最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

12/21/2007

メがテン…


…と、今さら古くさすぎるかつての流行語で恐縮だが、しかし唖然というか、理解不能というか、「なんでこうなるの?」と言う以外にどう形容したらいいんだろう? 薬害肝炎問題の国側の対応のことである。元々、原告側が期日としていたのは昨日(というか一昨日)で、舛添厚生労働大臣がなんとか首相を説得するから一晩だけ待ってくれ、と言って一日延びたはずだ。なんでもその時、舛添氏は「職を賭してでも」と口走ったそうな。で、職を賭して官邸に乗り込んだはずの舛添氏は目立たぬように裏口から退散したそうだが、それにしてもさすがにここまでひどいとは、想定の範囲を超えています。

どうせ福田内閣が官僚の言いなりになってる限り一律なんてあり得ないし、国の責任の範囲を広くするのだって難しい、というのは分かっていていいはずだと言われればその通り。だいたい原爆症でも水俣病でも、救済範囲を非常識なまでに狭めるのは我が国の冷たい政府の厚生行政では定番なわけだが、でもだからこそ、ならなぜ延々と引き延ばしたのか、というのがまったく意味不明だ。

で、「職を賭した」はずが発表されたのが、元から原告団が拒絶していた、国の責任を認めない範囲の被害者に補償するための「基金」とやらへの出資を30億に増やすからこれをみなさんで山分けしなさいって…。はっきり言って、失礼で人を馬鹿にしているとしか思えない。よほど傲慢な人種なのか、それともこれが他人を愚弄した失礼な言い草だと気づかないほどアホなのか…。元々原告がお金の問題で訴えてるわけじゃなく、目的が薬害の責任追及と根絶だからこそ「全被害者一律」、言い換えれば国が全面的に責任を認めることを要求して来たのはあまりに自明だ。それを意味不明の金を積む金額を増やしてって、どういう神経でそれを「事実上の全員救済」と言っていまさら原告や国民に対して提示できるのか? 

だいたい、出来ないのならなぜ「職を賭す」なんて大見得を切ったのか? 今週の「週刊文春」の見出しでは、舛添氏は「ヤルヤル詐欺」と呼ばれている。言い得て妙。

もっと理解不能なのが、政府側の今回の言い訳だ。大阪高裁の和解案からそう逸脱することは、法治国家として出来ない、司法の判断を尊重して、というのだ。あのぉ、そもそも大阪高裁が示したのは「和解案」であって「判決」ではなく、つまり司法の「判断」ではないですよ…。しかも一高等裁判所の和解案であって、まだ最高裁もあるし他の裁判所では異なった判断がいっぱい出ているんですよ。そんなことも分からない人が法治国家の政治を司ってるんですか? 法務省はなにを考えてるんだか。伊吹&町村元文部大臣コンビは、そんな小学校高学年で習うような常識について平然と嘘をついて恥ずかしくないのだろうか?

しかもその大阪高裁の和解案には、付帯意見、というよりそもそもの大前提として「本来なら全被害者一律が理想だが、被告側がまったく譲歩しようとしていない以上、和解としてはこれ以上はできない」と明記してあったはずだ。つい数日前のニュースなのだから、みんな憶えていないとおかしい。それを承知でいけしゃあしゃあと「大阪高裁の和解案」に責任転嫁している舛添の発言にも、さらには「法治国家」云々と原告側を侮辱しているとしか思えない町村、伊吹(しかしここまで倫理観の欠如した人間が、どっちも文部大臣経験者ってのはねぇ…)の発言にも、どこの報道もそもそも大阪高裁の和解案に明記されていたことに言及してのコメントをしないのは、なぜ? 彼らのふりかざしている論理が詭弁であり、まったくのデタラメの大嘘であるのは、一言でも元々の和解案のそのくだりに言及するだけであまりにも明白になるのに。マスコミのみなさんもバカではないはずだから、そのことに気づいているはずだ。なのになぜ言わないの? なにが怖いの? 誰に遠慮しているの? そりゃ当然、政府与党に遠慮しているのだろうが、そんな態度で彼らはマスコミの義務を果たしていると言えるのだろうか?

さらに厚生労働省のいいぶんがもっと凄い。これで責任を追及されたら、「薬事行政が成り立たなくなる」んだそうだ。おひおひ、政府が国として承認している薬に対して国として責任を負えないのなら、そもそも薬事行政も、薬の承認も、まったく意味がないということになっちまうじゃないか。自分らがどれだけアホなこと言っているのかにも、気がつかないのだろうか?

もっと凄い厚生労働省のいいぶんが、「薬に副作用はつきものだ」。命の危険がある副作用のある薬を安易に承認するだけでも「薬事行政ってなにもやってないじゃん」と言われても仕方がないことなのだが、それ以前に、薬害肝炎は「副作用」じゃありません。本来の薬効とまったく関係ない毒物が混入していたのを「副作用」って、どういう神経しているの? 非常識極まりない。

そもそもこの薬害肝炎の原因の大半を占める血液製剤の止血剤フィブリノゲンは、1977年にはアメリカで承認を取り消されて禁止されているのだそうだ。それ以前はまだ「分からなかった、しょうがない」かも知れないし、だから「一律救済」に対する妥協案として「1977年にアメリカで禁止されて以降」というのなら、まだ原告側も納得するかも知れない。そうなるとうちの近親者の場合は恐らく1969年か70年に感染したはずだから除外されてしまうだろうし、そもそもカルテが残ってないから告訴はできないのだが、でもまあ医学や科学に限界がある以上、それはしょうがないとまだ認めもしよう。だが他国ですでに危険性が認識されて禁止された薬物を20年以上放置して来たってのは、どう考えても恐るべき怠慢であり、国に責任があって当たり前だ。しかも、アメリカといえば、旧ミドリ十字がフィブリノゲンなどの血液製剤の材料となる血液の大部分の輸入先にして来たお国ですよ。そのアメリカで禁止されたんだから警戒して当然だろうに。

それにここで国がやるべきことは「救済」ではない。単に自分の責任の範疇の過誤について、遅ればせながら責任を認めることだ。なにを勘違いしてるんだか。肝炎というのがどれだけ辛い病気か、少しは想像してもらいたい。とにかく身体がだるくてなにもできなくなってしまうのだ。原告団があれだけ力強いのは、全身がだるいという状態は精神力で一日くらいならなんとか自分を奮い立たせられるからというだけで、本当ならほとんど寝たきりになってもおかしくないのを、精神力でもたせているんですよ、あれは。言い換えれば、それだけ怒ってる、そのパワーですよ。本人たちに会っていながら、そんなことにも気づかないんでしょうか、我が国の厚生労働大臣は。で、そんなに辛い思いをしなければならなかったのは、そもそも誰のせいなんだよ? それこそが問われているのだということに、まだ気がつかないんだろうか?

政府の責任を出来る限り矮小化しようとした結果出て来る、東京地裁判決の理屈となると、こういう非常識な判決を避けるためには裁判員制度もやむを得ない、とつい思ってしまう。政府が1987年に出した警告文書って、ウィルス感染の危険性などには一切触れず、ただ「必要がない限り極力使用は避けるように」と書かれているだけである。そんなこと市販の風邪薬の注意書きにだって書いてある、薬を使う上での常識。必要でもない薬の使用は極力避けるのなんて、当たり前です。なんでその時にさっさと承認を取り消さなかったのか、といえばその理由は血友病HIVスキャンダルの際にすでに明らかになっているので、みなさん思い出しましょう。ミドリ十字と厚生省が癒着していて、厚生省の役人が患者の安全よりもミドリ十字の利益を優先したからです。

それを金で済ませようなんて、だいたい下品すぎる。財務省は補償にお金がかかる、というので恐怖しているらしいが、金銭による補償よりもまず当時の責任者をきちんと追求し、場合によっては刑事告発も考えると宣言すること、補償金や和解金よりも、治療について国がある程度面倒を見ると同時に、国家プロジェクトとして肝炎の治療の研究に取り組むとか、もっと「政治決断」ならではのできるはずのことがあってもおかしくないのだが。この政治的想像力の欠如も、まったく呆れるしかない。

公明党が「また支持率が落ちる」と恐怖しているそうで、まだ伊吹とか町村に較べれば多少はマシ? 政治があまりに不誠実なのも問題だが、それ以上にバカであることはもっと大きな問題ですよね、どう考えても。あんなこと言ったら原告団が怒るに決まってるじゃん、という程度のことも、この人たちには分からないのだろうか?

12/12/2007

みなさまのNHK?

