(このエントリーは前々項 アスベスト訴訟の最高裁判決は「勝訴」なのか? の続きになります)
泉南アスベスト訴訟の原告、つまり泉南のアスベスト被害の代表の皆さんが、昨夕やっと塩崎厚労大臣に面会した。最高裁の判決が出てから最後の段階のひと月弱だけ、原一男監督の大作ドキュメンタリーの応援スタッフで参加しているが、原告の「関西のおばちゃん」たちが本当に普通の、気さくな皆さんで、すっかりかわいがって頂いていて本当に感謝している。
とにかく国にきちんと謝って欲しいという気持ちは本当によく分かるし、賠償金が目当てだろうとか陰口だってさんざん叩かれながら、8年も頑張って来た皆さんにとって、大臣が謝罪したことはとても大きかったに違いない。
それを奇麗ごとなどと冷笑すべきでない。たとえば石綿肺が悪化し、50歳で看護婦のお仕事を退職するしかなかった岡田さんの、もっと働きたかった人生は、どんなにお金を詰んだって取り返せないのだから。
しかし今は一級障碍者扱いで月500円とはいえ、酸素ボンベだけでも以前は三割負担でも月々の出費が3万。それ以上に、働けない身体にされてしまったことは言うまでもない。決してお金が目当てでなくても、お金のこともまた、無視できない。
国が「謝る」とはどういうことなのだろう?
原組・記録班も他のメディアと同じ扱いで、キャメラは原さんのメイン・キャメラ一台だけで、それも冒頭部分のみの撮影。国側はメディアに「謝った」という印象、イメージだけを報道させたい意図が透けて見え、それもお膳立てをしたのは自民公明与党のアスベスト対策プロジェクトチームの二人の議員。その二人が面談後の記者会見をまず行い、与党がアスベスト問題に強い関心を持っていることをアピールするのはいいが具体的な問題の話はなにもなかった。
最高裁判決には大きな問題がふたつある。
まず国の責任は昭和33年から46年までに限られ、それ以前はアスベストの危険性を十分に認識できる立場になかったとみなされ、その後は法律で排気装置の設置を義務づけたから国の責任は果たしたという判断になっている。だが僕たちの一般的な感覚では、石綿が危険だと認知されたのはその20年以上後の、1990年代半ば以降だ。法規制がほんとうには徹底されなかった、危険性が啓蒙されなかったことが、「法律があるんだから個々の事業者の責任」で済むのだろうか?
形だけで逃げて産業上の石綿の重要性を優先させたのが、この国の政府ではなかったのか?
もうひとつはアスベスト被害がいわば「労災」の枠組みでしか認識されていないこと。いわゆる近隣暴露、つまり「労災」ではなく「公害」としてアスベストの被害を受けた人たちの訴えは退けられている。
国側は大臣の面会を発表した時点でも、「裁判で勝った原告には謝る」というニュアンスを通し続けていたので、最高裁でも門前払いの敗訴になった原告は不安もあるし怒ってもいた。それが全員に大臣が(予想に反し)頭を下げたことは、それは嬉しかったろう。だがそれが国側の狙いだったような気もする。わざと謝らないかも知れないと思わせておいておけば、謝ったという事実だけで、裁判で門前払いにされて来て政治救済の対象であるべき、そしてずっと怒って来た人だって、つい喜んでしまう。
夫がアスベスト被害の石綿肺と肺がんで亡くなった佐藤さんは、昭和46年以降とみなされ敗訴になっている。その夫を撮ったDVDを二枚、大臣に渡すため持参していた。塩崎大臣はちゃんと受け取ったという、それだけで佐藤さんは一応は喜んでいたが、大臣がちゃんと見るかどうかには一瞬だけ不安をかいま見せた(その瞬間が撮れてますように!)。佐藤さんの夫のような被害者の救済について、大臣は
と言ったそうだ。
農家で隣がアスベスト工場だった南さんは、環境被害、近隣暴露について大臣に訴えることは出来、大臣はそうした問題があることまではきちんと認識したらしい。これも
とは言った。
亡くなったご両親の訴えは認められた岡田さんは、しかし託児施設がなく石綿工場内で子守りをされ、それで乳幼児の頃からアスベストを吸ってしまったご自分の訴えは認められていない。石綿肺で呼吸が難しくなり、50歳で働けない身体になり、月三万の酸素ボンベ。一本12時間もつと言うが、昨日は減りが多く、泉南の家を出てから帰るまでほぼ12時間でも、まずもたなさそうだった。
その岡田さんは、記者会見ではっきり、自分は「敗訴した」と明言した。
これはまったくおかしな話だ。子どもの頃の岡田さんは、訴えが認められた労働者とまったく同じ環境で被害に遭っている。しかも粉塵は低い位置ほど濃くなるわけで、働いている大人以上に吸ってしまっている可能性が高い。
しかし「敗訴」だ。
会見のあいだじゅう、南さんの固い表情と岡田さんの沈んだ顔が印象に残った。
意地悪な言い方をしてしまえば、霞が関話法の官僚用語で、「出来るだけ先送りにしてなにもしない」の意味でもある。
それでも、大臣には会う気がないとしか見えず、原告に応対した厚労省の官僚が「スケジュールが多忙で、報告がいつになるか」とすら繰り返し、原告が傍聴していた国会答弁ではその塩崎大臣も菅官房長官も「重く受け止める」ばかりをロボットのように繰り返した2週間前の上京時に較べれば、えらい違いではある。
だから原告の皆さんが喜ぶのも分かるが、そうなることを狙った演出だったような気がしてならないのは、僕の見方がうがち過ぎているのだろうか?
