最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

9/15/2010

内匠頭、内蔵助、お岩さん

日本の伝統が「仇討ち」であると思うのは、中国と朝鮮半島から入った儒教倫理に従っていることに過ぎない。なのに中国や朝鮮を嫌う昨今の右翼に限って、それが日本の伝統なのだと言いたがる。日本の伝統は「仇討ち」でなく、「祟り」を恐れること。

丸谷才一は「忠臣蔵」の分析で、内匠頭が吉良に賄賂を要求されたという話はフィクションだったことを指摘している。松の廊下事件の本当の動機は分からない。その分からない動機の荒ぶる神の発露だったからこそ、浪士たちはその荒ぶる神の祟りを鎮めるために、吉良を打たねばならなかった。

浄瑠璃/歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」にも、真山青果の「元禄忠臣蔵」にも、溝口健二によるその映画化にも、復讐劇であるのならそのクライマックスであるはずの討ち入りの描写がないのは、このドラマの本質が仇討ちにはないからである。

溝口健二『元禄忠臣蔵』

討ち入りがない変わりに、正統的な赤穂事件の物語表象でクライマックスとなるのは、泉岳寺の内匠頭の墓前に吉良の生首を捧げる場面である。荒ぶる神を鎮める捧げものとして、吉良の首があり、そして浪士達もまた切腹によって自らを荒ぶる神を鎮める人身御供となるのである。

現代では歌舞伎の演目だが本来は浄瑠璃の演目である「仮名手本忠臣蔵」と表裏一体の関係にあるテクストとして、鶴屋南北が書いたのが怪談歌舞伎の「東海道四谷怪談」である。江戸時代の社会劇として、この二つは双璧をなす。演劇的な、ドラマチックな強度において後者が圧倒的なのは言うまでもない。

まただからこそ鶴屋南北は「忠臣蔵」と表裏一体のドラマとして「東海道四谷怪談」を書いたのであろう。ちなみに「東海道四谷怪談」こそは、北斎が19世紀絵画の世界最大の天才であったように、19世紀の世界の演劇で最高峰のドラマである。「日本に誇りを持つ」とは、そういうことである。

なぜなら「仮名手本忠臣蔵」は忠義と仇討ちのドラマに偽装した、壮大なる荒ぶる神を鎮める儀式でしかないからだ。だいたい仇討ちと忠義が重要なのであれば、浅野公に忠義を貫くためには赤穂藩士は篭城して討ち死にすればよかったのだし、復讐ならば切腹を命じた幕府相手であるべき。

しかしそれが「忠臣蔵」の本当のドラマではない。荻生徂徠らの儒学者たちが浪士達への処罰を主張したのは当然である。儒学に基づいた忠義の論理を幕府が中国/半島から持ち込んで日本で法制化して押し付けたのに対する、日本的なる「荒ぶる神」「祟り」信仰の反逆こそが、忠臣蔵事件だったのだから。

深作欣二『忠臣蔵外伝 四谷怪談』

9/13/2010

「グランドキャニオンには柵がない」ニッポン人は柵が欲しい

過去ログを見て頂ければ分かることだが、このブログでは今まで「小沢一郎」という人物の行動について、政治マスコミが「どうなるか?小沢はこうするに違いない」と騒いでいることについて、常に予測を当てて来ている(ホントですよ)。

今回の代表選挙の出馬するしないのときには忙しくてブログに投稿できなかったが、鳩山前首相が動き回って「出馬回避か」と政治マスコミの大方が予測していたときにも、「出るに決まってるじゃん」と僕は確信していたし、その通りになった。

だって「トロイカ+ワン」なんて話が報道されたら、絶対に出るしかないじゃん…というのは言うにおよばず、この3ヶ月の菅直人政権を見れば、小沢にとっては決していいタイミングでなくとも、出ざるを得ない。

