらしい地下資源についても、大規模な開発が計画されているらしく、ダライ・ラマが自然破壊を懸念する声明を出している。中国政府が世界遺産に申請して観光資源として有効活用中のポタラ宮は、あれはダライ・ラマの住居ですよ、元をただせば。

1951年の人民解放軍の進駐当初は第二次大戦の数年後でどこの大国からも無視されて承認もされず、いったんは中国政府との協調を目指しながら(一時は全人代にも出席している)もそれが叶わず、命まで狙われてダライ・ラマは1959年にインドに亡命。それから30年近く地道に非暴力主義と平和主義でチベットの独立…ではなくあくまで本格的な自治を訴え続け、80年代の末にやっとノーベル平和賞などで国際的な認知が高まったわけで(それと前後して、ラサで大規模な弾圧と暴動があった)、90年代からは先述の通り仏教団体の招聘で来日も何度かしているのだが、これが欧米だと来訪すればちゃんとニュースになり、さてその国の首脳が会うのか会わないのかが焦点になるという状況が20年くらい続いている。つまりみんな知っているし、良心的な活動家やジャーナリスト、芸術家ほど注目している。それにだいたいの状況を知っていれば、やはりこりゃひどいと思う。日本では10数年前には「諸君」とかにしか書いてないことだったとしても。

チベット問題は国際的に十分に認知されているというのに、3月10日のラサ動乱記念日に僧侶がデモを起こしたことになぜ発砲するのか、理解に苦しむ。ちなみにラサの暴動が報道されたのは3月14日で、中国側は報道官制をちゃんとしいたつもりで「ダライ集団の陰謀に扇動された一部暴徒が」と毎度おなじみの、今や誰も真面目に信じないコメントと共に、チベット人の漢民族商店襲撃などのみの映像を流したのだが、3月10日にデモがあったりするであろうこと専門家や事情通であればだいたい思いつくことであり、なのに14日に暴動が起ったということだけが報道されれば、その4日間になにがあったのか、中国政府はなにを隠しているのかは、だいたい想像がついてしまう。

それに鉄道開通で観光産業に大幅に力を入れていれば、今時の観光客が世界最高峰レベルの山々の美しい風光明媚なチベットと、ポタラ宮を初めとする歴史的建造物、日本だとNHKの『シルクロード』ですっかり有名になった五体倒地やマニ車などの敬虔なチベット仏教徒の祈りを見に来るのに、キャメラを持っていないわけがないでしょう。いまや携帯電話でも写真や映像がとれる時代なのだから。なのに観光客に口止めして外国人ジャーナリストを制限すれば大丈夫だろうと言わんばかりに、当局側が発砲したことを否定し続け、出国した観光客の撮ったビデオでそれが暴露されてしまう。しょうがないから外国人ジャーナリストを入れながら、「危険だから」と当局側が随行した(というか監視した)ツアー取材のみ。あげくの果てにそれでも命を賭して真相を訴える僧侶を撮影されてしまえば、余計な隠しごとをしようとすればするほど、中国側がいかにひどいことをやったのかという印象は世界に広まる。それを「分離派」だの「ダライ集団の陰謀」と必死に報道したって、かえって逆効果にしかならない。

一方でダライ・ラマ側は、意図的かどうかはともかく、というか意図するまでもなく、最良のメディア戦略を実行できる−−つまり、正直であること。実際、ダライ・ラマが暴動を扇動するなんてそもそも現実的に不可能なんだし、ダライ・ラマ自身が非暴力主義を貫いているんだからそんなことしたら損するだけだし、現にチベット人にも自制を呼びかけているし、しかもダライ・ラマがその信条を貫けば貫くほど世界中で尊敬を集めていくのだから(で、今回の騒動に対する対処でますます好印象アップなのだから)、中国側にその意味では勝ち目はない。とっとと方針転換する意外に逃げるところはないというのが、どう考えたっていちばん安全で確実に北京オリンピックを成功させる手段だろうに。

それどころかもっと恐ろしい自滅のシナリオが待っている。チベット問題はダライ・ラマの人徳もあって注目を集めているが、中国は他にも少数民族問題を多々抱えている。9/11以来、チベット以上に気を遣わざるを得ないのが、人口的にははるかに多い回族やウイグル人、つまりイスラム教徒だ。ロンドンとパリに較べていわゆる西側や日本ではあまり報道はされていないが、その前のトルコでも聖火リレーに相当な抗議があった。それをわざわざ、聖火をエベレストを超えさせてラサを通した後、少数民族自治区も軒並み通過させながら、第二次大戦中と国共内戦中の八路軍の「聖地」をくまなく廻るという露骨な国家主義丸出しの聖火リレーで起こりうる反発は、パリやロンドンの比ではない。それを強権的に押さえ込みながらなおかつ世界に向けて誇らしく国威発揚の写真や映像を流し続けることが、本当にできると思っているのだろうか? それがどれだけ危険なことか、気がついているのだろうか? オリンピックを強行することで中国がバラバラになる危険すらはらんでいることに、なぜ気がつかないのだろう?

