サッカー日本代表の監督だったイビチャ・オシム氏によれば、サッカーには国民性が現れるという。
日本サッカーを指導した体験から氏が指摘した日本人の国民性のなかに、うろ覚えの言い換えになってしまって恐縮だが、
・チームワークが機能的でなく集団のなかで個人の能力を生かすのが苦手で、なあなあで済ませる。
・失敗や敗北と、その悔しさや責任をしっかり受け止めて、そこから学習することができない
この二つがあるという。
W杯の初戦はカメルーンにまぐれ当りだったとしても勝ったんだから水を差すのも難だとも思わないでもないが、オシム氏の指摘は、サッカー日本代表チームはともかく、現代のニッポン人全般について、笑っちゃうほど図星である。
たとえば対カメルーン戦と並ぶ国家的二大慶事のように喜ばれている小惑星探査機の「はやぶさ」である。
一時は通信途絶で絶望視されたのが戻って来たんだから、新約聖書の「放蕩息子の帰還」よろしく、喜ぶぶんには、まあ、いいんだけど、それだったら「愛」の問題であって、「成功」「失敗」とはまた別次元の話だろうに。
だいたい相手は「息子」でなく機械なのにこんなに愛情を注ぐのも日本的なアニミズムへの先祖帰りとして微笑ましいことかもしれないけれど、とはいえ機械は機械だし、なによりもこれはあくまで科学調査だったはずだ。
科学に安易な情緒を、持ち込んではいけない。
科学的なプロジェクトとして、「はやぶさ」が失敗であるのは、否定しようがない。
トラブルが多発したことだけで、失敗だというのではない。単にプロジェクトの根本的な科学的目標を、まったく達成できていない、わざわざ小惑星に向けて探査機を送る理由からすれば、意味のあることはできていない以上、およそ成功とは言えない。どういいわけしようが、失敗は失敗なのだ。
物理的に探査機を小惑星にまで飛ばす理由はなにかといえば、物理的にその土壌サンプルを採取して組成を確認すること、それが太陽系の成立の謎をとく大きな手がかりになるから、だ。そうでなければわざわざ、小惑星まで人工衛星を飛ばすこと、そのために膨大な資金とマンパワーと技術力を費やすことの、意味がない。
「はやぶさ」はそれに失敗している。いちばん肝心だった小惑星への着陸と、そこでの土壌サンプル採取が、どっちも成功していないのだから。
だからこの失敗はちゃんと失敗として受け止め、なぜ失敗したのか、計画や設計の不備をちゃんと検証しなければ…だいたい税金であり、事業仕分けの対象にまでなってるんだぜ?
失敗した着陸の棚ぼたで、舞い上がった砂埃の一部が奇跡的に採取されている可能性がある、だから土壌サンプル採取が出来ていたらいいじゃないかという話に世論は流れがちだが、それこそ運が良かっただけの棚ぼたで、着陸に失敗したこと、サンプル採取装置が機能しなかった失敗を見過ごすとしたら、どうしようもなく自分たちに甘い話だ。
オシム氏の指摘した通りである。現代ニッポン人は確かに、失敗や敗北とその悔しさをしっかり受け止めることができない。だから無限にいいわけや誤摩化しや責任転嫁を続ける。
そして責任転嫁と自己保身、その自己保身を担保するための集団の維持だけが最優先され、集団はチームワークによる目標達成の手段としての機能を失い、集団の成員はそれぞれに、そもそもなんの目標でその集団に自分は参加しているのかすら、見失ってしまう。
いや別に「はやぶさ」に限った話ではない。
今やこの国で起ってることの大部分が、同じ病に取り憑かれている。政治から会社経営から、映画作りから、家族関係や子育てに至るまで。
子育てなんてそもそも、「失敗」するのが当たり前だろうに。
もちろん「はやぶさ」は、失敗でも構わなかったのである。
宇宙開発には失敗はつきものだ、というよりプロトタイプなんだから、失敗することが前提なのだ。誰も行ったことがなくよく分からない場所で、誰もやったことがないよく分からないことを、やるんだから。
だからこそ失敗によって得られた情報をちゃんと検証し、失敗から学習して次に生かせばいいのだし、そもそも「はやぶさ」はいわば試験的なプロトタイプに過ぎない。プロトタイプの役割とは、失敗してその失敗の原因をめぐる情報を収集・検証することだ。
失敗して、そこで欠陥を検証し、より完成度の高い機械を作るための「捨て石」なのだから、失敗は失敗でもそれなりの成果や役割は果たし得るのだから。
筆者の本業である映画作りであれば、NGテイクがいくらあったって、OKテイクしか完成した映画には関係がない。
