最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

4/21/2010

出演者への手紙

大阪で撮影を終えたばかりの集団即興による劇映画、『ほんの少しだけでも愛を』(編集中) で主人公の一人を演じた、俳優・安田一平が、俳優をやめることを決めて先日最後の舞台をやり遂げたことを記念しての、はなむけの言葉



本当にお疲れさん!最後の舞台を見に行けなくてごめん。

今回の映画は、元々は「素人」だけ使ってやるつもりで、「俳優」が出ることにはいささかの躊躇があったのが正直なところです。

最近、10年前くらいにちょっとだけ付き合いのあった大先輩、大島渚監督のことをふと思い出すことが多いのだけど、その大島渚のキャスティングのモットーが「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター、六、七,八、九となくて十に新劇」だった。

必ずしも大島さんに影響されたわけではないにしても、こういう方法論の場合はとくに、なまじ演技経験があるとそれがブロックになる可能性は考えていたわけだし。

それにぶっちゃけた話、寺島しのぶとかの凄い俳優だと分かってる人を使えるわけじゃないのに、そのクラスの俳優がやってるのと同じレベルの演技とは言わないものの、それに太刀打ちできるくらいのものを要求することには当然なってしまう。

それだけに同じ「俳優」の土俵では分が悪い可能性はあるのが、「俳優」がこの映画に出ることの高いハードルでした。

それは恐らく、まったくの素人がビギナーズ・ラックで、それもドキュメンタリーも撮っている映画作家の作品で自然に出来てしまうことよりも、はるかに高いハードルだったと思う。

それが「一に素人」の大島の映画だったら、台詞が棒読みとかそういうのはあるとしても、「素人」が佐藤慶とかの名優と互角かそれ以上の芝居してるわけで。『絞死刑』の主役の在日韓国人の死刑囚R、『戦場のメリー・クリスマス』のハラ軍曹、ビートたけしがこの役をやったときだって、彼はまだ俳優としては「素人」だった。坂本龍一もデビッド・ボウイも「俳優」ではなく、「歌うたい」だしね。

また同じような方法論でやった前作『ぼくらはもう帰れない』(2006)でも、ひとりだけプロがいて、頭の回転の早くチャレンジ精神も旺盛な負けず嫌いの女性だったから、自信を失いそうな失敗も含めいろいろ試行錯誤した結果、最後にはうまく映画のなかでの自分なりの居場所を見つけてくれたものの、自分の彼女にとって難しい体験だったのも確かだし。

とはいえ今回は、来るものは拒まずで「俳優です」という人もキャスティングはしたものの、やっぱりなまじ演技経験がある人はいろいろ計算してしまうところがあるのか、本人たちにとっても僕にとっても難しいところは多かったと思う。

なまじ「作って」しまう役柄や演技は必ずしも即興には合わない、サプライズもないし、しかもまったくのド素人が自分自身を「演ずる」のですらなくただそこにいることで自然な存在感をアピールしてしまったりするものだから、「俳優」の人は焦ることも多かったんだと思う。それは過酷だったと思う。

真っ先にそこから抜け出したのは加納克範君と、あと最初からほとんど問題がなかったのが安田君でした。

『ほんの少しだけでも愛を』加納克範安田一平

とはいえ安田君の場合は舞台の方も忙しくて参加できる日数も限られていたので、大きな役にはならないだろうと最初は思っていたのも確かです。だからそんなに多くを要求する気はなかった。器用な人なのは分かっていましたから、それでちょっと変わった役柄をおもしろおかしくやってくれれば、それで映画のなかでちょっとした息抜きでありスパイスになってくれれば、それで十分だと思っていた。

ところが終わってみれば、これは誰よりもまず安田君の映画になっている。とくに最後の日曜日に撮影した、ラストシーンと、大阪に未だに残る遊郭のはずれの慰霊碑のシーンの安田君は、何度見ても凄いと思う。もちろん最初から巧かったのは認めるけど、この日の撮影分はだいたい、君の顔が違う。

『ほんの少しだけでも愛を』ラストシーン

慰霊碑の前の安田一平 Scene 1
慰霊碑の前の安田一平 Scene 2

改めて思ったけれど、俳優ってのは、キャメラの前に立つ人間とは、けっきょくはまず人間性が勝負になる。

それはキャメラの前に立つ人は誰でも、劇映画でもドキュメンタリーでもそうだという僕の確信は変わらないけれど、俳優は自分の人間性を曝け出す訓練が、いわゆる素人よりもできているはず、その曝け出した人間性を役柄の人間性にしてしまえるはず(今回の映画のようなやり方ではその限りではないけど)、その訓練ができてなければ、俳優ではない。

でもそうした訓練による演技の「巧さ」を超えたところで、やっぱり最後に問われるのは、そのキャメラの前の人間が持っている人間性のみ。その意味で「俳優」であるかどうかは、僕にとってはあまり関係がないと、僕は思っていました。

でも最後のあの日に撮った安田君のシーン二つは、安田君が俳優であるからこそ、俳優として自分の人間性を鍛えて来たからこそ、あれだけの真摯さが溢れるシーンになったんだと思います。

もちろんラストの、安田君と加納克範君二人のシーンでは、加納克範君もおなじ真摯さと誠実さを共有してたし、加納君の持ってた素晴らしい人間性を引き出せたし、今後は加納君も素晴らしい俳優になっていくことを期待してやみません。

正直、まずその数日前に最初はおちゃらけた「友チョコ」シーンをやったあと、のちにラストシーンを撮るべき場所だと君が決意することになる街並を歩いて、飯塚亮子さんや僕の説明を聞きながら、それ以上に自分の目で見て身体で感じながら安田君の顔に明らかに起っていた表情の変化に驚いたし、こっそりと感動もしてました(その場で素直に出したらまずいから出さなかったけど)。


安田君がうまい役者なのは、これまで舞台で培って来た経験と訓練ももちろんあるんだろうけど、それ以上に役者としてやって来たことを自分の心と身体で真摯に受け止めて来たことが、安田君の人間性を高めても来たのだと思う。

正直、君が「マッチョな兄貴・体育会系」なところはちょっと辟易したこともあったり(笑)、ときどき言ってることががあまりに舞台俳優やなぁ、映画の生理ってのはちょっと違うんだけどそれは説明した方がいいのかなとか迷ったこともあったけれど、最後まで安田君とつき合えて、安田君の俳優としての最後の仕事のひとつを撮ることができて、本当に幸運でしたし、本物の「俳優」と組むことができたのも大変な幸福でした。

