最新作『無人地帯 No Man's Zone』(2012)
〜福島第一原発事故、失われゆく風景、そこに生きて来た人々〜
第62回ベルリン国際映画祭フォーラム部門正式出品作品

8/28/2014

「事実」を語る主体について


先週末、テルアヴィヴからアヴィ・モグラビがやって来て、東京で上映と討論があった。原一男さんの「NewCinema塾」の招きである。

アヴィ・モグラビ
まず22日の金曜日に上映されたのが最新作の『庭園に入れば』。昨年インタビューをとらなければならず内覧用のリンクで見ていたのだが、やはり映画は大スクリーンで見るものだと実感。

だいたい、内覧用のビデオファイルはシネマスコープ・サイズじゃなかったじゃないか!



なんだか変な画面だなあと思いつつ、シネスコだとはまったく思っていなかったのは「ドキュメンタリー」に対する偏見もあるんだろうけれど不覚極まりない。 
シネスコで、大画面で見た『庭園に入れば』はとても映像が美しい映画でもあったのだから、まったく情けない…

「二人の人間が主人公なんだからシネスコの方がおさまりがいい」とアヴィは言う。いつもは自作自演の自分が主演のモグラビの映画で彼が写るのは画面のど真ん中。


短編『ちょっと待って、兵隊が来たから電話を切るよ』

それが『庭園に入れば』は30年来の友人で彼のアラビア語の先生でもあるアリ・アル=アズハーリがもう一人の主役になる。


ナザレ近郊のサッフーリア生まれのパレスティナ人でイスラエル国籍も持っているが、生後4ヶ月で1948年のイスラエル独立戦争で避難した結果、一族は「不在地主」ということで家屋敷を接収され、その故郷には今も帰ることが出来ない。


『庭園に入れば』は10月中旬以降に新宿K's Cinemaで開催予定のドキュメンタリー・ドリームショー 山形in東京でも上映予定

原さんの「NewCinema塾」は全体テーマが「セルフ・ドキュメンタリー」というわけで自作自演ドキュメンタリーの名手、必ず自分が写っているモグラビが海外ゲストとして招かれたわけだが、そこで上映されたのは98年のイスラエル建国50年に撮った『ハッピー・バースデーMr.モグラビ』と2000年の第二次インティファーダ勃発直前の8月に撮った『八月 爆発の前に』(2002年の発表なので、これまではてっきりインティファーダの時期だと思っていた)という、自作自演の要素が強い二作品だ。


NewCinema塾は毎月第4土曜日12時20分より、アテネ・フランセ文化センターにて。次回は9月27日、ゲストは中国から呉文光と章梦奇。
原一男

原さんとのディスカッションでモグラビが繰り返したのは、ある事実を語るというその行為が、必然的にそれを語る人間の脳を経て、その価値観や立場や思想に基づいた情報の取捨選択と再構成でしか成され得ないこと、事実を「ありのまま」語るのは不可能であることだ。

当初は『八月」だけの上映予定だったので、急遽『ハッピー・バースデーMr.モグラビ』をプログラムに加えたことは大成功だった。

最新作の『庭園に入れば』と、モグラビ作品のなかで日本で初めて上映された『ハッピー・バースデー』(ともに山形国際ドキュメンタリー映画祭のコンペ作品)を論ずるときに共通して避けて通れないのは、1948年のイスラエルにとっては独立戦争、パレスティナにとっては「ナクバ(大災厄)」、ひとつの歴史的事件から産まれるふたつの歴史叙述、中東における1948年の歴史的事件の二重の意味性だ。


同じ「事実」がそれを誰が語るのか、その主体によってまったく異なった意味をもつ。1948年のパレスティナで起こったことほど、それが明瞭になる例もめったにない。

そして間に13年を経たこの2本の映画では、共に48年をめぐる二つの歴史(イスラエル側とパレスティナ側)が並行して展開し、時に衝突するように見せながら、実は相互に影響し、補完し合い、やがて混然一体となっていく。

実際のところ、この二つを公平で中立かつ客観的に、「事実をありのまま」叙述し得る視点は存在しないだろう。日本ではいかにも公平を装って「第一次中東戦争」と呼んだところで、距離を置いているだけで客観でも公平でもなく、ただ人間的なディテールが欠如した「他人事」にしかならない。

このまったく正反対の二つの歴史叙述を産んだ事件について、なにか本質を表現し得るのは双方の叙述、いや実はもっと千差万別に多様な物語(たとえばイスラエル独立戦争でイスラエルと戦ったのは、レバノン、シリア、ヨルダン、イラク、エジプトのアラブ諸国でもある)を、一方を徹底して見せることで他方を暗示させるか、衝突させ、混沌とさせるか、対話させるしかない。

だからこそ「事実」に関する情報を意識的にせよ無意識にせよ取捨選択し、価値判断をあてはめ、自分の理解できる物語に再構成する主体としての語り手が明確でなければならない。ゆえにモグラビの場合、本人が映画に登場して自分自身を演じることになる。

モグラビは大学や美術学校でドキュメンタリー映画作りを教えてもいるが、「自分が撮っているような映画の作り方を教えないので、学長にいやな顔をされている」と笑う。

教えているのは「ダイレクト・シネマの撮り方」だ。

現実にキャメラを向けることがあくまで出発点で、決して「自分を撮る」ということに興味があって自作自演が始まったわけではない。あくまで「事実を物語として叙述する主体」をめぐる問題意識のなかで、事実を物語に構成する主体を晒すこと、フィクションの枠組みで現実の断片を捕らえ直す、その映画表現の手段として映画のなかに、いわば監督の虚構の分身として、彼の自作自演がある。

映画であれば(ドキュメンタリーであれ、実話を基にフィクションとして構成するのであれ)、それは視点の問題になる。アヴィ・モグラビの映画がアヴィ自身の演ずる(ほとんどの場合フィクショナルな)アヴィ・モグラビを主人公=主体とするのは、その視点を相対化するためであることが、この三本の上映順で、とても明確になった。

アヴィ・モグラビの自作自演要素の入った最初の作品
『私はいかにして恐怖を克服して
アリエル・シャロンを愛するようになったのか』
シャロンに魅了されて妻に逃げられた、というのは無論作りごと

『庭園に入れば』の上映では、二回目に見たというお客さんから、最初は心温まる映画だと思っていたのが、見直したら語られていることの重さが分かってそのギャップに驚いた、という質問があった。

とても遠慮がちで、なかなか言いたいことがはっきりしないのも無理もない話だが、極めて的を得て『庭園に入れば』の本質を突くと同時に、アヴィ・モグラビという映画作家の成熟を指摘していたと思う(し、アヴィもそう思っていた)。




『ハッピー・バースデーMr.モグラビ』では、アヴィが演じる映画監督がイスラエル建国50周年を撮る映画を企画中に、ラマラ(パレスティナ自治区の首都)の教育テレビジョンから、イスラエル領内にあるかつてのパレスティナ人の町や村の痕跡を撮影する依頼を受けてしまう。このフィクションの枠組みで二つの異なった歴史叙述/物語が同時進行で浮かび上がると同時に、アヴィ演じる主人公はどんどん混乱してしまい、しまいにはどちらの企画も完成できない。

それに対し『庭園に入れば』では、10数年前にはひとりの個人のなかで混沌と混乱を引き起こした二つの歴史、二つの物語が、お互いを尊重しながら共生している。

それも遠慮がちな「共存」ではない。

たとえばこの写真は、1950年頃のモグラビ監督の父がパレスティナ人の村に派遣された時に撮られたものだ。


モグラビの父はこれ見よがしに銃を腰に差しているが、戦闘員でなく事務員ではあったのだし、実際にはなんの任務なのか分からない。

つまり撮られた文脈が分からない写真映像は、それを見る主体によって様々な意味を持ち、叙述を発生させ得るし、その写真映像をどう見てどういう叙述をするのかによって、その主体がどういう人間なのかも明らかになる。

パレスティナ人は番号が書かれた札を持っている。それを見たアリ・アル=アズハーリが「番号が入れ墨じゃないだけマシ」とすかさず言う。もちろんホロコーストで捕らえられたユダヤ人には囚人番号が入れ墨されたことにひっかけたブラック・ジョークだ。

いやだいたい、このモグラビ監督の父はイスラエル独立戦争が激化したひとつの大きなきっかけとなったデイルヤシン村の虐殺事件(1948年4月9日、独立宣言の5週間前)を首謀した極右組織イルグンのメンバーだったのだが、それをアヴィが明かすと、アリは「あらためて、はじめまして」と握手の手を差し出す。 
なにかあれば「48年のぶんの賠償金から差し引いてくれ」とか、一時が万事、もっとも深刻な話でさえギャグになってしまう。 
帰ることが出来ない故郷サッフリアで木にぶらさがったサンドバッグを見れば「ナクバ・バッグだ」と言ってパンチして、手がちょっと痛かったらまた「48年のぶんの賠償金」である。 

笑いとブラック・ユーモアの応酬に終始しながら、この写真をめぐるアリの感想はとても重い。

「自分の父親が加害者として写っている写真と被害者として写っている写真のどちらかを選べるとしたら、被害者の息子であることの方が私には楽だ」



現実の生活では加害者=勝者であるイスラエルのユダヤ人が有利で、パレスティナ人が差別もされているのはもちろんだ。

だがそれでも、精神的、道徳的にどちらの側の方が受け入れ易いかと言えば、加害者の子が背負い込む深い葛藤に自分が耐えられるか、アリは自信がないという。それを被害者の側であるパレスティナ人が言うことが、とても深い意味を持つ。


二つの異なった(場合によっては対立する)視点の二つの物語/歴史叙述を一本の映画に構成する上で、重要なのはシネマスコープの画面だ。

これは単にアヴィが冗談半分で言ったように二人の人物を同時に撮るには好都合で、たとえばクロースアップでもツーショットが出来るだけでなく、シングルのアップでも必然的に背景が写り込んでしまう、なにかキャメラが集中しているもの以外のものが必ず画面に入って来て、視点の演出が多中心化してしまう画面サイズだ。


それに加えて、これまでの作品ではモグラビが固定されたキャメラの前で自分自身を演ずることの発展形で、室内なら天井に、自動車のシーンならダッシュボードに固定された、誰がオペレートするのでもないキャメラが、常に人物たちを見つめている。時にはその画面内にキャメラマンがキャメラを持って写り込み、映画の視点は文字通り多様化/多中心化される。


これはドキュメンタリーでありながら(その意味で処女作の『再現』を除けば、『庭園に入れば』はアヴィの映画でもっとも純粋にドキュメンタリーとして撮られた映画で、フィクションの要素は挿入される手紙の朗読だけだ)この映画の映像が劇映画的でもあることにも、つながっている気がする。

アリとユダヤ人の妻との娘、ヤスミン
ドキュメンタリーでは、現実の状況のなかにキャメラがあることが、なんらかの形で必ずその状況に影響を与える。モグラビの『八月』はそのもっとも極端な例でもあり、つまり現実の8月の町を撮りに行ったら、撮れてしまうのは撮影していることにイチャモンをつけたりする人たちばかりだ。