体力的・時間的、あるいは経済的な限界はあるから無限に繰り返すのはさすがに無理だとしても、なかなかOKが出ないからってコンプレックスに思う必要は、本来ならない。
どんなに失敗しようが、その経験がOKテイクに生かされればいいのだから。
失敗が許されない社会は、失敗から学ぶことが封じ込められた社会でもある。
と同時に、自らの失敗や敗北の認識を病的なまでに忌避する社会でもある。
そんななかで育てば、そろって引きこもり予備軍くらいにしかなりようがない。だって失敗することをそこまで病的に恐れるなら、なにもせず、誰とも出来る限り接しないことが、最良の逃げ道になるのだから。
だったら引きこもってたほうが、他人に迷惑や危害を与える可能性に恐れおののくことがないぶんだけ、まだ健康なんじゃないか、とすら思える。
失敗を回避するための努力には、失敗から学ぶことが不可欠だ。
しかし今の日本はむしろ、失敗を忌避する社会になっている。失敗を絶対に許さない社会になっているあまりに、失敗してもそれを認識できない。
失敗を回避する努力をするなら、確実に失敗は減る。失敗を回避することとは、想定されるリスクへの対応をあらかじめプロジェクトのなかに盛り込んでおくことだからだ。
それに対し、失敗を忌避する欲望(というか病理)は、より失敗を増やす結果にしかならない。失敗を恐れるあまりに、失敗につながる可能性のあるリスクを認識することからも、逃避してしまうのである。
それがバブル崩壊という大失敗後の、そして冷戦崩壊後の日本の、失われた20年の最大の特徴なのだとも言えるだろうし、「ゆとり教育」というのもまた、教育現場においては失敗のリスクを忌避し認識しようとしない教育でしかなかった。
そういう世代が今のニッポンの若者であり、そういう若者は従え易いのをいいことに、いい歳した大人が彼らを子分にして悦に入ってるなかでは、失敗を認識することは常に忌避される。
とくにその子分を作ることの内輪の論理にのみ血道をあげるような大人(って言えるんだろうかそれで?)たちは、自分の失敗は決して認めない。そういう大人の背中を見て、ご機嫌をとって育たなければならない団塊ジュニア以降は、まことに不幸としか言いようがない。これじゃ児童虐待と紙一重、というかその実、虐待的な成長環境そのものである。
これでは失敗してもそれを認識しない風潮、決して失敗から学べない社会の大勢は、ますますその病理を深めて行くことにしか、ならない。
もちろんその先に、未来なんてものもない。
彼らの将来は、予め去勢されてしまっているのだとさえ、言えてしまうほどに。
藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』(2006)
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010、編集中)
それにしてもはやぶさに「おかえりなさい」はともかく、「見事な帰還」「日本の誇り」に至っては、まことにお笑い草であるとしか言いようがない。
「帰って来た」って、元から地球大気圏に突入する際に燃え尽きる使い捨て設計だぜ(笑)。採取カプセルだけは地上に戻して回収するのは、物理的に小惑星の土壌サンプルがなければ精確な分析ができない、電子望遠鏡による調査推測では限界があるから「はやぶさ」のプロジェクトは科学の進歩にとって重要だったはずなのに、これじゃただ「行って来ました、帰って来ました、おかえり〜」と、科学とも技術とも無関係な極めて薄っぺらな情緒レベルに陶酔してるだけだ。
いい歳をした大人まで含めて、まるで「初めてのおつかい」の幼稚園児のメンタリティである。お金を落としてしまっても、「よくやったねぇ〜。がんばったね〜」と子どもを甘やかす…というか、他人に甘やかされる前に、まず自分で自分を甘やかしている。
日本サッカーを指導した体験から氏が指摘した日本人の国民性のなかに、うろ覚えの言い換えになってしまって恐縮だが、
・チームワークが機能的でなく集団のなかで個人の能力を生かすのが苦手で、なあなあで済ませる。
・失敗や敗北と、その悔しさや責任をしっかり受け止めて、そこから学習することができない
この二つがあるという。
W杯の初戦はカメルーンにまぐれ当りだったとしても勝ったんだから水を差すのも難だとも思わないでもないが、オシム氏の指摘は、サッカー日本代表チームはともかく、現代のニッポン人全般について、笑っちゃうほど図星である。
たとえば対カメルーン戦と並ぶ国家的二大慶事のように喜ばれている小惑星探査機の「はやぶさ」である。