恐ろしく大変な撮影で、ここまで苦労した仕事は、映画を撮り始める前でも映画を作る側になってからも、これまで自分にはなかったと思うけれど、その苦労もこういうものが撮れるのなら、報われた気がします。何度もやめようか、これは無理だ、始めたこと自体が間違いだったとも思おうとしたけれど、やっぱりこの映画は、やってよかったと思います。

まあ最初から、この男は俳優としてのプロフェッショナリズムが分かってるから、なにを言ってもこの男は最後までやり抜くんだろうな、とは思ってたけどね(笑)。だったら時にはキツいことを言うのも、「プレッシャーをかけて、なにが出て来るかを見る」のは、出演者にでもスタッフにでも、僕の演出のもっとも基本の部分なんで(すまん!)。

安田君と映画を作れたことで、大島渚監督の「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター…」というモットーの意味も、もっと深いところまで学ぶことができた気が今はしています。つまり大島さんの言ってたことは、だからこそ、人間性を見抜くことがいちばん大事なんだという意味なんだと。

今回はそれについて、ずいぶん失敗したことは否めないけど、安田君に関してはやっぱりハズれはなかった。いや、もの凄くいい意味で、予想外でハズれた?

本当に俳優やめちゃうの? それはものすごく残念だけど、俳優をやって来たからこそ高めることができた安田君の豊かな人間性は、あの二つのシーンを見ればそれが本物であることは誰にも否定できないし、そんな安田君であれば今後どんな仕事でもそれなりのことは出来るだろうと信じてます。


素敵な、めったにないであろう体験を本当にありがとう。こういう体験がときには出来るからこそ、映画作家という人種は生き続けられるのだろうと、あらためて思います。そして本当にお疲れさまでした。

4/18/2010

映画監督・大島渚、「ぼくはスキャンダルが大好きなんだよ」


大島渚監督に会ったのは、『愛のコリーダ』が可能な限り修整部分の少ないノーカット版で公開されようとしてる年の夏だった。その初日に大島さんは発作を起こして倒れられたので、ほんの2,3ヶ月だけのご縁であり、最初にインタビューにご自宅に伺ってから、ほんの数度取材でお会いしたり、大島プロなどに遊びに行っただけである。

もちろん大島渚の映画はそれまでにもずいぶん見ていたが、その前数年のあいだ吉田喜重監督の手伝いをしていたりしたし、当時はむしろ吉田喜重の端正なラディカリズムのフォルムの追求に惹かれていたのは確かだし、『愛のコリーダ』リバイバルの前の公開作となる『御法度』では、けっこう厳しい批評を書いていたりしている。

しかし大島監督にお会いするのは、とても楽しかった。

『愛のコリーダ』は僕自身はフランスなどで完全な形で見ていたものの、このときの公開はリバイバルというより、大島渚に言わせれば、真の意味での、というか事実上の日本初公開であり、大島さんも相当な意気込みだったのだろう、病身をおしてずいぶんと取材を受けられていた。僕はすぐに「ぼくの最新作として見て欲しい」と言われたし、他のインタビューでも時代背景などの歴史的/映画史的な切り口の質問には「いいえ」とだけいってほとんど取り合わなかったそうだ。まあこちらは「最新作として見て欲しい」とも言われたし、もともと専門家でもないので、そういう質問はしなかったのだが、政治的な意図などを訊いてもたいていは「そんなつまらない見方はして欲しくないんだよね」、そうは言っても気になる庭の隅の傾いだ鳥居のことを訊いても、「そんなのあったっけ? たぶん戸田(重昌・美術監督)さんが勝手にやったんだよ」という感じである。

初回はともかく、再度のインタビューとなると大島さんは「なんだまた君か」とわざと不機嫌な顔をしながら、こっちを挑発するようなことをわざとおっしゃって来る。「負けてなるものか」とつい思ってしまいながらも別にムキになるわけでは決してなく、実は大島さんの大きなペースに乗せられながら自分のペースで自分の本当に聞きたいことを、こっちも時々挑発を交えながらどんどん言えてしまう、そういう場を作ってしまわれる大島さんは、ものすごく巧い「インタビュイー」(取材を受ける側)だった。

今思えばそれこそが大島演出だったのかも知れない。聞き手であるこちらが、見事に大島渚に演出されていたんだと。

大島渚のキャスティングの原則は、

「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター、六、七,八、九となくて十に新劇」

…なのだそうだ。なるほど、あれだけ人を乗せるのが巧いのだから、映画でも素人だからこそ本人の持ってる個性をストレートに引き出せてしまうのだろう。

もちろん、そこで問われるのはこっちにそこで引き出されるだけの価値のある個性があるかどうかではある。個性は才能でなきゃ意味がない、人を惹き付けるか少なくともびっくりさせるか、それも自分だから出来る/自分にしか出来ないことでなくては、意味がない。

そして実際、大島さんの映画では素人がものすごく巧い、というか巧いか下手かなんてレベルではなく、その素人そのものが役柄と絶妙な化学反応を起こして、棒読み台詞だろうがなんだろうが知ったことじゃない、そのこの世に二人といない「人物」が、素人を使ったキャスティングのときこそ、丸ごとスクリーンに現れる。『絞死刑』の死刑囚R、『戦場のメリー・クリスマス』のハラ軍曹(大島渚は当時「タケちゃんマン」と呼んでいた。今では立派な映画俳優兼監督だが)…。

映画を作るようになる前、映画ジャーナリストとしてのインタビュアーの体験で、ずいぶんいろんな人に取材できたのだが、たぶん一番楽しかったのが大島渚だと思う。いちばん工夫も頭の回転の機転も必要だが、話し始めたら止まらない。一瞬間があって「ではちょっと話を変えまして」みたいに話が途絶えて切り替えなきゃいけないのもよくあることだが、大島さんに限ってはそんな記憶がまったくない。

大島さんは怖いという噂は以前から聞いていたし、テレビの『朝まで生テレビ』だとかで激昂される姿を見てればそりゃ怖いだろうなぁと思っていた。今思えば、あの人はいつでもすごく本気な人、本気になったらストレートだし、相手を本気にさせる人ということだったんだろうと、思うわけだが。

この初対面の以前に、大島渚は『御法度』の前に一度脳内出血で倒れ、復帰している。この映画は車椅子にのったりして撮ったものだったはずだし、僕が会った時の大島渚には、半身に麻痺がのこり、杖をついて歩かれたり、若干の言語障害もあった。あれだけ饒舌だった人が、しゃべるのが億劫なところがあったようだ。