『八月』より、キャメラに向かって話しかけるパレスティナ人労働者
それに対し劇映画では、キャメラの視点が映画として見せられる状況の外にあることが大前提の約束ごとだ。主観ショットという叙述のテクニックはあるにせよ、キャメラとその視点は状況に直接介入しない、登場人物にはその存在が見えていないことになっている。

この固定キャメラは、そうした劇映画のキャメラに近い役割を果たしている。慣れてしまえば廻しっぱなしの固定されたキャメラを現場では誰も意識しなくなるし、構図こそキッチリ決めて固定されていても、なにか現実の状況に対して撮り手の興味でフレーミングが随時決められて行くわけではない。

『八月』本人、妻、プロデューサーの一人三役を演ずるモグラビ
この意味でも、原一男とアヴィ・モグラビという組み合わせはものすごく興味深い。

原はキャメラマン監督であり、オペレーターなしの固定キャメラが導入される『Z32』と『庭園に入れば』以前のモグラビの映画でも、多くの映像がモグラビ自身が撮っているものだ。

『八月』レバノン国境、キャメラに向かって来るジープ
原一男のドキュメンタリー映画における演出とはまずなによりも自分が惹かれた存在にキャメラを向けること、キャメラを持ってその主人公の世界に介入することが出発点であり、そこにこそ原の演出が凝縮されるため、作品の編集には構成についてすら原はほとんどタッチしないにも関わらず、紛れもなく原一男の映画として成立する。


原一男『極私的エロス・恋歌1974』

その原一男が今回、あえて「セルフ」つまり「自分を撮る」ドキュメンタリーに興味を持ってこの連続講座を主催しているのも、不思議といえば不思議だし、だからこそおもしろい。


原一男『ゆきゆきて、神軍』

題名に『極私』が含まれる『極私的エロス・恋歌1974』ですら、原を突き動かしているのは過去の自分の恋愛関係を撮ることよりも、かつて一緒に暮らした武田美由起という女、その破天荒で魅力的な他者と関わりたい、撮りたい欲望だ。

原にとって映画を通した自己表現とは、自分がその他者を見て関わり、撮りたいという欲望であって、だいたい原一男は自分の顔を撮った映像や写真がもの凄く苦手な人ですらある。

原一男、アヴィ・モグラビ
ひたすら他人を撮りたい、しかも完成した映画の叙述構成にはほとんどノータッチで編集の鍋島淳にほとんど口を出さない原の映画が、それでも原の私的な表現であるのは、そのまなざしの欲望がキャメラとなり、演出となっているからであり、撮っている映像からして鍋島は鍋島で、そこに込められた原の撮影/演出以外の方向性では構成のやりようがないのだ。


原一男『さようならCP』

一方、アヴィ・モグラビがキャメラを自分に向けるのは、フィクションとして自作自演する自分であり、『庭園に入れば』では作り事はほとんどないにしても、そのなかのアヴィ自身は「一人の登場人物」である。



この「自らの視点に自覚的である」こと、そして「自らの視点を相対化」すること、その意識がどうも希薄であることが、原一男が「自分を撮るわけではない題材でも、セルフ化が進行している」と指摘する日本のドキュメンタリーの現状の大きな問題である気がする。

なぜ「私」の姿を映画で見せたいのか?

なぜ「私」の想いを観客に直接見て欲しいのか?

この連続講座で以前に「震災をセルフする」というお題でとり上げられた『3.11』では、被災地被災者そっちのけで「死体を撮りたい」という森達也を始め、原発の近くにまで行こうとしたものの勝手に大パニックになっている映画の撮り手達がやたら画面に晒され、最後には津波被災地で遺体にキャメラを向けようとして遺族に怒られる。なぜこの映画は「私は後ろめたかった」と森が言うことでヒットしてしまったのか?

なぜみんな「セルフ」を撮りたがるのか?

なぜ被災地・被災者が主人公のはずの映画で、撮りに行った「私(たち)」が主人公になり、むしろそんな撮り手の混乱にこそ観客が共感するのだろう?

モグラビが繰り返し指摘したように、物語る主体は、実は相対的なものに過ぎない。

我々が被災地に行けば、映画に出て来るのは私たちがたまたま遭遇した風景、なんらかの縁か偶然で会った人たちだけだし、聞いている話はあくまで僕ら相手のものだ。

だがその語る主体の限界性と相対性が、作り手のエゴにとっても、今の日本の観客にとっても受け入れられにくいことこそが、ドキュメンタリー映画を「セルフ」に走らせるのではないか?

それが今のドキュメンタリー映画業界においては、「セルフ」を作りたがる(=「自分を分かって欲しい」と言いたがる)作り手と、一部の(「その気持ちよく分かるわ」と言いたい)観客の共謀関係になっていると同時に、日本社会の全体における大きな問題である気がしてならない。

つまり現代の日本人はむしろ、安心して同化できて全面的に信頼させてくれる「語り手」を盲目的に求めてすらいるのかも知れない。

逆に言えば、自分が語る主体となった叙述ができず、自分の意見が言えないまま、「みんなと同じ」であることに安心する。

たとえば「観察映画」がもてはやされるのはそのせいであり、一見「客観観察」で「セルフ」とは正反対に見えながら、その実コインの裏表でしかないのではないだろうか? 
「みんなと同じ観察をしてみんなと同じ観察結果の感想に達する」ことの安心感が前提だから、たいして絵的に映画的でもエキサイティングでもなく、そこから学べることが完全に予定調和で退屈しかなくとも、むしろ退屈で月並みな単一の見方、単一の結論を持つことが重要なのだ。

この心理は裏返せば、『庭園に入れば』の質疑応答で実はもっとも本質的なことを言ったお客さんが、率直な意見でしかも本質を突いているにも関わらずなかなか自分の言いたいこと/言うべきことを明晰に言えなかったことにも通じる。

イスラエルとパレスティナの問題なら、深刻であるはずだというのが世間の一般了解であるのに、自分は心温まる映画として『庭園に入れば』を見ていた。それはなにか間違ったことなのではないか?それを言ってしまえば周囲から怒られるのではないか?その不安がどうしても先に立ってしまうのは、よく分かる。

そんな世の中で「セルフ・ドキュメンタリー」を撮るのはもの凄く勇気がいるはずで、よくやるよなあ、自分の恥まで晒す覚悟で、とも思いがちなのだが、実はそうではなく、むしろ逆な気がする。

ただそのことはこの原一男さんのシリーズはまだまだ続くのだし、学生の時分からかわいがってもらってテレビのドキュメンタリーも一本撮り、自分の劇映画にも出演してもらった縁で巻き込まれてしまったので、じっくりこの後を観察することで考えて行きたい。


藤原敏史『ほんの少しだけでも愛を』に俳優として出演した原一男
ところで今回のNewCinema塾アヴィ・モグラビ編は実は原さんに頼まれ…というかなにしろ原さんとアヴィの対話である。「他に誰がやるんだ」というわけで通訳をやっていたのだが、アヴィを呼び出す前に原さんが「藤原君がまず自己紹介をしなさい」と言い出すので困った。なにも思いつかないので適当にごまかしたのだが、今思えば失敗したと思っている。

こう言えばよかった。

「僕も映画監督のはしくれですが、セルフは絶対に撮らない監督です」

(撮影:原一男)
僕には自分の「想い」なんてそんなに重要なものだとも思えない。むしろそれは、映画を撮っているあいだに見つけて行くものではないのだろうか?

8/20/2014

道徳がルールになり法制化される社会の危険


愛知県立美術館の展覧会で鷹野隆大氏の写真が「わいせつ物の陳列」にあたるとして撤去を求められ、布や半透明の紙で一部を隠した形での展示に変えられたそうだ。



本ブログでは大島渚の「猥褻とは明治の官僚の下品な造語である」の一言で刑法175条については結論が出ているとみなしているので、本題から微妙にズレることの詳細は鷹野さん自身が語っているこちらのWEB骰子をご覧頂くとして、非常に気になるのは「匿名の通報」が摘発のきっかけだったことだ。

昨今、警察では一般市民からの通報には必ず対応することが内規になっているらしいが(とお巡りさんに聞いている)、市民の声を無視しないのは大切だとしても、通報があったら自動的にとにかく摘発、というのは法治の原則からして多々問題は出て来る。

同様の問題は学校や自治体の図書館で『はだしのゲン』が書架から撤去されたことや、最初から有罪になるはずがないのが分かっていた小沢一郎の検察審査会による強制起訴の一件などにも通じる。

要は恣意的に、まったくの個人的で身勝手な欲望で、ただ気に入らない相手を潰したり自分にあたかも権力があるかのような錯覚で自己満足欲求を満たすことに、公権力が利用されてしまう(逆に公権力がそういう「一般市民の声」をエクスキューズに利用もしている)、法制度の恣意的施行による無法状態という倒錯すら産み出しつつある。

それが法治社会の死を意味しかねないことに、つまり我々の人権が恣意的に侵害される可能性が増大することに、もっと敏感になった方がいい。こういう形の弾圧は、ただの警察国家の密告社会の全体主義よりも、なにしろ歯止めが利かないしたった一人の言葉でも暴走し易いだけに、より始末が悪い全体主義を生み出しかねないのだ。

もっとも、それ以前に「法治社会」という意味を日本の場合は総理大臣すらよく分かってないで振り回している妙な国だから困るわけで。 
法治とは国家権力がとりわけ市民に対して行使されることを、法の正当で論理的な運用に限定するという考え方だ(つまり内閣が「解釈改憲」になる閣議決定を、なんてことが起こってしまう国は法治ではない)。 
法律はみんなで決めたルールだから守りましょう、なんていうのは法治ではない。「みんな」が正当化の理由になり得るのは法の支配と正義の倫理性・論理性を無視した全体主義国家だけだ。

法治とは国家の行政権の行使を最低限の、法の許容する範囲内に抑える考え方であり、その社会の法もまた社会の維持に必要な最低限の、厳密に論理的で整合性のあるものであることが要求される。

まただからこそ、例えば日本の三権分立制度のようなチェック機能の充実もそこに含まれる。どんなに政権が欲し、国会で与党が圧倒多数で議決した法案でも、法論理の基本を踏まえていなければ最高裁が違憲立法審査権を行使する対象になる。

もっともそれ以前に、そんな法案は内閣法制局が立法事由がないなどの理由で出させないのが、本来の日本の統治システムでもあった。 
だがかつて法制局が「立法事由がない」と国会提出を止めさせた「特定秘密保護法案」「解釈改憲」の集団的自衛権が典型なように、今では有名無実化しつつある。

単に社会の多数派が「不快だ」とか思うだけで法権力が行使されることは許されず、法の支配の範囲をなるべく少なくし、その枠外では社会の健全な運営には可能な限り個々の市民の良心的判断に期待するのが、法治主義だ。