一時は通信途絶で絶望視されたのが戻って来たんだから、新約聖書の「放蕩息子の帰還」よろしく、喜ぶぶんには、まあ、いいんだけど、それだったら「愛」の問題であって、「成功」「失敗」とはまた別次元の話だろうに。
レンブラント・ファン・ジン 『放蕩息子の帰還』 1666-1668年頃 |
だいたい相手は「息子」でなく機械なのにこんなに愛情を注ぐのも日本的なアニミズムへの先祖帰りとして微笑ましいことかもしれないけれど、とはいえ機械は機械だし、なによりもこれはあくまで科学調査だったはずだ。
科学に安易な情緒を、持ち込んではいけない。
科学的なプロジェクトとして、「はやぶさ」が失敗であるのは、否定しようがない。
トラブルが多発したことだけで、失敗だというのではない。単にプロジェクトの根本的な科学的目標を、まったく達成できていない、わざわざ小惑星に向けて探査機を送る理由からすれば、意味のあることはできていない以上、およそ成功とは言えない。どういいわけしようが、失敗は失敗なのだ。
物理的に探査機を小惑星にまで飛ばす理由はなにかといえば、物理的にその土壌サンプルを採取して組成を確認すること、それが太陽系の成立の謎をとく大きな手がかりになるから、だ。そうでなければわざわざ、小惑星まで人工衛星を飛ばすこと、そのために膨大な資金とマンパワーと技術力を費やすことの、意味がない。
「はやぶさ」はそれに失敗している。いちばん肝心だった小惑星への着陸と、そこでの土壌サンプル採取が、どっちも成功していないのだから。
だからこの失敗はちゃんと失敗として受け止め、なぜ失敗したのか、計画や設計の不備をちゃんと検証しなければ…だいたい税金であり、事業仕分けの対象にまでなってるんだぜ?
失敗した着陸の棚ぼたで、舞い上がった砂埃の一部が奇跡的に採取されている可能性がある、だから土壌サンプル採取が出来ていたらいいじゃないかという話に世論は流れがちだが、それこそ運が良かっただけの棚ぼたで、着陸に失敗したこと、サンプル採取装置が機能しなかった失敗を見過ごすとしたら、どうしようもなく自分たちに甘い話だ。
オシム氏の指摘した通りである。現代ニッポン人は確かに、失敗や敗北とその悔しさをしっかり受け止めることができない。だから無限にいいわけや誤摩化しや責任転嫁を続ける。
そして責任転嫁と自己保身、その自己保身を担保するための集団の維持だけが最優先され、集団はチームワークによる目標達成の手段としての機能を失い、集団の成員はそれぞれに、そもそもなんの目標でその集団に自分は参加しているのかすら、見失ってしまう。
参加する目的がそもそも、どんな集団でもいいから「自分を認めて欲しい」だけだったら、そもそも出発点からして倒錯してることには、なるんだろうが。
いや別に「はやぶさ」に限った話ではない。
今やこの国で起ってることの大部分が、同じ病に取り憑かれている。政治から会社経営から、映画作りから、家族関係や子育てに至るまで。
子育てなんてそもそも、「失敗」するのが当たり前だろうに。
もちろん「はやぶさ」は、失敗でも構わなかったのである。
宇宙開発には失敗はつきものだ、というよりプロトタイプなんだから、失敗することが前提なのだ。誰も行ったことがなくよく分からない場所で、誰もやったことがないよく分からないことを、やるんだから。
だからこそ失敗によって得られた情報をちゃんと検証し、失敗から学習して次に生かせばいいのだし、そもそも「はやぶさ」はいわば試験的なプロトタイプに過ぎない。プロトタイプの役割とは、失敗してその失敗の原因をめぐる情報を収集・検証することだ。
失敗して、そこで欠陥を検証し、より完成度の高い機械を作るための「捨て石」なのだから、失敗は失敗でもそれなりの成果や役割は果たし得るのだから。
筆者の本業である映画作りであれば、NGテイクがいくらあったって、OKテイクしか完成した映画には関係がない。
体力的・時間的、あるいは経済的な限界はあるから無限に繰り返すのはさすがに無理だとしても、なかなかOKが出ないからってコンプレックスに思う必要は、本来ならない。
どんなに失敗しようが、その経験がOKテイクに生かされればいいのだから。
ところが、私事で恐縮で、かつ一部の人への直接批判になるのは心苦しいことながら…
ちょうど一年ほど前から大阪で撮影して来た『ほんの少しだけでも愛を』という集団即興実験では、大部分の出演者がまったくそれがわかっていなかった。
そういう現実的な認識すらなく、仮にも国際的な評価を得ている監督に映画に出られるという「夢」が手近に転がってた、ということだけだったんだろうか?
