最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

3/30/2011

「核の危機」とアンドレイ・タルコフスキー

Sacrificiul – Tarcovski 1/5  RO Sub “Offret Sacrificatio” (1986)
 
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アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』(1986)


福島第一原発の事故については、僕なりに噛み砕いた概説をこのブログにも載せたが、基本の部分はそこまで分かり易い話だというのに、当事者側の発表もマスコミやジャーナリズムの報道も、すっかり混乱の極みになっている。

一昨日の、敷地内の土壌サンプルからの微量のプルトニウム検出を巡る騒動で「これでいよいよ最悪の事態だ」と色めき立つのに至っては、失笑ものである。土壌サンプルの採取はよく聞けば3月20日と21日に五カ所からで、そのうち二カ所で今回の事故由来と特定できるものが、ということ。

つまりその漏出は21日以前であり、この発表はそれまでに相当に危機的な状況があったことを裏付けるに過ぎないデータだ。

そこで思い返すならば、ウラン/プルトニウム混合燃料がある三号炉で火災があったり放水をしたり、事故の初期に一号炉二号炉で蒸気を抜いたりしたことがあったわけで、微量のプルトニウムはその時期の漏出分である一方で、それらの問題は今では解決とまでは言わずともひとまずは安定していることには、なぜか誰も言及しないのだ。

ここ二、三日話題になっている水にしても同じことだ。その原因は特定されていないにせよ、一部は放水の結果かも知れないし、とくに二号炉は初期から指摘されていた格納容器の亀裂かなにかの可能性、そこから漏れ出した水であるにせよ、もうかれこれ20日近く経った、その結果が溜ったのだと推測するものだろう、普通は?

どちらも決して突然湧いて出た新たな災厄でもないのに、たかが三週間弱の時系列すら、我々は忘れがちなほど、興奮しきって「最悪の事態だ」と叫んでいる。

   アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』

もちろんこの事故は可能性としてはとても危険なものだし、現実的な危機感は持って当然だ。

とはいえ放射線や放射性物質の健康被害についてもまだこの短期ではさほど深刻に考慮すべきレベルのものではないという程度の教養というか判断力は失ってはいけないし、知らなかったとしたら知ろうともせずにそれで騒ぐのも、厳しい言い方をしてしまうなら、あまりに馬鹿げている。

かといってその知るべき情報というか教養が、ほとんどの人の手に届くところにはないのもまた現実だ。

考えるだけの素養を学校で教わっていないのか?いや義務教育の一部のはずだ。

では忘れているのか…情報の伝わり方も確かに拙いのはもちろんだが、受け取り方のほうにも問題はある。

先日のテレビで長崎大の放射線医学の先生が「こう言っては悪いですが、日本全国が理科音痴、そこへ物理学が降って湧いて来た」と言っていた。

言い得て妙ではある。

その自然現象、物理現象を理解できない自分たちの不安の理不尽さを自覚しないで済ますためだけに、論点を日本社会の内輪の内部抗争にすり替えて、「政府が、東電が信用ならん」「安全神話は崩壊した」「原発マフィアの利権だ」と叫ぶことに血道を上げているようにも見える。

それはそれで、まったく別次元の問題であり、会見場でなにを騒ごうが事故が理解できるはずも、事故が収束されるはずもないのだが…。

65年前にこの国は原子力爆弾の被害を受け、その後には第五福竜丸の事件などもあった。かつての日本人には、原子力というものが世界そのものの破滅を招きかねないものだという感覚は、確かにあったはずだし、僕なぞは家族の記憶もあって、今でもその記憶を引きずっていることも、さきおとといにこのブログで書いた通りだ。

それでも原子力発電を受け入れることにした時から、この国の人々はもうそのことを考えようとも、学ぼうともせず、ただ原子力によってもたらされる電力は存分に享受しながら、原子力というものをただ忌むべきものとして思考から排除して来ただけなのかも知れない。