一人一人の個々人に信頼に値する倫理観がある限りにおいては、そうしておいた方がいろいろ安全なのは、人間社会が常に複雑化し、個々の人間がなにをするのかが予想できない上に、しかも人間のやることでしかない以上は立法で誤りを犯す可能性も看過できず、既成のルールでは対応できない事態や、細かく書き込まれ過ぎているからこその法の不備や矛盾が明らかになるようなこともいつだって起こりえるからであり、だから法律でなにもかも決めてしまうのは、社会の運営の観点からみても合理的ではない。

だがこの基本原理が、今の日本では確実に壊れつつある。

鷹野隆大さんの写真を「通報」した者にせよ、『はだしのゲン』を図書館から排除しようとした者たちにせよ、まして小沢一郎に対する「告発」は言うに及ばず、いずれも社会の一員としての倫理観が動機になっているとはとても思えないどころか、確信犯的な制度の悪用だ。

いずれもそこで用いられた法や制度の存在理由(立法目的)とは実は別の理由で、他人や他者が不当に「罰せられる」ことを狙っている。

小沢の強制起訴は法に無関係に小沢に政治的なダメージを与え政治生命を絶つことが目的だ。 
『はだしのゲン』に至っては被爆者が受けた差別のひどさの表現のために使われる言葉が「差別語だ」、戦争の残酷さを指摘する描写がショッキングだというのが表向きの理由になっていること自体がナンセンスで、そうした差別があったことや戦争の残酷さを隠蔽することが目的であると露骨に自白しているような話である。

鷹野隆大さんの写真にしても、本当に問題なのはそれが男性どうしのペア・ヌードであり同性愛を表象していることが気に入らないのを、男性器の露出が「わいせつ」ということで押さえ込もう、はっきり言ってしまえばマイノリティであるゲイが堂々とアートにおいて発言権を持つことが「生意気だ」(自分達が発言権を行使するに値しないコンプレックスがあるからこその匿名であることも含め)という差別意識に基づくいやがらせでしかない。



また鷹野さんの作品がはっきりと恋愛関係を賛美したものであることも、こう言っては悪いがいわゆる「非モテ」であったりすれば、相手がゲイだからこそより激しい嫉妬の対象にもなりえる。

こうした日本社会の現状が極めて皮肉なのは、たとえばこのような「差別はいけません」という良心や倫理観の問題であるべきことが、そうではなくただ「ルール」に過ぎないからこそ、こういう嫉妬やコンプレックスがマジョリティ側に渦巻いてしまい、その鬱憤晴らしでこのような歪んだ事象が起こっているからでもある。

極端な話、「差別はいけない」がルールでとして徹底されれば、そのルールが絶対的に有効な範囲では被差別者・マイノリティはむしろ安泰になるように見えるだろう。 
つまり、あらゆる批判を「差別だ」の一言で排除すら出来そうにも見える(し、実際にそう悪用する者もいないわけではない)。無論実際には、そんな「ルール」でしかない「差別はいけない」は、差別する側が作ったご都合主義でしかない「ルール」に過ぎないのだが。  
むしろそうしたルールを守る自分を率先してアピールしたい知恵者なら、わざと「弱者」であるマイノリティに味方する自分を常に演出するだろう。その知恵が働かないまま「お前は差別している」と言われ続ける側にしてみれば、どんどん鬱憤が溜まる話にしかならない。 
その結果、あたかも自分は差別されているのだ、被害者なのだと装うことに走る者すら少なくない。「ボクを傷つけるのは差別だから許されないんだ」と言ってそれで済むのなら、そんなに楽な話はないように思えるのだろう。

「差別はいけません」が良心の問題であれば、我々が未だに差別的構造を払拭しきれない社会の成員であり、しかも差別意識とはその社会構造が刷り込まれて内面化した、たぶんに無意識なものである以上、自分の言動の差別性が指摘されれば、とりあえず立ち止まって自分を再検証するはずだ。

だが「差別がいけません」がルールでしかなければ、ルール違反を犯したと指摘された者は必死で自分のルール違反の事実を誤摩化すまやかしの自己正当化に専心し、愚にもつかない言い訳を連発してしまう。

始末の悪いことに、マジョリティ側に属していれば潜在的にはみんなその「ルール違反」を咎められる可能性を持っているため、その愚にもつかない言い訳を社会的に受け入れてしまう素地はアプリオリに存在しているし、しかも日本の場合はそのやり方が、すでにルール的にシステム化されている。

たとえば差別発言を咎められた政治家の常套句は、「そうとられたとしたら謝ります」「表現が悪かった」「本意ではない」であり、それでなんとなく免罪されてしまえるよう、「なにを持って差別とみなすのか」までが表層的なルールとして定着までしてしまっているのだ。

差別とは意識構造の問題であり、そうした問題発言のロジックに表出した意識の構造こそが批判されているにも関わらず、ある特定の言葉を用いれば「差別だ」、逆に言い方さえ替えれば差別でないということになってすらいる。しかもその「差別語」指定のほとんどにはなんら論理的かつ道徳的な根拠があるわけでもなく、ただ放送業界の内規に過ぎないにも関わらず、「差別語」の認識は日本人マジョリティに広く共有され、それが「ルール」になっているのだ。

鷹野隆大さんの写真でも「わいせつ」となる “法的” 根拠は男性器が明確に露出していることに過ぎない。
 改変された展示方法では「布団をイメージした」と本人も言っているが、その発想(つまり全裸の男性が同衾しているイメージ)が却って生々しくセックスを連想させそうな気もするところがおもしろい。

こうした社会では、差別を指摘告発することは差別をなくすか解消するか、少なくとも減らすことには、ほとんど寄与しない。

そもそもの動機が「差別というルール違反」を告発することで気に入らない相手を攻撃すること、攻撃によって相手に対する自分の相対的優位を担保することなのだから、最初から差別を減らすこととは実は関係がない…というよりも、この論法を用いる側の論理こそが他者に対する相対的優位を担保したい差別意識以外のなにものでもなかったりする。

昨年秋頃から「ヘイトスピーチ」という言葉がかなり怪しい強引なやり方で一般語彙化されているが、差別主義的な歴史修正主義が批判を浴びる内閣の、その官房長官が「日本の恥」と言ってみたり、今度は自民党が「ヘイトスピーチ規制法案」を議員立法するのだそうだ(これ、思わず「(笑)」とつけたくなる)

その説明として、こうした言動を規制する法が先進国にはたいがいあるから「日本は遅れている」という、これまた白人至上主義の人種差別的コンプレックス丸だしの論法なわけだが、欧米での「ヘイトスピーチ」規制がはっきりと、ある政治性を持った特殊な歴史認識に対抗するための立法であることは、丁寧に無視されている。

無視されるのは当たり前である。

とりわけカナダとドイツが顕著だが、ホロコーストを否定しナチズムを礼賛する言動は、懲役10年であるとかの実刑の対象になる。 
エロール・モリス監督『死神博士の栄光と没落』

ヘイトスピーチとして実際に規制されているのは、まず史実を歪曲する歴史修正主義による差別思想の流布、つまりネオナチとホロコースト否定論デマへの対抗であり、法の平等の原則に従って他の民族やマイノリティ・グループへの差別的思想の流布に対してもその規制が敷衍されるのだ。 
つまりヨーロッパや、そこと同じ民族的系譜を持つカナダが、第二次世界大戦の悪夢とナチズムに対しきっぱり訣別を示す政治性の強い規制でもあり、差別的な歪曲で事実や史実をねじ曲げ、自分達マジョリティ民族の責任を矮小化することが、啓蒙目的も含めてはっきり否定されているわけだ。


一方、昨今では韓国との外交で最大の障害になっている従軍慰安婦問題や、朝鮮と台湾の植民地支配、中国大陸への侵略の責任を曖昧にしようとする、差別的に歪められた歴史認識は、今の日本には広く行き渡っている。

実はそういうものこそが、もっとも典型的なヘイトスピーチなのだが。

なにしろ他ならぬ総理大臣閣下があの調子であり、戦時性暴力はどこの国でもやっているのに日本の慰安婦問題が責められるのは差別だ、とか言い出す輩までいるのだからお話にならない。

今年は国連人権委員会が日本に対する勧告を出す年だったが、そこでも日本のメディアは「ヘイトスピーチ」がとり上げられたと見出しにまでして報じ、その報道もまた自民党までが「ヘイトスピーチ規制法」を作ろうとする理由のひとつになっているようでいて、これ自体が虚報である。

実際の勧告に「ヘイトスピーチ」への直接言及はなく、人種差別を煽動する示威行為などが官憲の許可を得て行われていることが言及されたのは、以前から日本がずっと勧告を受けてはまったく改善して来なかった、いわば「繰り返し」の項目に含まれる。

ちなみにこの問題や、日本の移民・外国人に関する政策や法制度が差別的であること、他にも代用監獄制度などなど、日本は毎回毎回同じことで勧告を受けても一向に改善の気配がないので、その日本に勧告を尊重するよう要求する特別決議まで、今年の人権委員会は出している。

今年の勧告でとりわけ目立つのは(そして国際メディアでもいちばん報じられたのは)、慰安婦問題について、それが「性奴隷」であったことを日本政府が認識するよう、かなり強い語調で迫っていることだ。

そして日本の差別的言動の問題について今年の国連人権委員会が以前よりもさらに重視しているのは、日本政府の啓蒙努力が足りないことであって、「ヘイトスピーチは悪いことだから禁止しろ」なんて話はまったくない。

当然のことではある。

差別とは認識の問題、意識の構造の問題だ。

社会の差別的な構造が個々の市民に内面化され刷り込まれていることが差別意識であり、差別の解消について国家政府が努力できるのは差別的な制度の構造を変えることと、その改善の意味をきちんと国民に伝えることも含め、その差別意識を改めるよう促すことしかない

だいたい欧米のヘイトスピーチ規制自体が、先述の通り「差別主義者を罰する」よりも啓蒙目的の色彩が強いものだ。

だいたい今の日本で「ヘイトスピーチ規制法」が意味を持つだろうか?