チベット仏教でダライ・ラマと並ぶ最高位の活仏のパンチェン・ラマは、指名権(というか、阿弥陀様の化身として転生した子どもを見抜く霊力とかそういうことなんでしょうね)を持つダライ・ラマ(こちらは観音様の化身)の見いだした生まれ変わりの少年が誘拐され、中国政府が指名した(って、なんで無神論共産党が活仏の転生を指名できるのかさっぱり分からない)少年が代わりに立てられ、本来の転生した少年の生死もすでに10年近く分からないままだ。そういうことまでやられても、ダライ・ラマとダラムサラの亡命政府はあくまで「独立」ではなく、中国の一部としてのより完全な自治を求めているだけだ。宗教指導者なのにリアリストでもあるダライ・ラマは、チベットの経済も中国との密接な関係なしには成り立たないし、独立して対立したらもっと大変なことになるのを危惧しているし、非暴力主義の観点からチベット自身が軍事力を持つことに否定的だからでもあるが、中国側からすれば落としどころの妥協点を準備してくれていることにもなるのに気がつかないのだろうか? これだけ痛めつけてもなお中国側への配慮さえ口にし、一定の正当性させ認め、理解を示すダライ・ラマの立派な態度は、立派すぎてますます腹が立つのかも知れないが、そんな見栄や感情であんな巨大で複雑な国家、統治なんてできないでしょうに。うわべだけ「平和と調和」といいながら力の誇示で世界の盟主を気取ろうにも、現代の世界はそういう時代を超えようとする努力が必要とされる時代だ。

今やダライ・ラマが自制と非暴力をチベット人側に呼びかけても、チベット自治区の外でのチベット人居住区をめぐる暴力的衝突は後を絶たない。元々制度上は実権をすでに手放しているダライ・ラマも、引退をほのめかしている。問題を平和裏に、極端な衝突なしに納めるには、ダライ・ラマと協力するしかいないのだが、それも時間の問題なのだ。中国側がほとんどオートマチックに、伝統的(?)に敵視している彼は、リアリスティックに考えれば中国側にとっても手のつけられないような大規模な反乱や独立戦争を防ぐ最後の切り札にもなっていることに早く気がつかないと、大変なことになる。今ならまだ、ダライ・ラマがいるうちに亡命政府との交渉を始めれば、どんなに不満でもチベットの民衆もその精神的指導力に納得して従う可能性は高い。北京政府は次のダライ・ラマを自分たちで指名すればチベット民族を押さえられると思っているようだが、逆に反発を呼ぶだけだ。現ダライ・ラマが尊敬を集めているのはもはやその教義上の格式だけでなく、本人の個性と人柄によるところが大きい。それ故に彼の訴える非暴力主義がチベット人にも説得力を持って来たのだが、今回の暴動などを見るとそれも限界に近い。今のダライ・ラマの人徳がなければ、より急進的な独立派、50年以上抑圧されて来たことの恨みと怒りの暴発を押さえられるのか?

オリンピックの前に、聖火をラサに通す前にそれを始めなければ、中華人民共和国の各地で民族暴動が勃発することすら想定しなければならないかも知れないし、そうなればチベットの怒りだってダライ・ラマの呼びかけでも抑えきれないだろうし、ことイスラム教徒の少数民族問題では、中近東で勃興するイスラミズムの浸透も懸念される。聖火リレーは文字通り松明を火薬庫に放り込むようなことになりかねないのだ。で、力で押さえきれると思うのは、考えが甘い。

そうでなくったって中国人の警護隊が聖火ランナーを囲み、自分の手で聖火を消している画が世界のテレビに流れるのは、青いジャージにグラサンのいかにも諜報部隊かSPみたいな警護隊の雰囲気とあいまって、まことに失笑モンであると同時におっかない。見た目だけでも極めて印象が悪く、「なにが平和と調和だ」と馬脚を世界のメディアに晒している上に、ゴリ押しに他国(あるいは実施場所の自治体)の警察権を侵害していることにもなりかねない。五輪組織委員会や政府発表もいかにも官僚的、というか軍隊的なキツさで、自分たちがどう見られるのかということにまったく無頓着な、こんなこと自分たちで企画しておいて、「平和と調和」ですから。結局市庁舎には到達しないで、パリ市長は皮肉な表情を浮かべていた。

とりあえず明日にはダライ・ラマが飛行機の乗り継ぎで成田に立ち寄るそうである。さて日本政府は戦々恐々としている模様だが…。そうそう、長野の聖火リレーは善光寺さんから始まるそうで、あそこは密教じゃなかったと思うけれど、仏教なんだし少しはなにか言ってもよさそうなものではある。

4/08/2008

「事実」とは何か〜再び靖国問題

承前。ニュース23で実際に映画『靖国』の上映予定館に街宣をかけた右翼がインタビューを受けていた。実際に街宣があったこと自体けっこう驚きなのだが、ちょっと笑っちゃったのが活動歴4年の21歳の青年、というよりはっきり言えば「坊や」だったこと。TBSのディレクターに(かなり親心のある人なんだろうと想像)詰問という形式の噛んで含めるようなお説教に、上映禁止になって映画が見られなくなってしまったのは残念で、見もしないで抗議したのは間違っていたと素直に認めていたのは、意外に思った人も多いだろう。まあソクーロフの『太陽』のときもそうだったのだが、映画業界の側でも「右翼」に過剰反応してしまう傾向はやはりある。一生懸命「週刊誌など」と情報を得たソースを挙げていたが、たぶんネットなんだろうなぁ。2ちゃんなどでこの件に関する議論はまったく見てないが、そこで「反日映画」とか書かれていたのを見てしまって、やらなきゃいけないと思ったのかも知れない。いやまったく映像というのはおもしろいもので、どんなに編集しても、彼が自分の誤りを素直に認めるプロセスはやはり写っているし、そこからこの若者についてもいろんなことが見えて来る。