文字通り、見て見ぬ振りであることは、「自然神の声を危機、生と死を司る境界の民」であったいわゆる被差別部落民を差別して来ている明治以降の歴史ともダブる。

そのツケが、2000度を超える崩壊熱を出している原子炉を「コンクリートで封じ込めろ」というメチャクチャな話を大真面目に主張する「反原発の権威」とやらの登場を招き(爆発しても知りませんよ、そんなの)、事故のことはそっちのけで、とっくに壊れている原子炉を「廃炉にするかどうか」でジャーナリストたちが東京電力の首脳に詰め寄る不条理喜劇めいた光景へと、めぐって来ているのかも知れない。

そりゃ東電の首脳が責任をとれば事故が治まるんだったらどうぞ「責任追及」して下さいなのではあるが、それってどういう責任なのだろう?人身御供で差し出せば暴走する原発の荒ぶる神が治まってくれるような宗教にしか思えない。

そういえば「コンクリートで封じ込め」という意味で、「石棺」という言葉が濫発されるのも、泰西ホラー映画の趣きさえあるではないか。

アンドレイ・タルコフスキー『サクリファイス』

この「核の亡霊の復活」を前にした世間のうろたえぶりを心底、奇妙なものだと思いつつ、過去に「核の危機」がたとえば全面核戦争というような可能性がリアルなものであった時代の映画を考えるに、やはり思いつくのはアンドレイ・タルコフスキーの遺作『サクリファイス』のことである。

考えてみたらこの映画が1986年のカンヌ映画祭で発表されたのは、チェルノブイリが4月の末だから、5月のカンヌはその直後だったことにあらためて気づいた。

無論タルコフスキーはそんな事故が起ることなど知らぬまま、無神論者で近代的な知のスーパーマンとも言うべき主人公アレクサンデル(エルランド・ヨセフソン)が自らの正気と、それまでの人生すべてと引き換えに、世界を核による破滅から救う物語を撮り上げ、この世を去ったのだろうが。


実のところ『サクリファイス』の物語は、「神」の存在をどう定義するかで、少なくとも二通りの解釈ができる。

「神」がいると判断するのなら、アレクサンデルは無神論者の知的なスーパーマン(ニーチェの言うところの「神は死んだ」で「超人」に近いもの)であることを棄て、神の神秘を受け入れて神にすがることで、実際に起りつつあった核戦争から世界を救う、その「犠牲」を描くのがこの映画だということになる。

一方で、彼が誕生日の夜(全面核戦争が告げられた晩)に祈ったその翌朝に、世界は全面核戦争の悪夢なぞどこへやら、元の平和で美しく見えるその姿を回復している。家族も友人もそんなことは忘れているのか、元からなかったことになているのか、アレクサンデルだけが核戦争が起りかけたことを覚えている。

そんな家族と友人たちにとって、アレクサンデルが捧げる「犠牲」はとんでもない狂気の沙汰にしか見えないわけで、そして彼が精神病院へと運ばれていく姿が、この映画の終幕となる。

つまりすべては彼の狂気のなせる妄想であるとも解釈できるわけで、実際に彼以外の人間にはそうとしか解釈しようがない。


だが『サクリファイス』の凄みは、そのどちらの解釈をも決定的に示さず、「神」がいるのか、「神」は人間の想像に過ぎず狂気の見せる幻影なのか、その不安定な宙づり状態にあり続ける映画であるところにこそ、ある。

いずれにせよ確かなのは、原子力、核というものの存在そのものが、「神」の、あるいは人間を越えた領域に人間が手を出してしまうことを意味し、そしてそれがもたらしうる巨大な破壊と厄災とは、人間にとっては狂気の沙汰でしか直視しえないものであることだろう。


タルコフスキーが核による最終的、超越的な破壊の脅威、我々の世界がその破壊のスレスレに存在しているに過ぎなかったことを意識させたのは、この遺作が最初ではない。

たとえば『ストーカー』は、終末的な核戦争か、大きな核の事故があった後の世界を描く寓話である。

アンドレイ・タルコフスキー『ストーカー』(1979) 
第一部 http://youtu.be/JYEfJhkPK7o  
第二部 http://youtu.be/hUHBgqx8YP8