「ヘイトスピーチ」が昨年の秋ごろいきなり大手メディアの見出しに踊る語彙になったののは、「在日特権を許さない市民の会」なるネット上の匿名引きこもりクン集団が新大久保のコリアンタウンや大阪・生野区の在日朝鮮韓国人の多い繁華街に営業妨害脅迫活動を行い、それに対して「仲良くしようぜ」という(これはこれで実は差別的意識構造を内包する)標語で立ち向かったグループが、「在日特権を許さない市民の会」やその周囲に対して「お前達の言動はヘイトスピーチだから許さない」と言い出したことに始まる。

この批判というか攻撃のやり方もまた、差別的な意識構造の反映であることは言うまでもない。 
ある属性を他者・相手に押しつけ、その属性を言い訳にして貶めようという魂胆なのだから。

その両者ともたぶんにネットに依存した活動であったので、ネット上では両方が「ヘイトスピーチの定義」をめぐって論争になってない口論というか喧嘩を延々と繰り広げたわけだが、とりあえず「在日を殺せ」は「ヘイトスピーチ」になると言われれば、なにしろ日本は放送禁止用語の「言葉狩り」で毒された社会である。では「『殺せ』と言わなければヘイトスピーチではないだろう」というトンデモな倒錯に陥ったり、そもそも双方とも「差別」ということの意味がよく分かっていないで「いけない」とだけルールを刷り込まれているのだから、まともな話になりようがない。

結局、落ち着いたところが「在特会の言っていることはヘイトスピーチ」「在日が言われて傷つけばヘイトスピーチ」というレッテル貼りと薄っぺらな感情論偽善の野合と言うていたらくなのだが、「在日特権」なるありもしないファンタジーそのものが典型的なヘイトスピーチ(誤謬と偏見に基づく差別思想の煽動流布)であることに気づかないのだから笑い話にもならないのであった

なお「傷つく」かどうかで言えば、僕以上の世代の在日コリアンはその「ヘイトスピーチ」で「傷つく」人よりは「笑っちゃう」人の方が多い。 
子どもの頃にはまだ「言葉狩り」の風習がなく、日本人が平気で朝鮮人に面と向かって「チョン」と言う、「そんなこと言ったら差別になっちゃうからやめなさい」意識がなかった時代に日本人が個々人で彼らに言って来たことが、今では「在特会」とやらが情けない徒党を組むか、ネット上での匿名集団でしか言えないのだ。 
「懐かしいくらい」と冗談を言う人もいれば、「かわいそう」にも見えて来るらしい(「情けない」の裏返しであるのは言うまでもないが)。

さらにややこしいことに、「仲良くしようぜ」と言ってる側が一方では韓国や在日コリアンに対して歴史問題を持ち出すことは日本人と「仲良く」する気がないのだろうと脅し、踏み絵を踏ませる差別的な意識構造も持っているものだから、もう話は無茶苦茶になる。

で、行きつく果ては「差別発言とは言われた弱者が傷つくこと」という、日教組の学級会で教えていそうな誤った感情論(その実これもまた差別意識)の、およそ反差別とは似ても似つかぬ罵倒合戦に陥ってしまっていた。

これでは醜悪な差別性の誤りを指摘された「在特会」の方でも「そんなこと言われたらボクらは傷ついちゃう、お前らはボクらを差別しているんだ」と言い張れてしまう。
しかもその過程で、かくも乱暴な自己満足の匂いが濃厚な自称「反差別」に疑問を抱いた人には「ヘサヨ」なる珍妙な造語で徒党を組んで罵倒するのだから、「朝鮮人」を「チョン」と呼ぶのとなにが違うのか、ということになってしまう。

繰り返し問おう。今の日本で「ヘイトスピーチ規制法」が意味を持つだろうか?

国家の法体系にもその運用にも、未だに人権侵害や差別的な部分が多いことが何度も指摘され、それが改善される気配もないのに、その法体系に「ヘイトスピーチ規制」を持ち込んだところで、ほとんど差別を解消していく意味はない。

もともと啓蒙性の高い立法が、それを運用する国家体制自体が未だに差別的とあっては、ただの偽善のまやかし、エクスキューズであり、隠蔽にしかならない。

しかもよりにもよって、理論も思想も差別意識の構造への理解もなにもないまま「ヘイトスピーチの定義」で言い争い、「とりあえず『殺せ』はヘイトだ(それ以前に脅迫罪になり得るただの暴言)」という結論もどきに陥る延長で出て来る「ヘイトスピーチ規制」である。差別の解消になんの役にも立たなかった、むしろ陰湿化させた「放送禁止用語」「差別語」「言葉狩り」の二の舞になるだけだろう。

再び根本的な問題に戻ろう。差別に反対する、差別をしないことは本来は良心の問題であり、差別とは意識構造の問題である。

その構造の大部分が無意識に刷り込まれている社会構造に基づく価値観だからこそ、誰もが無自覚に差別をやっている可能性はある。つまり本来なら、差別を糾弾なり批判することは、その人間を差別者として断罪することが目的ではない。

断罪はせいぜいが、本人にそれを気づかせる手段でしかない。

重要なのは、自らの無自覚な意識の構造に気づかせること、その意識を変えることであって、「ヘイトスピーチだから許せない」という薄っぺらな記号に安住して相手を下位に見て優越感に浸ることではないし、そうやって他者への相対的な優越感を持つことに満足してしまう価値観こそが、差別意識そのものでもある。

しかし現代日本社会では、「ヘイトスピーチ規制法」を法制化するまでもなく、「差別はいけない」が良心の問題ではなく「ルール」として認識されているそれはルールの逸脱者をいくらでも叩いていい、というこれまた差別することを欲望する心理にはぴったりのカタルシスとセットになっている

「自分はレイシストと戦っているのだから差別しているなんて言われていいはずがない」という、その実なんの意味も持たない主張は、他者を貶めることで自分の立ち位置を確保する差別的な欲望の、極めて分かり易い実例だ。

そんな国の「ヘイトスピーチ規制法」は、そんな他者叩き/優越感担保の欲望に官憲のお墨付きを与える、実のところ国家主導の差別と全体主義を徹底させる機能しか持ち得ないだろう。

その使い道も目に見えている。 
鷹野隆大さんの写真を「通報」した匿名の個人のように、支離滅裂な決め付けで「差別だ」「ヘイトスピーチだ」と難癖をつけ、気に入らない相手を貶め中傷したり、社会的に抹殺することに悪用されるだけだろう。 
そもそも「ヘイトスピーチの定義」がなっておらず、歴史的経緯も無視されたまま歴史修正主義が大手を振って国家権力と野合するような国では、こんな恣意的に運用可能な「ルール」は悪意を持って歪んで使われるばかりだろう。

道徳、倫理は個々人が自らに課し、自らに問うことだ。

「差別はいけない」であれば、同じ人間で一緒に生きている他者をいたずらに排除攻撃する、個人に備わった資質能力や努力、美点で判断するのではなく出自や肌の色や性別で上下を付け、多数派集団の側にばかり都合のいい世の中を作って少数派にそこに隷属する奴隷や二級市民の地位に留まるよう要求することは、明らかによくないことだ。

そんなの子どもでも分かるはず…いや子どもがいちばん分かっていることだ。

自らを多数派に属すると認識する側の勝手で、異なった他者を排除したり貶めたりすることで自分達の優越感に浸って徒党で結束するなどというのは、はしたない行為だし、排除こそせずとも同化・取り込みを狙って、本来なら独立した個であるはずの他者の人格を無視して悦に入る、「かわいそう」だか「弱者」と下位にみなし、その味方を装うことで自らの正当化に利用するのも、相手の人格を踏みにじる行為でしかない。

ところがこんな当たり前の話すら、実際に「差別はいけません」を振り回す多くの人間が分かっておらず、「弱者」の側を「守れ」ば自分は正義の味方なんだと思い込んでいる。 
そういうマジョリティ側のプチ権力者日本人の幼稚な偽善に取り入れば、たとえば在日コリアンがとりあえずは安泰を保てるという意味では、「在日特権」もないとは言えない、という皮肉すら成立してしまう。

「差別はいけない、そんなの当たり前でわざわざ言うことでもないしね」と言ったのは、日活出身の名映画編集者・鍋島淳だ。抽象概念でそれを言うのは簡単だし、鍋島の仕事であればそれこそわざわざ映画で言うようなことですらない。

 原一男監督『ゆきゆきて、神軍』

だが鍋島のこの発言が、彼の映画編集の代表的な仕事である、原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』についての話だと言えば、がぜん意味合いは変わって来る。

ひとこともその直接のメッセージ的な言及はないにも関わらず、『ゆきゆきて、神軍』のあらゆるシーンはその実、「差別はいけない」をめぐるものだとすら言える。

またそれだけ、この映画の主人公奥崎謙三が地獄を見た第二次大戦の南太平洋戦線の日本陸軍は、何層にも重なって複雑に入り組んだ差別関係によって動いていた組織だった。『ゆきゆきて、神軍』の中心の主題となる人肉食に至っては、まず現地人、そして朝鮮兵、そして貧しい出身の日本人歩兵と、順繰りに差別する側に食われて行くという残虐さだ。

「差別はいけない、そんなの当たり前でわざわざ言うことでもないしね」

にも関わらず我々は現実の、差別的な社会構造のなかでしばしば差別する側になろうとしたり、差別される側に貶められて順応して生きることすら要求されてしまう。奥崎謙三が鬼になるしかないのは、その日本陸軍という組織に差別を刷り込まれた自分自身とも闘い、そして自分たちを苦しめた「世の中」そのものと戦わねばならないからだ。


「差別はいけない」とは、だからこそ自らの良心との葛藤が第一に来なければ、他者を自らが不当に貶めたりする社会構造にのっかってしまうことで安心感を得ようとする自身に対する葛藤がなければ、おかしいはずだ。


だが倫理、良心の問題ではなく、決められて従わなければならない「ルール」としての「差別はいけない」は決してそうはならない。そのルール自体が違反者を排除することで自分達が優越感に結束する、差別的欲望を満たすものに、こと今の日本社会ではなってしまっている。

8/13/2014

「悪所」の研究


たとえば遊郭があった江戸の吉原のような場所を、昔は「悪所」とも言った。

広重、名所江戸百景、よし原日本堤
現代風に考えれば、売春が行われていたり賭場があった場所だから、「良くない場所」、金銭で性が売り買いされたり身を滅ぼすような場所だから「悪」なのだろうと、現代の日本語での「悪所」という文字列は受け取られがちだろう。

だが江戸時代の文化や生活風俗の、明治以降の道徳律や人工的な歴史観を排した歴史学的な研究が進むにつれ、今風の日本語で言うところの「悪い」ところとは、たとえば吉原は違ったらしい、ということが明らかになって来ている。

新しい国家や民族像を作り出してそれを国民に刷り込むには、過去の価値観を否定的に見るように教育や文化政策、それに生活上の習慣儀礼を通じて仕向けなければいけない。植民地帝国主義の時代の最盛期に開国・明治維新・近代国民国家化を進めざるを得なかった日本の場合、それは恐ろしく急激で乱暴な、文化と意識の大改造として行われた。 
過去を知る手がかりとなるものでさえ、たとえばかつて生活に密着した信仰体系だったはずだと誰もが思う寺社仏閣は、寺と神社が分かれていること自体が明治の捏造だ。日本の伝統信仰だと我々が思い込んでいる「神道」なるもの自体が、社殿の様式から礼拝の作法から、ほとんどが近代の急ごしらえなのだ。 
たとえば、我々は神社には鳥居があるものだと思い込んでいるが、あんなものは明治以降の決まり事に過ぎない。三拍手なども明治以降に仏教の礼拝との差別化を計ったものでしかない。一方、社殿の代表的な建築様式である「権現作り」には、神仏分離が土台無理な話で徹底できなかった矛盾が現れている。 
「権現」とは密教的な仏教の用語で、仏が日本で日本の神の形をとっていることだ。だいたい明治以前の日本のカミ信仰には言語化された理論体系がなく、あったのは仏教に基づいた仏と日本のカミの関連の説明だけだ。 
日の丸・君が代に国家イメージを仮託し、それを教育現場であたかも道徳的義務のように強制するに至っては、悪い冗談である。日の丸は元来、ただ太陽を表すおめでたい図像に過ぎないし君が代は雅歌。いやだいたい、国旗国歌なんてこと自体が明治初期に西洋の儀礼に合わせて慌てて決めたものに過ぎない。