まあしかし、こんな素直でかわいくさえある無邪気な男の子を扇動しちゃった稲田朋美の責任は重大ですよ。彼の若さなら若気の至り、むしろ可愛くさえ見えることでも、あんたのようなブスなおばさんがやれば子どもじみて無責任でみっともないだけです。だいたいこういう反応が起ることくらい予測できないでどうやって権謀術数の自民党のなかで議員をやってられるのかもよう分からん…。もっとも、自民党全体がまた日銀総裁人事の再々提案でも、よくこんな無邪気なことやるわ、という動きをしているのだが。なんたって「財政と金融の分離」を掲げる民主党に、福田さんはあろうことか「財政と金融の協調」を理由に財務官の渡辺さんをねじ込もうとしているのだから。それならば「財政と金融」が協調すべきか、ある程度の分離を確保すべきかで、本格的に国会で党首討論でもしなければ筋が通らないし、そうなるとかなり議論に時間をかけるべきが、なにしろG8出席のために早く決めなきゃいけない、という話なんだから。

閑話休題。21歳の若者の言葉で気になったのが、「南京大虐殺」の写真が出て来るから、事実かどうかも分からないことが入っているのはドキュメンタリーなんかじゃない、という理屈だ。番組の後半で『靖国』の監督の李さんと、森達也さんが呼ばれて議論していたのだが、李さんはともかく森さんがこの問題に突っ込まなかったのはよく分からない。稲田議員の行動がまじめに議論する必要もないほどくだらないと断言するのだから、もっと議論する必要があるテーマを提示したっていいじゃないですか。以前に国会議員試写が報じられたときにも森さんが取材されていて、「ドキュメンタリーは主観なんだから」と言っていたが(それはそれで、そんなに単純なことだけじゃ済まないはずだ、とは言いたくなったけど)、我々の言論や表現の自由は、いわゆる「右翼の弾圧」とは別のもっと深刻で深淵なものに脅かされてるんだし。それはなにかといえば、「事実」と称するものへの社会の無自覚な幻想、単一の「事実」が存在するのだという思い込みだ。

くだんの右翼の男の子の発言には、実は二つのレベルで「事実」の認識を巡る重大な問題が含まれている。ひとつは当然ながら、南京大虐殺があったのかどうかということ。常識論で言えばあのような事件を実際に「ねつ造」なんてできるわけもなく、どういう事情で起ったかなどについては資料が少な過ぎるので憶測の範疇を超えようがないにせよ、とりあえずあったと考えるのが妥当だ。確かに公的記録とされるものはほとんど残っていない…って公的記録を記している側にとって都合の悪いことはなかったことにするのが当たり前であって、中国だって今回のチベット争乱で、観光客などの撮った映像が流出するまでは兵士によるチベット市民への発砲はなかったと主張し、チベット人市民の死傷者の報道について「ダライ集団の陰謀」とか、要するにねつ造を主張していたわけだし、北京の走狗でしかないチベット自治区政府が公的記録を司っている以上、「公的記録」は今回の一連の弾圧にしても、過去における虐殺や弾圧にしても、まず隠蔽され記録には残されない。別に北京政府に限った話でなく、公権力とはたいがいにおいてそういう残酷さを持ち、捏造も隠蔽もしてしまうものなのだ。旧日本軍だってまさか国際法違反に問われて大変にことになる事件の証拠を、わざわざ残しているわけがないでしょう。日本の右派が「ねつ造」と主張するアメリカ人宣教師が撮ったと言われるフィルムや写真は、今回のチベット弾圧で観光客が撮った映像とほぼ同じレベルにあるわけで、写真を含めて「ねつ造」を主張するのは相当に無理がある。それを言い出したら、この世に確定的な「事実」と称されることなんてなくなってしまい、我々は公権力の認定したプロパガンダ以外のリアリティを許されなくなってしまう。

僕自身がとある靖国で年次総会をやっている団体を取材していたとき(このネタはいずれ、「天皇制」ドキュメンタリーで使います)、ちょうど中国の反日暴動が大変になっていたことがあって、毎月の集まりで「中国けしからん」でしばらく戦前・戦中派の男性たちがずいぶんと話し込んでいた。そこでタイミングを見計らって、「でもあちらにしてみれば、やっぱり親御さんや家族が殺されているわけですから、あまり文句も言えませんよね」とボソっと言っただけで、彼らは一瞬黙り込み、話題を変えた。後で個人的に話を聞くと、「詳しいことは分からないけれど、ああいうことがあったとしてもおかしくない。たぶんあったんだろう」というのが、実際に戦場を体験した人の大多数の考えだ。

戦時中の日本軍の虐殺行為について実際に証言する元兵士も最近ではずいぶん出て来たし、これだけ時間がかかったのは罪悪感と恥の意識と家族への迷惑などなどを考えれば、なかなか口にできないことだからだろう。靖国に来ている生き残り兵士のなかにも、証言した元兵士を「勇気があるよね」とぼそっと言うか、ノーコメントがほとんどで、「嘘つきだ」などと批判する人はあったことがない。ちなみにこれはかなり気を遣う、こっちもある種の“勇気”が必要かも知れない質問だと僕は思うのだけど、いざ当事者を前にしたときに当然するような心遣いを、彼らに顔も発言権もないせいか、ほとんど出来ないで来たのが、戦後日本社会の失敗というか過誤だったように思う。その心遣いのなさに裏付けられた「正義」の残酷なレッテル貼りが、靖国神社を今のような形で存続させている口にできない悔しさや恨みを維持させて来てしまっている。現代の靖国というのは、その決して語り尽くせないし口にもできない恨みと哀しみの場なのだ。昭和天皇が参拝出来ていた頃には、まだ無言のうちに「罪」や「責任」を分かち合う癒しがあったはずだ。A級戦犯合祀はその可能性をぶっつぶし、行き場のない鬱屈がときに、部外者には滑稽にしか見えない形で虚しく噴出する。