本日午後に、衆院の厚生労働委員会で、昨日の厚生労働省発表についての質疑が行われる…というか、行われているはずである。民主党の長妻議員が舛添大臣を問いつめる姿が期待されるわけだが、ところがNHKサマは今日は国会中継をやっていない。このテの生中継マニアとしてはとても寂しい。

民放や新聞報道では約1985万件は名寄せが困難で、そのうち975万件がほぼ見込みなし、と厚労相発表を伝え、見出し語には1985万、「消えた年金」5000万のほぼ4割という言い方を使っているのだが、これがNHKのニュースだと975万件のほぼ見込みなしぶんにのみの言及だ。少しでも政府の悪い印象を目減りさせようという涙ぐましい努力なわけだが(アホくさ)、嘘つき町村(…ていうか、この人の最近の日々の発言はそもそも日本語としておかしく、まったく筋が通っていない)が「7月から政府与党の方針は変わっていない」と会見で発言したことを、なんの論評もなしに報じている。そもそもその会見自体、ニュースとしての価値がまるでないでしょうに。無視すりゃいい、こんなもの。

もちろん『消えた年金』の件が政府与党にとって恐ろしく不利なのは誰が見ても分かることだ。方針が変わってないって、選挙の公約で「美しい国、日本」の前首相が「最後の一人まで」「自民党が責任を持って」と言ってたでしょうに。責任をとろうにもどうしようもない、「誰が大臣をやっても同じ」と舛添大臣が言っているが、一つ大きな違いがある。まともに知能があって誠意がある政治家なら、最初から名寄せ作業が極めて困難なのは分かってたはずで(だって誰が考えても「そりゃ無理だろう?」と思うはず)、だからあんないい加減なこと言いませんよ。「選挙だったから」って、あのねぇ…。今更になって「結婚で姓が変わった人は申し出て欲しい」と「国民の協力を求め」られたって、最初から言えって。

それにつけても「皆様のNHK」である。当然国会中継をやらなきゃいけない時間に、NHKサマは自局の番組PRのためにタッキーのトークをやっている。新年にタッキーが長谷川一夫の当り役『雪之丞変化』をNHKでリメイクするそうだが、今更なんで『雪之丞変化』? それくらいなら市川崑の傑作おフザケ映画版を放映せいって言うのは兎も角、とにかくアホとしか言いようがない。皆様の年金が消えちまうんだぜ。年金が頼りの高齢者はどうするんだ? 「わからないものはわからない」じゃ済まない問題を、国会で議論しているその時に。

そうでなくたって、だいたい「皆様の受信料」の「公共放送」がなにを考えて自分のところの宣伝を皆様の受信料を使ってやってるのか自体、すでに意味が分からない。そんなもん自分のところの宣伝費で賄えっていうの。で、そもそもその宣伝費だって『皆様の受信料』、NHKが自分のために使っていいお金ではなく、あくまで放送を通じて公共に貢献するためのお金である。

その上、この政府与党に不利なことはなるべく報道しないという姿勢である。「公共放送」ということを完璧に勘違いしているNHKに、受信料なんて払う義務があるんだろうか? 「自民党に金をもらえばいいじゃん」とでも言って督促を追い返してやろうか? 自民党はちゃんと政党交付金を得てるんだし、なんで我々の払ってる受信料で自民党の広報活動をやってるわけ? だいたい、それって放送法違反だろうが。

12/11/2007

何を今更ながら、今更なニュース

昨日と今日、厚生労働省所轄のハナシで腹が立つニュースが二つ、二日連続であったわけだが、その一はもちろん、「消えた年金」の名寄せ作業についての発表である。

もっとも、これが「ニュース」かどうかもちょっと怪しい。だってこういう結果になることは分かってたでしょう? 舛添大臣は「ここまでズサンとは予想外」と驚いた演技をしていたが、演技じゃないとしたらこの男、よほどの阿呆ということになる。どっちにしろ国民の健康と生命の安全に責任を負う大臣としては不適任でしょう、どう考えたって。だって考えても見て下さい。もともと入力ミスで5000万件も持ち主不明の年金があったわけで、ズサンなのは最初から分かってるでしょ? ミスである以上ランダムなわけで、たまたま厚生労働省のコンピューターによる照合プログラムにひっかかるかどうかなんて、関係あるわけないでしょう? たまたまそのプログラミングにひっかかるミスが予想より少なかったからって、それはズサンかどうかの問題ではなく(で、ズサンなのは最初から分かってるわけで)、現実とはそういうものだ、というだけの話。

厚生労働ダイジン閣下は、東京大学とかいう超エリート校出身で、おフランスに留学までしておきながら、これくらい基礎的な不確定性をめぐる哲学的命題すら理解できないだろうか? ミスである以上ランダムなわけで、そのミスが人間がとりあえず予測できる範疇の規則性から逸脱していたからって、それは社会保険庁がズサンだったかどうかとは別問題。膨大なミスがあった以上は当然そのミスの性質を完全に網羅的に把握なんてできるわけがなく、従ってコンピューターで照合しきれないものがいくらあろうが驚くべきことでもない。最初から無理なのは分かってたはずだ。で、最初から無理じゃないんですかと野党に追求されるたびに、「内閣総理大臣がお約束しているのだから」などと大見栄を切ったのはどこの誰でしょう? その時点で「こいつらバカじゃないの?」と、まともな国民はみんな気がついてますよ。

政治的に問題なのは、その程度のことも考える能力もなく公約として「来年三月まで」「今年度内」と強弁してしまった政治家の無能さだ。現に誰も信用しなかったから自民党は参議院選挙で惨敗したわけだが、あまり人をバカにして欲しくないものである。現実に無理なものは現実に無理なわけで、なんの保証もないうつろな熱意だけ強弁して時間を浪費しているヒマがあるなら、そもそも照合が完全には不可能であるという前提に立ってどういう解決法、つまりどうやったら払った人がちゃんと年金を受け取れるかどうかを、とっとと議論するべきだったはずだ。それこそが政治家の仕事というものだし、残ってる限りでも紙台帳をチェックするとか、とっととやるべきだったことはあるでしょう?

もうひとつ、より腹が立つのは、C型肝炎薬害問題だ。まず真っ先に、常識として指摘しておくべきなのは、C型肝炎は輸血や血液製剤で他人の血液内にいるウィルスが体内に入ってこない限り、感染するわけがないということ。麻薬の注射などの日本では極めて可能性が低いケース以外は、つまり圧倒的多数のC型肝炎感染者は、すべて医療ミスか薬害、あるいはその両方の被害者なのだ。

昨日『TVタックル』に出ていた厚生労働副大臣だかの自民党の見るからに頭の悪い若手がその程度の常識も分かってないとしか思えないアホなことを連発していたのではっきり言っておくが、日本の場合は、麻薬などの注射で感染するということはまずない。だいいちC型肝炎は圧倒的に女性患者、それも中流の、主婦を始め、母親/出産体験者が多い。出産や、流産のときの止血剤で感染したと考えるのが可能性としてはまずもっとも合理的であり、その止血剤に認可を出しているのは厚生省であり、その安全性に責任を持っていたはずなのは日本国なのである。

法的な責任の確定にはカルテなどの証拠が必要になるし、政府/製薬会社/医師が危険性を認識していたことが明確であったほうがよりはっきりする。でもそれって、裁判で法的に有罪になるかどうかで言えば、故意つまり危険性を認識しながらその薬を使ったのだったら、定義上は殺人罪になったっておかしくない話ですよ。致死性の毒物である可能性があるものを他人の体内に入れるって、それって普通の日本語では「毒殺」と言います。

で、政府がなんとか補償する人数を制限しようとして出している理屈、東京地裁判決というのは、要するに政府および厚生労働省を加害者の共犯とする殺人未遂の要件がほぼ疑問の余地なく成立するケースに限って、ということでしかない。今の一連の裁判などの闘争では話題にものぼってないが、輸血や血液製剤によるC型肝炎感染の危険性が認識される以前の感染だって、それ自体は医療行為が原因であり、つまり薬害であり医療ミスであることには変わりがないのだ。

もちろん医療の問題であり人間の科学的知識に限界がある以上、普通なら立派に「業務上過失傷害、ないし致死」が成立しうる「知らなかった」に関してまで確定的な法的責任は問わない方がいいだろう、そうでないと医学の進歩が大いに制約される可能性があるというわけだが、どっちにしろそれ以外に見逃すべき法的・政治的・倫理的理由なんて皆無だ。でもね、まだ血液製剤による感染リスクが認識されておらず、むしろ革命的な薬として重用されていた時代のことなので、法的な責任を問い始めると医学の進歩自体を止めてしまう危険があるとはいえ、「知らなかった」としてもそれなら知らなかったこと、つまり医師や医療従事者、医療を統括する役人として無能であったことに道義的責任くらいは感じてしかるべきだろう。そういうときのための政治解決じゃないの?

しかも、まったく同じことが十数年前には血友病患者のHIV感染として告発されているのである。その時点で、素人ならともかく、厚生省のお役人ぐらいは、高い給料をとっているプロなんだから、HIV感染が起っているのなら肝炎ウィルスに感染している可能性だってあることは、当然気がついておくべきことだったはずだ。少なくとも気がつかなかった自らの不明ぐらいはちゃんと自覚して欲しい。前総理が大好きだった「美しい国ニッポン」にひっかけていえば、正しい日本的な倫理観を遵守すれば、それだけで辞表を提出するのに十分な責任を感じるべき問題であり、武士道の倫理にのっとれば腹を切ってもおかしくない話だ。

それを投与された患者400余名の名簿があったのを隠蔽して「忘れて放置してました」とシラは切ってみせるわ、名簿が出て来ても今度はプライバシーを逆手にとった屁理屈で通知はしないわで、なにが許せないって、感染している可能性を通知すればそれなりの検査はうけ、重度の肝炎になる前にしかるべき治療を受けることだって出来たはずなのだ。厚生省(現厚生労働省)の仕事は国民の健康を守ることなのだから、非加熱の血液製剤が肝炎ウィルス感染の原因になっている可能性に気づいた時点で(ということは、遅くとも80年代には)、輸血や血液製剤の止血剤を使った可能性のある人はとりあえず検診を受けなさい、くらい呼びかけてしかるべきだったのだ。肝炎はインターフェロンの前だって治療を受ければ進行を遅くする事ぐらいは出来たし、今では肝硬変とかガンにまで進行していなければ、インターフェロンを使えば十分に直る病気なんだから。「なんで早く知らせなかったの?」 それだけでも厚生労働省には途方もない責任があることぐらい、少しは自覚してもらいたい。

まして認可を与えている薬なんだから…。まともな精神をもっていれば大阪地裁の和解案なんて待たずに、それなりの政治責任と、せめて謝るくらいのことは、ちゃんとやってしかるべきなんですが。そうでなくてなんのための政治ですか?