吉原は流行の最先端発信地でもあり、決して「夜の街」だけでなく、たとえば桜の季節には大通りに運ばれて来た桜がずらりと並び、ただ遊女を買う場であったわけでなく、女子供も花見に興ずる、それは賑やかで華やかな祭りの場であったという。

歌川国貞「北郭月の夜桜』
今の相撲の国技館と江戸東京博物館のある両国も、「悪所」と呼ばれた場所のひとつだ。だいたい相撲は祭りであり見せ物である。

明暦の大火のあとに死者を慰霊する廟が江戸市中から見て隅田川の向こう岸にあたる両国に建てられて以来、次第にその周囲に見世物小屋や芝居小屋が立ち並び、江戸の一大エンタテインメント・センターとなった。大相撲もそうした見せ物のひとつとしてここで興行していたのが、今の国技館の由来である。

「川向こう」、つまり「彼岸」である。橋を渡ることは古来、日本人にとって特別な意味があった。

ぶっちゃけ、幽霊や魔物が出て来たりする場が橋であるのは、たとえば牛若丸(源義経)と弁慶の京・五条大橋の伝説を見れば分かる通りである。 
その鴨川の四条河原付近に中世から近世にかけて見世物小屋や遊女が集まったのが「かわらもの」の語源と言われるが、川を超えれば八坂神社と、祇園や島原遊郭。一方河原を南に下がれば、そこには刑場が置かれた。
広重、島原遊郭の大門
 現代語では春分、秋分の日の前後の墓参りシーズンくらいの意味しかない「彼岸」とは、生死を隔てる川の文字通り「向こう側」が本来の意味だ。川という天然の境界(とは限らない。たとえば神田川は人造だし、現在の隅田川や利根川の経路も江戸幕府が人工的に作り出したものだ)は、日本の都市文化において極めて重要な意味を持っている。遊びや文化は日常の延長であると同時に、生死を隔てる意味ももつ川の「向こう側」にあるものなのだ。

両国が明暦の大火の死者の慰霊の廟から遊び場になったことが典型なように、遊び、享楽は「死」の世界に近づくことでもある。

江戸城から見て吉原の遊郭の方角、谷中の巨大墓地から、上野の寛永寺と東照宮(現在の恩師上野公園はこの境内地に当り、明治維新で徳川将軍家から天皇家に移り、東京市に下賜された)に浅草や吉原からさらに隅田川を超えて新吉原、刑場のあった骨ケ原といった地域は、江戸の聖地であるとともに「悪所」の密集地帯であり、その名残は今でも明らかだ。

明治以降に発達した銀座のような商業地に今でこそ地位を奪われているが、明治時代の東京の最初の繁華街・歓楽街といえば浅草であり、日本初のデパート、日本初の遊園地(浅草花やしき)、日本初の映画館などもここに作られた。

つまり「悪所」の「悪」とは元はどういう意味なのか、ということだ。確かに「いかがわしい」かも知れないが、だから拒絶し忌避すべきなのかと言えば、いかがわしさは神聖なるものと共に「彼岸」ないしその境界に置かれて来た。ちなみに上野・浅草の方角は、江戸城からみて陰陽五行の方位学で鬼門にあたり、つまり上野を中心とする江戸周縁の聖地と悪所は、鬼門封じにもなっている。

広重、『上野不忍池雪の景』
日本史の教科書で「悪党」という用語が出て来て、それが決して「悪い奴」という意味ではなかったことを覚えている人もいるだろう。 
むしろこの場合の「悪」は「強い」、かつ既存の支配「体制外」で要は標準や基準の「外」、という意味で、たとえば平安時代であれば後の武家階級の起原のひとつである。
広重、名所江戸百景。上野・清水観音堂の月の松と不忍池
日本の都市文化は、実は「悪所」でこそ発達して来たものだ。

その「悪所」は、江戸の場合の上野から吉原方面や両国のように、都市の中心でなくその周縁部や川向こうにあった。京都なら四条河原がありその向こうが八坂神社と祇園だ。南に下れば、同じ河原は刑場になる。

大坂(今の大阪)となると今でこそ大阪駅と、阪急や阪神の梅田駅などが集中しているので大阪の中心地に見える梅田近辺は、本来なら大坂の街の端っこで巨大な墓地だった所である。

JR大阪駅北側の貨物基地と、再開発で高層ビルが建った元の北ヤード。
この辺りが明治以前には梅田墓地だった
日本橋から難波、天王寺方面は大坂の南の端で、天王寺の先には鳶田(今の飛田)の巨大墓地があり、吉本のなんばグランド花月がある千日前は、かつての千日寺とその巨大墓地の門前町だから「千日前」という。

地図で見てみると分かり易いだろうが、大阪の繁華街はどれも、歴史的な町の中心地域にはない。現在の大阪環状線は過去の大阪の市域の外周部にほぼ沿うように走っていてその沿線が多い。

難波宮大内裏の遺構。上町台地には平城京以前に二度、都が置かれていた。
奥にはNHK大阪放送局と大阪府庁。この右手に大阪城(旧・石山本願寺)

都市の中心地域は大坂城(江戸期には幕府の西国出先機関)などの政治中心の上町台地や経済中心の問屋街・船場であり、上町台地は今でも府庁や府警本部やNHK大阪放送局が集中するいわばお役所街(というか東京中央集権の出先機関)で一応は発展しているが、かつての大坂経済どころか日本経済の中心であった船場の廃れようと言ったらない。

大坂と呼ばれていた近世までの大阪は、7つの巨大墓地に囲まれていた。その墓地のほとんどは、今では跡形もない。わずかに阿倍野の市設南霊園にその面影が見えるが、この近くにかつて鳶田の巨大墓地があり、市設南霊園自体は他の墓地から明治時代に移転したものだとも言われるものの、鳶田(今の飛田新地)との関係も含めて由来が実はあまりよく分からない。

大阪・阿倍野にある巨大墓地
鳶田は墓地が撤去され、明治後期の大火災で難波にあった遊郭が移転して現代に至っている。いわゆる飛田新地・遊郭である

飛田新地・遊郭。かつての鳶田墓地
西洋の都市や中国大陸などと日本の歴史都市の、一目で見て分かる違いは、町が城壁で囲まれていなかったことだ。大阪が墓で囲まれた街であったのとは対照的に、パリでもローマでもロンドンでもウィーンでも、城壁が近代化にあたって取り除かれ都市郊外も発展しているが、城壁があった場所は今は大きな環状道路や環状鉄道が走っていて過去の境界が今でもはっきり分かる。

 映画『ローマ環状線 めぐりゆく人生たち』予告編 

日本の場合、城壁がなかったので、都市の周縁はたとえば江戸の場合元からかなり曖昧で江戸の外れの田園や自然の風景も庶民が親しむものだったし、近代化と人口増加で都市化は際限なく外側へと進み、今ではほとんど見分けがつかない。

だが日本の歴史都市に城壁がなく、都市境界が外の世界と曖昧につながっていたことと並ぶもうひとつ顕著な特徴は、西洋や中国大陸の都市と異なり中心があまり賑やかでない、むしろ空虚ですらあることだ。これは京都からしてそうで、政治と権威の中心である内裏とは、禁裏、つまり立ち入れない場でもあり、平安時代末期に政治中心の機能も失ったからこそ、京都はその後も成立し続けて来た。今の東京は、中心は皇居という巨大な森だ。

そうした都市の歴史を知らなければ、今は東京の大きな中心のひとつに見える新宿が、実は江戸と東京の歴史では端の部分だったことにも気づかないかも知れない。

現在の東京都庁展望台から見た中野方面
それでも地図を見るだけか、ただ新宿西口の高層ビル街だけではなくちょっとその脇へと足を伸ばしてみれば、そこが上野や浅草と同じ空気を持った場所であることに気づくかも知れない。

たとえば、新宿から池袋にかけては、案外と寺社仏閣と墓地が多い。高層ビル街はかつての淀橋浄水場でその一部が新宿中央公園になっているが、平安時代の創建と伝えられる熊野神社がその一隅にあり、この辺りは十二社という旧地名が今でも残っている。

広重、名所江戸百景、角筈熊野十二社
(現在の東京都庁、新宿中央公園近辺)
歌舞伎町には花園神社を始め、大小の神社が実はかなりあるし、高層ビル街の麓や新宿二丁目にはお寺や墓地が今もある。その北、今の大久保、新大久保界隈では百人町という地名が今でも公式の行政区分になっているが、これは江戸幕府の鉄砲百人隊が由来だ。鉄砲、つまり火薬と鉄を扱う、通常の武士とは異なった特殊技能の持ち主が、かつての江戸の西側の周縁部に置かれていた地域とその周辺が、今では東京のコリアンタウンになっているし、百人町にはハラル・フードつまりイスラム諸国の人たちのための食料品店もある。

新大久保駅付近
その北の高田馬場は今ではこっそり東京のリトル・ヤンゴン、ミャンマー(ビルマ)人コミュニティが出来上がっていたり、外国人経営の外国料理店(それも西洋ではなく東南アジア、インド、西アジア)が多い。


日本では東京つまり江戸にせよ、大坂(大阪)にせよ、あるいは京都でも鴨川の川向こうに祇園など、大なり小なり昔からある都市では、華やかな文化中心は中央ではなく都市の周縁部、西洋や中国の都市だったら城壁があったであろう部分に位置しているのだ。

華やかな一方で貧富の格差も明白でしかも隣接し混在している、というか現代では経済的な一等地で立地からして地価も高いはずにも関わらず、未だに基本的に高級住宅街ではなく区割りの狭い、いささか雑然とした、決して豊かとは言えない場所と隣接している。いやその賑やかに繁盛していそうな街でさえ、地価の高さにも関わらず必ずしも高価な商売が行われている場所ではない。


新宿西口から靖国通り、西武新宿駅近くにかけてのガード沿い地区、通称「しょんべん横町」ないし「思い出横町」は典型だろう。

二つのターミナル駅に挟まれながら安物紳士服と一杯飲み屋に焼き鳥屋などが路地に面して集中しているこの場所は、10数年前に大火災があり、更地にされて再開発が入って商業ビルでも立つのだろうと思われたのが、結局は元に戻っている。