それはもう、菅直人の首相になって以来の。あのツラを見てれば分かること。

首相の座にしがみつくためにどんどん官僚に妥協し、消費税増税と法人税減税なんて話までやり出したのを見れば、これなら政権交代した意味がなかったどころか、「自民党政権の方がまだマシだった」ということにしかならない。

政治マスコミは必死でなにが争点をぼやかそうとしているが、本当の争点は非常にシンプルである。

-官僚機構に真の権力と権限が集中して、横並び無責任体制のなかで個々の組織を維持することが最優先の自己目的化し、現状保守以上のことは誰も真剣に考えることなく、責任をとることもなく、なんとなくすべてが決まってなにか問題が起これば形式だけの「対処しています」といういいわけ作りだけが政策として実行され、そのカムフラージュないしエクスキューズとしてのみ「政治」が存在する国にするのか?

-そんなことやっていては国が立ち行くわけもなく、どんどん不自由で生きづらい世の中になりそうだから、国民の意思で政治を動かし、必要があれば変えられる民主主義社会にするか(だいたいすべて官僚のお膳立てのなかでしかやっていいことがないなんて、不自由でやってられっかってんだよ、バッキャロー)

争点はまったく、このどちらを選ぶかでしかない。

「これなら自民党政権の方がまだよかった」とは、そういうことである。

菅直人が続投するということは、政権党が変わろうが首相が交代しようが、それは官僚が決めたことを公式発表して認可するための機関に過ぎず、「政治」そのものが天皇機関説における天皇と同じくらいの形式的権威でしかなくなり、日本の民主主義はフィクショナルな幻想でしかあり得ないままになる。

以前ならばまだ、「それが自民党の政治だから」というわけで、ならば政権党を国民の意思で変えればいい、と言えた。

しかし民主党になっても本当の意思決定が官僚に任されるのなら、その官僚のガバナンスが破綻したときのオルタネイティブがなくなる--すでに破綻していることは明白だというのに。

しかしここで小沢一郎が首相になることで昨年の政権交代した意味を復活させない限り「マジでニッポンってヤバイじゃん」なのに、現在の、高度成長時代モデルの統治機構がいまさら外需型経済成長なんてない時代の社会に適合するわけもないのに、その統治機構がそのまま維持されて絶対に破綻するのは目に見えているのに、にもかかわらず小沢が勝つということはまずあり得ない。

実はネット上では新聞テレビの報道とは逆に、小沢支持の方が優勢であるらしい。

街頭演説会でも、両候補に対する反応の差は歴然としている。そうした演説をネットではフルバージョンで見られる(映画作家としては、未加工未編集映像しか信頼されないというのは困ったことだけど、あそこまで不誠実で恣意的な編集が駆使されるのでは、やむをえない)

ニコニコ生放送で小沢生出演討論会をやったときも、最後のアンケートでは小沢が78%と圧勝し、コメント欄では小沢をなぜか「中国の手先」と見なすいわゆるネットウヨのワンパターン誹謗以外は、いちいち小沢の発言に納得するコメントばかりが流れる。

代表選の論点にはほとんどなっていないアフガニスタンについての小沢の見解が流れたときには、「正論だ」というコメントで画面が埋め尽くされたほどである(そして確かに、正論なのだ。実は小沢が数年前のまだ小泉の時代に岩波書店の『世界』に寄稿した論文の中身そのままだから、筆者は別に驚かなかったのだが)。

いやよく考えれば、菅有利報道をなりふりかまわずやっている新聞テレビですら、今回の代表選が小沢がスターの選挙であることは隠しようがない。

なにしろ彼らが報道することですら、話題は圧倒的に小沢が多い。どう編集しようが、演説や討論をさせれば小沢が中身でも圧勝し聴衆の反応も彼に集中していることはやはり隠し切れない、というかそれ以前に、菅直人の発言にあまりに中身がない。