生き残りの兵士だって自分自身のことだけであれば、元特攻隊員だって「いやあ、今思えばバカなこと考えてましたね」くらいは生きていれば言える。だがその「バカなこと」で実際に死んでしまった死者はどうするのか? 親兄弟の死を「バカなこと」と断じられる遺族はどうするのか? さらに皮肉なことに、彼らはそれが「バカなこと」であると自分たちでは分かっていたフシさえある。少なくとも、ああすることで日本が勝てるとはまったく思っていなかっただろうし、むしろここまでやることになるからには、いよいよ戦争も負けるのかと考え、だからこそ死んでいったようにさえ思える。そうした複雑な、口にされようもない屈折した思いに、ただ「軍国主義」のレッテルを貼ったところで、我々は安心できるだろうが、死者の記憶を背負った人々はますますいき場所を失う。我々は戦争中になにがあったのかの事実はある程度は知ることができるが(というのも実は怪しいのだけれど)、そこにあった人間の「真実」は、実をいえば「分かる」というだけでも傲慢にも思える。

もう一つの議論はもっと哲学的な、ドキュメンタリーの本質に関わることだ。仮に虚構だったとしても(あくまで仮に、ですよ)、その写真が現に今あることは現前たる事実であり、その写真の存在がさまざまな影響を現代に及ぼしていることもまたまぎれもない事実だし、父母や兄弟姉妹、親族を殺された中国人がいるのも事実だし、他ならぬくだんの右翼青年のような発想がまさにその写真の存在を現代においてなお重要なものにしているのも厳然たる事実だ。ドキュメンタリーは根本的に現代/現在を撮るものでしか原理的にあり得ず(キャメラとは、映像とはそういう力しか持っていない装置なのだから)、まともなドキュメンタリー映画であればその文脈のなかでその写真が使われることは、現代の現実、その写真が存在し、大きな意味を持っていると言う事実を示すことである。その写真という事実がキャメラの前にある以上、その写真自体が事実を写しているのかどうかは、映画が「事実」を写しているかどうかを責める理由にはならいし、ドキュメンタリーとはキャメラの前の事実以上の「事実の主張」は本当はやってはいけないし、そもそも出来っこない表現形態なのだ。

たとえ嘘八百を語る人がいてそれを写しても、映画が写しているのは、「事実かどうか」というレベルでは、その嘘つき男がいたという、あるいはその男が嘘をついたという「事実」だけである。もちろん証言が嘘だと分かったらカットするなりなんなりすればいいとはいえ(それはドキュメンタリー映画としてはつまらない姿勢だが)、それを「嘘」と断定するだけの根拠が我々ドキュメンタリー作家に常にあるのかどうかも疑問だ。村上春樹は『アンダーグラウンド』であえて証言の食い違いを残したことについて、「それがその人にとっての真実なのだから」と述べている。文学つまり文字だけという以上に、映画はその人がいたという時間と空間を定着させることができるし、一方で根本的にはそこを超えられないし超えるべきでもない。

ナレーションで文脈をねつ造し(「南京大虐殺はねつ造だ!」という文脈での「ねつ造」とは異なった、より高次のレベル、かつ「事実」の把握と理解のために必然的に我々が行ってしまう「物語化」という「ねつ造」のこと)て、写真というモノの存在を無視して事実関係を整理することでフィクション的に作られる物語のイラストレーションとして使うのなら話は別だが、『靖国』はそういう安直な構造を持った映画ではない。結果的にどこまで成功しているかはともかく(それは公開されてから、ちゃんとこの映画が見られてから、初めて議論されうる話である)、自らの単一の線状的な物語を語る(押し付ける)映画ではなく、むしろさまざまな歴史体験から紡ぎ出されたさなまざまな物語の衝突する場としての靖国を観察しようとする試みであるはずだ。

そもそも私たちはなにを持って「事実である」と認識するのか? ドキュメンタリーとは必然的にその問いを内包せざるをえない表現行為である。村上春樹の言葉を借りれば「その人にとっての真実」以上のものが、究極的には存在し得るのか? その人の記憶する「事実」ですら、それは元の事実において発せられた無数の情報が記憶となる時点で整理され取捨選択されたもの以上ではあり得ない。そもそもその「事実」の全体像を把握すること自体が、人間の知覚のあり方にとってあり得ないことだ。「裁判で事実を明らかにする」という常套句もまた事実の断片からもっとも合理的な推論による物語を構築すること以上のことではあり得ない。刑事裁判では故意かどうか、死者が出ていれば殺意があったかどうかが量刑上の大きな争点になるが、その犯罪の時点で「殺す気」があったかどうかは実は当事者だってほとんど記憶していないだろうし、していたとしてもそれをどのように自覚して理解していたかはかなり混乱しているはずだ。