東京の北への玄関口となる上野駅周辺も同様だ。駅ビルこそきれいに改築され、かつて映画館などがあったところには真新しい商業ビルが建ったものの、やはり上野は上野だ。

改築が済んだ上野駅
アメ横近辺には今ではタイ料理、台湾料理やトルコ料理の屋台に、中国系の食品店なども目につき、都内で数少ないアジア的なストリート・ライフが楽しめる地区になっている。

上野、アメ横界隈の、道にまで進出した飲み屋
最近ではこの中国系の食料品店など、日本以外の店が増えている
そう、今でも東南アジアに行けば通りには屋台や行商がひしめき合っているが、かつての日本にもあったそうした生活文化が、上野には残っているか、新たに再生しているのだ。
タイ、バンコク、シローム地区

品川も江戸の端で、東海道の一の宿場だったが、宿場には「飯盛り女」と呼ばれる遊女がつきものだったのが江戸時代である。

広重、東海道五十三次、品川宿
丘陵に一面桜が植えられた花見の名所だった高輪がお屋敷街になり、再開発で高層のオフィスビルが建ち並んでいるにも関わらず、ちょっと歩けばいささか雑然とした街並がすぐ目に入る。その向こうはかつて、海と陸との茫漠とした境界だった。

広重、名所江戸百景、高輪うしまち
明治維新以降の日本の歴史学では、西洋風の科学的な唯物史観を重視して宗教的ないし風俗的な面は恣意的に無視されて来たきらいがあるが、昨今の研究では上野に寛永寺があり不忍池があり東照宮が建てられたことが宗教的な理由、つまりは鬼門封じであったこと、不忍池と寛永寺が京都における比叡山と琵琶湖の位置関係を模したものであることも、ちゃんと論じられるようになっている上に、さらにおもしろいことが近年、徐々に明らかになっている。

京都に対する比叡山と琵琶湖を模して東叡山寛永寺と不忍池、さらに清水寺を模した清水観音堂、というと上野のお山一帯は江戸開府にあたって新しく、人工的に作られたものと思いがちだ。
広重、名所江戸百景、清水観音堂から不忍池
だが実は上野公園内、東照宮のはす向かいに当る擂鉢山が、古墳であることが明らかになった。上野の山は江戸期よりも遥かに昔から、霊的な意味を持っていたのだ。

ちなみに大阪の天王寺公園内にある(つまりかつての大坂市域の南の端)茶臼山は、大坂夏の陣に真田幸村が豊臣方の最前線を置いた場所だったが、ここも実は古墳だ。

上野公園の今は博物館が並んでいる辺りから東京芸大にかけて、実は掘れば江戸以前からの墓地や礼拝施設などの遺跡が、縄文期にまで遡ってかなり出て来るという。その歴史が文書ではまったく残されていないため、永久にその意味は解明不能だろうが、また意味論的に完全に把握されてしまっては、曖昧なること、判然としないが故に魔性であり神性であることにならない。

いずれにせよ家康が江戸に幕府の首府を定めた時には、今の銀座から築地にかけて大規模な埋め立て工事を実施して(その土を運び出したのが神田川)半ば人工都市として江戸を作り上げる一方で、その歴史的かつ霊的なパラメーターがきちんと踏襲されていたことが伺われる。

いやむしろ、もしかしたら古代からの霊場との位置関係に応じて、江戸城の造営拡張が進められたのかも知れない。

そしてその、実は歴史的に予め定まっていたことも最近は分かって来た江戸と言う都市の周縁部に、いわゆる「悪所」とも呼ばれる、祝祭と祭礼の場所があったり、新たに発展したりして行ったし、そうした場所は江戸から東京への大改造、さらに関東大震災と東京大空襲という二度の破壊と復興を経ながら、結局は昔と同じ役割を今でも担っていたりもするのである。

たとえば、なぜ将軍家菩提寺の寛永寺の門前町だったり境内だったりしたはずの鴬谷がラブホテルだらけなのかも、歴史的な経緯によるものなのだ。
寛永寺墓地より鴬谷、上野方面。遠景に深川の東京スカイツリー
元を糾せば都市の内側、つまり人間の社会と、その外側の世界、つまり自然神と霊魂が支配する世界の境界であり、いわゆる通常の日本人の人間世界とちょっと異なったもの、区分けが判然としないもの、身分制度など支配体制の枠組みから外れた「曖昧なるもの」の場であり、それ故に魅力的な場所だったのだ。

新大久保のコリアンタウン化が典型なように、そこに「外国」といっても西洋ではなくアジア的なもの、つまり日本と西洋の「あいだ」にある、普通の日常的「日本人」とはどこか違うがそんなに異なるわけでもない、あるいは過去の日本人に通ずる存在が集中するのも、実は歴史的な必然だと言えよう。そして江戸時代というと「鎖国」というイメージに反し、当時の日本人は無類の外国好きの新しいもの好き、鎖国しているからこそ外の世界への好奇心に旺盛な民族だった。

エキゾチックなものは日本人にとってエンタテインメントであり、エロチックでもあった。

年に一度の朝鮮通信使の長崎から江戸を往復する行列は、沿道に人だかりが常であり、行列の面々を描いた浮世絵版画がいわばブロマイドのようにバカ売れした人気だった。

両国の見世物小屋には、虎やラクダやゾウまでいたという(本物かどうかは定かではないが)。その役割が今では上野の動物園のパンダ人気へと引き継がれているのかも知れない。

開国と同時にフランスで印象派を驚愕させた北斎や広重の浮世絵表現は、実は長崎経由で入って来た西洋の絵画技法である遠近法を独創的に取り入れたものであり、「ベロ藍」と呼ばれた特徴的な深い青はプロシアン・ブルー、ドイツで開発された化学染料だ。

葛飾北斎、富岳三十六景、神奈川沖浪裏
日本人の多くが忘れているが、世界初の麻酔を活用した外科手術は江戸時代の日本で、華岡青洲が執刀している(全身麻酔で、乳がんの切除手術を成功させた)。昔の歴史教科書では杉田玄白らの『解体新書』(医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳)くらいしか出て来ないが、江戸時代には日本の医学者のあいだで一大解剖ブームが起こっている。


西洋渡来の解剖学の書物の研究が、すぐに刑死した遺体の解剖で実践的に確かめることへと関心が移り、医学だけでなく、大衆見世物小屋での解剖人形でも、相当に精確なものが人気を集めた。


日本人は死を恐れ穢れとして忌み嫌う、という俗説は実はそうとうに嘘っぱちであるか、明治以降の近代に、西洋に「野蛮人」と思われないための捏造だろう。日本人は死者と祟りを本気で恐れる民族ではあったが、それは人間以外、あるいは人間を「超えた」ものへの畏れであって、死を拒絶したり忌避したわけではない。

とはいえ、そうした死とかかわるものが漫然と日常のなかにあったわけではない。

墓地も、葬祭の場も、刑場や刑死遺体の解剖も、解剖人形の見世物小屋も、いわゆる「悪所」に属し外の世界との境界に置かれるものだった。外の世界と人間世界の内側の区別が曖昧になる領域は、カミとヒトの混然とする、生と死との境界であり、祭りが行われる場でもあった。

 深作欣二監督『必殺4 恨みはらします』

これは80年代に大ヒットしたテレビ時代劇『必殺!仕事人』の映画版だ。当時はけばけばしい風俗描写やエロチックなのぞき細工の設定などが、現代風のパロディにしても時代劇なのにやり過ぎで荒唐無稽だろう、とあまり褒められなかった記憶がある作品である。

暗闇の映像美で売ったテレビ・ドラマのスタイルに忠実で、そこにリアリズムの暴力描写を加えて殺人稼業の悲哀と倫理的葛藤に深く切り込んだ工藤栄一監督による重厚な映画第3弾にくらべ、華やかな色彩に満ちた昼間の屋外シーンが多いスタイルも含め、この深作監督作品はあまり評判が良くなかったと記憶している(というか、テレビの映画版ということだけでも、映画評論家は真面目に相手にさえしなかっただろう)。

たとえば旗本愚連隊の、いわゆる「かぶき者」風の衣装や化粧や髪型は、髪を赤く染めたり金ぴかの衣装だったり、時代考証にうるさい人が怒り出しそうにも思える。


この映画の台詞を借りれば「鼻血がトサカに昇ってプッツン」来そう…と当時の流行語を平気で放り込んだことでも、評判はますます芳しくなさそうだ。


真田広之演ずる南町奉行と来たら、ホモセクシャルないし半陰陽の雰囲気を存分に発散し、およそ公開当時の80年代に普通に思われていた江戸時代の「武士」イメージではない。

東映のヤクザ映画に実録風のリアリズムを持ち込んで絶賛された『仁義なき闘い』の深作欣二監督が、いったいなにを血迷ったのか、とすら思われたであろうこの映画、しかもメインの舞台となる江戸の外れのあばら長屋「おけら長屋」が立ち退かされ、無人になりった廃墟が決闘の場となると、「深作は西部劇のゴーストタウンをやりたかったのか?」などと揶揄されたものである。



当時、その深作監督は、この映画を「お祭り」と呼んでいた。それは「お祭りなんだからなにやってもいいだろう」的に派手で商業的な悪ふざけを導入する開き直りのように思われがちだった。

だいたい、テレビ・ドラマの映画版といえばまったくの商業的な企画なのだし…と思ってしまえばそれで済みそうだが、これまで江戸時代の都市における「悪所」の痕跡を辿って来た文脈で考えると、まったくそうではないように思えて来る。

深作は別にテレビシリーズが大ヒットしたからテレビ局のための「お祭り」をやったのでもなく、だから悪ふざけで旗本愚連隊に当時の暴走族かグラム・ロックのような格好をさせたのでもない。

藤田まこと、真田広之
濃厚なエロティシズムと、とくに真田広之演ずる南町奉行が濃厚に漂わす同性愛と両性具有の官能は、決してただのエログロナンセスの商売目当てではない。すべて深作欣二ならではの深い日本文化への理解に基づき、それを現代に映画としていかに具現するかを考え抜いた表現だったのだ。

いや実のところ、テレビのファンがいるだけで一定の宣伝効果も興行的成功も最初から見込めるだけに、テレビの映画化というのはやりようによっては、現代の日本映画産業で逆にもっとも作り手が冒険できるジャンルなのかも知れない 
それにテレビのおなじみの人物設定を拝借しているぶん、キャラクターの説明に時間を割く必要がないだけでも自由だ。ハリウッドのアメコミの映画版で、主人公がヒーローになる原作の設定をいちから丁寧になぞったりするのとは大違いである。

いや西洋文明の物差しならばエログロナンセンスの下品な金儲けとみられがちなことこそが、日本の本来の文化では、人間世界と人間外の死と自然神の世界との曖昧なる境界、聖と俗が判然とせず渾然一体であることにおいて神性を帯びるのである。相撲だって一歩間違えれば畸形人間ショーに近いはずが、だからこそ神事の意味を持つのだ。そうした「ヒトを超えたもの」の神性が立ち現れる場こそが「祭り」なのであり、「悪所」とはその祭りの執り行われる場でもあった。