今回の一連の裁判で原告になっている人たちが訴えている時点で、科学的な知識としては非加熱製剤が危険だということは分かっていた。 「C型肝炎ウィルス」という病原体の特定はまだでも(当時はまだ非A非B型肝炎、と呼んでいた)、輸血や血液製剤投与で肝炎ウィルスに感染することは分かっていたし、その数年後にはインターフェロンの実用化が始まり、東京都などの自治体では治療について財政的援助もしていた。今訴えている感染者の人々は、そもそも厚生省がミドリ十字の接待癒着で怠けてなければ投薬自体されていなかった可能性が高い人だし、仮に感染しても「感染してるかも知れないから検査を受けて下さい」と言われていれば、そこまで苦しむこともなくインターフェロン治療を受けられ、うまく薬が効けば完治していたかもしれないのだ。それだけでも福田首相がとっとと「政治決断」を下すのは理の当然だと思う。

カネがかかる? ならまず厚生労働省の、少なくとも80年代半ば以降にすでに在職していた役人の給料は全部半額カットにして、それでも充当すればいいんじゃない? 少なくともインド洋に無料ガソリンスタンドを残すかどうかよりもよっぽどニッポン国民の生命の安全に関わる優先事項だと思うが。

蛇足だが、OECDの学力調査で、「日本の子どもは科学ができない」という衝撃の結果が文部科学省あたりを騒然とさせているらしい。いやでもねぇ…。ごく基礎的な科学的思考ができれば、C型肝炎ウィルスの感染がこと日本の、それも圧倒的に多い女性患者では、出産や、流産のときの止血剤で感染したと考えるのが可能性としてはまずもっとも合理的というのは、すぐに思いつくことですよ…。だって「肝炎ウィルスに感染」という事実についての感染経路を推測すれば、輸血ないし血液製剤というのが、中学生レベルにおいては当然の科学的な推論なんですから。

さらに蛇足だが、5000万件の持ち主不明年金について、照合できないものが4割あったからといって「そりゃ大変だ」とは思いつつも特段驚きもせず、「そりゃミスで入力されたものがそう簡単に特定できるわけがない」と思うもの、これまた当たり前の中学生レベルの科学的発想。その程度のことも気づかないで理科の成績が上がるわけがない。

11/13/2007

日本語が理解できないらしい日本政府

一日に日記を二つも書くのはイヤだし、そんなヒマも本当はないのだが、どうしても一言。新テロ対策法の衆院本会議採決について自民党が「民主党が対案を出さない」と喚いている。

こんな意味不明なことを言ってる自民党も自民党だが、それをただ垂れ流すマスコミもマスコミだ。だってこの理屈、日本語になってない。民主党は自衛隊が米軍などに対して給油活動を行うこと自体を違憲とみなし、反対しているのだ。

11月1日までやっていた給油活動を続けるための対案なんて、出す必要がない。こんな当たり前の理屈すら分からないほど、政府や自民党の皆様は脳みそが軟化しているのだろうか?

(写真は前項に続き、イギリス、シェフィールドの市街写真)

スポークスマン、つまり言葉が仕事の官房長官である町村が「我々は議論をしたい」とか言っていたが、議論から逃げているのは自民党の方だ。

民主党の主張は大まかにいえば、日本が協力しているアフガン戦争は国際法上、アメリカの自衛戦争に同盟国である各国が集団的自衛権の行使として参加している戦争であり、憲法には「国際戦争の解決手段としての戦争」を日本国はやってはならない、と書いてあり、政府の憲法解釈は従来、集団的自衛権の行使を行わないとしている以上、まず違憲であるというのがひとつ。

給油はアメリカの自衛戦争への協力であり、テクニカルに考えてどうみても自衛戦争に同盟国として参加していることにしかなり得ない。テロ特措法は少なくとも最初から政府自身の憲法解釈に違反し、従って政府の立場からみて憲法違反なのだ。兵站の維持と補給活動が作戦行動の一部であるのは戦争の常識であり、給油だから、戦闘には直接参加してないからなんて非常識な区別は、平和ボケな日本の政界でしか通じませんよ。法治国家の政権与党だというのに、自民党はそもそもこの法案でやろうとしていることが違憲ではないのかという議論に、一切答えていない。

なんでこういう姑息なごまかしをやるのだろう? 彼らは良心がないのだろうか? それとも知能の問題なのか? 政府自民党はアホなのか、それとも嘘つきなのか? 

第二に、民主党はすでに参議院でイラクへの自衛隊派遣をやめる法案を提出すると宣言している。つまり、アメリカの戦争に加担するという従来の外交方針に反対しているわけで、その文脈ではアメリカの自衛戦争であるアフガン戦争にも協力しない、という外交方針は明らかだ。だからこの点からも、民主党が不必要どころか害悪だと主張している給油を継続するための法案の「対案」なんて、考える必要がそもそもない。

しかも国際貢献うんぬん、国際社会の一員として世界の安全うんぬんを言うのなら、辞意表明騒動のひきがねになった福田首相との密会で、小沢のパブリックな発言によれば福田が彼の主張する国連中心主義の安全保障政策に合意したはずなのだ。小沢一郎民主党代表は日本の従来の外交方針および安全保障政策についてのラディカルな対案を堂々と主張しているわけで、その小沢の主張する新しい外交政策、つまり国連中心の国際安全保障体制の構築に積極的に参加するという方針のなかでは、現在のアフガン戦争のためにインド洋でアメリカとその同盟国に給油するという活動自体があり得ない。対案もへったくれもないのだ。

アフガンの現状に対して世界平和と人道の立場から日本が貢献する対案なら、小沢一郎本人はとっくの昔に出してますよ。

政府自民党には鶏並みの記憶力しかないのかも知れないが、国民はそこまで健忘症じゃありません。あまり人をバカにしないで頂きたい。アメリカの戦争に協力するのでなく、国連中心主義でISAFへの参加を検討する。

ただし戦闘部隊として参加するよりは医療などの人道支援の方が日本は役割を果たせるのではないかなどなど、ぜんぶ『世界』の論文に書いてありましたよん。あの論文にもまったくまともな反論をしていない政府自民党が「議論をしたい」って、議論はすでに小沢がボールを投げてます。

ちなみにアフガン情勢に対する国際貢献ならばISAF参加を検討すべきという小沢の主張に自民党がやった反論にもなってない反論はたったひとつ、「そんな危ないところに自衛隊を送って、殺されたりしたら危ないじゃないか」(爆笑)。

そんな自民党の議員のなかに小沢の憲法前文と九条を順守する国連中心主義を「時代遅れの一国平和主義」と批判したバカがいるのだから、ホントに日本語が分からないらしい。

少なくとも小沢一郎は公に福田が彼の主張に同意したことを明言しているし、福田はそのことについて明確に否定もしていない。少々子どもじみた喧嘩になりかねない話とはいえ、これはもう「賛成した」のか「賛成しなかったのか」をまず明確にするのが現政権の責任だし、「賛成しなかった」のなら、あらためて小沢が提案していることの是非を国会で議論すべきだろう。

で、今日のもう一つの日記ですでに書いたことにも通じるのだけど、一連のアメリカの戦争に対して日本がどういう態度をとるべきかについては、リアリズムで考えれば考えるほど、小沢の言っていること、民主党のとっている態度の方が比較の問題としてはずっと日本の国益になる。完全にレームダック化しているブッシュ二世のご機嫌うかがいのために税金を注ぎ込んで給油を続ける必要なんて、現実にはどこにもないのだ。今のところ次回の大統領選挙はヒラリー・クリントンが最有力候補だが、万が一共和党が逆転するにしても、「テロとの戦争」やイラク戦争が今の流れのまま続くことは、アメリカ政界の流れのなかでまずあり得ない。少しは現実をちゃんと分析して日本の国益と外交上のメリットを考えた行動ができないんでしょうか、この国の政治家さんたちは?