僕自身は、南京大虐殺を戦略的かつ意図的に中国人を殺そうと日本軍国主義が画策し、という中国で教えているらしい解釈はおそらく違うと思う。というか、少なくともあまり現実的な解釈とは考えられない。同様に、チベットの弾圧にしても、実際に関わっている中国側のほとんどは、明確な悪意を自覚してシステマティックに侵略と弾圧をやっているわけでもないだろうとも思うし、今回の暴動騒ぎでの発砲も、ある意味で現場のもののはずみか、現場指揮官がなにも考えずに、せいぜいが上の顔色を見てやったことだろうとも推測する。問題は個人の悪意よりも、無思慮に作られたシステムがシステムとして、国民の利益も国益も、なにが本当の目的なのかも考えずに暴走し始めることだ。オリンピックを成功させることが目的なのであれば、チベットでの不満が爆発するような事態を作り出してしまったのは愚の骨頂だし、海外メディアが入るのを禁じたり、「ダライ集団の陰謀」を主張するのは逆効果でしかない。だが北京政府が現在存続しているシステムの論理では、その逆効果になるのが分かりきっている行動しか選択肢がそもそも他にないのだ。同様に、南京大虐殺もまた別の戦場の生き残りの老人の言葉を借りれば、まさに「ああいうことがあったとしてもおかしくない」というのが率直なところなのだろうと素直に思うし、虐殺を証言する旧日本兵もそのニュアンスをにじませる。つまり戦争とかの極度の興奮状態では、そういうことは起ってしまうのだ。「意思」としては大東亜共栄圏の理想を本気で信じていたとしても、戦場では理性や冷静さを失うのはものすごく簡単なことだろうし、当時の日本軍の上層部は恐らく、起ったときに恐ろしく慌てて、なんとか隠蔽したのだろうが。

しかし、そうした他者の置かれた立場への想像力はより高度な倫理的責任として我々が考えなければいけないことだとしても、一方ででは他人から見たらどう見えるのかも、人間は考える必要がある。その意味では、チベット側から見れば中国政府がチベットをシステマティックに弾圧してその文化を破壊しようとしているように「見える」はずだし、中国側から見れば南京で日本兵の多くが虐殺を“してしまった”ようには見えず、ほぼ確実に「虐殺をした」ことしか見えないはずだし、その意図を中国人を虐殺する意志的な戦略として考えるのもまたいた仕方がない。エノラ・ゲイの乗組員たちは20万人を瞬時に虐殺することなぞ意図していなかっただろうが、結果として彼らは20万人を瞬時に虐殺したのはまぎれもない事実であり、「殺す意図があった」と“立証”することすら、論理的には可能だ。「意図」などの他者の内面は人間にとってお互いに想像し推測することしかできないし、だから他者に対して我々が行ったことの「意図」もまた他人から見てどう見えるかの問題にしかならない。我々が「事実」として認識しうるのは、その程度のことでしかない。だいたい自分自身がそのときにどのような「意図」を持っていたかですら、その時点で自分で明確に自覚できているはずがないし、後付けの整理された記憶では自分にとってあまりにも都合の悪いことは幾らでも排除できるし、我々はそれこそそんなこと「意図」もせずに、自動的にやってしまう生物だ。

もちろん、一方で人間は、より自覚的になれさえすれば、そういった排除と隠蔽の心理から出来上がる自分にとって都合のいいフィクションではなく、「本当のところ自分はなにをしたのか、それはなぜなのか」を考える叡智も持っているはずだ。しかしそれは一人一人の人間の、それこそ「内面」の問題であり、個々人がその「事実」を体験して以来どれだけ人間的に成長できるのかの問題だ。歴史、というよりは記憶をドキュメンタリーとして撮るとき、私たちが撮っているのはその過去の「事実」ではなく、その「事実(だったかも知れないこと)」がその人にどのように影響し、どのようにその人を変え、願わくばその経験を背負った人間がどれだけ人間的な叡智という得体の知れないものに到達したのか、その歴史と体験と記憶と時間を背負った身体の美しさ、そこからにじみ出る人間的な叡智という得体の知れないものを捉えることこそが、私たちの究極の職業的な責任なのだろう。そしてキャメラ、映像という装置は、それを可能にしてくれるはずだ。

ま、そうとでも考えてないとこんな仕事はできませんわな。国会議員サマと較べてはるかに実入りは少ない商売だしサ。

4/06/2008

『靖国 YASUKUNI』問題って…

商売柄、いろいろ人にも訊かれるので、やっぱり意見を述べなければいけないんだろうけれど、なんだか困ってしまう。そもそも、一応ブログのラベルは「映画」にはしておくが、本当は「政治」ネタにしかならないのだよな。結局、この映画が“問題”になっているのは、ただ中国人の監督が靖国神社を撮ったということだけであり、映画それ自体はちっとも論じられない。今更ながらではあるが、それは映画にとって不幸なことだし、それでも日本のドキュメンタリーで今年一番の話題作になったし、なんだかんだで映画賞もとって「高い評価」に決まるのだろう--映画『靖国』そのものの中身とは、なんの関係もなく。

いやもっと不幸なのかも知れないのは、実物の現代の靖国神社が抱える複雑な、屈折した哀しみもまたまったく無関係に、「靖国」というおなじみの禍々しい記号についてのおなじみの賛否両論が繰り返され、なんら本質的な話には行き着かないのが目に見えていることだ。結局は記号の自動的運動が再発してなんら物事は先に進まず、靖国神社をどうするのかの話もなにも進まず…で、今本当に靖国神社を必要としている人々が(で、いかに国家神道や軍国主義には反対しても、あの場を必要としている人々がいるのは確かであり、それは安易に責められるものでもない)死に絶えるのを待っているのが、この社会の無自覚な集合的意図なのかも知れない。