だからなのだろうか、インタビューの始まりでは、大島渚の返事のほとんどが「うん」のひとことだけ。

そりゃ賛同して頂けるのは光栄だし、僕の解釈に納得してもらえているんだとしたら鼻高々になって嬉しいわけだけど、なにしろインタビューである。大島渚の言葉を記事にするのが仕事なんだから、それが「うん」ばかりで時々「いや」だけでは困ってしまう。

そこで10分くらいしたところで、わざと質問をこっちの意図と少しズラして訊くようにしてみた。すると「いやそれはちょっと違うんだよ」とおっしゃって、それからバーッと言葉が続く。その話がおもしろいんだけど次の質問もあえてその話がちょっとだけ分からなかったフリをして訊くと、「いやそれはちょっと違います」でまたバーッと饒舌な大島節。

考えてみたらえらく生意気なことをやったものである。しかし大島渚は、毎回毎回少しイラっとしながらも、実に饒舌な言葉が膨大に続くので、記事にするには万々歳である。「この生意気なガキめ」って雰囲気も微妙に発しているぶんスリリングで、こっちも一生懸命にわざとズラした質問をする丁々発止状態。

あっというまに1時間の最初のインタビュー…ではなかった、予定は1時間なのに1時間半以上でやっとお庭に出て頂いての写真撮影。写真家の要請が「自然にしゃべってる感じ」だったので、庭に出ても話は続く。

写真家が「いちばん好きな映画」を訊いたときはちょっと不機嫌な大島監督、答えはない。そこで僕が「松竹に入社されたころに木下恵介監督の『女の園』をベストワンにあげられてましたよね」と訊くと、「いや、あれは違うんだよ君。『これくらいはやらなきゃしょうがない』という意味だよ!」。

その最初のインタビューの決め台詞は

「『愛のコリーダ』でぼくは燃え尽きました」

だった。

さてその後のインタビューの終わりに、よせばいいのにこれを蒸し返す僕。「あのとき『愛のコリーダ』で燃え尽きた、っておっしゃいましたよね」「うん、言ったよ!」「ではお訊ねしますが…」「なんだね?」「それでは『愛の亡霊』『戦場のメリー・クリスマス』『マックス・モンナムール』『御法度』はなんだったんですかッ!?」。大島さんは一瞬ニヤっと笑い、すぐにしかめっ面になって「イヤなこと訊くねぇ、君も」。

そんな大島さんのしかめっ面は、しかし「怖い」とか「まずいこと訊いてしまった」と思わせるところはなにもない、「してやったり」とこっちに思わせてくれるような、この人は本当に見事な『男たらし、人たらし』だった。

そんなしかめっ面のゲームはインタビュー後にまた再開、なんとその場に前のインタビューの原稿のゲラ刷りが届き、僕の目の前で大島さんのチェックが入ることに。

参ったなぁ、と思いながら神妙な顔をしていると、見る見るうちに顔が曇る大島監督。「うわ、やばっ」とさすがに怖くなると、「キミッ! ここは間違ってるよ!」と言っておもむろに赤を入れられたのは…一行目の「カンヌ映画祭」を「カンヌ国際映画祭」に訂正。「あとはこれでいいよ。おもしろかった」

もう10年くらい前の話だ。僕はまだ20代だし、年齢よりも若く、というか子どもっぽく見られるから、大島さんにしてみればただの子ども相手だったろう。相手は世界のオーシマ。でも大島さんにインタビューしているあいだ、インタビュアーとインタビュイーはまったく対等だった。

大巨匠なんだし病気もあるのだし、といった気遣いを絶対にさせないなにかが、大島渚にはあった。だからこっちは遠慮しない、遠慮なんてできない。それが楽しかった。

『愛のコリーダ』の初日は舞台挨拶があるというので、僕も配給会社の人に頼んで劇場に入れてもらってた。だが大島渚は現れないで、確か「諸般の事情」で挨拶は中止になり、映画が始まった。「実は発作で倒れられた」と知らされた。その後、大島プロからの年賀状の返事を頂き、大島瑛子さんに電話をした(よかったら連絡を、とか書いてあったかなにかだったっけ? パンフレットのプロダクション・ノートも書いたので、瑛子さんにもいろいろお世話になっていたのだが、そのお礼もかねて)。「監督はいかがですか」「あまりよくないのよ」。

大島はこのときの『愛のコリーダ』公開を、「ぼくの最新作として見て欲しい」と何度も言っていた。今となっては、その『愛のコリーダ』が大島渚の「遺作」となるのかも知れない。

それはそれで寂しいことではあるが、これが「遺作」になるとしたら、それは大島渚という映画作家にとって、非常にふさわしいことでもある。

明治維新以降の西洋文明の流入で性がタブー扱いされるようになる以前の日本の性文化のあり方に、大島は大きな興味を持っていた。それならば明治以前の日本において、性とは愛の営みである一方で、こと遊郭などの場においては生と死の儀式の面を持ち、だから遊郭は都市の鬼門封じの寺社仏閣や、墓地などとセットで存在している例が多い。そして「完璧なポルノ、女のひとたちが喜ぶポルノを作りたかった」と堂々と大島が語る『愛のコリーダ』は、究極の愛の営みとして恍惚のなかの死に至る、愛と生と死の儀式としての映画でもあった。

後日談。『御法度』のときに僕は「プレミア日本版」のレビュー欄トップ記事で、かなり辛辣なことを書いていた。別にけなしたつもりはないけれど、大島渚に敬意を表して絶賛一色だった公開時に、話題作りの巧さについてけっこう底意地悪く分析するなど、まあ褒めてる批評ではおよそない。でもまだまだ無名の駆け出しの書いたものだし、たぶん大島渚はまったく読んでないだろうと踏んでいた。「カンヌ映画祭」を「カンヌ国際映画祭」に訂正されただけだった原稿チェックでも、ぜんぜん気にしていなかった。

あとで確か大島瑛子プロデューサーと雑談してたときだったと思う。大島監督が自分の作品について出る批評は全部読むということを知らされた。「僕も『御法度』のとき、実はレビューを書いてるんですが…」「『プレミア』でしょ、大島は当然読んでるわよ」。