Twitter上では(ちなみに当方のTwitter アカウントはこちら)脳科学者の茂木健一郎氏やその茂木氏に引き込まれた白州真也氏が、小沢の政策の革命性に今の閉塞した日本の状況打破の活路を指摘しているし、フリージャーナリストの上杉隆氏や、元東京高検特捜部の郷原信郎氏らが、少なくとも菅直人に政権を続投させることは危険で、公平で公正な社会を維持できなくなる可能性が高いことの警鐘を鳴らしている。

実際、Twitter上などの世論を見る限り、菅直人の圧倒的な優勢を報じる新聞世論調査はまったく信用できなくなるほどだ。

しかし、小沢は勝てないと思う。

別にこれまで小沢の行動の予測をだいたい百発百中当てて来たから、自信がある、というわけではない。

別に占いやヤマカンで当てたことではなく、単に小沢一郎という政治家の言動から本人の価値観や性格を推測すれば、政治マスコミが言っているような行動を彼がとることなんてまずあり得ないからだ。

その言動や行動を見る限り、小沢一郎は普通に真面目で、基本の立ち位置は保守と言っても、それは生活の保守であり、だから自由な発想力もあり、しかし恐ろしく頑固なまでに筋を通す一言居士の一方で、理想主義者でありながら現実に根ざした発想をする人物であることは分かる。

だからその行動は、彼の価値観を考えればかなり簡単に理解も想像も予測もできる。

つまり小沢氏の考えそうなことがだいたい分かるから、予測が当たってただけ(ちなみに、だからなんで政治記者があんなトンチンカンな予測ばかり立ててはいつも外れるのかが、僕には分からない。よほど頭が悪いか、性格がねじ曲がって邪推ばかりしているからああなるのではないか?)なのだ。

それに対して、あした小沢氏の去就を決めるのは、選挙で投票する人たちである。

だからこの予測が外れる可能性は高いことは断っておく。僕は小沢氏のことがだいたい理解できるほどに、あの人々を理解している自信がない。

それでも僕は、小沢一郎は今度の選挙には勝てないし、彼は首相になれないと思う。

なぜそう思うのか?

茂木さんや白州さんのような、自由な社会であれば自分の自由な発想でのびのびできる人たちは、やはり小沢に期待するだろう。

郷原さんのようにきちっと筋を通す人にとっても、小沢さんの方が菅さんのような軽薄なポピュリストよりも理解できるであろうことは、やはり自然なことだ。

それに司法や捜査当局がその本来の職務権限だけをきちんと責任を持って果たすべきであり、本来の役割を超えた権限をそこに与えるのは極めて危険なことだという危機感において、小沢さんと郷原さんの目指すところは一致するだろう。

上杉さんたちにとっては、記者クラブ制度において官僚と記者クラブ会員社つまり大手マスコミが癒着し、日本の言論が実はまったく自由でないことの危機感は大きい。その癒着の権力/利権構造に菅直人がいま支えられているのも、明白だ。

その点でも記者クラブの特権を廃止しオープンな記者会見を主張し実践し、自分の事務所などでは出来る限り情報公開もやってきている小沢さんに期待があるのも、ジャーナリストとしてちゃんと仕事をやる気があるならば、当然のことだ。

ニコニコ生放送では、もう十数年前に小沢が言っていた「グランドキャニオンには柵がない。危ないのは分かっているのだからそこで端まで行くか、危険だからやめるのかは個人の自由で自己責任」の話が久々に紹介された。

小沢さんはその考えはまったく変わっていないと言った上で、「ただしセーフティネットはきちんとしなければ、本当の意味で自由で公正な社会にはなりませんし、それは政治の責任です」と付け加えた。

僕なんかの気分だと、グランドキャニオンに柵がなくて当たり前でいいし、「危ないから」と柵に閉じ込められる社会ではやりにくくてしょうがない。

万が一食えなくなっても、セーフティネットがしっかりしてさえしてくれれば、自己責任で「落っこちた」ことにうじうじして落伍者として恨みつらみを愚痴り続けて他人のせいにする趣味はないし。