むしろアメリカの戦争に加担して「文明国対イスラム」というビン・ラディンらがねつ造しようと狙ったとおりの構図に日本が参加すること自体が、日本をアルカイダなどのテロリズムの対象になってかえって危険を増大させる、しかもそのリスクに対する現実的な対処策はまるでないんだから、まともな安全保障政策であればあり得ない考え方なのだ。

テロが世界の安全にとって脅威だというのなら、すみませんけどテロリズムの防止は国家の戦争行為でなく基本的に警察権の行使だ。国際法上、戦争とは国家どうしの争いであり、正当性をもってその国家の利益を代表するとされる政府どうしの争いである(で、そこに参加することを、そもそも我が国の憲法は禁じている)。

テロリズムを押さえたいのなら、まずテロリズムが単に犯罪であり、警察権の行使として行うことだと明言した方がいい。で、世界で警察権ないしそれに近い権限を国際的に行使する権利が、アメリカ合衆国というただの普通の国に、あるがずがない。テロリズムへの対処について国際法をどう運用するかはまだ法的に未知の領域だが、アメリカの自衛戦争に「国際社会の一員として」参加するという理屈がデタラメにしかならないことだけは確かだ。

小沢の主張する国連中心主義という、少なくとも国際法的にはまったくまっとうな議論(まあ理念として筋が通っているからといって、現実的に役に立つかどうかは疑問だけど)に、ちなみにただの軍事ヲタで国際法どころか法治の基本すら理解していないらしい防衛大臣サマはまるで反論が出来ていないことも付け加えておこう。

中学生並みの軍事ヲタクでしかない防衛大臣石破サンは「中国とロシアが安全保障理事会で拒否権を持っている」というまったく無関係のことしか言えていない。それどころか「中国とロシアが拒否権を発動するから、国連は世界の安全を保障する機関として機能しない」というこのメチャクチャな主張、中国やロシアという隣国との外交関係をこの阿呆はどう考えているのか、まったく常識を疑う話でしかない。

いくら「メディアは中立を維持」と言ったって、このテのデタラメを電波に載せて活字にするのなら、せめてコメンテーターとか、キャスターの意見としてでも、「非常識でデタラメな見解だ」くらいははっきり言わなければ、メディアの責任も果たせないだろう。だってこれって、はっきり言って「政治的見解」以前の問題でしょ。

それとも、まさかとは思うが、“ナガタチョー”に染まった政治記者のみなさんは、この程度の誰でも詭弁と分かるような単純なことにも、気がつかないほど、“ナガタチョー”の先入観の対立図式でしかものごとが見えなくなっているんだろうか…? その上で、「自民対民主」の対立図式の上での「公平」で、自民党の意見も報道しなきゃ、ということでああいうアホ発言を垂れ流してるのだろうか?

これを言うのもなんだか悪いけど、政治記者の皆さんが本気で「小沢がやめる!」とパニックってた辞意表明会見の直後に、「辞めないんじゃないの?」と書いていたのは当ブログであります…。だって、普通に考えてアレ、本気にします?

英国発:「テロとの戦争」というパラノイア

まずはこの写真にご注目。北イングランドのかつての鉄鋼都市・シェフィールドの交通標識なのだが、柱が妙に上に伸びて、その先が曲がって下を向いているのは、先端に監視カメラが仕込まれているからなのだ。こんな標識が町じゅうに立ってるのだから至極気持ち悪いのだが、最近イギリスは市街に監視カメラが配置されている数が世界一だかなんだか、なんだそうである。

まあ「テロとの戦争」の名の下に行われた主にアメリカのアフガニスタンやイラクの侵略戦争で、アメリカ最大の同盟国は大英帝国である。もっとも熱心に同盟をアピールしたがってるのはその実わが日本帝国なのかも知れないが、幸いにして憲法上の制約のおかげで(この憲法を“押し付けて”くれたことをアメリカさんに我々は感謝してもいいくらいだ)直接軍事的に関わってるわけでなく、イギリスに較べれば国際社会ではずっと目立たないで済んでいる。一方イギリスはブレア首相の時代にずいぶん派手かつ無節操に「テロとの戦争」などとわめいてしまった上に、元々イラクもアフガニスタンも大英帝国の植民地支配で困らされた国々だし、内戦がたえないのだって英国が主導権を握って決めた、わざと平和になりにくい国境線の引き方がそもそも悪い、という見解も多くの専門家が指摘するところである。そりゃ英国がイスラム過激派のテロリストに狙われても当然といえば当然で、2005年の夏にはロンドンの地下鉄とバスが攻撃されてかなりの被害が出ている。というわけで「テロ警戒」。

あとサッチャー/メイジャー政権の大失政で、元々かなりの階級社会の英国で労働者階級がズタズタにされた上に、これまたサッチャー政権で教育に妙な競争原理を持ち込んだせいで労働者階級の子どもがまともに教育も受けられず、これまたサッチャー/メイジャーが産業空洞化の対策をまったくとらなかったから産業空洞化----ことシェフィールドは産業革命の時代から鉄鋼産業の都市として栄えて来て、今は産業空洞化で落ちぶれつつある、そのなんとも暗い気分が町中に漂ってすさんで陰鬱な街でもある----、というわけで日本でも問題になったNEET(ニート)ってのも英国が故郷ですね、ハイ。日本のNEETと違って引きこもったり渋谷で遊んでる程度では済まないわけで、若者の不満で都市部の治安悪化、それを防ぐために監視カメラ、というわけなのだろう。

…と書いていて、本当にバカバカしくなって来る。それで治安が悪くなったから監視カメラ・システムに税金を注ぎ込んだ上、監視されっぱなしという不愉快な生活を強いられる。

イギリスを旅行してもっと不愉快なのは、空港のセキュリティである。厳重さではアメリカと同じくらいだと思うし、日本だってそれなりに厳重なのだが、我がニッポン民族はとくにサービス業での気配りと、様々な手続きを迅速にこなす手際のよさでは傑出しているので、成田空港でそんなに困らされることはない。アメリカのセキュリティは無愛想だが、仕事は早い。それに較べて英国人というのはとにかく手際が悪いというか無駄が多いというか…。とにかくダラダラとやたら時間がかかるのである。その上ヒースロー空港では、空港の搭乗セキュリティ圏から出ることがないので普通の空港ならノーチェックの乗り継ぎですら、セキュリティ・チェックが入るのである。かくして乗り継ぎのときでも、飛行機から降りたとたんに1時間もセキュリティの列で待たされることはザラなのだ。

ちょっと脱線してしまうが、その上確か今年から、イギリスでは一切の公共の屋内での喫煙が禁止になった。だからヒースロー空港では喫煙所がない。ヒースローで乗り継ぐときには、乗り継ぎの案内は無視していったん空港から出てしまいましょう。しかもヒースローから飛行機に乗る際のセキュリティ、つまり出発ロビーから搭乗口に向かうセキュリティの方が、乗り継ぎよりはまだ空いている場合の方が多いのだから。やんなっちゃいます。

「テロとの戦争」で頑張っている人々は、ものの見事にビン・ラディンの思惑にはまってるんじゃないか。9/11事件で数千人の犠牲者を出すことに成功しようが、その程度でアメリカやイギリスという植民地主義大国を倒せるなどと、彼らが思っているはずがない。だが「テロとの戦争」は、確実に我々のまともな生活を阻害してくれているのだ。ビン・ラディンが直接手を下すのでなく、「テロリズム」の脅しによって我々の政府をパラノイアに陥れ、その罠にみごとにはまった間抜けな政府が「セキュリティ」の名において我々の日々の生活にいろいろと些細な、しかし積み重なれば明らかに我々の気分にイヤ〜な影響を及ぼして落ち着きや冷静さを失わせるイヤがらせを、他ならぬ自分たちの市民に与え続けさせるために。

新テロ特措法を強行採決するのに、与党はまたまた「国際社会の一員」という薄っぺらな美辞麗句を繰り返している。我々日本人はどういうコンプレックスからなのか、すぐに外国をお手本にしたがる癖があり、「国際社会の一員」とか「グローバルスタンダード」とか言った言葉とセットになった政策や方針を鵜呑みにしてしまう。だがたとえば、小泉政権が進め、安倍、そして福田にも引き継がれているいわゆる改革路線って、要するに今のイギリス社会がズタズタになっている原因を作ったサッチャリズムの焼き直しに過ぎない。「大きな政府、小さな政府」論争だと「小さな政府」が正解だとみんな思っているが、これもサッチャリズムと同時期のレーガン、ブッシュ父政権のアメリカで行われ続けた政策であり、クリントンの8年を経た後ブッシュ子政権でも再び壮大に復活し、そして今みごとに破綻している政治のあり方に他ならない。サブプライムローンの焦げ付きとか、「そもそもなんでそんな無茶な貸し付けをしたのか?」と呆れるしかないし、マイケル・ムーアの『シッコ』で壮大に暴露されている民間保険会社に頼った医療保険政策なんて、「そもそもそんなもん破綻するに決まってるじゃん」と、子どもでも分かるような話なのだ。原油価格の異常な高騰だって、貯蓄を軽んじ投機を奨励した結果、原油の取引や消費の実態とほとんど関係なく先物市場が肥大化してしまったせいだろうが。「小さな政府」のどこがいいんだか。資本主義が放置していれば破綻するシステムなのは、1929年にすでに人類は学習しているはずなのだし、しかもその1929年の大恐慌だって、マルクス先生がちゃんと予測してましたよ、その半世紀以上前に。

日本の硬直した官僚制度が日本社会の大きな足かせになっているのは確かだし、その意味での改革は必要だが、だからってイギリスやアメリカが見事に失敗してくれたのと同じタイプの方針を、その失敗から学びもせずに真似してどうしようというのだろう? 「テロとの戦争」だって同じだ。なにもアメリカ人やイギリス人と同じくらいバカになって「イスラムのテロ」に怯え続け、気がつけば自分たちの日々の生活の落ち着きや平穏を自分たちでメチャクチャにする必要がどこにあるのだろうか? しかもそれこそ、「テロリスト」が狙っていることに他ならない。我々は先進文明国だというのに、自分たちの生活ですら発展途上国のごく一部の不満分子の悪知恵に振り回されているのだ。これがバカバカしくなくてなんだと言うのだろう? 「テロとの戦争」というと勇敢に聞こえるがとんでもない、枯れ薄に怯えてジタバタあがいてパラノイアに陥っている臆病者でしかない。「テロ」に対して自分たちが守らなければならないものは本当はなんなのか、もう一度みんなでじっくり考えてみるべきじゃないのか? 本当に真面目に、かつ現実的に考えれば、今日本社会が盲目的にアメリカやイギリスの真似っこでやろうとしていることは、非常にバカバカしく思えて来る。