考えてみたら本質的な議論の契機は何度かあった。たとえば今や道路族のドン、道路特定財源の牙城の最高司令官(?)としてすっかり悪者になってしまった古賀サン@遺族会会長(当時)が、A級戦犯の分祀を提案したことだ。なんだかあの議論はすっかり消えてしまっているのだが、誰も言わないのであえて言えば、僕の知る限りでは靖国を本当に必要としている人々、つまり名もなき兵士たちの遺族と、とりわけ戦争の生き残りの兵士たちにとっては、酒でも入らなければ決して口にできないが、本当に望んでいることそものではないのか。だって国家指導者で戦争指導者たる彼らがあそこまで無能でなければ、戦争にもならなかったろうし、あそこまでボロ負けすることもなく、父や兄や弟や、生死を共にした戦友が殺されることもなかったんだから。いやまあその歴史解釈自体に問題はなきにしもあらずではるのだけど、ならせめて天皇陛下には来て頂きたいのに、昭和天皇は合祀が明らかになってからは一度も靖国に足を運んでいない。よほどのバカでない限り、まともな日本人的感覚がある限り、言外の言として理由は分かるはずだ。それでも分からない、というか分からないフリをする人々のために、わざわざ(たぶん現天皇の意図がどこかで働いているのだろうと推測するが)、側近の日記まで公表されても、結局はうやむやである。そういえば言葉の軽さでは日本一だった当時の総理大臣が「天皇陛下の個人の意見ですから」と、とんでもない発言をしてしまったんでしたっけ? (一方で、真面目な戦中派保守の、戦争がいかに嫌なものか知っている政治家から「大御心」発言が出たのは感心したが)。

以上は僕の止まったままのドキュメンタリー企画『拝啓、天皇陛下様(仮)』の中心的な主題に関わる話なので、閑話休題。しかし、同業者としては当然ながら今回の表現の自由の弾圧に対しては、李さんに与して戦わなければいけないはずなのだが、どうにもやる気がおきないのが正直なところ。少なくとも映画それ自体の評価は、今はやりたくない。映画そのものとして論じようとしても、「ウヨ」か「サヨ」のレッテルを貼られて安易な記号の自動的運動のシステムに組み込まれるだけなのだから。

というのも、どうにも「映画」という複雑で重層的な表現体系とはおよそ無縁の話に終止しているだけで、「日の丸君が代」と同じくらいレベルの低い毎度おなじみの「靖国」論争(にもなってない単なる平行線のわめき合い)に終止するのが目に見えているのだ。ことの発端はまさにパブロフの犬並みの条件反射で「週刊新潮」が反応し、その連鎖反応で「チャンネル桜のマドンナ」稲田朋美が愚にもつかぬことを始め、異例の国会議員のための試写会をやることになったのがニュースになったのは宣伝の上での話題作りの戦略として成功だったと思う。以前は文化庁支援に助けられ、いずれは芸術文化振興基金のお世話になる可能性が高い身としては、これからは助成金の審査が事なかれ主義に走るんじゃないかと思うと、ちょっと迷惑ではあるが。

もちろん稲田議員から文化庁に圧力をかけ文化庁が配給に連絡して、という“あちら”から始まった流れにせよ、戦略を組んでいなかったとしたらあまりにも無邪気(なんたって客寄せ商売ですから、映画は)なのだが、組んでいた割には当然こうなるであろう流れを阻止する悪知恵がなさ過ぎたように見える。李さんが別個に記者クラブで会見したってしょうがないでしょう? それも「日本へのラブレター」なんて言ったところで。

稲田朋美に見せるからには、バーターとして記者会見か、できれば公開討論くらいを条件につけるべきでしょう。そうでもしなければ「大和魂」とはおよそ縁がなく、保守派ぶって道徳だののたまわってるわりには倫理観も責任感も欠如している姑息なバカ右翼議員は逃げるに決まっている。で、やっぱり逃げてますよね。パブリックな発言としては感想もなにも言わず、いまさら「事前検閲と思われるのは心外」とか文書で回答するだけである。ああみっともない。そんなヤツが子どもの道徳教育についてとやかく言うんじゃないやい。反論される危険性のある場所からは女々しくも(女性蔑視で失礼!)逃げまわり、議員の職権で文化庁に圧力をかけているんだからとんだ「愛国者様」、恥さらしにしかならないし、それこそ「靖国の英霊」に顔向けできないじゃん。それでも2ちゃんウヨク辺りを中心に、その恥さらしをアイドル化しているわけだし、街宣右翼だってこういう騒ぎになればなにかしなけりゃ顔が立たないわけで、だったら彼女の主張が無知かつ無知能で見識のかけらもなく、恥ずかしいものであることをパブリックに、本人に対して直接論破でもしないと、ほとんど機械的ですらある騒動の伝播は止めようがないでしょうに。

宣伝戦略での問題は他にもある。横尾忠則風の靖国を茶化したポスターもそうだし、テレビで放映される抜粋は軍人コスプレだったり星条旗をもったアメリカ人との喧嘩だったり、8月15日の喧噪というか狂騒を撮ったものばかりだし、「映画」としては、こう言っては悪いが「こんな撮り方じゃ素人でしょう」ってくらいダメな映像だ。あんなコスプレと一緒にされては傷つく生存者や遺族も多いだろうし、その意味で、決して口にはされない(遺族は嫌でもコスプレ右翼にでも、下品な恥さらし議員にも、気を使って文句は言わない、つまり彼らしか「味方」がいないほど孤立しているわけで)心情的な反発はあるはずだ。

別に傷つけていけないという気はない。映画は、特に現実にキャメラを向けたときには凶暴な武器にもなり得るのだから。ただそれなりの覚悟を持ってやらなければいけないし、アホ右翼はいくらでもバカにしていいだろうけど、遺族や生存者をバカにするのはそう安易にできることではない。そもそも、『靖国』を本当にテーマにするのなら、靖国というかつての栄光転じて今や戦争のトラウマを解消することを許されず、死線まで追いつめられながら戦後は「狂信的軍国主義」のレッテルを貼られて社会の影に追いやられ、本当はいちばん許せない連中と合祀されてしまっても文句が言えず、見ていて恥ずかしいコスプレ右翼がお味方だという哀しい怨念の吹きだまりの場所という本質を撮りたいのだとしたら、8月15日は撮る必要がない。その日にマスコミと議員のパフォーマンスとおバカなコスプレ右翼がたむろするのも靖国の現実だが、ドキュメンタリー“映画”なんだし、どの現実を見せなにを捨てるのかの選択こそが、映画監督のお仕事のはずだ。というか、どの「現実」をどのような美的・映画的判断において選択するのかが、ドキュメンタリー作りの本質なのだから。