さらにわざわざ言う必要もないので言わなかったことだが、大島渚とはまったく馬が合わず親交もない吉田喜重の手伝いを僕がやってたことも、全部バレていたのである。バレてる上で僕に吉田喜重について挑発的なことを言って、僕にわざわざ反論までさせていたのである。恐るべし大島渚。

もう10年も前に、大島渚という人に出会えたときの体験を、最近なぜか思い出すのは、こないだやっと撮影が終わった大阪での集団即興劇映画のせいもあるのかも知れない。

撮っている最中にずっと意識していたのは、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーだった。

そしてこれからその膨大な素材を映画にまとめていこうとしているとき、迷いに迷うことも多い編集の初期段階で指針になってくれているのが、大島渚の映画であり、大島渚の書いた文章。たとえば、

「初めから解らないのはあたり前で、初めから解るならこんな映画を作る気は全然ないし、初めは解らなくても映画の最後になって初めて解る、そういう映画をオレは作りたいんだ」

あるいは、

「私は現代では使命という言葉に縛られて、可能性のある芸術家が内面的な自由さを失っていることが多い事実の方に、むしろ弊害があると思う」


そして『愛のコリーダ』の製作動機ついてあっさりと、

「ぼくはスキャンダルが大好きなんだよ」

そう言い放った大島渚、その顔と声の記憶に、今、叱咤激励されている。

タブーなんて恐れるな。タブーにぶつかってもひるむな、「スキャンダルが大好き」で戦い抜け。

4/17/2010

4/16/2010

女優・稲子の恋

内田吐夢『浪花の恋の物語』有馬稲子と中村錦之助の道行き

今でも芯の強いおばあさんといった役柄でテレビでときどきお見かけする、かつてはとにかくとんでもなく美しかった女優・有馬稲子が、日本経済新聞の『私の履歴書』で、そのとっても美しい女優としての絶頂だったころに、17歳上のさる「監督」と7年間に渡る恋愛関係にあったことを書いている。

有馬稲子が名前は挙げていないので、ここでも名指しはしないが、その話が出て来た一回目に「監督」からビルマでロケする映画の絵コンテを見せてもらったと書いているところで、もちろん誰のことかはすぐ分かる。

正直、二年前に亡くなられたその監督には、今となっては晩年に何度か取材させて頂いたりしたし、一日にピース缶を一缶(箱じゃない、缶ですよ)を空けるという伝説的ヘヴィースモーカーだったのが、あるパーティーで喫煙所にお誘いしたら「僕はあと10本は映画をとらなければならないから禁煙したんだ」と怒られたりしたこともあったり、多少は存じ上げていただけに、ちょっとショック。

そのビルマでロケした映画も、奥様であった脚本家の「ビルマの土は赤い」という言葉にも関わらずモノクロだったので、80年代にその「ビルマの土は赤い」を映像にするためにわざわざリメイクしたほどだし、とにかく監督に質問すると「ナッ◯さんが、ナッ◯さんが」と奥様/脚本家の名前がすぐ出て来ていたのが、その「ビルマの土は赤い」をモノクロで撮ってた時(ちなみにいかに赤い土は撮れていても、モノクロのオリジナルの方が圧倒的に凄い映画だ)に、「ワイフとうまく行ってなくて」と言っているだけならまだしも、「明日の新聞を見ろ」と言って去りながら翌日には妻とプリンスホテルのプールにいたりとか、入院中の彼女の見舞いに行って結婚を諦めるように口説いたりしていたとは…。

いやその「監督」はほとんど「天然」タイプな天才肌の方だったし、作品も美的センスがずば抜けている一方で、ご自宅のスリッパは不変のミッキーマウス、映画が好きで好きでしょうがなくて、子どものような純真さを亡くなるまでお持ちだったと思っていただけに…。いや別に不倫だけなら驚かないけど、有馬稲子が淡々と綴っているその彼の「大人の男のずるさ、いやらしさ」とのギャップが激しくて。

でもそのショック以上に心打たれるのは、今となっては「開き直った」というか、そういう事情を語っているときでも有馬稲子という女優の芯の強さと大変な真面目さ、一方で自分を見る目の確かさだ。「監督」にさんざん裏切られたり騙されたりする下りでも、ぜんぜん泣き言になっていないで、冷静。

また裏切られてもその監督の類いまれなる才能が失われてはいけないと必死になったり、その後に結婚したのも中村錦之助という俳優の天性に惚れたからであり、だからその天性に尽くそうとするところとか、恐ろしく真面目で誠実な、日本の女性って大変だ…。

有馬稲子の映画といえば、僕がとくに好きなのはまず、その「監督」との恋を振り切って彼女が結婚することになる中村錦之助と共演した、内田吐夢の『浪花の恋の物語』、とにかく美しい映画だが、有馬さんによれば「昔は私がとっても美しい女優であったことを信じられない人を納得させるのに今でも役立ってる」って、こういう言い方が凄い。

小津安二郎『東京暮色』の有馬稲子

あと小津安二郎の僕にとっては最高傑作である『東京暮色』と、吉田喜重の『告白的女優論』なのだが、「そういうことがあったんだ」と思ってみると、ただとっても美しい女優であるだけない体当たりの存在感というか、その凄みがどこから来ていたのかが分かるような気がする。たとえば『東京暮色』で頼りない恋人に絶望して妊娠中絶してしまった後の彼女の、身体全体にみなぎる痛みと悲しみ。彼女とくだんの監督の情事は1953年から7年間だというが、『東京暮色』は1957年の映画だ。

さらに言えば、その監督の代表作のひとつとなった、赤ん坊をめぐる大人たちを描く風刺喜劇のポスターを見て、彼女は以前に自分が生めなかった彼の子のことを思い涙ぐんだのだとか…。その妊娠が正確にはいつのことだったかは不明だが、小津がそのことを承知でキャスティングしたとは、さすがにあり得ない話だろうか? いや小津は知らなかったとしても、彼女はだからこそあの役をやったのではないか?