日本の映画業界の現在のあり方を批判するのは、単にそれがいい映画をちゃんと見せようとする努力のない怠惰な、ただでさえ狭いマーケットをどんどん狭めるようなやり方ばかりやっているし、作り手にとってあまりにも不公平な業界慣習がまかり通っているからで、「今のシステムがダメだから自分の映画が見てもらえない」という愚痴として言ってるつもりはない(まあ現実には、なかなか公開が困難であるし、別のやり方ならチャンスがあるのは分かっていてもやらしてくれないのはムカつくが)。


でもそれは、本当に自分の力でなにかが出来る自信だか自己過信だかなにかがあるか、それ以前に自分でやりたいことがあるし、そのやりたいことをちゃんと社会化して、社会の一部として社会全体に対する責任を自覚した人たちのことだ。

映画作りなら映画作りで、自分でおもしろいこと、意味があると思えること、やるべきことをやりたいし、それはあくまでこの世界のなかでおもしろいこと、意味があり、自分がやるべきことであり、その相手は観客であるという意識がある人間なら、小沢一郎が首相になって改革した結果に期待できる日本の統治機構は、国としてやるべきことだけはちゃんとやりますからあとは自由に、ということなんだから今よりはやり易いに決まっている。

文化政策だって今みたいに文化庁とその周辺の権限になんとなく有名評論家が名前だけハク付けで参加し、その評論家も文化庁や文科省などの意向を汲み取って審議に参加するみたいな無駄なことではなく、「本当に今の日本の文化の発展、新しい文化にはなにが必要か」を、少しは真剣の議論されることを期待するし、そんななかなら自分が作品を作り続ける自信も多少は持てるし、それでダメなら「自己責任」だからしょうがない。才能がないか努力不足だと納得もできよう。


でもそれが本当に、今の日本人の多数派が求めているような社会だとは、なかなか言えないのである。

我々が求めているような自由を皆が求めるよりは、ほとんどの人はむしろ自由から逃げたいのではないかと思う不安が、どうにも拭えない。

現代のニッポン人というやつは、自分の信じることをやってそこに責任を負うということを、いやなこと、怖いことだと思っている。なぜなんだろう?

明治時代にrespponsibilityを翻訳した際の、「責任」というたぶんにおかしな訳語、とくに「負う」という語彙のネガティブなイメージの奴隷になっってしまっているのか?

そこも含めて、我々は明治時代の権力者たちが奴隷のように従順な国民にしようとした陰謀に、未だに支配されているのだろうか?

小沢さんのなかで一貫してる責任の所在のはっきりした、そのぶん自分で決める自由のある社会なんて、今の日本人には無理なんじゃないかと、どうしても思えてしまうのだ。

現実にこの国では、責任の所在を曖昧にするか、よってたかって誰かになすり付けることばかりが横行する。

なだいなだ氏が指摘していたそうだが、大相撲と暴力団の癒着が問題なら、なぜ暴力団を誰も責めずに大相撲ばかりを責めるのか?暴力団の排除を求めるのなら、暴力団を攻撃するのが筋だろう?

普天間問題で鳩山内閣は確かに失敗した。だがなぜ皆が鳩山さんばかりを責めて、アメリカがそこにいることの是非を議論すらしないのか?

小沢さんは最低限のセーフティネットは国の責任、公平で公正な国に、と言っている。

しかしそうやって責任をなすりつけて批判したり、下に見たりする対象がないと不安なのが現代のニッポン人だ。かといって上に立ったときの責任なんてとんでもないと、絶対に負いたくない。

柵がないグランドキャニオンで崖のギリギリまで行く人を見たら、「僕はあの人ほど勇気がないよね」とは思わない。崖のギリギリまで行くヤツは「生意気だ!」となるのだ。だからそうした「生意気なヤツ」が出て、「和が乱れる」ことがないように、柵はそこになくてはいけない。

ならば本当に公正で公平な社会なんて、この国には必要がないと言うことになる。だから誰も本当は、そんなもの望んですらいないのだ。

望んでいるのは、柵があって誰もそれを超えない社会。「そんなの怖くないじゃん」と言って柵を超える人がいたら、その度胸への嫉妬を隠して「ルールを破ったあいつはけしからん」と言える社会。

だいたい本気で公平で公正で自由な社会を望んでいたのならば、新しい憲法の施行からもう60年以上、制度のベースはがっちり保障されているのだし、今さらになってやっと公正で公平で民主的な社会のために政権交代なんて、どう考えても真面目とは思えない。

夫婦別姓選択制にしても、反対派はなにを反対しているのか?