三人の主人公がさまよう「ゾーン」は、すでにチェルノブイリ後の放射能に犯された大地を予見する空間だ。

彼らはなにかの「見えない」恐怖(それは恐らくは、放射能のホット・スポットなのだろう)を避けながら、必死でその荒れ果てた空間を進んでいく。

その見えない脅威を必死で避け続けるその姿、その見えない脅威を避けるためのやり方は、一歩間違えれば滑稽なほどに、不条理だ。


タルコフスキーは、「核」というものの本質的な恐怖を見事に映画にしている。『サクリファイス』でもそうなのだが、もっとも究極的な恐怖、「核」とは、なによりもまず「見えない」のだ。

今、福島第一原発でなんとか事故を最小限の被害に食い止めようとしている四百数十名の作業員たちも、『ストーカー』の三人の男たちと同じ不条理と闘っているはずだ。


見えないが故に実感がない死の不条理、それは映画学校でのタルコフスキーの師にあたるミハイル・ロンムの『一年の九日』で、冒頭に革新的な実験の成功と引きかえに致死量の被曝をしてしまう核物理学者が、死を目前にして吐露するものでもある。

ミハイル・ロンム『一年の九日』(1962)

最終的な破滅をもたらしかねない、人間の制御能力を越えたエネルギー。しかもそれが決して目に見えないものだという、理屈では分かっていても実感としては受け入れ難い、この主題がミハイル・ロンムからタルコフスキーに引き継がれている。

そしてそれは、原子力というものの人類にとっての哲学的な本質なのかも知れない。

その本質から眼を背けてしまうことは、なにも日本に限ったことではないだろう。


タルコフスキーが生きた時代とは、冷戦の時代だ。

その頃には全面核戦争で世界が崩壊するかも知れないという恐怖を、実感として我々は持ち続けて来た。とはいえその恐怖の本質を映画で捉え、描けた国がソビエト・ロシアであったのは、共産主義体制下の映画製作が商業主義の制約と無縁であったことと、無関係ではないだろう。


タルコフスキーの映画がソ連国内ではなかなか上映されなかった、上映禁止の連発だったこと、だからこそ彼が結局は最後の2作品を、『ノスタルジア』はイタリアで、『サクリファイス』はスウェーデンで(フランス資本もあって)撮り得たことを、我々は共産主義体制下での表現の自由の闘いとみなしがちだが、忘れてはならないのは、上映されず、つまり興収の見込めない映画を、タルコフスキーがソ連で撮り続けられたという現実もあったことだ。

公開されず赤字であっても、国際的な評価を得られる映画を、ソ連当局は作らせ続けもしたのだ。

逆に言えばそういう条件がなければ、商業主義の重圧に従うことを余儀なくされていれば、核の問題を人間と世界の関わりのあり方の哲学として扱う映画は、なかなか作れないのかも知れない。

そんなこと、誰もが考えたいものではないから。

そしてタルコフスキーの死と前後して、ソビエトがなくなり冷戦が終り、嫌だとは思っていても人類に共有されていた危機感も、なくなった。

冷戦体制の終焉とともに、全面核戦争が起るかもというアクチュアルな核の脅威は、我々の意識から後退した。実際には世界には相変わらず、この地球からすべての生命を何度も奪うだけの核兵器が、存在し続けているのにも関わらず。

ヒロシマ、ナガサキはアクチュアルな記憶ではなく、ただの歴史となった。そこを生き延びた人々の、決して消えることのない記憶と身体に刻まれた深い傷を除けば。

…というか、我々日本人でさえ、その歴史をも忘れようとして来た。折り鶴の少女・佐々木貞子をモチーフにした「祈り」という歌が昨年話題になったが、多くの人が「感動した」と言うその歌は、僕には凄まじい違和感しか与えてくれない。

なにせその歌詞には、原爆のことを少しでも暗示する言葉すら、なにひとつないのだ。これを原爆を歌ったものとして聴けということに、まず無理がある。


アラン・レネの『二十四時間の情事』では、岡田英次が「Tu n'as rien vu a hiroshima, rien 君はヒロシマでなにも見なかった、なにも」という言葉を繰り返す。

見えない、語り得ないからこそ、その脅威と傷を感じ、考え続けることを余儀なくされるはずの「原爆」「核」のことを、我々はいつのまにか考えることすらできないようになり、意識の奥底ですらなく、意識の外に置き続けて来たのではないか?