だいたい、少しは自信を持っていい。日本社会にはいろいろ問題があるし、こと文化だとかの面でいえば、僕らなどは国際映画祭などに行けばいちばん貧しいのは日本の監督で、その点では文化政策とかテレビ局の方針だとかでは、イギリスの方が優れているのは素直に認めよう。でもね、社会全体で見れば日本の方がイギリスなんぞにくらべれば、まだナンボかはマシな社会ですよ。

いや国および地方政府の文化政策とか、テレビ局の方針(イギリスではドキュメンタリー製作がとても盛んだが、これはBBCとチャンネル4が積極的にインディペンデントのドキュメンタリー作家の作品に出資しているからである)ではイギリスは確かに恵まれているけれど、そこで作られているドキュメンタリーの大半が…これは言っていいのかなぁ…いやはっきり言ってNHKを誰もクリエイティヴな場所としてはアテにしてない(それにNHKだって我々の映画に手を出そうとは、たぶん思っていない)けれど、日本のドキュメンタリーには、作品自体は映画的に優れたものが多いように思える。まあシェフィールドでのいわゆる“ニッポン代表”が土本典昭特集だったものですから、そりゃ『水俣 患者さんとその世界』や『ある機関助士』、『ドキュメント路上』に太刀打ちできるドキュメンタリーなんてそうあるはずもないのだけれど…。

でもそれ以前に…。以前BBCのドキュメンタリーのプロデューサーが東京で「海外で売れるドキュメンタリーの作り方」を偉そうに講義する場に立ち会ったことがある。お金を出して下さるのだからおとなしくしていようと思ったのだが、堪忍袋の緒が切れてつい言ってしまったひとことが「そんな最初の5分で映画の中身を全部バラしちゃうなんて、つまんないじゃん」。ガイジンさんにだってアホはいます。それもこの国でと同様に、自分に社会的地位があると思い込んでる連中に限って、アホが多い。アホに妥協しなきゃ食っていけないことを理解できない僕なんかも、別の意味ではアホなんでしょうが。

11/06/2007

英国・シェフィールドのドキュメンタリー映画祭に行ってきます

明日から11日までイギリスのシェフィールドという街で開かれるドキュメンタリー映画祭 Sheffield Doc/Fest に行く。『映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事(英語の題名は Cinema Is about Documenting Lives; the works and times of Noriaki Tsuchimoto) 』のインターナショナル・プレミア。6月にすでに渋谷のユーロスペースで劇場公開は行っているし(まったく客は入りませなんだが…)、先月の山形国際ドキュメンタリー映画祭では映画祭のクロージング作品として上映、これから“海外ドサ廻り”が始まるわけだが、さてどういう評判になるのやら…。タイアップ本(?)の発売が遅れてしまったので、国内の地方上映は来年になるらしい。

ここで評判になればその地方上映も、少しは客の入りが…と期待しつつ、ぜんぜん国内では報道されないのよね、どうせ…(というのは昨年のあいだずっと『ぼくらはもう帰れない』をあちこちで上映したときに体験済みで、今や海外での方がたぶん有名になってるんじゃないか? 韓国ではブロードバンドのテレビでけっこう人気らしいしけど、国内公開は僕が無精、かつお金がかかり過ぎるので未定)。

モノが映画監督(それも巨匠)についてのドキュメンタリーなので、映画ファンの関心しか呼ばないであろう題材なのがちとつらいところなのだが、渋谷での公開でも案の定いわゆる映画ファン中心のごく少数の観客しか動員できなかったものの、いわゆる「映画ファン」ではない観客の方が反応がよかったりするので、どう広げるかがたぶん宣伝の問題なんだろうなぁ。「映画ファン」から広げるという意味では必ずしもないのかも知れず…。

だいたいこの映画は、映画が世界のなかで人々に対してもっている役割については自分に出来る限り忠実であろうとしたが、いわゆる「映画ファン」にはまったくおもねていない、その意味ではひどく無愛想な映画になっている。土本典昭の直接の関係者、たとえばともに映画を作って来たスタッフの人々や友人の方々には好評だが、いわゆる土本のファン、はっきり言えば「土本典昭の映画を見ているワタシ」に自己満足できている人々には、むしろ不愉快ですらあるだろう。土本の映画といえばまず水俣病問題なのだが、水俣病の患者さんたちに同情して加害企業のチッソに怒りを感じる自分に酔うような自称シンパの人々には、耐え難いかもしれない。実を言えば土本自身がすでに30年前から、ただ「弱者の側に立つ」とか言った薄っぺらな考えではとてもではないが撮れない題材であることを自覚していたし、彼の映画を見ればそのことは確実に刻印されているのだが、30年以上を経てその自作を再考察する土本、水俣を再訪してかつて自作の対象であった人々の話を聞く土本は、必然的に自分が彼らにとって「他者」でしかあり得ないことを自覚するしかない。間接的にではあるが、土本が撮ったような記録が当事者にとっては苦痛にもなってしまうことすら、当事者から土本に向かって突きつけられる(それを言ってもらえるだけ、土本と彼らの信頼関係が濃密だということでもある)。

「他者」だからこそ、土本自身が彼らを「理解している」などと軽々には言えないからこそ、土本自身がその限界をはっきり自覚しているからこそ、土本は水俣で何本かの傑作を撮った。と同時に、以来30年以上水俣にこだわりながらも、ある時期以降は彼にとって水俣が撮ろうとしても撮れない対象になってしまったことに、この映画では触れようというつもりはなかったのだが、結果として70年代の傑作群と現代のあいだに、土本の苦渋に満ちた述懐以外に“なにもないこと”、その空白がかえって「撮れなかったこと」を指し示してしまってもいるし、結果として「なぜ撮れなかったのか」にも、この映画は触れてしまっているのかも知れない。

そろそろ半年経っているから時効なのだろうから言ってしまうが、公開時に出た批評のほとんどが、作った側からすれば「どこからそういう批評が出て来るねん?」と呆れてしまう内容だった。本来なら監督が言うことでもないのだけれど、僕自身が元批評屋なのでその視点で言っても、「ありえないでしょ、こんなの」というものが非常に多い。たとえばナゼか現代の水俣で撮ったシーンがあることにまるで気づいていないとしか思えない論評とか…。構造的に何度も何度も土本が撮った30年前の水俣と現代を比較するようになっているのに、その上土本自身が水俣という地域社会の変遷にもはっきりと言及しているはずだ。そこをヌキにして「土本が撮った水俣に較べて魅力がない」とか言われたって困りますよ。ドキュメンタリーはまず目の前にある現実をきちんと映像に記録することが出発点なのだから。まだ漁業の生活が残っていた水俣と、それがほとんどなくなりつつある現代の水俣では、違っていて当たり前じゃありませんか。

そもそも70を過ぎた映画作家が過去の自分の作品について語れば、ほとんど自動的に記憶について、過去について、自分の歴史をどう見るのかについての映画になってしまうし、そのことに作っている側はまったく抵抗してないし、抵抗しても無駄だし。主人公が記録映画作家でこの映画自体が記録映画なのだから、記録と記憶の相違もこれまたほとんど自動的に映画の構造にならざるを得ないし、そのことにもこちらはまったく抵抗してもおらず、むしろ身を任せている。その方が確実に、神のような天才記録映画作家・土本典昭という神話を捏造するよりも映画としておもしろいし(だいたい映画は「生きものの記録」であるとタイトルに明記しているんだから、この映画が土本という“生きもの”、土本典昭という生き方を記録したものになるのだって、自明でしょう?)。その結果、土本自身も元々はその一部であった60年代70年代のいわゆる「運動」の限界や挫折や過ちが浮かび上がって来るにしたって、土本自身が「運動」マインドにとどまったままでは『ある機関助士』や『路上』といった傑作は作れても、水俣シリーズという日本ドキュメンタリーの金字塔には到達できたはずもなく、76になって「人間って凄いことができるんだなぁ」と素直に圧倒され感嘆できるからこそああいう映画が作れたのだし、だいたい60年代70年代のいわゆる「運動」が限界をさらけ出し挫折し、過ちを犯し破綻し自滅したという自己批判くらい、60超えたオジさんたちがその程度の人間的成熟にも到達できずに、どうするつもりなんだろう?