吉田喜重『告白的女優論』予告編

あるいは『告白的女優論』では三人の女優の役を最初に選んでもらったのは有馬稲子だったと吉田監督にうかがったことがあるが、そのときに彼女は迷わずあの役を選んだという。なるほど…。

これもあまり考えたくない推測だけれど、吉田監督や共演者で監督の妻の岡田茉莉子もまた、そんな有馬稲子の味わった試練も知ってただろうし、だから吉田さんは彼女のためにあの役を書き、そしてなによりも重要なことは、有馬稲子はそのことを百も承知でこの役を選んだのではないか? そういえば吉田さんからその裏話を聞いたときにも、なんだか妙な含みがあったような気もする。

しかしスター女優って、すごい生物なんだな…。










しかし映画って、つくづく因果な稼業ではある…。

4/15/2010

エリア・カザン『紳士協定』(Gentleman's Agreement, 1947)

『紳士協定』のジョン・ガーフィールド

たぶん20年くらい前(もうそんな歳なんだな自分も)の日本初公開時あたりに見たはずの、エリア・カザン監督作品。20歳前の若造というと、こういう直球の社会派/良心派名作というのは敬遠しがちなところがあって、「説教臭くて平板な映画」というくらいの印象しか持たなかった気がするし、ほとんど忘れていたこの映画を、見直すことができた。

最初に見たころには、「良心的二枚目ハリウッド・スター」グレゴリー・ペックへの青臭い抵抗感も、あったのかも知れない。…というわけで今日のブログのトップ画像は、やはりジョン・ガーフィールドにしました。いやジョン・ガーフィールドがよくなかった映画なんてないと思うが、この映画で主人公の幼なじみのユダヤ人役のガーフィールドも見事。

ラストの方、やはりそこは「ハリウッド映画」なのでハッピーエンドに持って行かねばならず、映画の主題的な論点をあえて歪めてまで主人公の婚約者ドロシー・マクガイアを説得して改心させなければならないハリウッド的必然があるわけだが、この本来ならまったく不要であるだけでなく、会話の中身として無理があり過ぎのお説教のシークエンスですら、ガーフィールドのお説教は真摯で説得力があって、鼻白むことなく見られてしまう。素晴らしい俳優だ。

『紳士協定』デイヴ(ジョン・ガーフィールド)の説教/説得

そうはいっても、差別にまつわる人間と人間社会の心の闇を照射するクライマックスの後にとって付けたような、話の中身は上っ面なだけのお説教でなんだか丸く納まってしまうところが、映画の強さを弱めてしまってはいるだろう。「説教臭くて平板な映画」の印象も、この終わり方のせいもあるのかも知れない。

またここで50年代アメリカ映画作家の多くがプロダクションコードの検閲を逃れスタジオの圧力をかわすためにしばしば採用した、あからさまにとってつけたように見えるエンディング、「これはご都合主義です」と暗示することでハッピーエンドを要求するハリウッドの制度を批判さえするエンディングという手段がとれないのも、最後まできっちり演出力を発揮してしまうのも、エリア・カザンという生真面目な作家の、よくもわるくも「個性」なのだろうが。

たとえばダグラス・サークは『天が与えるものすべて』のラストを、あくまでスタジオに再現されたものであることが露骨にわかる「窓の外に広がる大自然の雪景色」らしきものに、ご丁寧に鹿までを完璧なタイミングで配して見せたりする底意地の悪さを見せている。


だがカザンは、『波止場』でもバド・シュルバーグの原作がリンチされたテリーのボロボロの死体で終わるところを、リンチを受けても不屈の意志で立ち上がるテリーが港湾労働者たちの先頭に立って仕事に向かう、ストレートに感動的で高揚感のあるラストに演出した


『波止場』エンディング


社会に蔓延し、行動原理として潜在意識にまで刷り込まれた差別意識。それが自覚的・意識的な差別主義者などの「差別する側」だけでなく(というか、カザンの映画はそこはほまるで相手にしていない)、自分では「差別を憎む側」だと思っている人間たち、そして「差別される側」にもまた浸透してしまってる現実を冷徹に炙り出しにし、一見良心派で「差別を憎んでる」と主張する(あるいは主張することで自己正当化したい)者たちの「紳士協定」、お互いに不快なことだから言及しないようにしようという態度こそが、ある意味もっとも差別的であるかも知れないことを、この映画は丁寧かつ簡潔に見せて行く。

観念的な会話中心になりがちなところを、相手が発言中に台詞が始まって言葉がオーバーラップして展開させるなどのテクニックを駆使し、日常生活のように生き生きと見せて行くカザンの演出も冴えわたった、「大人の映画」であり、よくも悪くも良質の映画の見本みたいなところがあるが、そのテーマはシャープで現代的で(最後の「お説教」とハッピーエンドを除けば)図式に陥らず、痛烈だ。


主題的な論点の展開でいえば、そこまで切り込んでおきながら、「声を上げればいい」だけでカタルシスになるのは、さすがに平板な説教に陥り過ぎているとは思う。

最終的にドロシー・マグアイアの主張する「それが現実なのよ」に対するペックの理想主義の二項対立に単純化されてしまう図式、そのペックの側が「アメリカ的理想主義」として強引に収斂するところが…まあそこがザナック製作の20世紀フォックス社会派映画の特徴であると同時に限界であり、そういうカタルシスを拒否したフォックス社会派映画といえば、ニコラス・レイの『ビガー・ザン・ライフ』くらいしか思い浮かばない。


このエンディングはレイと製作を兼ねた主演のジェイムズ・メイソンが、スタジオのフロント・オフィスには黙って劇作家クリフォード・オデッツに書かせたもの。それはこの映画が『紳士協定』のようなプレステージの高い企画ではなかったからこそ、可能だったのだろうが。



「寝た子を起こさない方が」という成功したユダヤ人資本家、あるいは名前を変えたりしてユダヤ人であることを隠してある程度の社会的な地位を確保した者(たとえば主人公の秘書)が、それが出来ない(あるいはやらない)ユダヤ人を蔑視する、ユダヤ人がユダヤ人を差別しているとも言えてしまえるような現実までをも、カザンの映画は照射する。

それも差別される側であるはずの彼らは「差別する側」の、この場合であればキリスト教徒白人アメリカ人の論理にのっかって、そっちに順応しない者たちを蔑視してしまうのだ。

同じユダヤ人(あるいは在日韓国朝鮮人でも、いわゆる旧・被差別部落民でもいい)どうしで、より元の出自らしい人々とそうでない人々が、「一緒にされたくない」とどこかで思ってしまっている、「差別する側」に無自覚に近づいてしまおうとする、「差別される側」の現実。

『紳士協定』
男やもめのグレゴリー・ペックと息子のディーン・ストックウェル。息子の「反ユダヤ主義ってなに?」というシンプルな疑問が、フィル・グリーンにその主題について記事を書くことを決意させる。