深作の映画はその原理に極めて忠実に作られている。

この映画で半陰陽/両性具有的な真田広之(かげま、つまり男娼あがり。江戸時代に衆道つまり男性の同性愛は普通のことだった)がいわば「ばけもの」となるは、性別の境界が曖昧なる者であるがゆえに魔性の魅力を持つからだけではなく、実は将軍家斉に手ごめにされて井戸に身を投げた大奥の女中の、その亡霊の恨みを背負った復讐者であるからでもある。


その女中の名が「お菊」であることは、有名な怪談『番町皿屋敷』を明らかに踏まえている。江戸の番町(今の千代田区番町、地下鉄の半蔵門駅あたり)と地名を語呂合わせで変えているが、元は播州姫路城の池田藩で起こった実話だ(「播」が「番」に言い換えられた)。このお菊は家宝の皿を割った罰で殺されたことになっているが、そこに性的なメタファーを読み取る解釈もあり、深作はストレートにその方向でこの映画の脚本に組み込んでいる。


深作がこの後に映画化に執念を燃やすことになる『東海道四谷怪談』もそうだが、日本の怪談は、西洋のモンスターが悪魔の化身であったりする悪魔払いによるキリスト教的秩序の回復の説話とは構造がまるで違う。亡霊とは不当に殺された者たちの恨みであり、悪であるのはむしろ亡霊の復讐を受ける人間たちの側であり、怪談は秩序がすでに腐敗して壊れているからこそ成立する、化けて出て来る理由が産まれるのだ。 
そしてこと江戸時代の怪談もので恨みを持って不当な死に遭うのは、ほとんどが女性であり、その物語にはほとんど常に、武家の支配体制の横暴に対する猛烈な批判が込められていた。 
そして、そうした物語が歌舞伎芝居などで演じられ、語られたのもまた、支配体制の枠外にあった「悪所」であり、楽しむ側の観客は、武家支配の社会でも、「悪所」である異界では、男女が平等だった。

「おけら長屋」が風と砂塵の吹きすさぶ江戸と江戸の外の境界なのは別に西部劇の模倣ではない。まさに人間界と自然界の境界領域そのものであり、しかも入り口の両脇に石灯籠が置かれていることからして、ここはカミ的領域でもある。

深作監督はそこに貧しくはあってもある種のユートピアを設定した。

仕官にあぶれた、つまり支配体制としての武家階級からこぼれ落ちた浪人が心機一転で傘作りに励む姿は、ふっきれているためか哀れさを感じさせないし、同じ長屋には老人もいれば子どももいる。

そして子どもの遊んでいる側にはごく自然に、最下級の遊女である夜鷹(よたか)たちもいる。

これも恐らくは、深作が江戸時代の春画を研究して来た反映だろう。春画つまりセックスの場面を描いたエロ絵画だが、しばしば庭先で遊んでいる子どもや犬猫も描き込まれているし、男女(ないし男どうしや女どうし、北斎のタコと女を描いた傑作のように、動物相手の場合もある)の睦言だからといって、庭に面した障子が閉ざされているわけでもない。

江戸時代は性について、明らかに現代よりもおおらかで、性そのものを罪悪視する傾向は、むしろ近代化で西洋から持ち込まれた、キリスト教起原のものだ。 
だいたい日本の伝統的な神事祭礼が、性と切っても切り離せないものだし、江戸時代どころか、それこそ『源氏物語』や『万葉集』や『古事記』の昔から、日本の恋愛表現は性に関しておおっぴらだった。

「おけら長屋」の住人達は、幕府やその奉行所の権力から保護はまったくない、つまり社会制度的には不平等の最下位あたりに置かれていそうなのに、身分が遥かに上の旗本愚連隊に、気概では決して負けず堂々と対決すらする者達として描かれている。

権力と社会権威の枠外の、人間界の周縁にある境界だからこそのユートピアが、この「お祭り」つまり祭礼としての映画の主たる舞台になる。


その片隅にはちゃんとお墓があり、その墓のひとつが将軍に手ごめにされた女中お菊の伝説を伝える地蔵、という深作の持ち込んだ設定は完璧だ。

殺し屋稼業「仕事人」の元締めがふだんは琵琶を弾く乞食の女越世、背中に観音をも思わせる弁天像を刺青した「弁天」(岸田今日子)であり、そのねぐらが、おけら長屋のそばの川につないだ小舟であるというのも、徹底している。


そしてこの異界/境界としてのユートピアが、この場とのつながりを隠した魔性のものの陰謀によって立ち退かされ、殺人稼業どうしの決死の決闘という、生と死の祭礼としてのアクションの場となり、千葉真一演ずる子連れの殺し屋の、死と引き換えの贖罪の場となる。


一方で、将軍家所縁の寺に秘密に設けられた性ののぞき部屋が、エロティックな仏像神像の調度そのままに、もうひとつのクライマックスのアクション、怒り猛け狂うあまりに魔性のものとなったカミ的両性具有者を鎮める血の祭礼の場面になるのも見事だ。

性的にデフォルメされた仏像神像が、だからこそ観音の慈悲の神性をクライマックスでは帯びることになる。


性と死の一致において現世の道徳律を凌駕する魂鎮めのクライマックスを設定することを、深作欣二は後に『忠臣蔵外伝・四谷怪談』でより華やか、かつ破滅的に繰り返すことになるだろう。

この寺の場所の設定が谷中だが、谷中から日暮里にかけても、江戸の鬼門封じとなった上野方向の「悪所」ゾーンに含まれる。

谷中墓地、千人塚(いわゆる無縁仏)
谷中といえば戦災でも震災でも焼け残った故にノスタルジックな観光地に今はなっているが、巨大墓地があるここは、ただ「古い建物や街並」であるだけで郷愁を誘うわけではない。

なにしろ谷中霊園と寛永寺墓苑が渾然一体となった霊的空間には、最後の将軍慶喜を始め、将軍家や老中職、それに伊達家などの有力諸大名の墓所もあれば、明治の世に希代の悪女と言われた高橋お伝もここに葬られている。


高橋お伝。重病の夫や愛人達を次々と殺して「毒婦」と言われたお伝は、しかしなぜか明治庶民のヒロインにもなった。昭和に同じように庶民の不思議な人気と同情を集めたいわゆる「魔性の女」に阿部貞がいるが、貞の事件を『愛のコリーダ』という映画の事件にした大島渚は、このお伝のことも映画に出来ないかと関心を持っていた。


深作欣次は、実はテレビの『必殺』のもっとも基本的な構造をこの映画で再確認もしているのかも知れない。

法が裁かぬ悪を、死者の恨みの籠った金と引き換えに殺す、という裏返しの勧善懲悪が人気を集めたのは、裁かれない巨悪や理不尽も多い現代社会のルサンチマンの解消となる反権力性とニヒリズムが、バブルの時代にマッチしたからだと普通には思われるだろうし、だから人間社会に裁けなかった悪を裁くそのリーダー格であり主人公が、ふだんは完全に官僚化した奉行所勤めの小役人の裏の顔、というのがあまりにサラリーマン社会への風刺として気が利いていたため、藤田まことが「中村主水」を演ずるシリーズが、こと大いに人気を集めたのだろう(元は池波正太郎の小説『仕掛人・藤枝梅安』が原案)。

だが法が裁かぬ悪が法的には許されない手段で裁かれる、という裏返しの勧善懲悪の構造は、江戸時代から日本人にとっておなじみの、歌舞伎や人形浄瑠璃の構造を再現するものでもある。

そうした日本人の慣れ親しんだ庶民の演劇とは、法や社会道徳の矛盾が産んだ非業の死が、死者自身が浄瑠璃の太夫や歌舞伎役者の口と身体を借りることで語られるものだったり、江戸末期に増える大泥棒や法の及ぶ範囲外にあるヒーローを描くものだった。

水戸黄門や大岡政談の、権力側の義人が「正義」を実行する勧善懲悪は、読本や講談では江戸時代でも人気がなかったわけではないが、映画や大衆演劇で大々的にとり上げられるようになったのは明治以降だ。 
歴史的にみれば、日本人がこういう権力側の貴種による「正義の裁き」を有り難がる民族だとはとても言えない、むしろ近代化で押し付けられた、刷り込まれたものだろう。江戸時代に好まれたのは、正義が社会で実現し得ず権力権威がその力を持たないこと、勧善懲悪への疑問を呈し人間世界の秩序の限界を探るエンタテインメントだったのである。

また荒唐無稽にも思えるトリッキーな殺人技巧は、実は殺しの行為のもっとも完全な儀礼・儀式化の面も備えつつ、しかもそれは簪であるとか錐であるとか鍼灸師の鍼であるとかの、日常の道具の非日常への役割変換でもある。

恐らく州崎辺りの設定であろう、千葉真一演ずる殺し屋が住処とする江戸の外れ
それにしてもこの映画の「おけら長屋」が体現している「悪所」、ないし人間界と人間外の世界、生と死の境界とは、どのような場所なのか?

広重、名所江戸百景、深川州崎十万坪
江戸時代の終焉とともに、近代化の荒波で消えてしまったかのように見える日本文化の本当の原点でありエネルギーの源とも言える場は、しかし深作だけでなく多くの日本の映画作家を魅了して来た。

たとえば遺作『御法度』から遡れば、大島渚のフィルモグラフィのほとんどすべてが、こうした生と死と性が接し曖昧となる異界・魔界をめぐるものだと分かる。

大島渚監督『青春残酷物語』

大島の映画では、死に行くものが「彼岸」へ向かう道行きという伝統話法までが長編デビューの『青春残酷物語』で既に取り込まれているし、『太陽の墓場』『絞死刑』『帰って来たヨッパライ』『愛のコリーダ』『愛の亡霊』、そして『御法度』でもその構造は明らかだ。大島は中年以降日本的なものに惹かれるようになったのではない。むしろ、最初からだった。

内田吐夢の映画はとくに戦後の、アイヌを取り上げた野心作『森と湖のまつり』といわゆる芸道三部作(『浪花の恋の物語』『恋や恋、なすな恋』『妖刀物語・花の吉原百人斬り』)、そして『飢餓海峡』と、はっきりとこの境界、マージナルな場に凝縮される人間の愛憎のドラマツルギーを意識し神性化するものへとなって行く。


Le détroit de la faim - Tomu Uchida - Trailer 投稿者 k-chan 内田吐夢監督『飢餓海峡』予告編

深作や戦後の内田吐夢と同じ東映で活躍した加藤泰の映画についても、ほとんどの作品にこの関心が指摘できる。だいたい加藤が得意としたヤクザ映画のヤクザ、任侠とは、いずれもこうしたマージナルな人物、境界にいる存在だし、『東海道四谷怪談』のもっとも忠実な映画化『怪談お岩の亡霊』は加藤の最高傑作のひとつだ。