もうひとつ、いかに土本が偉大で人間的に魅力にあふれ、説得力のある人であっても、その土本ですら叶わない説得力と人間的魅力をもった人々がこの映画に、それぞれに土本の登場場面に較べれば短いシーンでしかないにしても、登場していることを、なぜ無視するのだろう? 言うまでもなく、土本の映画の主人公たちであった水俣病の当事者の人々だ。どう見てもそうなってるでしょう、この映画では。だって映画である以上、そこを誤摩化すことは本来できないし、だからこそやるべきではないし。そのまま撮るだけ、彼らの発言のおいしいところを編集するだけでも、緒方正人氏とか小崎家の人々は、それこそオートマティックに映画的に光り輝き、説得力満点になってしまうのだから。だってあれだけの苦しみや被害を体験した人々があそこまでしっかり「生き続けている」ことそれ自体が、すでに凄く“エラい”ことでしょう。自身が患者である緒方正人氏に「わたしもチッソだったという自己認識」、加害の側と被害の側を区別すること自体が論理的に破綻していると言われれば、「この人は本当に凄い」と思う以外に反論のしようがないし。

以上のことは、いわゆる「映画ファン」や、「運動マインド」から抜けきれない…というよりそこに自身のアイデンティティや存在意義があると思い込んで自惚れたい人々にとっては、気づきたくないことなのかも知れない。まあ少なくとも、ごく基礎的な精神分析理論をあてはめれば、だから気がつかないのだ、という結論には簡単に到達できる。だから文句があるならフロイト大先生に言って頂きたい。だいたい、そうやって自分自身から逃げてどうするんですか?

土本ほどの偉業を達成した映画監督であっても、映画監督であるということは決してそんなに“偉い”ことでも、“正しい”ことでもないはずだ。「運動」にしたってこの社会を少しでもよくする方向に貢献できていなければ、ただの自己満足じゃないですか、そんなの。それどころか「支援」したはずの様々な社会問題の当事者たちに、むしろ迷惑をかけた運動だっていっぱいあったのだから(そういえば明日は、その多大な迷惑をかけられズタズタにされた三里塚に作られた空港から、飛行機にのるわけだが)。

今まで上映した限りにおいて、むしろ「映画に詳しい」とかをいばってなどいないいわゆる「普通の人」の感想の方がはるかに適確だったのは、その人々が「映画に関わっているワタシ」に自己陶酔なぞぜんぜんしないで、まともに生活しているからなのかも知れない。とくに女性の反応が凄く、作った本人がまるで気がついていないことまで指摘されまくりなのは、作った「カントク」としては少々反省しなければならないことなのだが、一方で映画、というか表現行為全般が本来そうあるべきなのだとも思う。しかしラストで引用した『水俣 患者さんとその世界』で患者がチッソの社長に詰め寄るシーンの、「わたしの気持ちが分かるか!」という絶叫が、観客である自分に言われたような気がしたと言われたときには、ほとんどゾッとしました。いやそんなことぜんぜん考えてすらいませんでしたが、言われてみれば、「分かります」と言うこと自体がとんでもない傲慢なのだろう。

11/05/2007

映画の適正な上映時間って…?

…ゴダール先生は80分だか90分とおっしゃっていたはずだが、僕自身はだいたい90分から100分くらいだと思っている。

と言って別に2時間以上とか3時間あるから悪い映画だなどと言うわけにもいかず、たとえばこの日記の第一日目で書いたエドワード・ヤンの『海辺の一日』は163分、『一、一』は3時間あってそれだけの長さにふさわしい、その長さが必要な映画(『海辺〜』は先週来日してた脚本の呉念真さんによれば最初は3時間15分あったらしい)であり、またそのあいだ我々の集中力を維持するだけの、前者は緊迫感、後者はゆったりと時間の流れに身を任せる豊かさにあふれた傑作なのだからそれでいいのだけど、ただし無駄に長い映画が非常に多いと思うのも確かだ。

ゴダールが80分だか90分と言ったその理由づけはよく知らないのは困ったもんだが、マルクシストのゴダール先生っぽくアイロニカルに経済原理をあてはめれば、その長さだと一晩で3回上映できるので映画館にとっても都合がいい(日本の場合は原則9時終わりなのでその限りではないが)…というのがいちばん分かり易い。もしそうだとしたらそれは本気でとるべき原則ではなくなるのだが、一方で僕自身が90分から100分前後と考えているのは、生理的に自分の集中力が持つ時間だから、というだけである。

タバコを吸うので、90分という長さはタバコを吸わないでいる時間としてはちょうど都合がいい、というのもある。いわゆる公汎性発達障害とやらに属することになるのであろう精神的ハンディもあって、集中を自分でコントロールできない傾向があり、見続けるのに過剰な努力が必要な映画だとすぐに我慢できなくなるんで、90分でもきつい映画はきつい。

また、『映画は生きものの記録である』は94分だったが、それでも映画を見た某親族から「映画館の冷房が効き過ぎていて、早くお手洗いに行きたかった」と言われてしまった。年齢とか性別とか、そういう点で見る観客のことも考えなければいけないのかもしれない。とくに僕の映画の場合、ドキュメンタリーだとどうも、どちらかと言えば60代以上の大人の観客の方が反応がいいようなので。いや冗談でもなんでもなく、『映画は生きものの記録である』の劇場公開では、主に女性、とくにいわば自分の母くらいの年齢の方から、作った本人より観客の方がよっぽどこの映画をよく理解しているとしか思えない感想をずいぶんうかがった。もしかしたら「土本典昭」が誰かを知識としては知っている映画の専門家より、土本の最盛期に忙しくて彼の映画を見る余裕もなかった観客の方が、土本のやって来たことの人間的な大切さや、水俣病事件という悲劇の本当の意味を、よりきちんと理解できるのかも知れない。ある意味で彼らもまた「チッソの側」で気づかずに生きて来てしまった、そうしてこざるを得なかったからなのかも知れない。

おっと脱線してしまったので、再び上映時間の話。なんでそんなことを考え始めたのかと言うと、ひとつには現在編集の大詰め段階にある新作の『フェンス』が、3時間超のお化け映画になりつつあるから。お題は神奈川県逗子市の池子米海軍住宅問題で、元々は逗子市のPR映画として昨年に30分弱の短編『柵に囲まれた森』として完成させているのだが、内容的にも基本的にただの紹介しかできない長さだし、なによりも撮影・大津幸四郎のみごとな長廻しをほとんどコマ切れでしか使えず、なんともせわしなくブツ斬りの連続のような映画になってしまったリベンジで再編集し、追加撮影もやって、気がつけば3時間でも4時間でも十分に成立するだけの内容を撮りためてしまっている。3時間というのは自分の原則には反するのだが、なにしろ主人公となる人々が80歳以上だったりして、その人々の生きて来た時間を考えればやはりゆったりと彼らが生きて来た人生の複雑な様相がにじみ出る映画にしなければなるまい。

一方で、ここで語られるさまざまな物語が、池子が元は日本海軍の弾薬庫であったことと、日本の近代史の当然の反映として、1945年8月で断絶してもいる。そこで45年をひとつの区切りとして、第一部と第二部に分けたので、それぞれのパートはだいたい90分、生理的に我慢できる長さのはずです、恐らく。12月には完成させる予定なので、ご期待下さい。

ところでパスカル・フェラン監督の『レディ・チャタレー』が一昨日から公開されている。D.H.ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』はスキャンダル性の一方でかなり教条主義的な階級闘争構図が図式的すぎて、つまり労働者階級インテリの愛人がうぶな貴族階級の夫人に性のてほどきをして世界の現実に目覚めさせるみたいな説教臭さがどうにも気に入らないので、女性監督、それもパスカル・フェランのように繊細で知的な女性がなぜこれを、と思ったらとてもいい映画だった。というか凄い映画なのだが、これはなんでも一般に読まれている決定稿の『チャタレイ夫人の恋人』ではなく、第二稿の映画化なのだそうだ。フランスでは「チャタレー夫人と森の男」という題名で翻訳が出版されていて、それを読んで惚れ込んでの映画化なんだって。

この第二稿の映画化はなにが違うって、決定稿の図式的メロドラマ性にも、これまでの映画化のエロチックなセンセーショナリズムにもぜんぜん陥っておらず、普通の人々に普通に起こりうることの映画として驚くべき即物性を持って成立しているところだ。実際、イギリスの話をフランス映画でフランス人の監督がフランス人の役者でフランスで撮るというどう考えても作り事になるはずのやり方が、「劇映画」の限界を軽やかに超越して「ただその人々がそこにいること」を現前させてしまっていることなのだ。

この映画の成功の理由のひとつが、一見だらだらと続くかにも見える168分という長さ、そのなかでひとつのシーンがかなりの時間をかけて見せられるかと思えば、説明になる部分は挿入字幕と時々の監督自身の声によるナレーションであっさりすっ飛ばす、その実相当に緻密な大胆な構成にあるのだと同業者としては考えてしまうが、この映画には正式の映画館上映バージョンである168分の映画の他に、大口の出資者との契約上しかたなく作った2時間弱の版と、テレビ用の前編後編100分ずつのより長いバージョンがあるという。長いバージョンといってすっ飛ばした説明部分が加わるわけでなく、原作ではチャタレー夫人と森番の物語として並行して展開するチャタレー卿と住み込み看護婦の関係も映し込んでいるそうだ。それはそれでおもしろそうで、フランスでDVDでも出ないかしらん。

パスカル・フェランが9月末に来日した際に、一緒に食事などした際に、以上のような別バージョンの話を聞いた。映画の方の2時間弱の短縮版は、契約上作らざるをえなかったものの、彼女はあえて一切タッチせず、出来上がってからも「あれは私の映画ではない」と公言しているそうだ。なんでも自分で見てもいないのだとか。