いずれにせよ、大臣は
とだけは確かに言った。
昨日はまず、新幹線で到着する原告の皆さんを東京駅まで迎えに行った。霞が関に移動しながら聞けた話では、弁護団にはなるべく穏便に、あまり激しい言葉は使わないように言われたということであり、最初は代表2名だけ発言し、あとの人はなにも言えない段取りだったのを、佐藤さんが怒って変えさせた、という話をJRから地下鉄に移動するあいだ歩きながら伺うことができた(手持ちの大移動長廻し、うまく撮れてるかな…)。
こうして全員が発言できるようになったとはいえ、1人たった1分である。
厚労省に到着して、最初は自分になにも言うな、言ってはならない、と言っていた若い弁護士さんに会った佐藤さんは、自分から真っ先に彼女に声をかけ、しきりに労り、謝っていた。
そういうところが、本当にとてもやさしい、いい人だ。涙もろいぶん、他人の感情にもとても細やかに配慮する。
僕にも「藤原くん、藤原くん」としきりに声をかけてくれ、帰りの厚労省のエレベーターのなかでは「藤原くん、やったよ!励ましてくれてありがとう」と元気に語りかけて下さった。
だがこの人たちの善良さ、やさしさが、結果としてこの人たちが損になるように利用されてしまっている気がどうしてもしてしまう。
大臣が
としか言わなかったことを佐藤さんの口から聞いたのも、この時だ。
「本当に大丈夫なんですかね」と言うと、佐藤さん南さんは一瞬だけ「我が意を得たり」と不安を隠せないことの混じり合った表情をされた。
「大臣は人の痛みが分かる人だった」と皆さんが信じたい気持ちは痛いほどわかるが、一生懸命そう信じないとやっていられない、という思いで、だからこそ自分を押し殺している気配もそこはかとなく感じ取れた。
その「痛みが分かる」と発言し、本当に感動していたように見えた松島さんが、東京駅で原さんのインタビューに応えようとしなかったのはなぜなのだろう?「会見で言った通りです、もういいです」としかおっしゃらなかったのは、実は分かっているのではないか、とも思えた。
だとしたら、それでも語らないその複雑さを、どうドキュメンタリーで映画に出来るのだろう?
ご両親を亡くされた、まだお若い武村さんだけは、厚労省の前でも、新幹線を待つホームでも、「こんなのはふざけている。大臣に会うべきでなかった。それより石綿対策室でもなんでも、厚労省の役人を泉南に呼びつけて実態を見せるべきだった」と怒っておいでだった。
東京駅のJRと地下鉄、そして厚労省が主な撮影現場になった今日だが、「規則ですから」ということですぐ警備員が来て撮影を止める。帰りの見送りで新幹線を待つホームでも、なかなか撮影は困難だった。そんな我々に原告の皆さんは最後まで気を遣って下さった。どうも気がせいてしまって目立ってしまい、それで警備員にマークされてしまったのかも知れず(なにしろキャメラに接続したマイクを僕が持っていて、それで二人が走り回っているわけで)、もっと冷静に、おとなしく、目立たぬように動けばよかったと反省することしきりでもある。
原告の皆さんは、新幹線に乗ったあとも発車まで、ずっとホームにいる我々ににこやかに手を振って下さっていた。そして大阪、泉南に帰って行かれた。
僕はほんの三度の上京につき合っただけだが、ほんとうにやさしくして頂いて、心から感謝する次第だ。いずれ泉南にも遊びに行きたい(ただ皆さんに会いに、遊びに)。そして失われた人生は決して取り戻せないとしても、これからのこの皆さんの生活が、少しは平穏で、もう怒らないで済むものであって欲しいと願う。
しかしそれが皆さんが我慢することで得られる平穏ならば、あまりにも不公平だと言わねばならない。
この国はいつから、こんなに不公平で薄情な国になってしまったのだろう?「裁判に勝ってよかったね」「大臣にも謝ってもらえたし」、それだけでいいのだろうか?