あなたたちが夫婦で同姓、家族みんなで同姓がいいなら、それを選択する自由は誰も侵害しない。

なんで他人の自由をこんなに嫌うのか?なんで他人が自由になることをここまで嫌がるのか?余計なお世話だろうが、という基本が、この国には通用しない。

自由を行使する人間が嫌いなのだ。同じ自由が与えられていてもそれが出来ない自分がいることを、直視できないから。

なぜ責任がそんなにいやなのだろう? 自分でやることに責任があってこそヤリガイがあって充実するはずだし、大切な人に責任を持つのは嬉しいことでもあるし、それこそが愛そのものであるはずなのだが?

でもこの国は国民も選挙結果にすら責任をとらず、実はお上に依存してお役人任せなのが分かってて安心できてこそ、はじめてそのお役人に格好だけ悪口いって自己満足出来ればそれでいい、そんな状態の方が本当は楽だと思っている人がほとんどなのだ。

だから、菅さんぐらいがちょうどいい。

しかしこの国自体が、希望を失ってぐちゃぐちゃなのに、それでもこのまんまでいいと、本当にみんなそう思ってるんだろうか?

本当にそれで納得できるのだとしたら、明日は菅直人首相の続投が決まる。

9/07/2010

9/03/2010

「ほんの少しだけでも愛を」ラフカット

撮影が5月に、ほぼ一年かかってやっと終わって、3ヶ月以上、ほとんど4ヶ月くらいかかってやっと、お話が頭から最後までいちおうつながる、という形ではまとまった。

ラフカットなんて本来うちわにしか見せないものなのだが、どうせそう読者が多いわけでもないこのブログなので、「公開」というほどのことにもならないだろうというわけで、こちらにアップしておこう。

『ほんの少しだけでも愛を』ラフカット冒頭

…と言っても出だしだけ。続きを見てご意見をくださる方はコメント欄へどうぞ。

今夏の明らかに異常気象の酷暑のなかで、なにせ昨年からこればかりやっていて稼ぐことはほとんどやって来なかったので電気代を気にしてあまりエアコンもつけずに…というか、もとから広くない場所での冷房が苦手なこともあり…Mac殿はフル稼働でかなりの熱を発するわけで、気づかぬうちに朦朧としながらやっている編集作業なので、究極に超私的・超主観なのだ。

映画は公共的なものでもなければならない、ということを主張し続けたのは60〜70年代の大島渚だが、自分で演出し自分で撮影し自分で編集していると、被写体は即興なのでこちらの思い通りに動くわけではぜんぜんないとはいえ、「撮ったもの」の中身に対する客観的な判断がなくどうしても自分に閉じこもったものには、なってしまう。

自画自賛とかそういう意味ではない。「ここにはこういうことが写っているはずだ」という自分のその実「撮ろうとした」思い込みから、逃れるのが難しい。

というわけで、この超主観のいわば「生」でパーソナルな状態を、どう「公共性」、パブリック、つまりは観客の見る「作品」としてのフォルムに到達させる作業が真の編集プロセスであるわけだが、そこにはベタに人に見てもらって反応や感想を、ということが必要なのだ。

もちろん理想は、別建てで信頼できるプロデューサーがいて、かつ編集者が編集してくれることなのではあるが。

ただし「長い」というのはご勘弁を。「ここは要らない」ならいいんですが、なにせラフカットなので4時間半もあり、この次のステップは具体的にはまず、短く整理することなので、長いのは当然ですから。