アメリカ配給がDVDは短縮版と言って来たのを、「ではわたしにお金を払いなさい」と突っぱねたとか、短縮版で公開する国でのキャンペーンは協力を拒否するとか、なるほどそういうやり方があったのか。日本でもどっちで公開するかはもめたようだが、「短縮版でやるなら来日はしない」という彼女の条件で、ディレクターズ・カット168分版での公開になった模様。この映画だったらゴダール先生のいう適正な映画の上映時間の二倍の長さでも、許せます。

(写真は拙作『映画は生きものの記録である』より)

11/04/2007

三日坊主…

…ともよく言われるのだが、生まれてこのかた日記なるものが続いたためしがなく、案の定三日どころか二日でもう中断していたこの日記である。だって毎日毎日、朝から晩まで新作のドキュメンタリー『フェンス』の編集にかかりきりで、書くことがないんだもの。

そこで唐突に小沢一郎・民主党代表が突然の辞職表明である。しかしどうにもよく分からないのが、「本当に辞めるの?」というところである。だって小沢はあくまで、辞表を鳩山幹事長に出して、まだ党預かりの段階であるし、そのことをかなり丁寧に会見でも言っている、その一方で辞任を決意するに至った経緯と称して、福田首相が安全保障について小沢の国連主導主義に同意しただの、民主党には未だ政権党とみなされるには力量不足のところがあるとか、自民党・福田政権にも、民主党の小沢以外の執行部にも、かなり激しく釘をさしているのだから。

大連立構想を役員会で拒否されたから辞めた、ということになっているけれど、本気で小沢が大連立を考えていたとはとても思えない。だって二大政党制と政権交代が彼の悲願のはずなのだから、そんな大政翼賛会みたいなこと本気で考えてはいないでしょう。それにそんなことやったら、国民に「裏切ったな」と思われて、選挙で負けるに決まってるし、それ以前に彼の目的にとってまったく意味ないじゃない。

この点でも小沢の会見の言葉をよく聞いてみると、「アレ?」というところが他にもある。民主党の役員会に拒絶されたのは連立それ自体だけでなく、そのための政策協議だというのだ。政策協議だけでもやって、その上で「おたくの政策には乗れません」とか言えばいいわけで−−というか、小沢民主党だったら実をいえば政策論争で今のダメダメな自民党を論破するくらいの能力があるように見える。政策協議で論破して、「つきあってられん」とぶっ壊してしまえば、そのぶん民主党の政策担当能力のアピール度はあがる。

ただ問題は、民主党の現リーダー層には、そのテの論客がいないのよねぇ。テレビによく出る人々のなかにか、かなりきちんと政治を議論できる人もいて、論客気取りのただのヒステリー女の元舛添夫人とか、ヒステリックな北朝鮮批判とバカ話しかできない安倍晋三の元家庭教師とか、チョイ悪おやじ気取りの吉田茂の孫とか、ヘ理屈と軍事マニアの中学生レベルの机上の空論を振り回すだけで国際法のイロハも知らない防衛大臣その実ただの軍事ヲタとか、まともに話ができる人がぜんぜんいない自民党よりはたぶんにマシなのだが。

ところがとくにトロイカ体制のあとの二人、菅直人と鳩山由紀夫は政策議論ができない人に成り下がっている。ニュースで国会でのぶらさがり会見とか民主党の公式の会見からの映像として出て来る彼らを見ると、確かに「政権を任せて大丈夫なの」とは思えて来るかもしれない。ワイドショーや政治バラエティ(「TVタックル」とか「大田光のわたしが総理大臣になったら」とか)や「朝生」だと、たいてい民主党の方がまだ筋が通っているのだが。さて小沢本人はというと、先日発表してかなりの爆弾効果があった安全保障についての『世界』に出た論文を読んでも、実はかなり発想力があり、かつ理論派で説得力のある、筋の通った議論を展開できる人物であるようだ。というか田中派のプリンスというイメージとは裏腹に、根はかなり頑固な原理原則主義者なところもあるようですね。

理論派でその実自分の理想を貫きたいタイプ、かつおぼっちゃんは、キレるときはキレ易いのかもしれない。つまり岸の孫の安倍に続いて小沢もキレちゃった、というのが世間一般の了解のようなのだが、どうもそうとも思えないところもある。むしろこれって、内輪にむけては小沢豪腕一流の党内締め付け策で、政権政党として脱皮するための荒療治、かつかえって世論を焚き付けるための手段なのかも知れませんよ。なにせなによりも、自民党の党首に延々と続いて来た対米従属安全保障政策を転換することを言わせちゃって、それをおおやけにバラしちゃったんだから。

これはたぶんハズレる僕の勝手な予想だが、小沢は実は辞めないんじゃないの? むしろ慰留されればその条件として、鳩山と菅あたりを役職から外し、もっと政治家のお仕事ができる若手を役員に起用するんじゃないか。そんなことやったら民主党の資金源である鳩山家をはじめ、もともとサマザマな勢力の寄せ集めである民主党がバラバラになるからできるわけがない、と永田町の専門家はおっしゃるのでしょうが、いやだからこそ、これだけの大騒ぎを仕掛けたんじゃないかと、僕自身は勝手に思っている。

ちなみに小沢が福田に同意させた内容それ自体は、僕個人の賛否はともかく、憲法解釈は変えても、本来世界でもっとも大義名分を振り回せるありがたい日本国憲法にまったく反していないし、しかも現在の国際政治をリアリズムで考える限りにおいてはもっとも現実的な安全保障政策だろう。しかも「国連こそが世界の平和を守る主体であるべき」と憲法九条と前文をひっぱって主張すれば、日本の国際的地位、外交における発言力を向上させる方法論にもなる。国際政治の今の流れは、それぞれの国がそれぞれなりにアメリカという化け物にいかにつきあい、いかにアメリカという化け物の化け物的行動を抑制するかを模索しながら、なかなかそれができないでいるのが現実なのだ。

なんで「国際政治」の専門家だとかを自称するひとが未だに気がつかないんだろうかよく分かりません。今みたいに暴走しているアメリカに従属していると、世界から孤立しますよ、この国は。それどころか来年の大統領選挙でほぼ確実にアメリカの政権からさえ孤立する可能性大。どう考えても共和党が勝つわけがなく、イラク戦争も「テロとの戦争」もチャラになるのは目に見えてるのだから。ちなみにこういう切り替えができる点では、二大政党制はたしかに便利なのかも知れない。

(注:例によって写真は本文とは関係ありません)

10/31/2007

防衛をめぐる悪質な冗談(としか思えない現実)

F2支援戦闘機が離陸に失敗して墜落炎上した。よりによってこのタイミングに。なにしろ防衛専門の輸入商社と防衛事務次官の癒着がスキャンダルになってるこのときに、一機120億円の“国産”戦闘機がこの事故である。

F2を「国産」と呼ぶこと自体かなり無理があり、実態はアメリカのF16のマイナーチェンジ版に過ぎないこの飛行機、マイナーチェンジのわりにはえらく開発費が膨らんで、それが一機120億というバカみたいなお値段の一因になっている。元々三菱重工製のF1の後継機として純国産を目指したはずが、F16の製造元の猛烈なロビー活動で日米共同開発になった、ということになっているけれど、日米貿易摩擦華やかなりし時分に決まった話だし、一民間企業のロビー活動だけでそう決まったと考えるのは無邪気すぎるでしょうね、やっぱり。

現在進行形の防衛次官(前)スキャンダルでひとつの具体的な便宜供与疑惑は、開発中の輸送機CXをめぐるものだが、こちらも国産を目指しながらもエンジンは米国製、で製造元ジェネラル・エレクトリック社の元の代理店だった防衛商社の専務が独立したついでに代理店業務もゲットして、という事情が、常識的にいってどうみても贈収賄にしかみえない接待癒着の背景事情としてある(で、元の会社の方は例のキューマさんとおつきあいが深かったようで)。

言うまでもなく防衛費は永らく政府予算のなかでの聖域であり続けて来たし、今でも実態はそう変わらない。「お国を守る」の大義名分で、何が起こるか、どんな敵が攻めて来るか分からないから万全を、という意識を前提とされてしまえば、「もったいない」と経済原理を導入することはためらわれるし、「抑止力」という軍需産業にとってはまことに好都合な眉ツバな理論まである。というわけで「行政改革」どこ吹く風で、湯水のように国家予算使いまくり、税金注ぎ込みまくりができる分野で、その足下を見ているのかどうかは知りませんが(まあ「常に敵を上回る最新鋭を」と言われれば、これも文句は言いにくいし)、この黄金のヤマで癒着が起きない方がおかしいのかも知れない。

もっとも、これぞ我が国のいわゆる「平和ボケ」の典型としか言いようがない話でもある。通常、安全保障というのはシビアに現実的でなければ意味がないわけで、問題にすべきは戦争ゴッコの幻想ではなく、現実に起こりうる戦争の予測でなければおかしい。その予測の範疇で必要な装備を備えるという防衛費ならともかく、我が国の防衛費の使い方の現実はちっともそうなっていない。たとえば航空自衛隊の主力戦闘機であるF15は攻撃機としての使用を考慮した設計のアメリカの大型戦闘機で、日本国の領空の防衛には必要でない性能がかなりあって、これもかなりバカ高い。なにしろ本来は世界中どこでも対地攻撃ができる性能を建前上制限するように改造して、結果として米軍装備のF15よりももっと高価なのだからいったいなんなの? イージス艦だって日本の領海を守るだけであれだけの能力が必要なんでしょうかねぇ。どう考えても憲法上の制約内で必要とは思えない高価な装備に、日本国政府は大金を注ぎ込み続けているのだ。それもほとんどがアメリカ製ないしアメリカ原産(莫大なライセンス料が支払われる)である。醒めた目で見れば、国土防衛を言い訳にアメリカの軍需産業に貢ぎ、その軍需産業がたとえばブッシュ親子やその前のレーガンの有力なロビー勢力で…ということにもなってしまう。

こういう疑念を呈すると、すぐに「ミギ」の皆様から「北朝鮮のような狂った国が」と言われるのだが、それを言うなら、だからこそ日本の防衛費の使い方も安全保障政策もおかしいとしか思えないのだ。だって今の自衛隊の装備で、仮に北朝鮮が日本に戦争をしかけた場合、防衛出来ますか? F15だって、F16をベースにしたF2だって、そもそもまだ冷戦という思い込みがあった時代に旧ソ連を仮想敵に想定した配備でしょうが。ロクな飛行機はないけどミサイルと核弾頭は持ってるらしい北朝鮮相手に、どれだけ意味があるの?