前回の上京時に、弁護団の村松先生が僕のインタビューで漏らしたことがある(なかなか口が固く慎重な村松先生に、原監督が変化球を決断して僕に訊かせたわけだ)。
いや村松先生は、ここまでははっきりは言わなっかったと思う、上記はやりとりの中での僕の相づちも含めた言い換えだが、要するにそう言うことである。
そんな社会を相手にしているときに、弁護団がなるべく原告に慎ましいというか謙虚というか、おとなしい、被害者然とした態度に留まるよう促すのも、やむを得ない戦略ではあると思う。
だがそれでは映画にならない、という点では原さんも僕も認識はほぼ同じだ。映画に出る人は、たとえ被害者でも、毅然としていて欲しい、そうでなければ映画的ではない。
いやこれでは言葉が足らないだろう。「映画的であって欲しい」とはどういうことかと言えば、映画とはやはり人間が実存していること、その世界があることの尊厳をこそ撮るものだからだ。
ふと思うのは、原さんが泉南で撮りたい映画も、僕が福島浜通りで撮って来ている人たちも、この方が絶対に映画的だと僕らは思うのだけれど、弁護士の村松先生がおっしゃったようなこの日本の社会では、絶対に「ウケない」のかも知れない。
人が人としての尊厳を守り抜いて生きようとするという物語を、今のこの国は受け入れないのかもしれないとしたら、日本の映画って終わってるんじゃないか?
泉南アスベスト訴訟の原告、つまり泉南のアスベスト被害の代表の皆さんが、昨夕やっと塩崎厚労大臣に面会した。最高裁の判決が出てから最後の段階のひと月弱だけ、原一男監督の大作ドキュメンタリーの応援スタッフで参加しているが、原告の「関西のおばちゃん」たちが本当に普通の、気さくな皆さんで、すっかりかわいがって頂いていて本当に感謝している。
とにかく国にきちんと謝って欲しいという気持ちは本当によく分かるし、賠償金が目当てだろうとか陰口だってさんざん叩かれながら、8年も頑張って来た皆さんにとって、大臣が謝罪したことはとても大きかったに違いない。
「まずは謝って欲しい。お金の問題じゃない」
それを奇麗ごとなどと冷笑すべきでない。たとえば石綿肺が悪化し、50歳で看護婦のお仕事を退職するしかなかった岡田さんの、もっと働きたかった人生は、どんなにお金を詰んだって取り返せないのだから。
しかし今は一級障碍者扱いで月500円とはいえ、酸素ボンベだけでも以前は三割負担でも月々の出費が3万。それ以上に、働けない身体にされてしまったことは言うまでもない。決してお金が目当てでなくても、お金のこともまた、無視できない。
国が「謝る」とはどういうことなのだろう?
原組・記録班も他のメディアと同じ扱いで、キャメラは原さんのメイン・キャメラ一台だけで、それも冒頭部分のみの撮影。国側はメディアに「謝った」という印象、イメージだけを報道させたい意図が透けて見え、それもお膳立てをしたのは自民公明与党のアスベスト対策プロジェクトチームの二人の議員。その二人が面談後の記者会見をまず行い、与党がアスベスト問題に強い関心を持っていることをアピールするのはいいが具体的な問題の話はなにもなかった。
最高裁判決には大きな問題がふたつある。
まず国の責任は昭和33年から46年までに限られ、それ以前はアスベストの危険性を十分に認識できる立場になかったとみなされ、その後は法律で排気装置の設置を義務づけたから国の責任は果たしたという判断になっている。だが僕たちの一般的な感覚では、石綿が危険だと認知されたのはその20年以上後の、1990年代半ば以降だ。法規制がほんとうには徹底されなかった、危険性が啓蒙されなかったことが、「法律があるんだから個々の事業者の責任」で済むのだろうか?