これはユダヤ人差別だからこそ起ることでもある。またそれが1947年のこのアメリカ映画を、21世紀初頭の日本における差別の現実にも通ずるものにしている。

『紳士協定』では見るからに “ユダヤ人の身体的特徴” ステレオタイプに合致した風貌のサム・ジャッフェ演ずる物理学教授に「ユダヤ人という人種は科学的には存在しない。ユダヤ民族とは観念である」と言わせる一方で、ポーラド系ユダヤ人と分かる名前を変えることで就職できた主人公のブロンドの秘書のように、自分からそうと言わなければユダヤ人だとは分からない人も多いことが、アメリカに蔓延する他の人種差別、たとえば黒人への差別とは大きく異なる(カザンがこの前に監督した『ピンキー』であるとか、『悲しみは空の彼方に』や『模倣の人生』に登場する肌が白い黒人女性のような、特異な例外はあるものの)ユダヤ人差別の特異性を示しているし、その特異性をきちんと踏まえることで、逆にこの映画は教条的なお説教に留まらない普遍的な力を得てもいる。

サム・ジャッフェ:典型的、あるいはステレオタイプ通りの「ユダヤ人」を想起させる身体

またこのユダヤ人差別の特異性は、現代の日本にまだ根強い差別、身体的にはいわゆる一般日本人と区別がまずつくはずもない「在日」やいわゆる「同和」への差別にも通ずることだ。あるいは、世界的にいえばたとえば性的マイノリティ、同性愛者への差別などでも同じことが言える。

隠そうと思えば隠すことができる、「差別される側」としてのアイデンティティの問題、「自分を隠すこと」が不可能でないだけに、そのことで一見すると苦難を乗り切れてしまうようにも見えてしまうし、逆にいえば「ユダヤ人」である、あるいは「在日である」「同和出身である」と自己主張しなければ自分もまた差別される側であることが無視されてしまいかねないし、こと現代の日本であれば、いわゆる「似非同和問題」が旧被差別部落民への差別をいっそう激しくしている現実もある。

この「差別される側」と「差別する側」が身体的に互換可能なことこそが、『紳士協定』のプロット(物語構造/仕掛け)を成立させている。非ユダヤ人の主人公、フィリップ(フィル)・スカイラー・グリーンは、その秘書とは逆に、自分はフィル・グリーンであるのにフィリップ・グリーンバーグが本名であるかのように装うことで「ユダヤ人になれる」、それが可能な交換可能性。

グレゴリー・ペック:典型的、あるいはステレオタイプ通りの白人キリスト教徒アメリカ人としての身体

彼がフィリップ・グリーンバーグなのだと思い込んだ秘書はだからこそ彼を信用して出自を明かし、リベラルを標榜して反ユダヤ主義についての記事をグリーンに依頼するような雑誌社が雇用でユダヤ人差別をしていた実態を暴く。だがその一方で、自分と同じように非ユダヤ人に見える彼にむかって、同じユダヤ人でも非ユダヤ人の白人キリスト教徒アメリカ人には見えないユダヤ人たちのことを「問題を起こす人々」であるかのように批判する、「あなたならお分かりでしょうけど…」と。

この瞬間、「差別される側」もまた「差別する側」の紳士協定の一部に取り込まれかねないリスクを常に抱えていることが明らかになるし、それは残念ながら現実にもしばしばあることであり、また「現実」からいえば彼らが生きて行くために必要な妥協でもある。ヴェラスケスが転向ユダヤ人の家系であることを隠していたから宮廷画家になれたように、あるいはカーク・ダグラス以前にはほとんどのハリウッド・スターが自分がユダヤ系であることを明かさなかったように。

『紳士協定』
非ユダヤ的な姓のグリーンからユダヤ的なグリーンバーグへ


それにサム・ジャッフェの人物がこの映画で言うように、ユダヤ人という民族に遺伝に基づく身体的な特徴としての実態は、ほとんどない。2000年のディアスポラがあり、19世紀以降のシオニズムに代表されるユダヤ人の世俗化があった後では、ユダヤ人であることの最大の定義とは「自分がユダヤ人であると思っていること」なのだ。

逆にいえば、ユダヤ人とはなんであるかについて、イスラエルを代表する現代映画作家アモス・ギタイはこう言っている、「ほとんどの民族はディアスポラ状態に置かれれば周囲に順応して、二、三百年もすれば吸収され消えてしまっている。ユダヤ人がユダヤ人であるゆえん、『自分たちが周囲とは異なるのだ、決して同じではないのだ』という確信を2000年間持ち続けて来られたことにある」

交換可能性:アモス・ギタイの『カドッシュ』では、パレスティナ人俳優ユーセフ・アブ・ワルダがエルサレムのユダヤ教超正統派コミュニティの大ラビを演じた。ユダヤ人とパレスティナ人、対立する二つの民族の差異は、当事者たちの多くが思っているほどには、絶対的なものではない。


それにしても、こと日本ではなりすましによる「似非同和」の利権問題までも後を絶たないだけに、変に神経質になっているからだろうか、『紳士協定』の根本的な物語構造/仕掛け(プロット)は、それだけ聞くとなにか倫理的な違和感を感じてしまうのはなぜなのだろう? 非ユダヤ人である主人公がユダヤ人のフリをすることは、それだけで「嘘をついている」から倫理的な問題が派生するというだけではない。「差別される側を装うこと」になにかかえって差別的な匂いを感じてしまうのは、なぜなのだろうか? 同じ人間だからこそ互換可能である、だから差別するのがおかしい、と考えるべきはずなのに。

文字であらすじを読んだ段階でそこにこだわってしまうと、この映画に反感を持ったままそれが増幅されて見終えてしまうこともあり得る。なぜなら、フィル・グリーンがフィリップ・グリーンバーグを装うことが倫理的なレベルで問われたり糺弾されることが、この映画にはまったくないのだ。

それどころか、フィル・グリーンが自分の体験を書き上げた原稿を渡された秘書が、その題名『私は8週間ユダヤ人だった』を見て真相を知るとき、倫理的な詰問を行うのは秘書の側ではなく、フィル・グリーンの方だ。


『紳士協定』原稿を完成させたフィル・グリーンと秘書の会話

「昨日までの私と今日の私のどこが違う? 同じ顔、同じ目、同じ鼻、同じ皮膚だ。なんならこの手を握ってみなさい。あなたと同じ身体だ」。「差別される側」の秘書が、「差別する側」の彼にこう詰問されているという構図だけで、これを「差別的だ」と思って批判したくなってしまう人も、こと日本でなら、いてもおかしくないと思う。