いやまあ、自民党の右派あたりが本当は北朝鮮でなく中華人民共和国を仮想敵とみなしてるのは公然の秘密なのだが、それこそ中華人民共和国とどうやってこの狭い国が戦争するねん? 人口なんてあちらの10分の1ですよ。それに現在の日中関係や中国の内政からして、中華人民共和国が日本を侵略しようとするなんてこと、あり得るんでしょうか?

実を言えば、恐らく「防衛」「安全保障」の専門家ほど分かっているはずだ。現代の世界で、武力で日本の安全保障を担保しようという発想自体が、およそ現実性を欠いているのである。地勢学的に言って、現代の兵器ではこの立地条件の国が攻められたときに武力で守るなんて、物理的に不可能に限りなく近い。それこそ北朝鮮の不良品ミサイルだって、撃ち落とす装備なんてあり得ないんですから(ブッシュはんはミサイル防衛構想とかいうずいぶん非現実的なお話をでっちあげて、軍需産業をもうけさせてはりますが)。

本日付けでインド洋における海上自衛隊の給油活動は終わりになるわけだが、これを継続しなければならないと主張して来た政府の理由付けもコロコロ変わってなかなか笑わせてもらえた。さてこれで「国際社会における日本の地位」が低下するかどうか、よぉく見ておいた方がいいでしょう。たぶんそんなことはまったくない。対米関係ですら、アメリカの世論は「テロとの戦争」反対に傾きつつあるどころか興味すら失って来てるんだし、もうすぐ大統領選挙ですよ。なんでそういう当たり前の分析にのっとって外交戦略をとれないのかが、不思議ではある。

むしろ小沢民主党が「国連主義」で継続を突っぱねたことがもっと知られれば、日本が世界の新しい流れをリードしたことにすらなるかも知れませんぜ。言い換えれば、外交ってこういうふうに正当性の大見得を切ってやることなんですが、世界でもっとも大義名分を主張できる憲法を持ちながら、それを有効利用もできないんだから…。

10/30/2007

消費期限、賞味期限の偽装についての素朴な疑問

 お伊勢参りの定番、赤福餅が製造日の表示偽装で営業停止になり、そこで代わって売り上げが伸びていた御福餅も製造日表示の偽装で、営業自粛だそうだ。なんだかこの手のニュースを聞かない日はないくらい、ほとんど流行としか思えないのだが、「そりゃそういうインチキはいけませんよ」というのは当たり前ながら、根本的な疑問が湧いて来た。

(注:写真はただの彩りで、本文と関係ありません)

その1) そもそも偽装はなぜ発覚したの?

 当然、内部告発なんだろうけれど、逆に言えば消費期限切れないし賞味期限切れの食品を実際に食べた人のあいだで食中毒が発生したわけでも、商品自体を調べてみたら品質が劣化してたことが分かったというわけでもないらしい。保健所だとかではその偽装した食品の品質を調べたりはしていないのだろうか?

その2) そもそも消費期限、賞味期限って意味あるの?

 上記の疑問から当たり前のように思いつくのが、期限切れの商品を消費した、つまり食べたお客がそれこそ何年にもわたって大勢いるはずなのに、食中毒だとかが起こってないのか、という疑問。いやもちろん、起こっていなくて幸いなのだが、まだ十分食べれるものを「期限切れ」として捨てていることになりゃしませんか? だって今の世界は先進国でこそ飽食の時代ながら、全体的には慢性的な食料不足だし、今後より深刻な食料危機が予想されているんじゃなかったのかしらん?

その3) そもそもなんで偽装する必要があったの?

 で、「もったいない」と考えているうちに当然考えなければならなくなるのは、なんでそんな偽装をしたのかということ。御福餅の場合はまだ遠隔地での販売分の製造日を一日ずらしていたというから動機は分かるのだが、どう考えても、期限切れ商品を偽装して売ろうが正直に売ろうが、売り上げも、原材料費や製造コストも変わらない。偽装しているぶん余計に在庫期間を抱えることになるのだから、倉庫代のぶんだけかえって余計に金がかかってるじゃないか。ムキ餅、ムキ餡と称していったん製造した商品をバラして、なんていうのに至っては経営者はなにを考えてそんな余計な手間をかけて違法行為をやってるのか、さっぱり意味が分からない。

 要するに余剰生産を延々と続けて来た、ということなのだろう。売れ残った商品をなんとか売ろうとして偽装に走ってるとしか考えられないのだから。しかしそれが延々と何年も、何十年も続いているとはどういうことなのか? まともな経営者だったら、作った商品を売り切れない現状が続いていたのなら、とっくの昔に生産量自体を縮小して経営合理化を図っているはずである。そんな経営を続けていても倒産していないのがいちばん不思議だ。

 もちろん生産ラインを縮小すれば、そのぶん従業員を減らすことになり、要するにクビを切らなければならないという困ったことにはなるだろう。だからっていちいち偽装していたり、完成した商品をバラして再利用する手間をかけるのも雇用の確保というのは、いくらなんでもやり過ぎだ。それが十年も二十年も続いて来たというのは、考えれば考えるほど我々の常識を超えている。それとも、僕はまともな会社勤めの経験がないせいで、この程度のことを不思議に思ってしまうほど世間知らずだというだけなのだろうか?

 ちなみに一連の偽装ニュースで個人的にいちばん印象的だったのは、伊勢の老舗・赤福餅のどうもせいぜいが40代、それもずいぶん子供っぽく見えた社長サンの会見。この人、本当に偽装のことなんてまったく知らなかったんじゃない? 創業者一族だかの跡取りおぼっちゃまなんだろうが、ある意味でこの人の「社長」の肩書き自体が偽装の虚構だったのかも知れませんネ。

ブログを始めることにしまして、楊徳昌のはなし


   写真:映画『フェンス』 藤原敏史 作品 撮影 大津幸四郎
   ©2008、Yasuoka Films, ltd., compass films

ブログを始めることにしました…と言ってもののはずみなのでなにを書くべきか、と思いつつ、よろしくお願いします。今後ヒマなときか、逆にテンパッて逃避したいときしか書き込まないでしょうが、どうぞおつきあい下さいませ。

 そういえば一昨日は楊徳昌(エドワード・ヤン)の結果として遺作になった『一、一 a one and a two』(日本公開題は『ヤンヤン、夏の思い出』っていったい…)を久しぶりにフィルムで見直してやっぱりすごいものはすごい。しっかし、こんなにシンプルで誰でも分かる、いや誰でも感動するであろう映画が、なぜ興行でヒットしなかったのだろう? いやエドワード・ヤンがここで繰り広げている演出と構成の洗練は実はとんでもないのだけれど、なにがとんでもないってあまりにも自然に見えてこれがとんでもない映画であることをまったく気にしないで見られるということなのに。

 数日前に彼の長編デビュー作の『海辺の一日』を初めてフィルムで見たのだが、20年ほどの経験と円熟を経てまったく別の映画になっている『一、一』が、一方でこのデビュー作とまったく同じことを語っている映画でもあること、完璧に円環が完成していることに気づかされた。そういえば2000年にこの映画をもって来日したときに「これを作ってしまったら次はもうやることがないんじゃないですか?」と冗談半分に訊ね、ヤン監督は笑って「心配しないでもまだ映画でやりたいことはいっぱいあるさ」といろいろ構想も聞かせてくれたのだが、亡くなって初めて知ったのは、あの時すでに彼がガンで手術を一度受けていたということ。こっちは軽口のつもりだったが、ニコニコ笑って答えてくれたヤン監督の心中はどんなものだったのだろう? いやはや、バカなことを聞くべきでなかった。

『一、一』ラストシーン

 『一、一』はお葬式で終わるが、『海辺の一日』の最後の回想ではヒロインの兄が半年前にガンで亡くなっていたことが明かされる、その兄の死に際の独白も含め、まだ59歳で亡くなってしまったエドワード・ヤン自身が、たぶんその映画のように自らの運命を素直に受け止めていたであろうこと(だから余計な気遣いを嫌って、なにも言わなかったのだろう)、それに較べて自分たちが彼の死をどう受け止めていいのかまだ迷い続けているしかないことに、改めて気づかされる。