形だけで逃げて産業上の石綿の重要性を優先させたのが、この国の政府ではなかったのか?
もうひとつはアスベスト被害がいわば「労災」の枠組みでしか認識されていないこと。いわゆる近隣暴露、つまり「労災」ではなく「公害」としてアスベストの被害を受けた人たちの訴えは退けられている。
国側は大臣の面会を発表した時点でも、「裁判で勝った原告には謝る」というニュアンスを通し続けていたので、最高裁でも門前払いの敗訴になった原告は不安もあるし怒ってもいた。それが全員に大臣が(予想に反し)頭を下げたことは、それは嬉しかったろう。だがそれが国側の狙いだったような気もする。わざと謝らないかも知れないと思わせておいておけば、謝ったという事実だけで、裁判で門前払いにされて来て政治救済の対象であるべき、そしてずっと怒って来た人だって、つい喜んでしまう。
夫がアスベスト被害の石綿肺と肺がんで亡くなった佐藤さんは、昭和46年以降とみなされ敗訴になっている。その夫を撮ったDVDを二枚、大臣に渡すため持参していた。塩崎大臣はちゃんと受け取ったという、それだけで佐藤さんは一応は喜んでいたが、大臣がちゃんと見るかどうかには一瞬だけ不安をかいま見せた(その瞬間が撮れてますように!)。佐藤さんの夫のような被害者の救済について、大臣は
「前向きに善処したい」
と言ったそうだ。
佐藤美代子さん |
「前向きに善処したい」
とは言った。
農家だったが隣の工場からのアスベスト被害で亡くなった父の遺影を持つ南さん |
その岡田さんは、記者会見ではっきり、自分は「敗訴した」と明言した。
普段は朗らかな病気にめげず岡田さん |
しかし「敗訴」だ。
会見のあいだじゅう、南さんの固い表情と岡田さんの沈んだ顔が印象に残った。
最高裁判決後の記者会意見での岡田さん、南さん、川崎さん |
「前向きに善処したい」
意地悪な言い方をしてしまえば、霞が関話法の官僚用語で、「出来るだけ先送りにしてなにもしない」の意味でもある。
それでも、大臣には会う気がないとしか見えず、原告に応対した厚労省の官僚が「スケジュールが多忙で、報告がいつになるか」とすら繰り返し、原告が傍聴していた国会答弁ではその塩崎大臣も菅官房長官も「重く受け止める」ばかりをロボットのように繰り返した2週間前の上京時に較べれば、えらい違いではある。
だから原告の皆さんが喜ぶのも分かるが、そうなることを狙った演出だったような気がしてならないのは、僕の見方がうがち過ぎているのだろうか?
いずれにせよ、大臣は
「前向きに善処したい」
とだけは確かに言った。
大阪高裁に差し戻しになった第一陣の訴訟については、和解調停に入り判決が確定した第二陣と同じ扱いにする、という「方向」は語ったが、即時であるとか期日を決めて明言したわけではない。
遺族ではなく数少ない生存原告の石川さん |
こうして全員が発言できるようになったとはいえ、1人たった1分である。
厚労省に到着して、最初は自分になにも言うな、言ってはならない、と言っていた若い弁護士さんに会った佐藤さんは、自分から真っ先に彼女に声をかけ、しきりに労り、謝っていた。
そういうところが、本当にとてもやさしい、いい人だ。涙もろいぶん、他人の感情にもとても細やかに配慮する。
僕にも「藤原くん、藤原くん」としきりに声をかけてくれ、帰りの厚労省のエレベーターのなかでは「藤原くん、やったよ!励ましてくれてありがとう」と元気に語りかけて下さった。
だがこの人たちの善良さ、やさしさが、結果としてこの人たちが損になるように利用されてしまっている気がどうしてもしてしまう。
大臣が
「前向きに善処したい」
としか言わなかったことを佐藤さんの口から聞いたのも、この時だ。
「本当に大丈夫なんですかね」と言うと、佐藤さん南さんは一瞬だけ「我が意を得たり」と不安を隠せないことの混じり合った表情をされた。
「大臣は人の痛みが分かる人だった」と皆さんが信じたい気持ちは痛いほどわかるが、一生懸命そう信じないとやっていられない、という思いで、だからこそ自分を押し殺している気配もそこはかとなく感じ取れた。
その「痛みが分かる」と発言し、本当に感動していたように見えた松島さんが、東京駅で原さんのインタビューに応えようとしなかったのはなぜなのだろう?「会見で言った通りです、もういいです」としかおっしゃらなかったのは、実は分かっているのではないか、とも思えた。
だとしたら、それでも語らないその複雑さを、どうドキュメンタリーで映画に出来るのだろう?