それが日本だけの問題だと言い切るつもりはない。同様の問題を、のちに「私の名はエリア・カザン。血統はギリシャ人、出身地によればトルコ人、そして叔父がある旅をしたためにアメリカ人である」と、そのアメリカに移民した叔父の旅を映画化した『アメリカ、アメリカ』で宣言することになる映画作家が、1947年のアメリカで扱っているのだから。

エリア・カザン『アメリカ、アメリカ』(1963)冒頭シーン

問題は、差別の問題を被害者への安易な憐れみで考える情緒的な態度であるべきか、人としてなにが正しくてなにが誤っているのかの、この映画の主人公の言葉で言えば「信念 principle」に関わることと見なすか、なのであり、「差別される側」「犠牲者」として考えるか、「同じ人間じゃないか」と考え平等を脅かすこととして捉えるかの違いなのだと思う。

憐れみの情緒で考える限りでは、「差別されている人たちは可哀想なのだから、その人たちを傷つけてはいけない」ということになるだろう。その考えからすれば、苦労して自分の出自を隠して秘書になっている彼女を詰問し、その矛盾、「君には私がキリスト教徒という素晴らしい栄誉を八週間も捨て去るなんて想像もつかないのだ。だからあえて言う、そう考えてしまうことこそが、反ユダヤ主義なのだ」と、彼女自身のなかにある差別意識を突きつけることは「残酷」でありやってはいけないことになる。

『紳士協定』
実はユダヤ人の秘書(ジューン・ハヴォック)


彼女だって「可哀想」ではないか、「傷つく」じゃないか。ただでさえ差別されているのに、可哀想ではないか。それは確かにそうだが、そこで終わってしまっていいのだろうか? それでは現状をただ漫然と続けされることに貢献するだけになりはしないか?

「可哀想」ではないか、「傷つく」じゃないか、つまりは「波風を立てない」「寝た子を起こさない」、「衝突を避ける」紳士協定こそが、差別を温存させているのではないか? それは「差別される側」への温情を見せかけながら、その実「差別される側を可哀想に思える自分」によって自己正当化をはかっているだけのことにも、なりかねない。

藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010-編集中)

このいわば「隠れユダヤ人」の秘書のなかにカザンの映画が「差別される側の自分達自身への差別意識」、もっとはっきり言ってしまえば自己のアイデンティティを否定的なものとして考えてしまうコンプレックスを見いだす以上に、「可哀想」ではないか、「傷つく」じゃないかと思ってなにも言わない「紳士協定」もまた、そう思う「差別する側」である自分たちを優位に置いていることが前提となっている。

相手を差別なく、本当に対等とみなすのであれば、彼女自身が「対等」になるためにも、自分たちのことを無意識に下位に置くそのコンプレックスに、彼女自身が気付かねばならないはずだし、平等で対等であるなら、そういう特別扱いぬきに、人としての誠意をもって向き合うべきであり、言うべきことなのではないか?

もちろん、その気付かせ方や指摘の仕方には、それなりの配慮は必要であろうが、どこまでが必要な配慮で、どこからが隠蔽への加担になるのか? どこからが「他人事として同情/憐憫を示しながら、その実関わろうともせずなにもしない」ことにつながるのか? 「私は差別を憎んでいる、可哀想だと思っている」と言いながら、なにもしないこと--なにもしなければ、自分の行動への責任を負う必要はない。「そうは思うけれど、現実は現実でそう簡単に変わらないのだから、言っても仕方がない」と言い続けることは、その実「言わないし行動もしないから、自分に責任はないし、よくないと思っているのだから私は差別主義者のような悪い人間とは違う」と。

『紳士協定』ドロシー・マグアイア、グレゴリー・ペック

『紳士協定』のなかでそうした一般的に「良心的な」市民を代弁するのが、ドロシー・マグアイアの演ずる主人公の婚約者であるのだが、物語の始まりの時点では、フィル・グリーンもまた、まだ漠然とそちらの側に属している。反ユダヤ主義いついての連載記事を依頼された彼はまず幼なじみのユダヤ人デイヴ(ジョン・ガーフィールド)に手紙を書こうとするのだが、彼の辛い経験を聞き出せば「傷つける」ことになると思うと、なにを訊いていいか分からない。統計や資料を漁っても、記事になることは見つからない。

だからこそ彼はその一線を超えて「ユダヤ人になろうとする」、デイヴが体験して来たであろうことを自分でも可能な限り体験しようとすることで、無意識のうちに彼はユダヤ人差別のある本質を突く行動に出ている。「差別する側」と「差別される側」がまったく互換可能であること、「反ユダヤ主義」「差別する側/差別される側」は人間たちの観念のなかにあるだけであるという「現実」。

この互換可能性をアクションで視覚的に示すこと、文字通りの目に見える現実として「昨日までの私と今日の私のどこが違う? 同じ顔、同じ目、同じ鼻、同じ皮膚」であることの現実と、ドロシー・マグアイアの婚約者の言う、その実いかに社会的に共有されていようがその社会のなかの観念でしかない「現実」の相克が、『紳士協定』を優れて映画的なドラマにしている鍵なのだろう。なぜなら、映画のキャメラそれ自体は機械であり、「ユダヤ人」なら「ユダヤ人」という役柄設定を除けば、その俳優の同じ顔、同じ目、同じ鼻、同じ皮膚しか、映し出しはしないのだから。

この構造があるからこそ、その相克の頂点で、この映画は「観念としての現実」として社会が思い込みながら、同時のその思い込みに気付くまいとしている隠蔽の底にある、真の残酷さを見せつける。

『紳士協定』クライマックス/真のラスト

ドロシー・マグアイアは「わたしはデイヴの側だし、あなたの側だとなぜ分かってくれないの」と主人公に懇願する。グレゴリー・ペックは「僕は誰の側にもついた覚えはない。ただ『彼ら』の側には決していないだけだ」という。ドロシー・マグアイアは目の前と自分の周囲の半径5m程度しか見えていない「情緒」でしか考えておらず、グレゴリー・ペックの「信念」の問題を共有してはまったくいない。

倫理の問題として誰に対してであろうと差別が許されることではないと考えるか、情緒的に自分の周囲に見える相手だけを考えて憐れみのレベルで「差別されている人たちは可哀想なのだから、その人たちを傷つけてはいけない」に留まる「人間性」が正しいのか?