実際の生活では、同じ「核エネルギー」である原子力発電の産む電気を放埒に享受しながら。


そのふんだんに供給されるエネルギーはしかし、決して目に見えず、実を言えばよく分かってすらいない、人間の制御能力を越えた、最終的な破滅をもたらしかねないものであり続けて来た。

冷戦の終結とともに忘れて来た、考えないで済むと思い込んで来た我々の、無自覚さと盲目さと傲慢さが、この地震と津波を経て、唐突に我々の現実として突きつけられているのかも知れない。

もちろん福島第一原発の事故が、そのような究極的なカタストロフィをもたらすものだと怯えるべき段階には、我々はまだいない。

これから中央制御室の復旧が進み、原子炉内の細かなデータが得られるようになれば、今問題になっているこまごまとした不具合はもっと見つかるだろうし、その度にこの原子炉群を安全に終息させる作業はしばし阻まれることも繰り返すだろう。だが大筋に於いては、当初に危惧されたような炉心の溶融で原子炉が大きく破損するとか、水蒸気爆発とか、放射性物質が大量に拡散する危機は、今のところ考える必要はない(なんだかんだ言ったところで、炉心も使用済み燃料もデータはかなり安定しているし、排水口で測定されているかなりの量の放射性ヨウ素も、もっと大変だった時期に出ていたものが今そこに辿り着いているのだと考える方が合理的だ)。

とはいえそれは、まだなんとか運が良かっただけである。


『ストーカー』の「ゾーン」のようになるのは(あまりに痛ましく残酷な “幸運” として)せいぜいが原発の敷地とごく一部の周辺地域だけになるのだろうが、それでも核がもたらす破滅的な風景が現実となり得ることは、もう実感として十二分に我々には分かったはずだ。

一歩間違えれば…なにしろ福島第一原発に今ある核燃料の総量は、ヒロシマ型やナガサキ型の原爆のなかのそれよりも、桁違いに多いのである。

核がもたらしうる破滅的な風景それ自体を、タルコフスキーは『サクリファイス』でも『ストーカー』でも、見せようとはしていない。『サクリファイス』ではその破滅は回避されるし、『ストーカー』では抽象化された空間のなかで、三人の男たちはただひたすら歩くだけだ。

だがその究極的な破滅の風景と、しかしだからこそ、そこを目撃し、生き延びることの意味を、タルコフスキーはそのずっと前にすでに映画にしていたとも思えるし、その映画の記憶は『サクリファイス』に刻印されてもいる。


その記憶の刻印とは、アレクサンデルが誕生日に贈られる、中世ロシアのイコン画家アンドレイ・ルブリョフの画集だ。

言うまでもなく、タルコフスキーの監督第二作は、そのアンドレイ・ルブリョフの伝記映画である。

『アンドレイ・ルブリョフ』2003年修復版・全編
第一部 http://www.youtube.com/watch?v=1PAhbcy8mP4
第二部 http://www.youtube.com/watch?v=RwCJoEJFW5g

一見中世を舞台にしたこの映画の見せる、戦乱に引き裂かれ荒れ果てた大地とは、実はこの映画が作られた冷戦のまっただ中の時代に誰もが恐怖した、近未来の荒野のイメージではなかったのか?