ご両親を亡くされた、まだお若い武村さんだけは、厚労省の前でも、新幹線を待つホームでも、「こんなのはふざけている。大臣に会うべきでなかった。それより石綿対策室でもなんでも、厚労省の役人を泉南に呼びつけて実態を見せるべきだった」と怒っておいでだった。
遺族原告の武村さん |
いやドキュメンタリーはやはり難しい。こういう追っかけドキュメンタリーは僕はほとんど経験がない(いやまあ東京駅内や周辺でゲリラ撮影とかは以前やってますけど、その時はある程度は警備員対処も含めて仕込んでいたので)ので始末が悪いのだけど、それにしてもどんどん難しくなっている気もする。
駅にせよ役所にせよ、警備員はただ仕事だからやっているだけだし、理由は「お客様のプライバシーの侵害」などそれなりにもっともにも聴こえる…のだけれど、結果として僕たちは真実や現実からどんどん遠ざけられている気がする。
原告の皆さんは、新幹線に乗ったあとも発車まで、ずっとホームにいる我々ににこやかに手を振って下さっていた。そして大阪、泉南に帰って行かれた。
僕はほんの三度の上京につき合っただけだが、ほんとうにやさしくして頂いて、心から感謝する次第だ。いずれ泉南にも遊びに行きたい(ただ皆さんに会いに、遊びに)。そして失われた人生は決して取り戻せないとしても、これからのこの皆さんの生活が、少しは平穏で、もう怒らないで済むものであって欲しいと願う。
しかしそれが皆さんが我慢することで得られる平穏ならば、あまりにも不公平だと言わねばならない。
この国はいつから、こんなに不公平で薄情な国になってしまったのだろう?「裁判に勝ってよかったね」「大臣にも謝ってもらえたし」、それだけでいいのだろうか?
前回の上京時に、弁護団の村松先生が僕のインタビューで漏らしたことがある(なかなか口が固く慎重な村松先生に、原監督が変化球を決断して僕に訊かせたわけだ)。
結局、この国では公害だとか労災は、被害者が頑張らなければ決して救済されないのだ。それも憐れみを乞い、可哀想だと言うことを世間に思わせることでしか、救済らしきものは始まらない。
いや村松先生は、ここまでははっきりは言わなっかったと思う、上記はやりとりの中での僕の相づちも含めた言い換えだが、要するにそう言うことである。
そんな社会を相手にしているときに、弁護団がなるべく原告に慎ましいというか謙虚というか、おとなしい、被害者然とした態度に留まるよう促すのも、やむを得ない戦略ではあると思う。
だがそれでは映画にならない、という点では原さんも僕も認識はほぼ同じだ。映画に出る人は、たとえ被害者でも、毅然としていて欲しい、そうでなければ映画的ではない。
いやこれでは言葉が足らないだろう。「映画的であって欲しい」とはどういうことかと言えば、映画とはやはり人間が実存していること、その世界があることの尊厳をこそ撮るものだからだ。
でも福島の被災者が毅然と、あくまで堂々としている『無人地帯』は日本では受け入れられなかったし、一昨日の日曜に、震災の三周忌以来半年ぶりに会った富岡町の西山さんが主人公の一人になるその続編も…昨晩は二人で、ほんとブラックユーモアだか不条理喜劇かとしか思えない浜通りの現実を、しかもそこ以外の日本では誰も関心を持たないことも含め、毒舌で盛り上がっていました。
『…そして、春』富岡町に一時帰宅中の西山さんとお父上 |
ふと思うのは、原さんが泉南で撮りたい映画も、僕が福島浜通りで撮って来ている人たちも、この方が絶対に映画的だと僕らは思うのだけれど、弁護士の村松先生がおっしゃったようなこの日本の社会では、絶対に「ウケない」のかも知れない。
人が人としての尊厳を守り抜いて生きようとするという物語を、今のこの国は受け入れないのかもしれないとしたら、日本の映画って終わってるんじゃないか?