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2014、編集中)
あらかじめ自分が勝手に思い込んだ自己イメージがあり、それが作品として提示するにはあまりに薄っぺらで幼稚な自己満足に過ぎないと分かると(…って、誰しも自己イメージなんてそんなものである)、チック症状は出るわ、思考回路も感情も停止するわ、ヒステリーを起こすわ…。精神医学的にいえば大変な惨状だったのが正直なところ。
なにしろ即興である以上、そして演出家の個性からしても、出演者がそのような病理を抱えているのなら、映画がそのような病理についての作品になることは、避けられない。いやむしろ、それこそが正直で真摯な映画なのだろうが、ただ魅力的であるか、観客の共感を呼べるかどうかは、また別問題にはなるところは、確かに難しい…。
いかにモノ作り、それも即興的で身体を使う作業にはセラピー効果があるからって、これでは必要なのはセラピー効果もある創造作業ではなく、本格的なセラピーそのものじゃないかと言いたくもなるし、それもグループ・セラピーの前にまずみっちりと個人面談の診察がないことには、なにしろ社会性が極度に低く、集団であること自体が過大なストレスにも、なるようなのだから。他人に接することそれ自体に、自分を「失敗」と見なされることへの恐怖が潜在的につきまとっているのだから。
「集団のなかで自分が認められたい」が最優先、それしか欲望がないのであれば、もともと出発点からして病理ということにしかならないわけだが…。だって思春期をとっくに過ぎて「自分を認めて欲しい」が最優先されるなら、それは定義上、すでに自我の確立が阻害された人格障害の症状になってしまう。
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010、編集中)
まして即興映画なんて、最初から「正直で、いい映画を作ること」以外に、脚本で決められた方向性で具体的に限定された目標があるわけでも、予算があって出資者がいて、そこから要求される商品価値が想定されているわけでもない。
むしろ姜尚中氏のベストセラーではないが、うまく行かずに『悩む力』こそが、最後には撮れるはずのOKテイクの質をより高めるはずだ。
映画なんだから、最終的に他人様であるお客を感動させるためのものなんだから、そこにこそひとつひとつのシーンの最終目標が、あるはずだ。まして最終的にそれを見る観客の人生は、作ってる我々のそれと同じくらいに、失敗や挫折だらけのはずなんだから、「それをどう生かすのか」が、「自分がどう生きるか」に通じるものに他ならない。
ところがこれが、まったく伝わらない。
「集団のなかで自分の存在を認められること」以上の目標が、まったく見えていないような社会で育ってしまっていれば、「国際的に評価されてベルリンだとかで上映される映画」を作るなんてこと自体が、夢物語どころか、「遊星よりの物体X」か「小惑星イトカワ」くらいにリアリティのない話、つまりは「夢」にしかならないのだろうか?
彼らの大部分が若い世代であることを考えると、気の毒にもなってくる。
それも前回の同様の実験『ぼくらはもう帰れない』(2006)では大部分が学生だったのが、今回は若いといっても将来が未知数の学生ではなく、ある意味すでに社会の成功のレールからは外れているフリーターかニートに近い立場なのだ。それが世間並み=月並みの「成功」の自己イメージを希求してどうするんだろう?
藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』(2006)
そうこうしているうちに、自分の多分に自分に甘い自己イメージの再現のつもりで「いい人の役」か「ヒーロー」を必死でやってるつもりが、かえってその人間的/精神的な限界が、ちゃっかりとキャメラには撮られていることになる。
それに気付いて、自分のほんとうの姿を受け入れられれてこその即興なのだが、ほとんどの人間にはそれができない。
真摯で本気で悩んでいるのなら、それだけでもなんらかの芸術的な美しさはある。だが忌避している姿は、醜悪なだけでなんの魅力もなく、偽りしかそこには写らない。
だが我々の映画がこの国の社会の【今】を捉えているものなのだとしたらも、だからこそ自分たち自身こそがあまり見たくない、認識したくないものにはなるだろう。
なにしろ自分達の存在自体が【失敗】なのだ、ということも、なりかねないのだから。
バカバカしい話である。人生が成功したかどうか自体、最低限でも死ぬまでは絶対に分からないのが、人間だというのに。
ましてモノを作ってる人間なんて…「知ってるかね? ファン・ゴッホは死ぬまでに一枚しか絵を売っていない。それが芸術家というものだ」というのが、ロバート・アルトマンの口癖だった。
フィンセント・ファン・ゴッホ『耳を切った自画像』
『ぼくらはもう帰れない』の決め台詞は、「自分の背中、自分では見られないですから」と「俺ってこんな顔してるんだ」だった。
失敗が許されない社会は、失敗から学ぶことが封じ込められた社会でもある。
と同時に、自らの失敗や敗北の認識を病的なまでに忌避する社会でもある。
そんななかで育てば、そろって引きこもり予備軍くらいにしかなりようがない。だって失敗することをそこまで病的に恐れるなら、なにもせず、誰とも出来る限り接しないことが、最良の逃げ道になるのだから。
だったら引きこもってたほうが、他人に迷惑や危害を与える可能性に恐れおののくことがないぶんだけ、まだ健康なんじゃないか、とすら思える。
失敗を回避するための努力には、失敗から学ぶことが不可欠だ。
しかし今の日本はむしろ、失敗を忌避する社会になっている。失敗を絶対に許さない社会になっているあまりに、失敗してもそれを認識できない。
失敗を回避する努力をするなら、確実に失敗は減る。失敗を回避することとは、想定されるリスクへの対応をあらかじめプロジェクトのなかに盛り込んでおくことだからだ。
それに対し、失敗を忌避する欲望(というか病理)は、より失敗を増やす結果にしかならない。失敗を恐れるあまりに、失敗につながる可能性のあるリスクを認識することからも、逃避してしまうのである。
それがバブル崩壊という大失敗後の、そして冷戦崩壊後の日本の、失われた20年の最大の特徴なのだとも言えるだろうし、「ゆとり教育」というのもまた、教育現場においては失敗のリスクを忌避し認識しようとしない教育でしかなかった。
そういう世代が今のニッポンの若者であり、そういう若者は従え易いのをいいことに、いい歳した大人が彼らを子分にして悦に入ってるなかでは、失敗を認識することは常に忌避される。
とくにその子分を作ることの内輪の論理にのみ血道をあげるような大人(って言えるんだろうかそれで?)たちは、自分の失敗は決して認めない。そういう大人の背中を見て、ご機嫌をとって育たなければならない団塊ジュニア以降は、まことに不幸としか言いようがない。これじゃ児童虐待と紙一重、というかその実、虐待的な成長環境そのものである。
これでは失敗してもそれを認識しない風潮、決して失敗から学べない社会の大勢は、ますますその病理を深めて行くことにしか、ならない。
もちろんその先に、未来なんてものもない。
彼らの将来は、予め去勢されてしまっているのだとさえ、言えてしまうほどに。
その意味では、『ほんの少しだけでも愛を』の出演者たちの一部もまた、現代ニッポンの大人達の犠牲者であり、実際にこの映画でも、自分達が不当に抑圧された立場にあることを自己認識すらできないほど悲惨な存在として、ちゃんと写ってはいる。
ただそういう、「自らアクションを起こす」ということができない人間を映画の物語叙述の軸に据えるのは、少なくとも古典的な映画作法のドラマツルギーでは、限りなく不可能に近い…。
それが演出の側にとってのハードルの高さにはなり、その本質を生かしながらどう退屈にはならない映画にするかで、編集で頭を抱えているわけではあるが。
藤原敏史『ぼくらはもう帰れない』(2006)
藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』(2010、編集中)
それにしてもはやぶさに「おかえりなさい」はともかく、「見事な帰還」「日本の誇り」に至っては、まことにお笑い草であるとしか言いようがない。
「帰って来た」って、元から地球大気圏に突入する際に燃え尽きる使い捨て設計だぜ(笑)。採取カプセルだけは地上に戻して回収するのは、物理的に小惑星の土壌サンプルがなければ精確な分析ができない、電子望遠鏡による調査推測では限界があるから「はやぶさ」のプロジェクトは科学の進歩にとって重要だったはずなのに、これじゃただ「行って来ました、帰って来ました、おかえり〜」と、科学とも技術とも無関係な極めて薄っぺらな情緒レベルに陶酔してるだけだ。
いい歳をした大人まで含めて、まるで「初めてのおつかい」の幼稚園児のメンタリティである。お金を落としてしまっても、「よくやったねぇ〜。がんばったね〜」と子どもを甘やかす…というか、他人に甘やかされる前に、まず自分で自分を甘やかしている。