そこに主人公の息子ディーン・ストックウェルが「汚いユダヤ人」と子供たちにいじめられて帰ってくる。その時にドロシー・マグアイアは「そんなの嘘よ。そんなひどい嘘を信じちゃだめ。あなたも私も、ユダヤ人なんかじゃないのよ」と言ってしまう。

やはり差別と偏見、そして反戦思想を扱ったジョゼフ・ロージーの『緑色の髪の少年』に主演したディーン・ストックウェル

確かに「汚いユダヤ人」でないことで、ディーン・ストックウェルがいじめられる理由はなくなるかも知れない、この場限りの自分の周囲半径5mの話では、目の前の子どもの悲しみに同情するのは間違ったことではない。ユダヤ人であることを隠している秘書に彼女の内なる反ユダヤ主義を指摘して「傷つける」のが残酷であるように。

だがそこに問題の本質はない。「差別は許されない」という問題のはずが、ドロシー・マグアイアにとってはそれがいつのまにか「私は差別をしないし、差別されている人の『側』に立つやさしい人間なんだ」という自己正当化に横滑りしてしまっている。情緒と憐憫で考える「差別はいけない」が、そもそもが自分を上におき、「差別される側」を「憐れみをかける側」に読み替えているだけで本質的な構造がまったく変わっていないことが、この瞬間に明らかになる。

そもそも、なぜ人は差別をするのか? 他者に対して自分を上位に置こうとするときに、もっとも分かり易い上に自分に責任がない、「世の中がそうだから」、ドロシー・マグアイアの台詞でいえば「それが現実だから」で済まされることだから。それこそ「私はそうは思わないけれど、世の中そうだから仕方がない」。

もちろん、それで済むわけがない。

我々は差別という問題があるとき、しばしば大きな誤解をしているのではないか? 日本でならいわゆる「同和」への差別、あるいは在日コリアンへの差別を、我々は「彼ら」の問題としてのみ考えがちであり、「可哀想だから解決しなければ」に留まってしまいがちだ。だがよく考えてみれば「彼ら」は我々が差別をするから、その結果としてたまたま「差別される側」になってしまっているだけに過ぎない。「差別」とはあくまで、「差別する側」のやっていることの問題であり、「差別する側」になってしまう無自覚な意識の構造の問題であって、およそ「現実」の問題ですらない。あるのは現実世界の人間たちの頭のなかにある思い込みだけだ。

その「現実」をこそ、『紳士協定』は見るからに白人キリスト教徒アメリカ人としての見かけ/身体を持つグレゴリー・ペックが、「グリーン」を「グリーンバーグ」と名前にユダヤ人を示す記号を付け加えるだけで「ユダヤ人」という観念だけの表象記号を背負えること、「差別という現実」なぞなく現実には同じ人間であって互換可能ですらあることによって、見せつけている。

4/11/2010

井上ひさし氏、死去

写真は戯曲『父と暮らせば』の映画化作品(監督:黒木和雄)より。

映画版では黒木さんは「ひたすら井上ひさしさんの素晴らしい戯曲におんぶにだっこで、私はなにもやってません」と繰り返していたが、井上ひさし氏が井上ひさし氏で言うことには自身が自分で書いた台詞はなく、すべて被爆者の膨大な記録証言から引いて来た言葉で構成されているのだとは、本人の弁。

享年75歳、この9日に肺がんで死去。

4/08/2010

ヴェラスケスは転向ユダヤ人だった?


表題画像を、ディエゴ・ヴェラスケスの『台所の風景』(シカゴ・アート・インスティテュート所蔵)に替えてみた。複写画像だとなんとなく見過ごしてしまうが、シカゴの美術館で比較的小さな部屋になにげなく飾られたこの絵の本物の持つ迫力というかなんというか…。こういう衝撃を受けた絵画というのも、そう滅多に体験することではない。

ヴェラスケスは従来は下級貴族の出身と言われ、宮廷画家として活躍、宮廷内の役職としても昇進を重ねた出世の鬼だったこと以外に、その人生のことはあまりよく分かっていなかった。そうなると「そんな俗物になぜこんな絵画が描けたのか」というのが疑問になるほどなのだが、最近の研究ではどうも転向ユダヤ人の出身で、その出自を隠し通した人生だったらしい。

そう言われてみると…




なるほど、と思わせられる。実生活では宮廷社会で地位をどんどん上げて行った出世の鬼であった一方で、王族もそこに使える人々(なかには、皇太子の遊び相手であった道化の小人などの身障者や、黒人などマイノリティもいる)も庶民も同じ視線で描き続けたことの一見すると矛盾であることが、実は転向ユダヤ人であった出自を隠し通して生きて来たというだけで納得できるだけではなく、単に宮廷画家としての栄誉に浴しただけでは計り知れないその作品の奥深さ、日常をひたすら丹念に描きながら人間とはなにかを静かに問いかけるその精神性も、そういう出自があったからこそではないか?

『ラス・メニーナス』で自分自身を大きく描き込んでいることの意味というのも…


…ピカソは「王家の人々と芸術家が対等であることの宣言」とみなして、より画家が巨大化した翻案などを描いているのだが、一方でこの代表作、一見宮廷の栄華を描き留めたかのように見えるこの絵画でも、王族と対等に描かれているのは必ずしも彼だけでなく、マルガリータ王女を取り囲む侍女達、そのなかの一人の畸形の女性とも、また対等なのではないか?

そうしたヴェラスケスの絵画の世界観、人間観というものは…


…彼が転向ユダヤ人であったことを知れば、より複雑になって来る気がする。

この『ラス・メニーナス』に描きこまれた自画像というのが、元は横向きだったのが正面に描き直されたことが、X線調査で判明もしたらしく、そうなると貴族の証である赤い十字架をあえて胸に描き込んでいる(しかもキリスト教徒の証しである十字架をあえて…)のも、やっていることは一見すると真逆ながら、この下に画像を載せたフェリックス・ヌスバウムの自画像に通じるものにすら思えて来る。

フェリックス・ヌスバウム「ユダヤ人身分証明書を手にした自画像」1943年

「私は私として、ここにいる。迫害されようが自分で出来る限りのことをすることで生き延びて、自分の人生をまっとうしようとしている。あなた達は私という人間を、どうしようというつもりなのか? 私が私であることを、本当に奪えるとでも思っているのか?」という問いを、画面のこちら側の我々に投げかけんばかりに、我々を見つめるその眼差し。

このテーマを扱ったNHK『日曜美術館』は、今週日曜の午後8時から再放送です。