淡いモノクロームでその荒れ果てた近未来の風景を見せ続けるスクリーンは、最後に極彩色で捉えられたルブリョフの絵画に覆われる。それは最早「宗教」も「神」も越えて、その終末の荒野を歩き続けた男が到達した精神の具象化に他ならない。

『アンドレイ・ルブリョフ』エピローグ、ルブリョフ作品のモンタージュ

その絵画、精神の具象化によって、『サクリファイス』は確かに、『アンドレイ・ルブリョフ』と繋がっているのだ。

そしてアレクサンデルがそうした荒野となることを阻止した大地、そうして守られた世界の美しさのなかに、彼の唖の息子が、初めて言葉を発する。


「『はじめに言葉ありき』、なぜなの、パパ?」

そして世界はあくまで、痛々しいまでに、神々しいまでに美しい。

3/28/2011

ロシア映画の知られざる鬼才、アレクセイ・ゲルマンを讃えて

アレクセイ・ゲルマン『フルスタリョフ、車を!Хрусталев, машину! 』(1998)冒頭シーン

アップリンクFACTORYで開催中のロシア/ソビエト映画特集「100年のロシア」には、アレクセイ・ゲルマン監督の脅威の傑作(という褒め言葉も陳腐に思えるほど凄い映画)『フルスタリョフ、車を!』がプログラムされている。

恐らく1990年代の世界映画でもっとも傑出した怪作であり、世界中どこでもDVD化されていないらしい、いわば幻の、そして呪われた映画は、「奇妙だ」の一言で始まる。


1999年のカンヌ国際映画祭に出品されたものの、無冠で終り、同年の東京国際映画祭での上映では、ゲルマン監督は冗談めかして「東京の観客は素晴らしい!カンヌでは最後まで誰も残っていなかったのに、東京では誰一人出て行かなかった!」と笑っていた。


実はその年の審査委員長であったマーティン・スコセッシは、この映画を「凄い!」「パワフル!」と絶賛している。

なのに無冠で終ったのは「困ったことになにがなんだかさっぱり理解できなかったのだ。だから他の審査員を説得できなくて」。

…と伝えたら、ゲルマン氏は不敵に笑っていたわけだが…。

結局、日本の劇場公開時の宣伝コピーは、このスコセッシの発言を引用させてもらい、「なにがなんだか分からないが、凄い!」となった。

しょうがない、説明不能なほど凄い映画なのであり、そしてさっぱり理解不能なのである。もう見るしかない、感じるしかない映画であるのは、このトップに掲げた冒頭の長廻しショットを見るだけでも、予感できるだろう。

アレクセイ・ゲルマンの圧倒的な不条理の演出力に引き込まれるのと同時に。

スターリン時代の体制側の小説家だった父ユーリ・ゲルマンの人気小説の刑事をあえて主人公とした『わが友、イワン・ラプシン』を、ソビエト体制が崩壊に向かう1984年に発表して以来、14年の歳月を経て完成させたこの寡作の天才の、この現時点でもまだ最新作の映画は、「奇妙だ」と言うナレーションの声で始まる。

   『わが友、イワン・ラプシン』

イワン・ラプシンを主人公とする小説シリーズは、いわゆる社会主義リアリズムの典型的なヒーローとしての、共産主義を信じて悪と闘う刑事を描くものなのだそうだが、息子アレクセイによる映画化は、そう一筋縄でいくものではない。


現代の、50年後に老人となった語り部の現在を見せるプロローグから始まる『わが友、イワン・ラプシン』の冒頭で、その語り部は「これは過去に共に生きた人々へのラブレターだ」と宣言して始まるのだが、その回想のなかの少年時代、1934年の過去、スターリンの大粛正直前のソビエトは、まだ共産主義を純粋に信じられた時代へのノスタルジアと同時に、それが未完成のまま腐敗して崩壊してゆく予兆に、満ちあふれもいる。


誰もが懐かしみながら、誰もが語りたくない時代を、アレクセイ・ゲルマンは賞讃でも断罪でもなく、たた浮かび上がらせる。その複雑な感情のすべてを内包しながら。

そしてソ連がなくなったあと、満を持して発表された『フルスタリョフ、車を!』は、これまたソビエト史の、20世紀のロシア人たちの集合的記憶の、これまたもっとも決定的な瞬間をめぐるものだ。