で、抜粋に選択されてテレビのパブ映像で使われる場面はキャッチーではあるが、「映画」としては下らないし、美的にもレベルが低過ぎる。結局は「中国人が靖国を撮ったらこんなヘンなものがとれました」しか伝わっていないのだ。まああの喧噪のなかでうまく撮れという方が無理だとは思うのだが、だったら話題性だけでそこを宣伝に使っていいのか? これでは「議論の契機として貴重」とこの映画を擁護する気もなくなってしまうし、「右派の言論弾圧許すまじ」の、パブロフの犬反応に対するパブロフ犬反応で支持を集める一方で、心ある人々は呆れて見に行かないだろう。

それどころか、芸術文化振興基金の助成金は優れた映画になる可能性のある企画を、きちんと企画書を読んで専門家(主に映画評論家など・癒着を防ぐため人選は非公表)からなる審査員が助成を決めることによって、公的資金による映画作りが正当化される制度である。国会議員が自分たちのウヨッキーな(あるいはサヨッキーでも)主張に合わないから横やりを入れるなんてのは論外だが、一方でクオリティに対する責任意識はなくてはならないし、それをちゃんと主張しなければ…なんと言っても皆様の税金である。だから文化庁も振興基金も「クオリティを判断できるプロの判断であり、優れた映画が出来た」くらいの大見得を切ってしかるべきだし、一方でそうと納得させる画面をテレビで流さなきゃ駄目でしょう? 正直、今抜粋で流している絵は、8月15日の靖国をニュースででも見ていれば驚くほどのものでもないし、安易過ぎる。クオリティの説得力がないと、「週刊新潮」が条件反射したのとまったく同じ理由で、つまり「中国人が靖国を撮る」という左翼的ポリティカリー・コレクトネスの論理だけで、助成が決まったんじゃないか、そう勘ぐられても仕方がないし、だとすれば「芸術文化振興」としてはあまりにも薄っぺらで不毛だし、映画作家として李さんは自分の映画があのように受け取られていいんだろうか? まあすぐそういうことで喧嘩するから僕は世渡りが下手なんでしょうが、でもせっかくの映画がもったいないでしょう?

僕はもらったことがない芸術文化振興基金なので知らなかったが(文化庁の直接の支援はもらったことがありますが、そんな条件あったかしら?)、「政治団体および宗教団体の宣伝に」云々の条件が応募要項にあるのだそうで、「それには当たらない」と文化庁ではコメントしているらしい。これもバカらしいけどまだ合格点。しかしこれを「政治的でない」と擁護する加藤紘一議員とか、「政治的」という言葉をどう解釈しているのか常識を疑う。靖国を映画で撮ること自体が政治的行為であり、これは政治的映画である。ナレーションを入れないから政治的でないというのも稚拙な理屈だ。僕はまずナレーションは使いませんが、『映画は生きものの記録である』だってまもなく完成の『フェンス』だって、明らかに政治的な映画だ。ただそれは僕が話を聞き映画に出てもらった人々個人の政治的見解であって、それをどう撮るかは撮影・大津幸四郎と僕の一致した政治的考察の表現であって、映画は僕自身の政治的見解と考察に基づいて構成・編集している。それが「映画を作る」ということの覚悟でなきゃおかしいし、「政治団体」や「宗教団体」の見解通りに作っていい映画になるはずもない。つまり審査員が企画のクオリティを審査するのなら、「政治団体および宗教団体の宣伝に」なんて企画が通るはずがないわけで、そこに抵触しないから問題はないという見解を出すお役所根性で、公金を使って文化を守り育てていくという根本的な使命が成り立つのだろうか?

それにしても稲田朋美の責任は大きいよね。街宣右翼やネット系プチ・ウヨのもしかしたらのテロ行為が怖くて劇場が降りるのは、本来なら「警察はなにをやってるのか?」の話だ。街宣行為は道路使用許可がなければ最低限徐行でも、車は動いていなければ道交法違反だし、脅迫罪だって成り立つ。本当は警察に通報すればいいはずの話なのだが、稲田朋美サンの周辺には警察官僚出身の議員もいたりして、これだとなかなか警察も上の顔色をうかがって動いてくれないだろう。というか警察だって右翼と結託してるのかもしれないし、だからこそ稲田朋美の主張は言論でちゃんとぶっつぶしておくべきだったのだ。本人の面前で、論破して、恥をかかせてでも(まあ国会議員なんだし、大日本帝国を愛する愛国者なんだから、それくらいの武勇を持たないでどうするんだ、稲田サン?)。

最初に降りた劇場は新宿の旧東映跡の丸井との複合ビルに入った「バルト9」。あとQ-AXや、ヒューマックスの持ち物であるシネパトスも降りたそうで、これくらいなら街宣右翼も「協力金」とか「寄付金」はせしめられたかも知れないが、しょせんは製作も配給も興行の映画館ももともとお金がないインディーズ系である。街宣右翼サンも体面上なにもやらないわけにもいかず、かといって元がとれないで、とんだ面倒なのかも知れませんね。もっとも、東映の子会社だとかだと、なにしろ東条英機を変に美化した『プライド』とかもあって、別種の政治的圧力もあったのかも知れないが。まあでも上映中止とか騒がれたら、他に名乗りを上げた小屋もあってけっきょく全国21館というかなりの規模の公開になるそうで、ずいぶんテレビでもとりあげたし、これで大ヒットは間違い無し、実は宣伝・配給はものすごく狡猾だったのかも知れない。映画はしょせん客寄せ商売、それくらいの割り切りは必要なんだろう、たぶん。

4/03/2008

福田“自爆テロ”政権はどうなる?