 加藤泰監督『怪談、お岩の亡霊』

近年では宮崎駿のアニメーションは、壮大な環境哲学的宇宙観を示した『風の谷のナウシカ』、子ども向けの里山ファンタジー『となりのトトロ』から、「たたら」つまり山のカミから鉄という特別な力を頂く資格を持った特殊集団を描く『もののけ姫』に、文字通りカミガミの湯屋に少女が迷い込むことで大人の世界の決まり事から解放されて成長する『千と千尋の神隠し』にいたるまで、その多くが実はこの日本人の精神構造の境界領域をめぐるものである。


深作欣二の『必殺4』では、お面をもった二人の子どもが善と悪、生と死の両義性を担った曖昧な存在として重要な位置を占めている。

「子ども」もまた、文明と自然のあいだにある不確定な、性別が確定しない、世俗の枠組みに収まり切らないものを象徴する「曖昧なるもの」であり、故に神性と暴力性を秘めてもいる。

 少年少女の不確定が故の危うさ、相米慎二監督『台風クラブ』

相米慎二の映画世界はほとんど常に、生と死の境界に少年少女の性の成長が微妙に交叉する状況を舞台としており、『台風クラブ』では台風という天変地異がそのカミ的な危うさを少年少女達から引き出し悲劇的な死の祭礼で終わり、『お引っ越し』に至っては、いつのまにか少女は文字通り「彼岸」の世界に迷い込んでしまう。

相米慎二監督『お引っ越し』

あるいは小栗康平の処女作『泥の河』は豪速球に川のこちら川と向こう側の物語であり、主人公の二人の少年はその境界にあるが故に曖昧にして魔をも秘めた存在であるし、小栗は『眠る人』で日本の自然と朝鮮半島の東南アジアの赤道直下の自然を結びつける世界観を提示した。

小栗康平監督『泥の河』抜粋

いやなにも、いわゆる芸術的な、作家性の強い映画だけではない。

たとえば大映で市川雷蔵が人気シリーズにした『眠狂四郎』シリーズは、狂四郎が転向キリシタン神父の落としだねで紅毛であることも、円月殺法も、境界にあり判然とせず曖昧なる魔性を秘めたものこそがヒーローとなることを示しているし、狂四郎の周囲には常に子どもが出て来るし、それは西洋的なヒーロー説話で子どもを救うため、という単純な位置づけではない。

 三隅研次監督『眠狂四郎勝負』

明治維新は日本人という国民性を、真面目で勤勉で権威に従順なものとして再定義したかに見えたが、一方でその権威を相対的なものとしてしか見なさずに、人間社会の矛盾をそこを超越している周縁の境界から見ることや、そうした境界の「悪所」にある曖昧なるものやそこから向こう側に見える外にあるものにこそ魅了されるという、本来の日本人の文化的DNAは、我々の無意識にはまだ確かに刻印され続けている。

その片鱗は映画にも、そしてたとえば東京の実は古来より「悪所」である場によく観察すれば確かに見いだされるし、今日でもしばしば復活したり、再生産すらされている。

広告代理店やテレビが作り出す人工の、商業目的の流行は一時は儲かりはするが、しょせんは地価上昇や地上げなどと同様一時的で相対的なものだ。 
新宿西口の「しょんべん横町」が火災で焼けても元のままに復活し、ゴールデン街がゴールデン街でありつづけるように、商業戦略や経済性を超越した「日本人を魅了するもの」は、確かに生き続けている。

平たく言えば、日本人は確かに今では勤勉で真面目で、権威や所属集団に過度なまでに従順であることを要求され、社会ではそこに忠実でなければ生きにくくはあるのだが、それでも未だに、一方で恐ろしく享楽的な民族ではないのか。

好奇心旺盛で享楽的、こと食べ物には目がないからこそ、新大久保は韓国料理で繁盛し、高田馬場にはミャンマー料理やタイ料理やトルコ料理がやたらと食べられる街になるわけでもある。趣味に熱心で恐ろしく知識やうんちくを溜め込むことでより楽しんだりもするし、また日本的な娯楽は「知れば知るほど深く楽しめる」面が強い(歌舞伎などは典型だが、なにも古典芸能だけではなく、いわゆる「オタク」文化もだからこそ生まれたのだろう)。

鈴木春信の春画
明治以降の軍国化が強要したマチズモ的な「侍」の男性像が、だからといって実際に日本でスターになるわけでもなく、むしろ半陰陽的な男性の魅力は市川雷蔵がそうだったし、現代ともなればジャニーズ事務所でも、韓流スターでも、その傾向は明らかだ。女性的とも言えるしなやかな肉体と少年のような無邪気な純粋さ、なのにエロチックでもあることがスターになる日本は、ジョン・ウェインがスターになるハリウッドとはずいぶん違う。


だいたい深作欣二が半陰陽の妖しい南町奉行を演じさせた真田広之だって一応アクション・スターのはずだが、そのアクションの肉体の躍動は、力強さよりも軽やかなしなやかさを発散するものだ。


今では大衆ファッションでも、近年UNIQLOが積極的にゲイのデザイナーアーティストのデザインや意匠を取り込むことで、「男らしさ」をマチズモよりも男性の官能的で性的な魅力で再定義し、それを「かわいく」表現することが、いつのまにか流行になっている。


男性ファッションの官能化、セクシャル化、肉多岐的、性的な魅力を引き出すことの積極化に対し(また男たちの側でも積極的に受け入れている)、女性のファッションが華美なブランド主義に毒されただけでどんどん衰退しているのはかなり残念だが、しかし日本は江戸時代以前から男女ともに、むしろきれいで官能的な、なにか異質なものを持つが故に色気のある男にキャーキャー言う性的文化を持った国でもある。美人だけでなく、しなやかな男性の肌の露出が多い艶やかさも、街の花だった。

鈴木春信「雪中相合傘」
性欲と食欲は未だに、日本人が古来・本来の自分にもっとも正直な分野なのかも知れない。この本質からして享楽的で無意識に大いに支配されている部分だけは、明治以降140年経っても日本人は未だに、完全には西洋化されていないのだろうし、むしろ近年目に見えてアジア回帰すらしている。

ただ他の部分では、日本人の意識レベルが強引かつ中途半端に西洋化されることで、我々はずいぶんといびつな民族になってしまっている。

実は濃厚に性的な意味を持つ文化表象については未だにおおらかでも、性それ自体に関してはだからこそ、かなりいびつに抑圧され、去勢すらされる一方で、極端に刹那化もしている。

麻薬的なものの管理が厳しいのは近代以降ずっとそうだが、「脱法ドラッグ」が「危険ドラッグ」と名称を変えて取り締まりが厳しくなる一方で、人工の薬品で健康を維持しようとする傾向もどんどん進行している。よく考えれば矛盾していることに、かつての日本人ならすぐ気づいたはずだ。

江戸時代の医学が「養生訓」、つまりなにごともほどほどが生活習慣病予防に役立つという結論に至ったのとはえらい違いだ。元々日本人は、たとえば植民地主義時代から対日戦争期にかけての中国のように阿片が大流行するようなことがない、そういう極端さを好まなかった民族だったのだが。

こと戦後に広まった核家族的な家族観は親子が社会から孤立する状態に陥り、今や崩壊ギリギリの状態にある。子どもがまず親、祖父母親戚、そして隣近所と、何重もの内と外との関係性によって守られながら徐々に社会に出て行く構造が崩壊してしまったのだ。そうした教育が思春期の持つ暴力性を含む両義的な危うさに向き合うことも忌避してしまって来た結果、青少年の教育にも完全に失敗してしまっている。

こうした教育の失敗をなんとか穴埋めするため、無意識に共有されるが故にその限界性も許容されて来た日本の社会規範が、成文化され余裕や曖昧なところのないルールの杓子定規な施行に置き換えられる傾向が、いっそう進行することになるだろう。

子どもが大人になる過程で徐々に社会規範を身につけて行くプロセスが壊れてしまえば、成文化され、曖昧さを拒絶する「決まり事」や権力構造しか認識できなくなる。たとえば安倍政権が推進しようとしている「道徳教育」は、倫理的な価値観を権力権威に置き換えてしまう、極めて非日本的で、不自由にして狭量で、「悪所」に育まれたしなやかな知性を排除している。

かつて無類の新しもの好き外国大好きでエキゾチシズムに官能的にも知的にも魅了され、他者に対して蔑視や差別よりも好奇心と向学心丸出しだった国民性はどこへやら、政治的には今の日本は恐ろしいほど差別的な言説が平気で横行しているし、それも西洋上位の対白人のコンプレックスの自己差別と、他のアジア諸国への差別・蔑視や憎悪の狭間で迷って引きこもるだけの、周辺諸国を無為に敵視しつつ今さら先方にとっても迷惑な対米従属の板挟みで、まるで身動きがとれなくなっている。

西欧の新技術や新知識に興味津々でそこからさらに独自の知的発展を得意としていた日本のインテリゲンチャーは、いつのまにか西欧コンプレックスの奴隷、ヨーロッパのアカデミズムの引き写しが習い症になってしまった。

なぜこうなってしまったのか?

本稿のテーマである「悪所」、その具体的な地理的な条件や地名、そうした場所の現状に、そのヒントがあるかも知れない。

いやこのこと自体がもはや日本の言論界で完全にタブー視され、もはや地名を見ても気づく人も少なくなってしまっているかも知れないが、ここで触れたいわゆる「悪所」、境界、生と死、人間世界と人間外の世界の区別が曖昧となる場とは、はっきり言えばいわゆる被差別部落のことだ。

たとえば百人町の由来である鉄砲百人隊は、鉄砲を専門に扱うということは宮崎駿の『もののけ姫』の「たたら」とほぼ同じことだ。
高田馬場、鉄砲稲荷神社
だからこそ近代には外国人が入り易い場になり、今はコリアンタウンとして繁盛するのもある意味当然である一方で、百人町の公共住宅や戸山団地などは、恐らくはいわゆる「同和対策」住宅の性格も持っていて、そして近年では高齢化と限界集落化が指摘される。 
若い世代が差別を恐れて出て行ってしまうのは、関西のはっきりと同和対策住宅である団地などでも起こっている現象だ。

日本人という民族は、あろうことか自分達の文化、国民性やその知性、感性の原点をこそ差別対象とし、しかもその差別対象の存在すら無視、差別を語らないことによる黙認しつつ加担する形で徹底させながら、近現代を生きて来てしまったのだ。

「差別はいけません」と口先だけは言いながら、現代の日本が差別を決してやめられない社会になってしまうのも、むべなるかなではないか。

自らの拠り所を失ったものは、他者との差異化の優越感くらいでしか自らの立ち位置を認識できなくなるだろう。ならば日本人が日本人だという意識は、身近な他者との曖昧な境界があたかも明確であるかのように思い込み、その他者を差別排除することでしか、担保され得なくなってしまいそうだ。