そのことは題名だけで、すでにロシア人にとっては自明のものなのだそうだ。

「フルスタリョフ、車を!」とは、スターリンの死の直後に側近のベーリアが叫んだとされる有名な言葉だという。

   『フルスタリョフ、車を!』

今回も上映される国際配給バージョンは、冒頭にこれが1953年を見せる映画であること、その政治情勢(白衣の陰謀団事件など)を説明する字幕がつくが、これはロシア公開版や、カンヌや東京国際映画祭で上映されたバージョンにはない。

公開版の日本語字幕では「スターリン閣下!」という台詞の翻訳字幕があるが、これも元のロシア語の台詞にはない。「大元帥同志!」と言っているだけだ。

だからこの冒頭の三分間の長廻しのショットに続く139分のあいだに渦巻く、陰謀と迫害と愛憎の怒濤の悲喜劇は、もしかしてこのボイラーマンという人物がクリスマスか新年のものらしき電飾の電源をショートさせてずっこける、このことだけがきっかけで始まるようにも見えてしまう。

…というのも、本当になんの説明もないので。

   『フルスタリョフ、車を!』ロシア公開版、冒頭部

そう言うと、ゲルマン監督は「そうなのかも知れませんよ。あの事件が全てのきっかけであったとしても、ちっともおかしくないのですから」と平然とおっしゃるのである。

そうであってもおかしくない−スターリンの死の前後の混沌とは、まさにそういう「わけのわからない」ものなのだ。

この映画も、『イワン・ラプシン』と同様、当時は少年だった語り部の、半世紀近く経った思い出として、観客に提示される記憶の映画だ。

   映画の語り部となる主人公の息子

その記憶は現実だけが持つはずの生命力にあふれながら、陽気な悪夢のようでもあり、悲劇であるはずなのに、滑稽でもある。


アレクセイ・ゲルマンは1938年生まれだから当時は14歳か15歳。この語り部はゲルマン本人の分身なのかも知れない。その語り部の声の、この映画で最初に発せられるひとことは、「奇妙だ」である。


語り部は脳外科医の軍医少将である主人公の息子だ。その父はまさに「奇妙だ」でもあり、またわけのわからない陰謀にはめられたのか、自らの自己破壊的な欲望に追い立てられたのか、地位を奪われ突然迫害される立場になり、奇妙な運命をたどる。

密告があったらしいことは分かるが、ただそれがどんな政治的な陰謀だったのか、なぜそうなるのか、それはさっぱり分からない。ひたすら混沌している。


「つまり私が子供の頃は、そういう時代だったんですよ。私にも分からないことを正直に映画にしてみただけなんですから、あなたにもし分かったら、ぜひ教えてもらいたいですね」とゲルマン監督が言うのは、どこまで本気でどこまでブラックジョークなのか…


「それはどうなんでしょうね、私にも分かりませんよ」と不敵に笑っていたアレクセイ・ゲルマンは、今年じゅうにはやっと13年ぶりの新作を完成させるそうだ。

しかしその新作もどうもスクラダノフスキー兄弟原作のSFらしいけれど舞台は中世だという、やっぱりわけが分からないので、とりあえず今は『フルスタリョフ、車を!』をこの機会にぜひ見直すことをお薦めしたい。

この文字通りわけが分からないけど凄い…いや、わけが分からないからこそ凄い映画は、「くだらねえ!」という叫びで終る。

   
「奇妙だ」で始まり、そして「くだらねえ!」

ふと思うと、原発の事故で危機にあるはずのこの国の現状も、この形容がぴったり当てはまる気もする。

ただひとつだけ違うのは、「奇妙」で「くだらない」政治の混沌のなかで、1953年のソ連人たちは大いに間違って大いに堕落していて大いにくだらないとしても、それでも生命力にあふれて誠実にくだらないことだ。

今の日本でこの生命力と誠実さがあるのは、恐ろしく皮肉なことに、政治家やジャーナリストたちのくだらないコップの中の嵐(原子力が暴走しているのに)なぞとは無縁に、懸命に生き延びる闘いが続いている、震災の被災地だけなのかも知れない。


『フルスタリョフ、車を!』の上映は3月30日(水)18:00〜、渋谷アップリンクFACTORYにて