ガソリンの暫定税率が失効で廃止になったとたん、道路が作れない地方自治体が悲鳴をあげている、との報道が騒がしい。某局のお昼のワイドショーで芸能レポータのおじさんが「必要なら一般財源で作ればいいだけでしょう?」と正論を言ったとたんに、他のコメンテーターや司会者が無視したのだから大笑いである。それだってどっちかといえば反自民党系とされる新聞社の系列の局ですよ。値下げ圧力に困惑するガソリン・スタンド話がやたらと報じられるのも、なんなんだろう、と猜疑心をかきたてられてしまう。要するに報道の政治部はしょせん、政府官庁の発表と与党のリーク情報に頼り切ったニュースソースなので、与党の方針にとって不都合なところは、あまりに言論統制があからさまにはならない程度に、出ないようにしているわけで。

最悪、4月1日になったとたんに工事中の道路も作業をストップするとか、そういう判断をする自治体が、要するに国交省と与党道路族のご機嫌取りで、「道路特定財源と暫定税率維持」のための自爆パフォーマンスをやっているだけなのだ。そんなのに騙されている、というか恐らくはわかってのっかっている大手マスコミも困ったもんだ。

それにしても、日銀総裁人事でもめた辺りから、表面的には福田政権はなにを考えているのかさっぱり分からない。勘ぐれば一種の「自爆テロ」なのかも知れない。ガソリンの税率が下がったとたんに「道路が造れない!」(そんなわけ、本当は全然ないのだけれど)とのヒステリー報道が始まるのもそうだが、与党の考えが通らないとこの国は立ち行かないんですよ、とデモンストレーションするためにわざと混乱させているのかも知れない。というか、そうでも考えないと説明がつかない。

日銀総裁はようやく白川さん(副総裁/現総裁代行)の格上げで決着がつきそうだが、まずなんで蹴られるのが分かっている武藤さんの提案をあそこまでギリギリに遅らせたのか?それだけでも相当におかしいのに、民主党がすみやかに蹴ったので次の候補を、となったら武藤さんよりももっと不適格な田波さんを出す。こりゃもう「いったいなんなの?」としか思えなかったのだが、「ねじれ国会のせいでこんなに混乱するんです!」と訴えるためのパフォーマンスでしょう、と考えると納得はできる。

それに武藤さんご本人もかなり笑わせてくれた。国会審問で「日本の景気はとてもよくなった」と胸をはってのたまわり、銀行預金の利子がなくなってしまって悪評プンプンのゼロ金利政策でも、「当時の状況ではやむを得なかった」とでもいえばいいのに、「まったく正しかった」のだそうである。本当になにも考えないで言っていたのなら、自分の発言の影響力も考慮できないバカに日銀総裁という公職が勤まるわけがないし、分かって言ってるのならそんな人に「国民の生活が第一」がスローガンの民主党が賛成してくれるはずがない、特攻精神じゃあるまいし、それは国民新党でも社民党でも共産党でも同様,賛同するはずがない。その程度も言い含めずに国会に立たせるだけでも、武藤さんを提案したこと自体が、意図的に混乱させようとしてやったことに思えて来る。同時に提案されて蹴られたもう一人の副総裁候補だって、悪名高い「経済財政諮問会議」のネオコン論客、冷血冬季資本主義派で「インフレ・ターゲット論」って、経済伸長とは無関係にただ原材料費の価格(原油、穀物)の急騰で消費者物価が高騰してしまう危機的状況に、とりあえず不適任に決まってるでしょうに。

財政難が唯一の理由である「後期高齢者医療制度」でも、暫定税率撤廃で2兆6千万の税収減になるという話も、とかく「日本は財政難」を誇張すればなんでも通るといわんばかり。それを言われてしまうとつい我慢してしまう我々国民も人が良すぎる。自分たちの失政で財政赤字を膨らませておいて、メチャクチャですがな。じゃあこちらも極論でいわせて頂ければ、とりあえず官僚の人件費を一般企業(中小企業も含む)並に落とすだけでも、じゅうぶん財源は出来そうなものではありませんか。とりあえず彼らの脅しに屈しないためにも、このぐらいの極論で理論武装するのもいいだろう。

国交省の脅しをからめた暫定税率と特定財源維持の署名を拒否した自治体首長が口を揃えて、特定税源としてでなく地方交付税に一括して財源を渡されたらなにに使うか、と訊ねられて「まずやっぱり道路ですね」と答えていた。皮肉なことに拒否したのは道路整備の遅れている市町村ばかりだったらしいが、要するに特定財源だと国の基準のレベルが高過ぎて、余計に金がかかってしまい、特定財源として渡されると結局市の一派財源からの支出も増えるのが腹が立つ、ということらしい。要するに、そういうどうでもいい無駄金の支出を減らしましょうというのが小泉改革が支持を集めた理由だったはずなのだが、肝心なことはなんにも変わってなかったんですね。

なんだか政府と国民の根比べみたいな様相も呈して来ましたが…。